はてなキーワード: 分水嶺とは
美術手帖で連載中の「シリーズ:これからの美術館を考える」の第6回、横山由季子(金沢21世紀美術館学芸員)による「シリーズ:これからの美術館を考える(6) ブロックバスター展は善か、悪か|MAGAZINE | 美術手帖」。一読して何が言いたいのか理解し難かったが、それもそのはず、書いている本人が考えがまとまらないと言っているのだった。
まとまらない考え、逡巡をそのまま書いてしまいましたが、現状を共有することで、今後の共催展、ブロックバスター展について考えるきっかけになれば幸いです。
「考えまとめてから話せ、バカ」で済む話ではあるけど、一部好意的に受け止められている様子もあり、少しこだわってみたい。
まず、かなり気に食わないことの一つに、ブロックバスター展について「善か、悪か」と問うている点がある。「善悪」というのは倫理道徳的な価値判断であり、展覧会の評価をするにあたってはなじまない言葉である。「是非」でよかったはずだ。にもかかわらず、横山は敢えて「善悪」という強い言葉を用いた。その理由は推測することも可能だが、不要だから止めておく。ただ、私自身は「善か、悪か」という問いに答える気にはならないし、また応じて「ブロックバスター展は悪だ」と言っている人がいたら異様だと思う。些末な問題ではある。しかし、筆者の立ち位置や考え方が無意識に出ているように見受けられる所、注意を要する点である。
次。筆者はタイトルで「ブロックバスター展は」と議論の対象を提示する。そして文中で「ブロックバスター展」の定義を明確に行う。ここまではまったく素晴らしい。だが、なぜか横山は文中でブロックバスター展以外についても語り出してしまう。こんなわずか短い文章にもかかわらず、その対象を固定することすらできない。大丈夫なのか、この人?
実際に対象になっているのはブロックバスター展と共催展である。前者も後者の一部だが、このうち60~70万人ほどを動員したものを指すと定義している。もちろんそれ以上動員した場合も含まれるのだろう。また、共催展以外でこの規模の動員は不可能と考えられる。すなわち、60万人以上の動員を記録した展覧会はブロックバスター展だと言っていい。明確だ。
共催展のなかでも、とりわけ規模が大きく大量動員が見込まれるものは「ブロックバスター展」と呼ばれる。ブロックバスター展の基準について100万人以上の動員としている記述もあるが、近年ではさすがにそこまでの来場者を集めた例はないので、ここでは60〜70万人規模の展覧会ととらえることにしたい。広報会議でメディアの担当者と話していても、60万人あたりがひとつの分水嶺になっているような感覚がある。
共催展一般が共通するものであるならば、わざわざ分ける必要はない。だが、60万を越える規模になると、単に量の違いではなく、質の差が出るようだ。「60万人あたりがひとつの分水嶺になっているような感覚」というのはそういうことだろう。ならば、「ブロックバスター展」と呼び分けることに意味が出るわけだ。
しかし、結局筆者が俎上に乗せるのは共催展一般であって、ブロックバスター展特有の問題についての指摘はわずかしかない。筆者は読者にブロックバスター展のみに絞って考えて欲しいのか、それを含めた共催展一般について考えて欲しいのか不明である。というよりも、筆者自身の中で、その程度のことすら整理できていないのではないかと思われる。
そんな筆者横山が共催展やブロックバスター展の「現状」についてどのように認識しているか、批判的に捉えているか、文章を引用しつつ細かく見ていこう。
ブロックバスター展はその華やかな話題性によって、普段は美術館に足を運ばないような人が展覧会を訪れるきっかけをつくり、美術の裾野を広げているという側面もある。そのいっぽうで、やはり集客のために打ち出される広報の数々は「イベント」としての側面を強調するものであり、一過性の消費で終わってしまうのではないかという危惧がつきまとう。
一過性の消費の何が悪いのかさっぱり分からん。人生は短い割に、世界はあまりにも豊かだ。誰しもが、美術とがっぷり四つに組んでいる暇があるわけではない。すべてのことに入れ込むことはできないわけだ。学芸員と成るほど美術に真剣に取り組んでる横山も、例えば音楽とか、芝居とか、映画とか、ほかのジャンルに関しては一過性の消費で済ませていたりするわけでしょ? 美術に対してそういう態度をとる人たちを批判する権利なんかないわな。
ブロックバスター展やそれに準ずる共催展に足を運ぶ人の多くは、作品を見に来ているのね。有名作に心踊り、傑作に胸を打たれに来てる。学術性とか、正直無くても構わないとすら思っている。
最近ではメディア側も展覧会事業にこれまでになく採算性を求める傾向にあり、10万人を動員する小規模の企画を年に何本も実施するよりも、大量動員が見込めるブロックバスター展を1本開いたほうが、労力的にも資金的にも報われるという事情もあるだろう。
共催展の数を減らして、ブロックバスター展に集約していると読めるけど、事実なのか?
当たり前なのでは。
ここで、そこまでの費用をかけてまで、海外の作品を借りてくる必要があるのかという問いが生じるだろう。国内の美術館にも豊かなコレクションがあり、それだけでも十分に展覧会は成り立つ。実際に、近年では国内の所蔵品を中心に見ごたえのある展覧会が多く企画されている。
ブロックバスター展や美術館展など、学術性の低い展覧会を批判する人って、だいたい欧米によく行っていて、そこで十分に作品を見ている人なんだよね。だから、そういった展覧会が名作や有名作を持ってきているということ自体に意味を見いだせないわけだ。でも例えば、今後10年間、海外所蔵の作品を見ることを一切禁じるって言われたら、我慢できるの? できないでしょ。できないなら「国内の美術館にも豊かなコレクションがあり」とか言って欲しくないよね。子供や仕事で忙しい人、貧乏人、障害者、老人。誰しもが気軽に海外に行けるわけではない。そういうところにブロックバスター展の意味の一つがあると思うんだよな。弱者に優しいという点を鑑みれば、筆者の問いかけに「ブロックバスター展は善である」と答えることも可能かもしれない。
共催展の広報において差し迫った課題は、いかにして若者に展覧会に足を運んでもらうかということである。とりわけブロックバスター展を支えているのは、バブル期以降の大型展に足を運んできた50代以上の世代であり、メディア側も確実な集客を見込んで、この年齢層に的を絞った広報戦略を立てることが多い。しかしながら、このような目先の集客ばかりを求める広報が続くようであれば、美術館や展覧会の未来はそう長くはないであろう。
若者じゃないから分からないけど、どっちかというとやはりブロックバスター展の方が若者にリーチしていて、それより規模の小さい共催展に問題がある気がするけどなあ。今なら例えばフェルメール展とルーベンス展。
近代美術の延長線上に現代美術を位置づけ、両者を結びつける作業は、やはり美術館が担うべきものである。そして、村上隆や草間彌生などの知名度と人気を誇るごく一部の作家を除いて、メディアが現代美術展に出資することは考えにくい。美術館が主導して近代美術と現代美術をつなぐ展覧会を企画したり、現代美術を一般へと浸透させる持続的なプログラムを行うための体制づくりや予算が求められる。
これはブロックバスター展や共催展の問題じゃないよね。美術館や学芸員が怠けていたからこういう状況になったんじゃないの? 「国内の美術館にも豊かなコレクションがあり、それだけでも十分に展覧会は成り立つ」んでしょ。美術館主催で粛々とやってればいいのでは。
数十万人の来場者を想定したブロックバスター展の場合、あまり大胆な切り口を提示することは難しく、個展であれば年代や主題ごとに画業をたどるようなオーソドックスな構成となりがちだ。先行研究や調査をふまえた新たな視点を、カタログの論文や作品解説のなかで示すことはできても、展覧会の構成全体に反映するにはいくつものハードルがある。とりわけオルセー美術館やルーヴル美術館からまとめて作品を借りる場合は、これらの美術館の学芸員が監修を務めることが多く、そのことによって企画の自由度が低くなるという側面もあるだろう。
そういう学術性は不要なんだって。単にいい作品を持ってくればいいの。学術性を発揮したいのであれば美術館主催の展示でやればいい。それでは自分の能力が十分に生かされないと感じるなら本場の美術館に就職してください。あと、日本の学芸員よりオルセーやルーヴルの学芸員の方が信用できるから、その場合は口出さなくていいよ。
オルセー美術館には各所蔵作家の膨大な資料が集められており(ルノワールだけでざっと50箱以上はあり、フランス語だけでなく、英語、イタリア語、ドイツ語、スペイン語、そして日本語や中国語、韓国語の資料も網羅されている)、それを日々リアルタイムで更新していくドキュメンタリストたちがいる。学芸員は彼らの協力を得て調査研究に勤しみ、その成果が展覧会に反映される。この蓄積こそが、オルセー美術館の、さらには今日における世界的なフランス近代美術の人気の礎なのである。これは一朝一夕に実現されるものではなく、長期的な視点に基づいた、たゆまぬ歴史化の作業の賜物といえよう。
日本がフランス絵画についてオルセーと張り合う必要なんかないよ。自国の美術の研究環境が貧弱なこと(いろいろ話を聞くに相応の事実だろう)については悲しむべきことだけど、西洋美術は基本的に横のものを縦にしてればいい。もちろん立派な研究をなしとげれば敬意を表するが、俺達のブロックバスター展を研究発表の場として利用してくれるな。
私はブロックバスター展やそれに準ずる規模の共催展を楽しんでいるのだ。それを学芸員風情の浅薄な考えや安っぽい使命感によってぶち壊さないで欲しい。日本に居ながらにして傑作や有名作を鑑賞することができる。これだけでブロックバスター展は素晴らしいものなんだ。ということを学芸員や玄人気取りに理解してもらいたいのだが、なかなか難しいのかもしれない。
いやいや...デスクPCよりノートPC日常的に使うんなら、それでゲームするのは当然。
ゲーム機単体に何万も出したくない層で、それでもゲームはやりたいなって人が増えてきたんでしょ。
良いことだよゲーム人口増えるんだから。裾野が広がったんだよ。無意味に敷居を上げようとするなや。
デスクPCよりノートで出来ることが増えた結果デスクPCの意義が減った。
満足できない人向けにゲーミングPCとかいう名で、言ってしまえば情弱向けのモデル出して、知名度も出た。(もともと出来る人は自作とか色々選択肢あるので)
スペック不足で本人が困るだけならそれでゲーミングPC等買う分水嶺になる。
スペック不足でオンラインゲームなどで他人に迷惑かかる場合あるけど、あれはゲームのデザインが悪い、本人が悪いのではないよ。
を読んでの感想。詳しくは書かないが元記事に書かれている通り、この人はある程度火付け役を担ったというか、でも言いたいことはそういうことではなくて、そういう人がどのようにあのY社エンジニアの記事を読んだのか。そういうことがわかる解説記事なので、ありがたく読み、感想文を書く。
私がこの記事を書く動機は、私にはあのY氏の記事を何度読んでも差別発言をしているとは思えなかったので、どこがどう差別的であったか、他人の意見を知りたいと思っているからだ。これはその感想文、または反論である。ちなみに以前にも記事を書いている。
以下登場人物を、
・私のことを、私
と書く。
またこちらは匿名なので、フェアではないことを明記しておく。フェアではないので別に元記事筆者は私の反論に対するアンサーを (してくれると嬉しいが) する必要は一切ない。
長文注意。2記事に分割している。
先に私の考えを書いておく。
・Y氏は差別発言をしていない
・「男性は女性がいるとやる気があがる」が、「女性は男性のやる気を上げるために存在する」に拡大解釈/誤解された
・Y氏のロジックは炎上の危うさを孕んでいることに本人が気づき、やめるべきだった
・Y氏のソリューション自体にはなんら倫理的/差別的問題はない
まず、この章について言及する。
元記事では、「不必要なラベリング」をしたことが問題だと主張している。該当部分を引用する。
特定の集団に対して不必要にラベリングすることは、差別とみなされる場合があります。性別のような、人間が努力によって変えることができない事柄はその代表例であり、本件のように、性別に基づいて、その性向をラベリングすることは、差別であるというのが私の考えです。
たしかに不必要なラベリングは差別とみなされることがある。ただ、ここでいう「不必要なラベリング」が具体的にY氏の記事のどの部分を指しているのか明記されていないのでなんとも言えない。
Y氏が「女性エンジニア」と冠に「女性」をつけたのは、「女性エンジニアが少ない」というまえがきがあるので文脈上必要なラベリングだと思うし、ソリューションのメリットに男性・女性別のメリットを挙げるために性別のラベリングをするところも流れ的には自然だと思う。元記事筆者はどこが不必要なラベリングだと思ったのだろうか。
もしも、そもそも「女性エンジニアを増やそう」というテーマが不必要という主張であるならば同意する。必要なのは優秀なエンジニアが増えることであって、そこに 男性女性のラベリングは不必要だと思う。
まず、女性エンジニアは、男性エンジニアのやる気を出すために存在しているわけではありません。エンジニアとしての職務を全うするために存在しています。
「女性エンジニアはエンジニアとしての職務を全うするために存在している」という部分は完全に同意する。
ただ、やはり元記事筆者も誤読をしているのだが、Y氏の記事では「男性は女性がいるとやる気があがる」とは言っているが、「女性は男性のやる気を上げるために存在する」とは言っていない。
ここはY氏が差別発言をしたかどうかの分水嶺なので、はっきりと明言しておく。
また、全ての女性エンジニアが、女子トークができないことを問題としているわけではありません。さらに、男性側についてもラベリングが行われています。すべての男性エンジニアは、女性エンジニアが少ないことによっていいところを見せたいというやる気がでない、というわけではありません。
つまり元記事筆者によれば「全ての女性エンジニアが女子トークができないことを問題としているわけではないのにも関わらず、Y氏はそのように言ったことが問題」、「すべての男性エンジニアは、女性エンジニアが少ないことによって『いいところを見せたい』というやる気が出ないわけではないにも関わらず、Y氏はそのように言ったことが問題」ということだろうか。
仮にY氏がそう主張したとしても、Y氏の論理(あるいは仮説)が明らかにおかしいだけで、差別発言ではないと思う。
あとそもそもなのだが、元記事では「全ての女性エンジニア」、「すべての男性エンジニア」と冠に 「全て」 が付いているが、Y氏の記事では「全て」とは書いていない。
そして、これによって生じる問題は、男性エンジニアにとっては、「いいところを見せたい」というやる気が出ない。そして、女性エンジニアにとっては、女子トークができない。これは非常に重要な課題だと思います。
ここを「全て」と捉えるのは誤読で、「ある一定の割合の話をしている」と捉えるのが普通ではないのか。(それとも解釈の分かれ目なのだろうか?)
Y氏が「全て」というバカデカ主語を使っている部分はこれより少し前で、該当する部分を引用すると、
エンジニア全員が抱えるもっとも重要な課題を解決して、「機械学習はすごいな」っていうのを体験していただければなと思います。
これは言うまでもないですね。まあ、全員抱えてますね。
(会場笑)
この部分のみである。ツッコミどころはむしろここで、「全てのエンジニアはそんなこと思ってねーよ」なのだが、この部分をツッコんでいるTwitterのアカウントは(私の知る限り)一人も観測していない。
もしかしたら、この部分のバカデカ主語が引っ張られて、後の部分でも「全員」という冠が付いているように 元記事筆者は誤読してしまったのではないだろうか。
仮に「全て」が付いたとしても、「【全ての】女性エンジニアが、女子トークができないことを問題としている」、「【全ての】男性エンジニアは、女性エンジニアが少ないことによって『いいところを見せたい』というやる気が出ない」という命題が偽なのは自明であり、自明であるので「ああ前振りネタか」とスルーすると思うのだが、そうは捉えない人もいるということだろうか。
なぜ自明なのか一応説明すると、「すべてのカラスは黒い」と同じ理由だ。上の命題が真であるかを全人類にひとりひとり聞いてまわれば、反例がすぐに見つかることは想像に難くないからである。
ネタ部分が差別的な場合、「ネタだろうと差別は許されない」というのは正しい。この部分は後述の「ただのネタに大げさでは?」で言及する。
「ある一定の割合の話をしている」について補足すると、世の中には女子トークがしたいと考えている女性エンジニアがいるかもしれないし(観測したこと無いが、どこかにいるかもしれないし、そのような女性エンジニアとしてのあり方を否定する訳もない)、女性エンジニアがいることで男性エンジニアがやる気を出すという部分は、まさにある一定の割合の男性に当てはまる話だと思う。
ここで私が強く主張したいのは、そのような男性は別に女性差別をしていないということだ。異性を意識して仕事に取り組む姿勢を変える(やる気を出す)というのは別に差別でも何でも無いはずだ。もしここで、「俺のやる気を出すために、女性らしい格好をしてこいよ」となれば、それは女性エンジニアにエンジニアとしてではなく女性性を要請していることになるので、女性差別にあたる。しかしY氏は、そこまでは明らかに言及していない(触れてもいない)。「女性がそばにいると、やる気出ちゃうんすよね」は女性差別だろうか。女性性を意識することは女性差別だろうか。女性エンジニアに女性性を要請していないくても女性差別なのか。これはただの女性好きの話ではないのか。この部分は、後述の「女だってイケメンがいいって言ってるだろ!そちらも同様に批判しないのは差別だ!」と関連する。
「行った(言った)側の意図は関係がありません」という所には反論の余地ありだが、引用部分は概ね同意。
ネタだから差別的な発言は許される、というの考え方は間違っている。
相手の悪口を言った後で、「ジョークじゃん。何怒ってんの?」と言うやつが通用しないのがその典型だ。
しかし、私はそもそもY氏は差別発言をしていないと思っている。
まず、全員がそうとは限りません。少なくとも私の周囲では、同意しない人は何人もいました。もちろん、女性がいたほうがやる気が出ると答えた人もいます。そういう考え自体は個人の自由なので否定するつもりはありません。いずれにせよ、事実とは断定できません。
「 もちろん、女性がいたほうがやる気が出ると答えた人もいます。そういう考え自体は個人の自由なので否定するつもりはありません。 」
この考え方を許容して、なぜY氏の考えを否定するのか理解に苦しむ。Y氏の主張がまさに「女性がいるとやる気が出る」という話ではないか。
あと、「全員がそうとは限らない」とあるが、これも自明だと思うのだが、やはりこのへん、解釈が分かれるのか。私からしてみれば「ある一定の話をしている」のは自明である。
本件のような発言を耳にした場合、どのように捉えるかは人それぞれです。ある女性に話を聞いたところ、「男性が『女性がいるとやる気が出る』と言ってくれると、自分もやる気がでる」という女性もいるとのことでした。一方で、このような発言を聞くと、自分が性の対象として見られている可能性があると感じて不快である、という人もいました。
感情的にどう捉えるかという話ももちろん重要ですが、本件ではこちらはひとまず横に置いておき、性別によるラベリングに起因する性差別の話にのみフォーカスします。
性別でラベリングすることは、快か不快か関係なく、性差別性を孕んでいる(可能性がある)という話か。なるほど。
https://news.mynavi.jp/article/20150810-a094/
この部分には同意。
ここでいう「女だってイケメンが~」の「女」は『「職場にイケメンが必要」と回答した女性』のことを指しており、決して「女性全体」のことを指していない。
要は割合の話である。誰も全員なんて言ってないのだが、そう主語がでかく捉えられてしまっているのが問題だ。
また、上記記事で「職場にイケメンが必要」と回答した女性は性差別かどうか、ということに元記事筆者は回答していない。ここは重要な点だ。今からなぜ重要なのか説明する。
続いて、会社にイケメンがいることで、社内にどのような影響があるか調べたところ、約半数が「仕事へのモチベーションが上がる(49.8%)」と回答した。次いで「社内のコミュニケーションが活発になる(21.2%)」と続き、イケメンは社内を活気づける存在となっていることがわかった。
と書いてある。つまり、アンケート結果として約半数が「イケメンがいると仕事のモチベーションが上がる」と回答しているのである。この回答者は果たして性差別的回答をしたのだろうか。Y氏も「女性がいるとやる気が上がる」と主張した。このY氏の主張が性差別発言ならば、このアンケートに回答した女性たちも同様に性差別回答をしたことになる。
また、Y氏の「女性がいるとやる気が上がる」が、「男性は女性をやる気を出すための存在としてみている」に換言可能ならば、「イケメンがいると仕事のモチベーションが上がる」は「女性はイケメンを仕事のモチベーションを上げるための存在として見ている」に換言可能なはずだ。 元記事筆者は「換言可能だ」と主張はしていないが、少なくともそう解釈はしている。
よって、Y氏が差別的発言をしたと主張するならば、上記記事の女性も差別的回答をしたことになるのだが、それでよいのだろうか。
RubyKaigiは門外漢なので知らない。 リンク先は個人の記録なので、 どういう文脈で「台湾の女の子はKawaii、だからRubyKaigi Taiwanに来るべき」と発言されたのかを、事実ベースで確認することは不可能なので多くは言わない。だが、うかつな発言だと思う。
また、「この程度のこと、今までいろんな人が普通に言っていたのでは?」という擁護危うい。「この程度大丈夫」と思っていても、抑圧されている側が声を上げていないだけで、実は逆鱗に触れていてある日爆発する、というのはよく聞く話である。
ここに書いてあることは概ね同意。つまり、新卒だからと言って、差別的発言は許されないということだ(何度も言うが、 私はそもそもY氏は差別的発言はしていないと思うが)。ただ、情状酌量の余地はあると思う。
もし、「新卒」というラベルがない人が発言したときに態度を変えるのだとしたら、それは明確に年齢や属性で差別していることになります。
この主張は、少し手厳しすぎると感じる。新卒かどうかで態度を変えるのは普通の出来事だと思うのだが、どうだろう。まあ、第三者に向けての発表は、第三者からしてみれば新卒だろうがベテランだろうが関係ないという意味で書かれたのかもしれない。
私からしてみれば、年齢で相手に対する態度を変えるのは当然だと思う。どういうことかと言うと、「若いのにしっかりしているな」とか「おっさんなのに新しいことに挑戦してすごい」とかそのへんの態度の変化のことである。これを差別と言われれば差別かもしれないが、差別呼ばわりされるのは納得いかない。
この章では、無意識のバイアス、ダイバーシティ、AIの差別と機械学習エンジニアの倫理観の説明がされている。
GoogleやMSが無意識のバイアスについての研修を無償で公開しているのか、知らなかった。なるほど、ありがとう。
できれば、Y氏の発言を具体的に取り上げ、どこが無意識のバイアスがかかっていて、どう差別的だったのかを指摘してくれれば、理解が進むので助かる。
重箱の隅をつつく指摘をするが、正確を期すために書いておくと、Y氏は「機械学習エンジニア」……(一つのアプリを作った時点でそう名乗って良い)と言えばそうなのだが、本業はそうではない。
http://www.yomiuri.co.jp/national/20180626-OYT1T50065.html
正月とか新年度とか誕生日みたいな節目が来るたびに、あぁ、今年も人を殺めなくて済んだ、と胸を撫で下ろしてる。
都内のまあまあみんなが知ってる大学の文学部を出てから、ほとんどホームレスみたいな生活してた。暴力沙汰も一度や二度ではない。今日も職場で、この低能が、と心の中で毒づいてた。
それでも今では(職場では虐げられながらも)誰もが知ってるようなところで働いて、(裕福ではないながらも)そこそこの賃金を頂いて、家に帰れば(うるさいけれど)気立てのいいカミさんと(ワガママばかりだけど)かわいい子どもが待ってる。
優生保護法メソッドのその後の展開の話まで踏まえて言ってんのか?
結果遺伝的疾患のアレやコレは出生前診断にその機能を代替させるに至るわけだが、
その出生前診断で「遺伝的な疾患がある」と認められた場合にその親は98パーの人間が堕胎を選択するんやぞ。
つまりは、優生保護法メソッドは責任の分水嶺を親に委譲したに過ぎず未だに運用されていると見ることも可能なわけよ。
(もっとも、それでも生まれた2%の子供が重要なのではあるが)
障害であるかそうでないかのラべリングをすることで98%の個体が死ぬわけ。
個性ってのはそれこそホモからゲイまでダイバーシティを持つことが本来正しいのだから、障害って単一のラべリングすんのはそもそも間違ってんのよ。
だが、妊娠して妊娠糖尿病になって、全てが変わった。生まれて初めて真剣に食事制限に取り組んだ。
外食が多めだった食事から、外食を一切やめて家でカロリー計算をした食事を毎食作って摂るようになった。
子供は順調に大きくなっているが、体重は横ばいで血糖値の経過も悪くなく、医者からは褒められた。
だが、確実に食についてのストレスは溜まっていった。そして分水嶺を越えてしまった。
今は時々、血糖値の測定に響かないようなタイミングでお菓子などを食べてしまう。
それだけではなく、食後の血糖値が70前半で低血糖ギリギリだったということを言い訳にして、追加で食べてしまう。
食い意地の汚さは治ってはいなかったのだ。
食い物の恨みは恐ろしいというが、食い意地の汚さもまた恐ろしい。
彼らが童貞をいじる理由は「童貞をいじることはリベラル的」という信奉があるからこそなんだろうね。
(というか世の中、自分はリベラルだと思いたくない人間なんてあんまいない)
すなわち
過去にはリベラル的だと持ち上げられた価値観が、時代を経て経年劣化しれむしろ保守的になる…なんてよくある話だ。
現代の時代に合ったリベラル観では、以下のようになるべきなのです。
これらを受け入れられるか否かが、最新のリベラルを名乗れるかどうかの分水嶺と言えましょう。
自分が保守的な存在になってることも気づかずに、俺はリベラルだ俺はリベラルだと言う妄想に浸って
童貞いじりを繰り返す旧世代リベラルな輩は本当に恥ずかしいとしか言いようがない。
ここれへんが「童貞くさい」という「実際に童貞か否かはカンケイなく、精神的に童貞なことを問題にしている」
だからタイトルのような批判を食らわされても、男オタクとしては
「いやいや女オタクのみなさんだって女にとって都合の良い二次元イケメンに夢中ですやん?」
と言う返しが容易になってしまった。
そんで当のオタク女も、「二次元美少女?別にいいんじゃね?あたいらは二次元イケメンを消費するだけだわさ!」
と開き直る手合が増えた。
ここら辺、10年くらい前に猛威を振るわせていたオタク批判界隈レベルで思考が止まってる手合が戸惑いを感じている理由だと思う。
これを考慮に入れてオタク批判できるかどうかが、時代のアップデートに対応できているかどうかの分水嶺と言えるのではなかろうか。
今日は枝野さんが2時間というとんでもない長い質疑時間を持っているので、楽しみ半分、時間を稼がれてしまうことへの悔しさ半分といったところですが、午前中の山尾さんからもうぐちゃぐちゃ。どう考えてもこの「一般の人は捜査の対象とならない」が答弁がぐちゃぐちゃになってる原因なので、最低限そこは認めたうえで、必要性を正面から言えよってんですよ、安倍さんはほんとに卑怯なんだよ。マジで腹立つ。
まずは捜査の定義から、たとえば告発なりがあって、嫌疑があるかどうかを調べるために、警察活動として、検討(by 金田)・調査(by 盛山)の手段として、尾行や張り込み、聞き込みは合法かどうかをまずは金田さんに聞き、金田さんが無理だということで、武士の情けで刑事局長に質問する山尾さん。
林局長
「”嫌疑の嫌疑”という言葉は、直接理解できませんが、嫌疑の前の段階で、尾行による捜査ということであれば、まだ捜査が開始されてないので、できないということ」
山尾
「捜査が始まる前の警察が行う尾行は、100%違法ですか。そういうことですか。」
林局長
「刑事訴訟法上の捜査ということで、尾行ということも任意捜査となると思いますが、その尾行も、犯罪があると思料したとき、その嫌疑が生じた、でたとされなければ、任意捜査もできないということ」
山尾
「大事なことですが、私はここで、強制捜査、任意捜査を区別していません。その上で、一切警察が、嫌疑が生じる前に、これまで尾行を行ったことがあるとすると、これはすべて違法だということですか」
林
「捜査は犯人を特定し、証拠を収集する活動でございます。そういったものとして、任意、尾行捜査をするということは、犯罪の嫌疑がないのにそういった捜査をすることはできない。」
山尾
「質問に直接は答えたないが、嫌疑が固まる前に、告発があって、嫌疑があると確定できない段階で、警察が尾行を行うとしたら、これまでありえた場合も含めて、まったくすべて違法ということですか。」
同じ質問、応答のやりとりが繰り返される
林
「捜査、とういうことでお答えしているが、嫌疑かないのに、捜査を行うことはできない、ということです。」
山尾
「刑事局長に聞けというから聞いてるんだからちゃんと質問を聞いてください、捜査としてではない、といっている、嫌疑が固まる前の検討・調査について伺っているとわかるように定義からやっている。捜査としての話は聞いていない。話をかみ合わせられないならでてこないで欲しい。嫌疑が固まる前にもいろいろな目的があるだろうが、尾行等をすることは100%違法なんですか」
林
「ご質問の前提で、捜査であるとのご質問でしたので、私答えました(山尾:聞いてないよ!)、その上で、捜査でない尾行は許されるのか、ということですが、捜査でない尾行というものがどういうものなのかが特定されない限り、私としてはお答えすることができない(Aのうち、BでないAは存在するのかについて答えろっつってんだよハゲ)
山尾
「私は捜査としての尾行について聞いてないと何回繰り返したんですか。時間を無駄にしないでください。捜査でない尾行が可能かどうかは個別具体的な事情によると、そういうことですか」
林
「警察活動の中での、たとえば行政警察活動の中での尾行が違法かどうかを答えるためには、それが、個別にどういう目的によるものかを知らないと答えることが困難だし、行政警察活動はどの程度許されるのかは、刑事局長としての私の所管外の問題なのでお答えすることは困難だ。同じ尾行でも、ある人を保護するために行っているもののように、それはまったく評価というものが異なるわけで、私が言えるのは刑事訴訟法上の捜査としては嫌疑の前の段階で行うことはできない、ということだけでございます」(なかなかうまい逃げ口上)
山尾
「刑事局長が答えられないなら、誰が答えてくれるのか。議論が進まない。私は、捜査としての尾行については聞いていないし、どの程度許されるかについても聞いていない。捜査ではない尾行はありえるんですか、と聞いている。三役でもいいが、捜査ではない尾行というものが、合法的にありえるのかどうか、誰かお答えいただけますか。」
「大変恐縮ですが、警察は是非公安のほうに聞いていただければと思います。我々は所管外でございます。」
山尾
「捜査手法が問題になっているのに、一般市民は捜査の対象にならないとおっしゃっているが、この法務委員会で、捜査の定義、捜査の前の段階での調査・検討は何なんだと聞かれて、誰も答えられる人がいないのに、”一般の人は捜査の対象にならない”と主張するんですか。私は捜査の対象にはならないが、調査・検討の対象になるというのであれば、捜査と調査・検討の分水嶺がどこなのかを明らかにしないと、一般市民が捜査の対象にならないということがわからないからこういうことを申し上げている。もう一度伺うが、一つの手法として、誰でも尾行されるのは嫌ですが、社会の安全のために、常識の範囲内で行うとして、それは100%違法なのか、それとも社会の安全のために許される場合がありえるのか、誰でも良いです。お答えください。」
林
「告発を受けて被疑者としての嫌疑が生じる前の段階、調査とか検討とかその段階、それが尾行が許されるのかといわれましても、尾行の捜査、犯人を特定するための尾行の捜査は許されないわけであります。今回被疑者段階で、嫌疑がない段階(いや被疑者は嫌疑がかかった人だろ、がんばれ)で告発の対照となった場合、どのように事件を処理するのかといわれれば、それは被告発人を被疑者として捜査開始するのではなくて、たとえば告発人から告発の事情、疎明資料、要求して、なにゆえに人を告発するのか、これを調査、あるいは検討といってもいいですが、いたしますよね、そういったことによって嫌疑が生ずるか、調べるわけです。それ以外に尾行等を捜査以外でするかということですが、被疑者となるかどうかを調べる際に、あらゆる手段、たとえば尾行という手段を通じた場合に、それが違法かどうかと問われましても、どのような目的で警察が尾行するかがわからないと確定できない。」
山尾
「今のでわかりました。今のお答えは、捜査としての尾行はありえない、告発人から、事情を聞く、疎明資料を集める、そのほかに尾行等をするかどうかは一概には言えないということでしたね、土屋理事も大きくうなずいていらっしゃいます(階さん、枝野さんには謝ったのかな?)。これはそうなんだろうと思いますよ、違うとおっしゃるのであれば、捜査以外の尾行は100%違法である真央とお答えになれば良いですけども、何度聞いてもそうはお答えにならない。どうきいても、捜査以外の尾行は、目的によりけり、一概には言えないということですね。時間がないですが、張り込み、聞き込みについてはどういう風にお考えですか。
「えー先ほど刑事局長から答弁したとおり、警察活動の具体的内容、どのような目的でなされるかは、法務大臣の所管を超えているので、お答えする立場ではないのでお答えできない。」
山尾
「刑事局長もあそこまでは、答弁されたので、お答えする立場だと思いますよ。(繰り返し質問)」
林
山尾
「検討や調査として張り込みや聞き込みをすることはありえるのかと何度聞いても。捜査としてはありえない、とおっしゃるので、これは、答弁から逃げていると判断せざるを得ませんが、いいですか。もう一度だけききますが、かわりませんか」
林
「意訳)捜査ではない段階でどの程度できるかについてはお答えする立場にはなく、捜査としてであれば、明確にお答えしているとおり、嫌疑がない段階ではできない」
(速記とまる)
山尾
「(今までの議論をまとめる)結局私が申し上げたいのは、一般人は捜査の対象にならないとおっしゃっているが、調査の対象にはなっているのではないかと思うんですが、大臣いかがですか」
「これまでの、密かに行われる犯罪の捜査で行われることを超えることはテロ等準備罪でもないということは前提として、一般の方々がご不安をもっている、不安をもっているか持っていないかということもですね、この改正の事案について判断をしていかなければならないと考えているから、何度も申し上げております。テロ等準備罪の捜査の対象として、一般の方々が捜査の対象となることはないんだということを申し上げているんですが、そもそも一般の方々という言葉、それは使用される文脈で、いろいろ変わるんでしょうが、我々が、一般の方々はテロ等準備罪の捜査の対象とならないと申し上げている文脈においては、一般の方々が、組織的犯罪集団とかかわりのない方々、我々は、組織的犯罪集団という明文上明らかにした法案を用意したわけですが、組織的犯罪集団にかかわりのない方、何らかの団体に属しておられない方はもちろんのこと、通常の団体に属して、通常の社会生活を送っておられる方々という意味で申し上げているわけで、こういう意味で、一般の方々に嫌疑が及ぶことはなくなった、とこのようにご理解をいただければよろしいんではないかとこのように考えております。」
山尾
「林刑事局長」
山尾
「なぜ?これは大臣です。おかしいでしょう、なぜ?なぜこれが細目的技術的事項なんですか。委員長答えてください」
「議事整理の中です。この後大臣に行きますよ!」(なぜえらそーに。)
山尾議員怒鳴り続ける
林(なんとか答弁する)
「告発についての処理というものは、人に対して行っているものではありません。その案件について調査するといっても、非告発人が調査の対象になっているわけではなくて、告発案件についてそれが嫌疑が生じているのかどうか、疎明資料が十分かどうか(これ基本的に証言だけでいいからね)、この対象はこの告発の案件でございます。」
ひたすら時計を止めない鈴木委員長(こないだ、衆議院規則に照らして間違っていたと認めたことをまたやっとる)
山尾
「至極単純な質問ですよ、調査の定義から丁寧に聞いてきたでしょ。こんなのおかしいよ。時計止めてくださいよ」
「局長の答弁に付け加えさせていただきますが、事件について、嫌疑が認められるか否かを検討するのであって、一般の方々が検討の対象になるわけではありません」(これが噂の2倍時間消費術。同じこと答えるなら出てくんな。)
山尾
「まず委員長、なぜ大臣の答弁から導かれる、素朴な疑問が、細目的技術的事項として刑事局長になるんですか。理由を説明してください」
「一般の方々の使われる文脈がまるで違いますので、全体的な答弁はできませんので、細かいところとして林局長に聞きました」(意味がわからん)
鈴木淳司反省しとらんよー。今まで野党自民党しかやったことないはずだけど、一事不再理の原則を破って良いからもう一回解任決議案だしていいぞ。
山尾
「(話を整理したうえで)嫌疑の嫌疑という段階で捜査することはない、その段階では検討とか調査とかいうと、ここまでは確定した。その結果、嫌疑があるのかないのか、嫌疑があれば、刑事訴訟法上の捜査に向かっていく、嫌疑がなかったという場合がありえる。私は、一般の方だと思うが、尾行、聞き込み、張り込み等がありえるかもしれない、一概には言えない、その中で、嫌疑がなかったとわかったひと、これは一般の方々ですか。大臣の考えはいかがですか」
1分ぐらい考えるが速記はとまらない、逢坂理事が抗議してやっと速記がとまる
「申し上げたくはないが、言わせていただきます。ただいまの質問のような丁寧な質問通告がなかったので、詳しくはお答えできないといわせていただく。その上で、一般の方々に嫌疑がかかる可能性はないと申し上げてまいりました。したがって、その調査・検討の対象となることもありえないということでございます」
山尾
「大臣ご自身の発言の矛盾にお気づきかはわかりませんが、いや、盛山大臣はうなずいておられましたよ。嫌疑の嫌疑がかけられた人と、嫌疑があった人、これ100%完全に一致するということですか。違うでしょ。それならば、調査・検討なんか必要ないじゃないですか。もし今の大臣の答弁なら、警察の検討・調査は必要ないということになりますよ。大臣の説明ですので大臣」
「先ほど申し上げたように、一般の方々が嫌疑の対象となることはありえないと何度も申し上げてまいりました。また嫌疑の検討の対象にもなりません、今まで申し上げてきたとおりでありますが、。捜査の前の実務についても、局長のほうから答弁をさせていただきたいと思います。」
林
「議論の出発点として、組織的犯罪集団に属さない、通常の人は、嫌疑の対象とはならないとしている。その上で、しかしなんびとも告発ができるので、告発されたときにどうなのだ、という議論だと承知している。告発された被告発人は嫌疑の対象ではない。告発人の疎明資料や証言に基づいて、嫌疑の有無が検討される際に、被告発人は名前は上がっているかもしれないが、調査・検討の対象といえるのかどうか。それは調査の対象というものをどうとらえるかによるが、少なくとも、その人が調査の対象になったと申し上げるつもりはなく、手続きとして、処理するために調査検討をするということ」
山尾
「(まとめて)では調査・検討の段階で、たとえば事業者等に、口座情報等の照会を行うことはありえるのですか」
林
「(捜査としてはやらない)」
山尾
「また逃げましたね、捜査としてやるかなんて聞いていない。では口座情報等の任意の照会等をすることはないのかと聞いている」
林
「(捜査としてはできないということを繰り返す)」
山尾(この辺はさすが元検事)
「指摘しておきますが、捜査関係事項照会の書面上、嫌疑の内容、嫌疑の対象を記入する必要はありませんし、いかなる疎明資料に基づいての照会なのかを一切添付することなく、ただ「捜査のために必要である」とかいてあって、大きな空欄の下に、これこれを提示してくれとされるものであります。またかつて、警察の中で、この捜査関係事項照会が非常に広い中で、濫用されてきたことが明らかになり、通達も出ている。ここで照会するのかしないのかと聞いても言うわけないと思うが、こういう危惧があると申しております。(続このあとも、一歩も進まないやりとり)」
山尾
「大臣は、ビールと弁当を持っていれば花見、カメラや双眼鏡をもっていれば下見と判断できるとおっしゃっていた。ではどういう手段でその持ち物を把握するんですか」
「(なぜか嫌疑が発生したあとに、持ち物を調べたときに、その持ち物が持っている意味を検討することは今までの捜査と変わらないという答弁を3分ぐらいする)」
山尾
「質問に答えてないですよ」
「答えてます。答弁してるじゃないですか」
「どうやってわかるのかを聞いてるんですよ」
「答弁してます」
「どうやってわかるのかということですか、ということですが、私が思いついたのは、たとえば怪しい動きをしているときに、職務質問をして、持ち物がわかるということもあるのかなぁと思います」(これが一番やばいやつだよね。特に金田さんが例に出した、カメラや双眼鏡を持っていることは、”法務大臣が言っていたテロ等準備行為だ”といって引っ張れるもんね、職質で)
山尾
「それは行政警察活動なのでちょっと違う話だけど、まぁ答えただけ大臣よりはましですよ。では、いったん嫌疑をかけて持ち物を調べたらビールと弁当を持っていた、とそして実際花見にきただけだったという人は、大臣の定義では一般の方々ですか」
山尾
「おかしいでしょう。大臣のロジックだと、一旦嫌疑かかったんだから、一般の方々じゃないんでしょう。
(略)
今日こうやって質疑してきてまったく不本意です。委員長は時計を止めるべきときも止めないし、すれ違った答弁で時間だけが過ぎていく。こういうことがこれまでの法務委員会であったかはわからないが、こんなことになって本当に不本意です。
(今日の質疑内容をまとめて)
結局一般の方々は捜査の対象とならないなんていうのはフィクションなんでしょ。こういうフィクションの上で、一般の方々は嫌疑の対象にもならないというような、嘘偽りの安心の土台の上で、277の刑罰を議論をしている、詭弁を繰り返しているから、いつまでたっても、疑問点がなくならない。もう少し誠意を持って、デメリットデメリットがあるという前提の上で議論をしていただきたいと思います。(ほんこれ)」
嫌なこともたくさんあったが自分で死ぬのは怖かったし痛いのは嫌だから、自殺でもないと思っていた。
僕は今三十二歳だ。
つまり、二十歳になっても死ななかった。
なぜ二十歳で死ぬと思っていたのか、今となってはよく分からない。
落第しない程度に勉強をし、親に迷惑はかけないように生きてきた。
どうせもうすぐ死ぬんだから、何かをやろうという意欲もなかった。
下種な話だが、男女間で行われるいろいろのことは、死ぬときに後悔がないように全部やった。
もう十年前以上になるが、今でも鮮明に覚えている。
十九歳の最後の一日、深夜十一時五十分、家の屋根の上に上がって寝転がって星を眺めた。
そうしているうちに、あと一分で二十歳になろうとしていた。
怖くはなかった。僕は静かに目を閉じてその瞬間を待った。
…
ん?
僕は目を開けて時計を見た。零時十分だった。二十歳になって十分の時が経っていた。
僕は死ななかった。死ねなかったのだ。
…
しばらく夜空を呆然と見つめて思ったのは
「このままだと、僕の人生やばいんじゃないか」ということだった。
大した学歴もなし、経験もなし、ただの薄っぺらい二十歳の人間がそこにいた。
詳細は割愛するが、その後猛勉強して大学に入りなおし、割と良い学歴を得て、今は悪くない仕事をしている。
二十歳前と後では、まるで別人だと感じる。
人に昔のことを聞かれると、あまりうまく答えることができない。今の僕ではない、別の人間のことのようだから。
あの屋根の上で星空を眺めながら死を待ったひとときが、僕の分水嶺だった。
運が良かったのかもしれないが、いわゆる「人生の正規ルート」から外れてしまっても、こうしてそれなりに楽しく生きることができている。
「何寝ぼけたこと考えてんだ、死なないから!」と言ってやることができれば、どんな人生だったんだろう?とたまに思う。
もしかしたら、今より素晴らしい人生かもしれない。残念ながら、それを知ることは絶対にできないけれど。
僕の場合、二十歳以前の自分のせいでひどい目にあったが、僕を今の地点に押し上げてくれたのは二十歳以後の自分で、どちらも間違いなく「僕」だ。
日本の社会は、やり直しがきかない、レールを外れた人間に厳しい社会といわれている。確かにそうだ。
僕は間違いなくレールを外れた人間で、そのことで色々な人に色々なことを言われたりしてきた。いいトシして何やってんだ、云々。
けれど、それに対応していくのも自分の責任の一つだと思っている。だって二十歳まで適当に生きてきたからしょうがない、と。
(ちゃんと真面目にコツコツやってきて、思いがけずレールを外れてしまった人間には、これは当てはまらないが)
失敗したって、死ななきゃいけない羽目になることなんて、ほとんどない。
だけど、何もしないで待っていて状況が好転することも、ほとんどないと思う。
ガンジーの言葉で「明日死ぬかのように生きよ。永遠に生きるかのように学べ」というのがあるが、
正直言って、明日死ぬんならやっぱり僕は滅茶苦茶無気力になると思う。だって明日死ぬんでしょ?今頑張ったって無駄ァ!と考えずにはいられない。