はてなキーワード: 反駁とは
特に若い間は。もしその古典が現代までの反駁に耐えうる素晴らしい内容を含んでいるのだったら、そのエッセンスはもっと磨き上げられた上で現代の本にも取り込まれている。無いなら、それはファンが多いだけのただの古い本だ。若い人は古典ではなく、新しい本、その中でも評判の確立したちょっとだけ古めの本をまず読もう。読み漁ろう。インテリ仕草で古典の知識を貯めようとするなんて人生がもったいないよ。
古典を読むのは年老いてからで十分だ。そこまでに古典でない色々な本を読んでいれば、落ち穂拾い目的で古典を読んで見ると、そこまで来て初めて気付くものを得られるかもしれない。もちろん、古典を読むこと自体が楽しいという趣味の人、あるいはそもそも楽しむことが目的というジャンルの古典、それとも訓詁学がしたいのだったら若い間から大いに楽しむのが良いけど。
ここんとこ老人方がコンプライアンスでやらかすたびに『銀河英雄伝説』のメルカッツの言葉を思い出す。
ブラウンシュヴァイク公という森元首相みたいなおじいちゃんが音頭とって東京オリンピック的なもの開くぞっ!って二階派とかに呼びかけて、すごく豪勢な会食パーティを催すんだけど、そこでコロナが大発生して参加者がバタバタ死んじゃうわけ。東京はもうむちゃくちゃですわ。
で、本心では東京五輪反対だったけどしがらみで準備委員会に入ってたメルカッツっていう有能な爺さんがいて、そいつが若い秘書に漏らすんだよね。
その病気を育てたのは500年にも及ぶ貴族の特権そのものなのだ。
100年前ならあれで通じたのに不運な人だ」
これ、まんまアップデートできてない老人に対する同情なのよ。
メルカッツさん自身も比較的古風な人間だから、森元首相がああいう感じのムーブを出しちゃうのを(自分は絶対やんないんだけど)心情的にわかっちゃうから、つい、あわれんじゃうんだよね。
これだけなら、まあそうだよね、って感じなんだけど、田中芳樹が敏かったのはそれを聞いた若い秘書の方の反発も視点として挿入したこと。
メルカッツはすごい偉大な上官(カープでいえば前田か黒田)だからその場では反駁しなかったんだけど、あとでこうぼやくんですね。
そうなんですよ。若い世代にとってはなまじ権力や影響力のある老人にボケボケムーブとられて自分の人生潰されたりすんのは完全に理不尽でしかないわけで、メルカッツみたいに哀れんでる余裕なんてないんですよね。哀れむには哀れむだけの余裕がいるんですよ。森元首相に人生邪魔されてる余裕がないヒトは「まあ老人は価値観アップデートできねえよなあ〜」みたいなコメントできませんよ、そりゃ。まあ、このあとメルカッツさんは国を逐われるんですけどね。
こういうふうに、二つの世代がそれぞれ置かれた立場から相反しあう見方を短いページにさりげなく織り込んだ田中芳樹は、やはりうまい作家だったのだなあ、と思います。
矛盾の塊のような文章になってしまっていて、とても大変なぁだと思います。
以下まとめます。
「自己の努力によって状況を変革できるかどうかについて」は自己責任論とまとめ、「環境によってあらゆる結果が強く影響を受けるかどうか」については環境論とまとめますが、増田は今回意図的にあなたが齎した結果としての勉学を環境論として掲げて反駁させることで、自己の醜貌を要因とした失敗や欠落や被害の自己責任論を否定しようとしてします。
あなたが反駁を求めた勉学のための努力を、あなたの目論見通り肯定されるということは、そのまま自己責任論を肯定する理由になってしまいます。万雷の拍手のごとくあなたを称賛してくれるブコメ言動は、あなたが何より忌み嫌う自己責任論を肯定する刃となってあなたを磔にしてしまっています。
私は基本的に環境論の方が好きなので、あなたが成功した(と少なくとも考えている)学歴にかかる功績には環境の相当程度の助力(それが反発という形であったとしても)があったものと思います。ただ、それは別にあなたの醜貌を否定する要素とは本来なり得ないものと思います。
矛盾した相手を否定するために、矛盾した理屈を持ち出すのは危険です。
どうか心が安らかでありますように。
https://anond.hatelabo.jp/20210126211637
これ読んで思ったけど、老人叩いてる奴って不老不死で自分は絶対歳とらないとかそういう人間なの?
などと言うことを書くと、これを書いている私に対して「こんなけしからんことを言う奴はどんな老害だ!」といきりたった奴が押し寄せてくるかもしれないけど残念だが私は三十代だ。
この件に限らずネットでは老人叩きが多い。その要旨をあげると大体こんな感じではないだろうか。
1, コロナから老人を守るために自粛して経済を犠牲にしなければならない
2, ただでさえ老人のせいで社会保障費や年金が増大していて若い世代の負担になってる
まあ他にもあるかもしれないが自分が見る中で目立つのは大体こんな感じだと思う。こう言う事言ってる奴らに言いたいのだが、おまえらは未来永劫歳をとらないのだろうか?
仮に老人を敵視している奴の言うことを全面的に受け入れて、上記の1,2を解決するために、
1, 自粛を全くせずコロナにかかった老人は治療も受けさせず見殺しにする
これらをやった場合どうなるか?
まず1のコロナに関しては、これによって老人は大量に死んで老害論者はウハウハかもしれない。しかし、数十年後、我々が歳をとった時にまた未知のウイルスが流行した時、前例があると言う理由で老人(つまり現在の我々若い世代)は見殺しにされるだろう。その時、1の政策を支持していた者たちは「じゃあ我々は老害なので潔く死のう」となるのか? 断言するが、絶対にならないだろう。普段どれだけ「俺は今すぐ死んでも構わない」などと嘯いている人間も、本当に死ぬしかない状態ならともかく、まだ生きれる可能性が多少なりともあるにも関わらず「死ね」と言われた時、絶対に抵抗するだろう。これはもう惨めたらしいくらいに死を避けようとするだろう。人間の生存への欲望などと言うのは、そんなに簡単に踏み潰すことはできないものだと思う。繰り返し断言するが、お前は必ず惨めたらしいほどに命乞いをするだろう。
また、2に関しても1と同様のことが言えるだろうが、老人への介護費用や年金などは別の側面もあって、介護に対して公的補助が出るから、その分現役世代の負担が減っている。老人への社会保障は老人だけでなく、その面倒を見なければならない下の世代を助けるものだと思っている(それでも「俺は親に死んで欲しいから助けるつもりはない」と言い張る奴がいるかもしれない。毒親を持ったのは可哀想だが、残念ながらそのような人は多数派ではないと言うことを理解して欲しい) そして、2に関してはそもそも社会保障をカットするなどと言うハードランディングな方策をとらなくても、健康寿命を伸ばして、介護や医療の費用をかからずにし、あわよくば長く働いて老人も一緒に社会を支えてもらうと言う回避策もありこれなら皆比較的ハッピーである。政府の指針としても概ねこのようなものと理解していて、自分は支持するのにやぶさかではない。
昨今ツイートでこれは禁止カードだろと言われているとあるツイートが話題になっていたので思ったことを書き連ねてみようと思う。
『高校は中途半端に偏差値高いけど、大学は第一志望には行けず大したことない大学行ってるやつのプライドの高さは異常。自分は周りとは違うって本気で思ってる。』
いかがだろうか。
確かにある一面正鵠を射ているなと感心させられると同時に思わず反駁してしまいたくなった。
『自分は周りとは違う』とあなたは評価するかも知れない。しかし当人の主観では残念ながら自分は周りとは違うというある種特権階級じみた病的な選民意識とは少し性質が違うものであると。
正直言葉の綾でどうにでもなるだとかそもそも反論になりえないと言われるだろうが、きっと私がこのように言われたらこう言い返し(繰り返し、反論になっているかどうかは私は知らない。)ているだろうということ思い浮かんだのである。
どういうことかといえば、高校は中途半端に偏差値高いけど、大学は第一志望には行けず大したことない大学行ってるやつのプライドが高く見えるという現象は、その渦中にいる本人からすれば、あくまで『高校時代にどうやっても努力では勝てっこないような何をやってもできるレベチに頭のいい人種を見ているからこそ、確かに自分はそこまですごくはないことは十分承知だ。しかし、少なくとも私はそのようなレベチの人間と曲がりなりにも同じ学び舎にいることを許されていた人間で、そこに到達することができなかった君らよりはまだマシな人間である』という確信に基づくものである。そして、こうやって『高校は中途半端に偏差値高いけど、大学は第一志望には行けず大したことない大学行ってるやつのプライドの高さは異常。自分は周りとは違うって本気で思ってる。』とのたまう人間は、たまたまそのように後指を刺されている人に勝てそうな属性に属していると錯覚し精神的勝利に酔いしれている何も成し遂げることのできなかった人間の僻みだったのではないかと(まあこういう反駁こそ僻みだっていうのは私も十分承知しておりますが)。
多分『高校は中途半端に偏差値高いけど、大学は第一志望には行けず大したことない大学行ってるやつのプライドの高さは異常。自分は周りとは違うって本気で思ってる。』と後ろ指を刺されている人のマインドはこれなんだろうなと、一当事者として考えてみた。
お母さん食堂、というネーミングがまあ荒れに荒れている。
「お母さんという言葉に、無意識のうちに料理を作らなければならない人としてのジェンダロールを強制する働きがある。表現を改めるべきだ。」というのが要旨である。
私は正直なところ、この指摘は充分受け止めるべき意見ではあると思う。人のあり方の多様性が叫ばれて久しい昨今、たしかにそういう側面がこのネーミングには感じ取れないことも、ない。
けど、なんか、違うのだ。その議論はもっと高尚なところですべきで、言葉狩りのようになってはならないと思うのだ。
本質は役割の押しつけの解消で、気に食わないものの排除では無いはずだ。
ただ、否定しようとしても、先方の論理はかなりしっかりとしていて、こちらの反論は感情的なものであるから、かえって相手の意見の補強になる。
(実際に「いやカントリーマアムとかあるやん、別にいいやん」みたいな反論に「それらも変えるべき、問題提起のきっかけであるだけ。黙殺する風潮を作るな」というような反駁があり、なるほど確かになぁとなったりした。)
一応私なりにも反論を試みたりはした。
そもそもこの「お母さん」のニュアンスは母性とかその辺に由来するものだと思う。授乳に始まる母親からの食事の供与は人間のみならず広く動物に見られるし、その過程で獲得した母に対する安心感を無意識のうちに想起させるものなのでは?
お母さん、としてでは無く「その人」としてらしくあろう、そのためには役割を課してはダメだよね、ならば、「お母さんとしての私」を拠り所とする人は否定していいの?
たしかに前時代的な考えかもしれないけれど、前時代的な考えにすがることは間違っているの?
少し話が逸れるけど、こういうポリコレ的な話ってかなり気をつけて発信しなければならないはずなんだけど、否定派肯定派ともにそれが欠けている気がする。
社会的に認められていたかつての「正しさ」がどんどん力を失って「正しさ」が曖昧になってきた時代。
多分今の時代のお題目としては「多様性を認め合い、個々人の中にある正しさを尊び、大切にしましょう」ってところだと思う。これには私も賛成だ。
けれど、最近話題になるものはどれも「これが今の正しさ!そぐわない考えは悪!その考えを捨てきれない民衆と社会も悪!」みたいなのが、多くない?と思う。
差別や偏見によって不当な扱いを減らすべきなのは当然なんだけど、個々人の価値判断とかその辺まで「正しさ」を強要できるほどのものではなくない?
というか、それをしてしまうと出発点である「多様性」とか「価値観の押しつけからの解放」とかに矛盾しちゃわない?
っていうのがずっとある。これじゃあポリコレ的に悪とされる前時代的な価値観、社会体系そのものじゃん。
具体的に言えば、ジェンダーとしての女性、ジェンダーとしての男性は、尊重しなくていいの?みたいな表現とか、よく見られる気がする。他にもある気がするけど、ここではあげないことにしておく。
ともかく、「お母さん食堂」というネーミングに対するアクション、私は反対である。「お母さん」という言葉の中にある温かみは「お母さん」にしかない。
離れて暮らす父(60代)は、ネットでいつも「マスコミは騒ぎすぎ」「自粛警察のほうが問題」「経済を回せ」と繰り返している。
度を過ぎた発言のたびに「厚労省のページにはこう書いてあるよ」などと訂正情報をちくちく送り続けていたのだが、先週「じゃあこの指摘も間違いか」と父がメールしてきた記事があんまりにあんまりだったのをきっかけに、長文メールのやりとりをする流れになった。
合計するとメールの文面に十数時間ほどかけた大作業だ。父からの返事は正直期待していないけれど、もしかしたらその文章が父以外の誰かの役にも立つのではと思い、ここに転記しようと思う。
父が「じゃあこの指摘も間違いか」とメールで提示してきたのは「新型コロナ、10のウソ」という記事だった。
https://38news.jp/column/17111
無数の事実誤認とソースのない伝聞をもとにした記事で、どれも少し読者が自分で調べただけで即座にデマであるとわかる、ひどいものだ。かつてかなりの良い大学を出て大企業でエリートとして働いてきたはずの父がこれを鵜呑みにしているという事実には、正直目眩がした。
このメールに対しては、ひとつひとつ反証を挙げつつ、全体としては以下のような注意喚起を行った。
著者は国士舘大学客員教授の小浜逸郎。専門は「家族論、学校論、ジェンダー論、差別問題、国家、死、知識人論」。ネットには探せば感染症の専門家も多く見つかりますが、そのような人たちがこの記事と同様の考えを示している事実はありますか? 非専門領域で、専門家の意見を尊重しない独自の意見を述べているという時点で、これは信用に足る人物ではないと思います。
父からの返信では、「個々の項目を議論する気力がない」と小浜逸郎の話は打ち切られた。かわりに自分の言葉であらためて主張を連ねていたので、私はその主張をいくつかの論点に整理し、個別に反駁することにした。以下メール本文。
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父さんの主張を箇条書きにすると、以下でいいでしょうか。
それぞれについて、返事します。
まず1つめ、死亡率が抑えられているのはコロナがたいしたことないからではなく、大規模な感染対策のおかげです。
その証拠に、新型コロナと同様の対策が有効なインフルエンザの現状を見てみましょう。
https://mainichi.jp/articles/20201004/ddm/002/040/116000c
全世界的に症例数が激減しています。これが統計ミスではなく確からしい情報であることは、感染症専門家の忽那先生の言葉選びからもわかります。
https://news.yahoo.co.jp/byline/kutsunasatoshi/20200822-00194484/
昨シーズンは私もインフルエンザの患者さんをほとんど診察していませんが、実際の症例数で見ても明らかに例年よりも少ないことが分かります。
これは、日本国民が新型コロナの感染対策を徹底することによって本来流行していたはずのインフルエンザも減ったのではないかと考えられています。
インフルを激減させるほどの対策をしてもコロナにはこれだけの感染力があるのです。としたら、もし対策をしなければどうなるでしょうか。
世界を見てみましょう。対策に失敗した結果、日に4桁の死者を出している国もいくつもあります。たとえばアメリカのコロナ死者は毎日2000人を超えていて、2月までに計45万人という試算が出ています。
https://jp.reuters.com/article/health-coronavirus-usa-idJPKBN28D2B0
コロナと他の死因を比較してみましょう。ロイターのグラフによると、12/1時点で全世界のコロナによる死者は約150万人。
https://graphics.reuters.com/world-coronavirus-tracker-and-maps/ja/
交通事故は、ざっと調べただけだと2016年のデータしか見つからなかったけど130万人。つまり今時点でコロナによる死者は交通事故を上回っています。ロイターのグラフを見ると11月以降増加傾向があるので、年末までにはさらにその差は広がるでしょう。
これらのデータからは、「新型コロナの被害はたいしたことがない」という考えはあまり自明とは言えない、とは読み取れないでしょうか。
2つめの観点としては、コロナの治療薬が存在しないということ。
コロナとの戦いの勝利条件は、集団免疫の獲得・ワクチンの量産・治療薬の量産 のうちいずれかです。しかし集団免疫は望み薄だとこれまでの経緯からわかってきています。ワクチンは最近有望株が見つかったというニュースもありますが、本当にそれが実用化できるかはわからず、実用化できたとしても量産化までにはいくつもの壁があります。
https://news.yahoo.co.jp/byline/kutsunasatoshi/20201122-00209031/
我々はそれまではジリ貧のまま、実効再生産数を1未満に維持しながら暮らしていくしかありません。
3つめの観点としては、コロナは死亡率だけでなく、後遺症の重さも問題だということです。これについてはこちらの記事を。
https://news.yahoo.co.jp/byline/kutsunasatoshi/20201011-00202608/
4つめの観点は、死亡率は遅延指標であり、その数字を見てから警戒レベルを上げたのでは遅すぎるということです。
https://www.buzzfeed.com/jp/naokoiwanaga/covid19-nishiura-1
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(長すぎて投稿できなかったので分割します → https://anond.hatelabo.jp/20201206212309 )
民主党になったとしても変わらないとか、冷笑主義者乙としか言いようがないし、民主主義の後退を黙認しておいた人間が何を今更言ってるのかという話にしかならない
今これを許したら後々どうなるか考えろ、絶対に政権交代がないとは限らないんだぞという筋で批判を行ってた人はモリカケ桜の頃から散々いたんだが?公文書の開示、破棄、そして文書主義の否定ってそれほど大きいことなんだが
だから民主主義というのは理念ではなく行動という話にしかならないんだよ
こんなのは民主主義でも何でもなくただの全体主義、翼賛体制の構築でしかないですよ
俺が反駁したいのは、「民主主義の価値を毀損している人が自民党」っていうお前の能天気な認識だよ、民主党になったらなったでこの潮流は続いていくってこと。
民主主義に意味を持たせる不断の努力っていうのは、自陣営を勝たせるための活動のことじゃない。
マスコミが一方の陣営に協力しないように扇動したりしないことだったり。
選挙民が両陣営の良いところと悪いところを完全に理解していることだったりだよ。
例えばお前は、俺が民主党の良いところのアピールを逃していると思うなら、それを逐一説明しないといけないわけ。
職場の先輩が今年いっぱいで退職することになった。すでに新しい職場が決まっていて、年始からそこで勤め始めるという。
良い先輩だった。うちの職場はどうしようもないところで、労働環境が劣悪というわけではまったくないんだけど、もう空気が遅滞して弛緩しきっていて、ベテランの多くは勤務時間中でもネットサーフィンか駄弁ることに余念がない。じゃあ若いやつはどうかというと、こちらも俺含めてみんな自堕落で、「いや、この状況ってどうなのよ?」って間違いなく感じながら、新しい案を出すこともなく、次の職場を探す勇気も能力も自身の中に感じられず、入職して日が経つ者から順番に、抱いている葛藤を徐々に気楽な方に傾けながら、「適当にこなして給料もらえるならその方がいいよな」というところに落ち着いていった。
先輩はその中で、ほぼ唯一の、気を吐いている人だった。空回ってしまう寸前のところでバランスを取りながら、保守的と言えば聞こえはいいが、単にものぐさが染みついただけの上司を上手く転がし、取り組んでいる事業について、ここで向こうの言い分を呑んだら二度といい潮目が来ない、というラインでは相手が誰だろうときっちり反駁し、戦っている人だった。俺は自分ではそうなれなかったが、尊敬していた。
その人が辞める。もちろん衝撃はあったが、遅すぎたくらいだな、とも思った。この人にとって、ここにいた期間は長すぎたくらいだ。
まったく関係ないが、地元でずっと愛顧してきた店が区画整理のために閉店することになった。別の場所で再開することもないという。コロナウィルスの影響もあるのかもしれない。接客業だから、なんの関係もないことはないだろうし、それであれば来年以降も明るい展望はないだろう。良いタイミングではあるのだが、その転機のわかりやすさ、抗いようのなさがなんだか悲しい。
俺はさびしくて仕方がない。先輩が一人、ひいきの店が一つなくなるだけなのに、体の密度が半分くらいになって風が好き放題通り抜けるみたいだ。
なんで俺を置いてどんどん変わっていってしまうんだろう。俺なんて、今そこにあるものを受け入れて、認めて、慣れていくのでいっぱいいっぱいなのに。周囲に漫然とあるものを恐々見ながらその良さを探すのが俺の限界値なのに、あっさり色んなものが変わってしまう。
あるいは、この感覚の正体は、ずっと停滞し続けている俺の自覚に対する、遠回しな自己批判なんだろうか、俺はこうやって、自分にもわかりにくいかたちで、のんべんだらりとやってる場合じゃないぞ、と喝を入れているのだろうか、とも思うが、やっぱり一番はさびしさだと思う。さびしくて仕方がない。俺の周りの何にも変わって欲しくないが、どうしようもない(人には人の都合がある)。
「理解」をどう考えているか、これについての私の根幹(基礎)はオートポイエーシスに準じている。
オートポイエーシスの詳しい説明は省くが、神経細胞が情報伝達を行う際、シナプスは行為を理解しない。ひとつの作業を行うのみであり、結果のための行為を連想しない。シナプスにとっては、「物質を伝達する」という行為が目的であり結果となり、それらが組み合わさって何が起こるかを理解しない。
つまり、最終的に現れるもの(たとえば人体の中で起こりうる結果反応など)はすべて、「行為の副産物」としてしか存在し得ないということ。これは非常に重要な事実である。
本来「理解」というものもそのように行われるべきである。一番重要なことは「わからない」ことである。わからない、を通過しない限り、「理解(と呼びたくなるようなもの、それに準ずる、付随する周辺のものもの)」を得ることはできない。
これについては同授業を受け持っていた河本英雄の「飽きる力」なんかを読めば少しわかると思う。
この文を書き始めた当初は、この前提を元に本文を整理していこうと最初は考えていたのだが、結局本文に「哲学は哲学をしている瞬間にしか浮上しない」とはっきり銘打たれていた。だからもはや、一文を取り上げて「ここの箇所は〜」などと言語化することは意味を持たない。それ(ここでは〈哲学〉とする)が"それ"たらしめるやり方でのみ、発見できることであるならば、そう(そのやり方で)やる他ないと思うので、それに倣おう。
あとあちこちに書くのも煩わしいので、一度に留めるが、わたしが書いている内容について読み違えや相当しない批判(等)があれば、気づいた場合指摘してほしい。(それこそがきっと哲学なのだろうし。)
はじめに(5p)、から問いの合間に(125p)までを読んで
本文にあるようなやり方の〈哲学〉については実感がある。実感はあるが、しかしそれは子どもの時からすでに最初から「青年の」〈哲学〉であったように思う。少なくとも、目の前に与えられた課題は年端のいかない子どもには大きすぎたし、それについて、しかし取り組む以外の選択肢を(子どもながらの純粋性ゆえに)持つことができなかった。だから最初から、なぜ〈他者〉がいるのか、という疑問は生じずに、〈他者〉と対峙するにはどうすべきか、をひたすら〈哲学〉し続ける時間が幼少期〜思春期であった。
だからなるほど、やはり「疑念」が問いを生むのであり、疑念を持たないものは問いに遭遇しない。よく感じる違和感は、「問いを持たない人間」と(「問いを持つもの」と)の世界の断絶である。世界には大きな断絶があるということを改めて実感したのだった。(断絶の是非はここでは問わない)
・〈ぼく〉という特別さの有無について
さて、書いたようにわたしは「なぜ〈ぼく〉が存在するのか」という疑念を持たなかったのでその問いに衝突していないし、そして付随する「〈ぼく〉という存在の特別さとはいかなるものか」という問いにも当たっていない。しかし読み進めていくと、「特別さ」を論じれば論じるほどそれは「一般性」に落とし込められていくという矛盾が現れ、結局「言語での言い換えを繰り返すよりほかない」という結論(?)に達している。とりあえず本文の結論についてはさておき、わたしの感想を書いておく。結果から述べると永井均の認識論的傾向(95p)とは真逆であり、非存在論的(本文に即して使う)立場にいると言わざるを得ない。
まず78pに自分が二人に分裂した際に、もう片方をどう「認識」するかという問題。少なくとも、それが「〈ぼく〉であるか、でないかは、ワカラナイ」というのがわたしの意見である。つまり、意識としての〈ぼく〉が2地点に存在して、それぞれの思考でそれぞれを〈ぼく〉としない、という前提にどうしても立つことができない。
「特別さの証明」からは少し離れるが、「攻殻機動隊」という作品はこの独我論的観点なしには見ることができない。登場人物たちは車を買い換えるようにボディ(身体)を換えることができ、脳(アニメ内では脳核と呼ぶ)に宿った意識(アニメ内ではゴースト)はそのままで、新しい肉体を得る。しかしそれは本当に連続性を伴った自己なのか?確認するすべはない。
まあ結局、「確認(認識)できるとしたら」という前提で論じている内容において、反駁することはない(できない)。なので、真逆の認識論にたった時に、どのようにしてその「特別さ」を得るかというのを考えてみるとこうである。他者を認識できている限り、その「特別さ」を論じることはできない。理由はなんでもいいのだが、例えば「論理は他者に向かって開かれている」ことは明白である。少なくとも、本書のように、本は他者が読むことを前提として書かれている。おそらく永井均としては「普遍化できない偶然性の問題」を「論理」立てることこそが〈哲学〉である、ということを言いたいのではないか、と思う。しかし、わたしの知る範囲ではそれは矛盾する。であればやはり(今の所は)前提を変えてみるしかないのである。
ないことの確認はできない。つまりそれを鑑賞する他者がいないことを確認できない位置に移動して、ようやく「特別さ」が浮上するのではないか。そしてそれはすなわち、99pで引用されているウィトゲンシュタインの一節に他ならない。結局は「理解されない」ということを目指さなければ、少なくとも「特別さ」を論じることにはならない、ということだろう。
(余談だが99p9lの永井の解説についてはまだ理解が追いついていない。いずれ何度か読み直してみよう)
ウィトゲンシュタインの本を読んだことはないが、ウィトゲンシュタインが友達をつくらず、本当に人里を離れてたった一人で暮らしていたという逸話を知っていて、勝手に親近感を寄せているのであるが、それはともかく彼の主題(命題)に「言語」があったというのは興味深い。
わたしは〈哲学〉についての興味をある時点である程度(完全にではないが)喪失した。それはそもそも、わたしが最初に向き合った命題が「他者」であり、自己ではなかったことなんかも関係していると思う。そして、「他者」を自分なりに〈哲学〉して18年くらいたったころに、自分なりの「納得」(102p)に到達してしまった。本来、〈哲学〉のみならず、人生だとか生きるだとかいうことは「満足」を永遠に避けることだと考えている。「得て」しまったらそこはゴールなのだ。ゴールっていうのは何にもない場所だ。しかし、「他者」に限っては、(とにかくわたしがそれを生きる上で最も苦手としているがゆえになおさら)結論を得てしまった。そしてわたしは〈哲学〉する目的(あるいは理由)を喪失したのだ。
しかし言語に関する関心が残った(に関する関心は重言だろうか)。本文でも「読み換えが無限になされる場所(98p)」について書かれているが、この点に関してわたしは非常に興味がある。物事の表現が、「言語分野」に大きく偏っている人間社会(面白いことに動物社会とは全く異なるらしい)において、その役割は異常なほどである。言語をどのように理解し、駆使するか(論理的思考など)、これを〈哲学〉とどう関連づけるか、というのも面白い命題である。例えば思考についていうと言語以外の役割が大きい。つまり「頭の中で考えたことを文章にする」というのは、その時点で「考えたこと」から抽出が起きているのである。おそらく永井のいう〈哲学〉は「考えたことまで全部」を含むはずであるから、抽出された、アウトプットされた結果のみを受け入れる(ざるを得ない)という現状には実は即していなかったりするのではないか。わたしは今の本業は言語(ちょっとだけ"学")なのであるが、こういった観点を与えられるのは、やはり読書(時には他者を自分の内側に入れてみること)もいいなあと思った。
なんにしても、とにかく、「無駄」が必要である(115~116p)という、それこそが本質であるという点にはその通りなのでその通りとしか言いようがないし、やはりそうであった、という安心を再び得る。結局資本主義的な世界にいると、いつ何時も、寝ても覚めても視界に入ったものから、耳に入ったものから、全てにおいてから常に四六時中見張られ、「資本主義的な価値観に即して生きているか」を刷り込みをされ続ける(そしてこれはきっと死ぬまで終わらない)。おそらく、これは想像でしかないが、哲学をやろうとアカデミーのなかに駆け込んで、その中で安息を得たとしても、その「刷り込み」から逃れることはできないのではないか。(数学者の望月先生のように「数学を生きる」ことができるレベルまで達せられていればもしかしたら、刷り込みから逃れられているのかもしれないが、これもまた憶測の域を出ない)
〈ぼく〉という特別さの有無を求めるより圧倒的に明快で単純で本質的なこと(無駄を生きるということは)なのに、たまたま、悲しいことに、全くもって信じられないほどの不運な状況であるがゆえに、それが通用しない(しづらい)世界にいるのだ。それを嘆くことは10年くらいやって飽きたが、時折(残念なことに恒常的な機会を得ていない)こうして「本質」に触れることで「正気」を取り戻すというのは大事な作業である。
さて本文の(前半部分の)感想は異常であるが、2点反駁したい箇所があるのでそれも書いておく。
1箇所目(17p,9l)
あっさりと「哲学し続ける内的必然性をなくした」などと書いてあるから吃驚仰天である。内的必然性と引き換えに得ることができるものほど「瑣末な」ものはない。これでは魂を売ったのと同義ではないか。何度か他の場所でも書いているが、「価値観を他者に阿るのは心臓を他者に預けているのと同じことだ」とわたしは思う。他者は自己の存在理由にはなり得ない。少し引用を用いるが「心の哲学まとめWiki」より、一文。「〈私〉とは世界を開闢する場であり、そこから世界が開けている唯一の原点である」と考える(『〈魂〉に対する態度』p.123,p.187) 。
その原点である自己をなぜ切り売りできるのだろう?「欠陥を売り物にする方法で得た救い」なんていうチンケなものはさっさと捨てるべきである。世界とつながる唯一の原点=〈私〉をもっと大事にしなさい。
2箇所目(111p,11l)
この人は政治と政治的議論をなんだと考えているのだろう。そもそも、少なくとも望むと望まざると関わらずに(生まれた時からすでに資本主義社会に生きているように)、法治国家に生まれてしまったのだから、その国家の参画者である限り「政治を避けて」は生きれない。自ら国籍を捨て(例えばスノーデンのような)、亡命を図るなどの意図画策があれば別であるが、生きていれば必ず住民税がかかり、ものを買えば必ず消費税を払っているのと同様に、政治をせずに生きることはできない。酸素をなくして呼吸ができないのと同義だ。なのにこの人はまるで自分が政治、または政治的議論をしたことがないかのように宣う。しかし指摘したいのはそのアティテュードではなく、政治的議論の方法についてである。
「自分と同じ主張を別の論拠から擁護してくれる人は、最もたのもしい協力者だろう」とは一体、どうしたらこんな思想にたどり着けるのだろうか。圧倒的に間違っている。(これだから日本の左派は無様なんだ)
はっきり言っておくが、政治的議論はその主張の是非ではなく、その論拠にある。だから全く異なる人間(政治家)を支持していても、その論拠次第によっては戦友となりうるし、同様に全く同じ政治家を支持していても論拠によっては一線を画する必要があるのだ。当たり前の話である。タイムリーに話題にしたことだが、「マスクをつけないということは、マスクをつけたくないという人間を擁護する態度を含意しない」。これは明白で、結果(マスクをつけない)が同じだからと言って論拠が異なる場合、それは全くもって「たのもしい協力者」なんかではあり得ない。
5000字も書いてしまった。後半は気が向いたらかく。
生まれつき五メートルくらい距離感が狂うメガネ(比喩)を掛けて生まれてきたとしたら、そしてそのメガネが仮に誰の目にも見えないとしたら、そのメガネの存在に気付くのはいつになるのだろう。見えないメガネってことだから、その存在には中々誰も気付けない。自分自身さえも。
でも多分生きてると何となく自分の見方と他人の見方がちょっとちがくね? っていうことに気付き始めるもんで、「あれ? 私の距離感五メートルくらいズレてね?」ということに最終的にはなる気がする。勿論全ての人が正確に物事を認知できるわけじゃないから、本当は五メートルズレてるのに「あれ? 私の距離感三メートルくらいズレてね?」とか、「二メートルくらい(ry」みたいに、その「ズレ」に対する目算というものも人それぞれちょっとズレてたりするわけなんだけど、ともかく、恐らく長いこと生きてたら大なり小なり自分の距離感がズレてるっていうことには気が付き始めると思う。
いや勿論現実にそういうメガネはないし、そもそも「五メートルのズレ」って何を基準にして五メートルよ? みたいな意見が存在しているのも分かる。
でも、本当に俺たちが警戒しなければならないのは俺たちは皆多かれ少なかれ実際にそういうズレたメガネを掛けて生まれてくるということで、何ならそのメガネは場合によっちゃ百メートルくらい狂ってるってことなんです。そして、俺達はそういうメガネのズレについてずっと、人生を通じて考え続けなきゃいけない。
「いやいや! そんな眼鏡ないし! っつーか五メートルだか百メートルだかって何を基準に決めてんの! 人それぞれの距離感はあるよ」とか言ってる人間を片っ端からゴミ箱に入れて封印していきたい。いや、勿論さっきみたいな「いやいや!」ってな発言にも一理や二理以上に真っ当な部分はあるんだろうし、少なくとも、「『ズレ』っていう観念は何らかの『正しい基準』の存在を基に初めて成り立つものであり、そういう基準の実在性の根拠なしに『ズレ』を主張するのはそれこそ『ズレ』てる」、ってな感じでその意見に論理的正当性があるのも十全に理解できるんだけどね。そこに確かにズレはない。
でもね、そんな風に「いやいや!」って大手を振って発言できるあなたと私はズレてるよね。ってなことを思うわけです。あなたのズレと私のズレはあるよね、と。お前のズレと私のズレはそれぞれの文脈でしか語ることのできない深淵ですよね、と。どんだけ人が他人からズレてて、そしてどんだけ自分が奇妙なメガネを掛けて生まれてきたかってことを、本当にきちんと測定する基準というものは基本的に存在していないし、存在していないものを一々考えて勝手に悩む人間に対して、わざわざ「気にする必要ないって!」と声を掛けてくれるだけその人は善良なのかもしれない。あるいは、そもそもその人だって同じようなズレを許容しようとしているか、そうでなくてもどうにかズレと付き合っていこうと一生懸命努力しているのかもしれない。でもね、お前の言ってることはおかしいんだよ。基準は本当には存在していないかもしれない。どこにも「ズレ」と言える概念なんて実在していないかもしれない。でもね、「なんかズレてんな」って気持ちは確実に存在しているんだね。いや、その気持さえ実はズレてんのかもしれないけれど、まるでデカルトの自己反駁みたいに、「『ズレ』てると感じていること事態が、そもそも『ズレ』てる。」のだとすれば、いずれにせよそこにはズレってものが存在しているんだね。存在しないズレを存在しない部分に見出している時点でズレてんだそれは。その存在しないズレみたいな一種の宗教的かつ狂信的な観念を中心にしか人は物事を考えることはできないし今なお人はズレ続けていく。
言いたいことがズレました。僕が言いたいことはね、
皆多かれ少なかれズレのあるメガネを掛けて生きてるってことです
皆さんズレについて日々考えながら生きてますか。
自分がどれくらいズレてるか、そして仮にズレてたら、どうそれを修正すればいいのかについて考えていますか。五メートル離れてるな、と思ったらむしろ五メートル歩み寄らなきゃいけないということ。五メートル近いな、と思ったら、五メートル離れなければならないということ。あるいはその逆に、五メートル離れてるな、と思ったらむしろ五メートル離れなけれなきゃいけないということ。五メートル近いな、と思ったら、五メートル近寄らなければならないということ。ゴミ箱に入れるぞ貴様ら。
話を追う気がないなら止めろよ。追う気があるのにそれなら傲岸。
こっちでもう一度以下のように確認すらされてる。
「関わってるのは事実」が反駁じゃないことをあれだけ丁寧に説明したのにまだ分からないのだから困る。
俺のレスで君の「事実認定」(日本学術会議が気象衛星に関わっている)を否定した部分はないだろ。
あれば引用して指摘すればいい。
「あなたの強固なんか知らん」なんて因果関係の話を属人的にしている時点で頭が痛い。
「おかげ」の話なんだから因果関係のあるなし強弱以外に考えることはない。
矢印の質を考えるのは価値判断が伴うから量的に考えて前レスで挙げた形式を出した。
挙げたものに不備や不満があるなら指摘するなり自分の判断基準を出すなりすればいい。
今飛んでる気象衛星が現行機じゃないとか「今」の定義から始めさせたいのか?
に対しては1つ前の投稿の
君は「日本学術会議が要望した共同研究所の後進であるNASDAが受けたGARPの一つである気象衛星が8代世代交代した現行機が存在稼働するのは日本学術会議のおかげである」と言っている~~桶屋が儲かるよりかはマシというだけの論理
で既に返しただろ。
そもそも1万歩譲って現行機でなく50年くらい前からの気象衛星の運用利用計画自体が話の焦点だったとしても
「日本学術会議が要望した共同研究所の後進であるNASDAが受けたGARPの一つである気象衛星の””運用が現在まで””存在稼働するのは日本学術会議のおかげである」
「おかげ」に俺はNOと言ってるわけだから因果関係がないまたは希薄だと指摘していると考えるべき。
そして桶屋が~の話から分かる通り俺は因果関係が希薄だと指摘している。だから君は反駁で「因果関係が強固だ」と主張すればいいだけ。
因果関係が強固である証拠としては、直接的な因果関係が認められること(間接×5の原因より間接×2の原因の方がより直接的で強固)複数の接点をもつこと(当然これもより多い接点をもてばより強固)のどちらかまたは両方。
野党とその支持者達は日本学術会議の件で憲法違反ガーと騒いでるけど、過去に事例もあったし何で今頃騒ぐのか?という真っ当な反駁に誰も答えられていない。
国勢調査に対して黒塗りの回答を出すと言い出してる野党議員とその支持者は、統計を元に様々な政策を企画立案実行していく立場の官僚や公務員達の邪魔にしかならない。
端から見たら、野党とその支持者達は、日本人を困らせるクレーマーにしか見えない。ホリエモンに乗せられて餃子店を休業に追い込んだ連中と同類だ。
クレーマーでないというのなら根拠を出して反論してくれ。一応釘を刺すが、「誤りを正す」系の話は根拠にならないからな。クレーマーによくある言い分がこれだからだ。
ドスケベメロスは激おこぷんぷん怒り勃起した。遺憾の意射精もじゃんじゃんばゅりばゅりした。5㍑くらい射精(で)た。必ず、かの邪智にして暴虐、淫乱で猥褻、卑猥でしかも淫靡、妖艶なだけでなく耽美、そして最もえちえちな王、人呼んで・・・邪智暴虐淫乱猥褻卑猥淫靡妖艶耽美最えちえち王をスケベ除かなければならぬと決意の自慰もした。ドスケベメロスにはえろえろ政治がむちむちにわからぬ。ドスケベメロスは、スケベ村のスケベ牧人である。笛ラチオをスケベ吹き、感度3000倍の媚薬が溶け込んだ乳を出す淫乱羊、その名も感度3000倍媚薬乳淫乱羊と交尾したりされたりしてえっちに遊んで卑猥に暮して来た。けれどもむらむら邪悪メに対しては、人一倍に超エロ敏感であった。無垢な少年のむくむく棒のまだ暖かな春の日差しを知らないむくむく中身よりも敏感であった。悪エロスを見ると一秒の間に4545194回怒りアクメするレベルの敏感さですらあった。淫靡極まり無いきょうのエロスとカオスとリビドー渦巻く未明ドスケベメロスはスケベ村を出発し、エロ野を越えエロ山越え、十里はなれた此のドエロシラセックスのセックス市にやって来てとりあえず挨拶がわりとしてそこら辺で雑に射精した。ドスケベメロスには絶倫父も、淫乱母も無い。エロ女房も無い。バイオ性玩具も無い。十六の、内気な美っ痴妹と二人暮しだ。この美っ痴妹は、スケベ村の或る律気な一スケベ絶倫牧人を、近々、えちえち絶倫花婿として迎える事になっていた。猥褻結婚式も間近かなのである。ドスケベメロスは、それゆえ、美っ痴花嫁の猥褻ドスケベ即ハメ不健全エッロエロ衣裳やら祝宴の媚薬激盛御馳走やら脳の機能が生殖器に支配されたバイオ性玩具やら発情きび団子やらを買いに、はるばるセックス市にやって来たのだ。先ず、その品々を買い集め、それからセックス都のドエロ大路をぶらぶら歩いた。ドスケベメロスには竹馬の穴友があった。セックスリヌンティウスである。今は此のドエロシラセックスのセックス市で、いかがわしいエロ石クス工をしている。その穴友を、これからエロ訪ねてみるつもりなのだ。久しくエロ逢わなかったのだから、エロ訪ねて行くのが卑猥(たの)しみである。そこら辺の棒とか穴とかをセックスに誘うようなセクシーさでスケベに歩いているうちにドスケベメロスは、エロまちの様子を卑猥(あや)しく思った。老人同士の事後かというほどひっそりしている。もう既にセクシー日(サン)も落ちて、エロまちのスケベ暗いのは当りまえだが、けれども、なんだか、淫ら夜(ナイト)のせいばかりでは無く、セックス市全体が、やけに寂しい。猥褻(のんき)なドスケベメロスも、だんだんエロ不安になって来た。セックス路で逢った若いスケベ衆をつかまえて、とりあえず雑に笛ラチオをして、何かあったのか、二年まえに此のセックス市に来たときは、淫ら夜(ナイト)でも皆があまりにも卑猥過ぎてIQがぴーぼぼぼぼになるようないやらしいクソスケベな歌をうたって、エロまちは卑猥(にぎ)やかであった筈だが、とエロ質問した。若いスケベ衆は、首を振って答えなかった。しかしドスケベメロスのドスケベな穴にドスケベな棒をぶち込んで腰を雑に振った。しばらく歩いてセクシー老爺(イケシルバー)に逢い、こんどはもっと、スケベ語勢をエロ強くしてえちえち質問した。セクシー老爺は答えなかった。メロスは両手でセクシー老爺のからだをゆすぶって素股をしながらえちえち質問をむちむち重ねた。セクシー老爺は、あたりをはばかるセクシーと言うにはあまりにも卑猥な低声で、わずか答えた。
「なぜアクメ殺すのだ。」
「悪スケベ心を抱いている、というのですが、誰もそんな、悪スケベ心を持っては居りませぬ。」
「たくさんのスケベ人をアクメ殺したのか。」
「はい、はじめは王様の妹婿さまを。それから、御自身のお世嗣を。それから、妹さまを。それから、妹さまの御子さまを。それから、皇后さまを。それから、賢臣のアクメレキドスケベス様を。あとスケベ遠いドシコリブルグから迷い込んだセックスエイリアンを。」
「いいえ、えちえち乱心ではございませぬ。スケベ人を、信ずる事が出来ぬ、というのです。このごろは、臣下のスケベ心をも、お疑いになり、少しく卑猥で派手な暮しをしている者には、スケベ人質ひとりずつ差し出すことを命じて居ります。御アク命令を拒めばエロ十字架にかけられて、アクメ殺されます。きょうは、六人アクメ殺されました。」
聞いて、ドスケベメロスは激おこぷんぷん怒り勃起した。そうして冒頭にあった通り、遺憾の意射精と決意の自慰をした後で、物欲しそうなセクシー老爺の開きっぱなしのアナルを使って覚悟の自慰もした。「呆れたえちえち王だ。アクメ生かしてスケベ置けぬ。」
ドスケベメロスは、バイオ性玩具より単純な助平男であった。アダルティックな買い物を、セクシーに背負ったままで、のそのそドエロ王城にはいって行った。たちまち彼は、えっち巡邏のドス警べ吏にえっちに捕縛された。エロ調べられて、ドスケベメロスの猥褻な懐中からはどう見てもえっちな事にしか使えない短剣(バイブ)が出て来たので、エロ騒ぎがエロ大きくなってしまった。ドスケベメロスは、えちえち王の前に引き出された。
「この短刀(バイブ)で何をするつもりであったか。言え!」えちえち暴君ディオニセックスはエロ静かに、けれども威厳を以てムッキムキの従者二人の穴と棒を自らの棒と穴で激犯しながらエロ問いつめた。そのえちえち王のセクシー顔はセクシー蒼白で、セクシー眉間のセクシー皺は、セックスが刻み込まれたようにエロ深く、枯れ専の雌穴の卵巣IQが一瞬で虚無虚無ぷりんになるレベルでエロかった。
「セックス市を淫乱えちえち暴君のガシガシ手マンから救うのだ。」とドスケベメロスは悪びれずに答えた。
「おまえがか?」えちえち王は、えろえろ憫笑(びんしょう)した。「仕方の無いやつじゃ。おまえには、わしのスケベ孤独がわからぬ。」
「言うな!」とドスケベメロスは、セックスの途中で穴から抜かれた時のチンポみたいにいきり立って反駁(はんばく)した。「スケベ人のスケベ心を疑うのは、最も恥ずべき破廉恥悪徳だ。えちえち王は、えろえろ民のむらむら忠誠をさえ疑って居られる。」
「疑うのが、正当のスケベ心構えなのだと、わしにスケベ教えてくれたのは、おまえたちだ。スケベ人のスケベ心は、あてにならない。スケベ人間は、もともと私慾情慾性慾肉慾淫慾色慾のかたまりさ。アクメ信じては、ならぬ。」えちえち暴君は落着いて呟き、ほっと溜息をついて、20㍑射精した。「わしだって、助平和をむらむら望んでいるのだが。」
「なんの為の助平和だ。自分のスケベ地位を守る為か。」こんどはドスケベメロスが嘲笑アクメした。「罪の無いスケベ人をアクメ殺して、何が助平和だ。」
「だまれ、下賤の助平者。」えちえち王は、さっとアクメしそうな顔を挙げてエロ報いた。「上の口では、どんな卑猥(きよ)らかな卑猥(きれい)事でも言える。わしには、スケベ人のだらしない腹綿のはしたない奥底が視姦(み)え透いてならぬ。おまえだって、いまに、えちえち磔になってから、アクメ泣いて詫びアクメしたって聞かぬぞ。」
「ああ、えちえち王は卑猥(りこう)だ。自惚れえっちしているがよい。私は、ちゃんとアクメ死ぬる覚悟で居るのに。命(アクメ)乞いなど決してしない。ただ、――」と言いかけて、ドスケベメロスは足もとに視線を落し射精して瞬時ためらい、「ただ、私にスケベ情をかけたいつもりなら、アクメ処刑までに三セックス日間のセックス日限を与えて下さい。たった一人の美っ痴妹に、絶倫えろえろ亭主を持たせてやりたいのです。三セックス日のうちに、私はスケベ村で猥褻結婚式を挙げさせ、必ず、ここへエロ帰ってアクメ来て素直にデスアクメします。」
「ばかな。」とえちえち暴君は、卑猥(しわが)れたセクシー声で低く笑った。あまりのセクシーさに何人かの衛兵がデスアクメし、中には耳からバイオ性玩具をアクメ出産した者もいた。「とんでもない嘘アクメを言うわい。逃がした淫乱小鳥がエロ帰ってアクメ来るというのか。なんか来ちゃうのか。白いおしっこが出てしまうのか。」
「そうです。エロ帰ってアクメ来るのです。なんか来ちゃうのです。白いおしっこが出てしまうのです。」ドスケベメロスは必死で言い張った。「私はエロ約束をエロ守ります。私を、三セックス日間だけ許しアクメして下さい。美っ痴妹が、私のエロ帰りを待ってオナニーしているのだ。そんなに私をエロ信じられないならば、よろしい、この市にセックスリヌンティウスというエロ石クス工がいます。私の無二の穴友人だ。あれを、スケベ人質としてここにエロ置いて行こう。私がアクメ逃げてしまって、三セックス日目の淫靡極まり無い日暮まで、ここにエロ帰ってアクメ来なかったら、あの友人をエロ絞めアクメ殺して下さい。たのむ、そうして下さい。」
それを聞いて王は、卑猥(ざんぎゃく)な気持で、そっと北叟笑(ほくそえ)んだ。生意気なエロことを言うわい。どうせエロ帰ってアクメ来ないにきまっている。このドエロ嘘つきにエロ騙された振りして、放してやるのも面白い。そうして身代りのスケベ男を、三セックス日目に殺してやるのもエロ気味がいい。スケベ人は、これだからエロ信じられぬと、わしは悲しいアクメ顔して、そのスケベ身代りの男をえちえち磔刑にえろえろ処してやるのだ。スケベ世の中の、エロ正直者とかいう淫乱奴輩(いんらんやつばら)にうんと視姦(み)せつけてやりたいものさ。
「エロ願いを、聞いた。そのスケベ身代りを呼ぶがよい。三セックス日目にはセックス日没までにエロ帰ってアクメ来い。おくれたら、そのスケベ身代りを、きっとアクメ殺すぞ。ちょっとおくれてアクメ来るがいい。おまえのスケベ罪は、永遠にアクメゆるしてやろうぞ。」
「なに、何をおっしゃる。おほぉ♡」
「はは。スケベいのちが大事だったら、おくれて来い。おまえのスケベ心は、わかっているぞ。」
ドスケベメロスは口惜しく、アクメ地団駄踏んだ。ものも言いたくなくなった。でも射精はきっちり10㍑した。
竹馬の穴友、セックスリヌンティウスは、深夜、スケベ王城にアク召された。えちえち暴君ディオ二セックスのスケベ面前で、佳き穴友と佳き穴友は、二年ぶりで相逢うて、互いのチンポを狂ったようにしゃぶりあった。ドスケベメロスは、穴友に一切のエロ事情を語った。セックスリヌンティウスは無言で首肯き、ドスケベメロスをひしと抱きしめてお互いのペニスをお互いのアナルに入れて二、三回交尾した。穴友と穴友の間は、それでよかった。セックスリヌンティウスは、縄打たれアクメした。ドスケベメロスは、出発前に、縛られたセックスリヌンティウスのペニスに自らのペニスの先っちょをくっつけてしばし別れのキスをした。穴友ペニス同士のえっちであまあまなおちんちんディープキスがいつまで経ってもおわらないので、えちえち暴君はドスケベメロスとセックスリヌンティウスに発情した雌犬も一秒と経たずにドン引きするレベルで発情しまくっているドシコリブルグ産の腋とまんこが毛むくじゃらで流石の体毛フェチも「こんなんジャングルとセックスしてるようなもんじゃねぇか。」と喜怒哀楽が混沌に混じり切って困惑アクメしまうような局部ボーボー発情奴隷と三セックス日間セックスするように命じた。ドスケベメロスは発情奴隷とセックスしながらすぐ出発した。猥褻な初夏、満天のスケベ星である。発情奴隷の全身から溢れ出るスーパー強制発情フル勃起フェロモンがドスケベメロスのドスケベメロスをバッキバキにフル勃起させていた。
世界五分後仮説とは、「世界は実は5分後に始まるのかもしれない」という仮説である。
たとえば5分以上後の記憶がある事は何の反証にもならない。なぜなら偽の記憶を植えつけられた状態で、5分後に世界が始まるのかもしれないからだ。
世界が五分後にそっくりそのままの形で、すべての非実在の過去を住民が「覚えていた」状態で突然出現した、という仮説に論理的不可能性はまったくない。異なる時間に生じた出来事間には、いかなる論理的必然的な結びつきもない。それゆえ、いま起こりつつあることや未来に起こるであろうことが、世界は五分後に始まったという仮説を反駁することはまったくできない。したがって、過去の知識と呼ばれている出来事は過去とは論理的に独立である。そうした知識は、たとえ過去が存在しなかったとしても、理論的にはいまこうであるのと同じであるような現在の内容へと完全に分析可能なのである。