はてなキーワード: ストレートとは
昔サンプルで持ってたやつなんだけど、タイトルも女優も全然思い出せない。
思い出は思い出のままにしとけばってなるかもしれないけど、見つけたら買う。
・恐らく15年以上前
・サンプルはリアルメディア形式で2本(どっかのサイトからダウンロードした)
・JK(だと思う)にとびっ子つけて散歩して、罰ゲームでS●Xみたいな企画
・1本目のサンプルは散歩のシーンから、開始時点でちょっとフラフラしてて「大丈夫?」みたいなことを言われてる。
魚覚えだけど茶色のタータンチェックスカートに上はシャツだったような記憶。
「流れに身を任せちゃおうね」「(毛が)薄くない?」とか声をかけられてて
「そのまま...」って言ってる時にバイブ挿入するところはめっちゃ覚えてる。
(多分スカートはたくし上げててシャツはボタン開けてはだけてた)
・2本目は本番のシーン。
1本目もそうだけど、苦しそうに「やっ…あっ!」って喘ぐ子で、
最後「もう中に出しちゃおうね」みたいに言われて「やだっ!」って言ってるところに
正常位で多分中に出してたと思う。
さすがに古すぎてわからんよな。。。
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(追加で思い出したこと)
いやそれやるなら「イケメンやカッコイイ男だけしか出てこなくて、ブサイクな男は女オタク世界から排除されているのは、テレビや映画などのメインストリーム文化と共通であるが、やっぱり表現がストレート過ぎるのである。だから、男性たち(特にリベラルの男性たち)に敵視されやすい素地がある。」だろ
元民進党候補者である青地まみ氏の「パブリックエネミー」騒動について、少々遅くなってしまったが、少しこの問題に便乗して自分の思うところを色々書いてみたい。
まず「パブリックエネミー」という言葉であるが、前都議選で民進党から出馬して落選した青地まみ氏が「オタクをパブリックエネミーとして認定したい」という内容のツイッターを書いたことで、ここ数日ほど炎上したらしい。青地氏が民進党から立候補して落選した経緯から、民進党や立憲民主党にも批判の矛先が向けられているとのこと。
パブリックエネミーとは、公的な敵だと社会全体で認定する行為である。
炎上自体に関しては、日本の野党らしくありふれた光景であり、特に目新しさはない。リベラルな価値観を共有しているはずの人間が、オタク全般のことを「萌え豚」という蔑称で書いたらしく、そのオタクを社会の敵認定してやりたいという趣旨のツイートをした。
まあ日本のリベラルは、口では平和だ人権だと高潔な思想を掲げていても、実際は偽リベラルのレイシストに過ぎないといういつもの平常運転です、本当にありがとうございましたというだけの話。
本題はここからであるが、なぜオタク全般は、社会から(特に女性たちから)目の敵にされやすいのだろうか、ということ。パブリックエネミー認定とは「公的な敵」とみなすということであり、上記の青地氏には多数の批判も集中したが、青地氏を擁護するツイートも多かったとのこと。
賛否両論があるにせよ、オタクの存在を忌々しく思っている一定数の人間が世の中には明確に存在しているということでもあるよね。
オタクが社会から嫌われやすい属性集団だと思われやすいのは、やはり犯罪集団みたいなものだと思われているからだろうか。確かに、宮崎勤事件などオタクの中で重大犯罪を犯した一部の人間がいることも事実であるし、それは受け止めるべきだろう。
しかし、社会全体でみた場合はオタクは性犯罪を犯しやすい属性ではないはずである。一番性犯罪を犯しやすいのは、オタクとは正反対の野球部やサッカー部などの運動系の人間ではないのか。
例えば福田元事務次官やTOKIOの山口元メンバー、女性問題で辞任した米山新潟県知事の三者はオタクとは正反対の人種である。
それでもオタク全般が性犯罪者予備軍として扱われてしまう一番の理由は、オタクが扱っている創作物の性表現がストレートすぎるからではないか。
美人や可愛い女だけしか出てこなくて、ブスな女はオタク世界から排除されているのは、テレビや映画などのメインストリーム文化と共通であるが、やっぱり表現がストレート過ぎるのである。
だから、女性たち(特にリベラルの女性たち)に敵視されやすい素地がある。
今の社会は、女性たちから敵視されると社会的生命を失いやすい状況になっている。私達は知らずのうちに、そんな社会の中を生きている。
特に、この20年間の間にセクハラやコンプラの法整備などは進んだ。それ時代は社会が良くなることでもあるから歓迎すべきだろう。
男全般を痴漢予備軍だと見なす女性専用車両や、女性の申告によるセクハラは認定されやすいことなど、思いつこうと思えばいくらでも思いつく。
そんな社会風潮という根拠があるからこそ、オタク全般を「パブリックエネミー」に認定しようという政治的主張も生まれてしまうのではないか。
「オタクは女性の敵だから、社会の敵認定したい」ともっともらしい事を言っているけど、それはナチスドイツやボリシェビキのユダヤ人虐殺と同じ構図だからね。
男の人から告白されたり、アプローチされたりとそれなりに恋愛イベントはあったもののいつも気乗りしないという理由で断ってきた。
元々男性を異性として恋愛対象として好きになったことが1回しかなく(途中で嫌いになってしまったのだが)、多分ものすごく恋愛しにくい体質なんだと思う。
中学生くらいの頃から周りの女の子たちが誰が好きだの、クラスの〇〇くんと付き合いたいだのという話題で盛り上がるなか、私は全くついていけずいつも「〇〇くん優しいもんね」とか適当な相槌で逃れることしかできなかった。
昔から恋バナに参加出来ないことが小さな悩みでもあったが、中学生のころは「まあ大学生になるころには彼氏の一人や二人はいるっしょ」と気楽に身構えていた。
そんな気楽に構えていた私も早25歳。
彼氏いない歴=年齢。
大学時代も「やばいよな〜」と思いつつもそんなに内心慌ててなかった。
周りでも彼氏がいない子はいたし、今までできたことない子もふつーにいた。
「まだ学生だし」という気持ちに甘えてしまい、異性のアプローチもめんどくさいという気持ちからのらりくらりとかわしてしまっていた。
「滅多に恋なんかしないんだから気になる人がいたら全力でいく」という目標をかかげた大学時代は一気に過ぎ去り、留年も浪人もしなかった私はストレートで社会人へ。
「環境が変わったら彼氏くらいできる」と思っていたのだが仕事の最中に恋愛できるほどの余裕もなく、気になる人すらできない日々。
しょうがないので合コン等に参加するようになったのだが、よくある「最後の彼氏とはいつ別れたの?」という質問に毎回頭を抱えながらひたすら「1年くらい経つかな〜」という適当な嘘で誤魔化している。
最近、彼氏がいないこと、まともに恋愛したことがないことよりもひたすら自分の恋愛遍歴に嘘をつくこと、彼氏がいないことを理由に職場の人にアプローチされたりするのにうんざりし始めている。
いい加減本気で彼氏を作りたい。
ということで……
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将来への不安、死ぬ事への恐怖、結婚できるかどうかとか、そういったものだけを普通の人は「つらいきもち」として認識しているらしいことにここ数年やっと理解が至った。自分の場合はそれとはまた別の正体不明の「つらいきもち」も存在していて、これも含めて一般的な「つらいきもち」だと認識していた。みんなもそうなのかなぁと思っていたけど、違ったっぽい。これじゃ普通の人とは微妙に話が噛み合わない上に誤解されるわけだなぁと。
自分も自分で、なんでそんな斜め下の解釈するんだと腹が立つ事がよくあったけど、その「斜め下」の解釈がむしろ一般的であって、自分が運悪く例外的な経験をしてきた事で認識が違ってしまっていたらしい。
そしてこれまでは、自分のこの「つらい」の正体を正確に把握できた事がなかった。何故かと言うと、気持ちの原因を思い出すことが精神的に非常に苦痛だったため。
原因というのは家庭環境、養育環境のことで、学生時代にもこれについての問題意識はあった。
ふとした切っ掛けでスーザン・フォワードの「毒になる親」と出会って実際に読もうとしたけど、冒頭の数ページ読むだけで精神的に不安定になってしまい、結局その時はそのまま先には進めなかった。大学卒業後も同じことを4年くらい繰り返していた。
でも一人暮らしを始めて2年経ち、転職をしてという直後から半年間立て続けに起きた出来事に対処する一環としての取り組みの結果、最近では「つらい」の比較的ちゃんとした輪郭と、具体的な内容と原因が把握できつつある。「毒になる親」も最後まで目を通すことが出来たし、関連する他の書籍にも手を出せている。
自分の「つらいきもち」の正体は自分の歴史的経緯から来るものだという事が確信できた。ただ、その歴史的経緯を自分に対して現在も無意識に適用しているのは自分自身だという事も段々分かってきた。
一言で表すなら「毒親の影響」ということになるけど、もう少しちゃんと表現するなら次みたいになる。(まだちょっと分析甘い)
今認識できている範囲の話だけど、これらが自分の「つらい」のキモのように思っている。
「毒親」ってワードを使うとすぐケチ付けてくる人間がいるから面倒だし、言葉が暴力的にストレートだから別の表現が必要だと思わなくもないけど、それでもこの単語は凄く的確な表現だと思う。
幼い頃から刷り込みで自己否定などの「毒」を植え付けて、親と同じ空間におらず暴言を吐かれていない瞬間でも、自主的に自己否定を繰り返すよう教育することで、大人になったり独り立ちした頃には苦しみのたうち回り…みたいな。のたうち回るような元気が残ってる人がどれだけいるのかって話だけど。
虐待によるトラウマを除くと、毒親による影響で特に大きなものは親を自分に内在化してしまうことだと思う。これにより何が起こるかというと、自己否定をデフォルトとしてしまうことが挙げられる。
この自己否定はポジション的には超自我とかにあたるもので、本来なら自己否定なんかじゃなくて規範としてどちらかと言うとポジティブな物として機能しなくちゃいけないんだけど、親が精神的に未成熟だったり自分の人生の課題に対して答えを出せていないとかで不安定な場合は、「毒」を規範として植え付けられる結果になってしまうのかなと。
それがどのようにして植え付けられるのか、憶測込みだけど文字に起こしてみると案外悲しい感じになった。
思考するだけだとそんなでもなかったけど、文字に表してみるとやっぱりこう、悲しいというか、しょうもないというか、酷くがっかりする。
休日に少しでも長く寝てたり、病欠したり、平日に休暇を取ったりすると
とか頻繁に怒鳴られてたけど、あれは完全に自己紹介だったなと思う。当時はそう思う余裕は無かったなとも改めて気が付いた。
うちの場合は問題の中心は父親だったんだけど一方の母親は何をしていたかというと、俺をかばうどころか、フォローするどころか、傍観をするどころか、「あの人がおかしな事をするのはお前のせいだ」と罵ってくるタイプの人間だったので、自分の両親は味方ではないという認識だった。問題のある人間は問題のある人間とくっつくんだな、という気持ち。
兄弟は妹がいるけど、妹は味方というよりは共通の敵を持つ他勢力みたいな認識だったな…。
去年会って話をした時には、当時俺に対して「哀れだな…」と思っていたらしい。それは俺を庇って同様の被害を被るよりずっと利口だと思うし、去年妹と会話をして結果的に問題の改善が進んだし、妹が逞しく成長してくれていてむしろとても助かったと思ってる。「こっちに来るんじゃねえぞ、そのままいけ…!」みたいな。ありがとう。
少し前まで、どんな些細なことであっても何か考える度に最終的に「死にたい…」という結論に結びついていた。
去年あたりから「自分の親は毒親だった」と認識でき始めて、更にここ1,2ヶ月は「毒親」と濁すんじゃなくて、自分が経験させられた事を「親からの虐待だった」と自分に対して説明することができるようになってきた。
昔と比べてかなり進歩したと思う。昔ならそんな認識は恐ろしくて出来なかった。自分はそんな酷い目には遭っていないと思いたかったんだと思う。
そして少しずつだけど、自分のことを大事にするという概念が掴めてきているような気がする。
自分のことを大事にするといえば、最近また新たに気付いた事があって、これは個人的にはかなり収穫だと思ってる。近いうちに効いてくるはず。
初めの方で書いた「その歴史的経緯を自分に対して現在も無意識に適用しているのは自分自身」の事なんだけど、これについての現時点での理解をちょっと整理したいと思う。
大きく2つあって、1つ目は、この記事中で何度か出てきている「自己否定」「毒」という存在の在り方と、これがそもそもどこから来ているかについて。
自己否定が起こるのは自己評価が低いためだと思う。じゃあ、自己評価が低いのはなぜ?という話になってくる。
自分の欲求をちゃんと満たしていないためだというのはあるかもしれないけど、自分の場合はそれよりも重大で根本的な問題として、延々とされ続けた親の否定的な刷り込みの存在が強いと思う。
親から虐待や人格否定を受けることで幼い子供の自己認識は「自分は無力な人間、ダメな人間」となり、それがそのまま人生脚本となり、無意識にそのように振る舞ってしまいそのような人間になる。
それを精神的に未熟な親が自己有効感を得るエサとして利用(虐待、人格否定)し、それにより子供は更に自己無力感に陥り…という、子供にとって悪夢のような悪循環が発生する。このサイクルが「否定的な刷り込み」の実態であり、毒親が子供に植え付ける「自己否定」や「毒」の正体なのだと思う。
この強い自己否定感、自己無力感は、親が自身の無力感や精神的な不安定さをカバーするために押し付けられた親自身の問題であり、こう認識してしまうともう親に対して「ぶっ転がすぞ」という気持ちでいっぱいになる。
以前は親に対してこんな認識を持つどころか「もう人生だめだ…死にたい…」となっていたのでこの気持ちも進歩だと思う。
つまり、自分に対する自分の認識は、無意識に親の自分へのニーズを反映したものであり、自分が自分を正しく認識した上で自分に下している判断ではない。
内面化した親のニーズで自分を見ていたのだ!(強調したい部分)
「毒親を内面化してしまっている」という表現は書籍やブログで何度か見かけていて、ただ実際どういう状況になっているのか全然理解できていなかったけど、この考えに至ってようやく合点がいった。であれば、ひたすらに自己否定をしてしまうのも納得がいく。親の抱える問題を解消できない限り自己否定は続くんだと思う。
親からしたら本来親自身が頑張らない限り親が死ぬまで未達だし、親が死んだ後であっても、内面化した親(のニーズ)から見て未達なので、子供は無限に自己否定し続けることになる。
自己否定の原因を正しく特定して認知を変えないと死ぬまで自分を否定し続ける。
こんなの「毒」じゃなかったら何だっていうんだ。現代の呪いじゃん。洗脳とも呼べるのかもしれない。まぁ「刷り込み」って「洗脳」の呼び方変えたようなもんだし同じようなもんか。
2つ目は、やり場のない感情とその矛先について。
ここひと月ちょっとは、過去に親との間にあった出来事と当時の自分の感情を、出来る限り思い出して言葉として書き出すという事をやっていた。
これによって狙っていた事は、自分の意思だけでは思い出し切れないトラウマ記憶に近い時系列の記憶に迫り、文字に起こして認識することで「過去の出来事、終わった事象」として自身に印象付けようとしたのと、あわよくばトラウマを芋づるで掘り当てて、当時の自分の解釈を現在の自分の解釈で認識を上書きすることでトラウマを軽減、解消する事だった。
精神的な負荷が高いから嫌だったんだけど、EMDR以外では1人で出来るもので現実的っぽそうなのがこれしか無かったので、今の自分であれば精神的に安定している時なら回復にそれほど苦労しないと判断して挑むようにしている。
結果的にはまだ解消に至ってはいないけど、認識できていなかった事を認識することが出来た。
自分で自分の感情を無視していた事に気が付いた。これ文字にすると厨二臭くていやだな。
無視していた感情というのは、具体的にはある期間の横暴を働く親とそれに対抗できない自分に対する強い憤りなんだけど、当時の自分はストレス発散の手段を親に奪われた挙句に愛玩動物の延長みたいな扱いを受けていたので、感情を解消したり発散する機会が無い状況だった。
自分の意思を表現すると「立場を思い知らされる」ので、あまりの怒りと無力感から自分の机に伏してバレないように動物みたいな唸り声を上げたりしていた。趣味も生き甲斐も取り上げられ仲間とも断絶されて、ストレスから肌も顔も荒れ放題、耳は切れて黄色ブドウ球菌に侵されてリンパが垂れ、首筋もあかぎれのように切れてしまい、腕の皮も荒れて剥け落ちてという有様で、生きているのがひたすら苦しかった。
病院には行っていたけど、治癒のスピードよりもストレスによる身体の破壊が早くて当然なかなか治らなかった。鼓動が早くなっていて体温も通常時より高く感じていたので、自律神経失調症にもなっていたなと思う。これまでで一番白髪が多かったのもこの頃。友達からは「お前、なんか覚醒するんじゃねえの」みたいな軽口を言われてちょっと救われた。高2〜3の頃だったと思う。
これを書いていると、今すぐ家を飛び出し実家に乗り込んで、徹底的に仕返しをしてやりたいという衝動を自分の中に確認できる。この期間は同じく家庭環境が複雑な友達が支えてくれていたお陰で、問題を起こさず自分も生き延びる事ができた。その友達との連絡は今はもう取れなくなっている。まだ生きていてくれると嬉しい。
この記憶を思い出した事で付随する感情も引きずられて出てきて、この時に気が付いたのがここ数年ほとんど自分の怒りらしい怒りを認識していなかったという事で、なんというか新鮮な気持ちになった。感情が揺れ動くのがなんだか嬉しくて、ちょっとワクワクした。
「怒りを感じていなかった」というのが実は大問題だったと思う。
この怒りの矛先は本来親に向けて抵抗するために利用すべきだったものなんだけど、利用できていなくて、そして最近ありありと思い出せたという事は当時のフラストレーションが解消されず残っているという事になると思う。解消できていないのならそれを感じなくなってしまっていたという認識はおかしくて、じゃあ認識できなくなっていたそれはどこに向かっていたかというと、これはまだ検証中ではあるんだけどどうやら自分自身に向かってしまっていたっぽい。怒りの矛先が自分に向かうことで、自己否定を一層強化してしまっていたんじゃないかと思う。
「しんどいのは親に向かうはずの感情の向き先が自分になってしまっていたため」と考えてみるようにした所、体が以前よりも軽くなり、洗い物が出来ない、風呂に入るのがつらいなどの恐らく精神的な問題が急に改善されだしたのは大変嬉しいんだけど、ネガティブな側面として最近色々な事にすぐイライラするようになってしまって困った……。これは多分……親に向けるべきものが溢れてコントロール出来ていない的なものかな……と思ってる。
でもこれは創作活動に転用できるエネルギーだと期待しているので、自己否定の改善と併せて、またしょっぱいながら活動を再開していけるんじゃないかと自分には期待をしてる。
つまり何が言いたいかというと、動けない、簡単な事ができない、しんどいという状態は何かしらのネガティブな強い感情が無意識に自分に向かうことで強いストレスを生じ、そこから起こる精神的な問題なんじゃないかと思う。と書いたところで気が付いたけど、よく見かけるような文になったし、そんなに発見ではなかったかもしれない。でもこれまでの情報との紐付けができたので、これはこれで知見かもしれない。
最近の取り組みは方向性は間違っていないと思う。例え間違っていても、死ぬまでに目的を達成するためにも引き続き認知の歪みを直す取り組みを続けたい。
「やりたい事をやらないのが苦しい」のは当然だけど、「やりたい事をやるのも同じように苦しい」というのは異常だし、このままじゃ今度こそ気が触れるかもしれないので、出来るだけ早く絶対にこの状況を脱したいです。おしまい。
一人暮らしを始めて転職して、そしてまた引っ越した際には保証会社を使ったので住所を自分からは伝えていない。確認は可能らしいけど。
ゴミ親父は前々から借金していた事が去年発覚して、その際に出向いて縁を切ってきた。俺のこの先10年間と俺の収入を返済に充てたかったらしい。ぶり転がすぞ。
母親は発覚直後もほとぼりが冷めてからも、問題には触れようとしない他力本願ぶり。あんたは昔から自分にとって都合の悪い事はどんな些細なことからでも逃げるよな。いや、借金は父親の独断だからその点だけは間違っちゃいないけど自分が住んでる土地?家?が担保にされてるのにそれは無いでしょう。
みたいな状態なので、実家はもうどうにでもな~れという気持ち。妹ちゃんも脱出がんば。応援してる。
早く人間になりた〜い
https://anond.hatelabo.jp/20180414203954
レッドブルとの契約上、レッドブルのスタジオを使わざるを得ない、と言われている。
実際、去年の決勝は幕張メッセに4000人集まった。
>タワー0本って完全試合みたいなもんだよ?
ストレート負けは春期決勝のお約束だが、さすがにタワー0本は前例が無い。
とはいえ、シーズン中はUSGやDFMに負けているし、練習にすらならない程の1強状態ではない。(前半のペナルティが無かったら無双していかもしれないが)
私には女性的魅力がないのだろうか?
私は最近18歳になったばかりの女子高校生だが、もうこの女子高校生という特別なブランドはあと一年もしないうちになくなってしまう。
それなのに、私は告白されたことがない。痴漢をされたこともない。
私の友達は告白されたことがあると言う。痴漢されたことがあると言う。
世の中の女の人たちは「痴漢は怖い」「男の人が怖い」と言うし、友達もとても怯えた様子で私に痴漢されたことを伝えてきた。
でも、私はそれを聞いても「羨ましい」と思ってしまう気持ちが少なからずある。
男性から性的対象にされているというその事実がとても羨ましく思えてしまう。
私はデブだった。でも、痩せた。今は摂食障害気味で吐き戻してしまうこともあるのだが、一応標準体重(BMI21前後ほど)で「気持ち悪い」体型ではないと思う。
オシャレを気にしていないなんてことはない。ちゃんとトレンドを意識した服を着ているし、制服だって校則を守りすぎた長くてダサいスカートになんてしていないし、髪の毛はミディアムロングのストレートを下ろして前髪を適度に巻いている。
一重なのがコンプレックスだけれど、だからといって目が小さいわけじゃない。一重なのがダメだと言うなら私が先ほど上げた痴漢された友達は一重だった。私よりも目が小さかった。
私の顔は極度のブスじゃないと思うのだけれど、自分の顔だからそう思うのだろうか。一重以外にはそこまで大きなコンプレックスになるものはないと思っている。
今の顔は自分的にはレッドベルベットのスルギに似ていると思う。
口ゴボじゃないし、蒙古襞もないし、東洋人的な顔だとは思うが、ブスと罵られるほどではないと思う。
可愛いか?と聞かれたら違うかもしれないが。
私が気づいていないだけで周りの人間に過食嘔吐しているとバレているのだろうか。
オタクだから?私がアニメオタクで声優オタクでジャニーズオタクで腐女子だからダメなのだろうか?いや、それならやっぱり痴漢されたという友達はアニメオタクで声優オタクだった。オタクでも痴漢されるし告白される。
私が告白されることもなければ痴漢されることもないのは何が問題なんだろう。
男性に性的対象として見られてみたいし、それに対して「気持ち悪い」と言うことすらしてみたい。
自分という存在に価値を感じたい。好かれる、愛される、ということを経験してみたい。
見た目に問題がないとしたら(一重が問題ならば整形するという解決方法を試す価値はある)、中身に問題があるのだろうか。
性格にそんなに難があるのだろうか。女友達は人並みにいると思うし、連絡先を交換している男友達は片手程度だがいるにはいる。
友達がいるということを考えるとそこまで過剰に性格に問題があるわけでもない気がする。
私の何がダメなんだろう。
きっと私が何も気づいていないだけで全部ダメなんだろう。
見た目も中身も、何もかも。
なんだこれなんだこれなんだこれ。
あまりにスッキリしなくて映画館でてからも身震いのような気持ち悪さが引かず肩を縮こまらせてみたり腕を拭ったりぴょんこぴょんこ跳ねてみたけどそれでも気持ち悪い感覚が引かず最寄りの喫茶店に駆け込んでカフェラテを飲みながらこれを書いてる少し落ち着いてきた。
アニメ映画に限らずエンタメであることが求められるこのご時世にこれだけ監督が気持ちいいもの垂れ流しました的な物語が劇場公開できてかつ絶賛されてるのをみると世の中健全だなあというか捨てたもんじゃないなあと思うけどやっぱ許せそーにねーわっていうか辛い(言えたじゃねえか)。
でまあ何が気持ち悪いかっていうと希美なんなのアイツってことなんだけど。
本音言わないにもほどがない? ずっと嘘くせー笑顔うかべてるしさあ。一番「あ、こいつキチガイだな」って思ったのは優子がキレてるところでもニヘラニヘラしてたところだな。あそこは普通なら申し訳ない顔をするなり逆ギレするなり何なりリアクションがあったはずなんだよそれを普段と変わらない笑顔でやりすごすとかさすがに何なのコイツってなるわ。
そういう本音を一切語らない希美が描かれた末にみぞれが羽ばたいてあーこっから変化きますわ変化って思ってたら何も起きずむしろ語らなさが強化温存されてENDってさすがにねーわ音大行くのやめたのみぞれにけっきょく言ってねーだろ何だコイツ。
それでもメタ的にそれを指摘するパースペクティブが用意されてるならいいんだけど(嫌だけど)でも作品として「disjoint→joint」ってやっちゃうわけじゃん。いやこれで解決されてるとか主張するのはさすがにソシオパシス疑うわwww
もう少し話を整理する。
この話はTVシリーズからずっと続いていたみぞれの希美に対する一方通行的な気持ちにどう決着をつけるかって話だ。
みぞれは希美に対してオンリーワンだけど、逆はワンオブゼムにすぎない。お互いがお互いに抱いている感情が等価ではないという問題はこのふたりにずっと横たわっていて、TVシリーズ2期の序盤でこれを取り上げることによって一定の解決をみた(が、実はTVシリーズは視聴者を慮ってか原作に比べてかなり手加減したつくりになっている。原作ではこの落差を青春が持つ残酷さとしてストレートに描いており、解決がつくどころか希美の無理解さが強調されるエグみを持っていた)。
さて『リズと青い鳥』においては同名の架空の海外小説とそれを原作とした吹奏楽曲を補助線とすることでふたりの距離に改めてスポットを当てている。
『リズと青い鳥』はひとりぼっちのリズのところに彼女を哀れんで青い鳥が少女となってやってくるという話である。最初ふたりは幸せに暮らすが、リズはやがて少女が青い鳥だと気づき、彼女は大空を自由に羽ばたくべきだと主張する。ひとりぼっちだからといって己が鳥かごになって大空を自由に飛べる青い鳥を閉じ込めることは許されないというわけだ。それはリズの愛である。青い鳥はそれを悲しむが、リズの気持ちに応える形で大空へと旅立つ。
当初みぞれはリズに自分を重ね合わせる。闊達で皆の中心にいる自由な希美を遠くから眺め、自分なら青い鳥を手放しはしないのに、リズの気持ちはわからないと言う。だが臨時コーチの新山との対話の中で、青い鳥がリズの愛に応える形で飛翔することへは理解を示す。良かれとおもって彼女の元に来たことが却って彼女を苦しめるなら大空へと羽ばたく姿を見せることをもって彼女を幸せにするのだ、という解だ。だがそれは現実のみぞれと希美の関係にはそのままオーバーラップしない。
吹奏楽『リズと青い鳥』においてみぞれオーボエ希美フルートはそれぞれソロパートを担当する。曲の成否を決める重要なパートだ。だが希美のクオリティが低く、みぞれが無意識的にそれへ合わせることで滝も麗奈も納得しない出来になっていた。それをみぞれが「羽ばたく」ことで解消する。しかし希美はリズじゃない。覚悟を決めて申し出たリズと違って、希美にとってみぞれの「羽ばたき」は寝耳に水で目をそらしていたみぞれと自分との力の違いをまざまざと見せられることになってしまう。希美はみぞれに「手加減してたんだね」「みぞれはすごい。自分のような凡人とは違う」と醜い感情をぶつける。ここまでは理解できる。が、ここから先がないことは理解できない。事件は起きた。が、解決とまでは言わないまでも変化がないことは理解できない。みぞれと希美の関係は、あのなんか表面だけを取り繕っている妙な関係に戻ってしまうのである。本当に理解できない。
希美が音大進学を諦めたことは参考書を借りている描写からもわかる。くどいほどに強調されていた希美が一歩先を行きながらみぞれといっしょに音楽室に向かっていた今までから希美は図書室に勉強へ、みぞれは音楽室に練習へ行っていることからも道が分かたれたことは明確に描写されている。
だが音大進学をやめたことを伝える描写はないし、おそらくみぞれもそれに気づいていない(それぐらいノーリアクション)。希美はみぞれの目の前で参考書を借りているし、練習したみぞれが図書室で勉強していた希美と落ち合ってお茶して帰る描写があるので、現象として「希美音大進学あきらめた」はみぞれの目の前で展開しているのであるが、みぞれはノーリアクションなのでやはり気づいていないと考えるべきだろう。気づいてなお普段を演じているのだとしたら、希美以上にみぞれがぶっ壊れている(付言しておくと図書館が普通科の大学、音楽室が音大を暗喩し、それぞれを出て合流してお茶するところが、道が別れても一緒にやっていけることを暗喩してはいる(映画けいおんのセルフオマージュ感はあった)。しかしそれは言葉だけでそう表現されているに過ぎず、何も解決されていないことから額面通りに受け取ることはできない)。
事件は起きた。が、変化が起きないどころかお互いの距離と無理解が強化温存されてしまった。それなのに「disjoint→joint」とやってしまうのは、さすがに気持ち悪いとしか言いようがない。
ただ歩いてるだけであんな音はぜってーしねえと冒頭からツッコミ待ちな辺りそうとう振るっている。音がもたらす強烈な違和感によって、アニメーションだからこそ描き得る「体温」とでもいうべき何かが嫌でも強調され、作品の表現したい内容がプリミティブな形で視聴者の前に突き出される。
映像にしてもそうである。潤む瞳や流れる髪などアニメーション的誇張を重ねて表現された絵は、アニメーションであることの自覚ぬきに成しえない。アニメーションだからこそようやく可能な表現に挑戦した意欲作だと言える(アニメ『めぞん一刻』において、五代が「なんで泣くんだよ。なんで……」と言った響子さんの涙を思い出した。あれもアニメでなくては表現できないし、成立しない映像表現である)。
■2018/4/28追記
https://anond.hatelabo.jp/20180427225401
いやいや。
希美は内面を表情に出さない本心を語らない(いつも嘘くさい笑顔をはりつけている)キャラクタとして設定されていて、その強調として彼女を中心とするクラスタが表面的な付き合いに見えるような描写は繰り返しされている(むろん希美にはみぞれ以外の友人が沢山いる、希美しかいないみぞれとは違って、というためのものでもあるが)。
みぞれの後輩である剣崎梨々花が「先輩といっしょにコンクールに出たかった」と号泣するのはそれとの対比であり、畢竟、希美とみぞれ及びそれぞれのキャラクタの周りにいる誰が本心を語っているのかということを浮き彫りにするためにほかならない。
優子に詰められた時の対応などを見ても、希美が(本心を語らないという意味で)信頼できない語り手的登場人物として描かれていることは疑いようがない。そこから彼女が「変化」したと捉えうる描写もないため、増田が「濡れ場」と称する場面でも彼女の表情や言葉を額面通りに受け取ることはできない。
そもそも(原作)ユーフォは、みぞれと希美がそれぞれ相手に寄せる好意の量の差異を赤裸々に露わにし、青春とはかくも残酷なのだと描写した物語だ。物語がその残酷さに直面したとき、原作においては久美子が「うわこれキッツ」というようなリアクションを密かにすることで、それをどう物語として扱うかというパースペクティブが用意されている。が、リズと青い鳥にはそれがない。
希美が相談なく吹部をやめたことでみぞれはショックを受けた。相談がなかった、知らされなかった、自分はその程度の友人でしかないのだという事実が彼女を傷つけた。希美の音大やっぱやんぴはそれの繰り返しであり二度目だからこそ余計につらいわけ。だから優子はキレた(なのにニヘラニヘラしてやりすごす希美!)。じゃあ実際みぞれがそれを知ったとき彼女はそれをどう感じるのか、ということは「食事やトイレに行」く描写があるかどうかとかとはまったくもって次元の違う、映画において回避すべきではない描写にもかかわらず映画はそれ回避してしまう。ずいぶんと不誠実ではないか。
みぞれは最後、オーボエを続ける選択をする。それをどう解釈すべきか。
みぞれは希美といっしょにいるためにオーボエを吹いていた。一歩下がってついていくようなみぞれは希美に嫌われたくない。だからオーボエも、希美に合うようにもっと言うなら彼女を超えないように抑えられていた。鳥が自由に羽ばたくところを見れば、地べたを這いずり回るしかない人間はあるいは鳥を嫌いになってしまうかもしれない。そういう恐れを鳥が抱いても不思議ではない。だが青い鳥は、リズに励まされ、大空を舞う。翼はもともと持っていたものだが、リズの励ましによって青い鳥はもういちど空を自由に舞うことを選択する。それこそが、あなたがわたしに望んでくれたことだから。だからこそ大事にしたい、続けたい。
という読みが妥当だろうが、納得してそう受け取るには希美が音大に行くことをやめたと知ったみぞれの描写なくしては無理だし、リズが青い鳥を支えたように希美がみぞれのオーボエを支えると口にされても、希美への信頼がゼロなのでそれは難しい。そういった明らかな構造的不足を映画は無視したまま終わってしまうので、信頼もへったくれもない。
ところでこういった感想は、映画を見て心で感じたことを言語化して初めてでてくるものであって、「小難しい理屈」などでは決して無い。ということぐらい最低限理解してからコメントをつけるべきだろう。
その日僕は、様子見のために会社が新しく立ち上げたバルに立ち寄った。
いつものようにSが近寄ってくる。
1名はすでに履歴書で確認していたのでなんとなく人物像を描けていたのだが、もうひとりを見て口から心臓が飛び出そうになった。
Kと名乗るその女性は、僕がまだこの会社でペーペーだった頃に猛烈な恋心をいだいたZに生き写しのようだったのだ。
少し鼻にかかる声、長い手足を更に大げさに振り回すようなリアクション、育ちの良さから来るであろう無自覚に人を見下ろすような言葉選び、そして時折、吸い込まれそうなほど大きな瞳で時が止まったかのようにこちらをじっと見つめてくる癖までも、何もかもが同じだった。
しかし、いくら生き写しのようだとしても初対面の見ず知らずの女性だ。
準備運動もなしに階段を一気に駆け上がったかのような鼓動をさとられないように冷静に挨拶を交わす。
ただ、そうやって話せば話すほど、彼女は隅々までもZと同じだということがわかった。
あれから15年が経とうというのに、まさかこんなに胸が苦しい思いをすることになるとは思いもよらなかった。
そんな時唐突に、Sからそろそろねぎらいの食事に連れて行って欲しいと提案を受ける。
この男は全く無神経なところがあるが、今日に限ってはその無神経さが染みるほどにありがたく感じた。
「それならば今日の閉店後はどうか。たまたま予定が空いている。」
そういうとSは早速その場にいる人間に予定の確認を行い、かくして閉店後、すぐ近くにある居酒屋でテーブルを囲うことになった。
はすむかいの、Kとの視線が直接交わらない位置に座ると、僕は周囲にさとられないように改めて彼女を観察した。
Zの娘なのではないかと疑わなかったわけでもないが、聞けば23歳だというKの年齢を考えるとそれはあり得なかった。
僕を含め、まだあってから日も浅いであろうバルの従業員たちに対しても、Kは喜怒哀楽を隠すことなく誰にでも等身大でストレートに交わっていた。
世間に出たての、恐れることも疑うことも知らなかったZと同じ、見ている人間をどこか心配にさせるほどの天真爛漫さに、もう若くないはずの自分の胸の奥にある甘酸っぱい感情が刺激されるのがわかった。
こちらが感傷に浸っていると、Sがこそこそと耳打ちをしてきた。
聞けばキャバクラに行きたいのだが一緒にどうかということらしい。
ある種悶々とした気持ちを引きずったまま妻子の待つ家に帰るのも気が引けると小声で承諾すると、Sは唐突に皆に向かって叫んだ。
「お前ら!次はキャバクラ行くぞ!」
よせばよかったという後悔と、別に自分がそういうところに出入りすることをKに知られたから何になるのかという自問自答に挟まれながらふと顔をあげると、なぜかKは目を輝かせながらSを見て「わたしも行きたい!」と言い放った。
Sは当然のようにそれを受け入れると、Kに加えてもうひとりの新人と、店長であるDを含めた5人でキャバクラに行くことが決まった。
すでに終電も終わっている。ここかはらタクシーに乗らなくてはキャバクラに行くことは出来ない。
Sと新人女性2名、自分と店長に分かれて2台で2つ隣の駅までタクシーを走らせる。
タクシーから出ると、Sはなれた様子で客引きに声をかけて早々と値段交渉を始める。
それを待っている間の悪さをさとられないように、残りのメンバーとは当たり障りのない仕事の話を交わす。
いよいよ交渉が成立し、客引きに連れられて店へと入ろうとすると、Sがニヤニヤとしながらこちらに近づいてきた。
「値切って安くさせたのでよろしくおねがいしますね!彼女らも喜んでましたよ!」
こやつ、女性の手前断れないだろうと支払いをこちらに押し付けようとしてきたらしい。
酔いも手伝ってか、この一言で完全に頭に血が上った。
「ふざけるな!どうしてお前はいつもそうなんだ!自分の根性を見直してこい!」
自分もいつもなら社長が一緒でなければこういった場所にはいかない。
お金が勿体無いという以上にそれほど興味がないし、社長と一緒にいく理由も、社長は男同士が腹を割って話すのに必要な儀式だと譲らないからだ。
居酒屋で耳打ちしてきたときから、Sは全てを計算の上だったのだろう。
しかし、Sは怒鳴られて悪びれるどころか横目でこちらを一瞥して舌打ちをしただけでその場を去っていってしまった。
怒りにまかせて身を翻し駅前のタクシー乗り場へと向かうが様々に渦巻く感情を引きずったまま家に帰る気にはなれずに、しかたなく気持ちが収まるまで立ち飲み屋で過ごすことにした。
Kに対して下心がなかったわけでもなく、見栄を張りたい気持ちがなかったわけでもない。
それをSに見透かされたような気がして、そんな自分に一番に腹が立ったのだ。
このままではどちらにしても家族に合わせる顔はない。
唐突に孤独感に襲われると、そこから逃れるように8年前に別れたHを携帯電話のアドレス帳から探し出して呼び出しをタップした。
Hである理由はなかったのだが、Hなら電話に出てくれそうな気がしたのだ。
しばらくの呼び出しの後、「どうしたの?」と訝しげな様子のHの声が聞こえてきた。
「すまない。特別に理由があるわけではないのだけど、ただ、少し声が聞きたくなって。」
「今から来る?」
色々とこうでなくてはいけないと押し付けてくる彼女が面倒くさくなったのだ。
何となく彼女もそれに気づいていたのだろう、数回の着信を最後に、一切の連絡はなくなった。
その後半年もせずに僕は、親同士の知り合いによる紹介でお見合い結婚をした。
仲人の方が二人をよく見てくれていたのか、お見合いから早々に意気投合し、半年で挙式、そこからちょうど11ヶ月で長男が生まれた。
結婚生活には満足している。
それまで見ず知らずだった僕に、妻は本当に良くしてくれている。
ただ、2人目の娘が生まれて4年。その妊娠以降、セックスはない。
「30分あれば着きます。」
それだけいって電話を切った。
Hは8年前と同じ様子で僕を迎え入れてくれた。
相変わらず僕の服装や行動一つ一つに、こうでなくてはいけないと色々と注文をしてくる。
今なら笑って受け流せるが、これも半月も持たないだろうと心のどこかで考える。
テーブルをはさんで、何も生み出さない会話と発泡酒だけがいたずらに消費されていった。
気がつくと時計は3時を過ぎようとしていた。
何も連絡をしないままでは妻に怪しまれる。
”申し訳ない。少し飲みすぎてしまった。朝までSの家で休んでから帰ります。”
「誰にメールですか?」
Hの問に「あぁ、妻に。」とだけ答える。
Hも「そう。」とだけ答える。
「わかりました。お気をつけて。子供の出番までには間に合うと、きっと喜びます。」
子供の屈託のない笑顔に、急に冷水を頭からかけらたかのようにはっとする。
自分は今どこにいて、今まで何をしてきて、これから何をしようとしているのだ。
猛烈な後悔が押し寄せる。
涙で目の前はかすみ、アルコールを多分に含んだ血液は音を立てんばかりの勢いで回り始める。
周囲の音は一切が聞こえなくなり、ただただ息が苦しくなる。
いくら息を吸っても苦しさは増すばかりで、体内のありとあらゆるものが溢れ出ようと小さな口へと殺到してくるのがわかった。
身体の内部から気管が塞がれもう吐くことも吸うこともできない。
今日、僕がたどった道のりを妻はSからどのように聞かされるのだろう。
死にゆくときさえも後悔で終わっていく自分の人生に、薄れゆく意識はどうしようもない情けなさと悲しさで滲むように満たされていくばかりだった。
ふと枕から顔をあげると、先程の息苦しさが嘘のように新鮮な空気が身体へと流れ込んできた。
肩で呼吸をしながら逸る心臓が収まるのを待つ。
涙で目の周りがぐしゃぐしゃになっているのがわかった。
音色の違う穏やかな寝息が耳に聞こえてくる。
カーテンから差し込む光が、まだ夜が明けたてだということを教えてくれる。
僕は一度死ぬことが出来た。
後悔のない人生の終わりはきっとないだろう。しかし、家族をいたずらに悲しませることは避けることができるかもしれない。
まずはこのぐしゃぐしゃの顔をさっぱりと改めようと、寝室の扉を音を立てないように静かに閉じた。
この意見を聞いて思いましたがもしかしたらもともとの質問者さんは
ストレート(男女異性が性的対象)、ゲイ(同性のみが性的対象)のように完璧に人の性癖がラベルを貼って区別できるものというふうに思われているのかもしれませんね。
ですが実際には同性愛者をカミングアウトされた方であっても、その後異性と結婚をしていたり、または先に異性と結婚していてものちに同性と恋愛感情を持たれるケースも非常に多くいます。
ですので「ホモを排斥しろ」というのは単純なことではなく「男同士(女同士)のセックスを禁止しろ」ということではなく「同性同士で社会生活を送ることを禁止しろ」や「同性に恋愛感情を持つことを禁止しろ」といった非常に広い解釈ができるようになってきます。
おそらく質問者さんのようにLGBTに非常に強い嫌悪感をお持ちの方というのは同性愛が社会的に認知されること自体に強い忌避感を持たれているのではないかと思います。
ですが実際にLGBTなどのセクシャルマイノリティが希望しているのは同性婚や社会的な不利益からの解放といった部分のみであり、社会的認知とは全く違った問題になります。
法的な支援というのはその部分に関わってくるもので、同性婚についても法的に認められることにより社会的な認知度(世間的忌避感)がどの程度になるかは全く別に考えなくてはいけません。
LGBTについては数百年前より議論がされてきており、私の意見もそうした先人たちのものによるところが大きいので、むしろ現在の感情論による質問者さんのような方はどんどん言ってきてもらいたいと思っているところです。