はてなキーワード: 創作物とは
ここで言う二次創作とは著作権を持っている第三者がいるような原作もののことであり
正式に許諾・監修(不要ならなくて良い)・ロイヤリティの支払い(不要ならなくて良い)をしているものは除く
お前らファン活動の一環としてコミケとかで二次創作物を配ってるよな?それはいい
ファン活動とか大義名分を言ってるけどお前らが作品を衰退させてるってわかってやってるか?
言い過ぎか
衰退させる一端を担ってるに訂正しておく
といっても個人ではなく企業に所属してやってただけなんだけどな
そこに就職してすぐのうちは情熱に燃えてキャラクタに入れ込んで
入れ込んで入れ込んで入れ込んで
我が子のようなって比喩があるけどさ
それが二次創作物で汚された
何も問題ない
そういうファンがいることは知ってる
でもな
我が子を汚して金とってんじゃねぇよ
その当時の俺の心境といえば
拉致監禁の上ドラッグ漬けにされそいつらの思い通りに動かされている我が子を
観てることしかできない親の心境?
まぁ、そいつらを訴えたところでたかが知れてるどころか赤字出し
ましてや会社にしかその権利がないからクリエイタとしては泣き寝入りするしかないわな
同人誌作りましたーって送られてきたものが原作レイプだったりさ
新作を出すときに自分の本と設定が違うので設定を変えてくださいって苦情の電話かけてきたりさ
本当にこういうのあるんだぜ?信じられるか?
もちろん真っ当な本当に原作が好きなんだなっていう二次創作がないとは言わない
だけどよ、設定が勝手に足されていたりさ、喋らないはずの言葉を喋っていたりさ、
R18のやつなんか文字通り汚されていたりしてさ、
って答えの出ない自問自答してたりしてな
許諾・監修・ロイヤリティの有無を一覧にしてやろうって何度考えたことか
認めないのオンパレードでお前らが活動できなくなるだろざまあみろってな
まぁそんなことをやったらスーパーハッカー()に住所バラされて
それが何度も何度も何度も何度も何度も繰り返されてさ
思い入れさえしなければ汚されても何の感慨もないしな
俺はクリエイタではなくなった
この件だけが原因じゃないけどな
魅力的な設定を作れないからって
どうせお前ら手頃なキャラがたまたまそこにいたから使っただけなんだろ?
どうせお前ら有名な作品だから売れるといって使っただけなんだろ?
どうせお前ら有り物を使わないと何も作れないんだけなんだろ?
どうせお前ら俺みたいなクリエイタの情熱を金に変えているだけって自覚はないんだろ?
本当に作品がキャラクタが好きなら無償でファンアート描いてろよ
汚されようが何しようがそれはお前の権利だよ
だがな、お前らに何の権利があって金取ってんだよ
なんでわざわざ金とってやってんだよ
訴えてこない以上黙認してるんだ
って主張するやつは何を履き違えてんだ?
黙認なんてしてねぇよふざけんな
我が子をレイプされて怒らないわけないだろ
その原作を作り出した人なり会社なりに還元したいと思わないのか?
魅力的な作品の続きを創ってほしいと思わないのか?
次の魅力的な作品を生み出してほしいと思わないのか?
ちゃんと許諾を取って、監修してもらって、ロイヤリティも納めて、
でもそれは仕組みがないからで
ファン活動をしたいって思いがあるんなら全部やってくれるような何かを作ってくれよ
俺はお前らの金を生み出すために我が子を創り上げたんじゃないからさ
ちゃんと監修させてくれよ
ちゃんとロイヤリティが入るなら監修だってさせてくれるはずなんだよ
それができてない以上、二次創作やってるやつらは全員死んじまえ
お前らに従えよって言う権利がないのはわかってる
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追記
1円も金取るんじゃねぇって言ってんだよ
そういう価値観があっても良いと思う。
エロ漫画は愛し合った人同士のエッチばかりになって微笑ましいし、
では何故男性向けコンテンツには女性を性の道具として扱うようなモラルの無い物が多いのでしょうね。
女性向けの類の物も無いことはないでしょうが、圧倒的に男性向けの方が数が多いですよね?
男性の多くは女性を悪辣に扱うコンテンツのせいで傷ついている人が居るとは考えないのでしょうか。
また居たとしても何の問題も無いと感じるのでしょうか。
私は殺人描写に関してもある程度の規制が必要だと考えています。
特に弱い立場の人々が無下に殺されるような描写は、戦争が如何に悪であるかを描く等の理由がない限り許されるべきではないかと。
それを観た人はどう感じると思いますか?
例えば女性や子供が、男性の快楽目的で強姦される描写を目の当たりにした時、確実にある程度の人は心に傷を負うでしょう。
感覚が麻痺してなんとも思わないという人が居ようと、そういった描写のせいで傷つけられる人々が居るなら規制を行うべきです。
その線引は現実に違法である行為か否かで行うのが最も無難であると思われます。
コンテンツを楽しんでいた側の人権はどうなるのか、と思われるかもしれませんが、
喫煙行為が周囲の人に害を与える為に喫煙所が縮小されているように、悪辣な表現も傷つく人がいる限り縮小されるべきです。
あなたも汚れた楽しみを得ながら
少なくとも私は悪辣なポルノや犯罪の表現に楽しみは感じませんし怒りを覚えます。
ゾーニングされても何の間違いで触れるかわからないのですから、現実に犯罪行為で有るか否かを線引に規制を行い、コンテンツを健全にするべきです。
自分以外が欠落していると考えるのは重大な邪見です。
私も自分が完璧だとは欠片も思いませんよ。ですがより良くしようとする努力は必要ですよね?
自分の創作物のタイトルに ~ in the dark を付けるのは半分敗北だが通らなければならぬ宿命。
自分の創作物のタイトルに ~ 世界 を付けるのは1/3敗北で1/3の純情な感情に支配されているが、
この先生き残るのは難しい。
ユーリ面白くて数時間後に迫った最終回が楽しみすぎるので思ってること書くよ!
私は好きなものや気になったものについて、よく検索かけて他の人がどう言ってるのかを見たりする。勝手に同意したり反論したりして楽しむ。まあこの習慣のせいで最近はしんどい思いをすることも多くなってきたのでやめたほうがいいのかなとも思うんだけど。
ユーリでももにょ案件は結構あった。ユーリにかこつけて実在のスケーターの画像をBL的に消費して楽しむファンとか、最初は面白かったのにホモで気持ち悪いとかトレパクとか。
実在人物のそういうアレで大騒ぎするのは小学生が「AくんとBちゃんが付き合ってまーす!」って騒いでるみたいで品がないなあと思う。ああやって騒ぐタイプの人とは仲良くできないな。それこそいわゆる生物案件なんだから腐女子が得意な検索避けで楽しむべきなんじゃないの..あとユーリに限らずクソコラやめてほしいな〜〜〜〜楽しいのはわかるけど失礼じゃないかな...
ホモで気持ち悪い、あるいはホモじゃないから尊い、みたいなゲイフォビア発言が大手を振ってまかり通る日本はまだまだ遅れていて悲しいなあ。わかる、わかるよ、私も昔はどっちかってとBLに対し否定的だった。例の水泳アニメを見てうわあ...って思ったりもした。
でも、今から思うと多分「普通じゃないこと」に対しびっくりしちゃっただけだったんだよね。「これまで自分の中で培われてきた常識から外れている」「衝撃的」な絵面に対する拒絶反応。最近は考え方が変わって、どういう性別だろうと親愛の情を抱くことは当たり前のことだと思うようになったからユーリもなんの違和感なく見ている。キスしたからって恋愛とは限らないし逆も然りじゃない?いろんな解釈があっていいと思う。全部当たり前で普通だよ。
ここからは個人的な見解だけど勇利とヴィクトルの関係は師弟愛から始まってはいるけどいろんな愛情が混ざり合って結婚して当然だしセックスしててもおかしくないかなってくらいには発展してるとおもう...ただGPF終わったら離婚しそう(ごめん)っていうか、なんか一種の青春みたいだよねっていうか、最後のGPFという刹那っていうか、まあこの辺は日本語得意な人に任せた!
そしてトレパクはまあ専門外なので論ぜぬ。黒だったら残念って感じ。「検証画像がフォトショ」みたいな反応も見かけたし個人的には白を信じたいけどな〜〜〜〜。
あとまたこれは別の問題だけど、「ホモで気持ち悪いという感想をおおっぴらに言えないために鬱憤の溜まった人たちで構成された集団が好機とばかりに卵アイコンで叩いている」という印象が拭えないので、なんかもう、地獄だな、と。大勢が好きだ、面白いと肯定するもののよさが自分だけちっともわからないみたいときのマジョリティに対する腹立たしさ、圧迫感みたいな気持ちめちゃくちゃよくわかるんだよ...それで鬱憤溜まるのも叩きたくなるのもわかるんだよ...地獄...
私とある漫画のとあるマイナーキャラが大好きだったんだけど、その子が理不尽に殺されて、でも殺した方のキャラが人気で、私は許せないのに殺した方のキャラを擁護する声の方が大きくて、あまつさえ「彼こそ主人公」みたいなコメントがたくさんあって、重要キャラだから公式でもどんどん優遇されて、一方私の好きな彼はグッズやサブコンテンツでもハブられ続けて...そんな風潮を見て悔しくて悲しくて腹が立って、眠れない夜とかあったくらいなんですよ...だから気持ちはよーーーーーーーくわかる。しんどいよね。そのうちエネルギーが怒りに向かうんだ。 違う話だって?そう思うならごめん。でも私は一緒だと思う。
あとはあれだ、「本格的じゃなかった」みたいな批判。まあそれはわかる。スポ根を期待して見たらスポーツを題材にした少女漫画だったのでがっかりした、という人がいてもおかしくはないかな。私は少女漫画も好きなのでこれはこれで、といった風に楽しんでるけれど。あと演技中の心理描写は本格的を謳うのにふさわしく緻密だと思うよ!きっと修行パートが足りないんだな。ユーリに12話は短いよ!!!!!
個人的な見解もういっちょ。ユーリを作品としてLGBT問題とくくりつけるのは賛同にせよ批判にせよお門違いだと思うよ!!!!!そんなにウェイト大きくないよ!!!理想の世界ではあるけど!!!まあユーリみたいな雰囲気の創作物が増えたらいいなあとは思うかな。
さて、こういう話はもういいかな!ここからはJJの話させて!私はJJが大好きです!!!
あーJJ!!!!!!!大好き!!!!!!!初登場回の初演技で、あのずっとこちらと目が合ったままの謎スピンで一目惚れしました。アニメに限らず、スケートにも限らず、私ああいう根っからのエンターテイナーな選手が大好きなんです!!!!
パフォーマーには二種類いると思ってる。一つは己の内面を見つめ己を表現するアーティスト型。もう一つはお客さんを感動させることを目的とするエンターテイナー型。両者の違いは端的に言えば内向的か外向的かってところなんだろうと思う。ユウリカツキなんかは典型的な前者だよね。そして私の解釈ではJJことジャン・ジャック・ルロワは絶対後者。スケートどころか、氷上に限らず彼の生き方そのものがエンターテイナー。あー好き!!!!!!!!
JJの彼女も大好き。イザベラちゃんっていうらしいね。JJってたくさんのJJガールズに愛想振りまいて、EDでは左右に女侍らせてたりもして、それでもイザベラちゃんは全く意に介してないどころかJJガールズの存在を自慢にまでしていている。多分左右に女侍らすJJを見ても「さすが私のJJね!」って肯定してくれそうだし、イザベラちゃんはジャンジャックルロワの「JJ」という理想、生き方をまるごと肯定してくれる女性なんだなって思った。JJみたいなタイプの極めて外向的なパーソナリティを支えるには最高のパートナーだと思う。
どーも最近のコンテンツでは「飾らない自分を愛してくれる」みたいな、たとえ世界中に否定されてもたった一人に肯定してもらえればそれでいい的なことを信奉しがちな気がするけど、JJはそんなこと求めてないんだと思う多分。たった一人に肯定されるだけじゃ足りないからどこまでもどこまでもストイックに上を向く、立ち止まらない、立ち止まれない状況に自らを追い込む。そんなJJに向かって「あなたの良さは私が知ってるから十分でしょ」みたいなこと言うタイプのパートナーは窮屈だろうなと思うよ。今のところは。
オーケー、優勝を逃し婚約がおじゃんになって、イザベラちゃんの前でどういう顔をしたらいいのかわからない19歳のただのジャンの前で、エンゲージリングをはめたままの薬指を愛おしそうに握り込めて「楽しみだわ、JJ」ってイザベラちゃんが微笑んでくれるところまで妄想した。さあ来い最終回!!!!!!!
(さっき今のところは、って言ったんだけど、私はもともとオタクとして闇属性なのでどうしてもこのGPFまでがJJの選手としての絶頂だったとしたらって事態を想像してしまう。大会に出ても成績が振るわず、どんどん優勝が退いていくJJに対してイザベラちゃんがどう反応するのかってのは...まあ...気になる...)
否!!!!!!!!!!!!!!!!一人のJJガールズとして宣言します!!!!!!!!!私はJJの大逆転優勝を信じてる!!!!!!!!!!頑張れJJ!!!!!!!頑張れイザベラちゃん!!!!!!!!!!!!!ジャン・ジャック・ルロワをどうかよろしく!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!最終回楽しみ!!!!!!!!!
ユーリ!!! on ICE 、見てる?
「カザフの英雄」っていう字面を見て以来、ソワソワしていたものが、ユーリ・プリセツキーと友達になったあの瞬間に全てが弾けた。
カザフスタンを含む中央ユーラシア・テュルク系諸民族が持つ「民族英雄」の姿をはっきりと感じ取ったからだ。
カザフスタンは、歴史的にテュルク系諸民族が多く暮らしてきた土地である。
遊牧騎馬民族が繁栄した土地であり、彼らはテュルク系の言語と、それに基づく言語文化を持つ。
彼らの文化・信仰あるいは歴史は、口承文芸によって伝承された経緯があり、口承文芸のうちの一大ジャンルとして数えられるのが「英雄叙事詩」と呼ばれる物語形態だ。
カザフに限らずテュルク系諸民族の中で広く伝播した『アルパムス・バトゥル』や、キルギスの英雄叙事詩『マナス』は邦訳出版されており、母語によって英雄叙事詩の世界観に触れることができる。中央アジアを題材とした創作物でおそらく現在もっとも有名なのは森薫の『乙嫁語り』だろうが、作中に登場する馬などの名は、先述の英雄叙事詩にて確認できる。アルパムスやマナスとは叙事詩中での主人公にあたる英雄の名前であり、英雄たちは作中でもっとも強く、激しく、時に美しい。
「英雄叙事詩」の歴史や形態などについては省略するが、重要なのはカザフの地に育まれた文化には「英雄」の存在を待望し、受容する姿があるということである。
彼らは街や、施設などに英雄叙事詩中に見られる名付けをし、また街中では英雄の像を見ることもできる。余談ではあるが、キルギスの首都ビシュケクに立つ騎馬マナス像の馬には、立派なちんちんがついている。あと動物園の馬もなかなかのブツをボロンしてる時がある。
英雄叙事詩の主なテーマの一つに「外敵との戦い」がある。英雄が戦う相手は「異民族」や「異教徒」であることが多い。たまに超自然的な怪物と戦うこともある。
敵対する異民族や異教徒を、英雄は苛烈に打ち倒していくわけだが、全ての異民族や異教徒が敵となるわけではない。
盟友となった異民族とともに、英雄はさらなる敵を打ち倒していくのである。
(英雄叙事詩中に現れる異民族は大抵がモンゴル系の遊牧騎馬民族な訳だが、細かいことはいいんだよ)
敵についても、少し話をしたい。
英雄は異民族と敵対し、彼らを倒して強さを示す。異民族の長との一騎打ちはしばしば物語のクライマックスとなり、もっとも盛り上がるシーンであると言っても良い。
YOIにおける王といえば、J.J.ルロワに他ならない。
11話でオタベック・アルティンと対峙したJJの姿は各位の記憶に新しいことと思うが、ここでもオタベック・アルティンが持つ英雄性を感じ取ることができる。
そうして「勝利」を得た英雄は、やがて自集団を束ねる長となり、後世へと名を残す偉大な存在となるのだ。
英雄叙事詩はその他様々なエピソードによって構成されているので、興味を持った皆さんには是非読んでいただきたい。
ここまでの参考文献は以下の通りである。
坂井弘紀2002『中央アジアの英雄叙事詩:語り伝わる歴史』東洋書店
坂井弘紀訳2015『アルパムス・バトゥル:テュルク諸民族英雄叙事詩』平凡社
我々は幸運にも日本語でテュルク系英雄叙事詩に触れる機会を持った。最大の感謝をここに表す。
以下、蛇足。
オタベック・アルティンはサマーキャンプを経てバレエからは離れたようだけど、彼はその後どこに行ったのだろう?
個人的に、例の演技終了時のポージングからはコサックダンス(ホパーク)の匂いを感じた。
12話で明らかになるのだろうか、期待は大きい。
人の創作物のキャラクターを勝手に恋愛関係にした妄想をしたりそういう創作をすることの是非と、ホモ百合の創作物が責められるのはまた別問題だと思うし、後者は実際のところただのマイノリティーの否定ではないかと思っているんだけど、ごっちゃにされがちじゃないだろうか。
私はオタクだし自分にマイノリティーの要素があるのは自覚しているけれどマイノリティーであることを人に責められたくないし、人のマイノリティーを責めたくもないし、そして責められるべきではないと思っている。
こう言ってはなんだけども、むしろ、マイノリティーを責める理屈が解らない。
自分がなんでこうなったのか解らないけど、私は同性愛や、男性女性以外の性別について、全く抵抗を感じない。当たり前に、そりゃああるでしょう、という感じ。
同性愛の人が身近にいたわけでもないし、同性愛ものを人より多く読んで育ったということも特段ないと思う。
なんでこうなったのか解らないけれど、そういう愛の形や、心の在り方に関して、抵抗がない。抵抗を感じる心持ちが解らないほどに、抵抗がない。
前に同性の友達に「実は同性愛者だ」と言われたことがあるけれど、「そうなんだ」で終わった。
たとえばおなじように男女のカップルが2組いたところで、その二人の間にある関係性や愛情が同じなんてこともないだろう。
男女だろうが男男だろうが女女だろうが同じ人間と人間の間にある関係性のひとつで、それ以外の性別だって人間で、性別なんてものは、一人の人間が持つ単なる要素のひとつでしかない。
単なる、とはいえ、その要素を持つからこそその人が成り立つのだから大ごと。
でも本人にとっても、周囲の人にとっても、その重視する度合いは変わる。
こんな風な考えだからなのかわからないけれど、私にはマイノリティーを責める理屈がわからない。
たとえば宗教上駄目というのもあるんだろうけど、そういうのを自分以外の他者にも適用するのは簡単じゃないし、戦争して力で捻じ伏せたところで他者の心にも自分の考えをインプットできるかっていうとそうでもなくて、じゃあ延々話し合えばできるかっていうとそうでもないし、戦争と話し合いとスキンシップと敬遠と嫌厭で許容できるだけの距離をはかりあって付き合うしかない。
私はただの恋愛ものが大好きで、すてきなふたりがお互いを好きであるなら、「一生添い遂げてしまえ」、と思うし、同性愛や男女以外の性別の人たちにも、そうであることについての葛藤とか苦しみとか悲しみとかを感じずに済んで欲しいなあと思うし、そんなものを除いた、同性愛や男女以外の性別の人たちの恋愛ものだって、もっと読みたい。
最初に書いた文の、前者の「キャラクターを勝手に恋愛関係にした妄想をしたりそういう創作をすることの是非」については……これに関しても発表されている創作物に対して自由な感想を持つことは責められるべきじゃないし、同じような感想を持つファンとファンでそれを共有することが責められる意味もよくわからない。
ただそれで発表されている創作物自体が損害を被るのは問題だし、そうなる可能性のある行動を軽軽に傍若無人に取るべきではない、とは思う。
あ、性的なものを堂々と多くの人の目に触れる場所に掲げるのも問題というか、普通に迷惑だと思います。
本当に純粋にこう思うのだけど、オタクがこれを言ったら、ただの自己正当化の屁理屈のように取られるのかなあ。
創作と現実はごっちゃにすべきでない、そりゃそうだけど、別に現実にだって普通にあるでしょ、そんなこと。それ自体が私の勘違いだろうか?いいやそんなはずない。
ちなみに私自身は異性に目がいく傾向があるけれど、たぶん同性の人にも恋に落ちるときは落ちるだろうなあ、という気がする。どうも私にとっての性別は、人を好きになるとき、そんなに重要視する要素じゃなさそう。
たぶんわたし、無神経なのかもしれないなあとも思う。
(非公式)二次創作について検索避けを部外者から強要されて従ういわれはない。ナマモノについては、わたし(筆者)のメインジャンルではないうえ、少々ややこしくなるので、保留とする。
「配慮」という言葉が、「検索避け」の強要の理由として使われているように思う。アダルトなエログロや、原作にない性愛の関係などを描いた二次創作物を見たくない「だれか」への配慮だ。
なるほど確かに、見たくない人もいるだろうな。ウンウン。そうかそうか、不快な思いをさせてしまうのか。
いや、待て待て。つまりそれはアレか? 「だれかが不快な思いをするから検索避けをしてくれ」と言うのか? 「だれかに不快な思いをさせたくないから検索避けをしてくれ」?
冗談じゃない。キリがない。万人に受け入れられるものはない(そんなものがあるなら教えてほしい)。これがまかり通るとき、検索しうるあらゆるものが検索避けをさせられているわけだ。
「刀剣乱舞」知ってる? 略してとうらぶ。伝説の刀剣やらが付喪神になって(擬人化して)男性の姿をとって、刀剣男士となったんだ。わたし「実在したものを題材にしている作品の二次創作だから云々」と検索避けを押しつけるのを山ほど目にしてきたけれど、それなら、そもそも「刀剣乱舞」自体に検索避けをさせるべきじゃない? 「加l州l清l光」って。もちろん、DMMのブラウザゲームのページにはアクセス制限もさせてさ。だって、刀剣を勝手に擬人化して、あんなことやこんなことを言わせて、あまつさえ戦わせている! 不快な思いをするひと、いると思うんだけどな。
「家庭教師ヒットマンREBORN!」は? ごく普通の中学生だった沢田綱吉ことツナの前に殺し屋リボーンが現われて「おまえはマフィアの十代目だ」なんていう。かれに家光という父親がいることからわかるように、名前の元ネタは徳川家なんだ。どう? 徳川綱吉のことを調べようとしたのに、沢田綱吉ばかりが出てくる! なんていうことを不快に思うひとは、絶対にいないの? 名前を変えさせるべきじゃない? あの主人公。
いやいやいや。キリがないよね。田中、鈴木、佐藤。(申しわけないが)このありきたりな姓の持ち主はありふれていて、創作物に登場することも、ままある。一郎、太郎、幸子。いるぞ。
言っとくけど、違わないからな。これは「アダルトなエログロや、原作にない性愛の関係などを描いた二次創作物を見たくない」のと違わないんだぞ。根底には「不快感」があるんだ。この配慮の点で検索避けを求めるということは、「嫌な思いをするだれかのために検索避けをしろ」ということと、違わないからな。
この「配慮」の面から検索避けを強要するひとたちは、世界のあらゆる人の不快感を解消するため、あらゆるところへ検索避けを呼びかけてくれ。ぜひに。
トランプを探しているの。カードゲームよ。でも、あら、なんということかしら。わたしの大嫌いなドナルド・トランプばっかり出てくるわ! 嫌だわ。不快だわ。
「二次創作は実質違法行為なので、公式に見咎められないよう隠れて活動しなければならない」というアレ。
著作権。二次創作とのことで、TPPとともに話題になった。TPPに参加すると、著作権の親告罪がどうのこうのというあれそれ。まあ今のところ、公式が突きつけるまで、それは罪ではないということになっている(はずである)。
はい終了。
公式に見咎められないように……そうだね。公式の利益を損なうのはよくない。
でも、判断するのは公式だ。「見咎められないよう隠れて」など、まるでやましいところがあるようではないか。
公式の指示に速やかに従う。これだけでよいだろう。
ところで、アダルトとの境目にはのれんがある。物理的なフィルタだ。わたしたちは、物理フィルタのないところに、フィルタを見ることはできない。
まだ、その技術は普及していない。ARを目にし続ける将来は訪れるかもしれない。そうしたら、見たくないものを見なくてよくなるかもしれない。たとえば、露出度の高い女性の水着の広告だとかなんだとか。
でも、今はない。だから店側が物理的なフィルタとしてのれんを設け、年齢と覚悟を問うわけだ。おそらく。
で、検索避けを強要する舞台がどこかというと、インターネットだ。あなたのコンピュータだ。フィルタがかけられる。お互いに。けれど、あえて「不快に思うかもしれないだれか」のために、作者がのれんを用意する必要はない。どうしても見たくないものなら、それは見たくないひとが、見ないために努力をするはずだから。コンピュータは、見たくないものを見ないことができない舞台ではない。
法的に年齢制限をかけるべきあれそれに検索避けを求めるのは、わかる。だが、それについては、検索避けより直接的な手段をとるべきだと思う。ここではおいておく。
そして、それ以外の「見たくない」ものについても(コンピュータでは)、検索避けより直接的な手段をとるべきだ。検索の仕方を工夫する(not検索とか)とか 、NGワードを設定するとか。やり方は、ぜひ自分で検索してほしい。「ウェブブラウザ ngワード」とか。で、そうする手段がまだ用意されていないと思うなら、自ら開発するか、おとなしく待つといい。それすら我慢できないなら、もうやめたほうがいいと思う。インターネットが向いていないかもしれない。
全世界の、なにかを不快に思うだれかのために、調べたやり方を共有すれば、より具体的に不快感を減らせるだろう。
(そのために、わざわざ嫌なものを一度は見なくてはならないのかとか文句を言うひとは、「食わず嫌い」の意味を調べてくれ)
もちろん、公式からなんらかの対処を求められたときは、それに速やかに従いますよ。でも、それまでは、なんら疚しいところのないわたしは、堂々と二次創作をする。公式(原作)への感謝も忘れずに。いつもいつも原作を、たのしませてくださって、ありがとうございます。
http://anond.hatelabo.jp/20161119215613
最終的にキリスト教様様に持っていきたい方のご意見と思い反論をさせていただきます。
◇黒澤明『生きる』を観る。
⇒結論:子供に生きる意味を見出してる人が多いけど間違い。とにかく楽しく生きることに意味を見出すのも違う。生きる意味は、何かを作り出すことにある。
⇒疑問:何も作り出せない人はどうすんの?
作り出すものは商売になる創作物だけではありません。実際、生前は優れた創作を作りながらも全く評価されなかった芸術家も数多くいます。自分が作ったものが評価されるかどうかは後世の人の価値観によるものです。
◇宮崎駿『もののけ姫』庵野秀明『新世紀エヴァンゲリオン』を観る。
⇒結論:生きるのはめちゃくちゃ辛いけど、とにかく生きなきゃダメ。
⇒疑問:いや、理由は?
まあ、今時の若者に対しての「死ぬんじゃねーよ。俺たちの老後が困るだろー」っていうプロパガンダ的に優秀な作品ですよね。
◇イニャリトゥ『バードマン』を観る。
⇒結論:生きる意味は成功や名声にあるのではない。やりたいことをやることにある。
⇒疑問:やりたいことをやれない人はどうすんの?
やればよくない?
やれないなら、やれるところから自分のやりたいことを探すこともできるはず。
◇カフカ『城』『変身』を読む。
⇒結論:個人の生きる意味は社会に占める地位(職業、父)を通してしか存在しないよ。
⇒疑問:そんなん辛すぎて死ぬわ。
悲観論に引きずらるのは、悲観論を正論としたい気持ちがあるからでしょ。カフカ存命中とは全然社会状況違うし。
⇒結論:群体としての人類ならともかく、個体としての人間には生きる意味なんかないよ。
⇒疑問:・・・。
ああ、いかに感嘆しても感嘆しきれぬものは、天上の星の輝きと、わが心の内なる道徳律
~~この辺で上記の映画・本が前提していた無神論(=キリスト教でないこと)に疑問を持ち始める~~
⇒結論:個人個人の高潔さが人類全体の罪を贖うんだよ。そこに生きる意味があるんだよ。
⇒おお・・・
⇒結論:金儲けや教育や物書きの才能がある人はそれで後世に遺産を残せる(そこに生きる意味がある)けど、そうでない人も、高潔な生涯を送ればそれ自体が後世への遺産になるんだよ。
⇒(泣)
◇『聖書』を読む。
例えば自分が自殺しようとする時に、「どうせなら他に死にたいと思ってる人を救うっぽいことして死んだらカッコよくない」くらいの感じじゃないすかね。
先に言っておくと、すごく普通のことを書く。
最近のマンガの実写映画化で話題になっているものと言えば、銀魂、ハガレン、ジョジョくらいしか今思いつかないけど、さらに毎度毎度話題に上るのが、
「原作を汚すな」
などの反対派の声。
自分は実写化と聞いて、「もう漫画で完成されているので、実写化の必要なし」と思う作品もあれば、実写化されたものを見て「その漫画がもっと好きになった」と思う作品もあり、作品それぞれ思うことは違う。
ちなみに実写化でさらに好きになったのは、のだめカンタービレ、重版出来だ。素晴らしい実写化があるのも事実ではあると思う。
しかし最近は実写化企画が乱立しているように感じる。ここまで多いと、もはや金の匂いしかしない。
漫画の内容に関係なく、人気だけで儲けるために実写化をしていると思われても仕方がなく、作品を汚していると、とてもネガティブな印象を持つ。
しかし、そういう世間の反応が、実は実写化にいい影響を与えてしまっていると思う。
企画側は、とにかく悪い印象でも、いい印象でも「話題になること」が大事なのだ。
「思ってたより面白かった」
「マジでつまんなかった」
「見てないけど、そこまで言うほどなのか?どんな風につまんなかったor面白かったんだろう?気になる」
観なくても気になって貰える。
これだけ創作物にありふれた世界で、人々に何の影響も及ぼさず、誰の目にも止められず、忘れられる作品は死ぬほどある。
漫画なんて毎日大量にTwitterで流れてきては、一瞬で読まれて数日後には読んだことも忘れられている。
作者がどんなに死ぬ気で書いたとしても、10年、20年かかって描いたとしても目にも留まらなきゃ、描かなかったのと同じだ。
叩かれようが何だろうが、漫画家にとって作品は自分の生きた証。
読まれない、忘れられることが何よりも一番怖い。
読まれなきゃ、何も感じてもらえない。
情報社会の中で波の中で生きていくには、辛いけれどもこれしか今はないのだと思う。
そういったことを考えると、作者が実写化OKしてしまうのも無理はない。
実際作者には「ハナクソみたいな」金額しか入ってこない、と銀魂の作者空知先生は証言している。単行本の方が全然儲かる。しかし、そんな金よりも自分の作品をみんなの心に届けたい、という気持ちで実写化に協力していると、単行本の質問コーナーで答えている。
本当に心の底から嫌なのであれば「一切反応しない」のが一番ではある。しかし話題に上がらないのは作者の方がかわいそうなので、オススメはしない。
「実写化してほしい漫画」、「どの女優俳優にキャラを演じてほしいか」などアンケートをとるなり、意見を聞いてるという意思表示が必要だと思う。実現は難しいとしても、そういう努力が見えたら好感が上がる。
ファンは好きな作品の企画に携わることがもちろん好きだし、一緒に作品を作り上げたような気分にさせてあげれば、今よりももっと好意的に実写化に対して反応する人が増えるのではないかと思う。
多くの会社みたく勝手に色々と決めて、「もう何言ったて、しょうがない。決まってしまったことなんだから…」と諦めさせるのはやめて欲しい。ただでさえ日常で絶望を感じているのに。
最後に、
創作物を楽しむタイプの趣味――要するに小説、漫画、アニメ、ゲーム、映画とか――を続けていると、感性がその創作物を楽しむように特化してくる。
で、今まで楽しめてた創作物にパターンを感じて飽きてしまったり、逆に何が面白いのかわからなかったものの面白さがわかるようになる。
この感性の変化って成長なのか?それとも単なる変化なのか?寧ろ退化なのか?
特定のパターンに「飽き」の感情を抱くというのは、当時そのパターンで感じていた驚きや感動といった感情が失われているということだ。
また、安易にパターンに当て嵌めてしまうことで違ってるものも同じに見えてしまう、なんてこともあるのではないか。
「面白さがわからないものが面白くなった」というのも、感性が歪んだ結果、本来何も面白くないものを面白いと勘違いしてるだけなのではないか。
趣味を長い間続けて「昔と感性が変わったなぁ」と思う時、こういうことを考えてしまう。
楽しければ良いとは言っても、長い時間を掛けた結果として好きな物への感性が劣化していると考えたらあまりに悲しいじゃないですか。
議論を噛み合わせようとしない輩を創作(と言うか半ば例題)にて説明してるが、ここで創作そのものの質について意見してるあたりがメタになってて草が生えざるを得ない。その上情報の齟齬に話を置き換える始末。アホかこいつ。
もしかして、僕がブクマしている元増田自体の質を意見しているように読まれました?
だとしたら、ごめんなさい、誤解させてしまいましたね。
僕が議論が噛み合わないと感じる創作を読むとイライラする、という話で、元増田の質には何も感じていません。
例を挙げるとカドが立ちそうなので挙げませんが「作者が意図せず」噛み合わない議論を続ける作品が苦手という意味です。
作中で「議論が噛み合わないおかしな奴」が登場するのは、イライラしないのですが、
作中で筋の通った議論のように、元増田の紹介しているピントのずれた議論が行われるような創作物があって、それが苦手なのです。
「素人が趣味でやってるだけのものにケチを付けるなんて失礼」という空気があり、安易に「つまらない」と言えないことがある。
商業作品にこういうことを言っても別に叩かれたりはしないよなぁとも思ってしまう。
「何かを世に出した以上ネガティブな評価も受け入れろ!」とは言わない。
そういう姿勢を趣味で創作やってる人間全員に求めるのは無理だと思うし。
でも同時にアマチュアの場の楽しくやることを強要する空気が気持ち悪くも感じる。肯定しか認められない場所なんて息苦しいだけ。
"漫画やアニメや小説や映画に触れた人が、そこに登場する「家族、友人、同僚、ライバル、相棒、知り合い、他人等々」の関係として描かれてるキャラ同士、あるいは片方から片方に、「恋愛感情がある」という設定を捏造した妄想をするのは当然"みたいな空気が流れてるのがとてもしんどい
"(前略)「恋愛感情がある」という設定を捏造した妄想をするのは当然"ということが前提にある発言を見るのがとてもしんどい
漫画誌の最新号やアニメの最新話の感想で「この二人やっぱり付き合ってる」とか「早く結婚して」とか見るのがとてもしんどい
pixivで作品を検索するときにマイナス検索の文字数が元のワードの5倍くらいになるのがとてもしんどい
恋愛対象というその人物の人生に深く関わるような重大な設定を改変する行為は「人々に広く受け入れられ肯定されるべきもの」だとは到底思えない
もしそれが許されたら六法全書に著作権が存在する意味がないから
昨日起きた浦安連続通り魔事件、その加害者のTwitterとブログを適当に読んでた。
http://nazonoy.blog.fc2.com/blog-entry-571.html
精神科に通っていたが担当医との折り合いが合わず、その憤りから犯行に及んだように思われる。(だが根底に医者や薬への絶対的な不信感があるように窺える。本人は否定しているが破壊衝動もあったのだろう)
精神が病んでいたのは間違いないだろうが、文章を読む限り、それほど突飛な思考をしているわけでもなく、犯罪的猟奇的な趣向があったわけでもない。感性的には常人の範囲内だと思う。
この程度のヘイトはネット上にあまりにも多すぎるから麻痺しているだけかもしれないが……(twitterはそういった本来隠された感情を剥き出しにさせる性質があると思うが、それはさておき)
稼いでくれて守ってくれる夫がいて、趣味に時間を費やせる余裕があり、交友関係もしっかりある。絵もうまい。恵まれている環境と言っても差し支えないだろう。だが本人はそれでも生きづらかった。
この人が通り魔を起こさずに、幸せになるルートはどこにあったのかなぁっと思う次第。医者との問題、だけなのだろうか。
現ニート童貞だけど好きな創作物に接してオナニーして、家族の嫌味を聞き流しつつ美味しいご飯だけはしっかり頂く、毎日ハッピーな自分との差が気になる。
これ見た
やっぱ音の有無ってでかいなあ
あと動画だけだとただの他人の創作物にのっかったツギハギじゃんって鼻で笑うデキだったし
そこまで一部だけを抜粋したあらすじで表現して『おもしろい』かどうか判断するなら
「正義の心を持つ若者が悪魔の体と人間の心をもつデビルマンとなり、苦悩しながらも太古の眠りから目を覚ましたデーモン達から人間を守るために黙示録的戦いへ身を投じていく」
ぐらいには面白そうにかけるわけで
実際にはいふりがどうだったかというと、実写デビルマンがボロボロだったようにあらすじ以外の部分がボロボロだった
具体的にいえばワンクールの尺の半分以上がネズミと、ゾンビごっこと、赤道祭と、「さすミケ」と、「さすミケ」のための無能な大人たちだ
(まあ字面でわかるとは思うけど、「さすミケ」というのは作者補正を味方につけた艦長が好き放題行動して周りからそれを全肯定される状態のことだ)
『最終的に実弾をつかったガチ戦闘行為を行うような軍事組織で』『反乱されたら被害なしに止めることもできないような軍艦を無為無策のまま未熟な少女たちだけで航行させる』というトチ狂いぶり
メインストーリーにおいては事実上まったく成長していない艦長の成長譚に尺の大部分が使われているせいで、ほかのクルーはろくに描写もされていない
艦長がサイコパスな上に船に乗り込むところからスタートでまるで関係性を書いてないから、
ぶっちゃけ艦長に感情移入できないのと同レベルで『ストーリーの最終目標が武蔵の艦長救出』って言われても困る
あんなポット出ヒロインが最終目標ですといわれてもネズミハザード完全放置やボロボロなブルマーの組織体制が気になって仕方がない
あと意図的に触れてないみたいだけど、5話以降毎週存在していたツッコミどころには同意してくれたと考えていいのかな?
起源から結末までおかしいネズミまわり、本職でも救助にスキッパーを使用(ブルマーが軍艦使う大義名分どこいった)、整合性と尺を犠牲にしてぶち込まれた劣化ハイスクールオブザデッド等々
これだけでもネット上でバカアニメとして語り草になるには十分だが、本筋も面白くなかったので駄作扱いされてるというだけの話
http://hirorin.otaden.jp/e437747.html
庵野総監督はこの映画を、右にも左にも偏向しないように配慮して作っている。露骨なイデオロギーなんか入れたら作品がつまらなくなると分かっているからだ。
3.11を模写した時点でそういう観方で見られるのは当然でしょ?としか思えない。
まして消費者の目線でそんな意見聞きたくないというのはまだいいんだけど、創作者がそれを言うのはあまりに無責任じゃないか?
「作者の意図」のとおりに作品を読み取ることを観客に強要するのってただの怠慢じゃん。
大体「怪獣」
これは自分も作品づくりに関わる人間の端くれだから切に感じるけど「作品」ってのは「作者そのもの」じゃなくて「作者の子供」。
それを分かったうえで「好きに」作品を作ったのだから、それを見てどう思われても、それは受け止めなくちゃいけない。
ヱヴァQのシンジ君の罪っていうのはまさにそういう性質のもので、
そんなつもりは全くなくても自分の作品(=エヴァ)で世界を滅ぼしかけてしまったら、それはやっぱりどうしようもない自分の罪。
現実には世界を滅ぼすようなことはないから勝手な勘ぐりをされる程度なわけだけども。
それは辛いことかもしれないけれど、それでも残したい意志があるから作品を作るわけだし、
一方で意図しない希望を見出してくれる人だっているかもしれないわけじゃないですか。
俺は庵野が実際どう思っていようが、旧エヴァから強い勇気をもらっているし、富野がどう思ってようとVガンは面白いと思うわけで、
それが創作物の可能性ってやつであり、作品を作ることの社会的意義でしょう。
「主人公が下手な負け方する」のが嫌なんだ。
「努力する主人公」というのは、必然的に苦戦する事も負ける事もある。
苦戦も負けもしないのなら、何のために努力してるか判らんからね。
しかし、当たり前だが主人公が敗れるというのは割と読者的にはキツい展開だ。
贔屓のチームがライバルチームに惜敗したりボロ負けしたりしたらアンチクショウって感じがするだろう。
主人公が負けてなお、読者にストレスを溜めないというのは非常に高い手腕が要求される。
多くの作品はここでしくじって、読者(の一部)にフルボッコにされる。
スポーツなら相手チームの悪口を言えばいいが、創作物で主人公が負けたら戦犯は作者だからだ。
アンチを大量発生させる失敗パターンとしては、ぱっと思いつく代表的なものとして
・「同格または格下(に見える相手)に負ける」
・「長々と戦った末に負ける」
・「一度勝った相手に負ける」
・「再戦してまた負ける」
・「滅茶苦茶強くなったはずなのに新キャラに負ける」
・「普通に戦えば勝てる相手なのに、何か無理矢理な展開で負ける」
・「負けたついでに主人公がド凹みする」
・「負けて周囲の評価も下がる」
といった物がある。
この辺やっちゃうと、感想欄とかAmazonの星とか見るも無残だね。
基本的に格上にしか負けないし、戦闘が短いから「延々じらされた挙句に負ける」というストレスフルな事にならない。
しかも、負ける前に一矢報いて相手や観客を驚かせるのも忘れない。
スパっと負けて、すぐ立ち直る。
こういう、負ける時の作法をちゃんと守ってれば、努力や修行が読者に嫌われる事もない。
ドラゴンボールの天下一武道会で天津飯に負ける所とか、凄く上手かった。
「試合としては負けだけど、実質的には勝ってたと言ってもいいし、相手もそれを認めてる」という状態を上手く作って読者のストレスを逃している。
そして、修行した後は圧倒的に強くなっていて、それまでの強敵を簡単に屠りさっている。
※そうなると次に「ストレスなく苦戦する」ためには圧倒的に強い相手を自然に登場させる必要がある。
フリーザまではそれが上手く回っていたのだが、
「宇宙最強」であるはずのフリーザの後に「実はもっと強いやつが地球にいた」という無理矢理な展開を持ってきてしまったため、割と叩かれる事になったのは避けようがなかったとも言える。