はてなキーワード: 児童とは
製作者のフェチ または 女児向けコミックなどに多く見られる kawaii (目が大きい、きらきら、幼い)を盛り込んだデフォルメ調の人物画あるいは亜人画。
kawaii のみであれば近年歓迎される風潮にあるが、フェチを盛り込んだ (胸やボディラインの強調) 人物画は、高まるコンプライアンス意識により、しばし炎上の元となっている。
また、フェチを盛り込んだ萌え絵に対する嫌悪感から、フェチ要素のない純粋な kawaii 萌え絵が謂れのない非難の対象となることがしばしある。
だが、萌え絵を厳しい立場に置いている要因は、フェチ要素がなく kawaii のみで構成された萌え絵を用いてポルノコミックス・イラストが量産され、
未成年者やポルノを望まない人間にも容易にインターネットで目に入ることにある。
(量産されるポルノコミックス・イラストは男女の垣根は無く、Twitter や Google の画像検索でキャラクター名や作品名その他一般的なワードで表示される)
現状、萌え絵と hentai (https://en.wikipedia.org/wiki/Hentai) を完全に切り離すことは不可能な状況下にあり、
判断能力の無い年齢 (小学校低学年以下) の子どもに与える際に親が大人が慎重になるのは当然と言える。
2019-11-02
萌え界隈はゴミクズしかいないし所得や文化レベルの分断化は進んでる
加えて萌え界隈の基地外&低脳&非オタク率(オタク文化に対する知識の無さ)は異常
ワイがガキンチョの頃から、つーかそれより更に昔から萌え絵の本はあったぞ
ただし、ライトノベルみたいな児童文学な?古くからは スターライトキッズ (1990) とか
ミンキーモモ で 有名な渡辺ひろし・渡辺けいこ がそういうタッチでイラスト描いてる
それに文句を言うものは誰もいなかった
何故かって?住み分けですよ
マンガ っぽいものを求めて自己選択出来る年齢の児童に対しての作品だから
未就学児にファーストフードばっか食わす親みたいに、
「これが売れるので商売としてやってます」なら需要と供給があっている話で終わるけど
萌え界隈に群がるのは個人情報をばら撒いたり執拗な個人攻撃を繰り返したりする基地外ばかりの世界と認識ある上で
2000年代お固めな企業 (銀行やMSなどなど)が萌えキャラ採用して
ジャップランドのネット、特にTwitterなんかに常駐しているのは
海外なら子どもを回収されちゃうような児童福祉に敵対的な人らが多いからな
痛いところを突かれただけだろう
自覚があることをよしとすべきか、それとも自覚は微塵もなくて子育て様という看板にケチをつけられたことに怒ってるどこまでもウンコなのか
その規制がまわりまわって男性向けR18以外の、自分の好きな表現に向けられないか?という想像はできないのだろうかと不思議だった。
たとえばツイッターでは表現規制派でいわゆるBL好きというアカウントは結構見かける。
そういう人は将来的にBLが不健全だと規制されても良いと考えてるののか?
色々調べると「BLは心の交流を描いてるから問題ない」「隠れているから大丈夫」
みたいな意見が大半だった。
しかし、ネットで売ってるBL本のサンプルを適当に見ただけでも凌辱、調教とかジャンルになる内容は珍しくないし
自分みたいな門外漢が簡単にアクセスできる場所に存在しておいて隠れてる、とはいえないだろう。
そもそも今までに男性R18表現で問題になったものって俺の記憶だとほとんどがマイナー寄りの場所で発表されている。
隠れてるとか関係はないのだ。
こうやって表現規制派の話を聞いていくと共通して感じるのは「女性の性欲は綺麗な性欲」という概念だ。
男の性欲は強姦や痴漢、露出とか暴力的なものだけど、女の性欲は清らかで美しいものと考えてるように思う。
しかしニュースで成人女性が男子児童をかどわかした犯罪を普通に見かけるし、必ずしもそうではないのでは?と考えてる。
増田のお子さんと少し似ていて「感想は特にない」「特に何も思わない」「良いとも悪いとも別に思わない」「自分にはどうでもいい」ばかり
気持ちを掘り下げようとすると不機嫌になって涙をこぼすのも同じ
親は「その思考をそのまま書いてみたら?」とか「どうしてそう思うかを書いたら?」と水を向けるけれど、「そういうものは書きたくない」で終わり
仕方がないから「あらすじ」にプラスして、本人が「これしか書きたくない」と言っていた「円満に解決してよかった。もめごとは良くないと思うからだ」を言い方を変えてリフレイン
とにかくマスを埋めて、最後は「戦争はいけないと思った」で乗り切った
ずっと後になってから、本人がポツリと
『生ごみの匂いは「クサイ!」砂糖の匂いは「特にしない!」で終わりなのに、どうして読書の感想だけ長々と掘り下げて、自分の内面と無理やり関連付けて書かなきゃいけないの?』
私が小学生時代を過ごした土地は、所謂ニュータウン。街がつくられる時にそのまま居着いたブルーカラーの家と、ベッドタウンとしていついたホワイトカラーの家が、住んでいる地域でわかるような土地柄だった。
とてもではないが治安がいいとは言えない街。小学生が放火をし、中学生が喫煙し、高校生がバイクで走り抜ける街だ。某児童売春斡旋組織事件発覚の発端となった小学生もうちの地元出身だった。
私の家は紛うことなきホワイトカラー一家だ。元ボンボン・サラリーマンの父と江戸っ子の母の間で、歳をとってから出来た一人娘として、それなりに大切に育てられた。世帯収入は高くも低くもなく、他に兄弟姉妹がいれば私立に行くのは許されなかっただろうレベルだ。しかし女子校に入れたいという父親たっての希望で、私の中学受験は私が園児の時に既に決められていたことだった。
そうは言っても、その受験計画は実にのんびりしたものだった。目的はあくまで「公立中学校に行かないこと」。小学校一年生から塾に行くような子もいる中で、私の中学受験は小学校四年生から始まった。それもSAPIXや日能研といった進学塾ではなく、まったりとした中堅の塾。10人に満たない同級生たちと、地元の中堅私立を目指す予定だった。
しかし、それでも学校の教員からの敵意からは逃れられなかった。
彼らは常にブルーカラーの子供たちの味方だった。ブルーカラーの子供たちはまさにギャングエイジといった風体で、私の学年は4年生になる頃にはすっかり学級崩壊に陥っていた。
そんな状況の中で、私のような「恵まれた家庭」の子供は、彼らを「根性論で更生させる」ための必要悪にするのに適していた。ホロコーストと一緒。共通の敵をつくることで、教員たちは彼らと連携をとろうとしていた。
まずは保護者会で、担任の教師が「私は中学受験と塾が嫌いです」と言い放つところからスタート。この言葉はあっという間に子供たちにも伝わった。小学生にとって、それがどんな不良小学生だったとしても、「先生の言葉は絶対」だ。「先生が悪いと言った」子は、いじめたっていいのだ。
休み時間に円周率の計算暗記表を見ていたら、担任にそれを取り上げられ、クラスメイトの前で激昂された。帰りの会で黒板の前に立たされ、「私は学校で塾の勉強をしました。本当にごめんなさい」と謝らせられた。それを皮切りに、ブルーカラーの子供たちからのいじめが始まった。
帰り道で待ち伏せされる。容姿についての罵倒や、時には両親への悪口もあった。ある時はマフラーで首を絞めあげられた。子供の力なので大事には至らなかったが、笑い声のなか、酸欠で頭がぼうっとしてきたことは覚えている。
「先生の言うことは絶対」。これは私にも有効だった。だから私は、自分は悪い小学生なのだと思い込んだ。
おうちが貧乏で、ちょっと不良みたいで、勉強は嫌いで、でも、中休みになったら一番最初に校庭に出てドッジボールを始める。そんな生徒が、「良い小学生」なのだ。クラスメイトたちが音楽室に立てこもって授業をボイコットしていた時、私は大人しく教室で待っていた。でも先生が好きなのは「仲間意識の強い」彼らなのだ。
悪い小学生なのだから、虐められて当然なのだ。そう思った私は、繰り返されるいじめを誰にも相談出来なかった。
また、これは本当は幸運と言えるのだが、殊にこの場合にのみ不運と言える、両親の誤算があった。私の成績だ。
私はどうやら「出来る子」に分類される子供だったらしい。入った中堅塾ではあっという間にトップに立ち、テストも満点以外とれなくなった。ここまで来ると両親にも欲が出てきたようで、私はバスで通える範囲に出来たS某超進学塾に通うようになった。そこでも女子ではトップの成績で、あれよあれよという間に御三家を目指すことになっていた。小学生にとっての成功体験は、その子の人格形成において重要だ。私は勉強するのが楽しかった。そもそも運動は嫌いで、中休みも図書館にいるような子供だった。かけっこしか見てくれない小学校の教員たちとは違って、塾の先生は私の「勉強の」成績を褒めてくれた。後は好循環だ。持って生まれたメンタルの弱さで、模試の前に嘔吐するようなこともあったが、私の中学受験は大方順調だった。
一方小学校生活は、ぼろぼろのメタメタだった。私の通塾先が変わったことがどこからか漏れ出て、「エリート意識を持った嫌な奴」の烙印を押された。低学年までは仲良くしていた子達も、私のことを大腸菌呼ばわりするようになった。
担任が、わかりやすく私に嫌がらせをするようになったせいだった。授業中に指されて答えても、「どうせ塾でやったんでしょうね」。覚えもないいじめ事件の首謀者にも仕立て上げられた。
だんだんと体調にも影響が出るようになっていた。学校に行く前に必ず吐いた。食道は焼けただれ、小学校5年生の冬には胃薬が手放せない体になっていた。
真面目な気質のせいで、私はそれでも学校に行くのをやめられなかった。親も流石に勘付き、担任に嘆願書を出した。しかしそれも虚しく、担任は私にその嘆願書を叩きつけ、「どうしてあたしがいじめなんて言われなきゃいけないんだよ!!」と私を怒鳴りつけた。
別の小学校に越境入学しようと思ったこともあった。別の中学受験をする同級生が、そそくさと学校を変えてしまったからだ。実際両親はその準備もしていた。しかし、自分の学校に問題があることが外部に晒されることを恐れてか、校長はそれに難色を示し、「○○ちゃんだって仲良しと離れたくないでしょ」と、結局その小学校から離れることは叶わなかった。
私の小学校時代は闇だ。小学生5年生の学芸会の劇で、悪役の親分のオーディションに受かったら、自分の母親と隣のクラスの教員が寝ていると噂されたこともある。最高学年になる頃には、私は両親と塾の教師以外の大人を信じられなくなっていた。
話は飛んで、中学受験の結果から言うと、私は第一志望には落ち、第二志望の女子校に通うことになった。そこは天国だった。私が休み時間に勉強していても、誰も怒らないし、誰も馬鹿にしなかった。正直それだけで救われたし、良き友人にも多く恵まれた。そして高校生活を経て、今私は東京大学に通っている。
もし父親に先見の明がなかったか、私が過度のストレスで受験全滅していたことを考えると、今でも寒気がする。
数年前の東大の入学式の祝辞は、ノブレス・オブリージュについての話だった。私も上野先生の意見に大方は同意する。しかし私は、もし「恵まれた人間」として支えなければいけないのが「あいつら」なのだとしたら、それは吐き気を催す話だと思う。
エリートが冷たいなんていうのは嘘だ。いや、もしかしたら真実な場合もあるかもしれない。でも、そんな言説よりずっと、「学のない連中は残酷で野卑だ」という言説が本当だと言うことを、私は知っている。
東京都の感染者が300人を超えましたが、実習が例年通り行われると言う連絡がきました。このコロナ禍で大学側は対策もなく、実習生全員がPCR検査をすることもなく、実習校でなんの対策も取られることもなく、手洗いうがいだけで例年通りの教育実習を敢行しようとしています。
児童も保護者の皆さんも本当にこんなどこに住んでてどんな生活してるかもわからない、いつ飲み会に行ってるかもわかんない、どこでバイトしてるかもわからないような検査も受けていないグレーゾーンの大学生がのこのこ学校に来ていいんですか?子供が可哀想、子供のための教師じゃないの?自分の利益のためだけ、免許のためだけの実習なの…?児童がもしこの教育実習の影響で感染したらどこが責任を取るんだろうか。通学の電車ですね、で終わらせるんですか?感染要素が校舎内に入ってきてるのに。
こんなイレギュラーなことが起こりつづけている現場の教員の皆さんは本当に実習をやりたいと思っているんですか?Twitterのトレンドは #先生死ぬかも だし、そんな中もっと死ぬかも要素を増やしに学校に行くのめちゃくちゃ申し訳ないし、いい仕事ができるとも思えない。コロナでただでさえ忙しいのに、もっと忙しくなったら本当に人が死ぬ。実習校から連絡も来ないし。オリエンテーションの連絡も、教科に関する連絡も。
呼吸器疾患なので万が一感染したら死ぬ確率がとてもあがります。辞退はもう学校が受けられないようになっているし辞退もできない。秋学期の授業と実習オリエンテーションはオンラインなのに9月、10月の実習は集まれるってめちゃくちゃ矛盾してないですか?大学生の日常があーだこーだ言うならこの問題にも気づいてくださいよ。学校で実習中止求めてるの4人しかいないっぽいしみんなコロナ怖くないの?薬のないウイルス、どんな力があるかもわからないのに?若い人が死なないとは限らないし、私たちが児童にうつす可能性が高いのに、本当にこれでもやるんですか?
文科省のガイドラインでは、中止にして座学での取得可能だし、うち国立だよね、国のガイドラインに従ってよ。現場に出ない学生が教員になったらさっさと辞めそうだから教育実習やんないといけないみたいなのTwitterでみたけどそれならまず現職の仕事内容考え直してよ、明らかに一人の教員がやるべき仕事の量超えている。本当に教育実習が必要で教員になる前に授業をやりたい人は来年4年でいったり、自分でボランティアでコロナ終わった後に学習サポーターで行く。こんな不安定な情勢の中でやる実習がいいものになるとは思えないし、自粛してた意味ってなんだったんですか?助けて文部科学省。
わかった。ならば元増田に代わって私が受けて立とう。
「説明せずに逃げるよね」と言った人はここ一ヶ月で貴方が二人めだ。きっといつでもどこにでもいて、私たちの行いを無視して、捏造した歴史になかで無辜を気取っているんだろう。応対するのはつけあがらせるだけで本当は良くないんだろうが、今回までは応えようと思う。
公共空間での性表現が悪い理由は、職場の水着ポスターが社会的な悪だからだ。
環境型セクハラは、就労者のうち女性だけに負担を強いるという意味で、女性差別と捉えられている。水着男性のポスターを許可したならば形式上の不平等は無くなるが、性欲の差や社会的な抑圧の違いにより、実際には水着男性のポスターは現れないだろう。いままで労働者だけが手厚く保護されてきたが、社会生活のそれ以外のシーンで保護されない理由はない。目を背ければ被害は一瞬で済むが、事前の警告無しには最初の被害を避けられない。被害者の中には倫理観が確立していない児童も含まれうる。
これは一般論だ。過去の具体的に問題視されたケースのどれもがただちに違法ではないし、民事訴訟しても通らないだろうが、道徳上の「社会的な悪だ」という批判は理にかなっている。表現の自由に基づいて批判活動されるのは当然である。
こんにちの倫理観は完成形ではない。人々が傷を見せ合い理解しあっていくなかで少しづつバージョンアップしていく。法律もそれに伴って、改善される。職場でのセクハラは"一般的な感覚でアウトか"が考慮される。人々の集団が共有するモラル観が成長していく様子を、私もあなたも、いままさに目撃しているんだと思う。
小学生の子供がいる増田・ブクマカもいるだろ、その中に読書感想文が苦手だった奴いるだろ。8月も終わりに近づいてきて、そろそろ「かーさんとーさん、読書感想文ってどうやって書いたら良いの」が来る頃だろ。安心しろ、読書感想文でナントカ賞をいくつも貰った私が書き方を伝授してやる。これは私に娘息子が生まれたら伝授する一子相伝の技にしたかったんだが、そんな予定は一切なく、今後一生ないだろうという見通しになってしまったので全国公開だ。滅びよ人類。
そもそも、コロナ禍で3月4月休みだったけど夏休みはちゃんとあるのか?読書感想文の課題って今でもあるのか?しらねえ、書きたくなったから書くんだ。書かせろ。
なんでもいい。薄ければ薄いほどいい。読みやすいからな。課題図書じゃないと駄目っていう狭量な小学校なら課題図書でいい。私くらいになると増田でも書ける。あとで実践編やるので期待せず待て。
読書感想文の「読書」は前項で満たした。次は「感想」だ。感想に正解はあるのか?そんなものはない。感想とは誰のものか?筆者のものだ。筆者が絶対王政の、何やっても良い文章が感想だ。つまり、筆者が書いたことこそが唯一の正解だと心得ることだ。読書感想文の中ではな。
読書感想文苦手パーソンは、結構な割合で読書感想文の主役を「本」にしがちだ。だからあらすじを書きたくなるし、この本が伝えたいことは何か、みたいな答えを探し出す。それをやるのは感想文じゃなくて紹介文。読書感想文の主役は筆者。あらすじも引用も正しい読解も不要だ。堂々と誤読、曲解、勘違い、拡大解釈、被害妄想を自信満々に書いていけ。しかし、文章を書く訓練を積んでない人が「書きたいこと書け」って言われたって難しいことくらいはわかる。読書感想文こそが文章を書く訓練だからな。必要なのは具体的な方法論だ。
自分語りって嫌われがち?それは公園の砂場でしょんべんしたら嫌われるのと同義。しょんべんはトイレで。読書感想文はトイレだ。本を適当に開いて、気になった一文について文句つけたり褒めたりしよう。正しさは不要だ。そこに自分の体験をくっつければ、あっというまに400字は書ける。1ページ埋まったな?
自分語りに繋がるが、好きなものの話というのはリアリティがあって、本人にしか書けない素晴らしいお気持ちが書ける。好きなものと本との共通点をこじつけろ。400字は書けるな?
好きなもの同様、嫌いなものへの悪口もスラスラ出てくるものだ。嫌いなものの悪口言っても怒られないのが読書感想文という場だ。好きなだけこじつけて、比較して、罵倒しよう。適当な一文をあげつらって、怒って、作者は性格が悪いと決めつけよう。400字以上余裕だな?
何でも良い。その学年の児童・生徒が興味を持ちそうな、センセーショナルではない、できれば同じ議論が繰り返されてるような社会問題にこじつけよう。環境問題とか、食料廃棄問題とか、いじめ問題とか。本の感想として自分の体験を書いて、それを社会問題まで広げる。国語の先生の花丸と、ナントカ賞のニオイがしてきたな?
以上が方法論。賞が不要で、とにかく終わらせたいなら、社会問題にこじつける必要はない。自分語りだけでOK。さて、実践編だ。
実際に増田をピックアップして書いてみるぞ。まあ今のタイミングならこれだろ。
タイトル:嫌なら嫌とそう言おうぜ
自分はひねくれ者だ。いや、ひねくれ者でありたいと思っているだけの、単純な奴かもしれない。なぜそんなことを思ったかというと、兄から「お前は単純だな」と、何度もだまされてバカにされたからだ※。だから、単純であることは人として劣っていて、ひねくれているずる賢い奴のほうが優れている、という思い込みがあるのかもしれない。だから、自分はひねくれ者だ、なんてことを考えている。
今回読んだ本は「夫を松潤扱いしてみた」だ。松潤、松本潤といえば、アイドルグループの嵐のメンバーであり、とてもカッコいい人だ。夫を松潤扱いするということは、つまりは夫を騙して調子に乗せて、あとからハシゴを外してバカにする、自分がよく兄にやられていることを、自らが選んだ夫にするのか、なんて性格の悪いやつだと怒りを覚えた※。他人を騙してバカにして、何が楽しいのか!いじめと同じ構造じゃないか!と怒りつつも、自分もTBSの「モニタリング」という番組が好きなことを思い出した※。あれも、突然〇〇したら、人はどうするの?という、騙して反応を楽しむという構造だ。いじめと何が違うのか?そしてそれを笑って見ていられるのに、自分にふりかかったら怒ってしまう自分は薄情で性格の悪い人間なのか?そんなはずはない、あの性格の腐った兄よりも、自分はずっとマシなはずだ。兄とモニタリングは違うはずだ。
そんなことを考えて、頑張って違いを見つけた。「騙された側の反応」だ。兄はただ自分を不快にして、兄だけ笑って終わる。モニタリングは、騙された側も笑顔で、騙した側も笑顔だ。騙された側も嫌じゃないのだ。騙された側もハッピーに終わるなら良いことだ。騙された側が「嫌だ!辞めろ!」と言えば辞めるのがモニタリングだろう、ただ人に嫌がらせがしたい兄とは大違いだ。相手が嫌な気持ちになったら辞める、謝る、というのが、いじめ大好きな兄と普通の人の違いだろう。
実際に、この本も「夫」は楽しく騙されて、そして良い結果になっている。作者も、悪意が合って騙しにいっているのではなく、うまく調子にのせて良い結果を生み出している。そうだ、この「夫」は単純なのだ。そして単純で素直だからこそ、いい結果が生まれている。やはり単純であることは悪いことじゃない。悪意のあるひねくれ者の兄こそいじめっ子で、悪い奴なのだ。
しかし、自分も友達に対して「嫌だ」と思われていることをしてしまっているのかもしれない、という思いが出てきた※。いじりやからかいの名目で、いじめと変わらないことをしてしまっているのかも、と不安になってきた※。そこで、自分にルールを決めようと思う。「『嫌だ』と言われたら善意であっても辞めてきちんと謝る」だ。きっと、この本の作者も、「夫」が辞めてと言ったら素直に松潤扱いを辞めているだろう。嫌がらせのつもりはなく、悪意がないからだ。そして、自分も嫌だったらきっぱりと「嫌だ」と言うようにしよう。
米津玄師のLOSERという私が大好きな曲がある※1。とてもカッコいい曲で、タイトルは「敗者」なのに、全く負けている感じがない。歌詞はひねくれ者の歌詞でも、ひねくれてちゃ何も始まらないぜ、負け犬だっていい、遠吠えだっていいから、それこそ単純に「愛されたいならそう言おうぜ 思ってるだけじゃ伝わらないね」と歌っている。自分の好きな曲も、ひねくれ者でもいいから、思ったことを単純に言って伝える、そんな単純さを肯定している。やっぱりひねくれ者に憧れるのは辞めだ、単純に生きていこう。嫌なら嫌とそう言おう、悪意がない相手なら伝わってくれるはずだ。
今後、自分は「嫌だ」「愛されたい」をはっきりと言っていこうと思う。そして願わくば、この本の夫婦のように、信頼しあい、愛し愛されて幸せに生きていけるようなパートナーに恵まれますように※1。この祈りに、「恵まれますように、なんて受け身じゃ始まらないね」なんて混ぜっ返す、心の中の兄が顔を出してきた。兄は居なくても他人に嫌がらせをする。兄よ、愛されたいならそう言おうぜ。
※1 本当
原稿用紙5枚分である。書くのに1時間くらい。便宜上元増田のことを本と呼んでいる。賞がほしければ、ここから架空の兄への恨み節みたいなものを削って、もっと「いじめ」問題へフォーカスしていけばいい。今回は架空の兄への恨み節をメインに据えているが、やりたければ好きな曲とかゲームの話でも良いから、書けるものの話を延々すればいいし、ちゃんと本を読んだなら本の内容をメインにしてもいい。これ全部読んだ人はわかると思うが、私は元増田はそこまで読み込んでない。好き勝手自分のことを話しているだけだ。あらすじなんて微塵も引用してないし、正しいテーマなんて探していない。読書感想文なんて、本は添え物だ、好きなものと嫌いなものを書け。賞が欲しかったら社会問題をトッピングだ。簡単だろ、簡単に書くんだよ。難しく考えるな。
今の教員資格制度が、真に教員としての資質に優れた人間を採用できているか?というとそんなことは無いと、
誰もが思っていることなんだよね。
これが教員の全てだと思っているところが変
更に、大学、大学院は人に物を教えるため訓練する組織では無い。ドクターになったからと言って人に教えるのが上手いかどうかはまた別の話
教える力、児童をまとめる力
的外れもいいとこだな。
性的搾取の防止は性的に嫌なことを強いられないと言う文脈のほうが正しい。
ただし、自己決定権のない児童や、貧困故に体を売るのが許されないという話。また女性だからということでセクハラにたえろとか、低い立場に耐えろというのはボーダーライン。
けども、「私が気に入らないものは世の中から抹殺する。たとえ被害者のいない創作でも」というのは明らかに閾値を超える。逆に貧困なら体を売れというのも逆に許されない。
あくまで許される売春のボーダーは「当人の決定」。当人の意志が曖昧だから、原則売春は禁止。裏で金になるから体を売りたいってやつがこっそり売ってるみたいになってるのが今の日本。
でも高卒でも良くない?
教える力、児童をまとめる力って大学出てるからどうこうなるものではないと思うし。
まあ私は大学の授業についても教えるのが下手な教授にやらせるより、教えるのが上手い学士卒が担当した方が100倍いいんじゃないかと思っている過激派だから、相手にされない話だとは思いますけどね。
https://www.gentosha.jp/article/16300/
ブコメでは様々な反応があったが、この手の話題でお互いに理解が得られないのには理由がある。
「そもそも自分が加害者だと思っていない」からだ。だって実際に性犯罪したことないんだから当たり前だ。
「社会の構造がそうなっている」ことを責められても「いや俺にどうしようもないだろ」となるのは当たり前なのだが、この感覚を女性が理解することは難しい。
ほとんどの女性はこの手の話題に囚われるとき、視野狭窄になっている。簡単に言えば「私は被害者モード」だ。
そのため、この手の話題を振られたときの男性の気持ちを理解する例題を用意する必要がある。
アルテイシア氏の旦那さんのように、ほとんどの男性は善良な一市民である。彼らと女性たちは本来は共闘すべき仲間なのだ。相互理解の第一歩を踏み出そう。
搾取され続ける労働者「チョコレートを食べている人は、オレの肉を食べている。」
https://www.oks-j.com/brain/2016/03/23/160323/
広告やマーケティング戦略によって「安いものはお得」だと一方的に刷り込まれてきた多くの先進国の消費者は、「中国製」や「ファストフード」なども含めて「安いものは質がよくない」という情報には敏感でも、自分たちが安さを追求すればするほど、異国で搾取される人がいて犠牲が増えていくということまでは、なかなか意識することはできていません。
ちなみに、「私はフェアトレード商品を買っています」「そもそもチョコレートもユニクロも買わない」というのも意味がなく、加害構造の中にいるのは変わらない。残念。
(中略)チョコレート企業には消費者からの抗議の電話や、不買運動を匂わす手紙が送られてくるなどの反響がありました。
おそらく私たちを含む先進国の消費者が、すぐに不買運動につなげてしまうのは、「みんなが買わなければ、その品物は出回らなくなるので、きちんとした品物だけが残るようになる」と、考えるためかもしれませんが、残念ながら買わないことと、労働者が正当に扱ってもらえるようになるということは、必ずしもイコールではなく、買わないという運動は、労働者を経済から完全に切り離してしまう危険性があることもしっかりと意識しておかなければなりません。
https://globalnewsview.org/archives/9151
世界のチョコレートの売上げの60%をトップ5のメーカー(マース、フェレロ、モンデリーズ、明治、ネスレ)が占めている。生産地での厳しい現実が知られるようになり、批判の対象となったメーカーは次から次へと「対策」を発表した。例えば、マースは生産者の収入や環境に配慮し、児童労働が伴わないカカオを2025年までに100%にすると発表した。明治は特定の目標は設けず、「人権を尊重した適切な労働環境の確保(児童労働・強制労働の監視など)に努めていきます」といった曖昧な表現をウェブサイトで掲載していると同時に、「カカオ農家支援」や、国連の持続可能な開発目標(SDGs)に「貢献」していると主張している。
しかし、メーカーの言葉に行動は追いついておらず、上記の統計が示すとおり状況が改善に向かっているとは言えない。生産者への最低価格を保証するフェアトレード認証などの仕組みをメーカーが避けたり、あるいはごく一部の商品にしか適用しようとせず、そのシェアは伸び悩んでいる。その結果、生産者がコストをかけ、フェアトレード認証に値するカカオ豆を作っても、その多くはフェアトレード商品として売れず、より安い市場で売らざるを得ない。さらに、フェアトレード認証があるといっても、実際に「フェア」といえるものにはなっていない場合も多い。フェアトレード認証の基準が甘く、最低価格やプレミアム(奨励金)も安く、フェアトレード認証のカカオ豆を作りながら貧困のままでいる生産者は決して少なくない。
「全ての男性は男性社会を作っている側である」という言い分に沿うならば、この文脈では結局女性も搾取構造を作る側であると言える。
もちろん全ての男性が痴漢ではないのと同様、ユニクロの服を買うことやコンビニでチョコレートを買うことが直接の加害であるとは言えない。
直接の加害者はユニクロや明治やネスレである。あなたは商品を楽しんでいるだけなのだから。
これはそっくりそのまま、性犯罪を行うほんの一部の男性と、そうでない男性……自宅でAVを見ているだけの男性との違いである。
さて、アルテイシア氏は「ヘルジャパン」などと表現していることから分かる通り、彼女は当然本当のヘルは知らない。
当然自分が加害者であるという意識は一切ないままに日常生活を送っているだろう。「私たちは社会の被害者だ!」という意識だけ立派であると思う。
貴女もおそらくアルテイシア氏と同じだろう。そんな日常を送っている先進国在住の貴女が、
「なぜ途上国生まれというだけで、傷つかなきゃいけないの?」「なぜ傷ついた側が、傷ついてない側に丁寧に説明しなきゃいけないの?」「そんなの理不尽すぎるじゃないか! キエエエエーッ!!」
と、目の前でまくしたてられることを想像してみてください。あるいはアルテイシア氏ほど感情的でなくても
「僕はねえ、あなたたち日本人のために毎日毎日低賃金で働かされて辛かったよ。今でも日本人を見ると怒りで手が震えるよ。あ、君の着てる服は僕が作ったやつだね。参考までに聞きたいんだけどそれいくらで買ったの?はあ……。」
と愚痴を言われたとしよう。
「いやそんなん知らんし」と、ムッとしないだろうか。少なくとも「なんで私に言うんだ」と思わずにいられないだろうか?
そりゃいきなり怒りをぶつけられたら怒りで返されるだろうけど、単に昔こんなことがあってねぇって淡々と語っても瞬間沸騰的にぶちギレて罵倒してくる男性もいるのよ。そうでない人には信じられないだろうけど。
(実際にあったブコメ)
これを手がかりにして、「加害者意識がない、事実痴漢や性犯罪者ではない善良な一市民である男性個人」をどうやったら動かすことができるか考えてみてほしい。
「自分は性犯罪なんかしてない(自分は加害者じゃない)」とムッとする男性は多いが、ほとんどの男性は加害者じゃないし、かつ被害者でもない。
一方で、ほとんどの女性は被害者なのだ。私の周りで痴漢・露出狂・盗撮などの性被害に遭ったことのない女性はいない。レイプ被害を打ち明けられたことも一度ではない。
「私は搾取なんかしてない(自分は加害者じゃない)」とムッとする日本人は多いが、ほとんどの日本人は加害者じゃないし、かつ被害者でもない。
一方で、ほとんどの発展途上国民は被害者なのだ。私の周りで先進国からの搾取被害に遭ったことのない国民はいない。明日のパンを食べるお金もないと打ち明けられたことも一度ではない。
と置き換えられるだろう。「加害者であるあなた」の心に響いただろうか。
追記:
「私はムッとしない」系の表明が多かったので追記。
枝葉末節をあげつらっても仕方ないんですが、別にアルテイシア氏も「ムッとしないで欲しい」ってのがメインで言いたいことじゃなくて
・AVやその他コンテンツの作り手は意識をアップデートせよ(アップデートした結果売れるのか、生活していけるかどうかは考慮しない)
痴漢がいなければ痴漢冤罪はないし、女性専用車両だっていらない。加害者がいなければ、性犯罪はなくなるのだ。これはあなたたちの問題なのだよ。
基本的には自己犠牲というか、奉仕というか、金および労働力を提供せよという話をしてるわけでしょう。なんかしらアクションしてよって言ってるわけでしょう。
そりゃそうだよ。ムッとしないだけじゃ何も変わらないから。心を痛めたからって性犯罪者がいなくなるわけじゃない。
でも実際には世の中の善良な男性に満員電車をなくすことはできないし、痴漢を消失させることもできない。少なくとも普通の人には。
仮にあなたが途上国に心を痛めたとて、何もできないし何の影響力もない、故にあなたが行動に移さないのと全く同じことだよって話です。
「株式会社集英社: ぼくたちは/男子たちは 狼なんかじゃない。 少年ジャンプは「エロ」と「性暴力」の違いを区別してください。」 https://t.co/pkzmYuVeYp
このキャンペーン、男性が発信してる。体験がリアルなので、署名しなくても読んでほしい。
僕と少年ジャンプの話をします。僕は小学四年生の頃から現在社会人3年目の今まで週刊少年ジャンプをほぼ読み続けていました。
当時小中学校の時はToLOVEるなど女子と性的なコミュニケーションを取る漫画をハラハラドキドキしながら読んでいました。しかし大学生も後半の頃に当時ToLOVEるを読んでいなかったという友人(男)に出会いました。その時僕は理解ができなくてしどろもどろ興奮しながら「男なのに!?意味がわからない」と発狂しました。しかし今は「性暴力」と「女性も同じ人間」だという事を知っているので、彼がなぜToLOVEるなど性的な作品を読まなかったのか理解できます。「相手の同意を取らずに性的な行為をするのは性暴力で、相手の心を傷つけること」「女性の体を見境なく性的に見ることは当然のことではないこと」ということを当時の僕が知っていれば僕も彼と同様ToLOVEるなど性暴力を扱う作品を楽しく読むことはなかったでしょう。「性暴力含むエロを豪胆に愛して憚らないのが男らしさ」という少年誌のメッセージを内面化してしまい、性暴力を含む作品を声高に称賛して、男らしくなれてると錯覚してた自分は本当に恥ずかしいし迷惑なことをしていたなと思います。
小学校高学年の頃、東京に住んでいた僕は秋葉原もそこそこ近く、「非実在青少年」の話を皮切りにした漫画の規制の話をよく耳にしてました。少年ジャンプの作者たちも「読者は現実とファンタジーの区別ができる」と言った論調で規制を反対していました。ぼくも「その通りだなー」と思っていました。しかし今思い返してみると当時の僕は区別なんかできていないことに気づきました。今でもすごく心残りの事件があるのですが、僕が小学生の頃公園で遊んでいると同級生の男子が女子に棒アイスを差し入れました。僕は少年漫画でアイスやチョコバナナを男性器に見立てて、それらを普通に食べている女子をエロい目で見るというセクハラの存在を知っていました。しかし女子たちはそれを知らずに暑い夏だったので棒アイスを感謝しながら食べてました、男子たちは僕の予想通りいやらしい笑みを浮かべて彼女たちを見ていました。その時は嫌な奴らだな、でも「男子はそういうものだからな」ということが当たり前だと思い込んでいたので、問題な行動だとして注意をするという発想がありませんでした。男子たちも仲間内で露悪的だけど楽しいことをしているといった雰囲気でした。その男子集団のリーダーだった男子は高校生の時に風呂覗きをして学校を退学になっていました、風呂で盗撮した写メを男子のグループに共有したらしいです。多分いいことをしていると信じての行為だと思います。僕も彼も「男子はそういうものが好き」という少年ジャンプが発信する嘘の常識を信じ込んでしまっていた点は同だと思います。そのために、セクハラをされたらその人の心は傷つくという当たり前のことに気づけなかったのです。
小学生の頃、僕は少年ジャンプを作っている人たちに「子供は現実とファンタジーの区別ができる、倫理観や道徳観を持っている、判断がつく」というような期待をされました、そして今の僕がそれに答えるとしたら「性的な表現に関しては、十分な性教育を受けていなかったので正しい判断はできてなかった」と答えますし、現実とファンタジーという区切りではなく、「社会的責任がついて回る空間と、そうでない空間」での影響を論じるべき内容だと思います。
僕は面白い漫画を読むためにジャンプを買ってきたつもりです。大学の頃に出会った彼もそうだと思います。極論、ジャンプにエロ表現がなくても僕たちは大学生までジャンプを購読し続けてただろうと思います。
ジャンプ作品の性暴力表現は誰のために描かれているのか、僕は今、甚だ疑問です。
個人的に、女体を切り売りして、それを喜ぶ層に商売をする今のジャンプは見ててつらいものがあります。女女でやれば批判されないと思っているのか、この頃女から女にセクハラするという作品が増えています。今一度、同意のない性的な行為は相手が誰であろうと性暴力であり相手は傷つく、という認識をジャンプ編集部は持ってください。
漫画を使って教育しろと言う気はないですが、今のジャンプの作品内での女子の扱い方は、パブロフの犬のように、読者に「女体=エロ」と脊髄反射でつなげてしまう、そういう訓練になってしまうという一面があると思います。
「男は、女性の性的な部分を力づくやラッキーで見たいと思ってる」というような「男=狼」観を決めつけで小さい子供たちに信じ込ませるようなメディアを作るのは大人としてやめて欲しいです。
そもそも作品でよく描かれている高校生以下の女子は、大人が守るべき児童の枠の中にいます。倫理的にそういう枠の子をエロく描くのはいけないのではと思います。