はてなキーワード: レジャーとは
集団ストーカーとは、ギャング・ストーカー行為、原因ストーカー行為、組織化された自警団ストーカー行為、代理人によるストーカー行為、地域に根ざした嫌がらせ、隠密戦争などとも呼ばれ、基本的にはターゲットとなる個人に対して行われる嫌がらせや信用失墜キャンペーンです。 市民や隣人が参加するように勧誘され、多くは過激派グループやカルトからですが、従業員の中からも参加することがあります。被害者を実質的に無力化し、破壊するために、あらゆる経歴や職業の人々が嫌がらせを行い、24時間365日追跡し、時には致命的な自動車事故、毒物混入、電子的嫌がらせ、家宅侵入/財産の破壊を組織し、不正な、あるいは無知な医師の診断により、被害者を妄想、偏執病、統合失調症などのインチキ精神病と決めつけるなどの攻撃を行います。すべては秘密裏に行われ、犯罪者たちの嫌がらせや攻撃を組織するために、高度なリアルタイムの派遣システムが使われています。犯罪者たちが仕事や買い物、通勤、レジャーなどの通常の日常生活を送っている間に、常に数百から数千人の犯罪者たちが協調した暴徒として参加しており、移動する足や車の監視技術、コンピュータ、携帯電話、言葉や視覚的な合図、その他考えられるあらゆる種類の通信手段が使われています。
予想以上にコレステロール値上げる「ストレス」 - WSJ
https://jp.wsj.com/articles/SB11281588234518813488504581530070743771718
高コレステロールにつながる全ての要因のうち、心臓専門医の多くは、患者への助言で忘れられがちなのはストレスだと指摘する。それでも、きつい仕事からの慢性的なストレスやぎくしゃくした人間関係あるいは、不安を生むような状況も、悪い食生活や喫煙、運動不足などと同様に、糖質濃度の上昇に一役荷なう可能性があるという。LDLによって堆積するコレステロールは動脈に蓄積する可能性があり、これはアテローム性動脈硬化として知られ、そうなると血液の流れが低下しかねない。
ミネソタ州ロチェスターに本部を置く総合病院メイヨー・クリニックの予防心臓専門医スティーブン・コペーキ氏は、「ストレスでコレステロール値は上昇する」とし、「これについて認識不足であることは間違いない」と話した。コペーキ医師はエジントンさんの治療に当たっている。
コレステロールに対するストレスの影響を理解することがますます重要になっている。というのも、人々の生活は一段と責務とデジタル環境に縛られ、スイッチを切ることがこれまで以上に難しくなっていると心臓専門医らは指摘する。米疾病対策センター(CDC)によると、米国の20歳以上の成人の28%近くは、総コレステロール値が高いか、コレステロール値を下げる薬を服用している。CDCは1デシリットル当たり240ミリグラム以上をコレステロールが高いと定義している。
中でも最も懸念されるのは慢性的ストレスだ。これは、驚きや一時的な困難から生じる短期的ストレスよりも、時間とともに身体に重い負担になるという。慢性的ストレスはいくつかの方法でコレステロールの上昇につながる。人々は運動をやめ、不健康な食べ物を食生活に加える可能性がある。ストレスにより、ストレスホルモンであるコルチゾールやアドレナリンの分泌が盛んになる。これは身体が自分自身を守るために採用する「闘争・逃走」メカニズムの一つだ。こうしたホルモンが今度は中性脂肪(別名トリグリセリド)や遊離脂肪酸の分泌を促し、それのために長期的にはLDLコレステロールが上昇することになりかねない。米国立衛生研究所(NIH)の一部である国立心肺血液研究所の心血管科学部門のプログラムディレクター、キャサリン・ストーニー氏はそう説明する。
エジントンさんはコレステロール値が急上昇した後、仕事がらみのストレスを減らした
専門家によると、正確にどの程度のストレスが高コレステロールにつながるかは分かっていない。食生活や運動の変化と比べて測定が難しい。ストーニー医師は「われわれが経験するストレス要因や、その大きさについて、常に的確に認識しているとは限らない」と話す。
前出のメイヨー・クリニックのコペーキ医師は、ストレスを減らすために、患者たちに就寝時あるいは朝目が覚めたときに感謝していることを3つ考えるようアドバイスする。
エジントンさんのコレステロール値が12年に上昇したとき、コペーキ医師はエジントンさんの四面からなる名刺を見るだけで、原因の推測できた。公園や娯楽分野の学術的・専門的指導者のエジントンさんは、世界レジャー機関の事務局長として、中国や南アフリカなどに定期的に出かけていた。アイオワ州の自宅に居るときには週に60時間以上は働き、夜も海外からの電話に応対していた。
コペーキ医師はエジントンさんのコレステロール降下剤の量は変えず、仕事量を減らすよう忠告した。今では、エジントンさんは管理業務を減らすとともに、複数の専門機関でのいくつかの指導者的ポストも返上した。
職務を減らしたことが肉体的にも精神的にも役立ったとエジントンさん。今でも忙しいが、孫をはじめ家族ともっと多くの時間を過ごしていると話す。「人生や仕事、家族との関係への向き合い方が大きく変わった」と続けた。
メールやLINEが普及してから、日常生活のなかで無言電話を受ける機会は格段に減ったと思う。それでもあの、電話の向こうで、誰かが息を潜めてじっとしているあの感じ、じっさいにそうしているかどうかは分からないのに、それでもやっぱり誰かいると思うあの、背筋がぞわずわする感じは、いまだに思い出す。
無言電話のあの気味悪さをわざわざ味わいたい人などまずいないだろうと思うが、母は無言電話を心待ちにしていた。毎年、いつ掛かってくるかわからない無言電話を受けられるようにするためだけに、家にいることが多かったと思う。
うちは姉と私の二人きょうだいで、姉は少し変わっていたと思う。今だったらいろいろな診断名がついたのかもしれないが、当時はそういうことを知っていた人が周りに誰もいなかった。家にいるときの姉はどこか天真爛漫なところがあって気前がよかったが、何か思い通りにならないことがあると癇癪を起こしたり、ふさぎ込んでしまうこともあった。大きな音が苦手で、近所で工事があって重機の音がしていると、両手で耳をふさいだままその場に倒れ込んでしまうことがあった。甘いものを切らせると具合が悪くなるので、いつもポケットに飴かクッキーの小袋を入れていた。
そういう姉が学校で周りの人とうまくやっていくのは難しかっただろうと思う。小学校低学年のとき、遠足で市立公園に行った。二個上の姉の学年も行き先が同じだった。自由行動のあいだは、友達同士のグループでレジャーシートを敷いて固まって、お弁当を食べたり、おやつを交換したりした。トイレに行くとき、姉の学年の人たちがいる原っぱの横を通りかかった。いくつものグループができて、みんな騒いでいたけれど、姉だけは少し離れたところで草むらに入り込んで、バッタかなにかを追っていた。よくわからないけれど、見てはいけないものを見てしまったような気がして、その日は一日じゅう暗い気持ちだったことを憶えている。
勉強ができた姉は、県内でも有数の進学校とされている高校に行った。毎日、自転車で帰宅して部屋に戻ると、それ以降どこかに出かけた姉を見た記憶がない。高校で「普通」の人付き合いができているかどうか、母は気にしていたらしく、姉の友人関係についてそれとなく尋ねたことがある。そのたびに姉はひどくいきり立って、よくわからないことを叫んで、部屋に籠もった。父は何もいわなかった。
受験生になって県外の旧帝大を受けた姉は落ちた。模試での判定はよかったらしく、私立を併願しても行く余裕はうちになかったので、他にどこも受験していなかった。姉よりランクの低い高校に行っていて、卒業後は就職するのだろうと思っていた私は、姉の身になにが起こっているのか、想像することもできなかった。
自宅で浪人をしていた姉は翌年も落ちた。どういう話し合いが両親との間であったのか、私には分からない。父のつてで紹介された地元のケーブルテレビ会社で姉は働き始めたが、半年ぐらいで行くのをやめた。おそらく人間関係が原因なのだろうと思ったが、家では誰ものその事を言い出さなかった。その頃から母と姉との言い争いが絶えなくなった。ちょっとしたきっかけですぐに激しい言葉のやりとりになって、姉が勢いよくドアを閉めて部屋に閉じこもるのが常だった。
姉が引きこもるようになってから少したった頃、私は地元の会社で働きはじめて、仕事を覚えることで頭がいっぱいだった。家に帰ると毎日疲れていた。姉とは話す機会がほとんどなかった。たまに、夜中の居間で出くわすことはあった。帰宅後、着替える気力もなくて、電気の消えた居間でソファーに沈み込んでTVをぼんやり眺めていたら、冷蔵庫へ麦茶を取りに来た姉もしばらく後ろに立っていて、流れている番組について他愛ない話をした。いま思うと、そういう話をすることで、私たちはお互いに何かを確認していたのかもしれない。
それから姉はいなくなった。珍しく私は早く帰ってきて部屋にいたら、母と姉が言い争う声がして、ドアが勢いよく閉まる音がした。またやってるのかと思ってそのときは気にとめずに寝たら、翌日に姉はもういなかった。捜索願、探偵、行方不明者情報サイトへの登録、なにをやっても戻ってくる気配はなかった。ネットで情報を見た人が、小倉のホームセンターの駐車場で姉らしい人を見かけたといって連絡してきたこともある。ジャージ姿で男の人と車に乗って去っていったらしいが、本人なのかどうか、確認する方法はなかった。
一年くらい経って、姉から電話があったと母が言った。夕方かかってきた電話を取ると、受話器の向こうで人が黙っている気配があったので、姉の名前を呼んでみたところ、ほどなくして切れたそうだ。それからさらに一週間ぐらいしてまた夕方にかかってきて、母がまた姉の名を呼ぶと、今度はかすかにすすり泣くような声が聞こえたという。
電話してきたのはほんとうに姉なのかどうか、そもそも電話はほんとうにかかってきているのかどうか。問いただすことは私にはできなかった。が、それ以来、母は家でじっとしていることが増えた。父と母は、姉の部屋をずっとそのままに、出て行った日のままにしていた。
私は私の地獄を生きるのに精一杯で、家のことを何とかしようとか、母を支えようとか、そういうことをちゃんと考えられなかったと思う。職場は一族経営の地元企業で、上司は会長の甥だった。就職してわりと間もない頃から距離を詰めてきた。この田舎でほかに移れるところはなかったから、断れなかった。僕はパイプカットしてるから子供はできんのやということを口癖のように言っていた。絶えられなくなってその上司の上司に相談したら、いつの間にか私の方が悪いことになっていた。その間、東京の会社へ転職活動し続けて、逃げるように上京したが、ある日突然、電車に乗れなくなった。適応障害だとかいわれて、部屋にこもって布団の上に転がっているだけで、生きているだけで苦しかった。手持ちの金はどんどんなくなっていった。
その間も実家から電話はときどきかかってきたが、ほんとうのことを言うことはできなかった。あるいは、母も何かを察していたのかもしれないが、直接言ってくることはなかった。姉からまた無言の電話があった、という話を聞いても、そうなのかと思って軽く受け流すことしかできなかった。電話を切った後、日暮れ時の実家の居間で、じっと電話を待っていたであろう母の姿を思うこともあったが、その頃は、自分自身がその瞬間に生きていることすら重たすぎて、何かを深く考えることができなかった。
結局、休職期間中の給付が切れる前に、少し無理矢理気味にだけれど職場復帰して、私はぎりぎりでその時は生き残ったと思う。それ以来、地元のことを思い出すと吐いてしまうので、できるかぎり、頭の中から地元の存在を消し去って生きてきた。もちろん実家にもほとんど帰った記憶はない。消し去った地元のうちには姉の存在も含まれていた。
実家はもうない。姉はどうしているのだろうと思うことはある。生きているのかどうかも分からない。いまも実家に電話をかけようとしているのだろうか。もうつながらないと知ったとき、何かを思っただろうか。もちろん私にはなにもわからない。ただ、もう存在しない薄暗い居間で、電気もつけずに母が、おそらく電話をそれとなく待ちながら片づけなどしている姿を、いまでもそうあるものとして、ふっと思い出してしまうことがある。
・娘の頬。瑞々しくて産毛すら愛しい
・選択したての掛け布団。掛け布団が気持ちいいとQOLが爆上がる
・近所の惣菜屋のなます。ちょっと添えられたゆずの皮が香るのが好き
・ママ友との公園ランチ。レジャーシート敷いてスーパーのお惣菜でピクニックするのは、ママたちの手間も変な張り合いも生まれなくて楽。子どもたちも楽しそう
・美容院で髪を切ってもらった当日。高くて3,4ヶ月に一度しか行けないけど、身だしなみ整えた感じがして気持ちも整う。
・「あなたはとても大切な友人」と本人に伝えられたとき。告白みたいに改まった感じじゃなく、会話のふとした隙間に口から飛び出して、少し照れくさいけど多幸感。
・お米がおいしく炊けた時。逆に安売りのお米がおいしくない時は、消化するまで悲しい気持ちが続く。
節約をしないというか金を使う時にためらわない、検討しない、ほしいとおもったものは買っちゃう
本なんてほとんど読まないのに気になった本を買う
詳しくないものはとりあえずスペックが一番高いものを買う(YouTubeとKindleだけなのにiPadProの125Gを買った時は倒れるかと思った)
家には数回しか使ったことがないブランドもののレジャーグッズ(キャンプ、ゴルフ、釣り、山など、、)や不要な本で溢れかえっている
加えて普段は優しいが沸点は低く買った物に対して否定するとすぐ不機嫌になる、そしてすぐ謝る
若い頃はかなり言ってたが微妙にストレスなのであまり否定したくない
その上捨てられないタイプなので私が一つ一つ聞かないと自分から処分しない
夫が数年前に買って読んでない本を聞いて処分する、という家事が発生している
相手はその点を私に頼っていてその自覚はあるのだが私としてはそんな事くらい一人の大人として一人でできて欲しい
そして、それをもちろん伝えている
独身の時は月に何円使ってるかも把握していなかったらしい(今は私が管理しているので、今も把握していない)
お小遣いと必要な時に金を渡すようにしているが将来の金銭的不安を一緒に考えられない事が一番モヤモヤしている
今はどうか知らないけれど、うちの上の子がまだ小さかった頃、最寄りの子育て支援センターはものすごくユルい場所だった。フラッと行ってダラダラ過ごしてフラッと帰ってくる、ということが出来た。下の子が生まれた後に行って見たらセンター長が代わっていて、半ば刑務所のような場所になってしまったけど……。さすが長年ユルユル運営を続けていたお陰で抑圧的懲罰的運営期間には利用者からの苦情が自治体に殺到し、来館者数が激減して、たった一年でセンター長交代となったからよかった。
そんな時期もあったけど、うちは大体ユルユル運営時代にたのしく利用することが出来た。
最低限の規則しかない。子供の機嫌のいい時間帯に来て閉館まで好きなだけ居られるのはよかった。ガチメイクで服装もちゃんとしてる母親もいれば、ボロボロのジャージもっさり姿の母親もいて、かといってグループ作って他のグループを貶していたりというのがなかった。数時間、授乳したり子供を遊ばせたりしながら、ふと近くにいた相手と何の益体もない話をしては、それぞれ子供の動きを追って離散してを繰り返す。自然浅い付き合いになるが、その浅さがよかった。時には気が合う仲間も見つかった。
午前中は大体無料イベントが催されていて、意識高い系の親はその時間帯を狙ってくる。まだよちよちの乳幼児を抱えて工作なんかをする訳だが、そこでいい感じに親は心を折られて、子供達のままならなさに嘆き、互いに慰め合う。指導員も別に子供達が指示通りに出来なくてもとやかく言わないし急かしたり怒ったりもしない。お子さんのペースでいいんですよーと言ってくれる。
イベントが終わると、意識高い勢はそこで帰るか、各自が用意してきたお弁当を床にレジャーシートを敷いて食べてから帰る。大体、意識高い系もイベントで心折られて他人にマウントをする気をなくし、他人の弁当をくさする気もなくなるようで、和やかに飯食って帰っていく。和やかにとっても、子供達がご飯を口いっぱいに詰め込んだままフロアを走り回る訳で、叱ったり言い聞かせたりしながら食べる訳だが、各家庭それぞれ躾の方針もてんでばらばらだということが窺え、みんな違ってみんないいって気分になるようだ。
意識高い勢が軒並み帰ったら午後2時は、地元の親子がぱらぱらと集まる時間帯で、この時間を狙ってくる人達は大体疲れていて、あえて子供が眠そうな時にやって来る。あぐらをかいたりごろ寝など楽な姿勢で、半分眠ってる子供に授乳をしながら、ダラダラと雑談をする。情報交換みたいな神経を集中しないといけない話題じゃなく、家族の愚痴とか昨日見たドラマの話なんかをしている。ひたすらユルい。
3時頃に子供達が覚醒しだすと、閉館の4時までめちゃめちゃ走り回らせて、夕飯の支度前に子供達にエネルギーを使い果たさせる算段だ。幼稚園児が降園後に遊びにくるので、集団遊びが始まる。乳幼児達もお兄さんお姉さんに遊んでもらって楽しそう。
閉館15分前にはおもちゃの片付けを始めるが、当時の館長さんがお片付けも遊びの一種として楽しむスタイルだったので、親達も子供を叱りながらおもちゃを拾ってまわるんじゃなくて、お片付けの歌を歌って子供達をやる気にさせ、子供達が皆でおもちゃ箱を運ぶのを側で応援したりしていた。ちなみに、子供が言うことを聞かない・家が散らかって困るっていうのが悩みの人は、こういう時子供達に任せるということが出来ない。だが、子供達が楽しそうにお片付けをし、親はそれを歌いながら頑張れーと励ましたり、時に子供達の輪に入って一緒にやってるのを見て、きりきり舞いしながら自分が片付けを頑張らなくてもいいんだ~と知る。
あの頃はほんとに楽しかったなあ。
(2020/04/04 FT)
Covid-19のパンデミックに明るい兆しがあるとすれば、それは偏った社会に一体感をもたらしたことです。しかし、ウイルスやその対策としての経済封鎖は、既存の不平等に光を当て、さらには新たな不平等を生み出すことにもなります。病気を克服するだけでなく、すべての国が間もなく直面する大きな試練は、現在の共通目的意識が危機後の社会を形成するかどうかです。西洋の指導者たちが大恐慌や第二次世界大戦後に学んだように、集団で犠牲を求めるためには、すべての人に利益をもたらす社会契約を提供しなければなりません。
今日の危機は、多くの豊かな社会がこの理想にどれほど及ばないかを明らかにしています。パンデミックを食い止めるための闘いが、医療システムの準備不足を露呈したのと同様に、政府が大量の破産を食い止め、大量の失業に対処しようと必死になっている中で、多くの国の経済のもろさが露呈しています。政府は、大量の倒産や大量の失業を回避するために奔走しています。国民総動員の呼びかけにもかかわらず、私たちは実際には全員一緒にいるわけではありません。
経済の締め付けは、すでに最悪の状況にある人々に最大の犠牲を強いるものです。一夜にして、ホスピタリティ、レジャー、およびその関連部門で何百万もの雇用と生活が失われた一方で、高給取りの知識労働者は、しばしば自宅で仕事をするという迷惑な状況に置かれています。さらに悪いことに、まだ働ける低賃金の仕事に就いている人たちは、介護士や医療サポートワーカーだけでなく、倉庫作業員や配達員、清掃員など、命がけで働いていることが多いのです。
政府による経済への並外れた予算支援は、必要ではあるものの、ある意味では問題を悪化させることになります。不規則で不安定な労働市場の出現を許してきた国では、そのような不安定な雇用形態の労働者に金融支援を提供することが特に難しくなっています。一方、中央銀行による大幅な金融緩和は、資産家を助けます。その背後では、資金不足の公共サービスが、危機管理政策の適用という負担の下で軋んでいます。
ウイルスとの戦いでは、一部の人が利益を得て、他の人が犠牲になっているのです。Covid-19の犠牲者は、圧倒的に高齢者です。しかし、ロックダウンの最大の被害者は、若くて活動的な人々であり、彼らは教育を中断し、貴重な収入を放棄することを求められています。犠牲はやむを得ないが、国家の努力の中で最も重い負担を負っている人々に、どのようにして返還するかを、すべての社会が示さなければなりません。
過去40年間の一般的な政策の方向性を覆すような、抜本的な改革を検討する必要があります。政府は、経済においてより積極的な役割を果たさなければなりません。政府は、公共サービスを負債ではなく投資とみなし、労働市場の不安定さを軽減する方法を模索しなければいけません。再分配が再び議題となり、高齢者や富裕層の特権が問題となるでしょう。ベーシックインカムや富裕層向けの税金など、これまでは風変わりだと思われていた政策も検討されなければなりません。
ロックダウン中のビジネスや収入を維持するために政府がとっている前例のない措置は、正しく、欧米諸国が70年間経験したことのないような戦時中の経済と比較されます。この例えは、さらに推し進められていきます。
戦争に勝った指導者たちは、勝利を待たずにその後の計画を立てました。フランクリン・D・ルーズベルトとウィンストン・チャーチルは、1941年に「大西洋憲章」を発表し、国際連合の方向性を示しました。イギリスは、1942年に普遍的な福祉国家を目指す「ベヴァリッジ報告」を発表しました。1944年のブレトンウッズ会議では、戦後の金融システムが構築されました。これと同じような先見性が今も求められています。真の指導者たちは、公衆衛生上の戦争を超えて、平和を勝ち取るために今すぐ動員するでしょう。
引用元:
https://twitter.com/HelenCSullivan/status/1246600170738868225
以下に嘘だと考えられる設定とその理由を述べる。
嘘。本当はレジャー目的で温泉に行っただけなのに、ゴールデンウィーク中に温泉へ出かけるなと批判を受けるから妻を病弱ということにして療養目的にした。しかし、皮膚炎だったら自宅でシャワーを浴びるだけでも苦痛なのに、家族以外の雑菌・ウイルスに触れる公衆浴場へ行くなどあり得ない。その上、温泉はもっとありえない。温泉のpHは酸性またはアルカリ性で皮膚に対する負担が大きいからだ。
皮膚炎の話は抜きにしてもおかしな箇所がある。最初に行った温泉がいつも行ってる温泉のはずなのに、その後行ったのが「地元の人しかいないようなこぢんまりした温泉」で「妻の皮膚炎を気遣ってくれてる顔なじみの受付のおばさん」がいるという箇所だ。貸切風呂のある大きな温泉に人だかりがいて、人だかりは地元の小さな温泉にまで及んでいるという話にしたかったのが見え見えだ。本当の話なら最初から地元の小さな温泉に行くべきだが、そう書いたらその温泉がたまたま混雑していただけだろと批判されてしまうので、最初に貸切風呂のある大きな温泉に行ったという話にしたのだろう。
9割・8割という具体的な数字を出して話に説得力を持たせたのだろうが、すれ違う車のナンバーを注視してメモを取らない限りこんな具体的な数字は出るはずない。そのくせ、緊急事態宣言の発令されている、東京都・大阪府・京都府・兵庫県のいずれも具体的な都道府県名が出てこないのもおかしい。そこを具体的に書いたら、それらの都府県からわざわざ長野県の温泉まで行くわけないだろうと批判されるから、都道府県と抽象的な表記にしたことが容易に推測できる。
2度も温泉に行くのを混雑によって断念したのだから、同様に混雑しているだろう道の駅に立ち寄るのはおかしい。そもそも田舎の道の駅っていうのは、観光客相手にぼったくり価格で金儲けをするための場所であって地元民が買い物する場所ではない。温泉以外の場所も観光客で混雑していたという話を作りたいがために、道の駅に立ち寄ったという話にしたのが見え見えだ。
昨年の緊急事態宣言が発令された時ならその理屈も成り立つだろう。実際にそのような思想の人も多く、他の都道府県民を排斥する動きも多くみられたからだ。しかし、そのせいで観光業が不況になったこととその後のGoToキャンペーンで恩恵を受けたことは都合が悪い(あるいは知らない)から全く書いてないのだろう。本当に観光を主産業にしている田舎に住んでいるなら、コロナ対策による多少の不便や不利益があったとしても、営業を継続すべきだと考えるはずだ。仮に営業を停止すべきと本心から考えているのだとしたら、支援金等の保障の話が出てこないのはおかしい。観光業で生きている田舎は生活がかかっているのだから。
これもできすぎた設定だ。他人が観光で楽しそうにしているのと混雑を形成しているのが気に食わないという増田自身の個人的な感情に過ぎないのに、その感情に社会的な正当性を持たせたいが為に子供と老人を設定したのが見え見えだ。祖父母のうち一人が存命で一人がコロナ禍中に死亡してひ孫に会えなかったというのも出来すぎている。「この田舎も御多分に漏れず高齢者が多い」、「無症状の感染した我が子が高齢者に移すことだってあるんでしょ?」という自身の文章から、大衆に幅広く賛同を受けるであろう、子供と老人が被害者となる設定を盛り込んでしまったことが容易に想像できる。
仮に本当に増田の体験と思想が事実だとしたら、こんな穏当なタイトルを付けるはずも無いし、観光客に対する非難の言葉が文章中に全く無いのもおかしい。タイトル名と最後の段落ではクエスチョンマーク(?)を多用して自身の感情(お気持ち)を書くだけにとどめて、他者・社会に対する要望や意見の表明を徹頭徹尾排除したことから、手練れのお気持ち増田(創作増田)であることは間違いないだろう。おそらく、本当の部分は温泉と道の駅へ行ったことだけだろう。その体験からここまでのお気持ち増田を創作するとは、嘘とは言え感嘆の意を表明せざるを得ない。
おお、元増田が追記している。追記するタイミングも反応内容も、熟練のお気持ち増田職人そのものだな。
元増田の追記内容だったり、元増田や俺に対するトラバ・ブコメに思うこともあるが、そんなことよりはてブのカテゴリが気に食わん。なんで元増田が「世の中」で俺が「おもしろ」なんだよ!?
まるで元増田が「世の中」の不条理を問いただすジャーナリスティックな文章みたいな扱いじゃないか。それに対して、俺はくだらないいちゃもんを付けて道化を演じている「おもしろ」人間みたいじゃないか。
逆だろ!嘘増田で道化を演じているのが元増田で、それに対してジャーナリスティックな視点で追及しているのが俺だろうがよ。
田舎に住む自分が、仕事の為に地方都市の市役所だか県庁だったかに行ったとき、そのすぐ後ろにでかい公園があった。
遊具の有無は覚えてないけど、とにかく広くて芝生が青くて、親がレジャーシートを敷いて遊ぶ子供を見守っているような公園だったから、優雅だなと思ったのを覚えてる。
さてもう一件いかないと、と車に乗って、これまた広い道に出ようと公園をぐるっと一回りしたとき、五台前くらいの車が何かを避けるように、ゆっくりと反対車線に大きく膨らんだ。
片側一車線だけどとても広いその道路の、反対車線には車が無かった。
ずっと続く道の奥には、こっちへ向かって来る車は見えなかった。
それでその、五台前くらいにいた車の後続車も、その後ろも、その後ろも、続いた先にいる自分の前を走っていた車も、道を大きく膨らんでさっさと走っていった。
大きな、ファミリー向けの車も。
それで、本当に田舎の山の中から出てきた自分は「あっ、イタチが死んでるんだ」と思った。
だって朝も道路で死んでるのを見たし、数か月前には申し訳ない事に自分も轢いてしまった。夜中に。
「道路で動物が死んでたら電話を掛けて回収してもらうけど、こんな都会だとどういう処理になるのかな」
と呑気に考えながら自分も前の車に習って道を膨らむと、そこにいたのは生きている子供だった。
二歳だか三歳くらいの、髪の毛がくるくると巻いてる赤ちゃん上がりの子供が指をくわえながら、車道をとろとろと歩いていた。
ぎょっとして、道に車を止めて子供に駆け寄ると「誰だよ」みたいな目で自分を見た。
「お名前は?」と聞いても動きを止めたまま何も言わなくて、この年の子が話せるのか話せないのかもわからない。自分の周りには子供が少ないので。
そうこうしている間にも車はどんどん自分達を追い越していくし、周りを見渡してもこの子の親が見当たらない。
公園から道路までは階段を六段くらい降りないといけないから、「こんな小さくても階段降りれんだな」とどうでも良い事を少し考えていた。
とりあえず自分も予定が入ってるので、何も言わない子供を抱き上げて公園の階段を上がる。
一応「ごめんね、だっこするね」と声を掛けたけど、うんともすんとも言わない。
知らない人がこうするのは良くないとは思うけど、捕捉していないと急に車の方に走って行きそうで怖かった。
久しぶりに抱き上げる子供は柔らかくて、その先に骨の感触がして、猫みたいだと思った。猫ももう何年も触ってないけど。
入口近くにいたお母さん二人に「この子を知りませんか」と言うとすげえ不審な顔された。仕方ないと思う。
それでも説明をすれば一緒に考えてくれて、ああだこうだと降ろした子供に話し掛けてくれている時に、少し離れたところから「あら、〇〇ちゃん」と声が掛かった。
まるで何でもないような顔をして、だけど自分の事を「誰だお前」みたいな目をしているように思えた。
まあ自分の孫が知らない人といたらそう思うだろうし、「迷子になってました」とだけ言って公園を出た。
車に戻って発進して、目的地に向かう途中で気付く。
なんで前にいた車は、ほぼ赤ちゃんみたいな子供が車道にいたのに保護しなかったんだろう。
公園に入っていった車はおそらく家族連れで、お父さんやお母さんは何も思わなかったんだろうか。
そうでなくても、単身者でも、老人でも、若くても、LGBTでもなんでも、何も思わなかったのか。
思えばこの年、道で倒れてる子供を見かけて車を止めたことがある。
登校中の小学生がすっ転んで頭打って泣いてたのを、周りの小学生が取り囲んでる所だった。虐めではないと思う、知らんけど。
これも、自分が声を掛けるまで誰も助けなかった。
泣いてる小学生に駆け寄った時、背広を着た眼鏡の中年男性が自分を見つめながら通り過ぎて行ったけど、あのおじさんは何も思わなかったのか。
そう考えると、窓の外は異世界だと思っている人間が少なく無いのだと思う。
車の窓の外は自分と関係のない景色で、テレビを見ている感覚に近いのかもしれない。
おじさんだって眼鏡レンズ越しの世界なら、それはもう治外法権みたいな感じなのかもしれない。
自分の周りの現実世界にしたって、インターネットにしたって、声高々に弱者を救済する声が上がっている。大なり小なり。
虐めについてだとか、子供の貧困や虐待だとか、事故の犠牲者だとか、病気の人がどうとか。
当たり前のことで、守ってあげないといけないものは守ってあげないといけない。自分の出来る限りではあるけれど。
それでもこうやって、誰かが助けてあげなきゃいけないと一目見て解るような状態で、誰も助けてくれない現実を垣間見ると、なんだか色々考えてしまう。
周りの、声を上げている人をモニタリングしてみたい。
手を差し伸べるのか、見捨てるのか、景色の一部だと思って見過ごすのか。
あの車に乗っていた人達は、車道を歩いていたあの子供を上手に避けた。
車の内側にいる人は子供を殺す事はなかったけど、生かそうともしなかったように思う。
ごめん。俺もどこかに遊びに行きたいがいまは無理だ。
自分が感染しないように行動するってことを徹底できている自信が無いんだ。
それでも行かないといけない時はある。そういうときは献血とか不要不急じゃないものを挟んでどうにかごまかしているに過ぎない。
自分のレジャーのために遊園地とかに行くのは今でも怖い。人が多いだけで萎縮する。係員は対策しているけど他の人はもうどうでも良い感じだもの。列の間隔開けるってのも眉唾だけど、それを守るかどうかはもはやリテラシーチェック機能としてのみ働いている気がする。ようはその場で守るべき基準を把握しているかどうかってこと。スーパーでも人の感覚や密度は狭まっている。リテラシーは低下気味だ。
一人で誰とも会わずに旅行するってのはちょっとしたスキルであって、俺には無理だと思う。それが当たり前な人もいれば、そんなの無関係に大勢で出歩くことをいとわない人もいる。おれはどっちにしろ怖いから遠出しにくい。
生活必需品買いに、店の空いてる時間帯にサッと買い物行ったり、ミールキット注文してちょっと美味しいごはんを自炊したり、そんなことで気晴らしをしてる。
それもほとんど通勤の人なので、都内の大部分の人は不要不急の行動については自粛を続けてると思う。
GWみんながどう動くのかは知らん。
少なくとも自分は遠出しない。
でも元増田みたいにそんなに感染症が蔓延してない地域の人の行動を規制しろと言う気にはさらさらならない。
対策気をつけて楽しんできてほしい。
地方の実家には帰ってないし、来ないでくれと言われてる。父親の葬儀も欠席した。
隣県の義実家にも行ってない。義父の法事も同居の家族のみでやったそう。
子供の学校がクラスターになって、仕事や地域の人にいろいろ言われたよ。あそこの学校の子が来るなら塾には行かせませんとか、(子供が感染してないとはいえ)どうして自費であなた自身がすぐにPCR検査を受けに行かないのとか。子供に向かって「人殺し」と言った人もいた。子供は家から出れず無気力で、私も仕事を辞めさせられると思った。
去年の夏も盆に帰らないつもりと書いて、バカじゃないって言われたんだよな。
なんだ、みんな出かけてるんだな。