はてなキーワード: ストレートとは
「幸色のワンルーム」が批判されている理由って、自分が「魔法使いの嫁」を好きになれない理由とおおむね一致する。
あの漫画、魔法使いの男が奴隷をお金で買って嫁にするなんて話だもん。しかもそれで、買われた女の子が居場所を得て満たされる。とても似たような話だよね。
金銭で奴隷を買って嫁にするっていうのは、比喩でも何でもないそのまんまの意味で、海外では現在進行形で行われてることだからな。
そして、「魔法使いの嫁」を取り立てて批判する気にはならないのと同じような理由で、「幸色のワンルーム」を取り立てて批判する気にはならない。
同じような理由で好きになれない作品というのはいろいろあるが、それらはかなり高い割合で女性向け。「魔法使いの嫁」だってグッズ展開とか見る限り女性受けが強く意識されているし、件の「幸色のワンルーム」も女性受けがいい作品だし。
これは、女性が奴隷になりたいとか誘拐されたいと思っているという意味では全くないと思うんだけど、その論理を理解することができない人はたくさんいるんだよね。真面目に話を進めたところで、人間は相互理解不能なのだ、という結論しか得られない。
そうなると、事件を揶揄する人たちが悪い! 被害者を守れ! という、それはその通りなのでは? という話しかできないし、それ以上に突っ込んだ話は絶対にできない。突っ込んだ話をするには、女性の欲望をいかに理解するのか、という話が不可欠だから。これは、少なくとも公に議論することは無理だろう(特にネット上では不可能だ)。
当たり障りない範囲で書くなら、例えば「魔法使いの嫁」について、男が女奴隷を金で買って嫁にしようという(しかもそれで女の子が居場所を得て救われる!)漫画なんて読むもんじゃありません、という説教を子どもは果たして聞くのであろうか? ということだね。あるいは、現代における奴隷の売買がリビアあたりで現実にどういう感じで行われているのかを子どもへ詳細に話してあげたとして、そういうのが子どもにとって良いことなのかどうか、とか。
そんな説教を素直に聞いて読むのを止めてしまう子どもは、別の意味で大変な問題を抱えていそうだなー、と思うわ。
その居心地の悪さにどう対処すればいいのか、という問題への現実解が、被害者を守れ、なわけだ。それはそれで大変いいことで、被害者を守れという呼びかけには、反対する要素も、議論すべき要素もなにもない。まったくもってその通り。被害者を責めるのはダメに決まっている。
この考え方を採用すると、文字通りの意味で「男が金で奴隷を買って嫁にする」ということは日本でほぼ起きていない(比喩であればいくらでも言えるだろうが)ので、日本で「魔法使いの嫁」を読むことは許される。よかったね! ……あー、やっぱ嫌いだわ、あの漫画。
ちなみに、奴隷やら誘拐やらの男バージョンがいわゆる異世界転生だと思う。男の場合は死んで世界を変えてしまうところまで行かないとならないあたり、真面目に考えるとけっこう深い闇なのだとは思うが、だからといって批判する気にはならない。気晴らしの空想すら許さないようでは息が詰まってかえって良くないし、実際に異世界転生するために死んだりしたらダメだぞ、って話をする気にもならん。カルト宗教での洗脳環境ならともかく、小説を読んだだけで「俺は死んでファンタジー世界に行くのだ!」とか、「アイツは死ぬことでハーレム世界へ飛び込むことに成功したんだ!」と本気で考える精神状態なら、必要なのは説教ではなく病院での診察だし、環境も変えずに本を読むのを止めるだけで良くなるという発想は大変危険である。
そうそう、こないだの先行上映で見た「万引き家族」は、話の作りが上記の作品群よりだいぶ良くないと思うんだよね。こっちは批判する気になる。
あの映画も幼児誘拐の話で、ストレートにそれを肯定するわけではなく、どう評価すればいいのかわからない、という体を取ってしまっているのね。
いや、それダメだと思うんだよ。どう受け取ればよいのか分からないという体を取れば、加害者への同情を誘うような見せ方をしても許してもらえるだろうというスケベ心が見え隠れしてる。妄想丸出しの「幸色のワンルーム」などよりも遥かに巧妙な描き方をしているだけに、結果的によりたちが悪くなっている。
もし仮に誘拐することによる「救い」が実際にあったとしても、そんなもんは社会には不必要なものだし、そういうのは政府機関とか、法的に許可を取った団体とか、個人がやるにしても分をわきまえた形でやることだ、ってのが現代社会の結論だよね。
仮に捨てられた人が捨てられたまま死んだとしても、それは政府とかが悪いのであって、見かねて法を破って救うとかありえないから。法を破らないことで死んでしまった人が居るんだとしたら、安らかに死んでくれという祈りを捧げるくらいしかやれることはない。誘拐が人を救うなんて9割9分9厘9毛はウソだし、もし1毛あったとしても、それは少数例外なんだから忘れた方がいい。そんな人たちは存在しないと思っておいた方が「健全」だ。
だからあんな中途半端な描き方をしているのは大変によくない。最初から「幸色のワンルーム」みたいな甘い空想の世界にしてしまうか、でなければ観客を寄せ付けないほどの厳しさが必要な物語だった。どっちつかずが一番困る。
もう少しきちんというと、そういう1毛未満の例外者を描いているにしては、描写が観客寄りすぎるんだよね。ボロボロ涙流して感情を吐露し始めるところとか、言ってることの内容は観客の期待するまんまな上に、演技が上手すぎる。あれはもう少しどうにかならなかったのか。観客が加害者を理解するための筋道の提示が巧妙すぎて、映画に没入しながら見る分には加害者の複雑な心情を見ている気分になるんだけど、客観的に考えれば安易で危ういものになっている。
もし「幸色のワンルーム」が被害者の居場所をなくしているというのであれば、「万引き家族」もその批判から逃れられるようなものではないだろう。
とはいえ、映画としての評価は別。映画は話の内容ですべてが決まるわけではないからね。
「万引き家族」は役者の演技も撮り方も凄まじく上手くて、(幼児誘拐をダシにはしているが)家族の絆のあり方を問うという目論見はうまく実現されており、全体として主題の表現の仕方が優れている。だからパルムドールも納得だし、自分も好きではないが大変良い映画だと思っている(一応書いておくが、嫌味ではなく本当にそう思っている)。
「幸色のワンルーム」は、そういう評価軸では特に思うことが何もない。ドラマでも何でも好きにやればいいと思う。批判するのもされるのも自由だし、そっちの方がいい。
同性愛は変態特殊性癖ではなく単なる政敵少数者と認定されたけどロリコンは相変わらず変態特殊性癖認定されているからだよね。
ノンセクアセクはもとより。
よくLGBTは擁護されるのになんでロリコンは有罪なんだ!って言われてるけど、同性愛との共通点は繁殖不可能な組み合わせであるという点だけか。
カードキャプターさくらに小学生と恋愛してる教師いるけどたしかにあれはなんというか応援したくなるし変態特殊性癖感はない。
でもあれって小学生の彼女が大人になったら終わる恋愛ってわけでもなさそうだし根本的な小児性愛者ってわけじゃないのか。
自分はド直球にノンケストレートでフッツーの王道繁殖行為で大満足できる生きやすいセクシュアルに生まれたが、金輪際成人異性とみだらな行為をすると犯罪です!ガキか同性のみ可!とか言われたら困るよ。絶望するかもしれない。法をおかしたくなるかも。出家するしかない。
変態特殊性癖のみなさんは生まれた瞬間か後天的か知らんけどそうだと自覚を持った瞬間から一生合法的に恋愛ができない、快感行為に及べない&及んだら前科っていう絶望的状況なことには同情して余りある。
昔なんかのテレビで見たな無機物性愛者みたいな人。彼氏はエッフェル塔だっていう人がいた。あれは奇異の目で見られるけどまあ脱いだりしない限りは犯罪ではないな。
日本は知らんけど海外で牛や馬とファックスして捕まった人はいたな。
苦労するな。
幸せって人それぞれなんだなほんとに。
ノンセク最強じゃね?
いままで、なんらかの選考に「落ちる」という経験をしたことがない。
大学受験も第一志望にストレートで合格したし(早慶上智のどれかです)、就職活動でも、何度かの転職活動でも、常に合格してきた。
こう書くと自慢に見えるかもしれないけど、一方で「チャレンジしてきてない」ということの証左でもあるような気がして、少しモヤモヤする。
「ほんとに行きたいところ」以外を受けたことはないんだけど、その「ほんとに行きたいところ」を探すときにそもそも「自分でも行けそうなところ」っていうフィルターがかかってないかと聞かれたら「うーん、わかんないな」ってなる。
大学受験にしても、仕事にしても、努力しなかったわけではないし、努力したからこそ実績がついてスムーズに転職できてるみたいなところもあるとは思うのだけど。
今流行りの2.5次元舞台・ミュージカル、私はさっぱり興味がない。
大変失礼な言い方だけど、原作に興味もなければ、コスプレ舞台にも興味がない。
興味がなければ行かなきゃいい話なのだが、推しが出るとなると話は別だ。
推しはブーム以前の2.5出身ではあるもののストレートへの出演が多く、出身作以降ほとんど2.5作品には出てなかった。
それが何故か、最近は一昔前の2.5出身者、つまりただ若くてカッコイイだけでなく、2.5以外で経験を積んできたキャリアのある役者の出演が増えてきた。
その波に推しも巻き込まれたのか、現在情報解禁されているのはいずれも2.5作品だ。
推しは前から「若手俳優ではなく"実力派"若手俳優と呼ばれたい」と言っていったし、その実力が認められて結構大きなタイトルへの出演に繋がったのなら嬉しい。
嬉しいけど、2.5作品に出られても"面白そう!"とは思えないし、不安しかない。
変なファンがついたらどうしよう、観にいってうっかり原作を知らないことがバレて原作ファンに睨まれたらどうしよう、推しがキャラに似てないって批判されたらどうしよう、そんなことばっかり考えてしまう。
実際、キャスト発表の時に「誰?」「年やばくない?」「微妙」って書かれていたのを見て落ち込んだ。
あの頃はキャスト人気でキャラ人気まで上げた!って騒がれて誰もが知ってる人気キャストだったのになぁ。
2.5作品は原作ありきなので、観に行く人も原作が好きな人が多い。
だから、例えばチケット譲渡などでも"原作ファン優先""原作への愛が一番強い人に譲ります""原作イベントのチケット応募券を譲ってくれる方優先"と書いてある。
俳優ファンからすれば、推しが出ている舞台を観に行くのは当たり前の事でそれが一番の応援になるのに、それすらも難しくなってくる。
例えば時代物の芝居で歴史がさっぱりわからなくても、観にいってみるとこういうお話もあるのか!と興味を持ったこともある。
舞台はとにかく来客がすべてで、興味がなくてもきっと楽しませるから見に来てね、という世界だ。
それなのに2.5作品になると急に、原作を知らないのに俳優目当てで来るな、せめて勉強してから来い、と一部の人に言われてしまう。
いつもキャスト先行で楽々良席を取っていたのに、まずキャスト先行がないことで困惑してチケッ卜の取り方さえわからない上、推しは先行の宣伝すらしてくれなかった。(知らなかったのか宣伝禁止だったのかは不明)
いつもならチケット先行開始日は絶対に宣伝してくれるので、推しのツイッターさえチェックしとけば大丈夫でしょと思っていたのが間違いだった。難儀だ。
こんな感じの愚痴は推しが違えど似たような境遇の人からちらほら聞いた。
既存俳優ファンにとって、2.5作品を観に行くというのはかなりハードルが高い。
お仕事があるだけありがたいし、もう一生2.5に出るななんて言わない。
でも、どうかメインの畑はストレートのままでいて欲しい。
推しへ
今日も大好きです。
岩波ブックレット『ひきこもりのライフプラン 「親亡き後」をどうするか』の斎藤環氏が書いた部分に、
ひきこもりの子供に対して父親は上から目線で権威的に話し、母親はストレートな批判はしないものの皮肉や嫌味が自然に出てくる傾向があるとあった。
ではどのように話しかければ良いのかというと、個人的に素朴にまっすぐ伝えることだと。
そのやり方が分かって実行できれば何の苦労もないわと、さらっとした書き方に対して一通り僻んで苛立ったあと、
自分は心の能力が低い、未成熟で貧しいんだという感覚に飲み込まれて悲しくなってしまった。
新庄耕『ニューカルマ』に、主人公と先輩社員の会話が出てくる。
子供が出来たのでエロ本の編集を辞めて今の会社に来たという先輩社員の話を聞きながら、主人公のモノローグがある。
「まだ知り合って間もないにもかかわらず、自身の過去を明け透けに伝えられる素直な態度と、それを足下で支えているだろう潔白さに、引け目を感じてしまう。」
「思わず頷きたくなる共感と、同じくらいの反発がない交ぜになって胸に去来する。」
主人公に対して、架空の人物への距離感を失い、お前は俺かとなるモノローグだった。
「素直な態度に対する共感と引け目と反発」。自分の中にある感情の言語化を代行してもらったみたいだ。
それが自分の中に起きているときは、とてもメタ視や冷静な言語化ができない。
胸の中に渦が生まれて息が詰まる。相対的剥奪感や被害者意識、暗くて攻撃的な気持ちに飲み込まれる。
同僚が「人に気持ちを聞いてもらうだけで違うようなところあるから」と自然に言っただけで、
気分が異様にざわついて喉がこわばって言葉が出てこなくなる、ということもあった。
同僚は職能の持ち主である前に人であり、私も人である、話を聞いて欲しいものだ、という一般的なはずのことにざわつく。
ここで書くと「腐かよ」と吊るされそうだけど、中村明日美子『同級生』の草壁くんがとても好きだ。
支配的でも厭味ったらしくもない、私の欲しい素朴のイデアみたいなところが草壁くんにはある。
生きるために衣食住のほかに何が必要かといったら「草壁くんの素朴の概念」だ。
欲しく、取り込みたく、千尋に執着するカオナシのような情動があり、読んでいて泣いてしまった。
でも欲しいというのは支配に近くて、コントロールされた時点で私の欲しい素朴を失っている。
カオナシ×千尋のような、片方が片方をコントロールしようとする関係はカップリングとしても推せない。
でも千尋に執着して、偽物を差し出して釣ろうとして、飢えてヤケクソになってなんでもかんでも食べようとするカオナシにはかなり自己投影しやすい。
自己投影しやすいキャラクターはどこか、カップリングになって欲しくないと思う。
人とかかわるのに必要なものが足りてないから、人間関係において害を生み出す。
自分の気持ち悪さや欠損感を問題視し『アサーション入門――自分も相手も大切にする自己表現法 (講談社現代新書)』を読んだ。
物語を伴わない、私の思う「素朴」の「技法」のようなものがそこにはあった。
長年のコミュニケーションの手癖を矯正していく作業は地道なもので、ショック療法一発で治るようなものではない。
アサーティブでないコミュニケーションをしてくる上司の持つ、強烈な巻き戻し力に抗えないときもある。
子供の頃からうつ状態の再発を数年おきに繰り返している身でもある。未だに父親には脅迫まがいの言い方で人生をコントロールしようとされる。
しかし筋トレのように地道に自分を改良していくことを決めた。支配欲は本当に気持ち悪いものだからだ。
無防備な素朴さに対する、引け目と反発と愛おしさと憎しみと、足下に「自分で自分を許しているかのような」支えがあることへの僻み妬み、
そういう感情にかき乱されるのなら、もう自分自身がそうならない限り、技法として身に着けてそれが一時的な演技でなく本質・血肉にまでならない限り、
https://twitter.com/takabon0506/status/999610306778120192
AKB方面のグループに加入している方々が各メディアやSNSで媚びるのは当たり前だし、嫌ならスルーするけど、
xxちゃんかわいいでしょ?応援したくなるでしょ?推したくなったでしょ?会場に行けばファンになって推したくなるから劇場公演・握手会・写メ会行こ!
あなたの推しは解ったから、そこから先どうするかは自分で決めます、これ以上の売り込みは「推しの押し売り」という迷惑行為ですよ、
とストレートに言わないと解らない連中が年齢問わずに多すぎる。
結果、AKB方面の話題には触れない、反応もしない、話題を振られても「へー」としか返せない。
あと、休日は秋葉原に居ることが多い、と話すと「AKB好きなの?」と話を振られるのも、苦手。
ジャンク屋巡るのが好きなのに…
嫁はSMAPファンだ。解散してしまった今は新しい地図という元SMAPメンバーのユニットにお熱である。
その新しい地図が最近宝くじのCMに出ているらしく、応援のためか恐らく生まれて始めて宝くじを買った。
宝くじはグリーンジャンボみたいなやつではなく、自分で番号を選んで買うタイプのやつ。numbers3だったかな?
合計で1200円分買って当たったらいいねみたいな話をしてて、先日当選番号の発表があった。
すると嫁はたいそう喜びながら「当たった!1万円当たった!」と報告してきた。
なんでも末尾2桁が合ってると当たりになるミニというやつに当たったそうだ。
この当たったお金で焼肉食べに行こうと嫁が言う。可愛い嫁である。
それで昨日意気揚々と嫁はひとりで換金に行ったのだが、
帰ってくるなり「ハズレと言われた…」と落ち込んだ様子で言った。
聞いてみると宝くじは並んだ数字が順序の含めて全て一致すると当選となる
ストレートという種類で買っていたのであるが、そもそもそれを理解しておらず
下2桁が一致すればもれなくミニに当選すると思っていたらしい。
嫁が悲しそうにしていたのは、1万円がもらえなかった事ではなくて
一緒に行こうと思っていた焼肉に行けなくなったのが辛かったのではと思う。
なんとか慰めてやりたいと思ったけど、こういう時はどうすればいいのだろうか?