はてなキーワード: リンパとは
検索すると色々なWebサイトがヒットするが、どこも似たような作りとなっている。システム、スケジュール、予約、アクセス等々、いわゆる性風俗サービスのサイトと作りはほとんど同じ。システムをみると、60分10000円くらいから時間に合わせて値段は様々だ。
「メンエス」で検索するとヒットするのが、いわゆるレビューページ。様々なメンズエステでの体験が毎日のように更新されている。これも作りは、性風俗サービスのレビューページとそっくり。書いてある内容というか文体もよく似ており、具体的なサービス内容がぼやかされていることがあるのも似ている。確かにWebサイトにはあまり明確なことが書いていない。強調されているのは「癒やし」「治療を目的としたものではない」「性的なサービスは一切ない」とか。「アクセス」もぼやかされていて、「最寄りの駅から電話をしてください」とあるのが定番だ。
性風俗サービスにも、性感マッサージ・エステと称するジャンルがあり、オイルなどによるマッサージと抜きがセットとなっている。この場合、ほとんどの店は派遣型か、受付所で手続きして近くのホテルでサービスを受ける、
いわゆるホテヘル型になる。店舗型のエステはあまり聞いたことがない。さらに、シティホテル、ビジネスホテルに宿泊すると、出張マッサージを呼ぶことができる場合がある。シティホテルならホテルにマッサージ師が常駐しており、時間が合えばすぐに部屋で施術を受けることもできる。小規模なホテルの場合、あるいはオイルマッサージの場合は、派遣型となり、電話で予約をすると、どこかから施術者がやってきて、オイルなどによるマッサージのサービスを受けることができる。この場合、性的なサービスは一切ない。他、高級ホテルなら、ホテル内に「SPA」があり、同様のサービスをホテル内のSPAで、あるいは宿泊する部屋で受けることができる。
街角にあるマッサージ屋、サウナでのマッサージ、ホテルでのマッサージ、出張のオイルマッサージ、性感エステなどを利用したことはあるが、メンエスは仕組みがよくわからないため敬遠していた。非常に疲労し体がだるいある日の午後、時間だけはあり余っていたので、思い立って都内にあるメンエスに電話をしてみた。電話の受付は女性。開始時間、施術時間をリクエストして予約をする。予約の時間になったら、最寄りの駅のX口から電話をしてください、ということだった。その時間に指定された場所から電話をすると、サービスを提供する場所をより詳しく説明してくれる。この対応も女性であった。場所は、近くのマンションの一室のようであり、簡単に見つけることはできない。どこどこの交差点についたらまた電話して、というやり取りを繰り返し、マンションの近くまで来たところで、建物名・部屋名が明かされた。なお、今回の場合はWebサイトに具体的な住所・建物名・部屋名の記述はなかった。
指定されたマンションはオートロック式で、部屋番号を呼び出して建物の中へはいり、エレベータで部屋のある階まで移動した。新しめのマンションのように思える。部屋の前でアホンを押すと、しばらくしてドアが解錠され、日本人の女性が一人で現れて入室するように促された。玄関をはいるとすぐに小さなキッチン、トイレ、浴室があるような単身用のマンションである。部屋には、施術者の女性がマッサージ師のような衣装でたっていだけで、他の人はいない。間接照明のため薄暗いリビングには、小さめのソファがあり、床にマッサージ受けるための敷物があるだけ。ソファに座り、最初に代金の精算をおこなった。ここで、ひとつ予想外のことがあった。90分のサービスで事前に金額を聞かされていたものの、部屋で示された用紙には、プラス3000円で「VIPコース」「ラグジュアリーコース」(場合により呼び方が異なる)があり、それをお勧めされた。ただし、具体的に何がVIPでラグジュアリーなのかの記述や説明はない。特に考えもなく、追加の金額を加えて支払いをした。その後、流れについて簡単に説明がある。これは単純な話で、最初に一人でシャワーをあびる、シャワーが終わったら体を拭き、準備された場所に横たわって施術を受ける、施術が終わったらもう一度シャワーを浴びる、というだけ。シャワー用には、貴重品袋が用意されていた。シャワーの間、施術者は準備をするという。
浴室は単身者用の部屋によくある狭い湯船の浴室で、ボディーソープ、あかすりスポンジなどが準備されている。そして、シャワーを浴びた後に履く、パンツ。これは、オイルマッサージであれば、出張マッサージでも用意されていて、シャワーの後にはそれだけを身につけてベッドに横たわるものだ。使い捨てのものであり、なぜだかわからないがTバック、というか後ろはほぼヒモであり、前もどうにか隠れる程度の下着だ。普段そのような下着をつけることのないおっさんには違和感がありまくる。
さて、シャワーをあびて、露出過多な使い捨てのパンツを掃いて部屋に戻ると、施術者が衣装を変えていた。変えていたというよりは、脱いでいた。全裸ではない。透け気味のキャミソール姿である。過去にホテルで出張のオイルマッサージを受けた際には、施術者が着てきた着衣を脱ぐことは一切なかった。最初から性風俗店であると謳っている性感エステの場合、着衣から始まり、流れでトップは裸、全裸など様々である。「性的なサービスは一切ない」はずのメンエスとは、健全なオイルマッサージと、性感エステの間に漂う玉虫色の存在なのだろうか、と思いつつ、施術は進行していく。メンエスとは一体なんなのかという謎に、少しだけヒントが与えられた気がした。
最初は、うつ伏せで、オイルを使ったマッサージが下半身からはじまる。なぜだかわからないが、敷物の周りには、床に横長の鏡が設定されてい、自分が横になってマッサージを受けている様子をチラ見することができる。マッサージこのような設備は必要だろうか?ということはともかく、「今日はお休みですか」「どちらからお越しですか」などのマッサージあるある会話をしつつ、淡々とオイルによるマッサージが行われる。一通り、足裏からふくらはぎ、ふとももまで下半身をオイルにより摩擦したところで、施術者は体勢を変えて、うつ伏せの頭側へ移動してきた。そのまま、うつ伏せの頭の上にほぼまたがるような体勢で、背中の上側から上半身のマッサージがはじまる。このような不思議な体勢によるマッサージははじめて経験した。なお、施術者はキャミソールとパンツのみであり、いわゆる頭と下半身は近い。布一枚。接触をするわけではないが、もやもや、する。趣味についての会話をしながら施術は進行し、後半は仰向けでマッサージをうけた。最初に、施術者は上半身の首やデコルテのあたりをマッサージしてくれる。さらに、下半身側に移動して、今度は仰向けの体勢で下半身周りのマッサージをする。「これがリンパを流すってやつや!」と考えながら、そして全身オイルまみれになりながら、足の付け根の周辺のマッサージがおこなわれていく。ここまで完全に受け身であり、マッサージだからそれは当たり前なのである。十分にリンパがながれたくらいのところで、時間となり、マッサージは終了した。もう一度シャワーを浴びて、オイルを流し、少し休み、お茶などを飲んでから、着替えて部屋をでた。少し体が軽くなった気がする。
部屋を出る前に「VIPコース」というのは、普通のコースと何が違うのか?と尋ねてみると、衣装が違う(脱ぐ脱がない)のだということであった。別の店でも同様の説明を受けた。
オチはない。
ある知り合いの話だ。その人はとある会社で、ある案件を担当していた。彼と私は同じ業界で働いており、とある勉強会で一緒になって以降、飲み仲間になった。仕事の忙しさには波があるらしく、18時で帰ることもあれば会社に寝泊まりすることもあったらしい。飲み会では「会社で一番寝やすい場所は○○だ」と大声で笑っていた。
しかし、ある時からその人は飲み会の誘いに乗ってこなくなった。誘っても「具合が悪いので」と断りの連絡が届く。あまりにも具合が悪そうなので、その会社の別の知り合いに聞いたところ、会社を休んでいるとのことだった。
しばらくして、その人の病状を知った。「リンパ腫」だった。そこから彼は長い闘病生活に入る。驚いたのは、その会社のほかの知り合いが「社内で入院したことが共有されていないんだよね」と言ったことだった。私には違和感しかなかった。同僚がガンで入院しているのに。
その会社は20人規模の小さな中小企業だった。当然社長も見舞いに来ると思ったら、一向に社長が見舞いに来ない。不思議だった。
結局、その同僚は帰らぬ人となった。30数年という短い人生だった。これから結婚して子どもができて、子どもが大きくなっておじいちゃんになって…という経験をせずにこの世を去った。おそらく悔しい気持ちでいっぱいだったろう。
さらに不思議なことに、上に出てきた「社内で入院したことが~」と言った人も、後にその会社を辞めている。聞けば、「残業代が出るはずなのに出ていない」と言っていた。その辞めた人は「みなし残業代があらかじめ含まれているからね」と言っていたが、明らかに一定以上の残業をしているように見えた。謎だ。
「残業代を請求したらどうですか?」と聞くと、「いや、あんまりオオゴトにしたくないんだよね」と言っていた。その人は続けて言った。「送別会で『あなたは辞めるんだから、ぜひ請求してくださいよ』と言われたんだよ。在職中は請求すると立場がなくなるからね」と。
私はその会社の社員ではない。上に書いたことはあくまでも飲み会での伝聞だ。事実ではないことも多々あるだろう。しかし、文句しか出てこない会社というのもイメージが悪すぎる。そして怖い。
ある知り合いの話だ。その人はとある会社で、ある案件を担当していた。彼と私は同じ業界で働いており、とある勉強会で一緒になって以降、飲み仲間になった。仕事の忙しさには波があるらしく、18時で帰ることもあれば会社に寝泊まりすることもあったらしい。飲み会では「会社で一番寝やすい場所は○○だ」と大声で笑っていた。
しかし、ある時からその人は飲み会の誘いに乗ってこなくなった。誘っても「具合が悪いので」と断りの連絡が届く。あまりにも具合が悪そうなので、その会社の別の知り合いに聞いたところ、会社を休んでいるとのことだった。
しばらくして、その人の病状を知った。「リンパ腫」だった。そこから彼は長い闘病生活に入る。驚いたのは、その会社のほかの知り合いが「社内で入院したことが共有されていないんだよね」と言ったことだった。私には違和感しかなかった。同僚がガンで入院しているのに。
その会社は20人規模の小さな中小企業だった。当然社長も見舞いに来ると思ったら、一向に社長が見舞いに来ない。不思議だった。
結局、その同僚は帰らぬ人となった。30数年という短い人生だった。これから結婚して子どもができて、子どもが大きくなっておじいちゃんになって…という経験をせずにこの世を去った。おそらく悔しい気持ちでいっぱいだったろう。
さらに不思議なことに、上に出てきた「社内で入院したことが~」と言った人も、後にその会社を辞めている。聞けば、「残業代が出るはずなのに出ていない」と言っていた。その辞めた人は「みなし残業代があらかじめ含まれているからね」と言っていたが、明らかに一定以上の残業をしているように見えた。謎だ。
「残業代を請求したらどうですか?」と聞くと、「いや、あんまりオオゴトにしたくないんだよね」と言っていた。その人は続けて言った。「送別会で『あなたは辞めるんだから、ぜひ請求してくださいよ』と言われたんだよ。在職中は請求すると立場がなくなるからね」と。
私はその会社の社員ではない。上に書いたことはあくまでも飲み会での伝聞だ。事実ではないことも多々あるだろう。しかし、文句しか出てこない会社というのもイメージが悪すぎる。そして怖い。
リンパ腫の猫の看病が辛い。全然食べなくなっちゃった。2時間おきくらいにあげてる餌も前は半分以上は食べてたのにもう2割くらいしか食べなくなっちゃった。
猫もすごい嫌な気持ちになって必死で口に餌入れられないようにして抵抗してるのにどうにか食べてもらおうとスポイト(注射器の針がないやつ)を口に突っ込んで流動食を入れる。前はぺちゃぺちゃと喉の奥に流し込んでいたのに、今はほぼを吐き出す。そしたら防ぎようがなく魚の匂いがするペーストを顔やや髪や服に飛ばしてくる。仕方ないとはいえ情けない気持ちになる。餌をあげ終わったあとには大量ティッシュの山。どれだけの餌をティッシュで捨てて、実際どれだけ食べたんだろう。もっとうまくあげれたら良いのにな。
猫も私もめちゃくちゃ嫌な気持ちになってるのにどれだけの栄養が猫は取れるのだろう。嫌ならもう今日はやめとこうねって心折れそうになるけど、これやめたところでもうほかに栄養の補給のしようがなくて辞めるわけにはいかなくて辛い。毎日行く獣医さんには「出来るだけ栄養とってあげてください」って言われるけどこの2週間、2.3時間おきに餌をあげるたびに同じ状況で火垂るの墓でお医者さんが「滋養をつけることですな」っていう言葉に対してお兄ちゃんが「滋養なんてどこにあるんですか!」って怒るシーンがあるけどあれを思い出す。もちろん獣医さんはとっても親身だし猫のことをすごく大事にしてくれてるから怒る気持ちなんてないし感謝しかないけど、たまにめちゃめちゃ情けなくなる。
治療もステロイドから抗がん剤に移行したけど全然効かなくて全然胃の壁は薄くならないし全然ご飯も食べなくなった。なのに抗がん剤を打った日はとてもしんどそうで辛い。
次の次の抗がん剤は投与すると体力ない猫には即死の可能性があるみたいだから、次の抗がん剤を最後にして、これが効かなかったら抗がん剤治療は止めることにしようと思う。
前は寝室に来て一緒に寝てたけど、歩けなくなっちゃって猫一人でリビングで寝てたけど、リビングに布団を引いて様子見ながら寝ようって思って布団引いて寝てたら布団に上がってきて私の枕の横で寝るようになった。もっと早く一緒に寝てあげるべきだったのにごめんよほんとに。
お正月が明けてから猫が餌を食べなくなった。心配して動物病院に連れて行ったらリンパが腫れている、十二指腸も腫れて通常の4倍くらいの大きさになっていると言われた。血液検査の結果も悪く、貧血気味で栄養が全然足りていない状態みたいだった。あとから知ったけれど猫も半年に一度ほどは検診に来た方が良いらしい。もし半年前に来たらもっと治療しやすくて治りやすい状態だったのかと思うと猫に対して申し訳なさしかない。こんなにボンヤリした飼い主の元に連れて来てしまってごめんよ…。
早速治療が始まって、炎症を抑えるためにステロイドと抗生物質を投与して栄養を補給するために点滴を打ってもらい、家ではペースト状の病院食をスポイトに入れて猫の口に突っ込み無理やり食べさせることが始まった。
それから2日経って猫はカリカリも食べるようになったけれど、自発的に食べる量では栄養は足りないので相変わらずスポイトで強制的に食べさせている。
薬はすぐに効いたみたいでリンパの腫れは引いた。でも3日目、今度は心臓の周りに胸水がたまった。胸水が溜まると心臓を圧迫して呼吸が荒くなるので目に見えてしんどそうになる。胸水が溜まるとしんどいので胸水は多いときは抜いてもらっている。今日までもう3回ほど抜いた。でも胸水を抜くときの作業はとにかく猫が辛そうでみていられない。辛い。ごめんね。
胸水が溜まる原因も最初は毎日点滴をしたからか?と獣医さんが疑い、点滴はやめたけど相変わらず溜まっている。6日目に血液検査の結果で分かっていた低アルブミンというものから来るものではないか?ということで決着がついた。低アルブミンの治療は栄養を摂取することが第一みたいなのでとにかく栄養を摂ることを目標に毎日何度も猫の口にスポイトを突っ込み、嫌がられながら餌を与えている。
最初の診断では消化器系のリンパ腫ということだったけれど、注射器をさしてもその確証は取れず、全然違う病気かもしれないということを4日目に聞いた。何度その検査をしても今の時点では判断できなさそうということだった。今はステロイドと抗生物質が効いてるけれどリンパ腫だった場合ステロイドはだんだん効かなくなってまた腫れてくる。そこで初めてリンパ腫で確定、2ヶ月くらい経っても腫れて来なければ別の病気の可能性が高いらしい。病気の名前が分かっても私には何することもできないのだけれど、リンパ腫かどうか分かる時が最短1週間後一番遅くて2ヶ月後で、リンパ腫だと判明した場合抗がん剤治療をしない限りもう長くないらしい。しんどい。リンパ腫だとわかった時点でまた次の選択が迫られる。
リンパ腫で確定した場合、抗がん剤治療をするかどうかも悩んでいる。そこまで強くないものらしいけれど、抗がん剤はやっぱり抗がん剤であり、猫には少し辛いものだろう。
気持ちが弱って人に聞いてほしくて人に話すと、もうリンパ腫と決まって薬が効かなくなれば治療は諦めて緩和療法(広い意味で)に移行した方が良いという人が割といる。そうかもしれない。実際そうかもしれない。猫が苦しみながら生き伸びたところで可哀想なだけって多分自分の飼っているペットじゃなければ思うのかもしれない。でももう10年以上毎日一緒に居ると少しでも長くまだ一緒に居たいと思ってしまう。緩和療法を選んだとしても、抗がん剤治療を選んだとしてもどちらでも後悔しそうで怖い。
やっぱりリンパ腫で抗がん剤治療をしなければもう来週には死んじゃうのかもしれないと思うと可哀想だし寂しくて仕方ない。今日は胸に溜まった胸水をかなりの量抜いてもらったから隣で寝てる猫が昨日よりかなり楽そう。年末まで寝るときにやってきてた部屋まで来てくれた。今後の日々で今日が一番この子が元気な日かもしれないと思うと辛い。
あと今は私はいろいろあって働いていないのだけれど、働いていない期間で幸運だった。仕事しながら毎日動物病院に通って2時間おきに給餌なんて無理だったと思う。
猫と人間を比べてもいろいろ仕方ないけれど、猫だとしてもこれくらい毎日悩んでつらくてしんどいのなら親や子供やパートナーの病気なんてもっと辛くてしんどいんだろうなとまだ経験がない自分でも想像がつく。
最近LINE等で見かける、マホロバビューティー体験に行ってきました。
これから行かれる方や、行くのを悩んでいる方に参考になればいいなと思います。
フェイシャルエステは過去に10社くらい行ったことがあります。
当日お昼過ぎに予約をしていたため、予約時間の10分前くらいに伺いました。
時間に近づけば近づくほどお客さんの入りがすごい!
平日なのにかなり多かったイメージです。
お店もアジアンテイストなので、ゆっくり、リラックスできる空間だと感じました。
渋谷とは、思えない感じでした笑
リンパもすごく固まってましたので、強めにほぐしましたと言われました。
1時間もしないで、こんなにに変わるのか!って正直びっくりしました笑
【私の中では、今まで行ったお店の中でこれだけ短時間で変わるのは、ここのお店ぐらいでした】
その後スタッフさんに、次回機械をつかった施術や、肉眼で見えないお肌の汚れを見る機械など使った施術もありますと言われたので、
即決でやります!と答えて、予約を取りました。〔格安でした笑〕
この日は夕方までバイトだったので、夜の時間帯でご予約を取ってました。〔18時予約〕
施術に入ると、今回は、ベットではなく ソファータイプのもので目の前に大きい鏡がありました。
変化を見ながらやっていく施術らしいです。
1回目の施術と違い、機械でなのか15分ほどで、かなり効果を感じました。
1番驚いたのは、肌の細胞?みたいなのを自分の目で見れたことです。
シワの予備群?シミ?など、色ででてきました。
まだ20代だし、絶対出ない自信がありました笑
施術が終わり、スタッフさんにいろいろ相談させてもらい、改善の仕方や
本当に感動しました。
〜結論〜
今まで行ったお店の中で1番よかったです。
今までのエステサロンでは、間違っているかもしれませんが、高いコースを押し付けられたり
断ったら、すごい素っ気なくされたり、不愉快でした。
今回お伺いしたマホロバさんは、お客様に合わせてコースを組んでくれたり、1番は、学生の私でもできるくらい、安いです笑《今までがすごく高かったので、なんでこんな安いの?ってくらい思いました笑》もちろんやすさだけでは、なく、目に見えて効果が出るというとこが決めてでした!あとは、担当のスタッフさんたちが、みんなのびのびした顔で接客してたのをみて、安心したのも大きいです^^
平日でもあれだけお客さんが来る意味が、なんとなくわかった気がします^^
これからマホロバさんに行かれる方や、エステを探している方は、1度行ってみて判断してみるのがいいかと思います。
確定じゃないんだけど、リンパ腫で何もしないとあと2ヶ月。
柴系雑種でもう17歳だし、白内障で全然見えてなくて、影が動くだけですっごいビビるし。ボケたり歩けなくなったりしたら大変だとは思ってたけど。
元々すごいビビりな犬で、誰が来ても吠えまくってて、閉所恐怖症で犬小屋買ったのに一度も入らなくて。
そんなでも大人になってちょっとは落ち着いて、愛想は悪いけどいつもそこにいて、ずっといることを疑うことなんて無かったのに、やっぱり死ぬんだよね。
いくら犬の時間が人の5倍で進むって言っても癌も5倍速なのかよ。
抗がん剤治療は歳の事とビビりな所でやめといた方がいいだろうって事になってるんだけど、本犬的にはどう思ってるんだろうなって。
こんな閉じ込められてる様な生活ならすぐに死んでもいいって思ってるのか、もう少しでも長く一緒にいたいって思ってくれてるのか。
結婚式に向け、独身時代最後の贅沢として、エステに通っている。
内容はあれこれ変えてみたけど、今はサウナとオイルマッサージ。
元々は痩身が目的だったんだけど、昔から肩周りの凝りがすごかったので、今は美容というよりリラクゼーションを兼ねた至福の時間。
1週間~10日に1度くらいの頻度で通い、部位によっては嘘でしょって位痛かった時期も越え、やっとうとうとできる位になってきた。
が、1ヶ月弱通えない時期があって、久々に行ったら、「背中に全然指が入らない…!」と担当のお姉さんに大変困惑された。
事前の会話で「最近背中~腰回りがどうもヤバくて」とは言ってあったのだが、浮腫んだふくらはぎの硬さが思ったより軽度だったこともあって油断していたらしい。
「えぇー…」の連呼がとにかくすごい。カウンターをかちかちしたいレベル。
あとは「今12月ですけど、間違いなく今年一番ヤバいです」「最近も肩こりが~っていうお客さん来ましたけど、比じゃないですよ」「ちょっと今本気でどうしようか考えてます」「これ何が入ってるんですか。鉄板入れてるんですか」等々。以前から「何かが棲んでいる」と言われていた私の背中だが、鉄板とは…お好み焼き食べたい。
とにかく太もも付け根やらおしり・腰のあたりがめっちゃ痛かった。いつもは穏やかに会話が弾むんだけど、今回ばかりはもう腹の底から「うおっ」「あ゛あ゛あ゛あ゛」と取り繕えない悲鳴が出た。
「これはヤバいですよ」っていうのは、セールスの一環であって、つまり「もっとこのメニューも付けて!」「この商品を買って!」っていう流れの一環なのかと疑う気持ちはある。
が、周囲のブースからあんな困惑に満ちた反応や、野太い悲鳴なんて聞いたことないんだよ…
確かに、肩甲骨周りの硬さは感じていた。腕の可動域がおかしいとは思ってたんだ。腰痛がきてる自覚もある。あれこれストレッチを試みてはいるものの、すぐどうこうなるわけでもなく。デスクワークの時間が長いのも姿勢があまりよくないのも悪化に拍車をかけているだろう。反り腰、猫背から解放される日は来るのか。
健康尊い。みんなはどうやってこのリンパのつまりなんだか筋肉の強張りなんだか鉄板なんだかから逃れているんだ。
エステにお姉さんは何人かいるんだけど「これスタッフルームに戻って○○にも伝えないと!」と言われた。
帰りに○○さんに会った。「増田さん、背中相当ヤバいんですって?」「えっもう聞いたの?」「秒で」単なる業務内容の共有であることを願いたい。
昔、突発的に整体的なのを習いたいと思って開業できるぐらいの実力をつけた。
だけどやっぱ自分の道ではないと思ったので今は全く別な仕事をしている。
身近な人で、それこそ自分がそういうのを習ってたことを知っている人がたまに、
なんとかしてくれよ~と来るとか、紹介で来た人を施術するぐらいだ。
なので飲み会の場で
「こいつ腰痛とかなおせるのよ」
と聞いてくる。
当然、なんとかする。
・リンパの流れが
・みなさんやってますよ
・恥ずかしがってたら終わりませんよ
とかは言わないが、どんな症状であっても
身だしなみを整えてくるだろうから足が臭くなくても納得できる。
でも、完全に不意打ちで足を診ることになっても本当に臭くないのだ。
一体これはどういうことだ。
男はほぼ8割がた臭い。飲み会の場なら、飯食う気が失せるぐらいだ。
ソ連兵かと思うぐらいのブーツを履いている子でも臭くない。
本当に謎だ。
https://anond.hatelabo.jp/20171110125209
過去に別のドナーさんから提供された骨髄を移植したレシピエントさん
https://anond.hatelabo.jp/20171110205203
どちらも普通に生活をしていると全く知り得ない出来事で、マンガやドラマの中によくある「ドナーさえ見つかれば万事解決」的な描かれ方とは程遠い、圧倒的で重くて細かい現実が良くわかる。
いい機会なのでここで骨髄移植について書いておこうと思う。
まず移植というと腎臓移植とかを思い浮かべるだろうし、コメントにもちらほら手術とあるから誤解を受けやすいのだが、骨髄移植に限っては、手術はしない。
ドナーが見つかったら移植日を設定し、そこに合わせて致死量を超える抗がん剤と放射線(移植前処置)により、レシピエントの免疫を完全にゼロに持ち込む。これは一旦Goとなったら止めることはできない。
そしていよいよその日、day0に移植となる。移植自体はむしろ輸血に近い。血管から提供された幹細胞を輸注するのだ。そして生着を待つ。
ここで幹細胞が入れられないと当然レシピエントは死ぬ。移植が受けられなければ、移植前処置とは単なる殺人行為だからだ。ドナーが提供前に危険を伴う行為を制限される理由はこのことに他ならない。
ただし、やはりドナーにおける負担は現状、相当重い。自身の健康を損なう危険がある上、仕事を休んで検査をし、入院して痛みを伴う処置に耐えなければならない。
また、レシピエント側の問題として、ドナーの上記の準備を待つ時間がない、ということもある。その間、少なくともがん細胞をコントロールし続けなくてはならないのだ。
そういう意味で骨髄バンク経由の移植というのは最もハードルが高い。
まず知名度もあり、利用も多いのが臍帯血バンクだ。出産のときに廃棄される臍帯血を保管し、移植に使用するものだ。骨髄バンクとは違い、もともと捨てるものを保管管理するだけなのでドナー側の負担はほぼゼロだ。(出産前に提供の意思表示をするくらい。)
問題点としたら、得られる造血幹細胞が限られており、レシピエントの体格が良いと足りない場合がある、再発した場合に効果が期待できるドナーリンパ球輸注が使えない、臍帯血を採取できる施設が限られており、なおかつ出産はいつ何時始まるかわからないため、週末や年末年始など、採取できないケースが結構ある、などだろう。
骨髄移植は白血球の型(HLA)が全て合うことが望ましいが、これが一致するのが非血縁者間(骨髄バンク)だと一万分の一以下である。
この合致率を下げて、血縁者をドナーとしようではないか、というのがハプロ移植である。血縁だけあって、兄弟なら50%の確率で、親子ならほぼだいたいドナーになることが可能である。縁もゆかりもない他人のためにドナーになるのは負担が大きいが、兄弟や子どもであればどうだろう。しかも、抗がん剤や放射線で叩ききれない残存がん細胞に対する抗腫瘍効果も高いと言われている。
こう書くとまるで夢の治療だが、実際行われているのは日本でも数施設である。なぜか。移植をするということは、他人の免疫細胞を招き入れ、定着させるということである。そして、免疫細胞の役割とは、自己でないものを攻撃することである。
移植された免疫細胞にとって、レシピエントの身体は非自己でしかないため、当然攻撃対象となる。これが移植片対宿主病(GVHD)だ。
消化管に出れば1日何リットル単位での下痢になるし、吐き気が出ることもある。皮膚がぼろぼろになったり、肝臓がやられる場合もある。
そして、何より問題なのが、GVHD に有効な薬剤があまり市販されていないことだ。免疫反応がその実態であるので、免疫抑制剤が主力になる。当然、移植後から全身性の免疫抑制剤は綿密な血中濃度のコントロールを行いながら投与されるのだが、強力な免疫抑制は感染と表裏一体だ。局所のGVHD 制圧のためにはその場所にさえ薬が届けば十分なのだが、なかなかそういう薬はないのだ。
ではどうするか。
作るのだ、病院で。
この、2017年の日本において、薬剤師が、カプセルに、手動で粉薬を、つめている!
また、健康な人の腸内細菌を移植する、と言えば聞こえは良いがその実態はちょっとここでは書けないような、そんな治療も医師が自ら犠牲(犠牲?)になって行われていたりもする。
骨髄移植、それもハプロ移植となれば最先端医療である。しかし、最先端であるが故、市場規模が小さすぎ、まだまだ製薬会社を始めとする企業が手を出しにくい状況であり、医療スタッフが手弁当で補わなければならない部分も多々あることは記しておきたい。
レシピエントの方が書いていた、骨髄移植が生きるか死ぬかぐるぐるポン!というのは確かにその通りであるが、移植後の生存率とQ O Lを少しでも上げるために、現場ではいろいろ、本当にいろいろ、試行錯誤を重ねている。
まだ正確なことは何も分からない。
父が大腸検査のためにクリニックにいった。内視鏡カメラで様子を見ようにもポリープがS字結腸のところで5cm程度に膨らんでいて詳しくは見れなかったらしい。
結局そこの小規模クリニックでは検査を受けることができなくて私立の大きめの病院で無理やり検査をして貰った。
ポリープは1cmを超えるとほぼガンらしくて、今がステージ3か転移しているステージ4なのかはまだ分からない。週明けに入院をして詳細な検査をするらしい。
父の自営業のことやら、親が死ぬのか?とか、自分は今年から無職をしているので今度を継ぐのかとか、別で就職するかとか、考えることがいっぱいだな
たぶん継がないけど、いや、今は上手く考えが纏まらない
2017-10-18追記:
追記してコメントをくれた人に通知が行くのかとか、よくわかりませんが追記します。
検査の結果としては、他の箇所への転移はありませんでした。一部肺に怪しい箇所もあるそうですが、腫瘍かどうかは分からないそうです。職業柄で粉塵を吸ったりするのでその影響でしょうか・・・わかりませんが。とりあえずは静観して後の抗がん剤治療で無くなるかもしれないとのことです。
今週手術をして、もう翌日には歩く訓練をするそうです。今は手術後歩かせるみたいです。
今後なんどか通院する必要はあるそうですが、早ければ今月末~来月初に退院予定です。
とりあえずは、無事のようです。
もちろん、開腹手術中に何かあるかもしれないし、大腸部分の転移?侵食?が強いかもしれない。まだ分かりませんが、とりあえずは一安心というか落ち着けます。
検査の結果が出るまで短い間でしたが、色々考えました。
事業を継ぐ気は元々ありませんでしたが、癌といってもすぐに死ぬわけではないので、事業収縮・廃業するのか、もしくは父の遺志を継いで仕事をするのか。
継ぐというのは会社の従業員の事とかもありますが、父が病魔に侵されながら最後の、何か形に残せる、もしくは目に見えないけど本当に遺せるものだとしたら、継いだ方が良いのか?とかも考えました。
親は死ぬんだ、それが改めて感じられたと言いますか、僕らが成人した時には親は50~60程度だと思いますが、そこで突然死しても「そんな、まだ若いのに。早かったね」程度でいつ死んでも可笑しくないですからね。
何もできないし、結果を待つことしかできなくて、祈ったところで検査の結果なんて変わらないと分かっているのに祈るしかありませんでした。
2017-11-03追記:
ステージは2でした。ですが大腸がん以外にも膀胱がんも見つかりました。他の部分にも癌があるのにステージ2なのか?と疑問が沸くかもしれませんがリンパ経由で癌が増えると?ステージ4となるそうです。今回は大腸がんの細胞が侵出して膀胱がんになったのでステージ2とのことです。
実は術後すぐの報告の際に膀胱がんあるのでステージ4ですと伝えられました。その後大腸がんの細胞を病理に出してリンパの転移がないと判明した訳です。
これは医者側の話術というか、希望を持たせて落とすよりは、一度落として上げてからの方が本人や家族が安心するからだと納得しています。
あとは人工肛門(ストーマ)を設置することになりました。腸の手術をすると一時的にストーマを設置する事があるようですが、父の場合は永久的ストーマになります。
2日に一度程度の周期で糞便が収納される袋を交換する必要があります。死ぬまでです。何とか人工肛門を外せないかとも思いましたが神経に触る?て間違えてしまうと糞便垂れ流しになってしまうようで、自己排便は難しそうな雰囲気を出していました。
今後は放射線治療と抗がん剤の投薬で残った膀胱がんを寛解させていきます。
最初の一ヶ月は入院をして、その後は容態を見て入院して治すか通院で治していきます。
父は大酒飲みで毎日お酒を飲んでいました。その結果がコレです。もしかしたら膀胱がんが駆逐できずに他に転移して死ぬかもしれません。もしくは膀胱がんが寛解した後に再発するかもしれません。膀胱がんは再発し易いそうなので。
自分は大酒飲みではありませんが飲み過ぎることがママありました。今後気をつける、というよりお酒を飲みたくなくなりました。翌日残りますし。
離れた実家に暮らすお母さんが、癌になったらしい。3回目。
1度目は8年くらいまえに大腸がん。親が死ぬかもって初めて思ってすごく悲しかった。
それ以降、親はいつ死ぬかわからないと思って、たくさん帰ったり、たくさん写真を撮ったり、喜ぶことを出来る限りしてみた。
2年前にまた肺がんになった。リンパにも転移していた。今度は場所的に手術ができないかもとか言っていた気がするけど、手術か抗癌剤治療かで、また完治した。
この時私は結婚したばかりで、やらないつもりだった結婚式を母の希望でこじんまりやることにした。
自分が離婚するときはすごくお母さんに心配もかけて、おとなになって初めて喧嘩もして、お母さんから「うまく言えなくてごめんね」ってメールが来たのを覚えてる。
それでもまた前向きに、元気になったと思っていて、通院もずっと定期的にしていたけどまた癌が見つかったらしい。
しかも全然私知らなくて、地元にいる姉と何気なくLINEしていたら「そういえば聞いた?」という感じで聞かされた。
今回は、もう完全に手術できないくらい多数肺に転移していて、今日から抗癌剤治療が始まったらしい。
なんで私に言ってくれなかったんだろう、と言ったら、姉が「離れてるし、お母さんもまだ整理がついていないんだと思うよ」と言ってた。
自分もまだ頭の整理がついてない。ビールも飲んじゃってたし。整理もなにも無いんだけど。
泣けてきた。髪は抜けるって。
まじで自分が死ぬかもっていう病気を3回やるって身体的な症状0でも精神的に相当つらいと思うんだけど、加えて手術とか、抗癌剤治療とか、いろいろあって、それでもなんか前向きらしいという情報を聞くと、自分ももっと頑張って、何かできることすべてやらないとなと思う。
やだなーって思ってた。
髪抜けるのが嫌だった。
髪質が、自分にとって希少な長所の一つなのよ。黒髪の中で浮かないほどの焦げ茶色で、巻かなくても毛先がエレガントにくるんってなるの。
でもまあ、命には代えれんよなあ。
って覚悟決めたら、案外そうでもないんだよね。注射もそうだし、手術もそうだった。事前の想像に比べて、現状はいっぱいいっぱいで、もっといろんな大変なことがあるもので、後から考えると、あんまり大したことじゃない。
でも、もしも。たまに悪魔がささやく。でも、もしも、つらい思いしないで簡単に良くなる方法あるって言われたら…。
正直言うと、噂の水素は何度も調べた。そして、わからなかった……。圧倒的に知識不足なんだよねー。どういう理屈で、何が効果的なのかわからなかった。
親がハマっていて、すすめられては何度も断ってる。拒否していると言ってもいい。
母の説明では、「水素が細胞を正常化させる。カプセルなので水素水と違って飛んでかない。副作用はない。ガンに効いたって話もきいた。厚生省のお墨付きがー……などなど」
典型的っすね。でも、一つ一つ否定したんじゃだめだと思ったの。だから、
「心配さ、してぐれる気持ぢはわがっけども、おめえも、昔、じいちゃん(父の父)の健康食品、愚痴ってたっぺよ。そん時なんつった? んだら、わかっぺな?」的なことを言ったわけよ。ほんだら、なっどぐさ、いがねでも、わがっだーってごどになっで、そんどぎは、おわっだんだげんども、私の誕生日ん時にな、水素の吸入器あげっからー♪って言われて、もうね…… 絶望したよね。説明途中で、察して、いらない!って言ってその場を去った。
何でわかってもらえないんだろう。それは、きっとお互いに思ってるんだろうけどもな。
まだいいのは、現状の私の選択に関しては母は意見してこないこと。
彼女は、色んな手段試しましょうという。でもね、それね、治ったら水素のお陰と吹聴しますよね? 私、色々頑張ったよ。まー、実際頑張ったのは医療関係者の皆様と体内の細胞とかだけども。
あんまり、母に痛いとかつらいとか言えない関係だから、言っても、なんか、わかってもらえない感じがする。痛いとか疲れやすいとか、見た目ではわかりにくくて、できるでしょ、なおったでしょって言われる。これは、結構つらい。さすがにまだだよーと笑って言いながらも、なんだか悪いことをしている気分になる。だって、違和感はあるのだもの。それは、私のお腹の縦が赤道が証明している。こんなに切ったんだなあと、手術跡を見て毎回思う。
現状を見てもらえない、実状をわかってもらえない、っていうのがつらいよねー。でも、現状を知って悲しまれるのはもっとつらい。相手の悲しみに傷つくんだよなあ。それはしょうがないことだけどもね。
脱毛に関しても、自分がなるのはまあ、覚悟つくけど、その姿を見せて、優しい母なり義母なり、悲しい思いさせるのは、本当に心苦しい。
またこの状況をギャグにできるほどタフな性格でもないんだ。後日、「実はね、あの時ねー」って言うんで精一杯…。
思いの外、ながくなってしまった……。
でもね、ひとつわかる。
絶対治るっていうどこで何をしてるかわかんない長い肩書の人と、現場で実際に病気と戦う医療関係者の言葉、どっちを信じるか。
ガン治る人は、ガンなら何でも効きますとかいう。でも、このガンなら対処方法こういうのがありますって方が私は安心する。
副作用はないって、ガン治る人は言うけど、副作用はありますが、症状によって、その都度対処しますって方が私は安心する。実際、吐き気もなかった。
自分の場合は、比較的早い段階なのも心理的に良かった。ステージ1Aなんだ。術後、リンパの腫れがあって、3を覚悟してくださいと言われたが、病理の結果、採取した全てのリンパ節に見つからなかったので、最終的に1Aとなった。
なのに、抗がん剤なのは、まー、あれよ、ガンちゃんが部位の外に逃げ出したかも、チェックに一つだけひっかかったのだー。
でも、それが終わればなんとかなるのだと、先が見えているのもちょっと治療に前向きになれている要因だと思う。
正直、心配してくれたり優しい親の気持ちはうれしいけど、ちょっと、困ってもいる。
それよりも傷もみて、つらい説明一緒にきいてくれて、できることはやらせてくれて、できたら良かったねーっていってくれて、できないことはお任せできて、現状を受け入れて一緒に頑張ってくれる、旦那のような態度の方が、今は一番ありがたい。えへへー 前職が保育士で今が介護職の優しい旦那様なのよー。
実家も、婚家も、家族に恵まれているから、今は安心していられるのだろう。治るための努力も耐えられるのだろう。
また、だからこそ、幻術のような幸せにはあまり興味がないのだろう。
つくづく思うのは、人生は経験だよなって。やなことも、経験することで、たくさん考えて、たくさん調べて、たくさん学んでいる。それを今後にどう活かせるかなんだろうねー。
素朴だけど優しく私を愛してくれる夫と2児に恵まれ、幸せな人生を手に入れてそれなりに満足感のある日々だった。
幸せな日常を一瞬にして真っ暗な絶望に追いやった乳がんの発覚。
乳がんは罹る人も多い病気。負担はあるけど、治療なんてさほど難しくないと思っていた。
でも全然カンタンではなかった。
家族、友人、そして自分自身多くの人を深く傷つけ、心身共に疲れ果て全てを失う寸前まで追い込まれた。
判断ミスもあり、軽度とは言えない状態までいってしまった私だが、良き出会い、周りの人の支えに助けられたことは幸運だった。
手術、抗がん剤治療を行い私は今、再発の不安は抱えながらも元の幸せな生活を取り戻すことができた。
いろんな後悔が今も心に残っている。
こんな思いをする人を一人でも減らせたら。そう思って私の体験を伝えてみたくなった。
興味があったら読んでみて下さい。
ほんの些細なこと。
10月1日、夫と食事に出かけた帰りに見かけたピンク色にライトアップされた東京タワーだった。
その時は何も思わなかったが、少しだけ「乳がん」という言葉が頭をよぎった。
それから1ヶ月が経った頃、
朝、着替えの時に左の胸に固い感触を感じた。
違和感を感じ指でふれた。コロコロとした1cm程度の小さなしこりを感じた。
ピンク色の東京タワー、ピンクリボン、その記憶が私にそう思わせたのかもしれない。
ただし、その日は家事に忙しいこともあり、夜にはしこりのことは忘れていた。
夜の入浴時にもう一度触ってみた。朝のしこりはもちろん、あと2個程度小さなしこりを指先に感じた。
大きな病気をしたことが無い私は些細なことでもすぐ心配になるタイプだった。不安にかられ、髪も乾かさずインターネットで幾つかのサイトを調べた。
しこりがある=乳がんというわけではない。40歳未満の場合は良性のしこりの方が多いらしく乳腺線維腺腫の可能性が高いと書いてあった。
人間、不安なときは都合のいい方の考えに飛びついてしまうものだ。
私は、
と勝手に安心し、「こんなものはそのうち消えてなくなる」なんて、根拠もない解釈をしながら、眠りについた。
翌朝、しこりは消えていない。やはり気になる。「もしかしたら」が再び頭をよぎる。
考えないように過ごそうと思ったが、家事が何も手につかない。
今まで感じたことの無いものが私の胸に存在している。その事実から目をそむけることができなくなっていた。
一刻も早く安心したい。その一心で私は病院を探し始めた。乳がんを検査してくれるのはどこか?今まで考えたこともなかったから検討がつかない。
よくわからないが、とにかく近くの産婦人科に行ってみることにした。
そういって若い女性の医師は近所の外科への紹介状を書いてくれた。
その翌日は外科の診断へ。私は一日がかりで色々な検診が行われることを想像したが、触診だけだった。
診断は
違和感があった日に確認した見解と一致していたため、その診断を疑うこともせず飛びついてしまった私がいた。
乳腺線維腺腫は放っておけば3ヶ月程度でしこりはなくなってくるとのことだった。私は安心して、日常の生活に戻った。
「大丈夫でしょう」という自分の安易な判断と、夫に相談せず自分で納得してしまったことがあんなことを引き起こすなんてこのときは思いもしなかった。
それから2年、私はしこりのことなどすっかり忘れて平穏な生活を続けていた。
日々の家事、娘息子の世話、当たり前のことを当たり前にこなす。傍からみれば退屈かもしれないけど、愛のある満たされた毎日。
その日もいつもと何一つ変わらない一日だった。
夫と同じベッドで寝ていると、寝返りをうった夫の手が私の胸に当たった。すると夫が「え?硬っ!」驚いた様子で声を上げた。
暫く自分の胸に意識が向いていなかった私は自分の胸を触り、全身から血の気が引き、突然得も言われぬ恐怖感が襲ってきた。
私がもらした一言を聞いた夫の青ざめた顔が今でも印象に残っている。
夫はすぐに「明日会社を休むから、一緒に病院に行こう」と言ってくれた。
とにかく早くということもあったが、2年前にいった病院は割けるため、隣町の女性クリニックへ診断に行った。すると「確かにしこりがありますね。技師が3日後に来るのでエコー取りましょうか」
との回答。
しかし、今すぐにどうなっているか知りたい。不安が募りの募った私達夫婦は待つことができなかった。
「乳がんの専門医でなくてはわからないのでは?」と夫の意見を採用し、インターネットで調べ最も近くにあった乳腺外科のある病院へ行った。
まずは触診。先生の無表情さが不安を掻き立てる。その後針生検へ。これは正直かなりの痛みがあり、辛かった。
終了後、先生は「結果は一週間ほどで出ます。検査結果によっては大きい病院を紹介する形になります。」と。
もはや1週間を待てる心理状態ではなかった。一刻もはやく白黒を知りたい。先生にお願いをして大学病院への紹介をすぐにもらった。
これらの検査を一気に検査を行うことができた。これで自分が乳がんなのかそうではないのか、ハッキリと分かる安心感はあった。
この一週間は今まで感じたことのない長さだった。
加えて、2年前、なぜしこりが気になった時点でもっと詳しく調べなかったのか、夫に相談しなかったのか、激しい後悔にも襲われた。
診断結果を聞かされた瞬間、私は頭が真っ白になった。
先生が言っている言葉は聞こえるが頭に入ってこない。隣の夫も呆然としていた。同じ状態だったのだろう。
何も考えられない、何も声発せない状態が3分は続いただろうか。
我を取り戻した私は、
「どうすれば治りますか」と先生に聞いていた。
結論は手術。
私は家族と一日でも長く幸せにくらしたい。その思いが人生の最優先だと強く認識した。
女性として葛藤もなかったと言えば嘘になるが、全摘を選択した。
医師から告知を受けると今度は身内や親しい人に話をする必要が出てくる。
まずは娘と息子に12歳の娘、10歳の息子。
ともに私が大変な状況にあることは理解してくれたようで、神妙な顔つきをしていた。こんな状況だが「泣いたり喚いたりせず立派だな」と成長を感じ少し嬉しい気持ちもあった。
次に両親へ説明をした。福岡に住んでいるのでまずは電話で話をした。母が出た。
母とは昔から何でも話し合える仲だ。あまり回りくどく説明しても仕方がないと思い、率直に「乳がんになった。手術をする」と伝えた。
と私に声をつまらせながら何度も何度も謝った。
親の前ではやはり自分は子供に還るのだろうか、今まで必死に堪えていた恐怖心や悔しさ、絶望感があふれ、私も涙が止まらなくなった。
仲の良い友人にも伝えておく必要があると私は考えた。
私のこの考えは安易だったのだろう、結果闘病前に友人関係で心のダメージを負うことになった。
仲が良いと思っていた主婦仲間、ママ友に告知をすると
という反応。
特に親身になって欲しいとかそういうわけじゃない。何が欲しいのかもわからないけど、何か嫌だ。そんなダダっ子みたいな自分も嫌になった。
更に追い打ちを掛けたのは「親友」だった。
中学校からの友人、由美とは今でも週に一度は会う仲で、何でも話せる間柄。
私と由美はまるで姉妹のように、同じような進路を辿り、同じようなレベルの男性と結婚し、同じように幸せな家庭を育んでいった。
昔から進路の話、異性の話、結婚してからはお互いの家庭の話、旦那の愚痴。家族ぐるみでも付き合える最高の友人だった。
由美になら何でも話せる。親兄弟よりも私の気持ちをわかって親身に寄り添ってくれるそんな勝手な期待をしてしまったのだろう。
由美にも率直に
と伝えた。
ただ、由美にだけは同じ女性、同世代ゆえに全摘によって片胸が失われることに関しての悲しさがあるという話をした。
するとA子は
と言い放った。
彼女は明るい性格だ。彼女なりに私を励まそうとしたのかもしれない。
死を意識する日々、あまりに多くのものを失っていく毎日、私があらゆるものに敏感になりすぎていたのかもしれない。
ただ、この一言はどうしても受け入れることができなかった。
私が置かれていた状況は私の平常心を奪っていたんだろう。滅多に感情的になることがなかった私が怒りを抑えきれず、由美に対して激しい言葉をぶつけてしまった。
これまで長年にわたり育んできた暖かな友情に大きなヒビが入ってしまった。乳がんはまた一つ私から大切なものを奪ってしまった。
家族の不安、両親の涙、友人との離別、多くのネガティブな感情を抱えながら私は手術に挑む。
スケジュールが出た。
手術は診断結果が出た日から20日後に決定。全摘を選択したために術前の化学療法はなし。
手術2日前から入院となった。前日からは食事も取れない。当日は朝から各種検査を行い以異常がなければ全身麻酔をして手術開始。目を覚ませば手術が終わっている。
手術は予定よりも2時間遅れて終了。遅れた理由はリンパ節への転移が見られたから。麻酔が切れて朦朧とした中で、病室で夫がずっと手を握ってくれていたことは記憶の中にうっすらと残っている。
乳がんが発覚し自分の信じていた世界が全て崩れてしまったと思っていた。
でも夫だけはどんな状態の私も暖かく包んでくれていた。こんな時だからこそ夫の愛情を強く感じることができた。手術が終わった安堵感と、愛を感じられたことによる充足感か、そのまま深い眠りに就いた。
翌朝の目覚めは心地よかった。起きたら包帯でぐるぐる巻きだ。まあ夢ではない。現実だ。左のおっぱいないよなー。と思って触ってみるとやはり・・・ない。
わかっていたけど、現実を突きつけられると涙がこぼれた。
術後に体内にたまるリンパ液や血液を出すためのドレーン管が二本入ってたが。ここから液がでなくなれば退院だ。
7日後、遂に退院が出来た。退院時の値段は50万円だった。私はがん保険には入っていなかったので正直この金額は厳しいものがあった。備えあれば憂い無し。
そんな言葉が頭をよぎったが、今は無事に退院ができたことの喜びの方が勝っていた。
左の胸がなくなってしまったことへの喪失感はあった。お風呂に入るときなど自分の身体から目を背けたくなる時期もあった。
でも、疑似おっぱいの性能が以外と良く、服の上からでは見た目にわからない状態になった。そこからはだいぶ気分が楽になった。
気分は元に戻ってきたが、治療はまだ終わりではない、手術から30日経過した時点で今度は抗癌剤治療が始まった。
期間は3週間を1クールとして、8クール、複数の抗がん剤を組み合わせての実施。
抗癌剤治療と言えば、ドラマでも度々その様子が描かれる。そのためわずかに恐怖心があった。でも生きるため。
抗がん剤治療は想像していたよりはキツくはなかった。最初の一週間は特に異変もなかったけど、8日目辺りから吐き気と貧血が出始めた。割りと調子が良くなってきた17日後に遂に髪の毛は完全に抜けてしまった。「あー、やっぱこうなるのねー」と思った。
覚悟は出来ていたので、思っていたよりはショックは少なかった。
2クール目は特に問題なく過ごすことができた。まあ抗がん剤の点滴の際は気が重いくらいかな。
3クール目に入る前にはかなり抜け落ちてきた髪が目立つので、ウィッグを買いに行った。季節をまたいでの治療なので冬用と夏用を両方買った。
それにしてもケアグッズも高い。
あまり大きな声で言う人はいないと思うが、乳がんは治療以外にかかる金銭的負担も大きい。
4クール目に差し掛かる頃には髪の毛は全て抜け落ちた。髪だけでなくまつげ、眉毛、体毛全てが抜け落ちた。顔色も悪く自分を鏡で見るのがちょっときつくなった。
いつも看病してくれる。夫も私の姿をみてどう思っているのかな。。。と少し気になる時期だった。
こうして、長かった化学療法も遂に8週で無事に終わりを迎えることができた。もう吐き気に悩まされることもないと思うとかなり気が楽になった。
楽しい時期は2ヶ月なんてあっという間だが、治療となると1年間のような長さに感じる。
抜け落ちた髪も徐々に生えてきて、昔に戻れるのかな-と淡い期待を抱かせてくれた。
化学療法を無事に終えた私は最後の治療、放射線治療に入ることになる。
放射線治療は、全部で30回。毎日通院が必要で、一ヶ月半ほど平日は病院通いが必要になった。経済的な負担も引き続き大きかったが、仕事の調整をして一緒に通院してくれた夫に負担をかけているという罪悪感も多くあった。
放射線治療にも副作用がある。軽い火傷のような症状だ。熱い、かゆい、痛い。放射線を当てている患部は赤黒くなってしまい、見るからに痛々しい感じだ。
ただ化学療法と違い体外的な副作用しかなかったので、辛さで言えば全然問題なかった。
手術をしてから約半年が過ぎて、ようやく私の乳がん治療は全て終了した。
毎日毎日通った病院。乳がんを発見してもらった病院にそのままお世話になって本当に良かったと思う。
検査のときは無表情で怖かった先生も病に真剣に向き合って時には優しく、時にはハッキリと私が不安にならないように、また過剰な期待を抱かないように上手に説明をしてくれた。
お陰で私は現実と向き合い、治療の目的を正確に理解しながら集中して治療を受けることができた。先生本当にありがとう。
そう言えればどれだけ幸せだろうか。
一般的ながんは5年再発しなければ完治と呼ばれるが、乳がんは10年後20年後も再発の恐れがあるために、ほぼ一生に渡って再発の恐怖との戦いになる。
こんな人生を送ることはまっぴらごめんだ。
そのなかで私の心は強くなっていた。がんを再発させないように生活を改善していけばいいじゃないか。そうポジティブに捉えることができるようになっていた。
乳がんによって手に入れられたこともあるのかなと思うと、最悪なことばかりではないかと思った。
幸いといっていいかな。見た目以外は正直、乳がんが発覚する前とあまり変わらない状態だ。
ただ髪の毛はやはりなかなか生えてこずまだ5cmほどしかない。出かける時、来客のときは帽子を被るようにしている。
左胸がないことにはさすがにもう慣れてしまった。残念に思うのは大好きだった温泉に行きたくなくなっちゃったことかな。
胸のコンプレックスが薄くなった今なら親友の言葉も笑った受け流すことができたのになーと思うと少し心が痛む。
以前は特にお肉が大好きでカロリーは紀にしながらも好きなものを食べていたけれど、今は野菜を中心とした食事と抗酸化作用の高い食品をメインにしている。
そのおかげもあってか、再発は今のところなく、検査結果も良好。適度な通院も生活のリズムを整える意味で意外と気に入っている。
家族との結束は乳がんによって以前より固まった気がする。長女は14歳になったが私の身体を察してか、家事も積極的に手伝ってくれるし、反抗期の気配もない。12歳になった長男もだいぶ私を労って自分のことを自分でやるようになった。時々一緒にお風呂に入るが胸のことには触れてこない。なかなか優しいやつだ。モテる男になるかも。
夫は病気の前から優しい人ではあったが以前に比べて、私を心の底からいたわってくれている。先週末、酔って帰ってきた時に話していたが、乳がん告知の際、私を失うかもしれないと思った時に本当の愛が溢れてきたそうだ。
先日からかったら、覚えていないと本人は言うが、どうだかは知らない。
親友との関係は残念ながらまだ修復には至っていない。先日スーパーで顔を合わせたが会釈程度で終わってしまった。今の精神状態なら素直に私から謝ることができる。彼女との関係修復は今の私の一番の課題だ。
こんな感じで意外と悪くない日常を過ごすことができている。
でも、今こうして、振り返ると悪くないことも多いなと思うに至った。
どうしても後悔はある。それが今回私が体験談を語ろうと思った理由。いまでも本当に後悔していることは一つ。
乳がん発覚の2年前、最初に気になった時点で乳がん早期発見の機会を逃したこと。
もしここで、私の治療をしてくれた大学病院までたどり着くことができていたら・・・
早期発見というくくりの治療となり切除も再発のリスクも存在しない状態で治療が終わっていたと思う。
親友との離別も家族への過度な負担。これらも起こることはなかっただろう。
10月1日ピンク色に染まった東京タワーを見た時にもっと深く乳がんを自分ごととして考えられていればな-なんてことまで思ってしまう。
乳がんは女性の12人に1人がなる病気と言われている。確率は高い。あなたもなる可能性が十分にある。正直発生自体を防ぐことは生活習慣などにもよるし、生活習慣を気をつけていても病気はいつ襲ってくるかわからない。
少し前に国内で性転換手術(男→女)を受けたのでその体験談を紹介する
読み物として、もしくは誰か当事者の参考になれば嬉しい
★すぺっこ
まぁ、その筋の人には簡単に見抜かれるはず
30代まで時間がかかったのは、そもそもお金がたまらなかったのと、診断書の出てくるスピードが遅かったのが大きい
NHとして働いたことはないのだが、今思えばそっちの道で働くのも良かったかもとは思う
★お仕事
男として正社員入社したが、在職トランスには向かない会社だったので退職した
今は自営業で会社員時代以上に稼いでる。最初から自営してりゃ良かった
本業以外にブロガー的な収入(いわゆるアドセンスとか)があると、手術期間中の収入減をカバーできる
実際、ベッドの上でもがんがんブログ書いてたし、おかげで収入の心配はさほどなかった
自営業なので、昔Lv3という匿名掲示板で繰り広げられた「埋没OL」にはなれない
自営業は楽なのだが、周囲と調和して女として生きる、というのには向いてないように感じる
★手術
手術したのは富士山が見えるところ
MTFはタイでの手術が多いが、「海外は心配だ」という周囲の意向が大きかった
穴あり。手法はち○こをひっくり返し作る反転法
作り物とはわかるが、某GID関連の先生にはきれいに作られていると言われた
手術した後はいろいろ辛かったが、4日目ぐらいからは普通に歩き始めた
体拭いたりも4日目ぐらいから
kabaちゃんみたいに泣いたりはしなかったな
入院期間は2週間
費用は200万未満
あそこが痛かったのと、おみやげをたくさん買いすぎて、帰りの電車はちょっち辛かった
さすがに「性転換手術のおみやげです」とは言ってない
思い出深い味になるはずだったが、もう忘れてしまった
★経過
1ヶ月ぐらいは患部の痛みがあったが、その後は消失した
ただ、作った穴からの出血というか、リンパ液の漏れ?は半年ぐらい続いた
溶ける糸が全然溶けなくて、あとあとの術後検査で切ってもらった
★戸籍変更
一度変えたら戻せないよ!とは脅された。
性転換したけど「やっぱり間違いでした」って揉めたおっさん(?)のニュースを思い出したが、ためらうことはなかった
新しい名前については、「なぜその名前なのか」と簡単に聞かれたが、説明したら納得してくれた
★役所
年金は役所側で勝手にやってもらったので、いつの間にか名前変わってた
年金手帳の名前は自分で線引いて直してねと言われた。そんなばなな
仕方ないので、免許証は身分証明としてできるだけ使わないことにしている
★最近について
今のところ、手術してよかったと思っている
http://anond.hatelabo.jp/20170315234045
ものすごい数のブコメ、トラバをもらってびっくりしたけど、本当に有り難かった。
本当に本当にありがとう。
回答がうつ病一色だったのはちょっと驚いたけど、やっぱりそうなんだなぁとハラ落ちした部分もある。
先日、非定型うつの典型症状について見ていて、ほぼ全て当てはまっていることは認識してたからね。
(ちなみに、涙が出たりはしていない)
でも、なんていうか、友達と遊んだり趣味のことはできていたから、絶対違うだろうというか、信じたくない気持ちがあったんだと思う。情緒はかなり安定してるしね。
でもトラバで、
「「今日は趣味のコンサートに行けてストレス解消になった。明日仕事行きたくないなあ」→鬱かもしれないし、そうじゃないかも
「趣味のコンサート行けばきっと楽しくて元気が出てくるに違いない。だからがんばって見に行かなきゃ」→典型的な鬱」
って書いてくれてたのを見て、本当にそうだなあと思ったよ。なんとか人生を楽しくすれば、生き続けられるんじゃないかとずっと思ってた。
友達と会えば、一時的にも気分が良くなるし、テンションも上がるしね。
同じような人はけっこういるんじゃないかと思う。
「情緒も安定しているのに起きられないって、心や気持ちをすっかりと無視する習慣ができあがったのかな。」
って書いてくれたブコメには、家庭環境とか他のことでも思い当たることが多すぎてハッとさせられた。
昔から、本当に辛そうな状況でも全然表情とかテンションが変わらないって言われてたんだ。
あと、年収とか勤務先について書いて、不愉快な思いをさせてしまった人、ごめんなさい。
自分がどんな人間か書こうと思った時に、書けることがそれしかなかったんだと思う。
指摘してくれた人もいたけど、私には他に誇れることも自分で成し遂げたと思うものが他に何もなくて、肩書きとか仕事が本当に心のよりどころになっていたんだと思う。
いろいろな事をやってきたつもりだったけど、結局それしかなかったんだって。
あと、総合職と書いたのは私の性別が女だから。たしかに、男性ならあまり意識しない言葉だよね。
仕事といえば数年前に役付き(事業責任者)になってね。年の半分くらいが異常に忙しくなってしまって、次の繁忙期は乗り越えられないかもしれないとは思ってた。
それに、もうかなり長いこと私と同じ業務ができる人(同じ資格がある人)がセクション内にいない状態だった。そのことも地味に、ずっと負担だった。
また来月から私がしなければならない仕事があって、それだけはやりたいなと思ってるけど、どうなるのかな。
それから保険加入を勧めてくれた方、ありがとう。医療保険しか加入してなかったから、初診の前に生命保険に入っておこうと思う。
あと、うつ以外の可能性も考えてくれた方もありがとう。子供の頃に甲状腺の異常は指摘されていたことを思い出した。最近も頻繁にリンパを腫らしていたから、その線でも受診したいと思う。
嫌な思いをさせてしまった人もいたかもしれないけど、たくさんの人が親身になってくれて、心配してくれて本当に有り難かった。
ブログに記事まで書いてくれた人、ありがとう。連絡できるかは分からないけど心に沁みたよ。
似たような状況の人もいるみたいで、参考にしてもらえたらいいなと思う。