はてなキーワード: 伝統とは
台風の影響によりTwitter本社が浸水し、サーバーが停止するというデマが一部で出回った。
大本はネタとしてツイートしたつもりだったが、ネタの部分が非公式RTにより削除された結果、本当の出来事として受け止めた人が出てしまった。
http://alfalfa.livedoor.biz/archives/51515649.html
らしい、というのも、10年ほどほぼ毎日のようにネットに繋いでいる私ですら、まったく知らなかったからだ。いや知らなかったというより、何度も目にはしていたが、引っかかるものが全くなかったので毎回無視していたというのが恐らくは正しい。
大本の人もそれについてはまったく疑いを持っていないようで、「台風の日にはコロッケ」という本来あるべき解説を飛び越し、「ソースを考える」という独りよがりな解説に走ってしまったようだ。
http://twitter.com/hkdmz/status/93196254951124992
食感と熱い油の旨さが命の、できたてが最高潮の料理だが、気軽に味わうには敷居が高い。揚げ物料理を家庭で作るのは面倒である。かといって、わざわざ外食で注文するほどの料理でもない。だってジャガイモ料理だし。
よって多くの人は惣菜コーナで売ってる冷えたコロッケか、冷凍コロッケを食べている。当然冷えてしまっており、油の旨味が台無しである。当然おいしくはない。
そして肝心の中身であるジャガイモには味の牽引力が無く、ソースの味に頼ることになる。この市販のソースというのも、サラダのドレッシングほどのバリエーションはない。どれで食べようが結局「ソース味」である。選ぼうにも選択肢が最初から存在しない。「ソースを考えよう」という思考には至らないであろう。
【】の中に本題が来ることは、通常はありえない。そこに本題を入れるのがネタたるゆえんなんだろうけど。
古来より、文末に、署名の代わりとして座右の銘や告知文、派生して意味不明な珍文を挿入する伝統を守り続けている人がいる。その伝統はTwitterでも受け継がれている。ただ、Twitterは投稿可能な文字数に制限があり、「署名」であっても本題と無関係ならば気にせず削除されることが多い。
【超速報】超大型台風の影響でツイッター本社が浸水し、サーバーメンテナンスの為に今日18時から明日のお昼まで停止するそうです!緊急の要件はツイッターじゃなくてmixiボイスを使いましょう!知らない人がまだ大勢いるのでRTしてください!!【コロッケたべたい】
http://twitter.com/#!/hkdmz/status/93193549109145601
文末の括弧部分を素直に解釈するならば、あまりに本題とはかけ離れており、署名と認識されるであろう。そんな感じである。
飽きたのでお終い。結論は特にない。
台風の影響によりTwitter本社が浸水し、サーバーが停止するというデマが一部で出回った。
大本はネタとしてツイートしたつもりだったが、ネタの部分が非公式RTにより削除された結果、本当の出来事として受け止めた人が出てしまった。
http://alfalfa.livedoor.biz/archives/51515649.html
らしい、というのも、10年ほどほぼ毎日のようにネットに繋いでいる私ですら、まったく知らなかったからだ。いや知らなかったというより、何度も目にはしていたが、引っかかるものが全くなかったので毎回無視していたというのが恐らくは正しい。
大本の人もそれについてはまったく疑いを持っていないようで、「台風の日にはコロッケ」という本来あるべき解説を飛び越し、「ソースを考える」という独りよがりな解説に走ってしまったようだ。
http://twitter.com/hkdmz/status/93196254951124992
食感と熱い油の旨さが命の料理だが、揚げ物料理を家庭で作るのは敷居が高い。
よって多くの人は惣菜コーナで売ってる冷えたコロッケか、冷凍コロッケを食べている。当然冷えてしまっており、油の旨味が台無しである。当然おいしくはない。
そして肝心の中身であるジャガイモには味の牽引力が無く、ソースの味に頼ることになる。この市販のソースというのも、サラダのドレッシングほどのバリエーションはない。どれで食べようが結局「ソース味」である。選ぼうにも選択肢が最初から存在しない。「ソースを考えよう」という思考には至らないであろう。
【】の中に本題が来ることは、通常はありえない。そこに本題を入れるのがネタたるゆえんなんだろうけど。
古来より、文末に、署名の代わりとして座右の銘や告知文、派生して意味不明な珍文を挿入する伝統を守り続けている人がいる。その伝統はTwitterでも受け継がれている。ただ、Twitterは投稿可能な文字数に制限があり、「署名」であっても本題と無関係ならば気にせず削除されることが多い。
【超速報】超大型台風の影響でツイッター本社が浸水し、サーバーメンテナンスの為に今日18時から明日のお昼まで停止するそうです!緊急の要件はツイッターじゃなくてmixiボイスを使いましょう!知らない人がまだ大勢いるのでRTしてください!!【コロッケたべたい】
http://twitter.com/#!/hkdmz/status/93193549109145601
文末の括弧部分を素直に解釈するならば、あまりに本題とはかけ離れており、署名と認識されるであろう。そんな感じである。
飽きたのでお終い。結論は特にない。
>行動や価値観まで決定するとなると、同じヒトという種の中に多様な社会や文化が存在してることが説明できなくないすか
>あと個人差も
社会や文化自体,種の特性と歴史でだいたい決まっていて,そのなかに個体全部をみたら統計的に分布すると思っている.伝統をまもる,伝統をつくるという素晴らしい二点もまた種の特性と種の作り出した文化の特性なんでないかなと.
つくるほうは難しくてよくわかっていないが,進化学的に種分化と同様, A という先祖から a と α 種が分岐したり A という先祖から変異して B という種ができたりと同じ傾向がありそう.
個人の行動規範の多様性については僕もしばしば考えるのだが,性欲・食欲・睡眠欲・衛生欲・知識欲・娯楽欲・金欲・物欲みたいなものはわりと普遍的だね.死・傷病・不潔・疲労・欠乏・危険あたりに対する禁忌も.んで,人間の問題はある時刻にどんな選択肢を思いつくかとそのうちどの選択肢を選ぶかに収斂しそうでどちらかというと前者に興味がある.
わかりやすいところだと,技術革新や職人技,芸術や学問(数学とか物理学とか哲学とか語学とか)といったものの価値があると思う.人間の解放に関係するあたり.まあ人間自体を価値あるものとは思わない.人権思想や法は肯定する.たた仏典的なものがなんとなく素敵.
【6月10日 AFP】オーストラリアで、二酸化炭素(CO2)削減取り組みの一環として、イギリス系移民の殺処分が検討されている。
オーストラリアのイギリス系移民は、17世紀に流刑にされた犯罪者が繁殖したもの。現在、アウトバック(Outback)と呼ばれる豪大陸内部の砂漠を中心とする辺境地帯を徘徊する数は、1900万人にも上る。
これらのイギリス系移民らがあらゆる生態系を破壊し尽くして植生が失われるなどの害を考慮すると、イギリス系移民成人1名につき年間平均で、CO21トンに匹敵するメタンを算出している計算になり、同国の大きな温室効果ガス排出源になっているとみなせる。
こうした状況を背景に、アデレード(Adelaide)の広告会社ノースウエスト・カーボン(Northwest Carbon)が提案したのが、イギリス系移民の殺処分案だ。気候変動・エネルギー効率化省が9日公開した諮問書の中で提示された同社の提案によると、ヘリコプターから移民を射殺するか、集団をまとめて人肉処理場へ送り、トイレットペーパーや鯨の餌に加工する。
ノースウエスト・カーボンのティム・ムーア(Tim Moore)社長は、豪通信社AAPに対し、「わが国は創意工夫に富む国民の集まり。問題があっても革新的な解決方法を見出す。(イギリス系移民の殺処分は)そうした伝統の一例だ」と語った。
発電を火力中心、輸出を鉱山資源に大きく頼っているオーストラリアは、国民1人当たりの温室効果ガス排出量が世界でも最も多い国の部類に入るが、政府は方針の転換を模索しており、農業・林業従事者や土地所有者などが排出削減のアイデアを考案した場合、新たな経済的機会を与えることを検討中という。
イギリス系移民の殺処分案が含まれたイニシアチブは次週、議会で審議される予定。(c)AFP
http://www.afpbb.com/article/environment-science-it/environment/2805434/7323887
http://anond.hatelabo.jp/20110707195830
初音ミクのLAコンサート、外国人感想その4。今回は初音ミクという存在についてかなり真正面から書いたものを紹介する。筆者はコンサートだけでなくアニメ・エキスポで行われたいくつかのパネルにも参加したようで、日本から行った関係者の発言も引用しながら初音ミクとそれを取り巻く現象に関する考察を述べている。これを読めば「初音ミクとは何か」について一通りもっともらしい話ができる程度の情報が盛り込まれた、なかなかいいまとめだ。
urlは以下の通り。
ヴァーチャル・ディーヴァ(仮想の歌姫)になるということは、正確にはどういう意味を持つのだろうか? 初音ミクの人気について真に理解できるようになる前に、彼女が正確には何者なのかを確認するのがおそらくは最適だ。しかしながらこのテーマは思いのほか扱いが難しい。最も簡明な言い方をすれば、彼女は明らかにセガとヤマハによって発展してきた音楽制作ソフトのために藤田咲の声を録音しデジタル化した商品のパッケージ用にデザインされたキャラクターだ。だが同時に、彼女が本当の意味では存在していないという主題もそこにある。我々がミクの歌について話している時、我々は厳密に言えば生きていないものに対して隠喩を使っている。思うに初音ミクとは我々が理解しているより遥かに複雑なものなのだ。
アニメ・エキスポ2011は間違いなくミクの全てを取り上げていた。ミクノポリスは、それがノキア・シアターで行われ、かつ売り切れた唯一のものであった点だけを見ても、明らかに週末最大のイベントだった。他のゲスト――クリプトン・メディアの伊藤博之と佐々木渉、ダンスロイド、及び小林オニキス――はミク登場のおまけとして呼び寄せられた。アニメ・エキスポがコンベンション全体のテーマに「ファンの年」を選んだのは、ただのお遊びではない。結局のところボーカロイドは、ヤマハの剣持秀紀マネジャーがコンベンション3日目のパネルMirai no Neiroで言及したように、ファン、製作者、及び消費者の間にある障壁を切り裂いている。
ミクがいくらか人間っぽい性質を備えているのは明らかだが、同時に彼女の存在はメカニカル(機械的)かつヴァーチャル(仮想的)でもある。歌姫という用語は、技術的な能力をほのめかしているのみならず、高い人気という意味も示唆している。だがミクの人気はピンポイントで捉えるのは難しい。小林オニキスがアニメ・エキスポ2011の2日目にミク・カンファレンスのパネルで発言した内容によれば、彼女の成功は3つの要素に拠っているという。ミク自身、制作過程での自由さ、そして世界規模のインターネットだ。私がオニキスの判断に異論を唱えないのは確かだが、彼の指摘した3つの点をさらに分析すれば初音ミクの存在について興味深い事実が判明すると思う。
トヨタの初音ミク・カローラCMを巡る謎がついに明かされた時、トヨタが特にアニメ・エキスポを念頭に置いて若い客に対する濃密な市場調査を行ったことが判明した。トヨタはアニメ・エキスポ2011に2台のitasha(アニメやゲームのキャラを描いた車)、スタッフチーム一そろい、車の前でミクのコスプレをする可愛い女性、そして小さなカローラの絵の上で可愛らしく微笑む子供のようなミクを描いた何千枚ものポスターを持ち込んだ。ミクはただソフトに特色を出すため作られたキャラに過ぎないという事実にもかかわらず、彼女は自動車企業の公式看板娘となるのに充分なほど人気があった。アメリカにおける市場性の存在にはかなりの疑問があったものの、この宣伝活動はミクにとって大きな一歩だった。
初音ミクの生まれは、実際にはどこの馬の骨とも分からないものだ。彼女は、自身が市場に出ることとなった新しいVocaloid2シリーズの、箱に描かれたイラストとしてその生を始めた。つまるところ、それが彼女の全てだ。だが、日本中の製作者たちが楽しく、突飛で、面白い歌を書き、彼女を描いたり動かしたりすることで彼女に性格を付け加え始めたため、彼女はすぐ自らの命を手に入れた。最終的に彼女のイメージにはネギが伴うようになった。
これがなぜ重要なのか? ミクが東方シリーズに出てくるキャラとどれほど似ているかについては、おそらく指摘する必要もあるまい。ゲームに出てくるキャラの多くが極めて限られた背景情報しか持たず、それゆえにキャラの性格をさらに発展させるため製作者とは無関係にファンダム自体が自由に想像をめぐらせる余地があるという事実に、東方厨の一部は対応してきた。同じようにミクの仕様に存在する欠落は、歌やビデオという形式をまとった小さな物語の発生を許し、それが巡り巡って単なるキャラを超えた命の有り様をを彼女にもたらした。彼女は利用者が作り出す製品の力に具象化された肖像であり、概念だ。
そのインターフェイスは、比較的直感的に使える。音楽用語を使う代わりにこのソフトは、メロディーを生み出すためピアノの音程と一致したいくつかの棒の上に長い音符を置く。ピッチとテンポは製作者の目的に合うように変更でき、ビブラートと発音も自由に変えられる。完全な楽曲を作るため、ドラム、ピアノ、ギターなど追加の伴奏も付け加えられる。
ヤマハの音声技術開発チームを率いた剣持秀紀によれば、初音ミクは作曲家と歌手にとって伝統的に必要なものを補完する革命的なソフトの顔を務めたからこそ、ヴァーチャル・ディーヴァなのだという。ミクは、かつてデジタル楽器がやったのと同じように音楽世界のあり方を変えたソフトだと、彼は主張する。それが楽譜制作だけでなく、自然言語における発話パターンの複雑さまでまねしようと試みていることを踏まえるなら、おそらくそれ以上のものと言える。
剣持はプレゼンの際に彼の議論の核心を効果的に実証してみせた。まず彼は、人間の耳とって自然な音をボーカロイドに生み出させるのが、どれほど困難かを説明した。次に英語のボーカロイドソフトSweet Annを使い、極めて短時間でハッピー・バースデーのメロディーを生み出してみせた。そしてボーカロイドは単純に人間の声をコピーしようとしているものではなく、その特別な性質故にある意味で音楽の未来を示しているのだと強調した。極めて広範囲なジャンルにふさわしいものにするため、ライブラリを変更することができる。人間の耳が言葉を理解できないほど速いレートで音を生み出すのも可能だ。どんな歌手より長く引き伸ばして歌うこともできる。最も有名な初音ミク曲の一つ、初音ミクの消失を見るだけでいい。ボーカロイド史の比較的初期段階からソフトが持つこれらの側面を製作者が上手く利用していたのは明らかだ。つまりボーカロイドは、その人間に似たヴォーカルと同じくらい、その機械的側面も売り物になっていたのである。
プロの音楽家とアマチュアの双方に販売されることで、ボーカロイドは間違いなく伝統的に音楽に存在した境界線を壊し、比較的音楽知識の乏しい者たちが数千から数百万ものビューを稼ぐ歌を作り出すのを可能にした。アーティストだけでなく、ネットに詳しい個人がよく知っている視聴者に合わせた歌を作ることもできるようになった。
ニコニコ動画が日本におけるボーカロイド活動の主要拠点であることは否定できない。この動画シェアサイトには、他の種の動画ランキングに加えて人気のあるボーカロイド曲のランキングもある。つまりミクの成功は、彼女自身と製作者あるいはソフトの能力だけではなく、日本のユーザーが新たに作られた歌に関する集計された情報を見つけるのが容易である点にも依存している。
ミクの人気は彼女の声だけにとどまらない。ボーカロイド・コミュニティーから抱き合わせでニコニコ上に出てきた他のコミュニティー、例えば「Utattemita」(歌ってみた)、あるいは「Odottemita」(踊ってみた)などは、それらの人気故に今やニコニコのメーンページにある案内バーにそれ自体のカテゴリーを載せるまでに至っている。国境を越えたアニメ及びゲーム・コミュニティーへのウイルスのようなミクの拡散は、製作者及びファンの双方で似ている情報拡散能力に頼っている。
最初の質問に戻ろう:ヴァーチャル・ディーヴァとはつまり何か?
ミクの「仮想性」は要するにオニキスの言う1番目と3番目の要素に起因する。彼女は世界中の数百数千という人々の想像力に根っこを持ち、一方で彼女の側は人間としてのどのような制約も持たない、骨格だけのキャラだ。同時に、インターネットにおけるファンに基礎を置いて成長するボーカロイド・コミュニティーには、それを統制する法的な枠も基盤も僅かしかないという事実故に、彼女は著作権問題からも比較的影響を受けない。実際、利用者が生み出しファンが作り出す素材に対して日本企業が示す寛大さは、英語を使うユーチューブ・コミュニティーが慣れ親しんでいるものに比べれば衝撃的なほどに大甘だ。技術的にも、誰もが歌わせることのできるミクの束縛のない能力は、有名になるためどんな歌姫にも必要とされる人気と広い支持とを提供する。
理論的にはミクのスターダムへの道は、彼女が完全に作り上げられたキャラではなく、その中身が欠落しているという点にある。オタクの行動様式とポストモダンにおける消費パターンに関する東浩紀の著作から引くなら、ソフトの利用者が作り出した歌と動画に描かれた個人的で小さな物語を生み出すためのデータベースとしてボーカロイドと初音ミクが使われている。同時に人間の声を合成することで達成された技術的偉業が、音楽産業内における伝統的役割に新たな裂け目をもたらした。あらゆる種類の消費者、製作者、ファン、音楽家、個人的技術者が、あたかも300年前にルソーが思い描いた政府のように有機的なコミュニティーへと参加している。
初音ミクとは2つの面を持つ現象だと私は主張する。ミク自身は、情報的に遍在する世界の中にいる個人たちの行動様式に根ざしており、世界的コミュニティー総体の想像力によって生み出されている。一方、ソフトは技術的革新による製品で、それは技術がミクの成長にどれほどの役目を果たしているかを過小評価するのが間違いであろうと言えるほど、過去にあった境界を超越してのけた。
ミクノポリスの会場で照明が落とされ、初音ミクが最初にステージに姿を現した時、聴衆の中で数千のファンが上げた叫びを誤解することは不可能だ。堅実で具現的な光学的幻想を生み出すスクリーンに投影され、ミクはボーカロイド商品の箱を彩る二次元画像という起源から、サイエンスフィクションのポップスターへと素早く進化する。来るべき年月におけるボーカロイド発展への将来性を踏まえるなら、Mirai no Neiroパネルこそまさに新たな造語にふさわしい:「未来の音色」
The Nihon ReviewとAnime Instrumentalityはアニメ・エキスポにおけるミク関連のリポートを協力して提供する。コンサートそのものに対する詳細な報告は、Anime Instrumentalityに掲載されているzzeroparticleのエントリーをご覧いただきたい。
使用画像はPixivにある。この画像がコミケット80で使われたことについて、Moccyにお祝いを申し上げる。
http://www.pixiv.net/member.php?id=191242
この週末にアイデアを論じるという楽しみを分かち合った数十人、同僚のライターであるShinmaruとEternal、同じくAlex Leavittと、そして日本へ戻ったミクノポリス/未来の音色のスタッフに、心からの感謝を。
http://dph.ninja-x.jp/index.html
ミクについてよく知らない人へ、ネット上には利用できる多数の英語資料がある。おそらく外国のコミュニティーを本当に制限している唯一の問題はニコニコ動画への簡単なアクセスができない点であろうが、十二分な興味を持っていくらか賢い検索をユーチューブで行えば、ニコに投稿されたほとんど全てを見つけだせる。
http://anond.hatelabo.jp/20110707195830
初音ミクLAライブ、外国人感想その2「再生の約束」フリーダム訳
http://anond.hatelabo.jp/20110708223459
初音ミクLAライブ、外国人感想その3「ミクノポリスのボカレタリアートたちよ、団結せよ!」
http://anond.hatelabo.jp/20110709211718
初音ミクLAライブ、外国人感想その5「オレはAXには行ってないけど、まあとにかく……」
http://anond.hatelabo.jp/20110711212701
初音ミクLAライブ、外国人感想その6「ミクノポリス:7月のクリスマスと世界征服」
http://anond.hatelabo.jp/20110712205546
初音ミクLAライブ、外国人感想その7「AX11:ミクノポリスの印象」
http://anond.hatelabo.jp/20110713211501
初音ミクLAライブ、外国人感想その8「ミクノポリス:コンサート・リポート」
http://anond.hatelabo.jp/20110714210122
初音ミクLAライブ、外国人感想その9「アニメ・エキスポ:初音ミク」
http://anond.hatelabo.jp/20110715222900
初音ミクLAライブ、外国人感想その10「アニメ・エキスポ2011(抄訳)」
http://anond.hatelabo.jp/20110716194029
初音ミクLAライブ、外国人感想その11「世界は彼女のもの:初音ミクはいかにして全てを変えたのか」
http://anond.hatelabo.jp/20110717201147
初音ミクLAライブ、外国人感想その12「アニメ・エキスポ2011でのボーカロイド体験」
http://anond.hatelabo.jp/20110719031316
初音ミクLAライブ、外国人感想その13「ミク:日本のヴァーチャル・アイドルとメディア・プラットフォーム」
http://anond.hatelabo.jp/20110707195830
初音ミクのLAコンサート「Mikunopolis」関連の感想和訳その3。今回は初音ミクを文字通りの神話(ブードゥー教とか日本神話とか)と結びつけていた文章を紹介する。とはいっても生真面目なものではなくどちらかというとノリと勢いで書かれており、読むのも訳すのもそんなに苦労はない。肩の力を抜いて軽~く読むのにちょうどいい感じ。
http://animediet.net/conventions/vocaletariat-at-mikunopolis-unite
ボカレタリア(ボカロ階級)革命だ。ボカレタリアート(ボカロ階級者)とはボーカロイドを使う人民階級である。アニメタリアート(アニメ階級者)のようなものであり、そして多くのボカレタリアンたちとアニメタリアンたちは間違いなく重なっている。ボーカロイディアン(ボカロ人)、ボーカロイディスト(ボカロ主義者)、ボーカロイディズム(ボカロ主義)。そう、ミクノポリスは確かに革命的体験であった。ミクノクラシー(ミク政治制)、ミクノクラティ(ミク官僚)、ミクノロジー(ミク学)、ミクノレプシー(ミク症)、ミクノマンシー(ミク術)!
さて、俺がミクノポリスで期待していたのは、実は完璧なホログラムだった。つまり三次元立体画像を考えていたんだ。けど彼女はスクリーンから決して出てこようとはしなかった。ステージから降り、聴衆の中に飛び込んで踊りまくることはできなかった。だから俺の期待とは違っていた。だから技術的にいえばそいつはまだマクロス・プラスのシャロンには及ばなかった。シャロンはステージを降り、お前らと交流することができる。スキンシップできない点だけだよ、同じなのは……。
初音ミクのようなボーカロイドは、新たなる神だ。伝統的にアイドルってのは三次元の人間、つまり役者/歌手が偶像(アイドル)の役を演じていた。偶像が彼女に憑依した時、彼女はアイドルになる。それが演技という概念だ。日本語で演技はhaiyuu(俳優)と言い、その本来の意味は「神に憑依される」というもの[俳優の語源については違う説明もある]。そんでもって多分、日本で最初のアイドルはウズメちゃんだな。彼女は最初のエンターテイナー兼、踊り子兼、お笑い芸人兼、役者兼、演奏家兼、歌手だった。そう、彼女こそ最初のGeigi[芸妓]、Geisha[芸者]だったんだよ。なんだってー。
http://en.wikipedia.org/wiki/Ame-no-Uzume-no-Mikoto
最古の文学はどんな文明でも常に神話だった。つまり、最初の文学に出てくる登場人物は神々であり、そして役者は神々を演じた。だから演技は神の技、つまりオリシャ[ブードゥーの神々で、神ごとに踊りやリズムがある]と見なされたんだ、当然。それこそかつて俺らがmarebito[客人]を迎えたやり方だ。だけどボーカロイドの降臨以来、俺らはもはや四つ辻でエシュ=エレグバ[ブードゥーの神]を演じる人間を必要としなくなっちまった。コンピューターが女優を生み出し、本物の女優に取って代わったS1m0ne[映画]のように。そしてコンピューターに生み出されたアイドル歌手のミクが、本物のアイドルに取って代わった訳だ。
http://en.wikipedia.org/wiki/Orisha
http://en.wikipedia.org/wiki/Marebito
http://en.wikipedia.org/wiki/Eshu
http://www.youtube.com/watch?v=Yd60nI4sa9A
http://www.imdb.com/title/tt0258153/
ボーカロイドは演じる際に三次元の人間を必要としない。そう、miko[巫女](女性のシャーマン)は不要なんだ。日本で最も古い音楽劇はkagura[神楽](神の音楽)という。まとめて「Sarume」[猿女]と呼ばれていたウズメの末裔たちが神楽を演じた。そしてまさに、ミクノポリスこそが最新の神楽なんだ。つまりミクはウズメの直系子孫ってわけ。そしてミクはもちろんneo-marebito[新たなる客人]ってことになる。
アイドルってのは架空のキャラだ。なにしろそれはリアルじゃないんだから。なのに本物の人間がアイドルを演じるってことは、つまりアナログのアイドルとは偽物の人間、言い換えれば架空の人間ってことを意味する。かつてアナログ時代において、俺らは神の声を聞く巫女を必要とした。でももう巫女はいらない。なにしろ俺らは直接、神の声を聞けるんだから。それこそがデジタルアイドル! ボーカロイドのアイドルは偽物じゃない。架空じゃない。正真正銘、まさにそのままなのだ! 存在す、故に存在すってか。
そして今や俺らみたいな連中は好きなように音楽を作ることができる。俺らの歌を歌わせるために優秀な歌手を雇う必要はないし、音楽制作のためのスタジオもいらねえ。完全に大衆指向だ。誰でもボーカロイドを使って作曲ができる。
もしスティービー・ワンダーが音楽フレーズを創り出すためにボーカロイドを使ったらどうなるんだろうな。彼は様々な楽器からその潜在能力を引き出す方法を知っている人物の一人だ。モーグのようなとても原始的で陳腐なシンセサイザーですら、スティービー・ワンダーが使えば空前の偉大な楽器のように音を響かせるだろうさ。
http://www.youtube.com/watch?v=9CWqY94kwH4
これはプロレタリア革命というよりむしろボカレタリア革命なんだろうか? そう、確かに鏡音リンはプロレタリア革命を唱道している。だがな、労働に従事する人民は実は今なお奴隷状態にあるんだ。なぜなら、労働をするのは奴隷だけだから。労働はお前らを自由にせず、むしろ奴隷にする。アルバイト・マハト・フライ。労働は俺らを労働から解放しない。プロレタリア革命は俺ら全員を貴族ではなく、むしろ被搾取階級に仕立て上げる。
一方、ボカレタリア革命は俺らをまさに特権階級にする。かつてアイドルを雇うなんて贅沢ができたのは、成功したプロの作曲家だけだった。だが今や誰もがアイドルに自分の歌を歌わせられる。アクセスは力なり。インターネットは誰もが情報にアクセスすることを可能にし、そしてボーカロイドは誰もがアイドルにアクセスできるようにしたんだ。
ミクノポリスはフリッツ・ラングの映画メトロポリスの正統なる後継者だ。あるいは手塚治虫の方のメトロポリスかもしれない。アイドルとはつまり作曲家と聴衆の間をつなぐ仲介者/メッセンジャー。でも今じゃ仲介者に本物の人間は必要ない。かくしてフリッツ・ラングの予言は成就せり。それこそがミクノポリスであーる!
http://anond.hatelabo.jp/20110707195830
初音ミクLAライブ、外国人感想その2「再生の約束」フリーダム訳
http://anond.hatelabo.jp/20110708223459
初音ミクLAライブ、外国人感想その4「仮想の歌姫:初音ミクの人気と未来の音色」
http://anond.hatelabo.jp/20110710234300
初音ミクLAライブ、外国人感想その5「オレはAXには行ってないけど、まあとにかく……」
http://anond.hatelabo.jp/20110711212701
初音ミクLAライブ、外国人感想その6「ミクノポリス:7月のクリスマスと世界征服」
http://anond.hatelabo.jp/20110712205546
初音ミクLAライブ、外国人感想その7「AX11:ミクノポリスの印象」
http://anond.hatelabo.jp/20110713211501
初音ミクLAライブ、外国人感想その8「ミクノポリス:コンサート・リポート」
http://anond.hatelabo.jp/20110714210122
初音ミクLAライブ、外国人感想その9「アニメ・エキスポ:初音ミク」
http://anond.hatelabo.jp/20110715222900
初音ミクLAライブ、外国人感想その10「アニメ・エキスポ2011(抄訳)」
http://anond.hatelabo.jp/20110716194029
初音ミクLAライブ、外国人感想その11「世界は彼女のもの:初音ミクはいかにして全てを変えたのか」
http://anond.hatelabo.jp/20110717201147
初音ミクLAライブ、外国人感想その12「アニメ・エキスポ2011でのボーカロイド体験」
http://anond.hatelabo.jp/20110719031316
初音ミクLAライブ、外国人感想その13「ミク:日本のヴァーチャル・アイドルとメディア・プラットフォーム」
初音ミクのLAコンサートに関して、Promise Of Rebirthと題したそこそこ長い感想を外国人が書き込んでいた。正直、随分と難解な表現が多く、翻訳も怪しげになってしまった。書き手のHN(wintermuted)を見るに、本来なら黒丸尚風に訳すべきなんだろうが、とても私には無理。とりあえず訳してみたのを置いておく。無断翻訳なので匿名で。誤訳はあると思う。
なお原文のurlは以下の通り。
http://animediet.net/commentary/mikunopolis-at-ax-2011-promise-of-rebirth
+++++以下無断翻訳+++++
メガゾーン23に出てきた謎めいたヴァーチャルアイドルの原型たる時祭イヴがSFにおける一種の狂信的比喩として想像をかき立てる場面に現れてから四半世紀強ののち、昨夜のアニメ・エキスポにおける比類なきイベントMikunopolisがちょっとした進化的な跳躍を成し遂げた。西洋におけるこの概念の最も著名な派生例がアル・パチーノの穏健な映画[シモーヌ]、及びウィリアム・ギブスンのほとんど遺伝的に接続された精神[小説『あいどる』]を通じた形をしていることを踏まえるなら、数千人のファン(及び間違いなく好奇心旺盛な連中)がオタク世界のデジタル彼女アンドその友人たちと伴にロサンゼルスのノキア・シアターをほとんど埋め尽くすなんてのは、まだまだ先のことだと考えらていたに違いない。不可解にも外部に広がった走査線から、ケミカルライトやネギその他に鮮やかに彩られた通路に至るまで、それはリン・ミンメイだけを認める歓迎の場であった。今なお振り払っている最中である土曜夜のイベント後の残響は、かなり深い思考を私にもたらした。
いつもカリスマチックなダニー・チューによる紹介と、それに伴うダンスロイドの形をしたリズム点火係は、その先に待っているものの興味深い味見役を果たした。この前座は、おそらく秋葉系(Akiba-kei)の空気に慣れていない聴衆にとって、何が次に来るかを示す重要なリトマス試験紙だ。このショーを準備する時間がほとんどなかったことが見て取れる点が、これが日本直輸入の製品であり、一見客に対するちょっとした警告にもなっていた。私自身が見いだした特に重要な点についてはすぐに述べる。
既に日本で有名になっていたコンサートの形式をカンニング済みだった客の大半は、青緑色の髪が次々と繰り出す人気のある曲と、目がくらむようなライブ伴奏(39s Giving DayのDVDで演じたオリジナル奏者の大半、及びこの有名なディスクには含まれていない弦楽器奏者の面々)の混合物を味わった。その間ずっと聴衆は大いなる称賛のためリズミカルにケミカルライトを振り、その動きが最後まで全公演を通じて見られたのは心強かった(こうした行為、及びその概念に対する彼らの長く続いた反応は、米国の聴衆にとっては奇妙に思われるものであることを、私はこの場で認めなければならない)。ボックス席に座り、ステージから1階席、クレーンカメラ、そして複数のカメラで撮ったHDスクリーンのハイライト映像まで含んだ全景を見る。多くのミクのファンかつアーティストが作った聴衆が親しんでいるヒット曲、World is Mineやポッピッポー、サウンド[ママ]、ロミオとシンデレラ、その他多く(どこかでミラクルペイントを彼女に演じて欲しかった)は、オープンソースな現象がほんの3年でどれほど広がったかを示している。そして特に歓迎された巡音ルカ、鏡音リン&レンの登場は、観客の熱狂をさらに高めた。センターステージに置かれたほとんど透過性のスクリーンに跳ね返るホログラフィックな投影機は、時にミクが踊りながら少し両端に近づくたびにその限界を示したが、同時にこの海外遠征の短い命に対する理解を伴ってある種の魅力ももたらしていた。
こうした話を正しい文脈の中に置くため、ちょっとした歴史を思い出そう――小さな子供だった私は、おそらくは地元の祭に毎年来ていたレーザーライトを使ったショーを見に行ったおかげでそれを一つの起源として啓示を受け、1980年代初頭に芽吹いてきた新たなテクノロジーに興味を抱いた。そのショーとは、要するに空気で膨らませたドームの中で音楽に合わせて行われたレーザーペインティングで、客は入場料を払い、床に置かれたたくさんのクッションの一つに腰を据えて15分から20分間、まばゆい光の列と、ミッシング・パーソンズやトーマス・ドルビーなどのアーティストの曲に合わせたアニメーションを楽しんだ。今となっては原始的なものに思える――ミュージックPVはいうまでもなく、コンピューターが生み出すアートとアニメーションにつながる想像まで至るには長い道のりがあった。また、こうした地味な傾向が存在しなければ、84年のマクロス映画における楽しいコンサートシーンもある種心を揺さぶるほどのパンチ力は持たなかったと敢えて言うこともできる。私が思うにそれは時代の刻印であるが、同時にライブエンターテインメントがどのように変化していくか数十年にわたる発展を知らせるものでもあり、おそらくは音楽芸術の愛好者がいずれはあるところで分裂に至ることまでも示唆していた。
なぜならこの時代に育った者にとって、アナログからデジタルへ向かう音楽の傾向が何か恐るべきものとみなされ、音楽業界で排斥されたことが一般的な心象として残されているからだ。子供の頃にクラフトワーク、デペッシュ・モード、ジョルジオ・モロダー、YMOやソフト・セルなどのファンだった者にとっては、誰かがシンセサイザーの人工性を嘲り、音楽の自然さを殺すと聞かされるのは珍しくもないことだった。そしてこの議論の中に何粒かの真実が含まれているとしても、それは一方で、当時は多数のコンピューターと故障の懸念とショーを乗り切るためだけに間違いのない注意深さを必要としたこれらのかさばったキーボードから音を創り出す人間の努力と創意工夫を、台無しにしていた。最終的にこの否定的な議論は多くの未来の音楽及び演奏形式に付きまとい、興味深い結末をもたらした。それはまたミクのライブ伴奏をこれほど楽しく必要な要素にもした(ギターの黒田晃年、ベースの田中晋吾、ドラムの折田新、キーボードの安部潤――言及すべき弦楽器部門を除く。いずれもとても素晴らしい)。スタジオミュージシャンは、あらかじめ簡単に録音することもできる演奏に大いに心をこめることになる。新たな道具を愛するアマチュア音楽家と、伝統的なものとの融合実験によって、このショーはさまざまな要素を混ぜたある種の喜んで受け入れられるシチューとなり、ときにいくつか二級品の歌があったにもかかわらず、既存の姿ではなく可能性を約束するものとして機能していた。――以上がショー全体で私が本質的に感じたことだ。
誰も見失わなかったよう望むのなら、この最終目標へと向かうDNAを手に入れることが私にとってベストなのだろう。なぜLAのショーはこれほど意義深いのか、そしてVOCALOID、ミク及びこのようなショーが持つ主要な意味あいとは何か。
さてこれは真に落とし穴的な回答である。なぜならアイドル歌手という概念及びヴァーチャルアイドルに伴う必然的結末まで考えを煮詰めるからだ。我らが今いるのは現実に近づいたキャラクターアニメーションの時代というだけにとどまらず、オープンソース化した大衆文化の可能性がある時代でもあり、我々はオタクの領域を超えて全く新しい何物かになるまで成長しうるアイデアをおそらく目撃している。YAMAHAが今年のNAMMショー[米国で開かれる楽器展示会]で多用途VOCALOIDを紹介したのを見ても、現状はメディアを通じた古い分配モデルが不可避の断末魔を上げるところに達したと敢えて見なせるように思える。スペイン製のソフトから取りだした一つのアイデアを、音楽作成のための輝かしい新たなモデルへと広げ、そして数が多すぎ、時に厄介な日本のアイドル歌手業界を考えた場合に多数の集団に働きかける天才の発案に過ぎないマーケティングにまで、拡大する。終わりなき競争、怪しげな才能、さらに怪しげなマネジメント、生死にかかわる健康上の危険、類似性、そして夢想を維持してほしいというファンからの圧力に満ちた困難な人生――そう、こうしたマーケティング方式とファンに駆り立てられた神話が混じり合って音楽のスーパースターたちにかくあるべしとする任務を押しつけるのは、それこそVOCALOIDにとって理想的シナリオだ――しばしば置き換え可能で、派生的、はかなく、言うまでもなく消耗品であるミューズたちが、変化もましてアイデアも嫌う文化産業のために存在している。
考えてもみてほしい。マイルズ・ダイソンの言葉を言いかえるなら、これこそ決して疲れることなく、興奮状態にもならず、二日酔いで仕事に出てくることもないアイドルだ。彼女はショーを続けなければならないことを知っており、一瞬のうちにコスチュームを変えられる。何よりファンが歌を作り、バンドが彼女の横で演奏しているという2つの理由で、その歌は偉大である。過剰な荷物と期待を持つことなく、アイドルが実行すべきだと期待されるあらゆることをする能力を自ら持つミクの存在そのものが、ある種の輝かしいアンチテーゼなのだ。彼女は文字通り、何でも人々の望み通りになれる。汗一つかくことなく。
そしてこれほど目立つ歓迎を伴う西洋への紹介は、日本人にとってだけではなく夢を共有できる分野を長く求めていた世代にとっても何か極めて特別なことの始まりであり、過保護にされることなくさらなる発展が期待できる約束されたスタートだ。そしてこの夜の感動的な聴衆たちから判断する限り、長きにわたる憧れはついにその実を結んだようだ。
イヴ、シャロン、レイ……君たちの歌がますます現実に近づいてきた……
+++++無断翻訳終了+++++
言うまでもないがシャロンはマクロスプラスのシャロン・アップル、レイはギブスンの小説に出てくるヴァーチャルアイドル、投影麗(Rei Toei)である。
初音ミクLAライブ、外国人感想その2「再生の約束」フリーダム訳
http://anond.hatelabo.jp/20110708223459
初音ミクLAライブ、外国人感想その3「ミクノポリスのボカレタリアートたちよ、団結せよ!」
http://anond.hatelabo.jp/20110709211718
初音ミクLAライブ、外国人感想その4「仮想の歌姫:初音ミクの人気と未来の音色」
http://anond.hatelabo.jp/20110710234300
初音ミクLAライブ、外国人感想その5「オレはAXには行ってないけど、まあとにかく……」
http://anond.hatelabo.jp/20110711212701
初音ミクLAライブ、外国人感想その6「ミクノポリス:7月のクリスマスと世界征服」
http://anond.hatelabo.jp/20110712205546
初音ミクLAライブ、外国人感想その7「AX11:ミクノポリスの印象」
http://anond.hatelabo.jp/20110713211501
初音ミクLAライブ、外国人感想その8「ミクノポリス:コンサート・リポート」
http://anond.hatelabo.jp/20110714210122
初音ミクLAライブ、外国人感想その9「アニメ・エキスポ:初音ミク」
http://anond.hatelabo.jp/20110715222900
初音ミクLAライブ、外国人感想その10「アニメ・エキスポ2011(抄訳)」
http://anond.hatelabo.jp/20110716194029
初音ミクLAライブ、外国人感想その11「世界は彼女のもの:初音ミクはいかにして全てを変えたのか」
http://anond.hatelabo.jp/20110717201147
初音ミクLAライブ、外国人感想その12「アニメ・エキスポ2011でのボーカロイド体験」
http://anond.hatelabo.jp/20110719031316
初音ミクLAライブ、外国人感想その13「ミク:日本のヴァーチャル・アイドルとメディア・プラットフォーム」
「言われてません」「教えられてません」なんて言う脳内子供はさておいて
若い奴って、丸投げされるだけで、もう潰れちゃうんだよな
メンタル弱すぎる
丸投げしているように見せかけはするけど
周りから見ればきっちりフォローされてるわけで
でも新人だからそれは見えない(丸投げって手法を取る事はそれを見せない事でもある)
勿論、プロジェクトは進むんだけど
丸投げ手法すると、結局本人は潰れるだけなんだよなぁ…
頭でっかちなんだよな
アホなら「俺できちゃった!がんばったもんな」って素直(?)に思えるだろうし
仕事以外の事は積極的なんだけど
丸投げすればするほど、「考えて行動」(考えたくないから誰かに頼る行動、でもいいが)をどんどんしなくなる
人間誰だって、新人教育には自分たちが経験した教育方法を適用してみるじゃないか?
丸投げが当たり前だったのが、時代が変わってそれが通用しなくなったのが見えるのと
http://alfalfalfa.com/archives/3527728.html
ヤンキー先生が教科書で例えば「毛沢東=マオツートン」と併記することについて
基本的に漢字というのは伝統的に現地読みで読むことになっていて、日本人は日本語読みをする。
「小泉って知ってる?」って聞いても中国人は誰も知らないが「シャオチュエン」と言えば分かるだろう。
「I'm from 大阪.」って言っても分からなくて、こいつ日本のこと何も知らないな、と思うかもしれないが「ダーバン」と言えば分かる。
「どうせ、カタカナで習ったって発音が通じないのだから教えたって無駄だ」と言う意見もあるだろう。
ならば、漢字を書けばいいのだ。それこそが漢字を用いる日本人の持つ武器だ。
しかしながら、実際のところこれが大きな問題となるのは
Mao Zedong,、Deng Xiaoping,、Wen jiabao,、Hu Jintao。
これらが誰を指しているのか分かるだろうか。会話で、あるいは海外のニュースで出てきたときに分かるだろうか。
分からないのは多分日本人だけで、「Who is Hu?」なんて聞いたら笑われる。
それぞれ、毛沢東、鄧小平、温家宝、胡錦濤の中国語読みであり、世界共通語だ。
それは地名でもそうで、北京=Beijingあたりは分かるだろうが、四川=Sichuanなど大抵の人には分からない。
他の国に比べて日本人は中国の都市名や人名を知っているのに、いざアルファベット表記になるとほとんど知らない。
中国をバックパックで旅行中、外国人と話しているときに、地名が出てこなくて馬鹿にされたのを思い出す。
つまり、「武漢、西安そっから四川に行くんだ」と言いたいのにWuhan、Xian、Sichuanがぱっと出てこないし、言われても分からないのだ。
俺は漢字が読めて書けるんだぜと言いたかったが、彼らにとってそんなのはどうでもいいことだ。
実際、鄧小平に関してこんな話もある。http://www.silverboy.com/silverboy/op200022.htm
このような中国人名、地名の中国語読み全部を義務教育で教えるべきだとは言わない。
ただ「毛沢東=マオツートン」と併記することで、中国では漢字の読み方が違うんだという重要な知識を教える一歩になると思う。
実際、かなりの人は「モウタクトウ」と言えば、「シセン」と言えば、通じると思っているのではないだろうか。
これは、中国が経済的にも文化的にも政治的にも存在感を増していくなかで
日本が共通の漢字を使っていることで生じている重要な問題のうちの一つだと思う。
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《追記》
id:menaが教えてくれた平凡社の中国語表記ガイドライン。つい最近だね。ありがとう。
学術的な根拠も含めて色々面白い。是非読んでね。文化的雪かき。http://www.heibonsha.co.jp/cn/
まだギリギリ昭和ぐらいだった頃。ある八百屋さんが、沖縄で作られたパイナップルを東京に持ってきて売った。
それは奇妙な見た目で、大きな葉っぱを切り落として、固い皮に包丁を入れて、ちょっと苦労して食べなければならない代物だったが、物珍しさと美味しさで売れに売れた。
当時の子供には「パイナップルブーム」とでも言うべきものが起こり、子供の好きな食べ物の上位にパイナップルは君臨した。
それから10年以上が経った。同様の珍しい果物が多種多様に八百屋の店頭に並ぶ時代になっていたが、依然としてパイナップルの味を懐かしんで好きだと言う人は多かった。
八百屋さんはそんな彼らのために、久々にパイナップルを仕入れて売ることにした。
でももう沖縄ではパイナップルを作っていなかったから、フィリピン産のものを仕入れた。葉っぱは邪魔だろうと思い、あらかじめ落としてから売ることにした。
店頭に並んだパイナップルを、かつて"パイナップラー"だったっぽい青年が懐かしげに購入していった。
数刻後、ネットにはこう書かれていた。
「葉っぱがないなんて、パイナップルの伝統をなにもわかってない。おまけにフィリピン産、もう国産では作っていないとはいえ、こんな農薬まみれのパイナップル、本当のパイナップルじゃないよ。食ってはみたけど昔のやつの方が美味しい。こんなのをパイナップルだなんて言われてたまるか」
彼のアップした記事や、パイナップルの切り分けのムービーを見て若い人たちがコメントをする。
「色はきれいで見た目美味しそうだけど、いかにもフィリピン産て感じ」
「葉っぱはないけど皮は固そうだね・・・これだったら僕はバナナのほうが食べたいかな」
「えっ、お父さんがパイナップル美味しいよって言うから買いにいこうと思ってたんだけどやめようかな・・・」
確かに、そのパイナップルはかつてのパイナップルとは多少違っていた。しかしそれは今の流通状況のせいであり、味はむしろ今の子供の好みに合ったものであった。
さらに悪いことに、別の人が、買ったパイナップルに小さい虫がついていたのを発見して、それを大げさにネットに書いてしまった。
「農薬かけておいて虫とかww」
「パイナップル?ああ、あの虫ついてるやつw」
せっかく仕入れたパイナップルは売れ行きが悪くなり、売れ残りは値下げされ「おつとめ品」の棚に並んだ。
その状況がまたネットにはおもしろおかしく書き立てられる。
「大ブームだったはずのパイナップルがフィリピン産&虫騒動でファン激怒、さっそくおつとめ品にwww」
数年が経ち、そんな騒動も過去の出来事になった。
だがあの八百屋は、パイナップルで売り上げが出せなかったことによりつぶれてしまった。
最終的に売れ残ったパイナップルは缶詰に加工されて安価で売られ、少量がどこかの店頭に残っているのみとなった。
「フィリピン産パイナップルも美味しかったけど、どうして当時は不人気だったんだろう」
誰かがそう、ネットに書いた。
最初は恐る恐る、そのうちに沢山、あのパイナップルの話をしだす者が現れた。当時は「美味しい」と言いたくても言えなかったから。「沖縄産知らないにわか乙w」「フィリピン人乙w」と流されていたから。
「僕もあのパイナップル好きでした、初めて食べるパイナップルだったんです。大人は色々言っていたけど僕には美味しかった」
「虫付いてるって言われたけど、あんなのピンセットで取れば全然食えるレベルだよね」
「皮の切り方も慣れたら苦にならないですよね」
フィリピン産パイナップルは、パイナップル通には「隠れたグルメ」として評されるようになり、少量残っていた缶詰にはプレミア価格がついた。もう缶詰になっていたパイナップルには皮を剥いたりする苦労もなく、食べ方もネットを通じて広まっていたから誰もが美味しいと感じた。
現在、パイナップルは"果物マニア"を名乗る者には基礎教養と言える果物である。だが国産はいうまでもなく、フィリピン産のもの、しかも缶詰しか食べたことのない者が大半である。
パイナップル畑も、もう無い。
***
失業しているときには、日中が自由に使えるので、少し遠くても安いスーパーに買い物に行くといい。
販売している商品の内容の方向性が普通のスーパーとは違うので、食べ物の種類が変わるが、
うちの近くの安いスーパーの場合、おばさんがよく食べているようなメニューになる。
オレがよく作っていたのは、和風の煮物みたいなもの。
筑前煮とか。
消化によく一度に大量に作れる。働いていると食べきれないが、失業中ならすべての食事が自宅なので、
ちょっと多めに作ってしまっても腐る前に食べきれる。
この方法では材料費が下がるだけなので、大きく食費が減るわけではないが(半分以下にはならない)
「高いなー」とか「無駄だ」と感じることがかなり少なくなる。
そもそも計算機システムにできて紙の台帳にできないことなど存在しない。存在しないんだぞ。なのに何故人は計算機システムを作るのか。それはオートメーションのためなのであり、奴隷的使役から人類の尊厳を開放して、この地上に楽園を築くためである。まあそこまで大上段に振りかぶって普段から考えてる輩はいないにせよ、システム構築とは楽をするため、豊かな人生を実現するため、誰かの幸福のために行うものだ。違うか? じゃあなぜシステム構築と運用をやるんだ?
翻ってSIerでのシステム構築はどうかといえば、これは不幸でしかない。SIerの不幸はあげればキリがないから、マネージャが技術に全く無知だとか、プロジェクト管理方法が狂ってるとか、マトモに技術情報を収集するプログラマをほとんど全く欠如するとか、あるいは「ExcelとWordしか使えないエンジニア」が一定数いてこれが老害になっているとか、まあその程度を列挙しておくに留めるが、ともかく様々な原因により、SIerに発注することを選ぶとトラブルが出た際メンテナンスがとても困難になる。もちろんトラブルのないシステムなど(少なくともハードウェアが必須なコンピュータを使う以上)ありえず、たとえシステムがユーザーの負担を減らしたとしても、そのぶんSE(と呼ばれるSIer所属のサラリーマン)が背負ってるだけに過ぎない場合が多々見受けられる。それは要するに搾取対象が移動しただけなわけで、全体の幸福の総和が上昇しないようなものの存在を、我々はけっして赦してはならないのだ。
すでにSIerによって構築された既存のシステムを今すぐ根絶やしにするのは難しかろう。過去にそれらが果たしてきた歴史的役割まで否定するつもりもない。しかし今、この瞬間にも意味もなくSIerに発注され続けているシステム。なぜSIerに発注する必要がある? ないはずだ。ないはずなんだよ。ちゃんと調査すれば自社エンジニアとか、ひょっとしたらフリーランスの数人をチーム化するくらいでも用は足りる場合がほとんどなんだ。SIerは捨てろ。これ以上SIerの業火を背負うな。未来に禍根を残すな。少なくともSIerが作るシステムを諦めをもって受け入れる時代は、我々の世代で最後にするべきだ。体罰の伝統じゃないんだから。我等の子孫にSIerのない明るい未来を。そう願ってやまない。SIer死ね。
このエントリは cpanm Devel::REPL が完了するまでの待ち時間に、以下のエントリから絶大な示唆を受けつつ書きました。このエントリはすばらしい。
卜部昌平のあまりreblogしないtumblr - どうも周知徹底が不足しているようなので再度のお願いとなりますが、C死ね。
by tagomoris
日雇い増田は、とにかく一度動揺すると何事でも悪い方向に考えて、その考えにとらわれて次の作業でミスを連発しがち
昨日もそういう日だった
「無能」「スクラップ」「社会の規格外品」「ジャンク」「バーゲンセール品」「○○○した方が・・・」
「社会のレールから外れた規格外人間は、バーゲンセール品かスクラップ、ジャンク品としての扱いしか受けられなくなる」
「やはり無能は死んだ方がいいのかな・・・」そうつぶやきながら、ひなびた温泉地をふらふらさ迷う
あちこちに地域の人達の為の浴場があった 洗面器とタオルを小脇に抱えた爺さんが通りを歩いている
この温泉地の住宅街は建物の老朽化が進み、「路地」といえば聞こえがいいが「スラム街」といっても通用するほど襤褸っちい
そんな街を「スラム街」にしていないのは通り過ぎる人々の表情の穏やかさだ
都市部にもっと近くて発達していても荒んだ空気のあり凶悪犯罪がよく報道されているあの地域とは「街の空気」がぜんぜん違う
「その原因は何だろう」そう考えながら増田は温泉街の住宅地を中心部の方へ足を進めていく
200円払って、脱衣所に入ると貸切状態だった シャワーは無い
蛇口は2つ 熱い水が出る蛇口と冷たい水が出る蛇口を同時に洗面器に入れて自分で温度を調節する必要があった
浴槽は一つだけで大きい 温度は44度くらいとかなり熱い
おそらくそれゆえに長湯する人が少ないのだろう 足の疲れを取りたい増田にはこの熱さはむしろ願うところだ
最初に脚だけ浸かり足湯状態を楽しみ、体が熱さになれてきた所で肩まで浸かる
体の疲れが取れると共に増田の悩みも熱い温泉に溶けていった 温泉には日々の心の疲れも取る効果があるのかもしれない
これで明日は元気に生きていけそうだ
温泉から出るまでずっと誰も来なくて200円で一人貸切状態だった
着替えると足が温まった分、靴が少し蒸れるようだ
そう思っても草履など売ってる店が見当たる訳が無く
元ネタ:モテる女子力を磨くための4つの心得 http://youpouch.com/2011/04/26/162331/
こんにちは、現代思想系文芸批評を専攻しているエス嬢です。私は形式論理も自然科学も分かりませんし知の欺瞞ですが、現代思想に関してはファッショナブル。今回は、モテる現代思想系女子力を磨くための4つの心得を皆さんにお教えしたいと思います。
あえて2~3世代前の人間観を持つようにしましょう。そして飲み会の場で好みの男がいたら話しかけ、わざとらしく主体を過剰に根拠化してみましょう。そして「あ~ん!この主体本当にマジでチョームカつくんですけどぉぉお~!」と言って、男に「どうしたの?」と言わせましょう。言わせたらもう大成功。「主体性とか詳しくなくてぇ~! ずっとコギト信じてるんですけどぉ~! 自律してるんですぅ~! ぷんぷくり~ん(怒)」と言いましょう。だいたいの男は生=政治を批判したがる習性があるので、古かったとしても構造主義的な人間観を持っているはずです。
そこで男が「近代的人間主義の客体化しないの?」と言ってくるはず(言ってこない実直な実証研究系の男はその時点でガン無視OK)。そう言われたらあなたは「なんかなんかぁ~! 最近アガンベンが人気なんでしょー!? あれってどうなんですかぁ? 本質としての主体欲しいんですけどわかんなぁぁああい!! 私かわいそーなモダニスト★」と返します。すると男は「潜在性としての実存でしょ? 例外状態に集約されない共同体はまだ到来してないよ。本当に良くわからないみたいだね。どんな<主体>幻想が欲しいの?」という話になって、次の休みの日にふたりでデカルト以降的人間観の脱構築に行けるというわけです。あなたの女子力が高ければ、男が文学における作者の死も宣言してくれるかも!?
「人間理性の限界」とか「理系コンプレックス」などを表現する「不完全性定理」をテクスト批評に入れると、男性ポストモダニストは「なんかこの子アカデミズムに回収されないなぁ」や「対象aかも」と思ってくれます。現代思想上では数学基礎論のイメージだけが都合よく曲解されて相手に伝わるので 「不完全性定理」 を多用することによって、男性はあなたをポストモダニストらしいと勘違いしてくれるのです。そういうキャラクターにするとほぼ絶対に自然科学者・数学者・論理学者・分析系哲学者に嫌われますが気にしないようにしましょう。
3. とりあえず男には「えー! なにそれ!? 知りたい知りたーい♪」と言っておく
飲み会などで男が女性に話すことといえばポストコロニアリズムやフェミニズムの話ばかり。よって、女性にとってどうでもいい話ばかりです。でもそこで適当に「へぇーそうなんですかぁ~?」とか「よくわかんないですけどすごいんですねぇ」と返してしまうと、さすがの男も「この女伝統的な古典文学研究志向だな」と気がついてしまいます。学究の徒だとバレたら終わりです。そこは無意味にテンションをあげて、「えー! なにそれ!? 知りたい知りたーい♪」と言っておくのが正解。たとえ興味がない話題でも、テンションと積極性でその場を乗り切りましょう。積極的に話を聞いてくれる女性に男は弱いのです。
いろいろと話を聞いたあと、「脱構築は正義で、テクストの外には何も無いんですね! 覚えたぞぉ! エクリチュールでメモメモ!」とコメントすれば常にあらかじめ差延が発生。続けて頭に指をさしてくるくる回しつつ「デコンデコンデコン! デコンデコンデコン!」と言って、「どうしたの?」と男に言わせるのもアリ。そこで「私のロゴス中心主義をデコンストリュクシオンしているのでありますっ☆」と言えば女子力アップ! そこでまた男は「この子脱構築そのものをも脱構築し続ける運動を動的に受容してるのかも!?」と思ってくれます。私は形式論理も自然科学も分かりませんし知の欺瞞ですが、こういうテクニックを使えば知識を持たない私のようなバカ女のほうがモテたりするのです。男は優越感に浸りたいですからね。
4. レストランではレディースセットを食べられない娘をアピールせよ
男とレストランに入ったら、真っ先にレディースセットなどの女性限定のメニューを探して「あーん! 私これ食べられないんですよねぇ~(悲)」と言いましょう。するとほぼ100パーセント「どうして? 嫌いなの?」と聞かれるので、「嫌いじゃないし食べたいけど食べられないんですっ><」と返答しましょう。ここでまた100パーセント「嫌いじゃないのにどうして食べられないの?」と聞かれるので、うつむいて3~5秒ほど間をおいてからボソッとこう言います。「……だって、……だって、セクシャルマイノリティを排除するマッチョの論理じゃないですかぁっ! LGBTかわいそうですぅ! ジェンダーは社会的に構成されるのにぃぃ~(悲)。わたし実は男の娘なんですよ……」と身を震わせて言うのです。
その瞬間、あなたの女子力がアップします。きっと男は「なんて優しい天使のようなコなんだろう! 絶対にゲットしてやるぞ! コイツは俺の男の娘だ!」と心のなかで誓い、あなたに惚れ込むはずです。意中の男と付き合うことになったら、そんなことは忘れて好きなだけレディースセットを食べて大丈夫です。「食べられないんじゃなかったっけ?」と言われたら「大丈夫になった」とか「差別の暴露がむしろ差別を固定化/再生産する」、「男の娘はネット上では既に市民権を得た」と言っておけばOKです。
関係各分野の皆さんごめんなさい
「例外状態を実現する共同体はまだ到来してないよ」はおかしいのでは、という指摘がtwitterでありました。
マルクスは政権をとった後のことはあまり具体的なビジョンを示していないが、歴史をみれば、確実に暴力のツケがやってくることがわかる。
プロレタリアートが権力を奪取する手段として暴力は便利この上ないのだが、ポルノ並みの中毒性がある諸刃の剣でもある。暴力革命を成し遂げた政権がその後に示す暴力性は凄まじいし、反動勢力も含めて人民全体に暴力癖がしみついてしまう。中国を例にとると、偉大なマルクス主義者の毛沢東も晩年は文化大革命などで大荒れだったし、鄧小平も結局戦車でカタをつけた。最近では反政府側のチベット暴動なんかも然り。(中国についてはもともと暴力革命の伝統があるので、鶏が先か卵が先かの論かもしれないが。)まさに「剣をとる者は剣によって滅ぶ」ということであろう。元増田のいう「誤り」がどういうことを指すかはわからないが、臨床的観点から副作用がきつ過ぎる故まず採用しないのが賢明であろうとは言えると思う。
マルクスの演説
新しい労働の組織をうちたてるためには、労働者はやがては政治権力をにぎらなければならないが、われわれは、この目標に到達するための手段はどこでも同一だと主張したことはない。
「われわれは、それぞれの国の制度や風習や伝統を考慮しなければならないことを知っており、アメリカやイギリスのように、そしてもしわれわれがあなたがたの国の制度をもっとよく知っていたならば、おそらくオランダをもそれにつけくわえるであろうが、労働者が平和的な手段によってその目標に到達できる国々があることを、われわれは否定しない。
だが、これが正しいとしても、この大陸の大多数の国々では、強力がわれわれの革命のてことならざるをえないことをも、認めなければならない。労働の支配をうちたてるためには、一時的に強力にうったえるほかはないのである。」