はてなキーワード: 日本語表現とは
3/27に公式サイトのFAQを見に行きましたが、日本語の問題は修正されていたので、この情報の一部は古いものとなってますよ。
日本語表現は対応されていて、新しいインフォメーションも出ているので、記事を書いた責任で偽計業務妨害にならないように修正するか削除すべきと感じております。
中国人が悪いなら他の多くの会社も雇っている技術者が中国人(帰化した人も含む)というだけで悪ということになるので、会社としての守秘義務を順守しているかが大切かと思います。
※技術系は中国人、インド人の方は日本人よりスキルが高く、多くの日本企業でも管理しながら雇用してます。日本人でも情報漏洩する人が多い世の中です。
発音の違いもあるけど、あえて話し言葉と書き言葉の違いを考えてみた。
追記のコメントも最もだと思う。つまり逆に言えば英語文学は、話し言葉に近いスタイルで書かれているということ。三人称作品であっても、ときおり筆者自身が一人称で呟きを入れたりして、朗読向きに書いているときもある。
昔から聖書物語を聞いたり聖歌を歌ったりコーランの暗唱をしたりしている、小説家が自作の朗読会をする文化がある。盲人の人への優しさも伺える。声や耳や頭を使うことは例えばボケ防止にもなる。
で、そういう話はいわゆる5W1Hが割と明瞭。朝昼晩など時間帯もよく記載されている。日本語でも口承文学の民話などは割とそうだろう。
3 短文による構成
翻訳文学は書き言葉に変換されていることが多いから、元の英文が話し言葉だというのは、分かりにくいかもしれない。元の英文ではいくつかの短文が関係詞で繋げてあるだけなのに、日本語では関係詞で繋ぐために後ろの短文から訳されていたりして。もし桃太郎が翻訳文学だったら、
「むかしあるところで毎日芝刈りに行くお爺さんと一緒に住んでいた毎日川に洗濯しにいくお婆さんが、いつも洗濯しにいく川に行って洗濯をしていたとき、大きな桃がドンブラコドンブラコと川の上流から流れてくるのを見つけました」
みたいな書き言葉になってしまうかもしれない。当然長くて順番がへんてこな文章は意味が把握しにくい。
それと、日本語文学はあいまいさや矛盾を放置してる場合がある。その場合は朗読向きとは言えないように思う。
例えば漱石の「吾輩は猫である」。「どこで生れたか頓と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた…聞くとそれは書生という…」 頓と見当がつかぬ、というのは地名のことかも知れない。でも少なくとも書生のところだって分かってるじゃないか、と。こういうのはストレスになりがちだ。筆者は読者の同情をを引くために「見当がつかぬ」と嘘をついた、と裏読みする人もいるかもしれない。
書いた文章は飛ばし読みができる。だから長くても矛盾があっても読めてしまう。でもそれは耳で聞くには耐えない場合がある。聞くときは話を飛ばせないから。
Google日本語入力を使ってるんだけど、
「身に覚えがない」は変換できるんだけど、
「身に覚えのない」は変換できない。
変換しようとすると、
「見に覚えのない」になってしまう。
一方、大辞泉 (goo辞書経由) には「身に覚えのない」しか載っておらず、
逆に「身に覚えがない」は載っていない。
「の」は「ない」に、
「が」は「ある」に、
しかしまた一方、大辞林 (Weblio経由) には「身に覚えがある」しか載ってない。
また、実用日本語表現辞典 (Weblio経由) には「身に覚えがない」しか載ってないようだ。
「身に覚えのある」や「身に覚えのない」は無い。
さて、実際はどれがよく使われているだろうか。
ということでGoogleで検索してみた。(Tor Browser使用。未ログイン。クエリにはq以外指定せず。)
これを見ると、「身に覚えのない」の方がよりポピュラーなようだ。
とはいえ、「身に覚えのない」もその半分はあり、無視できない。
これはもしかしてまだデファクトスタンダードが定まっていない新語の類なのか?
とりあえずどれが正しいとか間違ってるとか言い出すやつはぶっ飛ばす。
結論から言うと、かなりの確率で、収入の大小にかかわらず広告やアフィリエイトやっていると商用利用と見做される。だから、広告貼ってアフィリエイトブログやっている人は、自分のやっている事が商用利用、営利行為だという前提で色々と動くべきだと思う。知ってさえいれば対処はいくらでもできるし。
たとえば、ソフトウエアライセンスなどには商用利用を禁止した上で安価に販売しているものがあるけど(アカデミック版とか)、そう言うのを使って広告やアフィリエイトを貼ったブログやそのネタを作るとライセンス違反になっちゃったりする。
ちょっと前に、画像引用/転載/流用の件について色々と言われている件あったよね。ちょっと気になって調べてみた。
と言う見解が多く見られる。けど、これは結論から言うと間違いだと思う。一般には通用しない。ネット民、それも、サイト経営などをやっている人が多いとされるはてな周辺における感覚のズレだと思う。
いろいろな所の規約を調べたけど、収入を得る契約の広告(アフィリエイトを含む)があれば商用利用、営利で、少量で個人なら営利目的で無い、とする一般的な根拠は出てこなかった。ふわっとしたイメージによる解釈だと危険。
一応ネットで創作活動をしている1人として、自衛のためにどうするべきかを考えたって話です。
どちらの主張を支持するとかではありません。それから、どこまでが引用か、と言う話についても別ね。
まず「商用利用」の辞書的な、そして一般的な法律用語的な意味を調べると
「営利を追求して同種の行為を反復継続する活動」(大辞林より)のための利用、と言うことでよさそう。そして事業規模の大小が問題になるケースはある様だけど、基本的には旅館業法など、特定の法律を解釈するときに使われる例外っぽい。
辞書で調べると
とある。このまた「商用」とは
② 商業上用いること。
ここで気付くのは
というところ。
で、法律で言うところの営業とは?と調べると、こんなページが出てきた。
【業法の『業・事業・営業』の基本的な解釈(反復継続意思・事業規模・不特定多数)】
ざっとまとめると
営利とは「金銭的な利益を得ようとすること」で「反復継続性がある」と言うのは、例えば知り合いに頼まれたから100円で買った物を1000円で売った、みたいなのは「業」にならない、と言うことのよう。
で、広告収入やアフィリエイトは「金銭的な収益をえる」ための契約そのものだし、違う目的のために広告が必須と言うケースは少ないと思うので営利目的そのものだ。設置したらそのまま継続的に行うものなので、素直に判断すると商用ってことで解釈は固いと思う。
ただ、ここで「事業規模で判断する」と言う場合もあるらしい。これは民泊の解釈で出てくるものらしいのだけど、地方で大きなイベントをやるときに、年に数回、地元農家がお金をいただいて旅行客を泊める、と言う場合も旅行業法や民泊関連の許可が必要なのか? と言う場合には「社会通念的に考えて」営業では無い、と判断するらしい。ただ、古物営業法みたいに一回でもやったら営利だという厳しい解釈もあってよくわからない。
著作権法で、そのままずばりの商用の定義はない。ただ、営利という概念は出て来る。そして、やっぱり事業の大小は出てこないので、広告やアフィリエイトを貼ったら駄目そう。
公表された著作物は、営利を目的とせず、かつ、聴衆又は観衆から料金(いずれの名義をもつてするかを問わず、著作物の提供又は提示につき受ける対価をいう。以下この条において同じ。)を受けない場合には、公に上演し、演奏し、上映し、又は口述することができる。ただし、当該上演、演奏、上映又は口述について実演家又は口述を行う者に対し報酬が支払われる場合は、この限りでない。
まずは前項で説明した「営利」の考え方をそのまま流用できそうなのと、さらに「営利を目的としない上映等」として「営利」とそれ以降を分離せず条件として扱っているケースが多いっぽい。
ということで、この解釈でも金額の大小とか、実施している人が個人である場合は可、といった解釈はでてこず、営利、あるいは金銭の授受の有無のみになっているので、広告を貼っている、アフィリエイトをやっている、と言う事は商用とみて良いと思われる。
ちなみにこれ、結構問題になるやつ。これ山ほど判例があって、かなり厳格に解釈されていてめんどくさい奴です。
https://business.bengo4.com/practices/517
イベントなんかする人は気をつけてくれ。ほぼ身内だけだけど会場費にするからと実費で入場料とったりするとひっかかる
「運営費にするので、目標お一人300円募金ご協力お願いします」と紙を貼って箱置いておくのは問題無いらしい。
これも、上記法律の解釈論と同じ。広告やアフィリエイトは営業。広告やアフィリエイトを貼ったら駄目そう。
国税局はそれが商用なのかそうじゃないのかとかはあんまり関係なく、金が入ったらちゃんと申告して払え、と言うスタンスっぽい。
利益を得る目的で、同種の行為を継続的、反復的に行うことをいいます。営利目的がある限り、現実に利益を得ることができなかったとしても、また、当初、継続、反復の意思がある限り、1回でやめたとしても営業に該当します。
と言うわけで、上記法律の解釈論と同じ。広告やアフィリエイトは営業であり、ただこちらでは「事業規模」という概念が全く出てこない所がポイントっぽい。
ちなみに、このページは印紙税法に関連する文脈からの質問なので、そのあと商法上の解釈について踏み込んでいくけどそこはちょっと話が違うようだ。
この他に、NPO法人や一般社団法人の「収益事業」ってやつの解釈を見たんだけど、こっちはあんまり参考になりそうに無かった。定型的に上げられた業務に入っていれば収益事業で納税対象、そうじゃなけりゃいらん、みたいな感じでNPO法人以外には適応できそうにない。
ただ、ここでNPO法人の場合いくらアフィリエイトをやっても納税対象にはならないっぽい解釈をみつけて、そういえば最近やたらとNPO法人がやっているアフィリエイトブログみるのはこのせいなのかなとか、これはこれで調べるとおもしろそう。
みんな大好きWeb上のパブリックエネミーでお馴染みJASRACはこう定義していて、何らかの収入があれば営利目的と明確に書いている。
情報料または広告料等収入を得て行う配信、および収入の有無にかかわらず営利を目的とする者が行う配信をいいます。
※非営利団体または個人の方が、広告収入のみを得てダウンロード配信を行う場合は、例外的に非商用配信の取扱いとなります(商用配信の特例)。
ポイントは「何らかの収入があるWebサイトでの音楽利用」は商用配信だが「個人の人が広告のみなら特例で非商用扱いにする」と言うこと。だからどちらにしても、広告あり、アフィリエイトありは商用利用になるみたいだ。
JASRACの規約は文化庁に届け出て認可を得るものなので、法解釈よりも営利目的の範囲が広いということはあまり考えられないのもちょっと頭においておくといい。
新聞や一部の雑誌などをコピーする時にまとめて窓口になってくれる団体。
いろいろと調べたのだが、ここはそもそも「私的利用の範囲に含まれないのならば、金を払え」というスタンスのようで、非営利だろうと営利だろうと個人だろうと、料金の別の区分がないようだった。ボリューム割引はあるようだけど。
著作権の目的となつている著作物(以下この款において単に「著作物」という。)は、個人的に又は家庭内その他これに準ずる限られた範囲内において使用すること(以下「私的使用」という。)を目的とするときは、次に掲げる場合を除き、その使用する者が複製することができる。
と言うことになるんだけど、この解釈では「利益を得ようとして複製したら個人的利用では無い」という解釈が普通。たとえば「限られた範囲」というのは、数人のグループのよく知った仲間うち、みたいなのも含まれるらしいのだが、そこで無料で配るならともかく、その中であっても金をとったら私的複製の範囲から超えるようだ。ここでも金額の大小は出てこない。
実際にはWebに不特定多数で上げた時点で私的利用じゃないんで、こんなシーンが実在するかわからんけども、商用利用とはどう解釈されるか?と言うがかりとして。
MicrosoftのLicenseの中には「商用利用権」という概念があって述べている。ここも「営利を得る事を目的」としていて、個人などに対して特例を儲けてない。
例えばOfficeなどは、Academic版などを買うと商用利用権がついてこない。これに関連して定義を確認すると
商用利用とは
と定義している。ここで、素直に読むと「収益を得る事を目的」たとえば「少額なら」とか「個人利用ならよい」という様な概念はない。
アフィリエイト契約は明らかに収益を得る目的になるので、営利目的とされるっぽい。
そのほかいろいろな所を確認してみたけども、少額、あるいは広告収入のみの場合は商用利用とみなさないと言う規約がある所は見当たらなかった。いや、昔はそう言う規約があった記憶があるのだけれど、見当たらない。だれか見かけたら教えて欲しい。
Webが広告収入を中心に莫大な利益を上げる時代になった今、そのような例外事項は時代遅れと見做されているみたいだった。
クリエイティブコモンズライセンスにはND,非営利のみ許可というライセンスが存在する。で、これは非営利の定義が出てきて営利を「主たる目的としない」場合には非営利とみなすことができそうだけどわざわざ特別にそうしているみたい。
「非営利」とは、商業的な利得や金銭的報酬を、主たる目的とせず、それらに主に向けられてもいないことを意味します。本パブリック・ライセンスにおいては、デジタル・ファイル共有または類似した手段による、ライセンス対象物と、著作権およびそれに類する権利の対象となるその他のマテリアルとの交換は、その交換に関連して金銭的報酬の支払いがない場合は、非営利に該当します。
ここでようやく「商業的な利得や金銭的報酬を、主たる目的とせず、それらに主に向けられてもいないこと」と言う解釈が出てきている。おお、ついに、と思ったのだが、これについてこういう解説記事がある。
https://wiki.creativecommons.org/wiki/NonCommercial_interpretation
ざっくり言うと、意図的に柔軟に緩く解釈ができるようにしてある、グレーの領域が多くて解釈には議論がある、と言う事が書いてある。
つまり一般的な解釈だと厳格になるから、CCではわざと緩くした、と言う事のようだ。だからこの解釈は一般的な非商用の考え方として適用は出来ないと思われる。
この他に、他の解釈では、一般的に営利団体にいる上で使用すると営利だと言う所は揺るがないのだが、ここでは営利団体にいても使用する行為が営利で無ければ使える、と書かれていたりするので、ちょっと特殊っぽい。
ただ、最終的に迷ったらNCが付いてない奴にしといた方がいいよ、とも言われている。
広告収入がごく僅かしか無い私のようなブロガーは、広告剥を剥がした方が色々と面倒が無くてよさそう。
まず調べてみる。
人やモノを薦めること、最も評価したい・応援したい対象として挙げること、または、そうした評価の対象となる人やモノなどを意味する表現。
近年の美少女アイドルグループのファンの中では自分の一番のお気に入り(のメンバー)を指す表現として「推し」と表現する言い方が定着しており、昨今ではドルヲタ界隈の用語の枠を超えてアニメキャラや球団を対象に「同種のものの中ではこれが一番好き」という意味合いで広く用いられるようになりつつある。
私のいるジャンルはアニメ漫画の類で、それなりにファンが多く、二次創作もたくさんされている。私のような創作を全くせず原作の感想とCPの妄想をツイートしているだけのアカウントですらそれなりの交流を持てるような、それくらいの規模である。
ここでよく目にするのがプロフィールに推しを何人も書いている人!
自分がジャンル一点集中型で、推しも一人なため初めて見た時は驚いた。
財力どうなってんだ…と。
ツイートを見る限り学生のようだし、家がすごいお金持ちなのか?でもグッズとか円盤の発売日関連ツイートないな…などと考えているうち、その人が何人目かの推しのツイートをした。
「CD買ってないけど勝ってほしい!」
マジか!?となった。そしてこの手のタイプが少なくないことも同時に知った。たとえ推しが一人だけの人でも。
えっ、推しが歌ってる曲いらないの?推しのグッズ欲しいと思ったことないの?
それは推しなの…?
私の場合(社会人なのもあるけど)公式で出るファンブックや円盤、CDは必ず購入する。グッズは量が多すぎるのでほしいものだけ買う。
今回の件、自ジャンルのことじゃないから詳しく知らないけど、複数枚買うとか絶対に勝たせるとかじゃなくて、そもそも買ってないのは推しなのか…?ってモヤッとしてしまった。
より多くお金をかけた人が偉いだとかマウントの話ではない。でも0と1は違う…。
歌を聞きたいとならない相手を推しっていうのはなんでなの!?という感じです。
学生でCD1枚すら買うお金ないとかグッズ缶バッチの1つでも買いたいってならないことあるのかなぁ
それかどっかで無料配信(spotifyとか)されてるから買う必要ないとか?
でもなぁ…
キャラの誕生日に生誕祭タグつけて大量のグッズ並べて「誕生日おめでとう!!」とか、複数購入するのが当たり前!のマウント芸も好きじゃないけど、全く買わないのもわからん…。
推しじゃなくて好きなキャラって表現だったらここまでモヤらなかったかもしれない。
なんか好き~くらいゆるめの感覚だったら…。
うーん、わからん。
話題になっていた標題の記事を読みました。いろいろと考えました。
内容そのもののこともそうだけど、訳がやっぱこなれていないのなかなぁと。
たとえば、私だったら、下の本文の原案の訳は、次のように考えます。
”The capital-T Truth is about life before death. It is about making it to thirty, or maybe fifty, without wanting to shoot yourself in the head. It is about simple awareness-awareness of what is so real and essential, so hidden in plain sight all around us, that we have to keep reminding ourselves, over and over: "This is water, this is water."
真実、といっても、普通の真実じゃなくて、カッコづきにしたいくらい別格の『真実』ですね。
その『真実』とは、死を迎える前の「生」、つまり皆さんが生きている日々のことです。
自死、つまり自殺などしたいと思わず、30歳、人によっては50歳くらいまで、何とか生きていくこと。
何が本当にリアルで、大切なのか、私たちの視野に入っていて、そのままの中に溶け込んでいるいることに対して。
そして、私たちが何度も、何度も、自分自身に対して注意を向けなければならないことなのです。
まるで、水のように。
魚にとっての、水のように。と。
=====
・”Tを大文字にした真実”は、つまり”平たい真実ではない”ってことと解釈。
・make it to 30 or maybe 50を読んだとき「生き延びる」に近いニュアンスに感じたのと、この場合のmaybeは、「場合によっては」のニュアンスかなと。
・アメリカとかだと銃が蔓延しているので、shoot oneself in headはなじみ深いけど、字義通り訳すと日本のスピーチではあんまなさそう。と思って、平たい自殺に。
・It is about~から始まる、重要だけど、やや長いところは、文法的にがちがちに解釈せず、あえて切り分けた。
これは文字として読ませた文章ではない。なので、あるメッセージを連続してつなげてお話しているイメージでとらえたので、
むしろ一つ一つが独立した区切りで実際はスピーチしてそうだな、と考えた結果。
・awareness-awarenessの訳に「意識高い」って言葉を使うのは結構悩んだけど、「意識をもつ」という平たい表現で「意識して意識をもつ」とすると
日本で「意識高い系」なんて言葉が生まれたのが良くないねーなどと考えましたが、そこに翻訳に際して文化的側面が影響を与える興味深い事象などと思ったり。
・hiddenの訳を最初「潜む」って訳しましたが、「見えてるけど実は意識しないと見えないもの」だとしたら「溶け込む」っていう表現ありかな、などと。
・This is water。この訳は、いろいろとできそうですね。私が文面から感じたニュアンスは、訳のとおり。
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別に翻訳家でもないけど、言語表現についてはいろんな局面で考えることがあって。
「これは水です」の中身はとってもしみじみと感じ入ることができたわけですが、
BUMP OF CHICKENというバンドがある。chikenではない。このバンドのファンだったおかげで、中学生の頃の英単語のテストでスペルを正しく覚えることができた。そういう意味では学業に貢献しているバンドであると言える。
俺は中学の時にCD貸してくれたやつがいて、そっからハマっていった。
そっからまあ色々あって、車校でたまたま知り合った奴らとBUMPのコピバン作ったりして、ライブハウスで歌ったりもした。すまん嘘だ。俺はドラムだったから唄は歌ってない。ライブハウスでポコチャカやったりしていた。
もちろん、ライブにも行った。ファンから「チャマ」って呼ばれてるベースの人(直井さん)がいるんだが、ずっとピョンピョン跳ねてんの。ずっと跳ねてて演奏できるんだから、やっぱプロすげーなとか思った。あと同じドラムスとして、ドラムの升って人に注目してたんだけど、MCとかでも全然しゃべらなかった。無口なのか。
で、ライブ行ったりすると分かるんだが、BUMPって熱狂的なファンがメチャクチャ多い。他のバンドのライブにも何度か行ったし、他のバンドにもそりゃあ熱狂的なファンはいるんだろうけど、BUMPはちょっと多すぎだろってぐらい多い。俺が行ったライブ会場では、終わった後に「フジくん(※ボーカルの藤原さん)の声がきけたよぉ~」「藤君ありがとう~」とか言って泣いてるやつメッチャ多いの。泣くとかじゃなくて号泣。こう言っちゃ何だが、宗教の信者ってこんな感じなんだろうなって思った。その後ネットで「ファンが痛いと思うバンド」堂々の1位を取ったという事実を知り、さすがの俺もちょっと泣いた。・・・ウソである。涙なんか見せないんだから!
(※現在はさすがに挙がってないと思う。調べてないが。当時は他にRADとかエルレとかの名前もあった。両方好きだった俺はさらに泣いた。)
まぁだから、ネット上とかで宗教戦争かってぐらい荒れてるのよ。もう完全に荒野ですよ荒野。「ヒャッハー!」とか言ってモヒカンが新参のファンから種もみを強奪とかしてんの。なんだよそれ世紀末救世主伝説かよ。藤君はケンシロウかよ。でも聖飢魔IIはサイコーだよな。お前も蝋人形にしてやろうか!
いやもちろん良識のあるファンが多いって事は知ってる。黙々と子供たちの為に井戸を掘ってるババアみたいな聖人も多い。嘘つけお前、お前のようなババアがいるか。違ったそっちは聖人じゃなかった。ラオウの手下だった。井戸掘ってるのはトヨだった。バット最後だ、母さんと呼んでやれ・・・。母さ~~~~ん!!(号泣)
まぁ読んでもらってだいたい分かってもらえたと思うが、良識のあるファンは多い。
そんな中、迂闊に「BUMP OF CHICKENの好きな曲」なんてものをネットに書こうものなら、火薬庫で火遊びしてるほうがまだ安全である。それどこのバルカン半島だよ。第一次世界大戦勃発かよ。
俺がもし「BUMP OF CHICKENの好きな曲」なんて凶弾をサラエボ事件よろしくネットにブチかますと、世界大戦は起こらないかも知れないが、即座に「はい開示」→「自宅本名特定」→「コラ素材化」→「一生ネットで晒し上げ」のKRSW弁護士コンボをキメられる事はほぼ確実であり、それを避ける為にもBUMPファンは皆一様に口をつぐみ、例えBUMPファン同士の交流の場であったとしても、暗黙の了解のうちに「BUMP OF CHICKENの好きな曲って何?」等という愚かな問いかけはしない。そんな問いかけをした途端に、指をパチンと鳴らし「そいつはオフパコの為だけに参加したエセ野郎だ、連れていけ」と、部屋の外に引きずり出される光景を俺は何度も見てきた。ああはなりたくない。・・・ウソである。俺も何度か引きずり出された。
そんなこんなで、全国に数多存在しているであろうBUMPファンは、息を潜めつつ各地に潜伏している。
諸君!BUMPを心から愛する良識あるファンの諸君!!諸君らはそんな事でいいのか!!真に良識あるもの、優良たるものが虐げられ、悪逆非道の限りを尽くす浅薄な似非BUMPファン気取りが跋扈する、そんな世界でいいのか!!!
否!!断じて否であるッ!!優良が蟄居し、劣等が跋扈するこの世界は、剛毅果断、改革されねばならない!!彼ら劣等は、諸君ら優良による支配でのみ安息の日々を得れると言う事実に、気付かなければならないッ!
奴ら蒙昧な愚民共が自ら気付くことができないというのであれば、我々優良の手をもってして、奴らの蒙を啓いてやらねばならないッ!!(唾を飛ばしながら)
・・・ああ、こうやって扇動する奴がいるから、世界は戦争になるんだなあ、と一瞬だけ考えた。三歩歩いたら忘れた。歩きながらこれ書いてる。・・・ウソである。実際には家でダラダラしながら書いてる。
それにつけても、BUMPの話がしたい。BUMPの好きな曲とか好きな理由とかを思いっきり書きなぐって、
「お前こんなの好きなのかよ!分かってねーな!」
「じゃあお前はどんな曲が好きなんだよ!」
「pillowsのカバーじゃねえか」
「違いますぅー、ミスチルのカヴァーですぅ~。ってか君、『カヴァー』の発音悪いね」
とかやりたい。でも個人を特定されるのは避けたい。あとカバーの発音とかどうでもいい。日本に20年以上住んでる米国人の知人は、日本語で会話するときは日本人と同じ発音で話してた。俺が「外人ってさ、日本語で話す時にもっとガイジンっぽく発音しないの?トマトをトメーイトゥ、とか、タマゴをタメーイゴゥ、とか」って言ったら、怪訝そうな顔で、「タマゴは日本語でしょ?」って言われた過去を思い出した。・・・ウソである。出典はネットのコピペで、俺の実体験じゃない。
・・・と言う訳で、俺の「BUMP OF CHICKENの好きな曲」を書いていく。理由も書く。ランク形式にしたほうが「なんで〇〇が10位なんだよ!ふざけんなよ!」等とより世紀末っぽくなるかなとヨコシマな考えが浮かんだりもしたが、途中まで考えてやめた。漫画とかゲームとか映画とか、よく個人ブログで「本当に面白い、私のオススメする漫画ベスト100ランキング!」とかやってるけど、71位と72位の差がどこにあったのかが気になって夜も眠れなくなった事があったので、ああいうのは本当に止めて欲しい。あとこういうアフィリエイトが目的なだけの互助会クソブログがGoogleのランキング上位にあがってくるのが本当に害悪でしかないし、そういうブログエントリに限って中身が薄い。サジェストも汚染されるし、あれで得するのって金儲けしてるクソ互助会連中だけじゃねえか。こっちはただ単純に面白い作品知りたいだけなんだよ。あと順位は固定なのかよ。変動しないのかよ。年月とか気分とかでそんなもんいくらでも変わるだろ。互助会連中もブクマで「参考になりました!」とか「いつも素晴らしい記事ですね!」とか、お前らそれしか言えねえのかよ。せめて「〇〇好きなら、ランキングにはないですが△△もオススメですよ!」ぐらい書いとけよ。amazonのアフィリンクでも添えてくれればゴミ度合いが増して尚良し。
BUMPは隠し曲も含めてほぼ全部好きなので、現在音源がリリースされてる全ての曲の好きなところとかを書いても良かったんだが、冒頭の「俺とBUMP」にちょっと行数を使ってしまったので、5曲ほど書き連ねたい。
■リトルブレイバー
BUMP OF CHICKENというバンドがインディーズレーベルでデビューした際のアルバム、「FLAME VEIN」の中の1曲。
映画や音楽業界では、よく「デビュー作品には、すべてが詰まっている」と言われる。完全に首肯する訳ではないが、何かのきっかけがあってファンになったアーティストの作品群を聴いていくと、「これいいな」って曲がデビューCD収録の曲って事はまれに良くある。
バンドでも映画でも漫画でも、「表現手段として自分にはこれしかないから、これで発表した」っていうのはあるんじゃないだろうか。別に「カネ!名誉!オンナ!」が動機でも作品が良い物であれば一向に構わないのだが、特に若い頃って「なんだかよく分からんがとにかく俺はこんな感じのなんか俺的にスゲェイケてる何かをやりたい!!」みたいな、思春期特有のモヤモヤとかがあるじゃん。
で、行動力があるやつはモヤモヤしてるだけじゃなくて、実際に行動する。液タブ買ってきてpixivに絵をアップしたり、大学の映研に入って自主制作でなんだかよくわからん作品を撮ったり、楽器もできやしないのにバンドを組んだりする。そんな感じだから、初期のころの作品にはその人の「やりたいこと」が詰まっている、という理論は分からなくもない。
BUMPも御多聞に漏れずそんな感じだ。今リトルブレイバーを聞くと、最近の楽曲と比べて演奏技術面での拙さが目立つ。だが、そんな事はお構いなしに、BUMPの、メンバーの、藤原の、「俺の曲を聴いてくれ!」って感じが伝わってくる。後発の「グロリアスレボリューション」あたりの楽曲でもそうだが、原始的と言うかなんと言うか・・・。英語だと"primitive"って単語が一番しっくりくるが、聴いていてとても心地良い。
■リリィ
インディーズ2枚目のアルバム「THE LIVING DEAD」の中の1曲。
BUMP藤原の書く歌詞は各方面から好評を多々得ている。(ちなみに、BUMPの楽曲はほぼ全て藤原が作詞作曲している)曰く、山田かまちの再来だとか、叙事詩的であるとか。ミスチルの桜井さんも、「メンバーに入れて欲しいぐらい好きだ」と公言している。
BUMPの曲(歌詞)には、「モノガタリ的」なものがいくつかある。ストーリーラインのようなものがあって、登場人物的なものがあって、結末がある。「モノガタリ的」なBUMPの曲で一番有名なのは「K」という曲だろうか。Youtube等で、有志の作成した動画を見た事がある方も多いのではなかろうか。公式では「カルマ」という曲は人形劇としてリリースされているが、こちらもモノガタリ的な曲として挙がることが多い。くそっ、それにしてもニコル見つからねえ・・・。
そういった点から、「叙事詩的」と言われることも多いBUMPの楽曲の中で、俺がオススメしたいのが「リリィ」だ。
ストーリーラインはこうだ。バンドのボーカルっぽい男と、その彼女らしき女性の話。男には色々と苦悩があるようだ。
これが藤原自身の話かどうかは知らない。
続きは歌詞を見ながら聴いてもらえばいいとして、この曲の中で俺が良いなと思っている点は、「歌詞が荒い」「言わない」の2つである。
まず「歌詞が荒い」点。「出てこい!ウソツキめ!」とか、「ブチまけた」とか、最近のBUMPの楽曲ではなかなかお目にかかれない荒々しい歌詞が並ぶ。これが男の苦悩している様子が伝わってきて良い。もっと言ってしまうと、伝わりすぎて辛い。対する女性側に関係する歌詞が終始穏やかなのも対比としてより一層深く伝わってくる。
もうひとつの「言わない」点は複数ある。例として歌詞をいくつかあげるが、JASRACさんお願いですから個人の特定とか使用料の請求とかやめてください。何でもしますから!
膨れたポケット 裏返すとホラ 出てくる弱音の数 一日分想像つくかい?
「実際に弱音という物質がポケットに入っている事態は想定し難い」とか、そういう部分はどうでもいい。「お前に俺のポッケに入ってる一日分の弱音の数が想像つくか?」という問いは、「弱音が多い」という事である。だが、「弱音が多い」とは言っていない。まあ比喩表現のある歌詞なぞ世界にゴマンとあるだろうが、藤原の書く歌詞は、(特に叙事詩的な楽曲において)絶妙なシラブル数と相まって、いわゆる「世界観の構築」に一役買っている。
強がりの裏のウソを 放った ブチまけた
終電を告げる放送 慌てて掛けて行く人 右手に君の左手 もう放さなきゃ
「ブチまけた」後、場面がいきなり「終電を告げる放送」になる。その間に何があったのかは言わない。
思うに、日本語と言う言語は表現力に優れている。同じような事でも、微妙な差で違う表現にする。おそらく皆は普段は気にしてないだろうが、「見る」という表現だけでも、「見つめる」「眺める」「観る」「見上げる」「見渡す」「見通す」など多岐にわたる。こと表現力という方面において、日本語に比肩する言語はそうないだろう。
■Stage of the ground
メジャーデビュー1作目のアルバム「jupiter」の中の1曲。
一般の人に「BUMPと言えば」と問うと、「天体観測」という答えが多く返ってくるかと思うが、当時は「天体観測」で爆発的ヒットを飛ばしたインディーズバンドが移籍し、メジャーデビュー後に満を持して放つ渾身の1枚!って感じだった。・・・らしい。
「らしい」というのは、当時の俺はBUMPどころか音楽を全然聞いてなくて、ずっとポケモンばっかやってたからである。この話は熱心なBUMPファンから聞いた話なので、当時の「世間一般の」空気感としては間違ってるかも知れない。でも、そんな俺でも一応「天体観測」という曲があって、英会話講師並みにオーイエーアーハンって言いまくっているというのは知っていた。一応補足しておくと、「天体観測」もjupiterの中に入っている。
BUMPの選ぶ言葉には「jupiter」「天体観測」「COSMONAUT」「プラネタリウム」「orbital period」等、宇宙的な・・・もう少し正確に言えば、「宙的な」用語が多く並ぶ。ここまでアピールしておいて宇宙が嫌いという事はないと思うが、「Stage of the ground」をそう言った視点で聴くと、なかなかに味わい深い。
この曲は藤原の友人に子供が生まれて、その記念か何かで作ったらしい。自分がその子供だったらメッチャ嬉しいが。
それはともかくとして、宇宙である。「夜空の応援席」「あの月も あの星も」など、宙を想起させる歌詞が詰まっている。「那由多に広がる宇宙」とあるが、那由多というのは万とか億とかの「数の単位」の一種である。他には「恒河沙」「無量大数」とかもある。「1那由多」で、1の右に50個だか60個ぐらいゼロがついてるぐらい大きな数字、それが那由多なのだが、一説によると、こういった数字の単位は古代の人々が「星の数を数える」為に用いた、という説がある。
友人のエピソードや、那由多という単位の事などを思いながら聴くと、なんだか自分が宙に浮かんで地球を見下ろしているような、そんな不思議な気分になれる。もちろん、そんなエピソードを知らなくても、藤原の優しさと言うか、応援している気持ちと言うか、よくある表現で言えば、「聴いていて元気になれる」曲。
■Hello,world!
「そういえばシングル曲全然紹介してないな」と思ったので。あと昔の曲が多いんで、最近の曲の中からという事で1曲。
シングル曲だが、「Butterflies」というアルバムにも収録されている。最近放送された「血界戦線」というアニメのOPテーマとして放送されていたので、聴いた事のある方も多いのではないだろうか。
さて、皆さんは「Hello world」を知っているだろうか。「何言ってんだコイツ頭おかしいんじゃねえのかBUMPの曲だろ?」と思われるかもしれないが、とある業界において、この言葉は特別な意味を持つ。それは、プログラム業界である。
本職のPGやcoderの方々からは「何だよプログラム業界って。そんなのねーよ」と言われるかもしれないが、まあとりあえず聞いてほしい。プログラム言語というのは本当に数が多くて、「プログラムを書いてご飯を食べている人」でも、仕事で書くのは2言語か3言語ぐらいである。就職時の面接で「10言語書けます!」という奴は信用してはいけない。雇った後にクソみたいなコードを書いた挙句CVSをグッチャグチャにしてある日突然遁走するのがオチだ。雇ってはいけない(戒め)
だが、仕事ではなく、趣味でいくつかの言語を使って書いているという人もたくさんいる。逆に仕事上に必要に迫られて、新しい言語を習得するハメになる人もいる。Swiftとかの比較的新しい言語なんかは当然そうなるケースも多い。まぁプログラム言語を習得する動機は人それぞれなのだが、覚えたてのプログラム言語を使って一番最初にやる事が、「Hello world」である。嘘ではない。詳しくは以下を見ていただきたい。
https://ja.wikipedia.org/wiki/Hello_world
ともあれ、「Hello world」には意味がある。それはつまり「『世界』に初めて降り立ったものが発する言葉」である。あのビルゲイツも、twitterアカウント開設時の第一声は"Hellow world."だった。それほどに歴史と伝統ある言葉であり、作法なのだ。
ここでBUMPの「Hello, world!」を改めて聴いてみる。
ご自分だけがヒーロー 世界の真ん中で 終わるまで出ずっぱり ステージの上
どうしよう 空っぽのフリもできない
さあ目を開けて 君は強い人
その目が見たから すべては生まれた
世界は終わる。だが、また新しく生まれる世界もある。いくらでも生まれてくるのだ。よく自殺報道が取り上げられたりしているが、とても悲しい。自殺なんてせずに、そんな世界は終わらせてしまえばいいのだ。「世界を終わらせる」手段は自殺なんかでは断じてない。
世界をはじめよう。そして、その新しい世界で、高らかに叫ぼう「ハロー、ワールド!」と。
藤原は特にそんな事を意識してないだろうが、俺はこの曲を聴いてると本当に勇気が出てくる。
■バトルクライ
もう5曲目かよ。早いよ。まだまだ書き足りねえよ。あと20曲は書かせろよ。って言うか、ここまで読んでくれてる人ってあんまりいないような気がしてきた。あまり長くなると読むほうもダルいだろうし、もし他に書く時があれば、そん時は別の増田で書くわ。
とりあえず5曲目を紹介する。これは記念すべきBUMPのデビューCD「LAMP」の中に収録されていたのだが、LAMPが廃盤となった為、急遽「FLAME VEIN」を「FLAME VEIN+1」と改題し、バトルクライを追加したという話がある。そのせいかどうかは知らないが、歌詞カードに歌詞がない。何も知らない人からすれば「???」となること請け合いである。(歌詞はCDトレイの下に書かれている)
デビュー作なので、「リトルブレイバー」で触れた通り、演奏技術に関してはかなり未熟である。だがBUMPにとってそれはマイナスではない。粗削りだが「バトル」であり、「クライ」なのだ。
この曲も叙事詩的である。「自分に嘘をついたが、その嘘が本当になったんでまだ頑張って歌ってる」奴が出てくる。藤原本人かどうかは知らない。仮にそうだったとしても、インタビューでは「いや、あれは別に・・・フィクションとして聴いて頂ければ」とか言うだろう。俺ならそうする。
ともあれ、まだ頑張っているその男は、戦っている。何と戦っているのかは知らない。そして叫んでいる。
ずっと強がってんだ 強がって またウソついて
ひとつのウソにさえ縋る僕の そのウソが 誓いに変わる
BUMPの唄には「応援するスタンスの曲」が割とある。「才悩人応援歌」というド直球の題名の曲などもある事にはあるが、だいたいは「応援している」という明確な意思表示はしていない。先ほどの「才悩人応援歌」だって、歌詞中には「応援」という単語は出てこない。
藤原の書く歌詞世界は、概ね「俺はやってるぞ、さあ、お前はどうなんだ」的な、言葉で語らず背中で語る的な世界観の楽曲が多い。歌詞がある時点で「言葉で語ってしまっている」のだが、明確な意図・意志は常にボカしている印象だ。「バトルクライ」では、そんな藤原の「藤原節」とでも言うべきケレン味が存分に味わえる。
実は、冒頭に書いた「中学の頃に友達が貸してくれたCD」がFLAME VEIN+1だった。当時は音楽なんかに全然興味がなくて、どっちかって言うとポケモンばっかやっていた思い出しかない。そんな俺に「絶対ハマるから!いい曲だから!!」と執拗にすすめてきた級友を当時は大変疎んだものである。今では素晴らしいバンドを紹介してくれてありがとうという感謝しかない。
当時は全く興味もなかったし、聴く気もサラサラなかったのだが、諸事情があって結局俺は家にCDを持ち帰って聴くことになった。中学当時の俺が聞いても下手である。「あいつ、こんなバンドすすめてきやがって・・・こいつらの何がいいんだ?」とポケモンやりながら思っていたが、「バトルクライ」を初めて耳にした時、頭を撃ち抜かれたかのかと思った。
俺はGBAの電源をすぐに切った。セーブしてなかった。まあ厳選中だったんでどうでもいい。とにかくこの曲だ。この曲はヤバい。人の頭を平気で撃ち抜く危険物だ。
危険物として「セックス、ドラッグ、ロケンロール」の3つがよく挙がるが、なるほどよく理解できる。この曲はROCKだ。俺は未だ「ロックとは何ぞや?」という問いに回答できる自信はないが、これだけは断言して言える。
BUMP OF CHICKENの「バトルクライ」、この曲は、ロックだ。
そういう事情もあって、俺の中で「バトルクライ」はちょっと特別なところに位置している。勇気が欲しいとき、悲しいとき、気分を切り替えたいとき、ヒマなとき、ノリノリになりたいとき、戦いに赴くとき、誓いのとき、大事な時。
俺はいつもバトルクライを聴いてきた。ただそれだけの、まあだいたいそんな感じの曲である。
◆(隠し曲)星のアルペジオ
BUMP OF CHICKENの出すCDには、恒例として「隠し曲」という概念がある。
CDプレーヤーだと色々複雑な手順な必要らしいが、iTunes世代からするとあまり意味はない。(ただ、無音部分が50分ほどあるせいで曲の長さが異常に長いケースがあったり、ダミートラックが大量に生成されたりするので、知識のある方はmp3やAACの無音部分はカットしたり、ダミーを除去したほうがいいだろう。)そんな隠し曲の中から1曲。シングル「車輪の唄」の中に隠されている。
隠し曲は、普段のBUMPの楽曲と比較した場合、全体的にネタ的な要素が多い。メンバーも(ちょっと違う方向に)ノリノリでやっている。ライブではほぼ演奏されないが、「DANNY」という隠し曲だけはまれに演奏されることもある。
この曲はクリスマスソングなのだが、恋愛要素はない。というか、この曲の主人公である「ある男(BUMPメンバーの誰かだという噂がある)」は、12月24日に自宅でクリスマスパーティーの準備をしているのだが、呼んでいた人が誰も来ずに、一人待ちぼうけている様子を歌っている。巨人の星のアニメで似たような展開があるが、その時の星飛雄馬は机をひっくり返し、準備していたケースをグシャグシャにして泣き崩れていた。この曲の「ある男」がその後どうなったかが気になる人は、是非各自で音源を聴いてみて欲しい。
メンバーの実体験を基にしているのかどうかは定かではないが、妙に感情がこもっていて涙無くしては聞けない1曲となっている。繰り返すが、BUMP OF CHICKENのギター担当の増川さんとかは一切関係ないので、奇妙な詮索はしないように。
と、わたし(筆者)は思う。腐女子こそ夢小説を書くべき論とかを読んで、うだうだ考えたことと提案。
わたしの夢傾向のせいで、おおむね夢小説のことになるけれど、ある程度夢創作全体に通じると思っている。そして、だれにも押しつけるつもりはない。
女。
夢創作愛好歴はおよそ10年で、ブランクはない。「灰男」からとでも言えば、わかる人にはわかるだろう。
よく読む(積極的に探す)のは好きな原作の二次創作の夢小説。でも、おもしろいと思えば、なんでも読む。主人公の個性がマシマシだろうがナシナシだろうが、性別が同性だろうが異性だろうが、恋愛があろうがなかろうが、その相手が主人公と異性だろうが同性だろうが、ヒトであろうがなかろうが、ものだろうがなんだろうが、おもしろければ読む。じゃあ、どんな夢小説がおもしろいのかとかいう話しにはキリがないので、割愛させてもらう。
「よく読む」と表現はしたけれど、書きもする。むしろ書くのがメイン。
で、わたしには一つ譲れないところがあって、自己投影する。作者がどういう意図をもって主人公を設定したか知らないけれど、その夢小説を読んでいるとき、その主人公は、わたし自身だ。
自己投影とは - 日本語表現辞典 Weblio辞書にはこう書いてある。
(2)目にした状況や呈示された刺激などを理解したり解釈したりする際に、その時の自分の心理状態や人格特性などが反映されること。「自己投影」は俗に、フィクション内のキャラクターなどを自分と同一視し、キャラクターを自分に重ねることを指して用いられることもある。
そのうち後者(フィクション内のキャラクターなどを自分と同一視し、キャラクターを自分に重ねること)が、夢小説における自己投影だと思う。少なくともわたしにとってはそうだ。
「わたしの夢傾向」を読めばわかるだろうけど、主人公自体にこだわりがあるわけではない。わたしは、おもしろければ読む。かれ(かのじょ)が、生き残った魔法使いだろうが、高校生探偵だろうが、半妖だろうが、天使の生まれ変わりだろうが、悪魔に呪われたエクソシストだろうが、マフィアの十代目だろうが、自分自身の子どもだろうが、あらゆる天賦の才能を無効化する天才だろうが、宇宙人に侵略された地球でなんでも屋を営んでいようが、超次元サッカーを嗜んでいようが、メロンパンが好きな紅蓮の異能者だろうが、宇宙に適応した新人類だろうが、幻のシックスマンだろうが、個性を掴みとった無個性だろうが、異世界の侵略から地球を守っている戦士だろうが、壁の中の人類を追い詰める巨人だろうが、六つ子の六分の一だろうが、あるいはCV田村ゆかりでも、桃色の髪でも、透明な肌でも、眼鏡でも、ショートヘアでも、オッドアイでも、幼稚園児でも、おばあちゃんでも、壁でも、掃除機でも、薄汚い中年でも、ノンケでもレズビアンでもゲイでも、もうなんでもかんでも、それはわたしだ。夢小説を読んでいるとき、わたしはその突拍子もなくかけ離れた、ありえない、あるいはありきたりの、場合によっては自分そっくりの、そのものになる。
ところで、これがだれしもに当てはまるとは、思っていない。自己投影にはレベルがあると、わたしは考えている。レベルと表現したからには高低があるが、そこに優劣を見ているわけでないことは言っておく。
ガバガバ。とくにレベル2と3。レベル0と1と4については、説明は不要だと思う。
「無個性」について。文字どおり「個性」が「無」いことだ。その個性について、個性とは - Wiktionary日本語版(日本語カテゴリ) Weblio辞書には、以下のように書いてある。
ある個人を特徴づけている性質・性格。その人固有の特性。パーソナリティー。 「強烈な-をもった作品」 「 -を発揮する」
夢小説においては、主人公に「(自分と)同じ性別」「同じ種(つまりヒトである)」だけが設定されていることだと思う。それに加えて「同じ性愛の向き(同性愛か異性愛か)」「同じ好きなひと(主人公とのかけ算の相手)」が設定されていることもあるだろう。その程度だ。ここまでが、レベル2の「無個性」の範囲だと思う。
レベル3の「ある程度の個性」は、単純なものではない。ここでは「なんでもかんでもは無理」としか説明できないことだと思う。レベル2の無個性に少しだけなら、いやいやヒトならいいよ、擬人化された人外なら、異性でも同性愛者ならいいよ、有機物ならいいよ、基本はヒトがいいけど単眼ならいいよ……などといった具合に。
で、「自己投影」についていろいろ言ったばかりだけど、ぶっちゃけ自己投影しなくてもいい。読み方は自由だ。
二次創作に関して言えば「オリ二次」の一つとして読む人もいるだろう。実際、夢小説の主人公は、原作に存在しない「オリジナルキャラクター」といえることが多い。
二次創作的なものにばかり言及することになるが、原作に明記されていないことを、「こうに違いない」「こうだといいな」と考えたり、あるいは原作の設定を無視して「こうさせてみた」としたりすることがあると思う。あれも、ある種の読み方といえると思う。わたしも二次創作夢小説を、そういう原作の読み方から書いている。こんな(夢小説の)主人公がいたら、原作のあのキャラクターはああするだろう、こうしたらあそこはああなって……とか。
どれもこれも読み方だ。わたしたちはおそらく考えながら読んでいる。そして、考えることは自由だ。だから、どう読むかも、また自由だ。
わたしは、よく二次創作夢小説を書く。そして、この日記でいう自己投影レベルは4で、読者としては主人公に自己投影する。
当然(ではないかもしれないけれど)、わたしの書く夢小説には、わたしの嗜好が大きく表れる。「おもしろさ」の基準を満たそうとするだろうし、自分の書くものだから、ある程度は満たしていると思う。で、嗜好が大きく表れるので、主人公は異性愛者の女性かもしれないけれど、おばあちゃんかもしれないし、ゲイかもしれない。ヒトとも限らない。ボールに入るモンスターかもしれないし、壁の外の巨人かもしれないし、魔神族の王かもしれないし、好きなCPが愛を営むベッドのシーツかもしれないし、だれそれがだれそれをドンする壁かもしれない。
でまあ、書くのも自由だ。ある程度は。書くということは表現で、表現することは、ある程度は自由だ(公共の福祉に反しないかぎりとか、憲法かなにかで言っていたと思う)。二次創作について言うと、著作権どうこうの話しになってしまって、これまたキリのない話しで、わたしには専門的な知識がないので割愛させてもらう。今のところ「非親告罪なので原作者が罪をつきつけないかぎりOK」というスタンスで、つまり原作側になんやかんや言われたら速やかに従いますよってくらい。しか言えない。これはマジで。
ここには夢小説に通じる内容があるよねってやつ。だと思ってる。
大阪の国際的なスタジオのテーマパークの、魔法使いになれるところ。原作、大好きです。原作の主人公が通う学校の生徒になれたらな、入学許可証がきたらなって思った。そして、なんと、大阪のその遊園地に行けば、杖が買えるという(行きたい! 買いたい!)。わたし今()に気持ちを書いたし、魔法使いになれたらなとも思った。んでもって、わりと世のなかには、あの小説や映画や、あるいは遊園地で、わたしと同じようなことを考えたひとがいるんじゃないかと思う。遊園地では魔法使いになった気持ちを味わったひともいると思う。
次いこう。実は東京にはない夢の国。あそこで(遊んでいる間だけでも)夢の国の民だったひとも、やっぱりいると思う。あそこのキャスト(スタッフ)の神対応が、たびたび話題になっているから。
というかだね、幼いころに、日曜朝のヒーローになりたい、ヒーローに守られたい、あるいは戦うヒロインになりたい、楽器から魔法の道具を生み出したいとかって、考えたひとも、やっぱりいると思う。「あんなこといいな できたらいいな あんなこと こんなこと いっぱい あるけど」(だっけ?)とか、二十ウン世紀からきたロボットに会いたいとか。
ボールでモンスターを捕まえるゲームが、リアルマップに対応したよね。わたしたちはスマートフォンさえ持っていれば、GOした先で、疑似的ではあるけれど、まるで本当のトレーナーのように、モンスターをゲットできるようになった。
こういうのは夢小説に通じる考え方だ。二次創作の話しになるけれど、先述の「オリ二次」にも、同様に夢小説に通じるものがあると言える。あのCPの営みを空気になって見ていたいとかもだね。そして、それが形になったものを見たとき、そこに「夢小説」のラベルがなければ、「実質夢小説」として見る。
商業の小説にも、「わたし」視点の、あるいは明らかに作者(のペンネーム)と同じ名前の主人公がいたりする。(それだけとは限らないけれど)そういうところから夢小説のにおいをかぎとったとき、やっぱり実質夢小説として見る。
書いてるうちにだんだんと疲れてきて、かなり文章が雑に、より滅茶苦茶になってきていることを、わたしは自覚している。本当に。
それを夢小説かどうか決めるのは作者だ。言いたいのは、これだけだ。題名にもしたけれど。
夢小説っていうのは、すごくガバガバだと思う。自己投影したりしなかったり、名前を変換したりしなかったり。夢小説は、ある種の表現技法で、考え方だと思う。そこには、かなり「主観」の要素がある。
まず、作者が、それを「夢小説」にする。ここには作者の嗜好が、存分に表れていたりいなかったりする。それが発信されると、だれかの目にとまることがある。このだれかが「読者」だ。この読者にも嗜好があって、もしかしたら、かれ(かのじょ)はそれを「夢小説」と思えなかったかもしれない(これのどこが夢小説だ! オリ二次でやってろ! モブ創作でやってろ! 云々)。そのときは、そう思うにとどめて、「これはわたしには合わなかった」「このひとの作品は読まないようにしよう」などと、読者が避ければよいだけの話しだと思う。読者が「おまえのは夢小説じゃないから夢小説のラベルを剥がせ」などと作者に強要することではないと思う。一人の作者として、わたしは、そう強要されるのは嫌だ。読者に読者の「夢小説」観があるように、作者にも作者の「夢小説」観がある。
これは、なにも「夢小説」だけの特別なことではなくて、いろいろなことに言えると思う。わたしは、実質夢小説だと思いながら、言いながら、けれどそこから「実質」を剥がしはしない。つまり、強要はしないし、直接作者に提案することも、しない。わたしは、されたら嫌だから。考えてもみようよ。男二人の友情を、あるいは女二人の友情を、はたまた男女の友情を書いていたのに、「これ恋愛(BL)(GL)ですよね。友情ものを名のるのやめてくれません?」なんて言われたら、どんな気持ちになる?
とくに、「わたしが不快だから(夢小説の)ラベルを剥がせ」とかいう強要(提案)はやめたほうがよい。これにはキリがない。万人に受け入れられるものは、ない。Twitterにロバの絵の四つの比較みたいなのがあったと思うんだけど、まあ、あんな感じで。不快だから剥がせという強要がまかり通るようになってしまうと、気づいたときには、あなた独りだけが夢小説を書いている……なんてことになりかねない。
つかれた。