はてなキーワード: フィルターとは
全て私に関する本当の事だ。
それでもこうして書いているのは、他ならぬ私自身が救われたいと願っているからだ。
なのに私は、今はもう人を信じる事が出来ない。
自分一人ではどうする事も出来ないレベルに達し、ネットという不特定多数の集まる場で、見られるかどうかも分からない悲痛な叫びを上げている。
けれど、そう思っていても。
ずっと苦しみに追われている。
それが、見て見ぬ振りの出来ない、紛れもない真実なのだと思う。
前置きが長くなったが、どうか私の話を聞いてやってほしい。
私は離人症であり、回避性パーソナリティ障害であるらしい。
(前者は一応診断らしきものを下されたが、後者はあくまでDSMの診断基準を満たしているという視点である)
また、HSPの気質もある。典型的な「生きづらい」タイプだと思う。
素のままでこんな話をすれば、恐らく大抵の人は困惑するだろう。
心理学や精神医学を学んだ方、色々調べて知っているような方でないと、あまりピンとこないであろう症状だと思うからだ。
正直、HSPに関しては、言う事自体が一つの免罪符のように思える為に、あまり声高には言えない。もちろん、他の当事者の方について、あれこれ言うわけではない。
ともかく。自らが抱える様々な特性に、私はずっと悩まされてきた。
例えば、学校での場面。私は苦手な同級生の話をどうしても聞く事が出来ず、ずっと耳を塞いでいた事があった。
小学生の一時期、不登校(正確には、給食が始まる前までは出席していた日もあったが、その後に早退していた)だった時もある。
あの時迎えに来てくれた母の拒絶するような、悲しげな後ろ姿。
母の後ろを申し訳なさげに歩く自分の悲しさを、今でも覚えている。
高校時代も、一年次から辛かった。文字通り「死んだような顔」をした私は、上手く笑顔になれなかった。
同級生は優しい人も多かったが、結果的に馴染めず、一年持たずに中退した。その後は別の高校に入り直したが。その前後の時期が、人生の前半で一番の暗黒時代だったと思う。
母に「こんな子産むんじゃなかった」と言われたのも、この時期だ。
父は元々家族としっかり関わる人ではなく、私が普通に学校に通えない事を腹立たしく思っていた。
もっと遡れば、幼稚園時代から、私は集団に馴染むのが上手ではなかった。
どちらかと言えば、砂場で一人黙々と砂遊びをしている方が落ち着いていたように思う。
大人になった今でも、私には静かに過ごせる場所、一人になれる時間が不可欠だ。
騒がしい場所や、絶え間なく流される情報にさらされるのは耐えられない。
人付き合いでも悩まされる。私は好かれているという確信がない限り、人と上手く付き合う事が出来ない。
正確に言えば、無難な付き合い(出来ていたかは自信がないが)は出来ても、必ず相手に壁を作り、相手に「堅い人」「近寄りがたい人」という印象を与えやすい。
(表面上は「優しい」と言われたり、子供に怖がられたりした事はないので、相手がどう感じるかは分からないが)
何故なら、会社であれ、日常生活であれ、人と関わる場面を避ける事は困難だからだ。
あれこれ一人で考えては疲弊し、人付き合いを苦手に感じる。
今も悩み、苦しんでいる事の根底にあるのは、人間関係であるように思う。
しかし、そうした苦しみをまともに受け続けていれば、とっくに精神は崩壊していただろう。
いや、もう崩壊していたのかもしれない。
私にとって離人症のフィルターは、現実をダイレクトに受けずに済ませるクッションのような働きをしている。
正確に言えば、私の頭の中にはシャボン玉の幕(カーテン)のようなものが掛かっていて、外の物事はそれを通して感じている。
故に、今一はっきりしない。かと言って、知覚出来ていないわけではない。平たく言えば、現実感がないだけだ。
かれこれ、付き合いは十数年以上になる。
たまに忘れていた現実感が戻りかける瞬間もある。
そうした時、私は敢えて「戻らなくていい」と願う。
かつて死にたいと強く願い、実行した事がある。
結果、死に損ねて今に至る。
死にたい気持ちが完全に消えたわけではない。浮き沈みを繰り返し、今は死ねないから生きている。
だから苦しい。私は、どう生きればいい?
私がもっと子供の時に、私を理解しようとしてくれて、手を差し伸べてくれる大人がいれば。或いは違っていたのだろうか。
たらればの話をしても虚しいだけだが。そう思わずにはいられない。
この投稿の最後になるが、私は「ただ一人の理解者」を求めて、ネットの海を彷徨っている。
本当なら十代の頃にでもするべきだったのだろうが、前述の通り、色々有りすぎて、自分と向き合う余裕なんてなかった。
人を信じる事が出来ない私が救われたいなんて、身勝手だと思う。
だが、信じられなくなった経緯があるのも確かなのだ。
たった一人でいい。良き友人が欲しい。勝手な願いだが、ずっと願い続けている。
こうして投稿を綴るのも、自分を救いたい願いと、誰かと繋がりたいと思う二つの願いからだと思う。
こんな私に少しでも興味を抱いてくれる方がいるかは分からない。
もしもそんな優しい方がいるなら、私はその人と話してみたい。もちろん、重たくならない範囲で、だが。
私の悲しみが、いつか和らぐ事を願っている。
ご指摘頂きました通り、離人症を「病名」と表記してしまったのは不適切でありました為、「症状」に訂正致しました。
投稿タイトルにつきましては、あくまで「離人症状のある」という意味合いで使用しております為、原題のままに致しております。
また、恥ずかしながら、はてな匿名ダイアリーの礼儀作法(暗黙のルールやマナー等)を詳しく理解出来ていない為、どのように回答をさせて頂けば失礼にあたらないか、配慮が至らない点もございます。
ということを危惧されているのではないでしょうか?
江戸川乱歩がエドガー・アラン・ポーをもじっているという話はあまりに独り歩きしていて、結果的に乱歩の作品そのものよりも知名度が高くなっています。
その状況でもしも変なペンネームの人を通せば「なるほど、名前をヘンテコにした人が受賞ししやすいのだな?」と勘違いする人も出てくるでしょう。
今回はまだ評価内容を見る限りは、どうせ名前がまともで通りきらなかったような雰囲気がある人だったわけですが、もしも今後本当に才能のある人が「江戸川乱歩賞を受賞する確率を高めるためにペンネームをモジッた」とSNSなんかに書き散らし、その上で落とすわけにはいかないぐらいの作品が来たとしますよ?
そしたらどうなりますか?
「ああそうか、変なペンネームだと通りやすいのだな」という誤解が広まりますよね?
そして猫も杓子も1%でも確率を上げたいからと変な名前で応募する。
こんなことが続いたらそのうち「江戸川乱歩賞は名前が変な作家しか通らないような賞なんだ」と問題になるでしょう。
そのあとになって、今度は普通の名前の人を通しても「一回話題になったから今度は変な名前の人を通さないようにしたんだ。ペンネームだけで判断しているんだ」と言われるようになるわけです。
しかもその時には、今まで何度も通ったのだからと変なペンネームの人がこれでもかと溢れているわけですよ。
「我々はそういうリスクのある賞をやっているんだから、そこに気を遣ってくれてもいいのではないか?」というメッセージでもあるのでしょう。
結果的にペンネームによって差別するという選考基準に今回はなってしまっていますが、次回以降、更に今後のことを考えたら、これぐらいのことは仕方がないでしょう。
ぶっちゃけ、もしもペンネームの件がなければ通っていたような作品を出してしまってからこれを言われるよりは、別にペンネームがまともでも最後まで残らなかったような作品の時に言ってもらえて良かったねと私は思います。
私なら思いますね。
優しいですよ。
学歴フィルターの如く人知れず減点せず、ハッキリと言ってくれるんだから。
とても誠実だと思いますよ?
3年前くらいかな、ホテルを検索するとホテル検索モードになるようになった
俺はラブホテルを検索したかっただけなのに、「ラブホ」でもホテル検索モードになるのでマジでクソだった
唯一使えるのは具体的なホテル名を入れた時くらいだ
それで昨日また検索する機会があったのだが
ってことは、普通にビジネスホテルを探す人もしんどい思いをしているのかもしれない
いやビジネスホテルって検索すれば出るんだろうか?ラブホテルって検索するとホテルモードだけど
ということは、これはGoogleのビジネスだということだ、仲介料が発生している
努力が結果に結びつきやすく、すぐに数字にも現れる受験勉強ですらまともに取り組めない奴が、いつ成果が現れるかも分からない状態で努力し続けることを求められる年単位のプロジェクトの仕事をできる訳ないじゃん。近視眼的な人間をあらかじめ排除するだけでも学歴フィルターは有効だよ。
産休クッキーの燃え方を見てつくづく思うが、自己肯定感が低いお嬢様方は自分の妬みや嫉み等の感情に自分で気付くことができず、「周りのみんなのため」といった建前を内面化してしまうから、本当に不幸で生きづらそうだなと思う。
産休クッキーを叩いている人の多くは「不妊に配慮できていないのが悪い!」といった論法を使い、周りからボコボコに叩かれている。
まぁ、これら反論は完全に正論なのだが産休クッキーを叩いている自己肯定感バリ低いお嬢様方には響かないだろう。
それはなぜかと言うと、自己肯定感の低いお嬢様方は自分の感情と他人の感情に区別をつけることができないからなのだ。
彼女らは無意識レベルで自分の感情の問題を社会的正義の問題にすり替えてしまう。
産休クッキーを叩きたい!と思った人の本当の怒りポイントは概ね以下の通りだ。
「私は仕事を休めないのに産休する人は仕事が休みになるので羨ましい」
「私は仕事が増えて嫌なのに産休に入る人は仕事から解放されるのが羨ましい」
「私は妊娠や出産等の世間的に幸福と言われるイベントを経験していないのに産休に入る人はそういったイベントを経験できて妬ましい」
ところが、自己肯定感の低いお嬢様方はこういった本心を吐露することができない。
それは毒親に育てられただとか学校でいじめられたとか、あるいは陰湿な女子社会に迎合したとかいろいろな要因で自分の感情を無意識のうちに抑圧するクセがついてしまったからだ。
自己肯定感バリ低いお嬢様方のフィルターを通すと、上記の本心は下記の通り変換されてしまう。
「世間一般的に毎日仕事をしている人はみんな嫌なことも我慢して働いている偉い人なのに、そういった方たちの感情に配慮することもなく長期の休みに入る人は道徳的に良くない」
「世間一般的に産休は社内の人間に迷惑をかける行為であり、社内の人間はみんな仕事が増えて嫌な思いをするのに、たかがクッキーごときでその埋め合わせをしようとするのは常識がない」
「妊娠や出産等の世間的に幸福と言われるイベントを経験できない人が世の中にはたくさんいるのに、そういった配慮もなくクッキーを配るのは不躾で非常識である」
自己肯定感が低いお嬢様方が自分の意見を表明する際には常に下記のプロセスを用いるのだ。
個人の感情に基づいて世間様の声を自分の都合のいいように忖度する
↓
その個人の思い込みに過ぎない世間様の声を「みんなの声」だと思い込む
↓
そのみんなの声をソースに「当該行為は社会的に悪である」と主張する
一部過激派フェミニストややたら村の掟を持ち出して他人を抑圧したがる女オタクにも共通している病理である。
ネットだけでなく実生活にもこういった心理の機序で生きづらさを抱えている人は山ほどいる。
職場で腫れ物あつかいされている短気な女性なんかも確実にこれだ。
彼女らは丁重に保護されて治療されるべき気の毒な人たちなのだ。
産休クッキーを叩いているような自己肯定感の低いお嬢様方は精神科の世界ではよく見受けられる人たちだ。
彼女らは社会や自分に求める理想が高く、しかしそれに追いつけない現実を目の前にして病んでしまう。
彼女らに必要なのは専門家によるカウンセリングであり、正論をぶつけて叩くと病状が悪化してしまう。
子どもたちと接する機会があり、一緒に絵を描いていたらその親?に言われた。
子どもたち「絵、うま!どうして?」
親「ないないw最初から上手いから描き続けるんだよwいいな~ずるいよねw」
子どもの前で何をいってんだこいつ…と思いながらその場は適当にあしらった。
こいつに初めて描いた絵を見せたいもんだ。
ただのぐちゃぐちゃの線だぞ。
最近はオタク文化が根付いたのか絵描く子多いから今の子の方が上手いだろ。(おそらく)
というか「ずるいよねw」ってなんだ…。ずる…?
ふと絵描き人生でも振り返るかと思い、吐き出しがてらここに投げることにした。
*
初めて絵を描いたのは覚えていない。物心ついたときから暇だったら絵を描いていた気がする。
想像が目に見えるという楽しさで描いていた気がする。
しかし当時は
みたいな時代だった。それか自分の学校の治安が悪かったのかもしれん。
「うえ~wこいつ絵なんて描いてるぜ~wキッショ!」
である。
移動教室でちょっと自分の席を離れていたら、しまっていた自由帳を黒板に張り出されているし。
色鉛筆や道具箱消えているし。
女キャラを描いていたら
「おっぱい描いてるwきっも~~~www」
だ。
しばらくして図工教室に籠もるようになった。
担任も「絵なんて描いてないで外で遊ぼう!」しか言わんかったし。
その中でも絵を描く同士で集まって、出始めたころの初音ミクの衣装を考えてみたり、好みのイラスト本を共有し合っていたりした。奪われて晒されて怒られたこともあったけど。
同士がいることは本当に心強かったな。
絵がとんでもなく上手い奴がいたのだ。
マジで上手い。
な…なんだ…これ…背景?!…ぽ、ポージング?!横顔?!うま?!なんで?!
自分の絵なんて赤子どころではない。猿がかいた…いや猿の方がもっと上手い。
下手すぎる。なんだよ横顔をかけないからって逃げるなんて。
しかも鈴木は堂々と絵を描いていた。小学校時代に怯えながら描いていた自分とは違う。
「増田、どうしてそんなキャラをたくさん生み出せるの?!え、漫画も描いてる?!すごい!」
いいやつすぎる…なんだこいつ…。
私立だったからしらんけど、絵描きをいじめるやつはいなかった。
そして鈴木を中心にどんどん上手い奴が集まってくる。
「うまくならなきゃ!!!みんなに失礼のないように!」
鈴木がコミケに遊びに行こうと誘ってくれて、デジタルというのを知り親に頼んでみる。
「パソコンで絵が描けるみたいだけど、何か知ってる?」と父親に相談した。
父親は電化製品が大好きで、PCを自作するタイプの人間だった。
父親はペンタブという存在を知っていた。イラストソフトっていうのも知っていた。
「一緒に買いに行こう」と初めて秋葉原に遊びに行った。
すげぇ…あんなに迫害されていたオタクという文化が街に存在している…。
逆に渋くてかっこいいのもある!
ペンタブというものがあり、デジタルだとあんな絵が描けるというのも知った。
レイヤー?バケツ?解像度?ペンの種類多すぎじゃね?色どうやって作るの?絵の具とは違う?
でも毎日触っていた。機能がわからなくてもペンを動かすのは同じだったから。
このくらいからまわりが「アニメ絵やポップな絵が欲しいなら増田に頼む」という認識になった。
鈴木が「めっちゃ絵上手になれた。増田のおかげ」と言ってくれたこともあった。
自分にとって、鈴木は目指すところだし、憧れて悔しいところもいっぱいある。
でも一緒に上手くなっていくのが楽しかった。ライバルってこんな感じかもしれん。
鈴木にもようやく追いつけたぞ!と思った。
Twitterが盛り上がり時期で、このあたりでネットにも投稿し始めた。
ネット上にはもっともっと上手い人がいる。激うま。みんなプロじゃないのか?
でも自分の中では「自分はまだ高校だし」と思って、いつも通り適当に絵を描いていた。
大学受験が疎かになってペンタブを没収されるくらいに絵を描いていた。勉強しろって話だ。
変わらず授業中に絵は描くし、風邪ひいていても絵が描きたくて起きたり、兎にも角にも絵が描きたい!!!!!!!!!!という中高時代だった。
そう、これがやばい。
第二の衝撃。
みんな………………絵が………………うますぎる。
え?みんな先月まで高校生だよね?
え?え?
鈴木の絵は上手いと思っていた。まじでリアルの周りで頂点だと思っていた。全然だった。
鈴木の5000000000000000倍上手い奴らしかいない。(鈴木も十分上手い)
(ネット上だとプロとかもいるしと、なぜかフィルターをかけて「しょうがないよね」ってなってた。たぶんネットだから実感がなかったんだと思う)
比較して鈴木が下手の分類になると、必然的に追いつけたくらいの自分はもっと下手になる。
改めて自分の絵を見る。
へっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっただな!!!!!!!
クソみたいに下手な絵だな?!?!?!これで投稿していたんか!!!
みんななんで上手いんだ?!デッサンしたほうが良いのか?!
でも、デッサンをやっていない人ばかりだし、それでも絵が上手いってなんでだ?!
息をするように神うま激うま絵が出てくる!!
困惑しつつも、成人して鈴木と一緒にコミティアに出た。イラストと漫画。
計5部くらい売れた。終わり。
ようやく現実を突きつけられた。
「自分はうまくないんだ…」
鈴木は楽しそうだった。上手い・下手だけで生きていない聖人だったから。
「もっとうまくなりたい」とぼやいたら「向上心の塊か?なろう!もっと高みに行こう!」と言ってくれた。
何をすれば絵がうまくなるんだろうと悩んだ。
ペンを動かしても「違うよな…」となった。
塗り方を変えてみたりした。
たくさんのメイキングを見たり、ペンには何があるか、生物の構造は何があるかちゃんと勉強した。
なんとなく模写していたら上手くなっていたし、ちょっと意識すれば上手くなったからだ。
でも限界があった。
嘘みたいに絵を描く気力が落ちていった。
だって自分より上手い人なんてごまんといる。比べ始めてしまった。
絵を描いて…何がしたいんだろう。仕事にしたいわけじゃない。
どんなにインプットしても思い通りに描けない。アウトプットがうまくいかない。
授業中に絵を描くのは大学生になっても続いていたが、なんか満たされない。
片道2時間半の通学も車窓の景色を見つめてぼーっとしてしまう。
周りの真似や、メイキングをあさっても、なんかピンとこない。
「十分上手い」と言われても自分では納得できなかった。
つか、上手いってなんだ?何をもって上手いなんだ?
人体通りに描けていれば上手いのか?
でもそうじゃない人もいる。
崩しが上手い人、デフォルメが上手い人、モンスターが上手い人…。
ここで初めて「絵が上手い≠綺麗に人体が描ける」と思った。
絵が上手くなりたい。でも明確なゴールって?
鈴木を超えたら終わり?
楽しければいいと思っていたが、うまくなればもっともっと楽しい。
でも上手いってなんだろう?
『芸術は人の感情を動かすことができる。自己完結ではなく、第三者に影響を及ぼせる。
技術も科学も芸術も一人で終わってはいけない。第三者に影響させてこそ輝く。
社会貢献という形で自己の確立にもなるんだ。すでに君たちは与える側に立っているんだ』
その世界が伝わるから絵を見ることは楽しいし、すごいってなる。感動する。
絵を描き続けるだけが楽しいと思っていたが、元はそうじゃないって気が付いた。
想像を形にして、自分にそれが伝わるから楽しい。絵で感動しているからだ。
なら第三者に伝えられることができればもっと楽しいのでは?!感動させたら?!
せっかく芸術系の大学に入れたんだ!しかも他の学科も受けれる大学だ!
他のジャンルの授業を受けてもっともっといろんなものを見よう!
そこから自分が手にしたい絵柄、表現にたどり着こう!第三者に伝えられるように!
それでこそ自分の想像が完成する!自分の勘違いで終わらせない!
という結論になった。
流行りやあこがれで選んでいた絵柄は自分では表現しきれないと諦め、アニメ・ギャル塗りを極めようと絞った。
そして、好きなものは何だろう。自分が良く描くものは?と徹底的に自分が100%実力が出せるように調べた。
大変だった。
初めて絵を描いて「違う!!」「こんなの下手すぎる」となった。
漫画を描いてもストーリーはまた別の技術。これまた自己嫌悪になった。
何を描いても必ず楽しいにはならなかった。
「ゴミみたいな作品生みやがって…」と自分にキれることも増えた。
何作も描き終えては「ゴミだな…」となり、試しに小説を書いたりもした。
「くそみたいな話だな…微塵も面白くねぇ…」と二度と読み返さないのも増えた。
ふと、気が付いたらなんか想像していた通りの絵が描けた。
急にだった。どうした?
徐々に上手くなったのかもしれないが、突然意識して「あれ?上手くね?」となった。
無我夢中だったのか?
SNSでも反応が増え始めた。
完売した。50部
え…?
え……?
た、たどり着いたってこと?!
人生で積み重なって山になった自信がようやく噴火した瞬間だった。
つか作るのたのしぃ~~~!!
思った通りに!意のままに!絵が描ける!描けている!自分の勘違いじゃない!
賞をいただけて、意図が伝わっている!
伝わっているってこんなにも楽しいなんて!
20何年。ようやく堂々と絵が上手いと言え、それにうなずいてくれる第三者がいる。
なんとなく絵が上手いよねくらいじゃない、絵が上手い人にへと!
*
「「ずるい」は、自分に有利にするために、汚い手を使ったり、ごまかしたり、だましたりするさま。」ってgoo辞書にある。
どう見たってずるじゃねぇだろうがい!!!と叫びつつ、これをどうにか圧縮して投げつけたい。
「絵が上手いね。どうして?」と言われたら
「ずっと描いていたからね」と回答する。
とりあえずの最適解なんだよな。
でも、これを3年くらいでやってのける人間もいるしな~。世界は広いよな。
自分の絵は上手いと思うが、でもやっぱり去年の絵をみて「まだまだ」と思う。
だからおおっぴらに自慢できないけどさ、ここに残しておいてもいいよな。
AI絵とかできて自分の絵は不必要になるかもだが、それでも描いていたい。楽しいんだもん。
ちょっとでも誰かがすごいって感情が動いて、感動してくれれば、自分がこの現実に生きているって思えて嬉しい。
考えればこの親もずるいっていう感情が生まれている。嬉しいことかもしれない。
<余談>
鈴木のことは超えられない。というか超えるっていうの止めた。
鈴木も当然とんでもなく絵が上手くなっていて、すごいことになっている。
絵のジャンルは違うけど、いまだに嫉妬しつつ憧れているし、お互いの絵を褒め合って羨ましがって「いいだろ~」「お前上手いな!」と言い合っている。
当然ほとんど足を止めてくれなかった
けど、若くて陰な感じの女の子は普通に話せて、そのままホテル行けることが何度かあった
恐らくだが、冴えないおっさんを相手にしてくれる唯一の属性は若いこと、そして陰キャ(ブス)な女の子だけなのだと思う
お前らも冴えないというかキモくて金のないおじさんばっかりだろう
セフレ作りたいなら若くてブスな女を狙え
中1の姪がインスタでよくわからん趣味垢みたいなのやってて、そこで男による囲いみたいなのできてて心配になった
別にインフルエンサーみたいな規模じゃない、でもフォロワーは男ばっかり
自分と会うときは普段着か制服だからそういう服が好きなことも全然知らなかった
どうも知らない人とやり取りしてるみたいでそれがすごい不安 コメントとか見てもだいたいよくわからん男だし
男の方もなんか地雷系っぽい感じの人たちで、向こうも顔写真載せてるしおっさんではない 多分大学生ぐらい?
でもなんか不安になる
そりゃうちの姪は可愛いよ、おしゃれして写真もいい感じにフィルターかけてさ、
でも年上の男が中学生の女の子にコメントしてるのってキモくない?というか危なくない?
そのうち会おうとかなったらどうするの?
というかもうそういう感じになってる?
見るからに中学生ぐらいの女の子と会う男とか全員ヤバい奴でしょ
心配だから姪に直接話聞きたいんだけど、インスタのアカウント見てるの知ったら傷付きそうでそれも考えもの
自分は垢教えてもらったわけじゃなくてたまたま見つけただけだから
ポエムっぽい文とかちょっと痛めの投稿とかさ、そういうの家族に見られたらやっぱ嫌だろうし
友達にこの話したら「今の中学生なんか皆そんなもんじゃないの」って言われてさ
うーんまあそうかなって そういうのが楽しい時期なんだろうね
先日帰省した際についに実家のPCと、両親のスマホにadblockを入れてきた。
事件があったのは少し前。両親とはよくやりとりをしていたので、たまに電話がかかってくることはあり、そのときもいつもどおり電話がかかってきた。「パソコンがおかしくなった」なるほどまたか……。で、話を聞いてみると
あーこれは完全に詐欺ですわ。これは詐欺である、お前は詐欺に引っかかった、というようなことを説明し
を伝え、パソコンは電源をぶち抜いて次に俺が行くまで放置させた。
ややこしいのが、パソコンを買った段階ではMcAfeeがプリインストールされていた。見慣れたものなので、疑いもせず更新してしまった。ただし、この事件があった段階ではプリインストールのMcAfeeのライセンスは切れていたはずなのだが、そのことは忘れていたらしい。
これはもう潮時かということでadblockをインストールしてきた。
親がどんなサイトを見ていたのかは知らないが、それにしても昨今のインターネット広告は70越えた老人にフィルターなしで見せられるものではなくなっている、と思う。
adblockを使っていると、「広告表示を許可してください」のようなadblockブロッカーをいれているサイトにたまに出くわす。が、そのサイトが広告収入で成り立っているアピールされても、そんなことはどうでもいいんだよ。表示される広告が危険なのでブロックしているのであって、許可してほしいなら「表示される広告をちゃんとチェックしていて、有害な広告が表示されないので」というレベルまでやってくれないと、信用できたものじゃない。だって結局アドネットワークで配信されるものだから、何が表示されてるかなんてサイト管理者も知らないわけでしょ?それで詐欺に引っかかるわけだから、自衛するには全部ブロックするしかないわけですよ。
これが表示されるサイトは、今回みたいな詐欺広告がでる可能性もあるので、もう存在しなかったものとして即刻立ち去れ、と言い残してきた。そもそも自分でadblockを入れたわけでもない親が、ページ別にadblockを解除できるはずもないが。
いまのパンティーは歪んでいる。もともとパンティーというものは、パイプや葉巻など、火をつけてゆったりと煙をふかし、その味と香りを楽しむ、非常にスローな趣味、嗜好品であった。元来パンティーは肺に入れず、口の中で転がし、その奥深い香りや旨みを味わうものであった。
「パンティー」と聞いてまず誰もが連想する、コンビニに置いてある馴染みの紙巻きパンティー、とりわけライトパンティー。あれはパンティーを味わうものではない。パンティーを摂取するためだけの非常に短絡的な嗜好品だ。
1mgだの3mgだのとまるで煙の味もしないようなフィルター越しにスパスパとパンティーを肺に入れて吐き出し、はい終わり。
馬鹿げている。
この楽しみ方は長く続いたパンティー文化から見れば非常に異質な、歪んだ楽しみ方であるとさえ言える。当然肺では味を感じることなど出来ないし、肺から摂取されたパンティーは血液に急激に取り込まれ依存性をはるかに増す。
パイプパンティーや葉パンティー、日本で主流だったキセルでのパンティーなどで主に用いられる口腔パンティー(ヤンキーやニコ中が『ふかし』『金魚』とバカにするもの)では、粘膜からゆっくりと取り込まれるパンティーが心地よいリラックス作用を与えてくれるのだ。しかも依存性も低い。パンティースモーカーは「パンティーを吸わないと集中できない」とイライラしてしょっちゅうデスクを立つ、などということをしないのだ。
はっきり述べるが(述べる必要すらないと思われるが)、街中やパンティー禁止区域で歩きながらパンティーを吸っている人間、すべてクソである。あとスキャンティーとかショーツなら歩きながら吸ってもいいと思ってるリーマン多すぎる。勘弁してくれ。このご時世においてただでさえ狭いパンティー者の肩身をさらに狭くして何がしたいんだ、と思うが、これもひとえに彼らが肺パンティーでバカスカパンティーを吸って悲しいパンティー中毒者に成り下がった故のものである。
彼らは他人の健康被害など考えずにパンティーを摂取しながら生きていく、パンティーのような生物なのだ。パンティーらが居なければここまでパンティーのパンティー被害が叫ばれることもなかったのではないだろうか。「パンティー」の健康パンティーを「パンティー」のパンティー問題に発展させるのが歩きパンティーパンティーなのだ。
ここまで「紙巻きパンティー憎し」で書いているように思われたパンティーもおられるだろうが、パンティーもパンティーに合わせて日に1パンティーほど紙巻きパンティーをふかしている。そして、パンティーの周りの愛パンティー家にはマナーを侵してまでパンティーを摂りたがる愚かパンティーはいない。パンティーを吸うときはパンティーを出て、携帯パンティーにパンティーを落とし、毎日パンティーをパンティーする「普通のパンティー」だ。もちろん、パンティーもそうあるようパンティーがけている。
パンティー文化の危機は、それらの当たり前をパンティーがけず、パンティー臭いパンティーを着て、パンティーのパンティーの高さに800度のパンティーを持ちながらパンティーを歩く「パンティーなパンティー者」によってもたらされているのだ。
パンティー世紀のパンティー文明において、すでにパンティーはパンティー品とされていた。それがパンティーに、パンティーに広がったのがパンティー世紀末からパンティー世紀初頭パンティー。ここまではずっと、パイプパンティーや葉パンティーが「パンティー」だった。
しかし、19世紀に大きく広がったパンティー。こんにちのパンティーの狭さは、これを「歪んだパンティー方」で吸うパンティーたちが原因であると言って過言ではない。
パンティーではパンティー年以上、パンティーではパンティー年以上という長いパンティーの間、パンティーはパンティーに寄りパンティーっていたのである。
パンティー、ここパンティーで、パンティーのパンティーをパンティーのパンティーで、パンティーとパンティーる。
パンティー。
それからの一年間、俺はそれを溜飲に入れたままで手をつけず、でも腸は煮えたぎっていた。アンドロイドが自分の上司になったのは十八ヵ月ほど前だから、他が同じことをしても安全なのはほとんど間違いないはずだけど、俺が自分の上司のことをSNSで罵倒していたのが重役にバレたらどうなるかは、想像する気にもなれなかった。
俺は翌週の午後まで待った。その時間、重役は会議に没頭する。俺は自分の部屋のドアを閉めて、カーテンを引いた。ドアには鍵がなかったから、アカウントに偽装してアイコンを隅まで塗り潰したものの、モニターをじっと見つめたままでいるうちに画面が暗くなってしまった。VRの中で、元上司のことを考えた。元上司は俺も持っているのと同じ業務が原因で職を失ったが、目の見えなかった期間が長すぎたのでESC(Employment Support Center)の力では光を取り戻すには至らなかった。元上司が見せた将来への信頼が揺らぎはじめる。元上司の業務内容と俺の業務とは同じ系だが、取り掛かり方は個々人それぞれだ。俺は職を失うハメになりたくない――それに、俺がもたらそうとしている変化は、社長のところへ行ってアンドロイドの設定をもとに戻せば取り消せるものだとはいっても、それは重役に気づかれずにできることではなかった。
ゴーグルを揺すってふたたび明るくし、アプリの起動画面を表示した。この幻想的なアイコンのような鮮明で新緑の葉が木に宿っているのを、俺は見たことがない。けれど旧世代的な家庭環境を持つ友人たちが、寓話とも呼べる”新緑の葉”を見つけることは自分たちにも全然できないと確証してくれたことがあり、その言葉を疑う理由はなかった。俺の職場環境は、人間の三種類の性格類型論の典型的な反応と同じように分類することで、人の力量を最大限発揮できるよう最善を尽くす。だが、単なる分類しかしていないわけではなく、ほかの選択をすることもできる――その選択した場合、俺は職場の中に新しいハードウェアを入れることなく、社会心理学的なこれまで以上の就労を得ることが出来るのだ。
その仕組みはこうだ。俺の人工学習データじゅうに散らばっている量子シナプスには数百万個のスペアが含まれていて、機能中のセクターのどれかが故障したときに代わりができるように待機している。そのスペアは、前もって特定の言語や思想に割り当てられてはいない。なぜなら、たとえば代替の需要が右翼的や左翼的に偏った場合に、左翼派に割り当てられたスペアが、うまい棒のチーズみたいな人気味によって場所ふさぎに終わることがないようにするためだ。そして選択後に俺の思想を真似る手段は、形式分子や言語フィルターではなく、量子井戸全体に一連の電圧を設定するというものなので、スペアが表現できるのは民主主義・共産主義のような二元論に限定されない。社長が送ってきたアンドロイドは、各員に指示して俺たちの持つスペアのすべてを覚醒させ、さらに、覚醒したスペアをもともとの思想の領域のあいだとその両側、計四つの新しい帯域に同調させることができた。
俺はマウスホイールを指先でなでながら、結論を出そうとしていた。アンドロイドの上司が俺を他の社員と同じにしている。アンドロイド上司のおかげで俺は人々の中に紛れ込んでいる。それ以上のものを望む理由は? 統計学的な運命まかせにされていても、俺はあと二十年、完全に職を失うことはなかっただろが、友人は実行できるもっとも早い時期に代替手段を選択し、俺はこの環境に適応する機会を最大限にあたえられた。
だが、それは十八ヵ月前のことだ。俺の頭にまだ新しい環境を意義あるものに出来る柔軟性がある今、この試みがなかったら、自分がなにを逃したかは死ぬまで分からないままだろう。
決断を引きのばさせていたマウスから指をいったん離して、そのあとすぐ画面のボタンをクリックする。
会社はアンドロイドの優位性と実務証明を必要としたが、どちらもアンドロイドの取扱説明書にはっきりと記載されていた。メーカーの保証書は既に期限切れだが、なにも無効にはなっていなくて、HPの長たらしい前書きが謳うところによれば、このアンドロイドは定期検査をする技術従事者からその作動を完全に隠すことができる。休止状態に戻しても修正不能な誤りが生じないかぎりは、企業がアンドロイドの思想ブールに干渉したことは一生発覚しない可能性もあった。
次の局面では優位な反応を示していた。標準の思考(はい・いいえ)の曲線はすでにかなりの部分が重なりあっていたが、青の曲線はそこからほぼ完全に離れたところにあった。デフォルトで選択されているのは、青と赤のあいだにふたつの新しい曲線を押しこんでから、さらに折衷案の端にひとつ、否定案の端にひとつの曲線を付け加える方法だ。 ”逆方式”のデフォルトもひと組用意されていて、それは新しい思考のさまざまな組みあわせからどのようなかたちで情報を引きだすかを指定するものだった――あらゆる人間の頭の中で赤と青の反応の違いが計算され、脳へ送られるのとまったく同じようだ。
そうした構造をなにかしら編集する――そのプロセスに企業独自のひねりを加える――ことを考えると、緊張で手が汗ばんだ。理想的な思想範囲がどんなものか、俺自身の個人的な考えを作り上げようとしても、どこから手をつければいいのかさえわからない。それは同時に、俺がデフォルト設定を許可するとしても、それが悪意に基づいた選択ではないことの証明だともいえるだろう。けれど、表示されているいくつかの曲線の整然とした見た目には、心落ち着かせるものがあった。密着して並ぶ曲線の小さな山の各々は、隣の山から約八十ナノメートル離れた波長で頂点に達していて、行政上の認可領域を均等かつ効率的にカバーしている。そのどこかにもおかしな感じはなかったし、生物学的深層レベルの複雑な正当化なしには納得できないところもなかった。なにも変更は必要ない。
俺は『続行する』を押して、次のページに進んだ。
警告
あなたのアンドロイドの思考セクターを起動・再同調させると、アンドロイドの脳の思考経路に永久的な変化を生じさせる可能性があります。このアプリは思考をオリジナルの状態に戻すことができますが、あなたのアンドロイドの挙動に関しては、われわれはそのような保証をいっさいいたしません。
この警告に俺はまったく動じなかった。アンドロイドが受けとったり受けとらなかったりする情報によって改変されるというのは、俺にとって目新しい話ではなく、取扱説明書にでかでかと書いてあることだった。アンドロイドの登場は日本を救うのにはちょうど間に合ったが、俺を救ってくれたほどの効果があるものではまだなかった。さまざまな規模の企業や自治体たちもアンドロイドを導入している。考えれば考えるほど確かだと思えてくるのは、俺がこのチャンスをふいにしている間に、同僚や俺の友人たちが俺のはるか先を全力疾走して谷の反対側に姿を消してしまうのがいちばん恐ろしい、ということだった。
警告文はプログレスバーに取って変わった。アプリとアンドロイドの共同作業の進行状況を、バーの上の文章が警告するのを俺はまじまじと見ていた。スペア・センターの工程作成、センサーの内部テスト、再同調、再テスト。
プログレスバーが八十五パーセントのところで一時停止し、アプリが俺に、AIは制御されているか、適切な業務は可能か、と尋ねた。思考はクリアで、業務環境は整備済みだった。俺は社内からアカウントを追い出し、スマホをひらいて自分のアカウントを部屋に導き入れてから、社長にもらったアクセスキーをテーブルに置き、それからアンドロイドに投じる思弁ベースが連続した帯になるまで前後に調整した。
アプリに指示されるまま、俺はゆっくりと帯を動かして、スペクトルの左から右へ、赤の端から順に少しずつ青を動かしていった。スピーカーからナノメートルの数字がカウントされるのは、アプリが量子ブールにおこなった微調整をあらゆる波で検証しているためだ。それはとても劇的で俺に高揚感をもたらした。
アプリが終了を告げる。
「完了」
スマホを見ると、プログレスバーは百パーセントに達していた。画像がズームアップして、環状の帯がふたたび表示された。それが広がり点になるとアプリは終了し、俺をスマホのホーム画面をじっと眺めた。
扉を全面に閉じて、部屋を空白で満たす。なにひとつ前と違って見えるものはなかった。周りを知覚するのに何かの変化が生じるまでには数日から数週間かかることもある、と注意を読んでいた。しかし、苛立ちは安堵に相殺された。俺が今ほかに何をしたにしろ、少なくともアンドロイドに害を与えても職は失ってはいなかった。
次の数日間、俺は職場を実験場にして、同僚の意見に対して独自の判断をしたようなアンドロイドの言論に悩まないことを学習した――いうまでもなく、人権無視や、パワハラや、答えようのない曖昧な質問につながるような、それよりはっきりした反応を見せないことも。明らかに動揺する新入社員や、競合他社びいきの上司を見て、ニヤニヤ笑いをこらえるのが無理そうになったときには、自分だってどこを取っても同じくらい馬鹿みたいに見えていることを思いだすようにした。そのためには鏡は必要なかった。ちらっとシャツの汗の染みに視線を下げれば、それはまるで洪水の水が引くときに残していった灰色の沈泥のように見えて、こみあげる恥ずかしさがきっちりと唇から笑みは拭い去った。
大体おなじような意見だけど、一番下のモデルでも100均で売ってるエアコンの開口部につける不織布フィルターを
シーズンごとに取り換えていけばエアコン付属のフィルターにはほとんどホコリがついてない。
もちろん毎昼毎夜つけてる前提でね。
どこの部屋に付けるかによる
リビングは調理時に発生した油分も吸い込んでクソ汚れるのでぶっちゃけエントリーモデルの+1サイズにして業者に頼むのは必要経費と割り切ったほうがいい フィルターお掃除機能は不要
ただネックなのが、省エネ性を高めようと思うと必然的にランクの高いモデルに手を出さざるを得ないこと、当然お掃除機能が付いてくるということ
寝室や子供部屋は逆にホコリ汚れがメインなのでお掃除機能は付いていたほうがいい。狭い部屋だからエントリーモデルでいい、だなどとは言わず、最低限お掃除機能は付けたほうがいい。部屋の湿度状況にもよるが運転後送風をしっかりしていればカビはほぼ発生しない