はてなキーワード: 伝統とは
さっきから俺にかまってくれてる人同一人物な気がする。政治学とかを修めた方ですか?
気が向いたならばなんで天皇制擁護論者なのか教えていただけませんか?
今とくに問題なく機能していることを考えて、無くすという労力やリスクを考えると~っていうような全体的な見方で天皇制擁護と言っているのか、
自身の精神的な何かとして天皇が必要だからそう言っているのか、
はたまた両方なのか。
もしくはもっと色々な考え方があるのか。
追記→あなたのおっしゃる「伝統を重視する保守主義」の概念がよくわかりません。
要は、政体の保守ではなく、理性を懐疑し伝統を保守することを重視する、ってことですか?
教養がないのでわかりません。答えるの面倒ならこの本嫁程度で良いのでおねげえしやす。
http://anond.hatelabo.jp/20110309115607
宣伝車『えー、地域の皆様、毎度ご利用ありがとうございます。みなさまの、地域の安全を安全に脅かす、悪の組織、悪の組織でございます。
不要になりました、正義の味方、良心、古くなりました必殺技 など 安全に 回収させていただいております。
押入れにをいつも邪魔する、最終合体ロボ いまなら、無料 無料でお引き取りいたします。
その他、小さないざこざから、大きないざこざまで 良心価格で 販売中でございます。
歴史と伝統、 元祖、悪の組織、悪の組織 をよろしくお願いいたします。
今後とも、信頼と実績で、地域の皆様に、良質な悪を提供してまいります。 ありがとうございます。 ありがとうございます。
』
後輩『せんぱーい、おれらなにやってるんすかねー』
さて、タイトルで「議院内閣制」「二院制」「二大政党」と並べられていますが、これはそれぞれ制度として次元が違う話です。また「この3つの制度を組み合わせて使った方が良い」とかいう根拠は政治学的には特段存在しません。例えば、「強い大統領制-二院制-二大政党」のアメリカ、「議院内閣制-一院制-二大政党」の現在のスウェーデン、「議院内閣制-二院制-多党連立」のイタリア、といったように各制度とも、様々に他の制度との組み合わせが存在します。もちろん英国のように「議院内閣制-二院制-二大政党制」でやっている国もありますが、これが特別にメジャーな組み合わせというわけではありません。
そしてこの3つの次元の違う制度の中でも、「二大政党」は他の2つとレイヤの隔たりが大きいです。「議院内閣制&二院制」と違って「二大政党」は時に「二大政党制」などという風に「制度」として扱われますが、厳密に解釈すれば「制度」として(すなわち法的な根拠を以て)「二大政党であるべき」と定められているものではないからです。「二大政党」というのは「結果としてそうなってる」という状態を指していっているものですので、本来的には制度ではありません。それでも「二大政党制」という言い方が(政治学においても)許容されるのは、二大政党の国の大半は、小選挙区制度等で「二大政党になるよう誘導している」実態があるからです。直接的には「二大政党制度」という法的規定が無くとも「立法精神において二大政党を期待・想定している」と言えることが多い、という程度の根拠なのです。
日本の政治制度も、もちろんこの区別の原則から外れるものではありません。「議院内閣制&二院制」は「日本国憲法」という最高法規で規定されている制度of制度な代物ですが、自民、民主の「二大政党制」になったのは、あくまで「選挙制度(及び政党助成金等の法規定)を大政党に有利な制度としたこと」「大政党有利な選挙制度をひっくり返す程の大きな民意の動きはなかったこと」の結果でしかありません。
長々と前置きしましたが、「議院内閣制」「二院制」といったレベルの狭義の『制度』と、「二大政党」のような実際的な『政党のありよう』は、政治制度論的には全く別レベルの話だ、ということです。
以下、本題。
●他の国のように二大政党制に~
良く聞く言説ですが、これは「間違い」に近い話です。日本では米英の政治が有名なため、あたかも二大政党制が欧米の標準的な制度のような印象がありますが、政党結社の自由が保障されてる国に限っても、二大政党になっている国はむしろ少数派です。しかもその過半を英連邦またはその流れを引く国家で占めています。二大政党は「民主主義国の標準的な制度」ではなく「アングロサクソン系国家での標準的な制度」です。
更に言えば大国で単独政権が普通な国は英米と昭和日本、サイズを広げてギリシャくらいで、二大政党制の国でも連立政権の方が普通です。英米の政党のあり方はかなり特殊で、英米それぞれに、特有の固有事情によって成立している面が大きいのです。
●一党優位用の仕組みを二大政党時代に利用しているのが問題だと~
日本の政治制度は、憲法で規定されているような大枠の部分では、別に一党優位を想定した仕組みではありません。日本の政治制度を大枠で分類すると、「立憲君主国-議院内閣制-(民選第二院型の)二院制」と言うことになりますが、これは結社の自由が保障されている民主主義国家では比較的ありふれた組み合わせです。天皇制を維持することを前提とした上では最も無難な標準パターンと言えるでしょう。このありふれたタイプの政治制度の国での政党のありようは、分極多党制、穏健多党制、二大政党制、一党優位制(例は戦後日本とマレーシアぐらいしか思いつきませんが)など様々です。従って、この「大枠」の部分について「一党優位用の仕組みである」とするのは無理があるでしょう。
そもそも日本国憲法には「一党優位」どころか「政党」に関する規定そのものがありません。日本には戦前から政党政治の伝統があったにも関わらず「国会運用の主体は別に政党である必要はないよ」というのが日本国憲法の立場なのです。
●何かシステム的に抜けているところがあるのでしょうか。
「大枠」が特に関係無いならば「細部」で抜けている可能性が高いでしょう。二大政党制が定着している米英の日本との違いを挙げてみます。
強い大統領制(首相がいない)を採っていて、議会と大統領が別個に選ばれるアメリカでは「大統領-議会」及び「上院-下院」のねじれが日常茶飯事です。どちらでもねじれが生じていなかった期間の方が短いくらいのはずです。それでもアメリカの政治が何とかなっているのは(実は「レームダック現象」のように結構止まってるのですが)、「大統領権限の強さ」及び「習慣的に党議拘束が無い」ことが挙げられます。実は日本の首相も法制度上は非常に権限は強いので(後述)、違いとして大きいのは「習慣」でしかない党議拘束の面です。アメリカ議会においても党の決議というものはありますが、党の決定に反した投票を行っても除名されるというようなことは滅多にありません。従って、大統領が少数派政党所属でも野党の一部を引き抜いて政府法案がとおってしまうことが良くあります。もちろん一部と言えども説得するためには、法案の修正などを余儀なくされることも多いですが、「0か100か」ではなく話し合いで妥協案が作りやすいということです。野党の中核が認めてくれる(かつ与党が我慢できる)ような修正は困難ですが、野党の一部を納得させるだけなら説得でなんとかなることが多い、という感じです。「与党40、野党60、このままじゃ法案通らないので、修正して野党から20人賛成に取り込み。修正を批判して与党から8人離反したけど可決」なんてことを日常的にやっているのが米議会です。
当然ながらアメリカでも日本でも「党議拘束をどうするか」というのは政党内部での独自の取り決めであって、法律で規制しているものではありません。
イギリスではそもそも「ねじれ」は問題になりません。第二院が「貴族院型第二院」であり、貴族院型の通例として非常に権限が弱いからです。貴族院が否決しても庶院が可決していれば、再議決等もなく法案は成立します。
ただ、この両院の権限については「細部」というより「大枠」に近い部分です。日本でも衆議院の優越具合は憲法上で定められています。ちなみに「日本の参院は強すぎる」とよく言われますが、政治制度論的にはこれは怪しい話です。確かに「貴族院型第二院」の場合は第二院の権限が非常に弱い(しばしばイギリスのように形式的存在)場合が多いのですが、日本のような「民選型第二院」や「連邦型第二院」の国では「ちょっとだけ第一院が強い」というのが標準で、日本の参院の権限は(どちらかと言えば強い方には入りますが)「第一院がちょっとだけ強い」の範疇に収まる話です。
●(なぜ)ねじれた時点で機能不全になる仕組みがまかりとおっているのでしょうか
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%A1%E9%99%A2%E5%88%B6
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E9%99%A2%E5%88%B6
あたりをご参考に。
もちろん二院制には欠点も多いのですが、実は世界の主流は二院制です。一院制をとっている国は「軍事政権or一党独裁時代の歴史的な経緯を引き継いでいる国」もしくは「人口数百万以下の小国」が大半です。
確かに二院制は本質的にねじれ可能性を内包しています。にも関わらず二院制が主流だということは、多くの国が「ねじれ」を始めとする二院制のデメリットよりもチェック&バランスのようなメリットの方が大きいと判断している、ということです。
制度論としての正面からの回答としては「なぜ両院の与野党構成がねじれた程度で簡単に機能不全になるんだ?ねじれ議会なんて良くある事じゃないか?」という話になります。
実は(二院制とは別の側面ですが)日本の採っている議院内閣制は、行政府の安定性が最も高い制度になります。強い大統領制や、大統領と首相が行政権を分け合う半大統領制は、議会勢力と行政府の代表が独立した選挙で選ばれますので、制度の本質として行政府と議会の一致を担保していないため(両院間の対立ではありませんが)、行政府と議会の対立は議院内閣制より遥かに起きやすいのです。フランスのコアビタシオン時代にせよ、アメリカ大統領の任期後半(たいてい議会が野党多数です)にせよ、ひどい政治停滞にはなっていないわけで、普通はねじれても何とかなるよ、というのが民主主義国一般での実績なのです。
●それとも二大政党制の作法を政党も国民もマスコミも知らないのが問題なんでしょうか.
そもそも二大政党制と「ねじれ」とは直接的な関係はありません。
議院内閣制の日本では「ねじれ」が「両院対立」として現れましたが、「ねじれ」の問題点の根本は「行政と議会の対立」なわけです。この対立は「一党が圧倒的に優位で行政も議会も常に押さえている」という(自由主義的民主国家としてはかなりレアな)状況でない限り、しばしば起こる方が普通な訳です。
「作法を知らない」とするなら「二大政党制の作法」ではなく「議会制民主主義の作法」というべきでしょう。そもそも英米以外の大国はほぼ常に連立政権ですので、どの政党も最終的に何らかの妥協すること無しには政策が実現しないため、閣内/閣外双方の政党間での政策のすりあわせや、政権交代/政権与党組替時の継続性、について不文律が確立しているケースが多いです。
「日本の政治制度は大枠としてはごく標準的なもの。それが上手く行かないなら、制度大枠に起因する本質的な欠陥ではなく、日本特有の事情による欠陥と考えた方が良い」
ということになると思います。(その特有の事情って何だ?という話は政治制度論の範疇を超えますので、ここでは省略させてください)
もし「ねじれ」のような問題を解消するなら、制度論から言っての解決策自体はいくつもあって、例えば
・狭義の「制度」面からの解消→イギリス流に実質的一院制にしてしまう。
(自由主義的民主国家において最も行政府が強力となる政治制度は大統領制ではありません。議院内閣制&一院制の組み合わせになります)
・運用面による解消→アメリカ流に各党が党議拘束を外し、個別の議論で成否を競う。
の2つの方法なんかは、二大政党との相性に100年以上の実績があります。日本の国会の「ねじれ」については制度の大枠の問題、運用面での政治行動の実態の問題、の双方が重なったゆえに生じているので、どちらか片方の解消だけで解決するはず、という考え方ですね。
最も前者は憲法改正が必要な点で、後者は政党の内部規定という法律で縛りにくいものである点で、実現可能性が非常に厳しいのですが。
http://umiurimasu.exblog.jp/12210453
この記事のブクマ(http://b.hatena.ne.jp/entry/umiurimasu.exblog.jp/12210453/)が300を超えたので、逆張りというか、疑問に思った2点、『アメリカ人は本当にタコが嫌いなのか?』『「怖い」という感情に「一神教」と「多神教」は関係あるのか?』ということについて、考えてみる。
ブログ主のumiurimasuさんに対する反論というよりかは、ブックマークコメントの傾向に対する反論である。
1
>>ちなみに、魚介類を食べるのがあたりまえな島国文化圏の人からすると、アメリカ人のタコ嫌いというのは、それこそ冒涜的なまでに理解を絶する感覚ですね。
イタリア、スペイン、ポルトガル、ギリシャ、韓国……などの国々は島国ではなく半島国だが、タコを食べる。中国でも食べる。
また、アメリカには昔からイタリア系、スペイン系、ギリシャ系、中国系の移民は多かったし、ポルトガル系や韓国系も少なからずいた。彼らはアメリカでも昔からタコを食べる。
しかも、いまでは寿司や日本料理、イタリア料理やスペイン料理、ギリシャ料理や中国料理はすっかりアメリカ全土に定着した。だから、イギリス系やアフリカ系のアメリカ人でもタコを食べる人は多い。
なので、これは「アメリカ人のタコ嫌い」ではなく「ラヴクラフトのタコ嫌い」にするべきではないか。
「昔のWASP(白人、アングロサクソン、プロテスタント)のタコ嫌い」にしてもいいような気もするが、やはり、「食べない」からって「嫌い」には直結しない。
タコが全面的に禁忌(「食べてはいけない」)とされているのはユダヤ教であり、キリスト教では一部の宗派のみ。
そもそも、「アメリカ人(あるいは、欧米人)はタコを悪魔の使いとして忌み嫌っている(忌み嫌ってきた)」という説は日本に広く流布されているが、本当なのだろうか。
この説の傍証は、タコは英語で「devil fish」と言われること、および、「クトゥルフ神話」や「宇宙戦争」などでタコが人間に敵対する悪役として描かれているから、ということである。
まず、「devil fish」であるが、現代のアメリカでタコを示す言葉のうち、一般的に使用されるものは「octopus」である。
「devil fish」でgoogleの画像検索をすると、真っ先に表示されるのはエイの画像で、タコが出てくるのは10番目以降である。
さらに、「devil fish」だからといって「タコ=悪魔」だと思っているとは限らない。
すくなくとも、エンゼルフィッシュを天使だと思っている人はいないだろう。
クトゥルーにタコが出てくるのはラヴクラフトが(個人的に)タコが嫌いだったから。
「宇宙戦争」の火星人がタコなのは、原作者のウェルズがタコを怖がっているからではなく、「火星は重力が少ないから頭が大きくなって手足が退化して、タコになる!」という疑似科学的な理論のため。
「インデペンデンス・デイ」などの宇宙人映画でも宇宙人はタコとして描かれていることがあるが、それは「宇宙戦争」(と、もしかしたら「クトゥルー神話」)へのオマージュのためではないか。
というわけで、「アメリカ人のタコ嫌い」という言葉は、「伝統的なアメリカ人」と「最近のアメリカ人」、「主流派(WASP)のアメリカ人」と「少数派のアメリカ人」のタコに対する態度の違いなどを考えたうえで使うべきであると思う。
アメリカ人が日本人に対して間違ったイメージ(「忍者、ゲイシャ」「エコノミックアニマル」「イエローモンキー」)を抱いていることが多いが、それと同様に、日本人がアメリカ人に対して抱いているイメージも、その多くは間違っている可能性がある。
さらに、「アメリカ人」という言葉が文化論において使われるときは、WASPを指すことが多く、黒人や黄色人種、アフリカ系アメリカ人や先住アメリカ人、カソリックのヨーロッパ系アメリカ人などを無視する場合が多い。
たしかに、一面では、アメリカの主流文化はWASPの文化であるが、マイノリティの文化の一部が主流になることも多いし、WASPの文化とマイノリティの文化が影響しあってできた新しい文化が主流になることもある。
だから、「アメリカ人」という言葉をつかうときは、その言葉はいったい何を指し示しているのか、自覚的になるべきである。
このような問題(主流文化とは何なのか?「〜人」は何なのか?)は、移民国家である「アメリカ」を論ずるときには特に注意されるべきだと思うが、日本やイタリア、中国やブラジルや南アフリカ共和国など、どこの国を論ずるときでも、注意したほうがいいことである。
2
ブログの記事内では、『ともあれ、そうした文化的理由でクトゥルー神話を本来あるべきように怖く感じられないのだとしたら、やはりちょっと残念です。アメリカ人はほんとうに、日本人よりも怖さを感じているのだろうか。それとも「いや別に、全然怖くねーよ」という感覚なのか。アメリカ人に直接聞いてみないことにはどうにも。』や『こういった反応、恐怖の感じ方がひどく違うことについて、どこまでが個人の感性でどこまでが文化の差異によるものか、きちんと切り分けができたら面白かろうなあ、と思いながら読んでいます。』と書かれていて、慎重な姿勢が保たれている。
しかし、ブックマークコメントでは、「キリスト教文化圏では、何を考えるにも常にキリスト教の神を超越者・絶対的存在としていちばん上に置くというものの見方が根底にある」や「日本人の場合、神も仏も混ぜこぜに、かつあいまいに信じていて、絶対的な何かを世界観のよりどころにしていないからでしょうか」という文章ばかり注目されている。
そもそも、欧米の文化や芸術作品・物語が紹介されるときには、「キリスト教的」「一神教世界観」などのマジックワードを持ち出し、日本の「多神教的世界観」と対比させて論ずることが多い(そして、往々にして、「多神教的世界観」の方が寛容で複雑で高度なもの、と優劣をつける場合が多い)。
しかし、例えば日本の文化や芸術作品・物語についても、「神道的」「仏教的」「多神教的世界観」だけでは論ずることはできないだろう。
文化や芸術作品の成立には、もちろん宗教や世界観も大きく関わるが、それだけではなく、自然環境・経済的環境・歴史・政治・偶然など、様々な要素が関わっているはずである。
また、フィクションに対して「怖がる」という反応は、宗教よりも時代と個人的な経験に左右されるものである。
ホラー小説の「人を怖がらせる」技術は年月を重ねるにつれて蓄積されるものであり、現代のホラー小説は過去のホラー小説より「怖い」、ということは一般論として言える。
スティーヴン・キングの作品は、ラヴクラフトの作品と同じくアメリカ人の作家によって書かれた、キリスト教的世界観の影響の強い作品であるが、日本の読者でもスティーヴン・キングの作品を「怖い」と思う人は多い。
「雨月物語」は過去の日本人作家によって書かれた作品であるが、そこに収録されている「吉備津の釜」は江戸時代の日本人が読んでも「怖い」と感じたであろうし、現代の日本人が読んでも「怖い」と感じる人は多い。
しかし、現代の日本人である鈴木光司によって書かれた「リング」は、おそらく「雨月物語」よりも多くの日本人読者を怖がらせると思う。
だが、スティーヴン・キングの「シャイニング」や「クジョー」と鈴木光司の「リング」のどれが一番「怖い」か、ということは、現代の日本人でも読者によってそれぞれ違う。
さらに、「リング」はアメリカ人が読んでも「怖い」という評価を得ている。
ここにラヴクラフトを代入すれば、ラヴクラフトが「雨月物語」よりも怖いと思う日本人もいれば、「リング」がラヴクラフトよりも怖いと思うアメリカ人もいるだろう。
彼らの「怖い」という感情には、多少は「一神教的世界観」「多神教的世界観」が関与しているかもしれないが、それよりも個人的な趣味や感性(「ホラーに慣れているかどうか、じわじわとくる恐怖に弱いかびっくりさせるような恐怖に弱いか」「日常的な恐怖に弱いか、非日常的な恐怖に弱いか」などなど)の方が強く関与しているだろう。
つまり、ホラー小説の話題で、「キリスト教の世界観」「多神教の世界観」にばかり注目するのは、適切ではない。
また、ホラー小説の話題に限らず、欧米の文化や芸術作品・物語について考えるときに、「キリスト教」「一神教的世界観」に還元させるのは適切ではない。キリスト教の影響はあるかもしれないないかもしれない。あったとしても、強いかもしれないし、弱いかもしれない。
「一神教的世界観」というマジックワードで説明されることで、安易に「理解した」と思いこむのではなく、宗教や世界観以外の、他の側面からも考えることが必要である。
ただ、自分の考えとしてはやはり子供が考える「これって無駄でしょ?」に近い。
はっきり言って、それが子供っぽいと言われようが、俺はそっちほうが直感として正しいと思うんだよね。
時代を積み重ねたということに重きを置くのが保守だけど、俺はそこを否定してるわけじゃない。
何というか、もっと現実的な面で、つまり伝統を守るということが現実のこの時代に生きる人間の負荷になるのは困るという感じ。
俺は古代ギリシャの彫刻や文学、その他にも平安の文学やら万葉仮名やら建築や哲学その他多くの歴史を否定してはいない。というより肯定してる。
そういうのが出来るだけ残ってくれるのはありがたいと思うし、記録・保存する人たち(図書館司書など)には敬意を抱いている。
ただし。
それをこれでもかと押し付ける行為が気にくわない。
つまり、「これは時代の試練を経てきた名著だ、だから読め」って言って学校で強制的に読ませたりする行為。これが本当に嫌。
俺が言ってるのはそういうことで、実は祭りや伝統的な街並みそのものを否定してるわけじゃない。
興奮するとそこがごっちゃになることはあるけど、たとえば伝統的な街並みというのであれば、写真などの資料を残し、ミニチュアをつくって博物館に飾るとか、そういうことは大いにやってほしい。
ただ、現実の物理的な世界にそれをどかっと残し続けることは嫌だ。なぜなら、伝統的な街並みは歴史の中でのほんの一部分において「正しい」とされたモデルケースにしか過ぎないのに、まるで未来永劫その正しさが続くかのような雰囲気があるから。
高層ビルだって所詮はこの時代の価値観に基づく正しさにすぎないのだけど、少なくとも合理性や人々の居住というものに関する意識の変化から言ったら理にかなってると思う。
ヨーロッパの伝統的な街並みを見ていると、美しいと思う一方で、そこに住んでる人達は哀れだなと思う。仕事としてその家に住み続けているならまだしも、伝統だとかそういう付加価値を下手につけられてしまったために、壊すことも出来ないんだろうなと。もっと新しい世界を知りたい人達はこんな街に住みたくないだろうなと。
俺が言いたいのは必要のない伝統は記録・保存されるべきで、現実に無意味に干渉してくるなということなんだ。
伝統の多くが必要なくなったのは、それはまさに現代が「変化の時代」だからであって、それ以前の、変化しないように必死で頑張ってきた時代とは全く様相が違うからだと思う。
伝統みたいなものは、科学技術が存在せず、人々はただひたすら自然の脅威・具体的に言えば「風化」から身を守るために作ってきたんじゃないか?現代は、記録する手段や方法はいくらでもあるわけで、さらには科学技術のおかげでどんどん人間にとって都合の良い世界が作り替えられていく。
科学以前はそもそも世界を作り替えるどころか世界を制御する方法すらなかったから、変化を恐れるしかなかった。今はもう違う。なら、今の時代にあっていないものは、資料という形で物理世界からは切り離してほしい。そういう考えなんだよね。
俺が抱くもう一つの嫌悪感は、伝統を守りたい人々っていうのは、それがなぜ守られなければならないのかなんて考えたことなんかなくって、子供の頃から守れって言われてるから仕方なく守ってるっていうところにある。それどころか、守るために守るっていう感じで、もう伝統の意味なんかなくなってるんだよ。祭りみたいなものはものすごい長い歴史があるのかもしれないけど、その元々は雨乞いとかそういう超プリミティブなところから始まったんだと思う。今でも厄除けの祭りとかあるけど、あれだって完全にプリミティブでしょ。あれで厄除け出来るなんて信じてる人間はいないわけで、別に信じてもいいけど、少なくとも祭りがおこなわれるようになった古代というのはほとんど全員が信じていたからああいうのが成り立ったわけで、ほとんどの人が逆に信じていないような状況で厄除け祭りすることに何の意味があるんだと俺は思う。
アメリカ賛美するわけじゃないが、アメリカが素晴らしいのは歴史を持たないことだ。
だからあれだけアメリカは科学技術国として発展できたし、妙なしがらみからも解放されてる。
日本はアメリカの影響を受けたおかげなのか地震対策なのか、街並みを保存することにはあまり関心がないみたいだけど、良いことだと思う。
ヨーロッパの状況は良くわからないけど、伝統的な街並みは観光のために残しておくとして、そういうところと実際の経済活動が行われる場所は区別すべきだと思う。
ごっちゃにするから良くない。東京はそういう意味では、完全に作り替えてしまうべきだし、今も未来都市なんて言われてるみたいだが、未来どころか超未来都市くらいは目指すべきだ。アメリカがその面ではなんだか停滞してるみたいなので、「俺がお手本だ。良く見ろアメリカ!」と言えるくらい大胆なことはやってもいいと思う。
ちゃんと読んでくれればわかると思うが
伝統を全部守れとか
何でもかんでも伝統だと嘘つく人に味方する文じゃ無いよ
俺も嫌いな「伝統」、疑ってる「伝統」、もう役割を終えたのじゃないかと思う「伝統」、
個人的にいっぱいある
一応時代の淘汰をくぐってるからよ。
わりかしよかったものが残ってるわけ。
あと伝統が100年てのはさすがに舐めすぎだね。
町並みで言っても何百年。
日本の町並みは割りと歴史に敬意を払わない方だからヨーロッパなんかもっとすごい。
「死に対して何のセレモニーもしない」って人は少ない。
これは人間の自然な感情であって、そういうのの積み重ねが伝統だと思う。
たまにそういうのすら否定しよう無くしてしまおうと言う「革新」が現れて
ようするにカルトなんだけど、新興宗教だとか新思想の顔をとる。
一時期大きな顔をした左翼なんてのは「宗教は一切やめろー」なんつってたが
彼等の論拠は非常に浅はかな合理性だったわけ。
誰でも中学生の時に考える、「大人みんなが大事にしてるけどこれって無駄じゃん!」という思い付き。
「大多数が長年やってきたってことはどういうことだ?」と思い至るほどの慎重な思考や謙虚な見方もなくて、
かわりに「自分だけは凡人どもから飛翔したことを考えられるに違いない」といううかつな万能感だけがある。
彼等の隠し切れない自信過剰や自己愛、他人を見下したいという未熟な自意識が露出してるからでさ。
別に頭が良くもないのに自分は頭がいいと信じ込みたいって人が多い。
こういう人がよく考えずに広い相談もせずにものを壊しました、焼きました、殺しました、
っていうのがカルトの興亡にはよくある。
伝統は万能でも絶対でもないけど、とりあえず多くの人の間でセレクションを受けてるから
カシコイつもりの少数の傲慢バカの思い付きよりはベターであることがほとんど。
というかまあ
なんか伝統や保守を憎んでるような匂いがするもの、敬意が全く感じられないもの、
よく考えてないことが明らかだし、
人によっちゃただの個人的ルサンチマンを政治運動に仮託してたりする(これがいっぱいいる!)。
進取の心は勿論大事だけども
どうも右翼左翼って言葉に悪いイメージ以外なくて、それぞれがどんなものかなんてまともに考えたことなかった。
でも、左は主に変革を要求し、右は伝統を保守するってのを見ると、どうも俺は右派ではないな。
伝統なんて糞くらえな立場だし、古い街並みが高層ビルに作り替えられていく様子が好きだ。
大体伝統なんてもの自体に正当性が全くないと思う。伝統ってたかだが数百年とかでしょ。古い街並みとかも、それを壊そうとすると反発あるらしいけど、そんな家はどうせ100年前に建てられたとかじゃないのか?
100年前なんて歴史で言えば最近だよ。そんなものにしがみついてる姿が哀れでしょうがない。さっさとぶっ壊せって言いたくなる。
日本の伝統とかも全然興味ない。冠婚葬祭全然興味ない。葬式なんか絶対やりたくないし自分が死んでからもしてほしくない。
伝統って守ることが大切だって言うけど、違うだろって思う。伝統は必要だから守られるのであって、必要なくなれば守る必要はない。
で、この考え方はどうやら左派・左翼に分類されるらしいんだがなんか違うんだよな。
単に保守的な思想が嫌いというだけで、俺は別に社会主義も共産主義も支持してない。うまくいかなかったものを支持する理由はない。
なんか、左派と言われると違う気がするのは、左派と呼ばれる思想がすごく古臭いから。革新という割には随分昔から同じことしかしてない気がするからかな。
保守には全然そういう感じがしない。なにしろ昔から「伝統を守れ」って言うだけでいいんだから。古くなるということがない。そもそも右派は元から頭が古い(俺に言わせれば)
革新がいまいち支持されないのは多分不況だからだろうな。未来が不安だらけなのに革新なんかいらねーよってことだろう。今の生活すら危うい人たちが保守的な思想にすがりつくのも分かる気がする。
オスは向こうからよってきたメスにあんまり面白みや価値を感じない。
「お高くとまれ」「底を見せるな」「そうすれば一生大事にしてもらえるよ」って。
内容の古さを差し引いてもこれらの言ってることは
無茶にアグレシッブな姿勢をよしとする最近の恋愛教本よりずっと正しい。
(だいたい伝統的なものと言うのは長い生活経験の蓄積がブラッシュアップされてるので
現代ちょっとその分野で経験豊富なつもりの1個人の思いつきなんかより正しいってことは多い)
もちろんお高く止まってるだけで誰からも入札がなくなっちゃったら本末転倒だから
「安く見られずに関心を引く方法」っていうのがその手の本のキモの部分になってる。
http://anond.hatelabo.jp/20110211132856
東山区 清水寺や三十三間堂など観光名所を多数有し、区内に在する国宝が建造物だけでも軽く2ダース以上。京都といえば観光、観光といえば東山
上京区 京都御苑・京都府庁があり、西陣織・友禅など伝統産業も盛ん、上京こそが京都の政治・経済の中心地。
左京区 京都大学をはじめ文化施設が集中。左京こそ京都の学術・文化の中心地。
北区 高級住宅地が集中、金閣寺を有し有名私立大学も多数あり。『職場は上京区の人でも住んでるのは北区なんだからネ!』
右京区 仁和寺や嵐山など、京都通が好む観光名所が多数。『清水寺より嵐山のほうが観光客数は多いんだからネ!』
中京区 繁華街が集中、その名の通り中心地。ただし下京区から分離して新しく作られた行政区『京都府庁より京都市役所のほうが予算は大きいんだからネ!』
下京区 「上・中・下」の分かりやすすぎるヒエラルキーの一番下。ただし、東西本願寺などを抱える古都でもある『東山区も中京区も、昔は下京区だったんだからネ!』
南区 工場だらけ、自動車だらけ、排ガス等々環境わるし。しかし京都駅と高速・京都インターを有する。『南区こそ京都の玄関口なんだからネ!』
国技(こくぎ)とは、その国固有の文化や伝統に根ざしたスポーツ競技・武術を指すが、厳密な定義は存在しない。また、国技であっても、国内で最も人気のあるスポーツとは必ずしも一致しない。
日本国内において一般的には、相撲を国技と見なす風潮が存在するが、正しくは日本国内に正式な国技はない。 過去及び現在においても、その時代を担った政権に相撲を正式な国技と認定した記録や省令は存在しない。
相撲は日本固有の宗教である神道に基づいた神事であり、日本国内各地で「祭り」として「奉納相撲」が地域住民により、現在も行われている。健康と力に恵まれた男性が神前にてその力を尽くし、神々に敬意と感謝を示す行為である。
この手の話は普段相撲見ないにわかが騒いでは相撲ファンに冷笑される、
を繰り返してきたもんだから
「にわかほどすぐ『八百長なんか前から知ってた』と言い出すんだ!」なんて絶叫してる。
でもこんなの相撲ファンならだーーーーれーーーーでーーーーも!知ってることだ。
知ってるし、相撲をよく見てれば察する。
ついでに言えばたとえば、
ちょっと長く相撲見てるファンならみーんなわかってる。
「大関互助会の今場所の調整手腕はどんなもんかな?」という視点が主流。
別に相撲を馬鹿にして見てるわけではないが、互助八百は当然のものとして楽しんでる。
今頃魁皇会長の華麗な成績に気付いて大騒ぎしてるレベルのにわか達に挑まれても
にわかがどう暴れて頑張ったって、
処分された人が、マスコミ等を通じて証言する事になりかねない。
そんな「危機」が何回あったと思ってんだ?
つか、まぁ、何でもいいけど。冠婚葬祭に金を惜しむのはあまりよくないということでいいんじゃなかろうか?
つか、まぁ、何でもいいけど。冠婚葬祭に金を惜しむのはあまりよくないということでいいんじゃなかろうか?
たしかに、キツイことはキツイんだろうけど そら、今までだってみんなそうしてきたんだし。
本気でカネがないなら、結婚式欠席して2次会からでればよろし。
払えるけど、渋りたいってのなら、そこは、大人の顔と歴史と伝統に基づいて 払っとけ。というのが、オーソドックスな見解だと思われる。
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2011/feb/01/egypt-tunisia-revoltを和訳しました。
チュニジアとエジプトにおける叛乱では、イスラム原理主義の姿をまったく見かけない。これは注目すべきことだ。民主主義というもっとも非宗教的な伝統にのっとって、エジプトの民衆は、抑圧的な体制や体制の腐敗、そして貧困に対して叛乱をおこしたのだ。そして、自由と経済的な見通しを求めたのである。「アラブ諸国にあっては真の民主主義的センスは少数のリベラルなエリートのみに存在し、それ以外の膨大な数の大衆は、宗教的原理主義か、さもなければナショナリズムによって動員されるだけである」という西洋のリベラル派が持つシニカルな知見は間違っていると証明されたのだ。しかし、大きな疑問は残る。次に何がおこるのか?政治的な勝利者として、誰が登場するのか?
チュニスにおいて臨時政府が成立したとき、臨時政府はイスラム主義者と急進派左翼を排除した。これに対する独善的リベラルの反応はこうだ。「よくやった。奴らは基本的に同類なんだよ」。同類、すなわち両者とも極端な全体主義者だということだ。しかし、それほど単純なものだろうか?イスラム主義者と左翼との間には長年にわたる反目が存在しているが、それは存在しなかったとでも言うのか?もし仮にイスラム主義者と左翼が体制に対抗して一時的にせよ団結したとすれば、彼らはひとまず勝利するだろう。しかしその団結はすぐに元通りに分裂し、彼らは死闘に身を投じて、より残虐に振舞うのだ。
去年のイラン大統領選で、我々は今回のような戦いを目の当たりにしなかっただろうか?ムサーヴィーを支持して立ち上がった何十万の人々は、自由と正義を掲げたホメイニ革命はまだ継続中であるという人々の夢を表していたのだ。たとえその夢が非現実的なものであったとしても、それは政治的・社会的構想力の息をのむような爆発や経験の組織化、そして学生と一般市民との間の討論を導いたのだ。こうした社会を変容せしめる法外な力の解放のはじまりは、体制派のイスラム主義者が統治権を奪ったことで、次第に抑えつけられていった。
原理主義者による運動だと明らかな場合でも、その運動の社会的構成を見落とさないように注意すべきだ。タリバンは普通、テロにより支配を押し付ける原理主義的イスラム主義者の集団だと表現される。しかし、2009年の春、タリバンがパキスタンのスワット渓谷を占領していたころ、ニューヨーク・タイムズはタリバンが「富めるわずかな地主とその小作人たちとの間に広がる深い亀裂につけ込んだ階級闘争」を工作したと報じた。タリバンは、農家の困窮という「アドヴァンテージを得て」、ニューヨーク・タイムズが言うように「広範にわたる封建制を温存するパキスタンに対し危機を警告した」のかもしれない。もしそうだとするのなら、パキスタンやアメリカのリベラル民主主義者が同じように困窮という「アドヴァンテージを得て」、小作農を助けようとしないのはなぜなのだろうか?パキスタンにおける封建的勢力こそが、リベラルデモクラシーにうってつけの同盟相手ということなのだろうか?
これらから導かれる当然の結論は、次のようなものだ。すなわち、急進派イスラム主義者の台頭は、イスラム教国における世俗的左翼の消滅と常に関係がある。アフガニスタンは今は強固なイスラム原理主義の国と考えられている。しかし、40年前のアフガニスタンは強固な非宗教的伝統に則った国だったのであり、ソ連とは無関係に、独自に共産党が力を持っていたのだということを、誰か憶えているだろうか?そして、こうした非宗教的伝統はどこへ行ってしまったのだろうか?
こうした背景をふまえたうえで、チュニジアやエジプト(そしてイエメン、さらにはきっとサウジアラビアでも)で進行中の出来事を読み解くことが重要だ。もし現在の状況が、旧体制にリベラル風の彩りを付け加えるだけに終わり、結局は旧体制を生き残らせ、安定させてしまうとしたら、原理主義者による逃げ場のない反撃を生み出すことになるだろう。リベラルという遺産を生き残らせるためには、リベラル派は急進派左翼からの支援を必要とするのである。話をエジプトにもどすと、今回の件で最も破廉恥かつ危険なまでに日和見主義的な反応を見せたのは、CNNの中継放送に登場したトニー・ブレアだった。「変化は必要です。しかし、それは着実な変化であるべきなのです」。今日のエジプトにおいて、着実な変化とは、政府中枢の人数枠をわずかに増やすという目的にもとづいて、ムバラク勢力との妥協を図るということを意味するだけなのだ。このようなわけで、エジプトの平和的推移という語りは、鼻持ちならないのである。敵対者を押しつぶすことによって、ムバラクは自身に敵対することを不可能にする。抵抗する市民に対してムバラクが軍隊を派遣して以降、選択肢は明確になった。ほとんど何の変化もない中でのわずかな変化という見掛け倒しの変化か、真の破壊か。
ここが正念場なのだ。10年前のアルジェリアでは、自由選挙の容認によって権力がイスラム原理主義勢力へも平等に分配されたが、今回もそうなるというわけではない。もしムバラクが去った場合、体制を引き継ぐことができる組織的な政治勢力が存在しない、というのが、リベラルの一方の心配の種だ。もちろん、そんな政治勢力は存在しない。ムバラクは、つまらないことに対する反対意見であっても、反対意見であればすべてを却下することを通して、そうした政治勢力を始末してきたのだ。その結末は、アガサ・クリスティの著名な小説のタイトル、「そして誰もいなくなった」を思わせる。ムバラク自身やその混沌とした政治をめぐる議論は、ムバラクに敵対する議論なのだ。
西洋のリベラル派の偽善には仰天させられる。彼らは公然と民主主義を支援してきたのだが、宗教のためではなく、非宗教的な自由と正義のために人々が暴君に対し叛乱をおこすと、彼らは深く懸念を示したのだ。なぜ懸念するのか。なぜこの自由のチャンスが与えられたことを喜ばないのだろうか?今日、これまで以上に毛沢東の古きモットーが適切だ。「天の下に混沌、絶好の機会」(訳注)。
さて、ムバラクはどこへ向かうべきか。答えは明白だ。ハーグへ向かうがよい。ハーグの国際司法裁判所に着席するにふさわしい人物がいるとしたら、それはムバラクその人なのだ。
訳注:毛沢東のモットーについてはhttp://bit.ly/eSBrn9を参照。
http://blog.goo.ne.jp/rebellion_2006/e/4e65f758359c279f2fd19c0bc9b0d20b#
このような記事があがっていたので、目立つように投稿。
俺のコメもトラバも受け付けてもらえなかったので、この記事から目に付いて読まれればいいなと。
それは、「この世」と「聖書」。
神の教えを知りたければ、そのどちらかを、または両方を知ろうとしなければならないのです。
それがキリスト教圏での基本的な考え方。
だから、西洋では「この世」を知るために自然哲学が発展したわけ。
クリスチャンは、自然を知って神の教えを知り、征服していくことが神に忠実な姿勢だと思ってたの。
で、当然全ての造物主が唯一の神なのですが、人間ももちろん被造物であるわけ。
まずはそこまで理解して欲しい。
で、今でも自然科学が最も発展している西洋人が、クローン技術などを「倫理」で批判する理由にいきます。
人は、自然法則を理解して、他の生物をいじることが可能になったとしても、それは動物相手だからある程度いいわけ。
でも、人は人を作ることはできない。というか、あってはならない。
それは人を動物に貶めることであり、神しか作れない人を人が作ることであり、それは神を冒涜することだから。
あるがままが美しいとする国。
だから日本人はこの問題を「え、そこまでしていいの? そんなのいじるのって気がひけるし、あるがままでよくない?」って思想を「倫理」と呼んでいるのです。
それでもまあ、国内で言う「倫理」も国内では無視しちゃいけないかもしれないけど、こういう技術に関しては世界で統一した基準が必要なんです。
だから、クローン技術に関する「倫理」を語る場合は絶対に世界標準の「倫理」の話をしないと意味をなさないんです。
それを理解している人が専門家にも少ないから、日本人は相手にされてないんです。
もちろん外人もダーウィン以降、人は神から作られたんじゃなくて他の生物から進化したとかは渋々認めざるを得なくなったけど、根の考え方というか感覚的な思考というか、信条的なスタンスまでは揺らがないわけ。
ま、もちろん両国とも、「命をオモチャにるする」ような行為については共有された「倫理」を持ってはいますけどね。
その辺を誤解して、というか混同して議論すると世界的な枠組みが出来上がるはずがないわけ。
それなのに、
そして発せられるのが「道徳的には」あるいは「倫理的には」という問いですが、しかるにDNAを神聖不可侵なものとして扱う道徳や倫理なんてのは随分と歴史の浅いもので、それこそ「作られた伝統」の類ではないでしょうか。遺伝子を扱う技術に関しては宗教界からの論難も多々ありますけれど、その教典に「DNA」なんて言葉が書かれた宗教なんて、それこそごく一部の新興宗教だけのはずです。にも関わらずDNAに触れる技術を神の教えに反するものであるかのように考えるのは、すなわち遺伝子を神と同一視しているようなものと言えます。
「遺伝子を神と同一視してる」なんて、完全に逆の捉え方をしている。
教典に直接 DNA と書かれてるわけはないけど、「アダムとイブが~」って話がすでに人による人の改造を禁じているわけです。
そこを理解すれば、自分で書いたものを読み直せばちょっと恥ずかしい気分になると思う。
あと、私は生命科学者なので一応言っておくけど、DNA は物質の名前。
「DNA がつながっている」「DNA の継承」は誤用で、「血がつながっている」「遺伝子の継承」のほうが適してるかなー。
「倫理」についても、「DNA」についても、誤解している人が書いているなあ、と気になったので、一応指摘でした。
ま、遺伝子操作を神聖視しすぎずに、柔軟に考えたらいいんじゃないのーって論旨には同意です。
http://blog.goo.ne.jp/tbinterface/4e65f758359c279f2fd19c0bc9b0d20b/d3
http://blog.goo.ne.jp/rebellion_2006/e/4e65f758359c279f2fd19c0bc9b0d20b#
それは、「この世」と「聖書」。
神の教えを知りたければ、そのどちらかを、または両方を知ろうとしなければならないのです。
それがキリスト教圏での基本的な考え方。
だから、西洋では「この世」を知るために自然哲学が発展したわけ。
クリスチャンは、自然を知って神の教えを知り、征服していくことが神に忠実な姿勢だと思ってたの。
で、当然全ての造物主が唯一の神なのですが、人間ももちろん被造物であるわけ。
まずはそこまで理解して欲しい。
で、今でも自然科学が最も発展している西洋人が、クローン技術などを「倫理」で批判する理由にいきます。
人は、自然法則を理解して、他の生物をいじることが可能になったとしても、それは動物相手だからある程度いいわけ。
でも、人は人を作ることはできない。というか、あってはならない。
それは人を動物に貶めることであり、神しか作れない人を人が作ることであり、それは神を冒涜することだから。
あるがままが美しいとする国。
だから日本人はこの問題を「え、そこまでしていいの? そんなのいじるのって気がひけるし、あるがままでよくない?」って思想を「倫理」と呼んでいるのです。
それでもまあ、国内で言う「倫理」も国内では無視しちゃいけないかもしれないけど、こういう技術に関しては世界で統一した基準が必要なんです。
だから、クローン技術に関する「倫理」を語る場合は絶対に世界標準の「倫理」の話をしないと意味をなさないんです。
それを理解している人が専門家にも少ないから、日本人は相手にされてないんです。
もちろん外人もダーウィン以降、人は神から作られたんじゃなくて他の生物から進化したとかは渋々認めざるを得なくなったけど、根の考え方というか感覚的な思考というか、信条的なスタンスまでは揺らがないわけ。
ま、もちろん両国とも、「命をオモチャにるする」ような行為については共有された「倫理」を持ってはいますけどね。
その辺を誤解して、というか混同して議論すると世界的な枠組みが出来上がるはずがないわけ。
それなのに、
そして発せられるのが「道徳的には」あるいは「倫理的には」という問いですが、しかるにDNAを神聖不可侵なものとして扱う道徳や倫理なんてのは随分と歴史の浅いもので、それこそ「作られた伝統」の類ではないでしょうか。遺伝子を扱う技術に関しては宗教界からの論難も多々ありますけれど、その教典に「DNA」なんて言葉が書かれた宗教なんて、それこそごく一部の新興宗教だけのはずです。にも関わらずDNAに触れる技術を神の教えに反するものであるかのように考えるのは、すなわち遺伝子を神と同一視しているようなものと言えます。
「遺伝子を神と同一視してる」なんて、完全に逆の捉え方をしている。
教典に直接 DNA と書かれてるわけはないけど、「アダムとイブが~」って話がすでに人による人の改造を禁じているわけです。
そこを理解すれば、自分で書いたものを読み直せばちょっと恥ずかしい気分になると思う。
あと、私は生命科学者なので一応言っておくけど、DNA は物質の名前。
が分からない。
戦後、家族が小型化した段階で、価値観特に伝統的なものについて自然に崩壊するのは確定的で、
その加速の一因として、日本のフェミニズムが女性に新しい価値観を提唱したことはあるけど、所詮それは一部でしょ。
どう取り戻すかではなく、新しい価値観をどう導くかは自分も重要だと思うけれど、
しかし社会全体で考えるといったところで、何もかも流動的で何を地盤に考えるのかさっぱりわからない。
地盤がないから価値観が出来ず、不安定だから旧価値観に形式的に回帰するんじゃなかろうか。
そして、旧価値観の前提(http://anond.hatelabo.jp/20110131112524がいう少しの特権と多くの義務責任)がないまま形式だけ取り入れるから齟齬が生まれるのでは。
書いててすげぇフェミっぽくなった