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2024-02-12

[]アリストテレスカレー味のウンコを食うだろう。

もしもカレー味のウンコが目の前にあるとして、なぜそれがウンコだってわかるんだろう。味は完全にカレーだ。味覚がカレーだということは、おそらく嗅覚でもカレーだとしか判断できないんだろう。味覚と嗅覚は密接に関連しており、鼻をつまんで舌だけで食材を味わっても、何だかさっぱりわからないことは風邪をひいたときのようにザラにある。

カレー味のウンコは恐らく、味覚も嗅覚も、そしておそらく食感もカレーなのだ

食感ということは触覚もカレーと同じなんだろう。

五感で残るのは聴覚視覚だが、口の中で噛んだときの音も同じなんだろう。カレー味のウンコウンコ味のカレーという究極の選択肢があげられているからには、見た目からしてわかりづらいはずだ。

要するに、五感のすべてがこれをカレーだと判断しているのに、これがウンコである定義づけるのは何であるか。人間の理性は時間空間という枠組みの中で、五感でとらえたものしか認識できない。

言い換えるならば、カレー味のウンコが食べられない人は、五感でとらえられないウンコである本質、「ウンコ性」をカレー味のウンコは有していると考えているはずだ。

この目に見えない本質は恐らくプラトンの唱えたイデアであるイデア世界ウンコウンコ理念を不完全ながら有しているのがこの世界ウンコである

プラトンウンコを食べることを拒絶するだろうからウンコ味のカレーを選ぶだろう。

一方で、イデアに対して否定的であったアリストテレスなら、カレー味のウンコはすでにカレーである判断し、カレー味のウンコを選ぶはずだ。

このプラトン立場を取り、ウンコ理念実在すると考えるのが実在論であり、ウンコ理念はなくウンコという名があるだけなのが唯名論ということになる。これが普遍論争だ(逆だったので直した)。

普遍論争現代も形を変えて議論され続けている。

から小学生あいだでも、ウンコ味のカレーカレー味のウンコ哲学永遠テーマだ。

2011-09-12

[][]ヒラリーパトナムの古い邦訳本のひどさ

昔のヒラリーパットナム名義の邦訳本はひどい。

どれだけひどいものであるかは、学会誌科学哲学』17号(1984年)での藤田晋吾氏による書評J-Stageで閲覧可能)が端的に指摘している。

書評の対象は「H.パットナム著(藤川吉美訳)『科学認識構造意味精神科学―』」。(以下、訳の訂正を書いたのは私。)

 

原文:He said 'P' & P.

邦訳:彼は'P' & Pと言った。

 

「彼は'P'と言った & P」の誤り(彼は「Pである」と言った、かつ、Pである)。

 

原文:Asserting p is asserting p is provable.

邦訳:Pを主張することはPを主張することであるということは証明可能である

 

「pを主張することは、pが証明可能であると主張することである」の誤り。

 

原文:is still of value

邦訳:静寂の価

 

「なお価値がある」の誤り。

 

 

原書を読むと分かるように、パトナムの英語は明晰で読みやすい(哲学者であるにもかかわらず!)。

しかしその「H・パットナム」名義で、中学生レベル英語読解力と学部レベル未満の哲学の知識しか持たない者が出版した本が存在し、それは全章にわたって意味不明ものなのである

 

この件は、日本における言語哲学泰斗飯田隆氏らが訳した『実在論と理性』(勁草書房)の訳者あとがきでも触れられており、「あまりのひどさに恐れ入るような代物」とされているのだが、具体的な書名や訳者名は書かれていない。

また、一部で知られている「これから文系大学院へ進む人のために」(http://www5a.biglobe.ne.jp/~teorema/)というサイトにも、当該の訳者のエピソードが登場し、その訳本は「Pの名前で出ている不思議な本」と呼ばれていると紹介されているが、イニシャルでの記述になっている。

 

調べれば分かることだが、ネット上で目に触れやすい情報がなかったのでここに書いておく。

2010-02-18

[]哲学病にかかっていたとき

考えることが何よりも大切になってしまうと、

それ以外のすべてが無駄に思えて仕方がなくなってくる。

そういう状態のことを「哲学病」だと中島義道は言っていた。

僕は哲学病だった

目の前に物質が存在していることが不思議でならなかったが、

どうやら大半の人間はそんなこと気にもとめていないようだった。

それがまた一層奇妙に見えた。

だって、みんな無駄なことを一生懸命やっているのだから。

そして考えるということも、どうやら無駄だと思えた。

すると自分の存在も奇妙で仕方がない。

でも考えることは次から次にわいてくる。

携帯の電源を切り、家からも出ず、考えることに没頭した。

少し読書もした。

考えるために、最低限の食事だけはとった。

だが、考えているだけではそのうち食べられなくなってしまう。

僕は哲学病をやめなくてはならなかった。

2010-02-16

[]哲学病から抜け出した

「この宇宙はなぜ存在しているか」

という問いに約5年つきまとわれた。

結論からいえば、解はなし、もしくは無数に存在する。である。

数学の問題におきかえると、

0×x=1

の解である。

この答えの真偽はともかく、普通に日常生活を送れるようになったことがとても大きい。

結局のところ、

自ら生み出した問題が解けずに日常生活にだいぶ影響が出てしまった。

もう少し早く答えが出せればよかったのにと思う。

なんせ、これ以外の解があると信じていたので、

もうそうなると哲学者になるぐらいしか道はないと思っていた。

同じような問いにぶつかり、日常に支障が出ている人にこれを言ったら

どういう反応が返ってくるのだろうか

2009-01-08

[][]新世界

すべての人間は凡人と天才の2種類に分けられている

凡人は支配され服従を好む

法律奴隷であり子孫を残すための材料として存在している

それを支配するのが数100万分の1の確率で生まれてくる天才である

天才とはナポレオンマホメットのような世界に新しい思想革命を起こす独創的人間

新世界を作るためなら人を殺してもいいし新たな法律を作る権利も持っている

たとえばニュートンはあの重力研究を誰かが邪魔をして人類の発展を妨げた場合

ニュートンはその邪魔者を殺す権利・・・

いやむしろ殺してでも世界研究の成果を発表する義務があったと思います

だからと言ってニュートンが罪のない人たちを自由に殺したりする権利を持っていたことにはなりませんよ

では天才に罰を与えるのは一体誰だろうか

おそらく自分自身に罰をくだすでしょう

天才が法を作り罰を決めるのですから


奇妙な夢を見た

新世界エルサレム

かしこ世界にはおそろしい疫病が蔓延していた

自分だけが正しいと思い込む病

すべての人々は他人の考えを軽んじ

互いに相手が理解できず

自分だけが真理を知ってると勘違いして

つまらない恨みで殴り合いをはじめ互いに殺しあった

これだけ自分だけが絶対と信じる人々はかつていなかった

すべての人々が罪のなすりあいを始めてついに何もかも滅びてしまったのだ

これが俺の望んだ新世界

これが天才のすることか?

2009-01-07

[][]存在認識

A「存在すると言う事は認識するということだ。」

B「無茶苦茶だ。俺が認識しなくなれば全世界が消滅するとでも言うのかね。」

2009-01-06

[][]クィンティリアヌスくらい読めよ

それは違う。

それらは社会的に構築された“創られた伝統”であって

ジェンダーポリティクスの批判対象になるべきものだろ

簡単に言えば、消費行動と文化的アイデンティティがエポケー

された、「異化作用」の階層的な二項対立の形而上学こそが

ジェンダーベリフィケーションなのよ。“サバルタン

語ることができない”とはこういう意味なの。

このあたりを数学的に言えば、位相線型空間内部の真性特異点

拡大の自己同型群の閉部分群と等長変換されるわけだろ。

つまりゲオルグカントール予言してゲーデル不完全性定理

見事に証明されたってワケ。

あるいはル・クレジオ的な文学におけるクイア理論的な

ナラトロジーでもいいんだけどさ。

あなたのディスコース(言説)のトリヴィアルに神経症的な

部分がエクリチュールの過程で無残にも前景化されたわけで。

そういったことが私のディコンストラクション脱構築)の

射程に入るのよ。ポストコロニアルな“政治”のレトリックだね。

クィンティリアヌスくらい読めよ。

 
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