はてなキーワード: 屋台とは
VALUでヒカルがおこした行為についてテレビや週刊誌などで、詐欺だなんだと騒がれていることについて
思うことがある。
ヒカルを知ったのはお祭りのクジ動画だ。屋台クジに一等が入ってるかどうか確かめるってやつ。
屋台クジは暗黙の了解で一等二等なんかは入ってないもんだと思ってたんで興味深く見てた。結果はウヤムヤで終わったけど。
ヒカルに興味が出てググってみたら過去に情報商材ビジネス等をしていたことが分かった。
「いいのか?」と言う気持ちと
ああいう人達の行動力はすごいから、もしかしたらヒカルのような存在が出て来たのもおかしくないのかもしれない。
で、VALUなんだけど
VALUは株式を模した形で運営されているが、金融商品ではないため
VALUの規約で投機的な使い方はしないようにと書かれているがしょせん規約だし
そもそも株式を模している以上、投機的に使われるのもしょうがないんじゃないのかと思う。
井川さんって人も結果的には利益を得てるし。名目はヒカルファンに売ってあげるってなってるけど。
そもそもVALUの仕組みがガバガバで、今までは利用者の心がけで大事になってなかっただけのこと。
今回の件にしたってVALU側が審査してヒカルたちにOKを出したのがそもそもの事の始まりなわけだし。
書きたいこと色々あったのにこんがらがってきた・・・
・重さセンサーは走り出してからなるベルト不使用ブザーで実装されているが、これも不評あり(荷物に対しても鳴る)
件の事故はゲームなどに熱中してしまっていて自分が暑いということにさえ気づかなかったのではないかと。
子供の事故がまた一つふえた。はちみつ、屋台の割り箸、餅やこんにゃく、ためっぱなしの風呂水、施錠してあるベランダ。虫眼鏡をわたせば太陽を覗いてみる。
歯医者につれていってまちがって弗酸を塗られるなど。
9歳の子供でも殺しかねないものは車と太陽のほかにもたくさんある。
今回は医療機関にいく母親が子供をだれにもみてもらえない不便さを解消するのと、
「アメリカなみに子供の放置をどういう理由であれ即虐待と判断する法律」くらいでしか対策出来ないと思う。
それより、報道機関が衝突事故死(シートベルトしなかった、ベビーシートしなかったことが間接的に原因になる死)のほうが多いのに
いろいろとカルチャーショックを受けたのでここに記す。
白夜といってもボーっと明るいくらいだろう、と思っていたのだがとんでもない。夜12時を回っても昼のように明るい。夕食をとっていてもまるで昼食のような感覚に陥る。
パーキングエリアのスープとパンのセットが1500円ほどする。どこに行ってもあるメニューなので、イメージ的にはカレーライスみたいなものか。
夕食は1品3000-5000円。ビールは1杯1000円、ガソリンは(ハイオクが基本)リッター190円だ。
日本って何かと安いんだなぁ。
空港で現地通貨を1万円分両替したが、使ったのは観光地の有料トイレでだけだった。
他は全てクレジットカード。屋台のホットドッグもクレジットカード。土産屋で絵葉書1枚買うのでもクレジットカード。人口数百人の田舎町のブティックもクレジットカード。
中国のキャッシュレス社会に対しては「現金の信用ガー偽札ガー」みたいに思っていたが、この国でも同じとは思えない。
もはや財布にジャラジャラお金を持ち歩く時代ではないということだろう。
小学校から学んでいるとのことで、子供を除いてみんな母国語の他に英語を話せる。
首都のレストランはもちろん、上述田舎町のブティックのおばちゃんも漁村の網本も英語で観光案内してくれた。なまりが強くてよく聞き取れなかったけど。
観光立国としてこれ以上の強みはない。
日本でも小学校の英語教育が始まるそうだが、同じようになれるんだろうか。
所詮は観光客として1週間滞在しただけなので、この国の全てを理解したわけではない。
実際に働くとどうだとか税金がどうだとか移民がなんだとかは知らない。
スーパーの品揃え悪すぎとかホテルに湯船がないのが許せないとか言いたいことはある。
今回ここで、「権利」概念が放ってしまう暴力性の起源について一人考えてみる
1週間もすれば3億人近いトンチンカンたちがまた祝うことになる、近代社会の幕開け=アメリカ独立宣言に遡ってみよう。250年くらい前のことだ。後にアメリカ人と呼ばれる極西の田舎者が黒人奴隷を足置きにしながらヨーロッパの政治哲学を読みふけっていた。そして、英国議会に「植民地のくせに生意気だぞ」と言われてしまったあの時、彼らのイギリスコンプは爆発し独立を宣言してしまう。この独立戦争とその後の歴史で彼らは「国家」を生み出しその中で「所有権」というものの不可侵性を「人権」として僭称したのだった。それまでもこの考え方は常にヤバい匂いを発してきたが「独立宣言」こそが全人類の脳みそに侵入し始めるウイルスになった。彼らはこう言う。「君たち、実はな、人間は生まれながらにして権利というものを持っていたのだよ」「君たち、これは自明の真理だよ」。誠に蒙が開かれるようである。実際に驚くほどたくさんの人が啓蒙されることになる。
ところで、ここで彼らが行なった欺瞞としてまずよく言われるのは足置きにしている「黒人奴隷」についてである。つまり黒人奴隷が人間の方にではなく所有物propertyの方に組み込まれてしまったことである。ところが、今回に限ってはそこは重要ではないと私は言いたいのだ。というよりも黒人奴隷の境遇があまりに深刻な問題であるから真の問題が後景化し見えなくなってしまっている。この深刻な問題をみたとき、我々、権利至上主義者の常識的な感覚からいって、100年後、200年後に黒人へ与えられたように、人間の権利、あるいは公民権で解決すべき(解決した)問題だと思わされてしまう。
でもこれは糞の上に城を立てただけなのだ。私たちの暮らす城の中はクソの匂いが充満している。「権利」などという考え方が、奴隷制的な、暴力的支配への渇望に支えられている。私たちはクソがあるなと思ったら「あっクソだ」と言わねばならない。「あれ?この部屋なんか、うんこの匂いしない?」は常に言いづらいセリフではあるが。
つまりどういうことか。権利を「持っている」、という発想自体にその欺瞞が現れている、と言いたいのだ。一般におそらくは「所有権を持つ」という表現すらあまり違和感をもたれないのである。独立宣言の下敷きになったヴァージニアで行なわれた会議の草案にもその矛盾を観れるかもしれない
That all men are by nature equally free and independent and have certain inherent rights, of which, when they enter into a state of society, they cannot, by any compact, deprive or divest their posterity; namely, the enjoyment of life and liberty, with the means of acquiring and possessing property, and pursuing and obtaining happiness and safety.
この2つ目の下線部は独立宣言では省かれるのだが「所有権を持つ」という循環した考え方を恐れたから、ではなく国家による税金の徴収を困難にするという理由であった。
何が言いたいかといえば、奴隷、武器、砂糖の三角貿易が成立して以降のヨーロッパ社会では、「権利」が「持つ」ものとして想定されねばならなかったのである。それは単純には、ある種の人々から「奪う」こと(あるいは「捨てる」こと)のできるものでなくてはならなかったからだ。つまり「所有権」が守るベーシックな価値は「権利」概念誕生の後に、「どんな種類の権利を作ろうかなー」と考えられて作られたものではなく同時に発生しているのである。そしてそのことは隠れたのだ。独立宣言に「自明の真実ではあるのだが我らは不可侵の権利を持っているのだと信じる」としれっと書き込むことで。じゃあ所有の意味を含む「権利」概念が発生した時に生まれていたものは何か。ここが今回の主張であるが、「支配欲求自体への承認」なのである。社会の一員として我々は「ある種の激烈な支配の形」を基盤にすることで社会を成立させている。それは「所有権」だけでなく「権利」全般の話である。
propertyに対しては当然そうだろう。犬猫などは黒人同様に解放が進みつつあるが根本的に我々は自分の所有する物をどれだけ傷つけても良いのである。対象物に対して欲求したことは特別に禁止されない限り全てぶつけることを許されている。私は自分の持っている熊の人形の腹を切り裂いてもいいしそこにペニスを突っ込んでも良い。それが所有権の意味するところである。ここで、人形はなんかかわいそうだし除外しようかというのもあまり意味がない。僕が言いたいのは、我々は所有権を「propertyに対して私が欲求することならなんでもしていい力」として想像していて、思考のスタート地点にそれをおいていることだ。この認識はもう一つ重要な感覚を孕んでいる。それは「私が支配するものに他者が介入することは許されない」ということだ。この二つの感覚両方が「権利」全般に流れ込んだのだ。そして実は我々の想像する「自由」のコアイメージでもある。自由にはこの欲望と支配の感覚が流れている。
しかしながらこの「自由」の感覚は「自由」を求める奴隷たちの反乱により一つの現実的妥協を産んだ。支配者はかつての奴隷たちと約束したのだ。我々はもはや君たちを支配しない。その代わりに我々は自分の体を支配するのだと。そして君たちもそうするのだと。人間なら誰もが己の体を支配できることにしよう。我々は平等に自由じゃないか。(現実として多くの旧黒人奴隷は扱いの悪い賃金労働者として己の体を「自由」に売買した。ほぼほぼ売るだけであったが。)
上記の経路は思考実験の一つでしかなく、実際は数百年前の「権利」概念の議論でも既に流れていただろう。しかし、ここで誕生したのは一風変わった、世界と人間に対する理解である。個人は他者からの介入=他者との人間的繋がりを切断できる独立した存在だという信仰なのだ。なぜなら自分の体を自由に支配し他者はこれに関与できないのだから。(工場で死にかけながら働く黒人労働者だって「自由」に辞められると考えることはできただろう。)「権利」や「自由」というものの概念自体にこれは染みついたのだ。
奴隷製の足置きで本を読む農園主の頭の中で作られた「近代国家・権利・自由」は、国家軍隊というとてつもない力に囲われながら、同じ発想の知的エリートを再生産し、根本思想の解体は迂回しながら様々なヴァリエーションを増やしてきた。その実践形は司法や行政の場から常に吐き出され、我々パンピーの脳みそにも影響を及ぼしてきた。
「権利」概念は、「権利」とは「持つ」ものだという支配欲求の肯定に支えられている、というのが基本的な今回の主張である。これが己の身体観や対人間観に影響を及ぼしてきた。実際皆が全く違和感なく自分の持つ時間と労働力を社長さんに売り払っている。基盤にある発想はまさに「権利」は「持つ」ものだから「捨てれる(売れる)」のである。あるいは私は他人の権利を「買える」のである。なぜなら私はその「権利」を「持っている」のだから。(一応断っておくが、これによって生まれる成果を否定するものではない。「支配/排除 と 欲望」を根幹にする原理が一度は平等性/対等性 になりながらも、次の段階で一人の人間があらゆる人の時間と行動の自由を支配し皆がそれに納得していることに注目したいのだ。この一人の人間も様々な人の投資で買われていてもう少し複雑だろうけれど。)
長々書いてるのに平板な話になってるだろうか。ここに資本の燃料をぶっ込めばいくらでも非人間的な方向に暴走できるのは想像にかたくないし、読んだことないけど共産主義とかポモとかもこういう認識の型への反発からスタートしてるのでしょ。現実に非人道的支配を読み取った人たちの反発から生まれた社会「権」などは対抗力として機能しただろう。ただそのことに対しても言えるのは「権利」「自由」の枠組みがそのまま利用されたということだ。近代国家という装置がこの世界にセットされた1776年の7月4日のあの日から全人類の脳みそはハックされた。今もなお屋台骨として社会を支え続けている我らが人権万歳!自由万歳!国家万歳!
いま苦しんでいるマイノリティも、「支配と欲望」の匂い漂う「権利と自由」概念を使って「国家よ行動しろ」と闘争せねばならない。あるいは彼らがそうでない社会活動を試みていても(例えば、他者との網の目を強化したり、国家ではなくコミュニティや人々の意識を変えるために動いていたとしても)、そのように立ち上がる姿をメディアでみた我々は、そこにまた「権利と自由」闘争の型を読み取っていないだろうか。「障害者が、また支配と欲望を前面に出してるのか。今度は何を要求するのか。」と。そして人間の、恥を知らない無意識は、何かを奪おうとしているマイノリティを見てこう訴えてくるのではないか。我々はこいつらを「支配」し「排除」しなければならない、我々の「権利」と「自由」のために。
東京で生まれ育ち、大好きだけれど、海外からの訪問者をそれなりの数受け入れる世界都市の一つとして、どうしても気になることがある。
というか、直接海外の方に「これをどうにかしてほしいな〜」と言われたものばかりです。
クレジットカードが使える店がとても少ない。徐々に改善しているとはいえ、欧米主要都市は基本的にほぼクレジットカードのみで生きていけるのでそれと比較すると……。
海外で進んでいるところは、ここでも使えるの!?というような小規模な店、屋台なんかでも普通に使える。
海外から来た方はただでさえ紙幣や小銭を扱うのが難しい。クレジットカードが使えればなんの問題もなく楽に支払えてレジもスムーズなのに、手間をかけさせてしまっている。
海外の方はベジタリアンが多い。厳密な意味のベジタリアンでなくとも、「なるべくなら野菜だけ食べたい」というヘルシー志向の方も多い。
でも東京の食べ物やさんは本当にベジタリアンに優しくない。普通の店でベジタリアンメニューなんてほぼ見ない。
欧米の一部都市では、別に「ベジ」を謳った店でなくても、ピザ屋でもメキシカンでもイタリアンでも中華でもインド料理でも、普通にベジメニューがあったりする。
自炊できる定住者はそれでいいんだけれど、外食の多くなる旅行者にとっては結構死活問題。
「日本食って思ってたほどヘルシーじゃない」「東京はベジタリアンが多くないとは分かっているけれど、国際都市なんだし、せめてホテルに入っているレストランとかはもう少しがんばってほしいかな……」とがっかりさせてしまっている。
入ったら全面喫煙可だったりするとげんなりする。特に居酒屋などは辛い。
日本に喫煙文化があるのは分かるけれど、せめて全面喫煙可の店は店外にピクトグラムとかでわかりやすく表示して欲しい……と言われた。
ホテルはたくさんあるが、ハイクラスホテル・ビジネスホテル・ゲストハウス、という感じで特に「ハイクラスとビジネスの間」のホテルが少ない。
特に「ラグジュアリーではないがちゃんと清潔でおしゃれ、値段は中間くらい」なホテルは本当に少なくて、これは欧米だけでなく、アジア主要観光都市とくらべても少ない気がする。
なんでだろう、「若い人」向けのホテルが少ないんだろうか……。
これは私は正直自分ではきちんと把握してないんだけれど、とにかく全然駄目。と言われた。笑
使えても、登録が必要でめちゃめちゃ使いにくかったりするそうな。
意外と言語問題はわたしは言われたことがない。もう皆諦めているのかもしれない。
もちろん東京は東京で、他の都市と同じになる必要はないし、ここがいい!!!ということもたくさん聞いている。
でも、個人的には上記のことは是非良い方向に変化していくといいなと思っている。
小学校低学年の頃、祭りの屋台で売られる流行り物として小型のサイリウムがあった。
祖父に連れられて地元の花火大会へ2人きりで行った際、祖父から「屋台のものなら1つ、なんでも好きなものを買ってやる」と言われた。
本当はサイリウムが欲しかったが、それを持ち帰った途端、親から「しょうもないものを欲しがって」と言われるのが容易に予想できたので我慢していた。
親に怒られない程度の価格、内容のもので、さらには祖父も「買ってやってよかった」と思えるようなものはないかと思案していたが、
小学校低学年の私が隠している「本当に欲しいもの」など、祖父からすればおそらく簡単にわかってしまったのだろう。
なんども行き来したサイリウムを売っている屋台の前で祖父が足を止めた。
「これが欲しいんか?」
聞かれた途端に涙があふれた。我慢できなかった。
買ってもらえる喜びよりも、家に帰ったあとのことが心配だった。
結局それを買ってもらったので、帰るのが本当に憂鬱だった。
家に帰ると案の定、母親は私に「こんなもん、いくらすんのや!」
「ま〜おじいちゃんやったら買うてくれると思ってからに甘えたらあかんのやんな」と言った。
いまとなっては姑として気を遣って出た言いわけや詫びの形の一つだったのかもしれない。
私は自分はもちろん、そんなものを買わせたことで祖父までもが母に責められていると思った。
祖父が悲しい顔をしていた。
前回ここでリスニングの学習法を書いたところ思いのほか反響を得ることが出来た。
http://anond.hatelabo.jp/20170522214348
今回は実際のところどうやってリスニングしているかをまとめてみようと思う。
リスニングは無意識下で行われる実に精妙なプロセスで、自分でもどうやっているのか正確にはわからないが、注意して観察すれば大まかなところは分かってくる。
まず単語について。日本語は「交渉、高尚、考証、公傷、公称」のように同音異義語が多い言語だ。「こうしょう」は広辞苑で50の見出し語を持っているという。対して英語は単語の意味が時代とともに付け加わり多義的になっている。Random HouseでTakeを引くと126の意味が登録されている。
どちらにしても、音を聞いただけでは単語の意味を特定することは出来ず、文脈から単語とその意味を導く必要がある。
文脈が分かっているということは、あらかじめ相手のいいたいことが予想できているということだ。現在のトピック、話の向かっている方向、相手のいいたい結論がわかっていれば、リスニングは格段に楽になるが、我々学習者はそれを簡単に見失ってしまい、リスニングは著しく困難になる。
相手の表情や身振り、口調などは文化的な差が大きいが、これに慣れることで相手の話したい内容が事前に予想できるようになり、リスニング力が上がる。
文脈を踏まえ、相手の言いたいことを察知した上で、相手の話の最初の数語を聞く。そこで出てきた単語や文法構造を元にして、その後に続く文を人の脳は予測することができる。
正確に言えば、英語を学習した脳において、文の最初の数語、動詞が出て来るまでを聞けば、その後の展開として考えられるさまざまな可能性は、あらかじめ学習によって脳の回路に刻みこまれているので、その回路が後に続く文を効率的に解釈してくれる。
我々は学習によって脳の回路を育て、「始めがこうなら、文の続きはこうなる」という様々なパターンを繰り返し刷り込んで、文を解釈するために必要な脳の回路を作り上げている。そのおかげで、音を聞いてリアルタイムに文として解釈することが可能な脳が構成できている。
あまり適切な用語ではないが、これを便宜的に脳による予測と考える。あらかじめいろいろな展開に備えた準備を入念にしているので、「その展開は俺の予測の範囲内だぜ!」といった返しが、どんな文の展開が来ても出来るような状態にあるということだ。
予測の中に正解がなかったら、リスニングは失敗する。文のパターンを大量に仕入れて、最初の数語を聞いただけで引き出せるようにしておくことが必要だ。
相手の話が進むにつれて、予測された文の解釈の候補が次々と脱落していき、相手の話す一文の終わりにはその解釈も一つに定まる事が多い。
詩的な文では、それが何を意味しているのか一つに絞りきれないことがある。そういった場合複数の解釈が渾然一体となって聞き手の脳内に残り、深い味わいを残すことになる。
日本語と英語では思考の順序がまるで違うので、英語を最初から順番に解釈していくのは多大な困難を伴う。しかしそれが出来ない限りリスニングは不可能だ。このときに頭のなかで何が起きているのかできるだけ詳細に追ってみようと思う。
英語は単語ごとに区切りがなく、滑らかにつながって発音される言語で、それが日本人による聞き取りを著しく困難にしている。
ただ、最初の一語に関しては前に繋げるものがないので、ネイティブにとって少し無理をしたような発音になり、変な音が漏れることがある。これを単語と誤解しないようにしなければならない。
また、変な音の発生を避けるために一瞬「ウェ」という音が入ることがあり、これは喋ることを考えている時に文頭に出てくる単語"Well"とされ、日本語で言うと「ええっと」とか「まあ」にあたる。しかし実際は最初の一語をスムーズに発声するための準備運動という意味合いが強い。
最初は主語としてのHeとかIとかTheyとかWeのような、非常に出現率の高い単語が出てきやすい傾向がある。
日本語では主語の省略が頻繁に起こるが、英語では発音の省略が起こる。日本語では言わなくても分かることは言わずに省略するが、英語では言わなくても分かりそうなことは発音がいい加減になる。
文頭のTheyやWeなどは一瞬th音やw音が聞こえるだけということも珍しくない。一般的に、出現率が高い単語ほど発音がいい加減になる。
文頭が聞き取れないとその後も何を言ってるのか分からなくなってしまいがちだ。最初の語が聞き取れなかった場合、主語は重要でなかったのだと考え、とりあえず先に進んでみるのが重要である。
ちなみに英語でもIt isは省略されて全く発音されないことがある。しかし英語字幕の中では、ないと不自然なため補われていることがあり、学習者からすると「字幕と言ってることが違うぞ!」という困った事態になる。
英語字幕では話し言葉としては自然だが文法的に間違った表現が直されていることがよくあるため、注意しなくてならない。
主語の次は動詞か、あるいは助動詞がくる可能性が高い。その中でも、一般動詞ははっきり発音されるので聞き取れるはずだ。
助動詞、あるいはbe動詞は非常に出現率が高いため、ほとんど発音されないことがよくある。
w音が来た場合はwillかwouldである。ほとんど聞き取れない一瞬の休符を感じたらそこにはcanが入っている可能性が高い。r音を感じたらYou're, They're, We'reの'reの部分だ。
そういった出現率の高い音を覚えて一瞬の音を聞きのがさないことが重要だ。
助動詞の後には動詞がくる。その後に来る文のパターンはそれぞれの動詞によって変わってくる。
動詞はその次に目的語をとるもの、補語として形容詞も取れるもの、go toのように前置詞を置かないと目的語が取れないもの、目的語が二つ取れるもの、二つ目の目的語の前に前置詞が必要なもの、二つ目の目的語の位置に動詞の原形が入るもの、ing形が入るもの、to+動詞が入るものなど、様々なものがある。一つの動詞に様々な使い方があり、句動詞と言って動詞の後に続く前置詞や副詞のコンビネーションにより意味が大きく変わるものも多い。リスニングを成功させるためには、動詞ごとの文の展開の全パターンを把握し、脳に刷り込んでおく必要がある。
ちなみに、前置詞の後にくる目的語は、動詞の目的語と考えず前置詞の目的語と考えるのが正しい文法用語のはずだが、私は区別していない。正しい文法用語で思考している人には不便だろうが、ご容赦願いたい。
目的語の中には自分の言いたいポイントになる目的語と、そうでないどうでもいい目的語があり、どうでもいいものは弱く、ポイントになるものは強く発音される。
目的語を二つとれる動詞giveで説明すると、「I gave him a ○○」私は彼に○○をあげた、という場合は、何をあげたかに話の力点があり、彼にあげたというのは話の流れから明らかな場合が多い。
このhimのように、「出現率の高い単語の発音はいい加減になる」というルールに当てはまり、話の力点も乗っていない単語は、音が省略され聞き取りは非常に困難になる。例を挙げると、himは「イム」、herは一瞬「ァ」themは「エム」itは一瞬「ィ」といった発音になる。
前置詞も非常に出現率が高く、話の力点が乗ることもあまりないので発音が省略されやすい。ofは一瞬のv(ヴ)音、withは一瞬のth音といった感じになる。
thやvは日本語にはない音なので、聞き取るのが難しいが、注意して聞いていれば分かるようになってくる。正しい発音の仕方を覚えて、音読時に実践していると、さらに聞き取りやすくなる。
それでもやはり、日本人にとって、音から単語を正確に識別するのは難しい。それに英語にも同音異義語はある。
それが母国語であれ外国語であれ、単語は「音、文の形、文脈」の3つの要素から、無意識下で総合的にリアルタイムに判断される。
たとえばwantとwon'tの違いが音から分からない、という事が私にもある。この二つはそもそも発音が異なるので、ネイティブなら区別は容易なはずだ。しかし日本人にはなかなかそうは行かない。
助動詞は本来弱く発音されるが、否定形のcan'tとかwon'tのようなものは否定であることを強調するために比較的強く発音されるため、普通の動詞との判別が難しい。また、I want you to ~のように「君に~をして欲しい」の~の部分に力点が置かれる場合、I want you toの辺りはゴニョゴニョと発音されて弱くなるので、won'tと区別がつかないといった事が起こる。
しかし、ウォントの後にtoやyouが来れば「さっきのはwantだった」動詞が来たら「さっきのはwon'tだった」と判断し、名詞にも動詞にもなる単語が来たら、文脈やリズムから名詞か動詞か判断する、といったことで区別が可能だ。このように、様々な情報を無意識下で総合的に使うことでリスニングは成り立っている。
これは実は母国語でもそうで、日本人の話す日本語でも、発音が曖昧だったり、失敗していることは結構ある。注意して聞いていると、聞く側が自然に補って意味を汲み取っていることが分かる。音から言葉が分からなくても、他で補って総合的に判断するというのは、人の脳が持っている能力だ。
日本語と英語の発音は大きく異なり、日本人には英語の音を判別するのは難しい。けれど周りの情報を使うことで弱点を補うことが出来る。
たとえば一瞬しか発音されない前置詞を日本人が聞き取るのは難しいが、動詞から現れる前置詞のパターンが予測できていれば、一瞬の音でも聞き取りやすくなる。たとえ聞き取れなくても、予測した文の形に当てはめてみることで、文脈から前置詞を補い文を完成させる事もできる。
英語は動詞によって文の形のパターンが大体決まっていて、文の展開の予想を立てやすい。もちろん動詞を副詞で修飾したり、toやed形,ing形などを介して名詞を修飾することで文章を飾ったりもするが、修飾部は文の屋台骨である主語動詞目的語とは発音のリズムが変わるので区別できる事が多い。
それでも問題になってくるのは関係代名詞who、that、それと「関係代名詞の省略」のパターンである。
関係代名詞who,thatは出現率が高く、発音が省略されるので聞き取れないことがよくある。一瞬のh音やth音を聞き逃さないことが大事だ。
関係代名詞の中は修飾部なので、文のメインとなる主語、動詞、目的語よりも一段弱い感じで発音することが多いが、区別は難しい。話の力点が関係代名詞の中にある場合もあり、その場合は同等かより強く発音されることもある。
ちなみに英語において、弱く発音されるということはゴニョゴニョと、速く発音されるということであり、聞き取りにくくなる。英語は重要度が低い部分は聞き取りにくく、速くなり、重要なことははっきりと、遅く発音することで、文の構造をリズムで表現する。
主語や目的語のあとにいきなり主語動詞が出て来る、つまり「主語、主語、動詞」や「目的語、主語、動詞」の形が出てきたら、関係代名詞が省略されているか、あるいは関係代名詞が聞き取れていない。
関係代名詞が主語を修飾している場合は、その後でメインの動詞が来ることになるので、それを忘れないようにしなければならない。「主語 who 動詞」や「主語 that 動詞」で関係代名詞を聞き逃すと、ただの「主語、動詞」と認識されるので、その後に動詞が出てくると激しく混乱することになる。
関係代名詞を聞き逃さなかったとしても、文の途中で他の文を処理して前の文と頭のなかでつなぎ合わせるのは難しい。そういう複雑な文の構造を使いたがる人は、さらにandで繋ぎたがる傾向があり、そうなるとお手上げということになってしまいがちだ。
一文が長くなってくるにつれて、何の話かわからなくなるのは誰にでもあることだ。それが外国語であれば避けては通れないように思う。
文全体の構造を見失ったとしても、今いる部分の意味を追い続けることが重要だ。文脈、話の向かう方向さえ追えていれば、その先の話を聞き取るのに不都合が生じる可能性は低い。混乱しても立ち止まらずに話を追い続ければ、言いたいことの要旨は分かる可能性が高い。
関係代名詞whatや関係副詞where, whenなども弱く発音されるので聞き逃しやすい。I know where you live(あなたの住所を知っている)と言った時にはwhereとyouが弱くなってウェユリヴ、what it is(それが何であるか)といった場合はwhatもitもisも頻出語のため全部ごちゃっとなってワリリズといった感じになる。
英語において「場所、時」は文末にいきなり現れる。なのでwhere,whenはどんな文でもいきなり出てくる可能性がある。
さまざまな場面で、w音は聞き逃すと話を見失う原因になるため、注意して聞く必要がある。
英語において音の省略はインフォーマルな、友達や職場の同僚との会話の時などに起こりやすい。目上の人との会話や、フォーマルなスピーチでは、いい加減な発音は起こりにくく、日常の何気ないところでは発音が崩れて、聞き取りの難度が格段に増す。
これも結局のところ、フォーマルな会話は重要なのではっきりゆっくりと喋り、プライベートは重要な話ではないので発音がおろそかになって、ゴニョゴニョと早く喋っているということだろう。
私は英語があまりできない日本人が「日常会話ぐらいなら出来ます」といってるのをよく見かけるが、あれはおかしな表現だと思う。日常会話を聞き取るのはかなり難しい。
フォーマルな場では、日常使われるような基本単語を用いた分かりやすい表現は避けられ、婉曲で難解な言い回しが知的な感じがして好まれる。これはこれでとても難しいのだが、インフォーマルな場では砕けた発音やスラングが出てくるので、これもすごく難しい。そういった英語の癖を掴んで、そういうものとして受け入れてやっていくことが大切だ。
さて、いろいろ書いてきたが、実際のリスニングの場で意識してこれらのことを実践することはできない。リスニング中にゆっくり考えている時間はなく、全て反射的に無意識に行えなければいけない。
英語の理解を反射にまで高めるためには、音読や、集中して繰り返し聴くことを行い、反復して脳に刷り込んでいくことが必要になる。
頭の中で黙読している時でも、英文が自分のモノになっておらず、反射にまで至っていない場合、スルッと頭に入らず、引っかかる感覚がある。それに出会ったら、繰り返し音読したり黙読したりして、スムーズに頭に入るようにする。その積み重ねによって刷り込みが行われ、文が反射的に理解できるようになり、リスニングや、返り読みなしのリーディングが出来るようになっていく。
リスニングの上達は基本的に無意識レベルの刷り込みによるものだが、注意すべきポイントを理屈の上で意識していれば、脳内の処理も効率化されやすく、上達も早くなるように思う。
また、これらのポイントが意識できていれば、「何だこの発音は! 全く聞き取れないじゃないか! 納得いかない!」といった混乱をすることが少なくなり、学習がスムーズに行くのではないかと考えている。
私の英語学習は混乱の連続だった。日本語と英語がなぜこんなにも違うのか、私には今でも納得いかない部分がある。怒りと諦めがないまぜになったような感覚と、それでもいつか理解できるんじゃないかという希望が私を英語学習に駆り立てている。
それでも、納得できないうちは頭に入ってこないので、なんとか納得して折り合いをつけて、受け入れて学習をすすめなければならない。
字面と全く意味が違うイディオムを受け入れ、ゴニョゴニョした発音を受け入れ、増えていく単語の意味と勝手に作られていくスラングを受け入れ、知的すぎて難解な言い回しを受け入れ、優秀なキャリアウーマンが話す信じがたいほどの早口を受け入れなければならない。
社会人になって年数はもう二桁になろうとしていた私たちは、頑張って来たご褒美とかこつけてアジアへの旅行を決めた。
みんな結婚こそはしていないものの、私は男と住んでもう5年にもなるし、
他の3人もこの数年ですっかり落ち着いている。
そんな独身女4人の旅行先に、英語圏の南の島とかでなく亜熱帯にあるアジアのリゾートを選んだのは、
歴史ある寺院を見たり、安くエステをしたり、少しスピリチュアルにな気持ちになるため、では本当は無かったのかも
なんて少し勘ぐったりする。体をよく鍛え黒のトライバル柄のタトゥが日に焼けて薄くなった
ビーチにいる男の子と私たちは昼間からビールを飲んで「可愛いねオネエサン」なんて言われている。
彼らは本当に日本語を良く知っていて、少し前に流行ったお笑い芸人のネタを口にしたりもしていた。
そんな旅行の最終日だった。
「クラブへ行ってみようか」
誰かが言い出した。とっくの昔に忘れた夜の過ごし方だった。
もう若くは無いけどここは外国だしツーリストも多い。いいよね。
私たちはマーケットで1500円で買った安物のワンピースに着替え、入念に化粧を直し、宿泊していたヴィラを出た。
店の集客をする少年や、お祭りの屋台で売っているようなボタン電池で光る耳のようなものを売っている男、
謎の白い粉を売りつけてくる男、この夜の街の現地人は皆、働いてるんだ。
私たちは現地人によくモテた。日本人だからかもしれない。お金を持っていると思われているんだろう。
実際、ジゴロをやっている現地人は多いって聞く。彼ら、都合よくヒモにさせてくれる日本人女を探しているのかも。
それぞれのお気に入りの男を見つけ、フルーツの盛られた黄色や緑色のカクテルを飲んでいる同士3人を、
私は遠れたところから眺めていた。
横ではパフォーマーの女性がファイアーダンスを踊っていて人だかりができている。
「日本人?」日本語で声をかけて来たその男は、肩に着きそうなくらい伸びた髪で少しだけ日に焼けていた。
無地のくすんだ青のシャツに、グレージュの海パンを履いている。荷物は持ってない。
若いけど、なんだかちょっとこなれた感じ。学生の卒業旅行ではないみたい。
私たちはみんなのいるルーフトップのフロアを抜けて、音楽のあまり聞こえない2階のベランダに腰を下ろした。
不意に、私の髪をかきあげる彼の右手。その手でそのまま、顔を引き寄せられキスをした。
女の子の二の腕にキスしたみたいなふにゃりとした唇、首筋に塗られたオールドスパイスの香り、
体温が上がっているんだと感じるのにすぐ、思考が停止する。何も考えられなくなる。
「いい曲」そう行ってフロアに手を引かれた。今日は有名なDJのワールドツアーなんだとか。
私たち、体を寄せ合って揺れてた。チークタイムかよ、って心の中で毒づいて少し恥ずかしくなって笑った。
でもそんなのすぐに忘れて目を閉じる。
音楽が流れて体を寄せているだけなのに飽きることなく時間が過ぎる。
ずっとこうしていても時間が過ぎないなら、死ぬまで踊っていられるんじゃないだろうか。
引き寄せ会う、ただの二つの物体。それ以外のことは何の意味もなさない。今は。
どれくらいそうしていたんだろう。
不意に聞き覚えのある歌が流れて来た。日本語の女性ボーカルが歌う。
「愛してると言って、声を聞かせて」
外はすっかり明るいけれど、まだまだ人が出る気配はない。
「やるじゃん」なんてからかう、随分前に遊び慣れた女たち。その言葉、そっくりそのままお返しします。
頰にキスをして私たちは別れた。彼は宿泊先のホテルを耳元で囁いた。
帰りの空港に着くと、彼が搭乗口の柵に持たれていた。
「またおいでよ」
もう会うことは無いってわかってる。
そうそう海外旅行なんて行けたものじゃ無いし、多分次は違う国に行くだろう。
それに帰国したら、この一年中夏の国で一晩で生まれた安物の気持ちは綺麗さっぱり無くなるものだ。
なんて、分かっているからこんなに悲しい。
安物だなんてこれっぽっちも思っていないけれど。それも、今だけ。
日常は何も変わらず私を迎えてくれた。
匿名とは言え少し嘘を混ぜさせてもらう。
80のおばあちゃんに話を聞くことがあった。
この年齢の人は子供の頃に過酷な体験をしていることが多く、その話を使命感ではないが、どちらかと言うと好奇心で聞きたかった。
壮絶な話を聞いて「だいたいこういう話は蓋されてて話してくれない」ということの上に、話を聞く機会自体も減るのかと思いなんだか勿体無い気持ちになった。
2日貯めると小さな羊羹(のようなもの)が買え、食べれたらしい。
我慢できない日は5円で「べろべろ(またはペロペロ)」というお菓子を買ったそうだ。
平たく、円形できな粉を付けて食べた。と聞いた。
それを話したら記憶がより鮮明になったらしくもう少し具体的に話してくれた。
小麦粉を練ったものじゃなくて蕨っぽいというところまでわかった。
http://anond.hatelabo.jp/20170301204257
で「ミスター味っ子」が元祖みたいな話が出て来て、そういえば似たようなやつでミスター味っ子より前だと思うんだけど、アルデンテの話を扱ったエピソードがあったなあと。
マンガだったのか、児童文学みたいなのかおぼろげなんだが、何年か前にはググって見つけたことはあるんだけど、今もう一度探したところ見つからなくてスッキリしない。
屋台引いてる子どもが主役で、味勝負的なやつで一度にどれだけのラーメンを出せるかって話で「秀吉の一夜城」の逸話が紹介されてて、
たしか一度に三杯ラーメン作れるようなザルを作った。これが一話かなんかで、その時ラストでクラスメイト?から主人公の名前が木下藤吉郎みたいだ的言及があったとおぼろげな記憶。
で、別な話で「箸が使えない外国人にどうやってラーメンを食べさせるか」ってお題で、結局スープ入れた丼にザルのせて、そこに麺をのっけて出すのが解決法ってなる前後で、
「本場のスパゲッティは中に芯があるアルデンテ」って説明があったと思う。お客さんがゆっくり食べるから麺がのびちゃうところ、アルデンテに茹でてるから大丈夫って話。
なんとも言えない喪失感だよ。
○朝食:ご飯、納豆(二つ)、減塩野菜たっぷり味噌汁(フリーズドライ)、しうまい
○昼食:チキンカレーとスペアリブカレーのあいがけカレー(屋台で500円だったけど、めちゃくちゃ美味しかった。またあの屋台が来たら買おう)
○調子
はややー。
お休みの日なので、まったり散歩したんだけど、めちゃくちゃ寒くてさっさと帰ってきました。
それから、前々から見てたプリティリトルライアーズのシーズン1を見終えた。
僕の予想では「信頼できない語り手」かと思ったんだけど、どうだろうなあ。
かなり長いシリーズなので、気長に見ていこう。
●DS
2層のボスを倒して、3層に進んだ。
2層のボスは仲間を呼ぶんだけど、仲間を全体魔法でそのターンに殺したら、また次のターンに仲間を呼ぶ行動パターンになって、
●3DS
勇者食堂が読み通り二周目に突入、ぼうしをもらうまで相当かかるなこれ。
台確認のみ。
○ポケとる
っていうか、5連勝じゃしょぼいのか……
あのさ、僕の勝手なゲーム価値観で、それを押し付けたりとか、そうじゃないからクソゲーとまでは言わないけど、
勝ったり、負けたり、を繰り返すのが楽しいのであって、勝つだけを11回も連続でやれ、なんてテーマには、モチベーションが一切上がらない。