はてなキーワード: ヒーローとは
友人は、おばさん(父親の妹)のことを小学低学年の頃まで男(つまり おじ)だと思っていたそうだ。
LGBTとかではなく、特に体が大きいとか、声が低いとかということもなく、今にして思えば、どう考えても女性なのに。
発覚したきっかけは「自分の親戚を分かる所まで書く」みたいな宿題。(今はいろいろと配慮が要りそうな課題だが、その辺はおおらかな時代だった)
普段から「マコちゃん」(仮)と呼んでいたため本名が分からず、母親に聞きに行ったところ、
「マコちゃんは お父さんの妹だから『おばさん』だよ」と教えられたそうだ。
今までマコちゃんが遊びに来るたびに一緒にお風呂に入っていたのが、急に恥ずかしくなって、
マコちゃんが来る日は明るいうちから風呂を沸かして、先に入ってしまうようになったのだそうだ。
(なんで一緒に風呂に入って女だと気が付かなかったのか不思議だが、子どもの知恵なんてそんなものかもしれない)
本人は、「たぶん いつも ズボン履いてたし、ヒーローごっこをしてくれていたから、男だと思い込んでいたんだろう」と分析している。
と、勝手に思っている話。
初めて彼女を見た時、なんて可愛らしい子が入ってきたのかと驚きました。それから天使の見た目と裏腹なキャラクターに惹かれ、完全に心を奪われました。
工藤遥さん。いつ振り返っても全てが愛おしいです。
モーニング娘。でのデビューが決まった時は心から嬉しく、ショップで写真を手に取った時の感動は今でも思い出します。
かわいくて、かっこよくて、頑固でまじめで一生懸命で。
そんな中、自分に妊娠出産というライフスタイルの変化が訪れました。
今まで気ままなオタクとして生きてきた反動なのか、情けない事に現実の変化に心が追いつきませんでした。
夫に上手く頼ることが出来ず、産後鬱に気付かず騙し騙しの育児で時は流れ、気づけば子供との接し方が分からないノイローゼ状態になっていました。
生活は無気力、趣味への興味も薄れ、可愛いはずの我が子を見るたび負の感情が湧いてくる。手をあげる妄想が止まらなくなり、心療内科を受診しました。
薬を飲む生活になりました。
少しずつ気持ちが楽になってきた気がしたので、楽しかった事、好きだった事を思い浮かべました。
それらに半ば依存するような形でしたが、なんとか立て直してこれたかなと思っている時でした。
彼女の卒業。突然のことに驚き、しばらくは悲しみ、追えなかった無念さなどが頭を巡りました。
が、アイドルから女優という新たな夢へ一歩踏み出そうとしている彼女にオタクの依存は不要なんだ。頑張るならば応援しよう。と徐々に思えるようになりました。
その頃には子供と会話が繋がるようになっていましたが、体調は十分でなくコミュニケーションに困ったらテレビの子供番組に頼る日々でした。
そこへ、再びの発表。日曜朝のヒーロー新番組「快盗戦隊ルパンレンジャーVS警察戦隊パトレンジャー」
工藤遥さんは、新しい世界で頑張っていました。キラキラ輝く姿と、希望を、TVを通じて届けてくれました。
毎週子供と一緒に見て、なりきり遊びをするようになりました。自分の影響か、子供は彼女の役を気に入っていました。
それから、買い物に行くようになりました。おもちゃ、カード、お菓子、ゲーム…わくわくしながら楽しさを共有しました。
映画やショーにも行きました。
薬は要らなくなりました。楽しそうな子供を見て、自分も笑顔になれました。
そしてこの冬、再びのショーで彼女にまた会えました。今度は子供も一緒に。
最後の挨拶、役名を呼んだ子供に「ありがとう」と笑顔で手を振ってくれたことは、一生忘れないと思います。
こんな人間が会場にいたことは彼女は知ることもないでしょうが「ありがとう」を伝えたいのは自分なのです。
新しい挑戦をしてくれてありがとう。
書いても書いても伝えきれないほどです。
役としては来月のイベントで終わってしまうけれど、きっかけをくれた推しはこれからもずっとスーパーヒーローです。
本当にありがとう。
栗原潔 | 弁理士 ITコンサルタント 金沢工業大学客員教授
https://news.yahoo.co.jp/byline/kuriharakiyoshi/20190208-00114086/
著作者Aさんが著作物Xを作り、著作者Bさんがそれに独自の表現Yを加えた二次著作物X+Yを作ったとします。この時に、第三者であるCさんが勝手にX+Yを使うと、AさんもBさんも、Cさんに対して権利行使できます。BさんがAさんの許可なくX+Yを作った場合、そのことについてAさんはBさんに翻案権の侵害を主張できますが、それはBさんがCさんに権利行使できることを妨げません。
ちょっとややこしいのでもっとわかりやすいたとえを使うと、著作権侵害の疑いが強いパロディ同人誌を他人に勝手にコピーされて販売されてしまったら同人誌の作者は泣き寝入りかというとそんなことはない、ということです。
世界レベルの危機をたった1人のヒーロー(+お供数人)が倒すって物語をいくつも束にしてクロスオーバーしたら「じゃあお前らあの時は何やってたの?」ってなるじゃん。
スパイダーマンの時空が歪んで豚と一緒に戦うシリーズだったら時空歪んでるから納得できるんだけどさ。
いくらなんでも「僕数年前に1人で地球救いました」「俺も」「私も」「そういやそん時俺まだ凡人やったわー」「俺その頃にはもう3回ぐらい世界救ったやで?」みたいなのはさ、お前らマジ何やってたんですかってなるでしょ。
コウモリ野郎みたいに活躍する地域が限定的になりがちな奴ら集めつつスーパーヴィラン同士が結託しましたって話にするなら、まあ何とか話は通るんだろうけどな。
やっぱり納得出来ない事は納得出来ない。
やる気のない奴とは仕事したくない。
出来るからと言って偉そうにする奴とも働きたくない。
頑張ってはいるが出来ない奴を見下し、そいつが生かせる所は何かを考えない奴とは働きたくない。
何も変えられず、スキルも中途半端で金もなく、仲のいいやつの愚痴に気休めしか声をかけられない自分が嫌だ。
俺に任せとけって言えるようなヒーローになりたい。
日本で『ベイマックス』と呼ばれている映画の原題が『BIG HERO 6』なのはもっと知られていいと思うんだよね。
実際に観てみると、6人(5人と1台)組の戦隊ヒーローという感じで、ロボットを通して絆を知る感動ストーリーというよりかは笑いあり涙ありの読み切り少年漫画といった雰囲気。日本ではヒロとベイマックス(とタダシ)以外の4人が広告でハブられすぎて悲しい。
アメリカでは「人間はいかにプログラムに過ぎないロボットに感情移入できるのか?」ということがテーマの一つとしてピックアップされているにもかかわらず、日本では「ベイマックスは心優しいロボット」って宣伝やってるのがなあ。ベイマックスはまだドラえもんやアトムのような「心を持ったロボット」には程遠い、彼らよりもっと近い未来で作られたといった感じのロボットだと思うんだよね。惜しい。
あと、正式なテーマソング『Immortals』を歌ったFALL OUT BOYはもっと有名になってよかったと思う。(一応ベイマックスが話題になって数か月後、スッキリ!に一回だけ出たけど)AIの『STORY』が嫌いなわけじゃないんだけど、やっぱりImmortalsのほうが世界観にちゃんと合ってるんだよね。
ONE OK ROCKのコンサートでFOBが対バンになったとき、自分の目の前にいた観客が、「フォールアウトボーイ?誰それ」ってなってたのが辛い。お前らが目当てに来たONE OK ROCK含めいろいろなロックバンドに多大な影響を与えたロックバンドのひとつだよ。
俺なら無理だな。
たとえ一時的にブタ箱に突っ込めても、どうせいつかは帰ってくるし、そのときに逆恨みで刺されたら溜まったものじゃない。
俺だったらキチガイに絡まれたら手近な生贄を差し出して自分だけは助かる道を選ぶよ。
「いいや、俺ならちゃんと法的に解決するね(フフン ムフー ムフー)」と鼻息を荒げている人は、この法治国家で気紛れで行動できるキチガイの突発的な包丁タックルがどれほど自由気ままに飛んでくるかに対して、想像力を微塵も働かせてないだけにしか見えない。
正義の人を気取って好き勝手言うのは簡単だけど、それを実行に移すのは簡単じゃないよ。
完璧な正義以外は認めないし、常に100%実行し続けろなんてことを求めて良いのはマーベルヒーローにだけでしょ。
少なくとも普通に働いている普通の公務員とかにまでそれを求めていたら、まともな人の割合はいよいよ減っていって、行く場のなくなったクズや最初から着服を目論んでいるゲスばかりが行政や立法の中核を担うようになっていくと思うよ?
時給900円のアルバイトに一流ホテルのようなおもてなしを平然と要求する乞食じみた国民性そのもの。
人は給料に見合った労働しかしか出来ないのが正しい雇用の流動性ってものでしょ。
公務員の給料で期待出来るのは煩雑な事務手続きを数字と文言の間違いが一切ないように洗い出すか、キチガイと戦うか、そのどっちか片方だけで、両方やれっていえるほどには税金は払いたくない。
なら、キチガイとバトルするのが本職じゃない人がキチガイから逃げることを俺は許すよ。
そこまでのキャパシティを持っている人に、この国で公務員なんてやってほしくないからね。人材の損失でしかないもん。
これが僕なりの結論だけど、君等はどう考えてるのかな?
・男性に頼らない自立した自立した女性、活発に動く女性はヒーローのアニメーション
・サポートする男性キャラクターはありません、男性の影はありません
・女の子が格闘して格好いいと思ってほしい(ドラゴンボール、ワンピース、ナルト、セブンデッドリースポーツオブジェクトなど)。
・聖闘士星矢と北斗の拳のようなものと世界のために戦うことが望ましい
・男性の視点が含まれているので、戦いの間に技術的な名前で話すことまたは精神の叫び声を得ることは不可能です。 例えば、キラキラの文庫は良くありません。
・愛の要素はありません。 愛至上主義がなくても
・かなり治療法のような女の子にとっては「女性のため」ではないのでそうではありません。 大人のための高いターゲットと商品のための数字はそこにあります男性のファンによって見るアニメ
・主なターゲットレイヤは男性ではありません。 「女性を楽しむことができる男性のための」アニメーションはよくありません。
・男性の作家、男性の作家など男性の視点が入力されていない "女性を考える女性のための女性の主人公"はよくありません。 男性による女性主人公思想は名誉ある男性ヒーローだろうから、そうしないでください。
・・たとえば、Ke! 女は部長、シリーズ作曲、キャラクターデザイン、作画部長、主役に任命され、ストーリーボードストーリーには女もいるが原作者は男性、主視聴者も男性
・萌え絵はダメです。 "萌え"の基準は、空の境界、約束のネバーランド、ウィザードの妻、バイオレットエバーガーデン、キノの旅、リトルウィッチアカデミアはOKです。 まどか、ひだまりスケッチ、ラブライブ! NGです
・セクシーなスタイルは、Bayonettaのように見えます、キラーキルは大丈夫です
・「少女戦」のようなタイトルが悪くなるのは良くありません。 中身だからダメ
・集団的なイメージプレイは女性の主題ではないので、それは良くありません。 PSYCHO - PASSは良くありません。 明らかに女性の英雄が優れています。
・魔法少女は趣味ではないので、しないでください(CCサクラ、セーラームーンなど)
・それは深夜のバンド放送ではない、それは大衆を受け取った主要な作品であるべきです
・それは見ているように感じるには長すぎるので2つ以上のコースを持つには長すぎるように思われるのでショートはより良いです
・理想はバイオハザードクレア、RDGレッドデータガール、スピリットガーディアン、チハヤフル、攻殻機動隊、パトレイバー
該当する場合、マンガ、小説、ゲームは問題ありません。 Animation博士の増田氏がしばらく出てきているとしたら?
(その他の注意事項)
・Originは「ドラマには女性のヒーローがたくさんいるがアニメには数少ない」と言っていて問題があるようで、実写のコンテンツは除外
・「現在配給されているアニメには女性主人公がほとんどいない」というのは問題なので、古すぎるのはよくありません
・「さて、あなたがそれを作ろうとするなら」は「そのような作品はほとんどないので、それは問題となるコメントです、それであなたは自分でそれを議論することができるだけであるようにすることができます」
(付記2)
@矛盾と質問内の理想的な作業が最初に条件から外れていることを確認してください、@ quzi23してください。 この人の発言から条件を抽出して要約したところです。
https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=10674712#1
以下ネタバレ注意
作者のフェチが伝わってくる文章でした。普段から他の人に伝わるような文章を書いてるというのが分かる言葉選びで、ソ連百合という私からすれば話題になっていなければスルーしていたであろうジャンルでしたが琴線にビンビン触れるものがありました。
私はフィクションにおいて恋愛至上主義で、ジブリならハウルの動く城とコクリコ坂からが好きで
少年漫画ならメインのストーリーよりあの可愛いヒロインがどのヒーローとくっつくのかに興味を持ち
三度の飯よりボーイミーツガールがたまらん好きなのですが(私にとってはフリクリやエヴァもボーイミーツガールに含まれる)、やっぱり百合は難しいと思ってしまいます。
百合界隈では「エモい」という言葉が多く使われ、先の月と怪物では"もうここにはいない"姉と月へ有人飛行して事故死してしまった軍人の関係性が、宇宙の向こう側へと飛んでいく愛の形がエモいエモいと言われていました。
私は即物的なのでエモいかエモくないかよりも、どうしても2人が一体どういう経緯でそういう関係になってしまったのかや、夜抜け出して何をしてたのか、どんなセックスをしたのか、がめちゃ気になるのですが、薄いベールの向こう側を愛でる百合クラスタにはわかってへんわ〜と言われるでしょう。
きっと百合とは薄皮まんじゅうを食べずに愛でるようなものなのだと思います。
薄い皮が透けて中の餡子が見えて、それがこし餡なのか粒餡なのか想像するような愛で方。もしかしたら苺が入ってるかもしれない愛で方。
月と怪物では妹という薄皮を通して姉と軍人という餡子を愛でます。一体何をしていたのか分からないふたり、エモい関係…
私は羊羹を食べるのが好きですね。
甘い餡子は食べるためにある、愛でるためではないのです。
( 2019年冬アニメ1話ほぼ全部観たから感想書く その3 からの続き )
我が輩は猫である(飼い猫)。一人暮らしの作家先生に拾われた猫と共同生活する話。同じ時間軸の出来事を、作家と猫それぞれの視点で描く。ちなみに8割位ご飯の話。
本作のシリーズ構成を務める赤尾でこが関わった「ミイラの飼い方」もペットとの日常を描く作品だけど、赤尾でこって小動物の心が読めるのだろうか。というか実は猫なんじゃ。
猫がかわいい。漱石さん家のおっさん猫は「まったく人間という生き物は…」と愚痴を垂れる社会風刺だった気がするんだけど、本作は女の子みたいな猫が「あいつなんやねん。もっとシャキっとせい!」的な語り口なのにツンデレなのがかわいい。
前半部分に当たる、小説家の主人公による一人語りが小説っぽくて良い。斜に構えた視点、社会から距離をおいた生き方。他人がほとんど登場しないので、話の殆どが「猫とは…人間とは…」的な循環思考。
猫に限らず、人間と人外がひとつ屋根の下で暮らすというコンセプトの作品って結構「お互いに言葉が通じない中でどうやってコミュニケーションを取るか」というのが面白いけど、本作はそういう部分を踏襲しながら「同居人が主人公のことをどう思っているのか」をちゃんとモノローグにしているのが良いよね。前半が推理編、後半が答え合わせみたいな。
シュレディンガーの嫁。声優の厨パによる、ノリの軽いラブコメ。主人公と花嫁の馴れ初め(高校時代)を描く。原作は週刊少年マガジン。松岡禎丞x花澤香菜x竹達彩奈x伊藤美来x佐倉綾音x水瀬いのりて。貴重なメンツによるOPがもうすごい。
五つ子なので、どの子と結婚したかが分からないという仕様になっている。本作で描かれるのは結婚式当日及び学生時代の馴れ初め(スタートとゴール)。五つ子がそれぞれ20%の確率で主人公と添い遂げる可能性がある(5人合わせて100点(100%)という描写が印象的だった)。
「五つ子がそれぞれ20%の確率で主人公と添い遂げる可能性」=「(この中から一人を選ぶのではなく)それぞれ(20%の確率を引き当てて)無事ゴールできた世界線が重ね合わさった状態」という解釈が可能で、どの子が結婚したか作者が確定しない限り5人全員が実質本命の勝ちヒロインと考えられる。なので視聴者的には「この子(自分の推し)が、この後あーなってこーなって、最終的に結婚するのか…」みたいな妄想の余地が全員に用意されているのが特徴的な作品。そういう意味で「五等分の花嫁」という表題(一人20%、全員で100%の花嫁エピソード)はすごく上手いなぁ、って勝手に関心した。
演出的には1話で結婚式のシーンが出た後、そのシーンが各話に渡ってリフレインとして使われてるのが面白かった。この演出はゴールを最初から明示している本作ならではっていう感じ。キュンってなる。コメディ部分としては比較的コミカルな演出なので気楽に見られる。
「プラネテス」「コードギアス」でおなじみ谷口悟朗監督による、SF世界を舞台にしたヒーローモノ。ロボアニメ。制作は3DCG映像制作会社の白組。
背景を除けばほぼ全編3DCGのアニメ。3DCGってどうなん?という考えに真っ向から向き合っている印象を受ける。冒頭からキャラの動きが意図的に多彩で、その一つ一つの細かい仕草に趣向を凝らしてある。「座っているキャラの貧乏ゆすりしてる足元」とか、「3人で会話してる時、喋ってる子に視線が向かっている」とか、サッカーのシーン等これ見よがしにぬるぬる動くシーンとか。そして、特に制作の白組はゲーム等の3DCGでお馴染みの会社ゆえロボのデザインや動きがめっちゃ凄い。古今あらゆるロボットが登場時に必ず行う行事である「手の指を一本一本ガチョガチョ動かすやつ」めっちゃ好き。
それ以外にも、背景と3DCGを溶け込ませる演出が多い。背景→キャラ(3D)→ガードレール→道路を走る車(3D)というレイヤ構成のシーンが一番ユニークだった。それ以外にも回想シーンの「雨が降っているシーンで、日本家屋の屋根に雨が当たって弾けるエフェクト」とかめっちゃ凝ってる。
そんな背景美術のクオリティがかなり高く、写実的(背景:ビックスタジオ)。故に、事変後の世界も現実味のないファンタジー世界という感じがなく、「もう一つの現実世界」という印象に。「異世界転生して主人公が無双」ではなく「転移によって一瞬で四面楚歌に」という世界を描きたいのかな。
シナリオは、今期のアニメで言えば「ガーリー・エアフォース」にやや近い。未知の脅威(ロボ)に突如奪われる日常と、謎の戦う少女(ロボじゃないよ)と、ロボ。1話は事件を描くので実質2話から本番。1話はかなり早口。
AmazonPrimeVideo独占
退役軍人の再就職。PTSDと戦う女の子と、特殊な警察官のおしごと。制作はライデンフィルム。
魔法少女が魔法少女だけの世界で戦う作品とは違い、コッチは社会と魔法少女が共存してる魔法少女と魔法生物の戦いなので、非常にややこしい。基本的に悪と正義と力の話であり、魔法少女の名を冠するアニメの中ではかなり硬派。魔法少女というより特殊部隊の軍人。今期のアニメの中ではJOJO5部くらいきびしいせかい。まさかの「身内が細切れ」ネタが被るという。全体的に殺戮方法がグロい。
いつも思うけど、若林豪さんのプロデュースする音楽好き(音楽:R・O・N)。かなりハードな戦闘シーンがメインの作品ではあるけど、それと対比される日常パートも含めて音楽がエモい。戦闘はライフルの発砲音がエモい(音響効果:小山恭正)。かなり物騒なアニメなので、毎話ハードな戦闘シーンが続く。
スクエニのスマホアプリ原作。童話をモチーフにした各世界を守るために旅をする冒険活劇。
こういう「よその物語にお邪魔するお話」はいろいろあるけど、最近だと夢100…童話に登場する人たちがメイン キンハ…ディズニーの世界を主人公たちが訪れて友達になる ぱすてるメモリーズ…2次元作品(特にアニメ)の世界に入って異分子を排除 という感じで、本作はぱすメモに近い。だけど、キーアイテムである「運命の書」にある通り、シナリオに沿って人生を歩む(童話の世界の)人と、そうでない人(主人公たち)の対比が描かれているのが印象的だった。ラプラスの悪魔、までは行かないけどアイデンティティを探す旅っていう側面も掘り下げていくのかな。
各童話が異分子によって改変されてしまったため、修正するために奔走するというのが大まかな流れ。単なる改変というより、登場人物たちの心をより掘り下げる方向に改変されている傾向があって面白い。特に1話(赤ずきん)からエモいボス戦。
Gohandsの新作。大阪を舞台にした厨ニ聖杯戦争。新作とはいえ同じスタッフによるオリジナルアニメ「ハンドシェイカー」の続編に相当するので、まずはハンドシェイカー観てね。
この作品に限らず、Gohandsのアニメは独特な雰囲気がある。特にハンドシェイカー、W'zはGohandsみがつよい。魚眼レンズ風の独特なカットを多用(背景はいつものスタジオちゅーりっぷ)、ゆっくりカメラを回すように動かす演出、独特なキャラクターの演技(Gohandsは自前で動画を描いてる事が多い。本作の1話は全部自前)、強めのコントラスト、光の反射、常に流れる雲、特殊効果の使い方、etc。初見だとどこに視点を持っていけばいいのか分からない事がよくある。特に3DCGエフェクトと作画キャラのアクションが入り乱れる戦闘シーンは目が回りそう。
ハンドシェイカーでも独特な雰囲気を出していた音楽に磨きがかかってる(音楽:GOON TRAX)。主人公がDJという設定もあり、全編に渡りJAZZ HIPHOPが流れるMVみたいなアニメに。
あの大人気スポーツ、サークレットバウトに目覚めた高校生が青春するスポ根アニメ。DMMのゲーム原作。
サークレットバウト…MR空間で、変身した女の子が武器を使って戦うスポーツ。作中でMRって言ってるけど、VR+ARという感じ。e-sportsを意識したのかな。超現実的な華やかさを備えつつ、かといって身体的な表現を伴わないゲームでも無く、スポ根モノにおける泥臭くてストイックな練習と距離を置いた、高校生スポーツとe-sportsのいいとこ取りみたいな印象がある。
スポ根モノの王道なストーリーでかつ比較的ゆるめなので、のんびり見よう。
タイトルを要約すると「2次元文化」みたいな感じ。原作はフリューのスマホアプリ。フリューのゲームがアニメ化するのは去年のカリギュラ以来。秋葉原にあるメイド喫茶の店員がコスプレして戦うアニメ。なんでみんなおっぱい大きいの?
今期のグリムノーツに近いシナリオ。おとぎ話の世界を守るお話なのだけれど、登場するおとぎ話が最近のアニメ作品だったりする。最初に登場したのはあのごちうな。正式なコラボではないのでアニメガタリズみたいな感じになってるけど、構図や背景をほぼ完璧にトレスしてて笑った。「あのアニメのシーン、一度でいいから実際に体験してみたかった…!」的な妄想全開のオタクキャラが出てくるあたり、そういう層向けの作品っぽい。
公式サイトとか見ると何故かスチームパンク推しだけど、「甲鉄城のカバネリ」「プリンセス・プリンシパル」と比べるとあんまりスチームパンク要素は無い。コス姿を楽しむのじゃ。
全体的なノリはかなり軽いので気軽に見れる。戦闘パートも「ラストピリオド」のワイズマンみたいな感じ。あそこまで軽くは無いか。
ブシロードのカードゲーム「カードファイト!! ヴァンガード」のスピンオフ。バミューダ△の人魚を主役とした日常アニメ。
凪あすよりも人魚人魚してる世界。描き方も独特で、基本的に普通の地上と同じなのに微妙にこぽこぽしてたりスイーって移動したり、なんか不思議。キャラクターが画面に集まるとき画面全体にキャラが配置されるところも水中ならではの演出っぽいよね。水中でお茶。水中でケーキ。水中でベッド。水中で(ry
何かが起きそうで何も起きない。のんびり見よう。
まるで実写。監督はウルトラマン等実写畑の人で、出演者は2.5次元俳優がメイン。超次元ギャグアニメと見せかけてTVドラマ。
3Dのアニメパートはモーションキャプチャなので、一般的な3Dアニメーションより動きが自由。リップシンクちゃんとしてる。
1期はネトフリ独占だったけど、2期放送のタイミングで各配信サイトが配信を開始。制作は「一切妥協しない制作会社」ことボンズ(他にもIG、京アニ、神風、マッドハウスとか?)。相変わらずOP作画がエグい。
引き続きネトフリ配信。
制作は「メルヘン・メドヘン」でおなじみフッズエンタテインメント。1期の始まった当初は心配だったけど、無事に2期放送開始したようで一安心。
内容はラブストーリー。不器用な二人が何気ないことで傷ついたり傷つけたり、距離が離れたり近づいたり、「ハリネズミのジレンマ」を体現したストーリーになっている。
本当は怖い「あそびあそばせ」。1期に引き続きネトフリ独占配信。制作は「ゾンビランドサガ」でおなじみMAPPA。MAPPAは最近、毎期2作品ずつ放送している上2クール作品も複数作ってるし、相当体力のある会社になってるみたい。
今期は特に2期の作品が多い。「新規に投資できる器がない」「1作品あたりの投資が大きくなった」みたいな事情は一切知らないけど、ファンと一緒に育っていく作品を観られるのは幸せなのかもしれない。
1年前のラインナップでも思ったけど、やはりアマプラ、ネトフリはハードな作品を敢えて選んで配信しているみたい。今期ハードじゃない独占配信作品はピアノの森とドメカノくらい?海外ドラマが好きな人と層がかぶってるのかな。ネトフリ配信作品「HERO MASK」なんかまさに海外の刑事ドラマって感じだし。
1話全部視聴はおすすめしない。ところで私は「宇宙よりも遠い場所」が大好きなんだけど、その根拠は決して「よりもいが面白いアニメだから」だけではなく「BDを揃えた」「何度も何度も見返した」「演出の一つ一つを研究した」「監督のトークイベントで色んな話を聞いた」「極地研に行ってみた」「よりもい関連のニュース記事を見かけた」「思い出して泣いた」「思い出して笑った」「ふと自分の親を思い出した」等、本当に些細で個人的な周辺記憶の一つ一つが、私にとって「よりもい」の価値を規定してたりする。個人的に広く浅く心血を注いでいた去年のアニメシーンでは特定の作品を「些細な周辺記憶の積み重ねによって(よりもいのように)大好きに昇華」するのが非常に難しく、結果として「大好きなアニメ」に出会う機会を逸してしまった感が否めない(好きな作品は爆発的に増えたので、一概に否定することも出来ないけど)。「何度も見返せばよかた」「もっとあのアニメのこと考えながら毎日過ごせばよかった」「ゲームアプリさっさと始めればよかった」「聖地に行けばよかった」「ライブ行けばよかった」等。その一つ一つが自分にとって特定の作品を自分にとってかけがえのないものにし得る可能性だったと思うと、非常にもったいないことをしている気がする。なので(全体的な傾向として)コアファンに支えられがちなメディアであるアニメの楽しみ方は「広く浅く」より「狭く深く」の方を推したい。一人でも多くの人が「大好きなアニメ」に出会えることを祈っている。そういう意味でも、1話全部視聴はおすすめしない。
映画チラ見して当時の物申すみたいな勢いの美醜周りへの批判とか思い出して色々考えたから覚書き
その当時の批判の主流は心の美醜が見た目に繋がるような表現に違和感があるみたいなのでそこに繋がる感じで野獣が王子に戻ったラストに心云々言っといて結局それかよ、美男美女かよだとか野獣の方がかっこいいしとか野獣のままでハッピーエンドでいいじゃん的なのが付いて回っててその時はあんまよくわかねえというか最初の以外はそれ批判以前のただの感想やんけ!(感想は自由)ってなってて(最初の違和感にも違和感があったけどそのままにやってた)それで今改めて考えたのはそもそも美醜で人間を判断してた王子がベルという美しくはあるけどそれに囚われない知性ある女性と心で惹かれ合い醜い心の象徴とするその野獣の姿で愛を成就しなんてざっくり内容からして物語としての教訓は見た目で判断する事の愚かさ真の愛はそこに囚われない(ロマンチック)って事だろうしベルの美しさはディズニーにおいてのプリンセスやヒロインに課せられるメタ的なルッキズム的価値観によるものでも当然あるけれどそれは美女と野獣という作品への批判としては的が外れているように思うしむしろこの作品においては美醜を扱う上でベルが美しいとされ知性や冒険心と並び持つとする事でこそその中からベル自身が何を選び大切にするかの選択が意味を持ち生きてくるように思うから王子の美しさと共に決して物語に必然性のない美貌ではなく魔女のそれにしてもまさにルッキズム的な王子に対する皮肉としてで解ければそこを否定する事になる呪いを与えてるとこからもむしろルッキズムを悪としているようにしか見えなくて批判で言われてた違和感への違和感の正体はそこへの漠然とした何でこの話でそんな事思うんや…というやつだったんだと思う
それはガストンに顕著で元々アニメでヒーロー的な外見でハンサムという設定ではあったけど見ようにはそうでもないキャラクターデザインだったガストンに実写でルークエヴァンスがあてられた事で美しい見た目に美しい心が宿るというようなルッキズムを否定するキャラクターとして野獣との対比もよりはっきりとなってそのハンサムさはベルや野獣の心を引き立てる装置としてやっぱり皮肉的に使われたわけだから作品としてルッキズムに則るのならそれこそシンデレラの最初のアニメ(作品追うごとにそうでなくなっている)のようにガストンがルッキズム的美醜観において醜いか善い人間であるべきで敢えてそうしていないのはそれがメッセージの一旦であるという証拠でもあると思う(すごいぞガストン)
じゃあ何でそんな批判を思うのかとも考えて単純に物語としてじゃなく表現の部分部分に気を取られちゃう形になっちゃったのかなっていうのと後はそういう発想それ自体が単なる美醜じゃなく絶対的で客観的な美がカーストのように存在するというようなルッキズム的前提でもって無意識にでも恣意的になされているのじゃないかって事で冒頭で野獣のかっこよさを示す事を批判以前の感想としたのは王子という美しい存在に対する醜いとされる野獣という構図の上で野獣の見目を讃えて"美"であるとする事だけではただの作中における美醜の定義への抗議またはむしろ逆に作品がルッキズム的であるという批判内容を否定する(野獣を客観的に美しいとするのは作中の醜いという定義は外見を指すものではないもしくはキャラクターの主観を越えるものではないとする事で作品として見た目に心を比例させているという批判は当て嵌まらなくなるように思う)もので美を是とするルッキズム的であるという前提に立った批判として体を為してないのではないのかと思ったからだけどもでもそれが野獣をかっこいいとする価値観はルッキズム的な本来の(あるとしている)美醜観に沿うものではないのでそこ自体への反発の提示が批判の一旦になるのだという発想の元されたと考えれば批判としてはそこの意味に限るなら理解できるしまた野獣の姿を醜いと定義するそれこそをルッキズム的だという意味でのまずそこからの違和感であるならとも思うけど批判とやってそこに客観性を持ち出すのであれば野獣をルッキズム的美醜観による被害者であるとするのはその見た目を作品内での単なる主観的文化的役割としてでなくルッキズム的な定義によって作品を越えたとこで醜いとやっているわけで本来ルッキズム的美醜と美醜はイコールではなく真理として絶対的な美を定義するものでもないのに作品内での美醜についての価値観を語るのにわざわざそれを作品へ持ち込み批判材料としたのはその当人がそこにルッキズム的基準における美醜を見たからに違いなく美女と野獣はルッキズム的価値観において野獣を醜いものとしている、という批判はそういう事ではないのかという話で
それらは全部今回自分で当時を思っての単なる仮定であるんだけどそんな批判を挙げたのと同じ層からその後シェイプオブウォーターを美女と野獣のアンチテーゼだとする意見が出て(監督は否定してた)明らかにそれが"彼"をルッキズム的弱者とする前提の上で敢えて美しさと定義しているとやって監督がただ美しいと思うものを美しいと描いているというようなルッキズムとはまさに反対にある主観的美醜観という視点が丸々端から欠如した美しいものをそう描く作品とそうでないものを美しいとする価値観で描く対比の構図と捉えたものだった事を思うとあながち間違いでもないように見えるし(客観的な美しさを定義するとしているルッキズムに美しさは一概には定義できず個人的宗教的文化的なものであるという主観的美醜観で対するのならアンチテーゼとし得るけどそういう論理での批判は自分は見かけなかった)美女と野獣のラストを美醜に重点を置き"結局それかよ"と受け取るのも"見目の美しさは心の美しさに比例する"と判断するその過程でその醜さを作品における主観的な域のものでないとするまたそれを見出すのに野獣という存在が含む要素やその世界での立ち位置でなく外見のみに焦点を絞るその視点も(実際フランス版では王子の外見的な美醜より傲慢さが醜さの象徴としてフィーチャーされている)見た目が重要だとするルッキズム的価値観に左右されてのものにも思えるし王子の姿にしても野獣の姿からの解放は作品で醜い心を象徴すると定義されている以上心の変化を客観的に証明するためのもので言うなれば愛の象徴であって(野獣の姿はベルに真の愛が満たされていない事を示す)外見なんて関係ないのならそれこそ望まれるものであるはずなのにそこを否定するのは"王子の美しさ"という見た目に囚われその他の要素より重要視している事に他ならないのだしそれはまさにルッキズム的価値観に則ってまずわざわざ美醜を選り分けてそこからそれらを"美しいもの""醜いもの"という絶対的な前提において肯定否定する事がルッキズムの批判になるというような無意識のルッキズムというかそれは言うなら
美しいか醜いかなんて誰が決めたの?ルッキズムなんて!見た目で判断とか最悪!
というのに次いでの
という言い様で○○ちゃんと○○ちゃんを普通にかわいいと思う人間の美的感覚をルッキズム的基準でそうでないぞと正面から否定しカースト内の位置を告げるみたいなものでシェイプオブウォーターにおけるそれは
××くん○○ちゃんのこと好きなの?見た目じゃなく中身で見るんだね!いい事だよ!
もしくは
××くん"には"○○ちゃんがかわいいんだね!素晴らしいことだよ!
というようなやつでその上で自分は美醜で人を判断しない公平な人間だと主張するような話でそれは批判として果たしてというかルッキズムへの批判のためにはルッキズム的価値観においての美醜を踏襲しなきゃいけないというパラドックスを思ってなのか(そんな必要には特にない)それこそ考えれば考えるほど違和感でいっぱいになるという話で
要はルッキズムとか言ってないでふたりとも愛を見つけてその証に野獣は呪いがとけてハッピーエンド万々歳やんけ!でいいと思ったという話