はてなキーワード: あいちとは
このエントリでいう「現代アート=既存の権力」について、コメントしている人たちが考える「権力=○○」が違いすぎて話かみ合ってない。
>「これはアート! わからないお前は勉強が足りない!」とか言っている人たちがいる。
素直に読めば、これは「アートをやっている人たち」を指すであろう。確かにこれはある。古参のオタクがニワカの新参をマウントするやつ。
ただ、その後の「権力」「カルト」というところを見ると、この増田は現代アートそのものに懐疑的である。
コメントは当然ながら、あいちトリエンナーレを意識した書き込みが多いが、このエントリ自体もそれに触発されたものと考えるのが自然だ。
そう考えると、この増田はあいちトリエンナーレをどのような視点で見て、このエントリを書いたのだろうか。
もし、作品撤去の件を肯定的に見ている場合、「あんなものを芸術というなんて、頭おかしい」という意味でこのエントリを書いたのだろう。
だからアートを「カルト」というし、「津田は現代アートという権威を借りてヘイト展示をやったんだ」という論理が成立する。
一方で、作品撤去を弾圧と考える人々もいる。そうした人々にとって権力者とは政府・政治家・公権力(あいトリに政治家が発言した件)であり、
「アートで社会にメッセージを送っただけなのに表現の自由を奪われた」となる。
また、タイトルの「醜い優越感」というキャッチーなキーワードも気になる。
増田はアートになんてこれっぽちも関わりなく生きてきた人間なのか、自分には理解できないものに対するひがみのようなものも感じる。
「これはアートだ、と言えば何やってもいいのか」というやっかみの気持ちもあるのだろう。
「自称現代アートに詳しい人たち」は常に「アートなんて分からない人たち」を置いてきぼりにしてきた。
特に、全国各地にある公立の美術館だって、一般市民にアートを教育普及するための施設であったはずなのに、「自称アートに詳しい人たち」に私物化されてきただけであった。
だから、ネトウヨにとっては「税金を使ってこんな展示をしてくれやがって」という気持ちになることはよくわかる。
しかし、今回の津田芸術監督はそうした「自称アートに詳しい人たち」側の人ではないのである。
むしろ、「自称アートに詳しい人たち」からは「素人のお前なんかにできない」と散々コケにされている側なのである。
だから、津田さんにとっては「権威=美術業界」(=アートではない)からもけなされ、ネトウヨや公権力からも弾圧され、泣きっ面に蜂である。
今回のあいちトリエンナーレは自分は既存の日本における美術業界の権威に風穴を開けてくれることを期待していた。
だが、日本社会に立ち込めるネガティブな圧力を改めて浮き彫りにしてくれることとなった。
今回の件について、美術業界の批評家や美術史家、美術学芸員といった人たちから、まともな「批評」がなされるのだろうか。
これからも日本の美術業界は「自称アートに詳しい人たち」の自己満足展覧会と「クールジャパン」的な何かをやるだけの、一部の人たちの既得権益として温存されるのだろう。
なんで100年早いかって、平和と唱えりゃ平和の使者になり、平等と唱えりゃ平等の象徴となるような化石みたいな価値観を持った現代人がとりあえず皆滅ぶからだ。
胡散臭い人間が自称平和の使者を演じるのも、自称人権を重んじてる人間が他人をネトウヨと称すれば以後聞く耳も持たず罵倒の免罪符になったりしてるのも、本当糞。
とりあえず現代人皆亡ぼうぜ。
そうして生まれる100年後世代は少しはマシだろうと賭けたい。
と言うくらいには、改めてあいちトリエンナーレに端を発する分断問題、糞だなって思う。
うん。表現の自由云々じゃない。分断だよこれは。結果からしても明らかじゃない。
仕掛けた愉快犯、津田大介も予想以上とか言って狙いとしてあったことは釈明してる。
今最高に楽しいだろうね。
ありがたがってる人もいるけどさ、像を擁護して生きている人間と不毛に対立を深めるってどれほどの意味があるの。
貞本氏の発言は確かに誤解もされる言葉だろうけどさ、言葉のやりとりって難しいんだよ。
それをツイッターのたった100文字足らずの言葉から本人の弁も聞かず断定して断罪するなよ。
その言い分は差別者のそれだって断罪する奴ら、魔女的なものを持ってたら魔女だから捌かないとって捌いた人間と何も変わらない。ただただ恐ろしく感じる。
そりゃ貞本氏にとっちゃ不自由さ。誤解ばかりが一人歩きして断罪されるんだもん。
人権尊重とか言うんだったらさ、本人の弁とかもっと尊重して聞こう。
しっかり理解できるまで聞こう。
そしてもう一つ大事なことがある。
どんなにその像を擁護しても、当の慰安婦には全く何の関係もないこと。
そしてその言及も見ないこと。
像なんか擁護して対立してる暇あったら、当の問題解決に向けて働きかけた方がよっぽど有意義だよね。
日韓共同事業を反故にして、慰安財団を勝手に解散してしまった韓国政府に今一度日韓共同事業を再開するよう働きかけませんか。
あいちトリエンナーレで話題になっている表現の不自由展、その後について、表現の自由は認めるが、日本に批判的な表現を公金でやるのはNGという意見を結構散見した。当然ながら、税金を払っているのは天皇制大賛成で日本全肯定で日本の悪いところは一切認めない人だけでなく、日本に批判的な人も、天皇制に反対な人もみんな税金を払っている。
だから公金で日本に肯定的な表現しか認められないというロジックは全く意味を成さないんだけど、税金が微量でも投入されたものに対しては日本に批判的な表現は認められないみたいなアホな事を言っている人は、なんで自分と同じ思想の表現以外認めなくていいという思考になるんだろう。不思議。
対立が煽られて炎上している問題を、行動して情報を集めていると、教養は徐々に形成されてくと思うぞ。
例として適切か微妙だが、、最近ならあいちトリエンナーレとか行ってみると、自分の視点でものをみる取っ掛かりは得られると思う。勿論、それだけだと何にもなんないんだけどな。
あいちトリエンナーレの件で思うのは、まず美術鑑賞の基本が身に付いていないこと。
そのため展示についての疑問ではなく作品に対しての疑問が多く出ていると考えています。
優れた美術、芸術は無条件に美しいと感じさせる、感動させる力がある、みたいな方が多いと思いますが、それは美術鑑賞としては基本的に間違いです。
美術鑑賞は美術史の文脈とその中での役割をもとにするものです(現代美術作品の方が文脈を重視しますが、文脈から切り離して「アート無罪かよ!」みたいは批判は全くの的外れと言えます)。
価値観は人それぞれです。同じ作品に対してだれもが一様に美しいと感じることはありません。
それを無視して「感動させる力を持っている」という独善的な基準で作品を並べるのは、あまりにも不寛容な(さらに言えば強要を伴う)展示と言えます。
美術館へ行くと鑑賞の手引きとなるようなキャプションや音声ガイドがありますが、美しい!感動した!みたいな鑑賞を求めていないことからも理解が出来ると思います。
なので、独善的な展示にならないよう美術館などは専門のキュレーターにより展示を構成しています。
今回の問題の一つに、キュレーターの軽視があると考えています。
イラストレーターにただで絵を描いてもらおうとしたら叩かれるように、美術展の展示構成の専門家であるキュレーターを軽視すれば同じように叩かれるべきだと思います。
色々出てきた情報から推察すると、あいちトリエンナーレはキュレーターを軽視しているのは明らかでしょう。
横浜トリエンナーレ、妻有トリエンナーレ以降でしょうか、日本各地で様々な芸術祭が増えましたが、美術ではなく単なる客寄せイベントとしての性質が強いように感じます。
政治ではなく芸術と言い張り表現の自由を主張したかと思えば、批判的な感想を見ればネトウヨの戯言と一蹴し政治色を前面に押し出してしまってる。
芸術ではない勢は頭からアレをただのプロパガンダと批判して一貫してるけど、芸術と擁護する人間は例え相手がなんだろうがウヨサヨの問題にしてしまってはいけないんだよ。
語るに落ちたね。
時間 | 記事数 | 文字数 | 文字数平均 | 文字数中央値 |
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00 | 69 | 14011 | 203.1 | 70 |
01 | 43 | 6485 | 150.8 | 52 |
02 | 22 | 4965 | 225.7 | 53.5 |
03 | 21 | 1873 | 89.2 | 20 |
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05 | 18 | 615 | 34.2 | 27.5 |
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07 | 98 | 5839 | 59.6 | 32 |
08 | 102 | 6432 | 63.1 | 41 |
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11 | 102 | 11299 | 110.8 | 39.5 |
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アクシーズ(7), ズッコンバッ婚(6), 6秒(5), クリステル(8), 我欲(6), ユアストーリー(3), 孫引き(3), バカウヨ(4), ゲハ(5), 叶(3), NPB(4), 幽霊(13), 売春(21), 特撮(6), 在宅(6), サヨク(9), ドラクエ(11), 民間(13), 慰安婦(6), 単価(8), フォーム(5), 不自由(12), オリンピック(14), 反日(8), pdf(9), 夏休み(7), 2ch(9), アップデート(7), 借金(17), 公務員(18), 給与(12), 資料(11), 表現の自由(21), 韓国(37), 戻っ(17), ブロック(9), 薬(21), 古い(14)
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同意。理想主義を標榜していても、ひたすら政治的な動きが多い人達という感じ。
あいちトリエンナーレの件も同じ。我々が極右のクズ共に言うべきことは「表現の自由を守りましょう」ではない。
「恥を知りなさい」。これに尽きる。
その種の、毅然とした断固たる態度が取れないから、リベラルは敗北を続けるのである。 https://t.co/hZRIDVsfnb— 弁護士神原元 (@kambara7) 2019年8月7日
この人はその政治性に率直なのでこう表現したけど。「敵が使える武器になるから、今回の件で『表現の自由』を持ち出すのは止めましょう」って思っていても、恥ずかしくて中々言えないと思うよ。
今話題になっているあいちトリエンナーレについて個人的に思うことが色々あったので書こうと思う。細かいことを話して特定されると普通に死ぬのでぼかすが、一応運営ボランティアとして展示に参加している。
クソ長い。
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最初に断っておくと、今話題になっている「表現の不自由展・その後」についてだが、私はぶっちゃけ見ていない。今となっては炎上が勃発した時点で見に行っておくべきだったと後悔しているのだが、いやだってまさか3日で終わるとは思わねえもん。
と、いうのも事前のボランティア研修とかで「表現の不自由展・その後」に注目している人は私の知る限りほぼ皆無だったからだ。一応警備対応とかの事情で説明は受けたがそれについて「楽しみだ」とか「心配だ」とか言っている人は居なかった。別に目を逸らしていたとか重大性を認識していなかったとかではなく、ちゃんと理由もある。
他の人は知らないが、個人的には「表現の不自由展・その後」については「色んな理由で各地の展示会から撤去された作品を集めてみました」くらいの認識だった。面白そうな企画だ、地獄のデスマッチ感がある。しかし確かに面白そうだが、言ってしまえばそれだけなのだ。
話が変わるが我々ボランティアが研修で何をやっているかと言うと、作品の知識を蓄えるのではなく、自身の感性に従って自由に鑑賞する、所謂対話型鑑賞とかVTS(定義は微妙に違うのだが)と呼ばれているものを実践している。具体的にどんな感じかというと、背景知識はほぼなしで作品を見て
「画面は綺麗だけど、人物の顔が悲しそう、破局を予兆しているのでは?」
などとそれぞれの感性や経験に基づいて解釈を語りあうのだ。これが結構楽しい。例えるなら深夜のファミレスでオタクが集まってエヴァ最終回について語り合っている状態に近い。割と何分でもやっていられる。
だがそういった観点から見ると、「表現の不自由展・その後」があまり魅力的でないことは分かってもらえると思う。「近代化」、「ジェンダー」、「作家自身の半生」、トリエンナーレには複雑なテーマを持った鑑賞しがいのある作品が沢山出品されている。「表現の不自由展・その後」は企画としては面白いがある意味「企画落ち」なのだ。事前に具体的な作品内容が分からなかったというのもあるが、それ以上掘り下げようがない。寧ろ中止になった今の方が色々語れる。
そんなわけで「表現の不自由展・その後」がここまでの話題になったのはかなり意外だったし、多くの人にとってあいちトリエンナーレの第一印象がそれになってしまったのは少し残念でもある。
さて「表現の不自由展・その後」の中でも特によく燃えていたのが慰安婦と昭和天皇絡みの展示だと思う。政治的にインパクト抜群だからだ。だがここまで千字くらい駄文を読まされて大分心と頭が冷え切っているところだと思うので、少し冷静に展示のコンテクストについても考えて欲しい。
「表現の不自由展・その後」は「あちこちの展示会で撤去されたやつを集めて展示する」というコンセプトで行われている。よってこの企画で展示されているのは慰安婦像それ自体ではなく、あくまで「どっかから撤去された慰安婦像」なのだ。
ソウルの日本大使館前に慰安婦像が設置されたとき、メディアはこぞって大使館と慰安婦像が一緒に映った映像を放送したと思うが、あの報道に対して「不快だから映すな」と怒った人は居ただろうか。まあ居なくはなかったかもしれないが、多分映さない方がもっと怒られるだろう。怒らないのはそれが「大使館の前に慰安婦像が設置されたという報道」だとコンテクストも含めて理解しているからだ(勿論どちらの場合も制作サイドの意図は別にあるのだが)。
今回の展示ではそこのコンテクストがおざなりにされたまま、日本に実物の慰安婦像が展示されているというインパクトと、SNS上の断片的な情報で事態が拡大してしまった感がある。
また若干話が大きくなるが、余裕があったら歴史的なコンテクストについても一度考えてみて欲しい。慰安婦像というと直ぐに反日というイメージに結びつけがちだが、何故そう思うのか。
そもそも慰安婦なんて居なかったと考えている人からすれば一応理屈は通っている、悪意のある捏造ということになるからだ。
しかし、詳細については諸説あるが、そういうものが存在したということだけについては歴史的資料も揃っているし、両国の見解も一致している。つまるところ歴史に認められているのだ。
負の歴史を展示し続けることは未来に生きるだれかにとっての悪意になるのか、日本を始め第二次世界大戦に関わった各国には慰霊碑やモニュメントがある、ドイツやカンボジアには国内の虐殺を記憶するモニュメントがある、それを見て不快になる人はいるだろうし、寧ろ不快になるべきなのかもしれないが、ならそれらは排除されるべき悪意なのか、そもそも悪意は無条件に「悪」なのか。
場所によって反応も変わる、オバマは広島の原爆資料館に行ったが、アメリカでスミソニアンがエノラ・ゲイ展示をやろうとしたときは退役軍人たちから大バッシングが来た。そういった反応の違いは展示の意味、ひいては歴史の意味に影響を与え得るのか、得ないのか。
そして誰の、誰に対する悪意なのか、人の属性は一つでないし必ずしもはっきり分類出来る訳でもない、あなたが引いた「味方」と「敵」の線など気にも留めず他人は好き勝手踏み越えて生きる。例えば、韓国人男性と日本人女性が慰安婦について議論しているとして、彼らは一体どの立場にいるのか、そこに存在する先入観は何か。
話が大分概念的になってしまったが、何が言いたかったかというと、コンテクストというのはそれだけ膨大で複雑なのだ。
勿論コンテクストには政治性だって含まれる。慰安婦像が純粋に歴史的なモニュメントというより政治的に使われているのは明らかだし、恐らくそれは大半の日本人のせいではないので、あんな一触即発なもの見たくも聞きたくもない、というのは分かるし別に普段はそれで構わないと思う。
ただ死ぬほど暇なときにでも少し考えてみて欲しい。メディアの報道を見ていると日韓で政治的な同意が得られれば慰安婦像は撤去されていると考えている人もいるようだが、その必然性はない、だって歴史に認められているから。というかそれで撤去されたらマジで純粋なプロパガンダだったって言っているようなものだからやめろ。
像はコンテクストの中で存在し続けるし、今回の展示もそのコンテクストの一部である。
批判するにせよ擁護するにせよそこに対する考察がなければそれはインパクトに押された感情任せでしかないだろう。
それでも慰安婦像許せないし完全に撤去したいんだけどっていう人はどうすればいいかって?そこも歴史に学ぼう。
アメリカでコロンブスとかリー将軍の像が次々撤去されているのはニュースで聞いた人もいるだろう。時代の変化とともに歴史観は書き換わる。虐殺や奴隷制擁護者としての側面が評価され、彼らは英雄ではなくなった。もはや歴史に認められていないから像だって撤去される。
個人的には英雄として評価されていた歴史も含め展示するのも面白いんじゃないかとも思うが、少なくとも公共の場のモニュメントとしてはふさわしくないと判断されているのだ。
つまり慰安婦像を撤去したいのなら何らかの方法で歴史観を書き換えれば良い。そして歴史学の徒は全力で戦って阻止すれば良い。
トリエンナーレ運営が「表現の不自由展・その後」の公開を取りやめたことについて、ネット上では様々な意見が飛び交っている。これについては「脅迫に屈した」とか「作家に許可をとっていなかった」とか確かに色々と問題がある気はするのだが、津田総監督や大村知事が会見で言っていた「安全管理上の問題」という観点からは正直仕方がないと思っている。
第一に展示施設自体の問題だ。あいちトリエンナーレには複数の会場があり、「表現の不自由展・その後」が展示されていたのは愛知県文化センターの8階、所謂「県美」だ。関係者の名誉のために言っておくが、日本は災害が多いだけあって美術館や博物館といった文化施設の安全管理にはそれなりに注意が払われている。耐震設備に水害対策、防火設備、さらには盗難や破壊防止のための監視員や監視カメラが多くの施設で導入されている。
しかしテロや大人数による襲撃までは対応出来ないというのが現実だろう。海外の博物館ではそういった事態も想定して手荷物検査などを実施しているところもあるが、日本でそれをやるのは割に合わないと言わざるを得ない。
第二に運営側の問題。最初に言っておくがあいちトリエンナーレのような文化事業というのは基本的にクソクソ&クソ金がない。
確かに税金から拠出の予算10億は大金だ、これだけあれば50回くらい安心して老後を過ごせる。しかしそれでアーティストを100人くらい呼んで75日間展示会をやれと言われたら難易度はルナティックだ(他に寄付金とかもあるので実際の予算規模はもっと大きいはずだが)。
よって私も含めた運営スタッフの多くはクオカード1枚で半日働くボランティアである。加えて事前に結構勉強もしないといけないし、当然交通費とかも出ない。
これだけ聞くと何が悲しくてそんな苦行をとか思われるかも知れないが、最初に言った通り美術館とか博物館とかも含めて文化事業は取り敢えず金がないので、もうそういう人たちがいないとほぼ成り立たないのだ。そこで講習会とかバックヤード体験を餌にこじらせ教養オタクたちをボランティアとして釣っている、というか釣られている(※個人の感想です)。言っていて悲しくなるし話が逸れるのでそこら辺は省くが、つまるところ何が言いたいかというと、テロとか起きると我々はタダ働きの挙句何も出来ずやられる。勘弁して欲しい。
最後に若干抽象的な話になるのだが、良くも悪くもあいちトリエンナーレは寄せ集めというのがある。
運営側の細かい事情は知らないが、直前までどんな作品が出るか分からなかったりしたので、少なくとも運営と作家が一体となって特定のテーマに沿った展示を作るという感じではないと思う。恐らく「情の時代」とかいうぼんやりしたコンセプトに基づいて作家を招待して展示スペースを用意している感じだ。
「表現の不自由展・その後」だって別に運営が企画した訳ではなく、かつて行われた「表現の不自由展」を招待しただけだ。
展示施設の職員に至ってはそれを公務員の業務として受け入れているだけである。
よって、運営の中心スタッフ、末端のボランティアスタッフ、施設や関連団体のスタッフ、さらに作家間で一人一人が一つ一つの作品に全て賛同しているとかそんなことはあり得ない。まあそれはある程度の規模の組織では当然のことだと思うし、そうでなければ大規模で多様性のある展示会なんて開けないだろう。なので断っておきたいが、会場とかSNSで関係者に絡んで「トリエンナーレの見解」とやらを聞き出そうとしてもそんなものはない、せめて総監督に聞いてくれ。
そんな緩い結束でつながっている人々を「脅迫に屈しない覚悟」に巻き込むのは正直言って無理がある。
それらを踏まえてトリエンナーレ運営の対応はある程度仕方なかったとは思うのだが、しかしそうせざるを得ない状況には大きな問題がある。
先述の通り、施設や組織の問題でテロや脅迫に対応することは出来ないし、安全上の問題を考えると「表現の不自由展・その後」の展示中止は仕方ない側面もあると思う。
しかし考えてもみて欲しい、そもそも武器とかガソリン持った奴相手に対抗できる団体・個人がこの国にどれだけいるのだ、極真空手の総本山とかか?結構な大企業だって本気で襲撃されたら対応出来ないことの方が多いだろう、必然的にそれを仄めかす脅迫の時点で相手側の要求を飲まざるを得なくなる。
暴力による権利への挑戦に対しては個人レベルでなく、社会全体として対抗しなければならないし、行政側には憲法に基づいてその義務がある。
最初に特定されたら困るから匿名で意見すると書いたが、そもそも身の危険を感じて発現を躊躇しなければならない状況自体がおかしいのだ(勿論それとは別に自衛はするが)。
また、津田総監督が会見によると脅迫と並んでまずかったのが「電話」らしい。
抗議の電話でまず事務局の回線がパンク、結果つながらなかった人たちが県美や文化センターに掛け、何の対策もしていない職員が罵声を浴びせられる、しかも公共施設なので切らずに対応しないといけないという事態になったらしい。所謂「電突」と呼ばれるものだ。
ネット炎上とともに話題になることの多い電突は、市民による集団的抗議の形態とも見做せるが、一方でインターネットという新興メディアによるメディアスクラムともとれる、特にやられる方からすればそうだろう。
確かに組織には説明責任がある、取材と報道の自由もある。けどそれが対象となる人々の生活を過度に制限するようになればそれは権利が守られている状態とは言えないし、何かしらの法にも触れそうなのだが、恐らく相手が不特定多数ということで対策が難しいのだろう。スクラムを仕掛けた側を罰しろとかではなく、対象となった側を守る為の社会整備は必要だと思う(と、ずっと前から言われている気はするのだが…)。
誤解しないで欲しいが、ここでいいたいのは抗議をするなということではない。
表現の自由というのは反論されない権利などではない、ただやり方の問題だ。
話がまた大きくなるが、個人的にはどれだけ平和主義を語っても「戦い」なんてものはなくならないと思っている。政治も、経済も、受験も、スポーツも、婚活も、創作も、結局は「戦い」なのだ、ただそれをいかに物理的な暴力を伴わず決められたルールの範囲内でやるかが、人類が積み上げてきた理性とか法治とか文明の指標なのだと思う。
抗議は存分にやればいい、カウンターとなるアートを作成しても良いし、ネットに長文を書き込んでも良い、署名やデモでも良い。そして表現の自由と言っても万能ではない、脅迫罪、威力業務妨害罪、侮辱罪、名誉毀損罪、プライバシー権、著作権…憲法に定められた公共の福祉の概念に基づいてそれを規制する法律なんてごまんとある。そのうちの何かに抵触してそうなら訴訟という手もある。ただやるからには全て合法的にやれというだけの話だ。
pixivで気に食わねえ解釈を見つけたら自分の解釈を倍の質と量で投稿して相手の筆を折るのが仁義というものだろう。すまない今のは完全に個人の意見だから忘れてくれ。
じゃあこの場合どうしたらいいのか。
少し話が飛ぶが比較のため「コンビニエロ本問題」について話させて欲しい。「コンビニエロ本問題」とは女性客などからの抗議を受けてコンビニから18禁の本が撤去されている事態のことだ。あれを表現の自由と結び付けて語る人もいるが、私はそうではないと思っている。
何故ならあくまでコンビニは民間の営利団体だからだ。コンビニ業界に詳しい訳ではないので話半分に聞いて欲しいのだが、もしコンビニ側が「エロ本を撤去しないとタピオカを積んだトラックで突っ込む」とか脅迫を受けているならば、それは許すべからざる犯罪だ、しかし多分そうではないだろう。
抗議が原因と言われているが、恐らくより正確には「エロ本絡みの抗議や客足減退に対してエロ本の売り上げが割に合わない」が原因なのだと思う。
コンビニで18禁本を最後に買ったのはいつだろう、正直質はともかく量と利便性はネットの方が格段に上だと思う。正確な売り上げは知らないが、エロ本だけで月々1兆円くらい純利益が出ているなら、あの容赦のないコンビニ業界が Permalink | 記事への反応(15) | 22:16
「あいちトリエンナーレ」は、神田真秋弁護士が愛知県知事選の公約として掲げて当選、発足した、最初から官費ありきの、極めて公的性質の高い国際展 わかる
主催は「あいちトリエンナーレ実行委員会」実行委員長は大村秀章・愛知県知事ですが、大村知事は農水官僚出身の元自民党代議士 わかる
不自由展は今回が初めてではない わかる
撤去されたものを取り扱ってるので不謹慎なものがあるのはむしろ当たり前 わかる
過去に撤去されたものを集めてるはずなのに左派に都合のいいものしかない わからない
「男女平等」など芸術そのものの内容とは別の切り口でのPR わからない
ってお思ってたのでこの記事はとても参考になった
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/57247
こんな事態にしてしまったのは、芸術監督の判断と行動に原因があることで、明確にそれを指摘しておく必要がある
アマチュアが間違った椅子に座り、面白半分で打つべき対策を打たずに徒手していれば、人災を招いて当然です。
率直に言って不謹慎、興味本位で面白半分な、キュレーションをおもちゃにする様子
内容以前に、こうした「隠し玉」を準備して「炎上」させる意図があった時点で、官費執行に責任を持つ芸術監督としての大前提に瑕疵があった
「隠し玉」として炎上を狙うなど、芸術の母屋に両足の着かない、無責任な野次馬の発想
国内のごく一部で内輪受けする程度の「芸術」判断基準と、地域振興動員数向上あたりに照準を当てたお役所との利害が変に一致して、グローバルな人道と文化を感じ考える芸術のオリンピックが、弄ばれていた
「決定」に際して、芸術監督であるはずの津田大介氏は、作品「平和の少女像」の作者、彫刻家のキム・ソギョン、キム・ウンソン夫妻と、直接対話して納得を得るプロセスを経ていない、と報道されています。事実なら、あり得ません。展示作品を、自分自身がそれを依頼し、決定した作家や関係者に確認を取らず、「展示中止」つまり「撤去」などということをしてしまったら、それは芸術監督でもなんでもない。子供がおもちゃを弄っているのと変わりません本来なら、足を運び、土下座でもなんでもしてやることは山のようにあるわけで、ただ徒手していただけなら、意味のない素人ということになる。
報道や各種メディア、個人が様々な媒体で伝えているこの事柄に対して、私個人のごく私的な見解など、どうしようもない話の一部になるのだろうけれど、つらつら書いてみようと思う。
・検閲
今回発生した問題は検閲の問題ではない。現在紙面やネットで騒いでいる検閲という問題は、当事者の手を離れた部外者による場外乱闘であった。扇情的な展示に対して、権力を扱う不用意な政治家が、自制せず権利を侵害する発言を行ったことは大問題であるが、ここまでくるともはや展示云々ではなく、国家、自治体による権利侵害(の実行又は脅迫)という、大事な問題だが、別方向の問題として切り離して考えるべきで、後述する問題を覆い隠してしまうことになる。展示を取りやめたのは、大量の抗議や脅迫、犯罪予告により、芸術祭にかかわる方々の安全を確保できなくなったという状況に陥り、該当展示の実行委員会(実行キュレーター)の同意なしで中止に至ったという顛末と理解している。
芸術市場が大きい欧米諸国に対し、日本国は元々芸術品の売買に対して諸国のような減税優遇措置をとっておらず、バブル期を除き、民間のギャラリーを経由した売買や、流通操作で伝統工芸品を大型百貨店の展示場で、国内のみ通用する相場で販売する程度であったが、バブル期~90年代の大型公共投資の連続からハード面での地域振興策が資金、コンプライアンスの両面で実行が不可能になった自治体における「少額で、短期間で既存のインフラを活用でき負担が少なく、運が良ければ国際的な知名度を上げることができる。」ツールとして、この10年雨後の筍のように芸術祭が乱立する事態となった。そこでは、ノウハウのない自治体が、自称地域文化の担い手である新聞社に丸投げ、そこからコネ採用された力のないキュレーターは、自身の貧弱なコネクションで囲い込んだ微妙な作家しか呼べず、投下した税金の割に貧相な芸術祭になった場合。自治体が運悪く山師に金を預けてしまい、多額の不適切支出で泣き寝入りになった場合。など皆さんが思っている以上に税金を使用したイベントにはトラブルが多い。税金が投入されるイベントは前提条件として・補助金申請等の手続が煩雑・大小の自主規制や、地域ルールに縛られる・税金が原資なので、疲弊した財務状況の自治体では開催不能、批判を招く場合がある。税金は芸術より生活政策に資金が回されるのは当然である。所詮流行りの水物なのだが、皆さんが思っているより所謂コスパの良い地域振興策なのでなくならないだろう。
今回の問題では、アートと異なる展示がなされているという意見が多く出ているが、大きく表現の自由と括られる中でも、その自由の元に「どの媒体で」「どのような手段で」「どの程度の深度で」、成果物として表現しているかは人それぞれ、所属する社会により異なるという点。またアートは政治と不可分であるが、極端な扇情(アジ)を行わなくとも、その行為がそもそも自由を行使しなければ表現できない、自由で平和な状況でなければ創作活動はできず、人の創造性を発揮できない点が大前提であり、自由の中で個々人が世界との関わりの中で何らかの美醜混じった真理を見つけ、それを昇華したのがアートとすると、今も表に出ない問題の一つ、表現の自由を行使する媒体と手段の衝突という背景が見えてくる。
新聞社や論壇を中心とするジャーナリズムは、文字を用い、抽象化している諸概念を文章化し、権利と自由を、守り、啓蒙し、扇情したりするわけだが、小説などと異なり「直感的に察する/察させる」機能は弱く、相手を文字化、文脈という論理化してしまった問題に対し、「同意するか」「同意しないか」の二者択一を求めてしまう。そして問題となった展示は、実行委員会の多くが学者又はジャーナリズム出身という状況で、同じ表現の自由でも、性質が異なる表現を行ったことが原因にあり、一般市民が考える「アート」とイコールにならなかった。「これはアートではない」という声である。表現はしているが、アートではないと。
アーティストと名乗る作家にも問題がある、この「ステートメント芸術」と揶揄される表現は、業界に詳しくなれば詳しくなるほど根深く、呪いともいえる。
アートという行為、物質/空間/映像/音楽で意図が伝わるよう、意識を特定のベクトルへ向けるよう誘導し、表現しなければならない所なのだが、その実力がない作家の中に、延々とそれらしい説明文を付けて意味づけする行為や、文脈という補助要素を主要素に持って来て、実態だけを見ても理解不能となる。そのような作家は大体退場していくのだが、言葉が主戦場のジャーナリズム界隈と親和性が高いので、変な形で融合してしまうことがある。
「文脈を追うのが現代アートだ」という解釈の誕生である。一面では事実だが、全てではない。
ビジネスの世界でこの行為を言い換えた表現としては「ストーリー」という言葉がある、そしてこれを最大限活用した米国の企業、セラノスの末路は多くの人を巻き込み凄惨なものであった。
・何が問題だったのか
①監督が芸術キュレーターの経験がなく、自身の分野であるジャーナリズムの文脈で解釈した表現を、芸術祭にねじ込んだ為、酷く食傷を起こしてしまった。
②食傷を起こしてしまった後の対応が、構造を理解している人の不足で収まっていない。
①食傷を起こした理由は長々と書いた。経緯として自分たちが表現の自由の最前線で、他の作家は何も考えていない。ように捉えられてしまうキュレーション(自由の世界におけるジャーナリズムの優越性)をしてしまったのが原因にあると考える。結果、津田氏がFM番組で発言したように「自分一人ならナイフで刺されてもいい覚悟だが、関係のない人を闘争に巻き込んでしまった」という発言につながっている。
表現は自由であるから、闘争を持ち込むなとは言えないが、徹底的なゾーニングと仕掛(言語化できている主張表現に容易にアクセスできる導線を作る)ことが必要であった。言語化できている(と思われる)主張表現に対して、実態が追い付いていなかったのではないだろうか。
不特定多数の威圧行為は、少数で行う創作活動にとって凶悪な暴力であり、過去も多々あり、これからもなくならない。すべての事柄に寛容な社会など来ないし、永遠に付き合わなければならない。
②をわざわざ書いたのが、今回の騒動で最も被害を受けている、他の参加作家に対して謝罪と対策を行っているのかよくわからない状況だからである。
・誰が最も被害を受けたのか
昨日声明文を出さざる得ない状況に追い込まれた、他の参加作家である。それぞれの表現を深化させて今日を迎えているが、キュレーターがバランスを取らず、独自にプレイヤーとして創作活動を我田引水した結果。必要のない状況で、自身の作品を見てもらうという重要な事柄を達成されないまま原理原則論の確認や主張を行わされたのは、イベントの主催者として責任が重大である。表現の自由は大事だと言うに決まっている。また、作品を撤収せざる得ない状況に追い込まれた海外からの参加者に対して、展示機会を奪った結果になった事も忘れてならない。マスコミが何をキーヴィジュアルとして記事にするか理解して、扇情的な人形を配置しているのは明白で、記事を見た輩が抵抗/抗議を通り越して、挑発と解釈してしまった訳である。撤収した2人は、必要のない場面で・積極的に日本側の行為に抗議を行う・無視した場合に自国内で起きている扇情的民族主義の標的になることを避ける。2者択一の判断に迫られた。
昨日声明に協賛したのは参加作家全員でないだろう、検閲を受けたわけでもない、こういうキュレーターのミスによる騒動に対してのスタンスは作家ごとに異なるのは当然である。
・なぜここまで注目が集まったのか
芸術は本質的に生活必需品とは言えない。生活環境が改善し、可処分所得と余暇がある状況下で初めて人は関心を持つようになる。今の日本、問題は起きているが、ネットで百家争鳴する位この国は文化的に成熟しており、得体の知らない世界に関わりを持ちたい気持になったのは素晴らしいと思う。物事の全ては飛び込んでこそ妙が分かる。威圧や脅迫はださく醜悪である。そしてアートはこんな長文も飛び越えて一瞬であなたの感性に突き刺さる力を持っている。
#あいちトリエンナーレ に“毎年行ってる”人々。#バカウヨ#ネトウヨあほ列伝 pic.twitter.com/P75LiBmHZo— 요시다유키히로 ЁсидаЮкихиро (@yshdykhr) August 6, 2019
あいちトリエンナーレ2019の「表現の不自由展・その後」では、30年前に起きた富山県立近代美術館事件を表現の弾圧だとして批判的に表現する作品が少なくとも三点ある。
https://censorship.social/artists/
興味をもって調べてみると、富山の件では県議会議員からも問題視されたが、右翼団体による抗議活動を受けて図録の非公開と焼却を決定したとのこと。(会期終了後に問題視されたため展示は最後までできたらしい)
つまり、構図としては今回と同じく暴力的な脅迫によって職員や来館者の安全が保てないために苦渋の決断でやむなく公開中止したものと読みとれる。そして富山の事件に関連した「表現の不自由展・その後」出展作品による批判の矛先は、右翼団体ではなく富山県立近代美術館に向けられている。
であるならば、今回の事件の矛先は中止を決定した津田大介に向けるべきであり、津田大介よる表現弾圧事件としてこの先何十年も語り継いでいく責任が「表現の不自由展・その後」を企画した津田大介にはあるように思う。
いろんな周辺事情が掘り起こされ、シャルリー事件のように擁護側も賛否が出てきた
これに対して中止の話が出ると
・憲法違反
・テロ支援
・ひょうげんのじゆううううぅうぅうぅうぅううーーーー
といった意見が飛び出てきた
面白かったのは、最善を尽くして、その結果の中止でなければ弾圧で憲法違反という意見
何が面白いって、「何かあればそれはそれで現政権を批判できる」って点
シャルリーみたいな「結果」に対して、私シャルリー言うのはわからんでもない
その後捕まった青年をみるに、表現の自由なんてそんなもんだが、わからんでもない
けどよ、表現の自由のために、万全を期して万難を排し私達を守ってみせろ、そうでないと憲法違反だってさ
そりゃひどくねぇか
マッチポンプも甚だしい
それが、慰安婦表現だと、表現ごと守らなければアベ批判ってクソも良いところだろ
ちなみに、今回の件で左派が一生懸命主張してくれたから、今後戦車使おうがグンクツノオトが聞こえようが、公金投入して良いんだよ
だって、【思想に関わらず】公は支援しなければならないと言ってるからね
【思想に関わらず】だ
今後の左派の動きが楽しみだよね
戦車使ってアベガーって言い始めたら、あいちトリエンナーレの話すれば良いんだからさ
って
アート関連のニュースサイトColossalとArtsyのブクマが少し増えているからあいちトリエンナーレ関連の記事でも上がったかな?と見てみたがそんなことに関連する記事は全く無いんだな。
The Japanese Architects Who Treated Buildings like Living Organisms
https://www.artsy.net/article/artsy-editorial-japanese-architects-treated-buildings-living-organisms
Alina Cohen Aug 2, 2019 2:59pm
Meticulous Portraits of Young Women by Ozabu Are Eerily Fused with Plants and Feathers
https://www.thisiscolossal.com/2019/07/ozabu-portraits/
July 30, 2019 Laura Staugaitis