はてなキーワード: 実在論とは
六
https://anond.hatelabo.jp/20241001172740
ベルが鳴って、講師は教室から出ていった。三四郎はインキの着いたペンを振って、ノートを伏せようとした。すると隣にいた与次郎が声をかけた。
「おいちょっと借せ。書き落としたところがある」
与次郎は三四郎のノートを引き寄せて上からのぞきこんだ。stray sheep という字がむやみに書いてある。
「なんだこれは」
「講義を筆記するのがいやになったから、いたずらを書いていた」
「そう不勉強ではいかん。カントの超絶唯心論がバークレーの超絶実在論にどうだとか言ったな」
「どうだとか言った」
「聞いていなかったのか」
「いいや」
与次郎は自分のノートをかかえて立ち上がった。机の前を離れながら、三四郎に、
「おいちょっと来い」と言う。三四郎は与次郎について教室を出た。梯子段を降りて、玄関前の草原へ来た。大きな桜がある。二人はその下にすわった。
ここは夏の初めになると苜蓿が一面にはえる。与次郎が入学願書を持って事務へ来た時に、この桜の下に二人の学生が寝転んでいた。その一人が一人に向かって、口答試験を都々逸で負けておいてくれると、いくらでも歌ってみせるがなと言うと、一人が小声で、粋なさばきの博士の前で、恋の試験がしてみたいと歌っていた。その時から与次郎はこの桜の木の下が好きになって、なにか事があると、三四郎をここへ引っ張り出す。三四郎はその歴史を与次郎から聞いた時に、なるほど与次郎は俗謡で pity's love を訳すはずだと思った。きょうはしかし与次郎がことのほかまじめである。草の上にあぐらをかくやいなや、懐中から、文芸時評という雑誌を出してあけたままの一ページを逆に三四郎の方へ向けた。
「どうだ」と言う。見ると標題に大きな活字で「偉大なる暗闇」とある。下には零余子と雅号を使っている。偉大なる暗闇とは与次郎がいつでも広田先生を評する語で、三四郎も二、三度聞かされたものである。しかし零余子はまったく知らん名である。どうだと言われた時に、三四郎は、返事をする前提としてひとまず与次郎の顔を見た。すると与次郎はなんにも言わずにその扁平な顔を前へ出して、右の人さし指の先で、自分の鼻の頭を押えてじっとしている。向こうに立っていた一人の学生が、この様子を見てにやにや笑い出した。それに気がついた与次郎はようやく指を鼻から放した。
「おれが書いたんだ」と言う。三四郎はなるほどそうかと悟った。
「ぼくらが菊細工を見にゆく時書いていたのは、これか」
「いや、ありゃ、たった二、三日まえじゃないか。そうはやく活版になってたまるものか。あれは来月出る。これは、ずっと前に書いたものだ。何を書いたものか標題でわかるだろう」
「うん。こうして輿論を喚起しておいてね。そうして、先生が大学へはいれる下地を作る……」
「いや無勢力だから、じつは困る」と与次郎は答えた。三四郎は微笑わざるをえなかった。
「何部ぐらい売れるのか」
与次郎は何部売れるとも言わない。
「まあいいさ。書かんよりはましだ」と弁解している。
だんだん聞いてみると、与次郎は従来からこの雑誌に関係があって、ひまさえあればほとんど毎号筆を執っているが、その代り雅名も毎号変えるから、二、三の同人のほか、だれも知らないんだと言う。なるほどそうだろう。三四郎は今はじめて与次郎と文壇との交渉を聞いたくらいのものである。しかし与次郎がなんのために、遊戯に等しい匿名を用いて、彼のいわゆる大論文をひそかに公けにしつつあるか、そこが三四郎にはわからなかった。
いくぶんか小遣い取りのつもりで、やっている仕事かと不遠慮に尋ねた時、与次郎は目を丸くした。
「君は九州のいなかから出たばかりだから、中央文壇の趨勢を知らないために、そんなのん気なことをいうのだろう。今の思想界の中心にいて、その動揺のはげしいありさまを目撃しながら、考えのある者が知らん顔をしていられるものか。じっさい今日の文権はまったく我々青年の手にあるんだから、一言でも半句でも進んで言えるだけ言わなけりゃ損じゃないか。文壇は急転直下の勢いでめざましい革命を受けている。すべてがことごとく動いて、新気運に向かってゆくんだから、取り残されちゃたいへんだ。進んで自分からこの気運をこしらえ上げなくちゃ、生きてる甲斐はない。文学文学って安っぽいようにいうが、そりゃ大学なんかで聞く文学のことだ。新しい我々のいわゆる文学は、人生そのものの大反射だ。文学の新気運は日本全社会の活動に影響しなければならない。また現にしつつある。彼らが昼寝をして夢を見ているまに、いつか影響しつつある。恐ろしいものだ。……」
三四郎は黙って聞いていた。少しほらのような気がする。しかしほらでも与次郎はなかなか熱心に吹いている。すくなくとも当人だけは至極まじめらしくみえる。三四郎はだいぶ動かされた。
「そういう精神でやっているのか。では君は原稿料なんか、どうでもかまわんのだったな」
「いや、原稿料は取るよ。取れるだけ取る。しかし雑誌が売れないからなかなかよこさない。どうかして、もう少し売れる工夫をしないといけない。何かいい趣向はないだろうか」と今度は三四郎に相談をかけた。話が急に実際問題に落ちてしまった。三四郎は妙な心持ちがする。与次郎は平気である。ベルが激しく鳴りだした。
「ともかくこの雑誌を一部君にやるから読んでみてくれ。偉大なる暗闇という題がおもしろいだろう。この題なら人が驚くにきまっている。――驚かせないと読まないからだめだ」
二人は玄関を上がって、教室へはいって、机に着いた。やがて先生が来る。二人とも筆記を始めた。三四郎は「偉大なる暗闇」が気にかかるので、ノートのそばに文芸時評をあけたまま、筆記のあいまあいまに先生に知れないように読みだした。先生はさいわい近眼である。のみならず自己の講義のうちにぜんぜん埋没している。三四郎の不心得にはまるで関係しない。三四郎はいい気になって、こっちを筆記したり、あっちを読んだりしていったが、もともと二人でする事を一人で兼ねるむりな芸だからしまいには「偉大なる暗闇」も講義の筆記も双方ともに関係がわからなくなった。ただ与次郎の文章が一句だけはっきり頭にはいった。
「自然は宝石を作るに幾年の星霜を費やしたか。またこの宝石が採掘の運にあうまでに、幾年の星霜を静かに輝やいていたか」という句である。その他は不得要領に終った。その代りこの時間には stray sheep という字を一つも書かずにすんだ。
「どうだ」と聞いた。じつはまだよく読まないと答えると、時間の経済を知らない男だといって非難した。ぜひ読めという。三四郎は家へ帰ってぜひ読むと約束した。やがて昼になった。二人は連れ立って門を出た。
「今晩出席するだろうな」と与次郎が西片町へはいる横町の角で立ち留まった。今夜は同級生の懇親会がある。三四郎は忘れていた。ようやく思い出して、行くつもりだと答えると、与次郎は、
「出るまえにちょっと誘ってくれ。君に話す事がある」と言う。耳のうしろへペン軸をはさんでいる。なんとなく得意である。三四郎は承知した。
下宿へ帰って、湯にはいって、いい心持ちになって上がってみると、机の上に絵はがきがある。小川をかいて、草をもじゃもじゃはやして、その縁に羊を二匹寝かして、その向こう側に大きな男がステッキを持って立っているところを写したものである。男の顔がはなはだ獰猛にできている。まったく西洋の絵にある悪魔を模したもので、念のため、わきにちゃんとデビルと仮名が振ってある。表は三四郎の宛名の下に、迷える子と小さく書いたばかりである。三四郎は迷える子の何者かをすぐ悟った。のみならず、はがきの裏に、迷える子を二匹書いて、その一匹をあんに自分に見立ててくれたのをはなはだうれしく思った。迷える子のなかには、美禰子のみではない、自分ももとよりはいっていたのである。それが美禰子のおもわくであったとみえる。美禰子の使った stray sheep の意味がこれでようやくはっきりした。
与次郎に約束した「偉大なる暗闇」を読もうと思うが、ちょっと読む気にならない。しきりに絵はがきをながめて考えた。イソップにもないような滑稽趣味がある。無邪気にもみえる。洒落でもある。そうしてすべての下に、三四郎の心を動かすあるものがある。
手ぎわからいっても敬服の至りである。諸事明瞭にでき上がっている。よし子のかいた柿の木の比ではない。――と三四郎には思われた。
しばらくしてから、三四郎はようやく「偉大なる暗闇」を読みだした。じつはふわふわして読みだしたのであるが、二、三ページくると、次第に釣り込まれるように気が乗ってきて、知らず知らずのまに、五ページ六ページと進んで、ついに二十七ページの長論文を苦もなく片づけた。最後の一句を読了した時、はじめてこれでしまいだなと気がついた。目を雑誌から離して、ああ読んだなと思った。
しかし次の瞬間に、何を読んだかと考えてみると、なんにもない。おかしいくらいなんにもない。ただ大いにかつ盛んに読んだ気がする。三四郎は与次郎の技倆に感服した。
論文は現今の文学者の攻撃に始まって、広田先生の賛辞に終っている。ことに文学文科の西洋人を手痛く罵倒している。はやく適当の日本人を招聘して、大学相当の講義を開かなくっては、学問の最高府たる大学も昔の寺子屋同然のありさまになって、煉瓦石のミイラと選ぶところがないようになる。もっとも人がなければしかたがないが、ここに広田先生がある。先生は十年一日のごとく高等学校に教鞭を執って薄給と無名に甘んじている。しかし真正の学者である。学海の新気運に貢献して、日本の活社会と交渉のある教授を担任すべき人物である。――せんじ詰めるとこれだけであるが、そのこれだけが、非常にもっともらしい口吻と燦爛たる警句とによって前後二十七ページに延長している。
その中には「禿を自慢するものは老人に限る」とか「ヴィーナスは波から生まれたが、活眼の士は大学から生まれない」とか「博士を学界の名産と心得るのは、海月を田子の浦の名産と考えるようなものだ」とかいろいろおもしろい句がたくさんある。しかしそれよりほかになんにもない。ことに妙なのは、広田先生を偉大なる暗闇にたとえたついでに、ほかの学者を丸行燈に比較して、たかだか方二尺ぐらいの所をぼんやり照らすにすぎないなどと、自分が広田から言われたとおりを書いている。そうして、丸行燈だの雁首などはすべて旧時代の遺物で我々青年にはまったく無用であると、このあいだのとおりわざわざ断わってある。
よく考えてみると、与次郎の論文には活気がある。いかにも自分一人で新日本を代表しているようであるから、読んでいるうちは、ついその気になる。けれどもまったく実がない。根拠地のない戦争のようなものである。のみならず悪く解釈すると、政略的の意味もあるかもしれない書き方である。いなか者の三四郎にはてっきりそこと気取ることはできなかったが、ただ読んだあとで、自分の心を探ってみてどこかに不満足があるように覚えた。また美禰子の絵はがきを取って、二匹の羊と例の悪魔をながめだした。するとこっちのほうは万事が快感である。この快感につれてまえの不満足はますます著しくなった。それで論文の事はそれぎり考えなくなった。美禰子に返事をやろうと思う。不幸にして絵がかけない。文章にしようと思う。文章ならこの絵はがきに匹敵する文句でなくってはいけない。それは容易に思いつけない。ぐずぐずしているうちに四時過ぎになった。
袴を着けて、与次郎を誘いに、西片町へ行く。勝手口からはいると、茶の間に、広田先生が小さな食卓を控えて、晩食を食っていた。そばに与次郎がかしこまってお給仕をしている。
「先生どうですか」と聞いている。
先生は何か堅いものをほおばったらしい。食卓の上を見ると、袂時計ほどな大きさの、赤くって黒くって、焦げたものが十ばかり皿の中に並んでいる。
「おい君も一つ食ってみろ」と与次郎が箸で皿のものをつまんで出した。掌へ載せてみると、馬鹿貝の剥身の干したのをつけ焼にしたのである。
「妙なものを食うな」と聞くと、
「妙なものって、うまいぜ食ってみろ。これはね、ぼくがわざわざ先生にみやげに買ってきたんだ。先生はまだ、これを食ったことがないとおっしゃる」
「どこから」
三四郎はおかしくなった。こういうところになると、さっきの論文の調子とは少し違う。
「先生、どうです」
「堅いね」
「堅いけれどもうまいでしょう。よくかまなくっちゃいけません。かむと味が出る」
「味が出るまでかんでいちゃ、歯が疲れてしまう。なんでこんな古風なものを買ってきたものかな」
「いけませんか。こりゃ、ことによると先生にはだめかもしれない。里見の美禰子さんならいいだろう」
「なぜ」と三四郎が聞いた。
「ああおちついていりゃ味の出るまできっとかんでるに違いない」
「イブセンの女は露骨だが、あの女は心が乱暴だ。もっとも乱暴といっても、普通の乱暴とは意味が違うが。野々宮の妹のほうが、ちょっと見ると乱暴のようで、やっぱり女らしい。妙なものだね」
三四郎は黙って二人の批評を聞いていた。どっちの批評もふにおちない。乱暴という言葉が、どうして美禰子の上に使えるか、それからが第一不思議であった。
「ちょっと行ってまいります」と言う。先生は黙って茶を飲んでいる。二人は表へ出た。表はもう暗い。門を離れて二、三間来ると、三四郎はすぐ話しかけた。
「うん。先生はかってな事をいう人だから、時と場合によるとなんでも言う。第一先生が女を評するのが滑稽だ。先生の女における知識はおそらく零だろう。ラッブをしたことがないものに女がわかるものか」
「先生はそれでいいとして、君は先生の説に賛成したじゃないか」
「うん乱暴だと言った。なぜ」
「どういうところを乱暴というのか」
「どういうところも、こういうところもありゃしない。現代の女性はみんな乱暴にきまっている。あの女ばかりじゃない」
「言った」
「イブセンのだれに似ているつもりなのか」
「だれって……似ているよ」
三四郎はむろん納得しない。しかし追窮もしない。黙って一間ばかり歩いた。すると突然与次郎がこう言った。
「イブセンの人物に似ているのは里見のお嬢さんばかりじゃない。今の一般の女性はみんな似ている。女性ばかりじゃない。いやしくも新しい空気に触れた男はみんなイブセンの人物に似たところがある。ただ男も女もイブセンのように自由行動を取らないだけだ。腹のなかではたいていかぶれている」
「いないとみずから欺いているのだ。――どんな社会だって陥欠のない社会はあるまい」
「それはないだろう」
「ないとすれば、そのなかに生息している動物はどこかに不足を感じるわけだ。イブセンの人物は、現代社会制度の陥欠をもっとも明らかに感じたものだ。我々もおいおいああなってくる」
「君はそう思うか」
「ぼくばかりじゃない。具眼の士はみんなそう思っている」
「君の家の先生もそんな考えか」
「だって、さっき里見さんを評して、おちついていて乱暴だと言ったじゃないか。それを解釈してみると、周囲に調和していけるから、おちついていられるので、どこかに不足があるから、底のほうが乱暴だという意味じゃないのか」
「なるほど。――先生は偉いところがあるよ。ああいうところへゆくとやっぱり偉い」
と与次郎は急に広田先生をほめだした。三四郎は美禰子の性格についてもう少し議論の歩を進めたかったのだが、与次郎のこの一言でまったくはぐらかされてしまった。すると与次郎が言った。
「じつはきょう君に用があると言ったのはね。――うん、それよりまえに、君あの偉大なる暗闇を読んだか。あれを読んでおかないとぼくの用事が頭へはいりにくい」
「きょうあれから家へ帰って読んだ」
「どうだ」
「先生はなんと言った」
「そうさな。おもしろいことはおもしろいが、――なんだか腹のたしにならないビールを飲んだようだね」
「それでたくさんだ。読んで景気がつきさえすればいい。だから匿名にしてある。どうせ今は準備時代だ。こうしておいて、ちょうどいい時分に、本名を名乗って出る。――それはそれとして、さっきの用事を話しておこう」
科学的実在論の中核的主張は、成熟した科学理論が記述する観測不可能な実体や過程が実在するというものだ。この立場の具体的な論拠を詳細に検討する。
Putnam と Boyd によって提唱された無奇跡論法は、科学の予測的成功を説明する最良の方法は、理論が真理に近いと考えることだと主張する。
1. ニュートン力学では説明できなかった水星軌道の異常を、アインシュタインの一般相対性理論が高精度で予測した。
2. この予測成功は、時空の曲率という観測不可能な概念の実在性を示唆する。
1. 過去の成功理論(フロギストン説、エーテル理論など)が誤りだったことを指摘。
2. 理論の経験的成功と真理性の相関関係に疑問を投げかける。
Worrall によって提唱された構造実在論は、理論の数学的構造のみが実在を反映すると主張する。
具体例:Maxwell の電磁気学からEinstein の特殊相対性理論への移行
1. エーテルという実体は否定されたが、Maxwell 方程式の数学的構造は保持された。
2. この構造の連続性が、より深い実在の反映だと解釈できる。
発展:Ontic Structural Realism (Ladyman, French)
1. 物理的対象を関係の束として捉え、実体概念を完全に放棄。
2. 量子力学における粒子の非個体性や、一般相対性理論における点事象の背景独立性と整合的。
量子力学の解釈は、客観的現実の存在に関する議論の核心だ。主要な解釈とその含意を詳細に検討する。
Bohr と Heisenberg によって提唱されたこの解釈は、測定問題を中心に据える。
1. 波動関数の確率的解釈:|ψ|^2 は粒子の位置の確率密度を表す。
2. 補完性原理:粒子性と波動性は相補的な性質であり、同時に観測できない。
問題点:
Everett によって提唱されたこの解釈は、波動関数の客観的実在性を主張する。
1. 分岐する宇宙:測定のたびに宇宙が分岐し、全ての可能な測定結果が実現する。
2. 相対状態の形式主義:観測者の状態も波動関数の一部として扱う。
利点:
問題点:
Zeh と Zurek らによって発展したデコヒーレンス理論は、量子から古典への移行を説明する。
1. 環境との相互作用により、量子的重ね合わせが急速に古典的な混合状態に移行。
2. 選択された基底(ポインター基底)のみが安定して観測される。
含意:
情報を基礎とする物理学の構築は、客観的現実の本質に新たな視点を提供する。
Susskind と Maldacena による ER=EPR 対応は、量子エンタングルメントと時空の構造を結びつける。
1. Einstein-Rosen ブリッジ(ワームホール)と Einstein-Podolsky-Rosen 対(量子もつれ)の等価性を示唆。
2. 量子情報と時空構造の深い関係を示唆し、量子重力理論への新たなアプローチを提供。
1. ブラックホール内部の時空の成長が、量子回路の計算複雑性の増大と対応。
2. 時空そのものが、より基本的な量子情報処理から創発する可能性を示唆。
客観的現実の存在問題は、現代物理学の最先端の問題と密接に結びついている。量子力学の基礎的解釈、構造実在論、情報理論的アプローチなど、様々な視点からの探求が進んでいるが、決定的な答えは得られていない。
今後の研究の方向性としては、量子重力理論の完成、意識と物理的実在の関係の解明、そして情報理論と物理学の更なる融合が重要になるだろう。これらの進展により、客観的現実の本質に関する我々の理解が大きく変わる可能性がある。
現時点では、客観的現実の存在を単純に肯定または否定するのではなく、我々の認識と独立した実在の可能性を探求しつつ、同時に観測者の役割や情報の本質的重要性を考慮に入れた、より洗練された存在論的枠組みの構築が必要だ。
もしもカレー味のウンコが目の前にあるとして、なぜそれがウンコだってわかるんだろう。味は完全にカレーだ。味覚がカレーだということは、おそらく嗅覚でもカレーだとしか判断できないんだろう。味覚と嗅覚は密接に関連しており、鼻をつまんで舌だけで食材を味わっても、何だかさっぱりわからないことは風邪をひいたときのようにザラにある。
カレー味のウンコは恐らく、味覚も嗅覚も、そしておそらく食感もカレーなのだ。
食感ということは触覚もカレーと同じなんだろう。
五感で残るのは聴覚と視覚だが、口の中で噛んだときの音も同じなんだろう。カレー味のウンコとウンコ味のカレーという究極の選択肢があげられているからには、見た目からしてわかりづらいはずだ。
要するに、五感のすべてがこれをカレーだと判断しているのに、これがウンコであると定義づけるのは何であるか。人間の理性は時間と空間という枠組みの中で、五感でとらえたものしか認識できない。
言い換えるならば、カレー味のウンコが食べられない人は、五感でとらえられないウンコである本質、「ウンコ性」をカレー味のウンコは有していると考えているはずだ。
この目に見えない本質は恐らくプラトンの唱えたイデアである。イデア世界のウンコ、ウンコの理念を不完全ながら有しているのがこの世界のウンコである。
プラトンはウンコを食べることを拒絶するだろうから、ウンコ味のカレーを選ぶだろう。
一方で、イデアに対して否定的であったアリストテレスなら、カレー味のウンコはすでにカレーであると判断し、カレー味のウンコを選ぶはずだ。
このプラトンの立場を取り、ウンコの理念が実在すると考えるのが実在論であり、ウンコの理念はなくウンコという名があるだけなのが唯名論ということになる。これが普遍論争だ(逆だったので直した)。
数学的実体が人間の思想的な部分とは独立に存在するという考え方は数学者がしがちな考えであり
哲学を専門とする人やかじってる人からは批判されがちな考えではあるが…
まだ人間たちに見出されてない数学的実体があってそれを見つけて性質を考えるという
そういうフレームワークで数学をみないと新しい定理を発見(発明と言う人もいるだろう)出来ないんよ…
研究時間の半分くらいは数学なんて全部人間が考えたものに過ぎないなんて考え方でいる事も出来るだろうが
常にそんな考え方でいてはまだ誰も考えた事の無いものを考えるのが面倒くさくて仕方ねえんだよ
自分の研究結果が自分の考えを述べたものに過ぎない事になるなら
シュレーディンガーはアインシュタインに宛てて、量子力学のコペンハーゲン解釈の重大な欠陥を明らかにするために、架空の実験装置を作った。この解釈では、量子系は外部の観測者と相互作用するまで、2つ以上の状態の重ね合わせに留まるとされる[1]。
この効果を、原子というミクロな世界の特殊性として片付けることはできるかもしれないが、その世界が、テーブルや椅子、猫といったマクロな日常世界に直接影響を及ぼすとしたらどうだろうか。シュレーディンガーの思考実験は、それを明らかにすることで、量子力学のコペンハーゲン解釈の不条理を明らかにしようとした。 粒子が重ね合わされた状態にあることは、一つの事実だ。しかし猫はどうだろう。猫はどちらか一方にしか属さないし、死んだり生きていたりもしない。
ガイガーカウンターの中に、ほんの少しの放射性物質が入っていて、1時間のうちに原子の1つが崩壊するかもしれないが、同じ確率で1つも崩壊しないかもしれない。このシステム全体を1時間放置しておくと、その間、原子が崩壊していなければ、猫はまだ生きていると言うだろう。システム全体のΨ関数(波動関数)は、その中に生きている猫と死んだ猫(表現は悪いが)が等しく混ざり合っていることで、このことを表現している。
この思考実験の意味合いについては、多くの現代的な解釈や読み方がある。あるものは、量子力学によって混乱した世界に秩序を取り戻そうとするものである。また、複数の宇宙で複数の猫が生まれると考えるものもあり、「重ね合わせられた猫」がむしろ平凡に見えてくるかもしれない。
通常の話では、波動関数は箱入りのネコを記述する。QBismでは、箱を開けたら何が起こるかについてのエージェントの信念を記述する。
例えば、Aさんがギャンブラーだとしよう。ネコの生死を賭けたいが、量子波動関数が最も正確な確率を与えてくれることを知っている。しかし、世の中には波動関数のラベルがない。自分で書き留めなければならない。自由に使えるのは、Aさん自身の過去の行動とその結果だけである。なので結果として得られる波動関数は、独立した現実を反映したものではない。世界がAさんにどう反応したかという個人的な歴史なのだ。
今、Aさんは箱を開けた。死んだ猫、あるいは生きている猫を体験する。いずれにせよ、Aさんは自分の信念を更新し、将来の出会いに期待するようになる。他の人が不思議な「波動関数の崩壊」と呼ぶものは、QBistにとっては、エージェントが自分の 賭けに手を加えることなのだ。
重ね合わせを形成するのはエージェントの信念であり、その信念の構造から猫について何かわかる。なぜなら、波動関数は、エージェントが箱に対して取り得るすべての行動(相互に排他的な行動も含む)に関する信念をコード化しており、Aさんの信念が互いに矛盾しない唯一の方法は、測定されていない猫に固有の状態が全く存在しない場合だからである。
QBistの話の教訓は,ジョン・ホイーラーの言葉を借りれば参加型宇宙であるということである。
2. ボーミアンについて
量子力学のコペンハーゲン解釈によれば、電子のような量子粒子は、人が見るまで、つまり適切な「測定」を行うまで、その位置を持たない。シュレーディンガーは、もしコペンハーゲン解釈が正しいとするならば、電子に当てはまることは、より大きな物体、特に猫にも当てはまることを示した:猫を見るまでは、猫は死んでいないし生きていない、という状況を作り出すことができる。
ここで、いくつかの疑問が生じる。なぜ、「見る」ことがそんなに重要なのか?
量子力学には、ボーム力学というシンプルでわかりやすい版があり、そこでは、量子粒子は常に位置を持っている。 猫や猫の状態についても同様だ。
なぜ物理学者たちは、シュレーディンガーの猫のような奇妙でありえないものにこだわったのだろうか?それは、物理学者たちが、波動関数による系の量子的な記述が、その系の完全な記述に違いないと思い込んでいたからである。このようなことは、最初からあり得ないことだと思われていた。粒子系の完全な記述には、粒子の位置も含まれるに違いないと考えたのである。 もし、そのように主張するならば、ボーミアン・メカニクスにすぐに到達する。
シュレーディンガーの猫の本当の意味は、実在論とは何の関係もないと思う人もいる。それは、知識の可能性と関係があるのだ。問題は、量子世界が非現実的であることではなく、量子系を知識の対象として安定化できないことである。
通常の知識の論理では、私たちの質問とは無関係に、知るべき対象がそこに存在することが前提になる。しかし、量子の場合、この前提が成り立たない。量子力学的なシステムに対して、測定という形で問いを投げかけると、得られる答えに干渉してしまう。
これらの本質的な特徴は「反実仮想」であり、何があるかないか(現実)ではなく、何が可能か不可能かについてである。実際、量子論の全体は反実仮想の上に成り立っている。反実仮想の性質は、量子論の運動法則よりも一般的であり、より深い構造を明らかにするものだからだ。
量子論の後継者は、運動法則は根本的に異なるかもしれないが、反実仮想の性質を示すことで、重ね合わせやエンタングルメント、さらには新しい現象が可能になるだろう。
シュレーディンガーは、仮想的な猫の実験で何を言いたかったのだろうか?現在では、シュレーディンガーは、量子論は、猫が死んでも生きてもいない浮遊状態にある物理的可能性を示唆していると主張したと一般に言われている。しかし、それは正反対である。シュレーディンガーは、そのようなことは明らかに不合理であり、そのような結果をもたらす量子論を理解しようとする試みは拒否されるべきであると考えたのである。
シュレーディンガーは、量子力学の波動関数は、個々のシステムの完全な物理的記述を提供することはできないと主張したアインシュタイン-ポドロスキー-ローゼンの論文に反発していたのである。EPRは、遠く離れた実験結果の相関関係や「spooky-a-distance(不気味な作用)」に着目して、その結論を導き出したのである。
シュレーディンガーは、2つの前提条件と距離効果とは無関係に、同じような結論に到達している。彼は、もし1)波動関数が完全な物理的記述を提供し、2)それが「測定」が行われるまで常に彼自身(シュレーディンガー)の方程式によって進化するなら、猫はそのような状態に陥る可能性があるが、それは明らかに不合理であることを示したのだ。したがって、ジョン・ベルの言葉を借りれば、「シュレーディンガー方程式によって与えられる波動関数がすべてではないか、あるいは、それが正しくないかのどちらか」なのである。
もし、その波動関数がすべてでないなら、いわゆる「隠れた変数」を仮定しなければならない(隠れていない方が良いのだが)。もし、それが正しくないのであれば、波動関数の「客観的崩壊」が存在することになる。以上が、Schrödingerが認識していた量子力学的形式を理解するための2つのアプローチである。いわゆる「多世界」解釈は、1も2も否定せずにやり過ごそうとして、結局はシュレーディンガーが馬鹿にしていた結論に直面することになる。
シュレーディンガーの例は、量子システムの不確定性をミクロの領域に閉じ込めることができないことを示した。ミクロな系の不確定性とマクロな系の不確定性を猫のように絡ませることが考えられるので、量子力学はミクロな系と同様にマクロな系にも不確定性を含意している。
問題は、この不確定性を形而上学的(世界における)に解釈するか、それとも単に認識論的(我々が知っていることにおける)に解釈するかということである。シュレーディンガーは、「手ぶれやピンボケの写真と、雲や霧のスナップショットとは違う」と指摘し、量子不確定性の解釈はどちらも問題であるとした。量子もつれは、このように二律背反の関係にある。
ベルが彼の定理を実験的に検証する前、量子力学の技術が発展し、もつれ状態の実在性を利用し、巨視的なもつれシステムを作り出す技術が開発される前、形而上学的な雲のオプションはテーブルから外されるのが妥当であった。しかし、もしもつれが実在するならば、それに対する形而上学的な解釈が必要である。
波動関数実在論とは、量子系を波動関数、つまり、死んだ猫に対応する領域と生きた猫に対応する領域で振幅を持つように進化しうる場と見なす解釈のアプローチである。シュレーディンガーが知っていたように、このアプローチを真面目に実行すると、これらの場が広がる背景空間は、量子波動関数の自由度を収容できる超高次元空間となる。
6. 超決定論について
不変集合論(IST)は、エネルギーの離散的性質に関するプランクの洞察を、今度は量子力学の状態空間に再適用することによって導き出された量子物理学のモデルである。ISTでは、量子力学の連続体ヒルベルト空間が、ある種の離散的な格子に置き換えられる。この格子には、実験者が量子系に対して測定を行ったかもしれないが、実際には行わなかったという反実仮想の世界が存在し、このような反実仮想の世界は格子の構造と矛盾している。このように、ISTは形式的には「超決定論」であり、実験者が行う測定は、測定する粒子から独立しているわけではない。
ISTでは、ISTの格子上にある状態は、世界のアンサンブルに対応し、各世界は状態空間の特別な部分集合上で進化する決定論的系である。非線形力学系理論に基づき、この部分集合は「不変集合」と呼ばれる。格子の隙間にある反実仮想世界は、不変集合上には存在しない。
アインシュタインは、量子波動関数は、不気味な距離作用や不確定性を持たない世界のアンサンブルを記述していると考えていたが、これは実現可能である。 特に、シュレーディンガーの猫は、死んでいるか生きているかのどちらかであり、両方ではないのだ。
シュレーディンガーの猫の寓話に混乱をもたらしたのは、物理システムが非関係的な性質を持つという形而上学的仮定である。 もし全ての性質が関係的であるならば、見かけ上のパラドックスは解消されるかもしれない。
猫に関しては、毒が出るか出ないか、猫自身が生きているか死んでいるかである。 しかし、この現象は箱の外にある物理系には関係ない。
箱の外の物理系に対しては、猫が起きていても眠っていても、猫との相互作用がなければその性質は実現されず、箱と外部系との将来の相互作用には、原理的に、猫がその系に対して確実に起きていたり確実に眠っていたりした場合には不可能だった干渉作用が含まれる可能性があるからだ。
つまり「波動関数の崩壊」は、猫が毒と相互作用することによって、ある性質が実現されることを表し、「ユニタリー進化」は、外部システムに対する性質の実現確率の進化を表すのである。 これが、量子論の関係論的解釈における「見かけのパラドックス」の解決策とされる。
8. 多世界
物理学者たちは古典物理学では観測された現象を説明できないことに気づき、量子論の現象論的法則が発見された。 しかし、量子力学が科学的理論として受け入れられるようになったのは、シュレーディンガーが方程式を考案してからである。
シュレーディンガーは、自分の方程式を放射性崩壊の検出などの量子測定の解析に適用すると、生きている猫と死んでいる猫の両方が存在するような、複数の結果が並列に存在することになることに気づいた。実はこの状況は、よく言われるように2匹の猫が並列に存在するのではなく、生きている1匹の猫と、異なる時期に死んだ多数の猫が並列に存在することに相当する。
このことは、シュレーディンガーにとって重大な問題であり、量子測定中に量子状態が崩壊することによって、量子系の進化を記述する方程式としての普遍的な有効性が失われることを、彼は不本意ながら受け入れた。崩壊は、そのランダム性と遠方での作用から、受け入れてはならないのだろうか。その代わりに、パラレルワールドの存在が示されれる。これこそが、非局所的な作用を回避し、自然界における決定論を守る一つの可能性である。
誰も詳細なんか聞いてないんだよなあ。実在論の話でもしてんの?
フェミニズムやLGBTの文脈で性的という言葉を使うなら「性」ということばを生物学的な意味だけに縮減することは避けねばならないし、身体的特徴のみならず、あらゆる場所に「性」が見出されるはずである。他方で「消費」という仕方を非難するのなら、そもそも消費されない表象など存在するのかという問題が残る。
したがって、「性的消費」なる概念が批判的に用いられるとき、そこには客観的な「性」と、表象として「消費」され得ない実在が想定されていることになる。
ところで、このような実在論的な思考はまさしくプラトン以来の男性中心主義的な哲学思想の延長であって、フェミニズムや「性的」マイノリティの依拠する理論として悪手なのではないだろうか。
【追記】
つまり何が言いたかったかと言えば、フェミニズムの理論的骨子はそもそも社会学以前にその大部分を哲学に依拠しているという事実であり、またそうである以上、哲学史的な文脈を理解しないままに「性的消費」というタームを無闇に振り回すことは本人が意図する以上の射程を含み得るということ。
哲学における運動とはつまり反省であり、思考の射程を掘り下げていくような運動であるのだが、その運動には自分という主体すらも揺るがされるような危険が伴う。しかし、社会学は哲学の成果の上澄みだけを掠め取ってこの運動をたんなる気持ちの運動に矮小化してしまった。そのような運動においてはもはや危険な反省は伴わず、ただ自分を肯定してくれるような物語だけが空虚なタームとして流通する。
https://webronza.asahi.com/national/articles/2019111500004.html?page=1
一部のフェミニストが、"現実の女性を棄損しているぞ"、"奇形である"、というのに対する
その文脈を介さない人間にとっては現実と虚構の区別がついていないようみえる論である。
そして実在しているからそのような表現でも大丈夫というのはあまりにも的外れである。
よくわからんヒエラルキーをアニメを見て現実の言動として再生産するなという指摘は正しい。
しかし、それを踏まえても赤木氏の記事における一方的な決めつけもひどい。
id:kotobuki_84 n_231氏の“描くのが簡単だから普及した”というのは多分そうで、ギャルゲの乳袋絵(あまり上手くないCG)を指して「こんな服、存在しねーよwww」ってオタクが馬鹿にする光景がかつてあった。
id:hapze-23_45 そもそも漫画やアニメって写実的なことに興味が軽薄で、デフォルメや誇張で培かわれてきた文化。そして乳袋は服の皺を省略できて、ウェストを細くして可愛く描ける利点がある。皺を想像で描くのめっちゃむずいよ。
指摘の通り、そもそも簡略化の記号として乳袋と呼称される表現(この呼称は好きではない)が生まれている。
めんどくさい、画力がない、が発端なのである。実は意外と乳房は自然に描くのが難しいし、服を着せるとなおさらなのである。
この点において一部の自称フェミニストによる不自然であるという指摘は実は正しいが、
それが性的に書かれているか、めんどくさいか画力がないかは実は判別がつかない。
そしてこの簡略化について不自然だから嫌いというオタクも少なからずいる。
また、写真はありのままだから問題ないとかいうのは大嘘で、写真は現実を切り取るフレームであることから実際は絵を描くよりももっと撮った人間の意図が重要になる。
古書店の雑に積まれた本の中で存在感を放っていた「虚構世界の存在論」を手に取ってから20年くらいになるか。
一般向けの論理学入門でありながら理屈がハードで手応えのある二見書房の「論理パラドクス」シリーズは好評
のようだが、増田の好みではないので買ってない。
「サウンド・オブ・サンダー」として近年映画化されたブラッドベリのタイムパラドクスもの「雷のような音」を
「虚構世界の存在論」で取り上げていたこともあり、SFに強い哲学者として認識している。小説の方は合わなかった。
三浦俊彦の得意分野は、「可能世界」を用いたフィクション論、「人間原理」を用いた意識論。とサプリメント。
可能世界論、とは何かはwikipediaでも読んで欲しいが、もし暴走トロッコの先にドラッカーが居たら、とか
プロレスラー専用列車があれば、とか現実ではない仮定について、論理的に扱う仕組み。
そのハードコア一派に様相実在論というのがあり、そういう可能世界は仮定の存在や記述上の論理ではなくってな
全部実在してっから、いやマジで、と主張して、急にそんなこと言われてもいやソレはないわー、と異端視されてる。
その実在している他の可能世界と、我々が唯一認識している現実とを区別するものは、我々が居るという
真空のゆらぎからビッグバンが生じ、宇宙の各定数には様々なあり方が有り得たはずなのに、なんでこんなに人間が
存在するに都合よくできているのか。それはね、人間が見ているからだよ。
人間が宇宙を観察する時には、人間が存在できるような宇宙でなければならない。
こういう理屈は判るんだが理由を説明しきれない自己撞着的な話が人間原理。
宇宙は様々な形でありえた、また実際にある、というマルチヴァース、多世界解釈、サイクリック宇宙論、物理学の話。
それと様相実在論をつなげ虚構実在論にも踏み込み、フィクションをも真面目に哲学的に語る。
なろうもカクヨムも在るんだよ。
うーん観測問題の研究者なんて皆無なので増田にいるとは思えませんね・・ご本人に twitter で聞くしかないのではないでしょうか。
ところで観測問題に首を突っ込む前に基本的な量子力学の勉強をされた方がよいのではないかと思います。
それをしないでトンデモに転ぶ人がたくさんいるのでちょっと心配になります。
http://www.amazon.co.jp/dp/406153209X
http://www.amazon.co.jp/dp/4842702222
ひとまずこの辺りをおススメします。
前者は近年人気の本で、ひっかかりやすい箇所が良く解説してあり親切だとおもいます。初学者向けです。
後者は名著かつ定番書で極めて明快すっきり爽快です。2冊目に読む本です。
両方とも微分積分と線形代数程度の知識でよめると思います。知らなかったら理工系の数学入門コースでもぱらぱら読んでください。
どうしても数学が嫌ならファインマン物理学を勧めます・・・が。
基本的に、数学を使わずに説明する方が思考実験てんこ盛り物理的センスばりばりで難しくなっていきます。(研究に進む人なら修行になってよいかもしれませんが)
http://anond.hatelabo.jp/20150515105457
僕では余りお役に立てそうにないですが、
数理科学や日経サイエンスでたまーに観測問題周辺の特集をしていたような気がします。
これなんかご本人でしょうか?
あとはこの辺とか??
数理科学シリーズには数式はほとんど出てきませんが・・・かなり難しいかもしれません。院生向けくらい?
それからグライナーの量子力学概論(日本語訳)の第17章「量子力学的世界像の実在論的問題」に歴史的な紹介だけさらっと載っていました。
数式はなく、ただのお話です。各トピックは1ページ程度で物足りないかもしれませんね。
http://www.amazon.co.jp/dp/4431708537
品切れが多いみたいですが、国立大の図書館は一般利用可能なところが多いので
よかったらお近くの大学を利用してみてください。
どれだけひどいものであるかは、学会誌『科学哲学』17号(1984年)での藤田晋吾氏による書評(J-Stageで閲覧可能)が端的に指摘している。
書評の対象は「H.パットナム著(藤川吉美訳)『科学的認識の構造 ―意味と精神科学―』」。(以下、訳の訂正を書いたのは私。)
原文:He said 'P' & P.
邦訳:彼は'P' & Pと言った。
「彼は'P'と言った & P」の誤り(彼は「Pである」と言った、かつ、Pである)。
原文:Asserting p is asserting p is provable.
邦訳:Pを主張することはPを主張することであるということは証明可能である。
「pを主張することは、pが証明可能であると主張することである」の誤り。
原文:is still of value
邦訳:静寂の価
「なお価値がある」の誤り。
原書を読むと分かるように、パトナムの英語は明晰で読みやすい(哲学者であるにもかかわらず!)。
しかしその「H・パットナム」名義で、中学生レベルの英語読解力と学部生レベル未満の哲学の知識しか持たない者が出版した本が存在し、それは全章にわたって意味不明なものなのである。
この件は、日本における言語哲学の泰斗・飯田隆氏らが訳した『実在論と理性』(勁草書房)の訳者あとがきでも触れられており、「あまりのひどさに恐れ入るような代物」とされているのだが、具体的な書名や訳者名は書かれていない。
また、一部で知られている「これから人文系大学院へ進む人のために」(http://www5a.biglobe.ne.jp/~teorema/)というサイトにも、当該の訳者のエピソードが登場し、その訳本は「Pの名前で出ている不思議な本」と呼ばれていると紹介されているが、イニシャルでの記述になっている。
だったら、どう違うか相対的な整合性を仮定しなきゃ
まったく意味がないよな。
個人的な経験則は無効だぞ。
まあ本格的なバカみたいだから簡単に設問すると、
僕はその問題に少しだけ詳しいので知っていることを説明します
あなたもご存知の通り、
風俗がオナニーよりなぜ気持ちいいのかという設問は長らく論争の的でした
いまだに決着していないといってもよいその議論は
とりもなおさず生命とは何かということの定義あるいは自己複製へのイデオロギー的確信に
世界中の科学者、研究者がこの人類に残された究極にして最後の謎、
暗い闇の中を手探り状態で開拓しはじめたのが今から70年程まえです
著者はサイモン・プライマー、題名が「断片の創造性にかかる自己複製への影響の解釈」という
この科学論文が英国科学研究機構に提出されたのが今から71年前のこと、
当時この論文にはさほど科学的に重大な発見が記されているとは思われていませんでした
そこに書かれていたのは、自己複製の連続性つまり人類の生命誕生における
遺伝子決定に関してたんぱく質が影響をおよぼす断片的な創造性の思想的な解釈でした
それはDNAの2重螺旋構造をセントラル・ドグマとした当時のある種流行とも呼べるテーマでした
この全体としていささかインパクトにかける無名の生物学者が書いた論文に
たった一行それはあまりにもさりげなくしかし後の科学にとっては非常に重要な示唆が挿入され
それをあくまで直感的に解釈するプライマーの言葉が短くしるされていました
それが以下、
私はこの等式記号がただちにオナニーの快感を否定するものではないことを承知するが
さしあたって風俗での射精との関連についての演算的なゴールであることを定義するものであること
でした。
ここに風俗とオナニーに関する科学史の始まりとそして同時に終末が同時に記されたのです。
あるいは当時この示唆はあまりにも大胆な飛躍ととられたのかもしれない。
しかし、このほんの小さな一陣の風の前に
一人の研究者が現れることで科学史は大きなうねりを持ち始めるのでした
意味はわからないかもしれませんけど、まだ始まったばかりですから
最終的に風俗がオナニーよりなぜ気持ち良いのか科学的に証明するところまで
行くのにあと300レスは必要なんだしその頃には分かるんじゃないかと思います
ごめん終わらせちゃっていい?
天才だなお前
ちょっと待ってくれ。
>>37がやろうとしていることは生命科学だよな。
おまえがやろうとしているのは疑似科学だ。
捏造することもできない。
僕はそれを証明しようとしてるだけだし
それを疑似科学だとか言うならそもそも君の設問がナンセンスだってことになるよ
それに僕はオナニーでの射精から得られた精液から得られた微量のゲノムDNAサンプルと
風俗での射精から得られた精液から得られたゲノムDNAサンプルのRCA解析の結果を2次元下で
モデル化することで余剰次元の素粒子標準の不明点は切り離せると考えてるし
あくまで演算的に設問を証明しようとしてるわけだから可視化の力学的性質だけで
検出できない微小なプロセスは物理的な効果も無視されるのがふつうだ。
君の考えていることとはベクトルがまるっきり逆だと思う
射精のメカニズムを解析するのではなく射精された精液に含まれるDNAのふるまいによる
観察結果がおのずと回答を導くんだ。だから300レスで十分に証明可能なんじゃないか。
間違えたPCRでの解析だ。RCAじゃヒッグス機構と階層性問題の内部対称性が示せない。
超対称性を取り入れた標準モデルの拡張性の大きな強みは、粒子とスーパーパートナーの
双方から仮想の寄与があるとき、超対称性によって仮想フェルミオンと仮想ボソンそれぞれの量子補正が
実現できるてことになるから。とにかくRCAじゃなくてPCRでの解析を比較します。
読んでて頭が割れそうだ。
#hijitsuzai
きちんとした議論をしている人たちがいる一方で、なんかヘンだぞ、という感覚も多かったのでそのことを書く
なんというか、自分の個人的不満とか嫌いな集団とかを規制派に重ねて叩いている、という印象が拭えない。
特にオタクの人たちに多い感じ、残念だが。
ツイッターではともかく、2ちゃんとかで不用意に「多少の規制は必要でやり方の問題だ」などといった人はけっこう感情的に叩かれるのだが、印象深いのはその時の叩き方。
左翼嫌いな人たちは「規制派はサヨ」というし、右翼嫌いは「石原はウヨだから規制派はウヨ」という
ツイッターで「今回の規制はアメリカの外圧だ」という話も何度もリツイートされたが、単に反米感情を煽っているだけのような気がしてならない。要するにアメリカが嫌いなだけでしょ。
外国の議員なり外交官なりが日本の関係者に何らかの要求をすることは、外交において普通にあることであろうし、それが発言者個人のレベルかどうかにも依る。ちょっと懸念を示しただけで「外圧」になるんだったらそもそも国交などできないでしょう。
仮に「外圧」があったとしても、その結果として行動を選ぶのは日本人なんだからこれは日本の問題なのであって、アメリカは悪くないのだ。
上記のような人たちは、単に「敵」を求めているのである。
彼らの持っている世界観は
というものだ、これはいわば「物語」である。彼らにとっては敵は大きければ大きいほど良い、その方が自分も相対的に偉くなったような気がするからだ。
だから「敵」にいろいろな実像を与えようと、右翼、左翼、コミケ、アメリカと追加していく。
彼らにとって自分に異論を吐く人間はすべて悪なので、「意見でない範囲での対案としてのゾーニング」なんて話をしても無駄。
客観性を失った彼らには、「規制派も対象は違うが全く同じ物語のもとで行動している」というメタな見方が欠けていて、自分たちを「一方的で完全な被害者」だと認識している。
彼らは「敵」を思考停止状態だと思っているが、自分たちも思考が停止している。
彼らの何人かは石原の「太陽の季節」の内容をあげつらって叩くが、その自己矛盾に気づいていない。
それをやると「言論の自由を標榜していながら表現狩りをする」という事になるし、「創作物と創作者を切り離して考えていない」ということになる、そうなれば風向きは自分たちに不利になるのに。
要するにとにかく相手を引きずり下ろしたい、という思考だ。
彼らはオタクのプロパーで語りすぎるゆえに、言葉は身内にしか届かないだろう。
彼らは広い世界に語ってるつもりになっているかも知れないが、身内で「だよねー、そうだよねー」とやってるに過ぎない。
この問題を本当に説明していかなければいけないのは、漫画やアニメに理解がなくネットも知らない人たちに対してであり、そういう人たちに彼らの言説は全く届かないだろう。
僕は法の人ではなく、テクスト論の人でこの分野に関しては専門じゃないから
すごーくいい加減な理解でなんか書かせてもらいます、ごめんなさい。
ただ、戦略としては「ブン殴られる」とか「殺される」とか「奪われる」のような
「客観的危害」(だれがどー見ても危害加えてますよね?)というようなものに「危害」を留めず
「主観的危害」(見てるだけで不快だ、チンコ出すんじゃねえ!)に拡張する論調がメインじゃなかろーか。
これが行き過ぎた例が楳図かずお自宅騒動で、「不快原理」なんて言葉が使われたりもする。
「わいせつ」を規制する論理基盤はこの辺りだったおぼろげな記憶。
そして、「麻薬」だけれども。
ミルの流れを真っ直ぐに受け継いでいる一派、要するにリバタリアンと呼ばれる人々は
個人の使用に限って(麻薬の使用が「個人の使用」という限定された根拠で語れるか否かは別の論点)
麻薬を解禁すべき、という主張をしている。また同様に「売春」なんかもそうだよね。
この論点は「麻薬は社会にとって色々マズイ」とか「売春自由化するとエイズがマジヤベー」とか
その辺をぶっ飛ばしてはいるけれど、自由主義者の根底としては「麻薬はアリ」のはず。
ただし、社会の上で公共の福祉にどこをどーやっても引っかかってくるからやっぱり規制はしゃーねえか、
みたいなのが「自由主義者と麻薬」の間の関係で、麻薬に関しては例えば「アヘン戦争」を見てもわかるとおり
「公共の福祉」が規制の論理基盤に成り得ているんじゃないかと思う。
むしろ、この議論の場合中心的なイシューは「自殺」になるんじゃないかな。
すげえ自信ないんで誰かクリティックしてくれ。
そして、「他者の介在しない個人や、他者を越えた社会や集団・組織を対象にする倫理や法」
というものは、僕の知る限りカントが最後だった気がする。現在は構造主義以後の世界なので、
この手の「根本原理」とか「正義規則」みたいなものについては、「無い」と答えるのがわりと普通。
実在論としての法とか実存的法理論、みたいなものを研究してる人が全くいないわけじゃないと思うけれど。
とりあえず、現在の研究者は「人権」っつーものを横目にチロチロ見ながら、「文化は相対的ですよ、善悪なんかないですよ、ぼくにゃーなーんにもわかりゃしねーんですよ」とビール飲みながら学生に愚痴るのがデフォかなーと。