はてなキーワード: 創作物とは
二次創作をしたいと思った。
とあるアイドルをプロデュースするゲームの、とあるアイドルが凄く気に入ったので、
公式の供給だけじゃ物足りず、自作しようと、日夜頑張っている。
頑張っているのだが、どうも自分の中に「政治的な正しさを元に創作物を批判する人達」が住み始めたようで、
文章を書いていると、その人達が批判するので、修正するのだけど、はっきり言ってキリがない。
例えば、今書いている二次創作の冒頭の三行だけでも、
「うひひひ、お山、お山、あたしのお山、このお山、あたしのお山、うっひょー! お山、お山の先っちょも登るうううううう」
夏場の外回りの仕事を終えて、クーラーがよく効いた自社に戻ると、いつものように○○ちゃんが△△さんのおっぱ……もといお山を堪能していた。
今部屋に居る事務員も、他のアイドルたちも止めようとしていないし、△△さんもあきらめの境地に達しているのか黙々といつものように読書をしていた、それとも熱中して気付いていないのかもしれない。
たったこれだけの文章なのに、
「同性愛者を色情症のように書くのは間違っている」(いや、同性愛者かどうかは、そのちょっとよくわからないんですが……)
「たとえ同性同士であってもセクハラはセクハラ、正しく罰するべき」(はい、その、ですので、これをセクハラと咎められたあと、きちんと告白をして同意の元に恋愛関係にですね……)
「そもそも、中学生女子と、大学生とは言え未成年の女性のペッティング描写など論外」(それは……その……はい、すいません)
「もう大前提、アイドルという職業そのものが……」(ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい)
などと、自分の中に「政治的に正しい表現をするべき委員会」が立ち上がり、いろいろと評論をしてくる。
それで、なにかを創作するってことは、なにかを切り捨てるってことなんだなあ、と思った。
政治的な正しさもそうだけど、そもそもこうして、公式の外でキャラクタを動かすってことは、どうしたって、それを認められない人がいる。
「でもさ、こうも考えられない?」
え?
「目が前についてるのは、前だけを見て生きろと与えられた使命に違いない」
去った、過去気にせず……
予想をも、つかない、素敵な運命
「待ち構えている。……かもじゃん。だから、がんばろうよ、いっしょに」
そっか……
そうだよね……
頑張る、僕、頑張るよ……
演奏を聴いて感動するとか、絵画を見て心震えるとか、それを可能にする芸術的感性っていったい何でしょう?
食べる、寝るなど、生物として生きていくだけならそんなものいらないですよね、動物にはそれはないと考えているのですが。
絵を描くゾウの話もあるけど、あれは道具を使えるというだけで、「創作活動」ではないのでは?
「芸術は神の領域」とは母の談ですが、彼のように芸術的才を持ち狂ってしまった人は、人間を超えてしまったのでしょうか。
人間の中にその神の領域が存在するということに、人間存在への得体の知れなさと神秘性を感じます。
芸術的感性は人間固有の狂気。それによる創作物は生み出した人間の内面の発露。目に見えない世界という点で、人間の霊性にも通ずるもの。
私が「芸術」のことばから想像するのは主に絵の分野ですが、音楽分野だとまた芸術という概念に対する印象は変わるのでしょうか。
以下は、これらをつなぎ合わせる妄想です。いちど観ただけの記憶を元に書いているので、細部記憶違いの可能性もあり。苦手な方はお帰りください。
シン・ゴジラは現実の事件ではなく創作物なので、創作物なりの読み解き方ができるはず。
物語中、唯一の癒やし成分として登場するカヨコ(石原さとみ)による情報で、ゴジラは60年前に米国が杜撰に海中投棄していた核廃棄物が謎の古代生物の生き残りに作用して発生した新生物である可能性が示唆される。そのレポートをまとめたのが牧教授。超重要なのに、セリフの中にしか出てこず、回想シーンすらない人物である。
セリフの中にしか出てこないということは、セリフの中に出てくる説明や推測がそのまま牧教授の人物像の設定と考えていい。
ざっくりと箇条書きにすると
と、こんな感じ。
冒頭の無人ボートに残された「私は好きにした。あとはお前たちが好きにしろ」(だったっけ?)という捨て鉢なメッセージ。揃えて脱がれてあった黒い革靴。牧教授はあのボートから海に飛び込んで自殺したことは間違いない。ではなんのために?
パンフレットによると、映像には映らなかったが東京湾に出現した時点の第1形態はしっぽの長いオタマジャクシ型らしい。
出現時の順序は、次のようになっていた。
高温は急激な形態変化の副産物なので、最初の「謎の高温」は、形態変化が爆発的に開始したタイミングと考えられる。
ということは、当然それ以前、オタマジャクシ型の「前」があるはずだ。
これらのことに、古今の漫画的な「お約束」を加えると、ゴジラが他の生物を「取り込んで」成長することは明らかだ。
尻尾の先にあった別の生物らしき骨格は、ゴジラが吸収して未消化の(あるいは完全生物であるゴジラにとって不要と判断された)パーツと考えられる。
さて、ここから大きくハネてみる。
米国の沿岸で発生したゴジラ。これが「わざわざ」東京湾までやってきて爆発的に成長を始める。そして「なぜか」東京の中心(日本の中心)だけを執拗に狙う。
ここに「日本を憎んでいて、最近米国から日本に移動したマッドサイエンティスト牧教授」というピースを当てはめるとすべてがしっくり来るストーリーが作れる。
こうなっていたとすると、ラストシーンの尻尾→ゴジラが他の生物を取り込む設定→冒頭の無人ボートの謎が解けることになり、物語がきちんと閉じて気持ちいい。
この説に直接関係はないが、牧教授の遺書「君たちが好きにしろ」というのを深読みすると、牧教授が憎んだのは日本のすべてではなく、自分の研究をきちんと評価しなかった学会や官僚主義といったものだったかもしれない。現在の日本はどうしようもないから滅んだほうがいいが、ゴジラを乗り越えられるような日本に生まれ変われるのなら、それもまた良しといったメッセージのようにも思える。
こうしてみると、これを思い出さないだろうか。場所も鎌倉と芦ノ湖で近いし。
あっ、作者が同じだ!偶然だね!
阿漕なPCショップが老人をだまくらかしてる現代においても、町内会の掲示板というのは活用されているもので、
来週末の氷川神社の例祭にむけて、街中の掲示板にポスターが貼られていた。
手前にうちわを持った女の子と、ハッピに書かれた祭の字を見せるように背中を向ける男の子、
そして奥には御輿を担ぐ糸目のおっさん達が描かれており、左上に赤字で「おまつり」と書かれたシンプルなポスターだ。
中学生が描いたような質感だがなかなかまとまりのある構図で、上手いなと感じた。
それで「中学生くらいが描いたお祭りのポスター」の平均値が気になってTwitterで検索してみると衝撃的なものを見つけた
https://twitter.com/K123some3uraS/status/629428468011307008
https://twitter.com/milukuma/status/646229850768838656
https://twitter.com/NOWAYP/status/721729543996706816
なんと近所に貼ってあったのと同じポスターが出てきたのである。それも3件も。
どうやら描かれているのはぎんぎつねという漫画のキャラクターらしい。
これは一体どういうことだろう?いらすとやのフリー素材が如く神社間でポスターデザインの共有が行われているのだろうか?
しかしそれぞれの神社に共通性が在るようには見えないし、大体人の創作物のキャラクターが描かれたものをフリー素材にするのは問題だろう。
もしかしたら作者本人による公式なものかもしれないが、そこそこうまいとはいえ正直プロが描いたようにはあまり見えない。
まあありがちなキャラ造形だから他人の空似ということもありうるけども……
それにしてもわざわざ中学生が描いたような絵にする意図がわからない。
「うちの地元にも将来有望な若者がいるものだなあ」などと思った感慨を返して欲しい。
ともかく、何か詳しいことを知っている人がいたら教えてほしいです。
面白かった
ネタバレ注意
20代前半の自分は、ゴジラ、それどころか怪獣映画とも無縁な人生を送ってきた。
・なんかハム太郎と同時上映してたらしい
これくらいである。そのため、見るまではどんな話かは全く想像つかなかった。
因みにエヴァは一応見ており、エヴァ好きの兄弟に誘われる形でなんとなく、見に行った。
さて、じゃあそんな人の初ゴジラの感想はというと、真っ先に出てくるのが「ゴジラ本当怖い」という恐怖心だった。
一時期ガンダムの格ゲーにはまっていたのだが、戦っている時ガンダムから放たれるビーム系の攻撃は「かっこいー!」とかそんな風に思っていた。ガンダムXのサテライトキャノンとかウイングガンダムゼロカスタムのビーム系必殺技とか好きだった思い出がある。
しかしゴジラの口、そして背中から出るレーザー攻撃は見た瞬間、自分は「格好良さ」は全く感じず「恐怖心」に支配された。その攻撃で町が破壊される描写にも生々しさと恐ろしさを感じた。普段他の創作物で町が壊れる描写を見ても大人になるにつれ心の何処かで「フィクションだし」という心の余裕を持っていたのだが、今回はそんな余裕を全く持てなかった。
とにかく怖かったのだ。見終わった後はあのゴジラの黒い形態を極力見たくないと思ってしまったほどだ。(余談だが一緒に行った兄弟は第二形態?の方が嫌だったという。エラの生々しさが嫌だったとか。自分はそっちは嫌悪感を持たなかったので人によって違うんだなと思った)
じゃあ何故そんなにシンゴジラの攻撃は怖く感じたのだろうか…まだまとまりきれてないところはあるが、恐らく1つはその時が夜中だったこと、2つ目はゴジラの圧倒的な生命力、破壊力にあったのかもしれない。
夜の中というシチュエーションは非常にリアルで怖かった。地下?で人々がぎゅう詰めになってる中停電になって「あっ!」とか悲鳴が上がる描写には「あの状況で真っ暗になったら怖いよな」と思ったし、後闇の中でゴジラが紫色に光る→ビーム発射描写も印象的だった。2つの描写は夜だからこそ怖さが際立ったシーンだった思う。
後者について、その前の自衛隊の攻撃を受けてもケロッとしてるゴジラのシーンの時点で「あれゴジラつえー」とは思った。そこからのあの口と背中のビームである。口の攻撃はレーザー状で猛スピードで凄い遠くまで届いて周りを火の海にするし、背中の攻撃はバンバン米軍の飛行機を撃ち落とすし、避けれる軌道でもないし…あの「防護策のない攻撃」と「火の海に包まれる建物の描写」は非常に絶望感があった。対処法はゴジラのエネルギー切れのみである。エヴァで使徒のビームを守った盾もないし、というかエヴァもいない。あのシーンの恐怖心は希望がほぼ見えなかったというところにあるのかもしれない。ヘリもビームに当たってしまったし…
他のフィクションだと悪役キャラでもこう、ネタにしたり可愛いとか言ったりして愛着を持てたりするが、自分はゴジラを茶化せそうにない。「触れたくないほど恐ろしいもの」という印象だ。コナンでよく少年探偵団はゴジラあんな楽しそうに見てたな!凄いな!と思ってしまった。
シンゴジラでは人々の生々しい死体や血の描写といった直接的なグロテスクな描写殆どなく、人々の逃げ惑う姿とか諸外国との駆け引きとか自衛隊の攻撃ダメージ0とかそういった、精神的に追い詰めてくる感じの描写が多かったのも印象的だった。2番目に自分がハラハラしたのは核が使用されると決定されたあたりの一連の描写だ。核自体の恐怖もあるし、都民だけじゃなく神奈川千葉も疎開させる無理ゲーさとか、総理大臣代理の嘆きとか、「日本は世界の同情と支援?を必要としている(うろ覚え)」とか色々な不安要素やどうにもならない感じが怖かった。作中に人間の方が怖いみたいな台詞があったと思うのだがまさにそんな感じ。あの長谷川博己と石原さとみが2人で会話している時徐々に引いていくカメラワークも妙に心細さ、不安を煽られた。
他にも人物の描写が良かったとか最後のヤシオリ作戦の所がそれまでの絶望的な描写も合間って凄く熱くなったとか色々雑多な感想はあるのだがもっとちゃんとした言葉で書いている人がいるので割愛。
歳を重ねるにつれフィクションで衝撃的な描写を見ても、一歩引いて「自分とは関係ない世界」と考えることで心に致命傷を負わないように出来ていた。が、久々に心に傷を負った気がする。それはゴジラの容赦ない脅威の描写と…後非常にリアルな世界観が構築されてることもあって、自分があのゴジラの映画の世界で逃げ惑う姿が想像しやすい、「もしかしたら関係なくない世界」と思わされてしまったからかもしれない。
「創作物」の「影響」なんつーとても扱いの微妙な問題を、雑に扱おうとするから反発がでる。まず定義しろ。「影響」ってのはどういう意味だ?
ある作品を1000人が見て、1000人が同じように行動を変えたら、それはまあ確実に「ある影響を与えている」と言えるよな。
では増田は、「たった一人が行動を変えた」ケースでも、同じように「影響を与えている」と言うのか。その場合、999人は「影響を与えられなかった」のか?
たとえば「殺人」を描いた作品を見て、1人が殺人をした。999人は殺人しなかった。この場合、なぜ前者だけが「影響」なんだ? 後者は「影響」じゃないのか? それってものすごく恣意的な関連付けじゃないのか? 増田が取り上げてるのは、そういうレアケースじゃないか?
それから増田は「殺人を犯した人間が作品からヒントを得て」ということも、「影響」の中に入れてる。これってどういう意味で「影響」なんだ?
簡単な爆弾の生成方法を書いた本を読んで爆弾を製造してテロを起こした人間が「本から影響を受けた」とは言わないよな。もちろん、そういう本が一般に規制されることはないではない。だがそれは「影響を与えるから」ではなくて、一般に公開すべきでない情報を公開しているから規制されるんだよな。完全犯罪の方法を描いたミステリーからヒントを得る、というのもそれと同様で、たとえば警察の捜査内容などについて外部に出すべきでない情報を書いて参考になるような本なら規制されても仕方ないと思うが、それは「影響」とはふつう言わない。それとも増田は、別に誰を殺したいとも思っていない人がそういう本をたまたま読んでふっと人を殺したくなるだろうという話をしているのか? それって上の話と同じだが、何千分の一、何万分の一の話なんだ?
ある人が、一冊の本に大きな「影響を与えられた」と感じること、そういう読書体験はもちろんあるだろう。それは、「私」を主語としたごく「個人的な」体験として、「影響された」という言い方では語りうる。ごく私的な体験としてならな。だが、「ある本」を主語として(すなわち一般論として)、それが人に「影響を与える」という言い方をするなら、ぐっと慎重にならなくてはいけない。一般論としての「ある本の影響」は、みんなが言うようにその本への「規制」に直結する問題で、それを証明するためにはそれこそ1000人中の何人が有意に影響を受けたかとかをていねいに立証する責任が出てくることだ。ましてやあるジャンル全体について言うなら、なおさら。そういう手続きを無視した表現規制派は、ほんと世の中にあふれていて、だいたい増田と同じようにい安易に「影響」という言葉を使用する。だからみんな、こういう話の流れになるとヒートアップするんだ。
というわけで、増田が煽りでなく真面目に「影響」ということを論じたいのなら、もう少し丁寧に用語定義してから話をするべきだ。
ないよ。
それは今までの作品を見てれば、分かるよな?
みんなが褒めてるコピー機並べるシーンだって、踊る大捜査線で見たろ?
忘れたのか? しかも、あっちは本当にコピー機を活用してんだぜ?
庵野の恐ろしいトコは、3.11の原発事故の映像を見て、これはカッコいいと思ったに違いないことだ。
国内最大のポンプ車で冷やされる原発を見て、カッコいいと思ったのだ。
だからサンプリングしてああいうカタチで使った。最大級にカッコいいと思ったからこそ、あそこで使ったのだ。
幼生のゴジラが川を遡るときに流されていた大量のボートやひっくり返る車も、津波映像や広島の豪雨災害のサンプリングでしょう。
そこに、311後の日本の風刺という意図はあまりないと思う。意図はないが、結果的にそう見える形にはなった。
繰り返されるスクラップ&ビルドという主張も、ポリティカルな主張はないと思う。
庵野は世界を壊したいのだ。エヴァでも壊して、Qではもうこれ以上壊せないほど世界は崩壊してしまった。
そうしたスクラップの果てに何がビルドされるのかというと、庵野の精神が安定する、というそれだけなんだと思う。
エヴァでこれ以上理由もなく壊せなくなって、ついに庵野の精神もぶっ壊れたので、渡りに船とゴジラで壊しただけ。
俺の姓は微妙にレアで、生まれてから今まで自分と同じ名字のキャラクターというものを一度も見たことがない。
現実でも、血縁者以外で同じ名字の人間に遭遇したのは今まで二人だけだ。
暇潰しにネットで検索する事もあるのだが、実在する芸能人、俳優、その他著名人にも同じ名字の人間は見つからなかった。
だから「自分と同じ名字のキャラクターが創作物に登場する」という現象を体験したことがなく、その時どんな感情が自分の中からわき出てくるのか、実は全く分からない。
「佐藤さん」「田中さん」「鈴木さん」「高橋さん」あたりのようなありふれた名字の人が今まで何度も経ている体験を、俺は一度も出来ていないのだ。
至極くだらないことなのは理解はしているのだが、望んでも得られないと意識すればするほど気になってしまう。
どうすればいいんだろうな。
「なんでXXXって展開にしないんだ」とか「XXXを書かないなんて信じられない」とか「こんなの小学生でも書ける」とか「物語として不完全」とかその種の批判(というか罵倒?)を見ていると「ささ、おあなた様がこれより面白いものを作って発表くださいませ、だれも止めてませんから」とは思う。批判にもいろんな種類があるんだけど「創作物に対して同じ創作者として批判する」ってジャンルの一連の意見ってのはあって、今、その種の批判を非創作者がしすぎだってのはあるよね。そんな知ったかで上から目線のわかってる風の批判なんかしなくても「あたしこれきらい!」とかでいいのに、と思う。
創作物を読んでいると、人間以外の生物が出てくることが多い。そこで自分にないパーツがあったらどんな感触がするのか考えてみることが結構あり、案外これが楽しい。
一番スタンダードなのは猫耳があったらとか。尻尾の感触とかだ。これはけっこうやりやすい。耳はただ今あるものの感覚を頭の上にもってきて形をちょっと変えるだけでいい。尻尾はケツの上あたりに尻尾の根元をもってきて、あとはそこから神経を伸ばしていく。尻尾が生えた夢を一度でも見れたら安定するから、寝る前に妄想するのはおすすめだ。
想像したら次はそこを触られるとどんな気持ちになるかエミュレートしてみる。憧れのあの人が好奇心で触ってきた。普段は気にしていない部位とはいえ、身体の一部 というか末端を撫でられるのはぞわぞわするしむず痒いし恥ずかしい。
いつもは身内だけでワイワイ盛り上がるだけでよくて、本当に数年ぶりの交流だった。
最初は良かった。新興ジャンルなので人も少なく、Twitterも落ち着いていた。
わたしはそういう嗜好は好きなら絡む、苦手なら見なかったふりが得意なので大して気にもならなかった。
それに久々の交流だったので、Twitterや支部の体感時間の流れ方や同人の傾向が変わったんだなとだけ思っていた。
ただどんどんエスカレートして、エロネタは過激に、パロディは大手に右習え。
ぶっちゃけわたしもパロディもエロネタも好きだ。ぐっちゃぐちゃのでろでろの嫁を描きたいし見たいし、箸休め的に色んなパロディを摘みたい時もある。
ただ四六時中それが続くTLを見てるのは耐えられなかった。
わたしが繊細なだけなのかもしれないし、水を差すのも嫌で黙ることしかできなくなった。
嫌ならブロックする派なので何人かはっきり言うならブロックもしたが、RTでずっとその人のパロディが流れてくる。
エロネタが流れてくる。原作沿いの妄想をしてくれる人も、わたしがブロックしている大手が呟いていると一緒になってそのエロネタやパロディばかり呟いてしまう。
そんなのだから、pixivなんかのログまとめや小説を見てもまともなものなんてない。下手するとログ全てがパロディだとか、そんなのもある。
パロディを見たいんじゃなくって、エロネタを見たいんじゃなくって、わたしは原作の二人が二次創作という幕間で絵描きさん字書きさんそれぞれのCPがどのような恋愛を繰り広げ、その中でどのようなキャラ解釈を構成するのか見たいのだ。
別にそれが好きなら勝手にやっていてくれと思うしある程度の自衛としてブロックミュートは全てした。それでもこの人の原作沿いのふたりやネタは好きだから…とフォローしてる人から流れてくるものは仕方ないと某少佐ではないが現実が嫌なら己を変えろ、出来なければ目を閉じ耳を塞ぎ口を噤んで孤独に暮らすしか無くなってしまった。
それでいいのだ、とホッとする自分もいるがなぜ自CPを見るためにそんなにわたしが我慢しなくてはいけないのか?と無性に悲しくなるして時々だが腹立たしくなる。だから言いたいのはただ頭空っぽにTLで流行っているからと一番手の後追いかつ同じ設定のパロディや過激なエロネタをさもCPの総意、みんなも萌えるでしょ!と押し付けてくるのはやめろ。そこだけで終わらせてくれ。頑張って見ないふりするから。
まあ、ここまで読んでそこまで言うならお前が描けば?とかTwitterやめろとか言われるんだろうなぁとは思う。
ただ、描いたってTwitterや支部だと原作沿いなんてふぁぼは貰えこそすれ、過激でもなければパロディとしての分かりやすい記号や属性もないし感想やリプはないのだ。パロディやエロネタに萌えます!ありがとうございます!とリプがついてわたしはふぁぼだけ。そういうのを何度も見た。
その度に自分の画力が相手の萌えを殴りつけるような力があれば…と自分の力の無さも痛感するが、それとは別に「わたしが愛した原作のキャラたちは必要ないのか?キャラ名と見た目だけを借りたようなパロディが有り難がられてしまうのか…」と虚しくもなるのだ。ただの二次創作をしているだけの同人女なのに。でも悲しいのだ。虚しいのだ。
だからTwitterや支部にそのCPの創作物を上げるのはやめた。ただ、どうしてもCPが好きなことを伝えたくて、そしてここまで一人で拗らせてくるとじぶんのかんがえるさいきょうのCPになるとわかりつつもCPが描きたくて、同人誌を出した。するとどうだろう。
Twitterや支部見てました、とか新刊サンプル見て欲しかったんです。とか、声をかけてもらえた。片手で足りるほどでふぁぼやブクマよりも圧倒的に少ない数でもそれ以上の価値があった。たった数人の方が声かけてくださったという事実で胸がいっぱいで泣きそうだった。ニコニコありがとうございます!と言うことしかできなかったけど。数少ないCPの交流を続けてる人からはお世辞かもしれなくても毎回新刊待ってます!と声をかけても貰えた。感謝しかない。それに同人誌はそういうパロディや過激なエロネタはpixivやTwitterなんかよりも自分で自衛としての取捨選択がキチッと出来るのと本にするという気合いからかやはりネタが洗練され原作沿いが多く見受けられるので神作品にたくさん出会えた。自CPが好きで本当に良かったと思った。
ただ自CPの人と交流をほぼ絶ってしまったので、(この人にブロックされてる…と名指しで言われたりもした)もしかしたらCPで金儲けしたいだけなのでは?と勘繰られたりトラブルメイカーだと思われてるかもしれないし怖いと遠巻きにされてるかもしれないが、わたしはまた同人誌だけは出したいと思う。自CPの人たちは苦手でも自CPに罪はないし何よりわたしはやっぱり自CPが好きだから。