はてなキーワード: アイデンティティとは
結婚の見込みがない29歳正常独身青年が、ご先祖様に申し訳ないという気持ちから先祖の戸籍を請求した。6市町から31通の戸籍謄本を取り寄せ、Excelにまとめた。戸籍制度の変遷や行政区画の歴史を知ることができ、何故か海外移民の歴史にも繋がり、祖父母との会話のきっかけにもなった。独身の暇つぶしにはもちろん、子供の自由研究にもおすすめである。かわいいあの子と新戸籍編製したい。助けて。
俺が末代だ(誤用)→ ご先祖様に申し訳ないにゃあ → そもそも先祖って具体的に誰やねん → そうだ、戸籍、取ろう
ワイ、29歳素人童貞。自分は子孫を残せないかもしれないというぼんやりした不安がいよいよ現実味を帯びてきた今日この頃。親にも祖父母にもご先祖様にも顔向けができぬと思った時、はて自分の先祖ってどんな人たちだったんだらうという疑問が湧いてきた。祖父母に聞いてみても、こんな先祖がいたという話は出てくるがそれが自分にとって何にあたる人なのか(曾祖父?曾祖母?高祖父?)が分からない。墓石や位牌を見てみても名前と戒名と行年が分かるだけ。家系図なんて高尚なものもなし。というわけで、先祖の戸籍、取り寄せてみました。
僕は埼玉生まれ埼玉育ち、岐阜県在住29歳素人童貞工場勤務現場労働限界サラリーマン。父親は次男で地元は山口県、母親は次女で地元は栃木県、そんな2人が地元を捨てて東京の大学で出会い、埼玉で僕が爆誕したってわけ。親の背中を見てすくすく育った僕は当然のように親元を離れ、縁もゆかりもなかった岐阜で働き、親に会うのも年1回、これが因果ってやつです。
さて、いざ戸籍を請求しようと思っても、やり方もようわからん。こういう時はとりあえずググる。ふむふむ、直系尊属の戸籍なら請求できる、と。まずは自分とか親の戸籍を取って、そこに親の名前と前の戸籍の本籍地が書いてあるから、親、その親、そのまた親って遡っていけばいいわけか。同じ市町村内なら先祖の戸籍をある分だけまとめて請求も出来るんだな。自分の本籍地が父親の実家にあることは以前に住民票取った時にわかってたから、山口県の役所まで行かなきゃいけないのかなと思ってたけど、どうやら郵送でも請求できるらしい。これはありがたいね。で、必要なものは、と……、まず請求書か、これはあとでコンビニでプリントだな(プリンターなんて持っていない限界独身青年)。本人確認書類は免許証でいいな、これも後でコンビニでコピー。返信用封筒と切手は買ってこなきゃ。あとは手数料を、定額小為替?、何だこれ、ていがくしょうかわせって読むのか?郵便局でしか入手できないし、貯金窓口って平日16時までしか空いてないのか、これは面倒だな……。
実際の手続きは市区町村のサイトにやり方書いてあるんで、それを見れば誰でもできます。面倒だったり時間がなかったりする人は司法書士とか行政書士とかに依頼したらやってくれるらしいよ。僕はコミュ障だからそっちの方が面倒なので1人でやった。手続き関連で意味わからんのは定額小為替。読み方もわからんくて、僕は最初郵便局の窓口で「ていがくしょうかわせください」って言って小恥かいた(ていがくこがわせ)。これは要するに戸籍の発行代を、現金は郵送できないから代わりに為替で送るってことなんだけど、小為替の額面にかかわらず1枚の発行に200円の手数料がかかる(2022年までは100円だったらしい)。200円の定額小為替1枚にも200円かかるし、750円の定額小為替5枚で1,000円の手数料だよ⁉ 平日の昼間になんとか時間作ってるのにこんな手数料取られるの、ほんとアホらしい。オンライン決済に対応してくれ。社会人の時間と金を返せー。北方領土も返せー。
まあそんなことは置いといて、戸籍の請求の時に用意しとくと便利なもの挙げときます。①プリンター: これがないと請求書の印刷とか本人確認書類のコピーとかでいちいちコンビニに行かなければいけなくなる。行った。必要項目さえ書いてあれば手書きの書面でもいいらしいんだけど、今時そんな人なかなかいないよね。②角形2号封筒: 請求書発送と返信用として同封する分で結構使う。③A4クリアファイル: 封筒に入れる書類はクリアファイルに入れる、これ社会人の常識ね。え?ギリギリ働けているだけの無能が社会人面してんじゃねえ?いいいいイキってすみません…
戸籍には、3つ種類がありまして、戸籍に除籍に改製原戸籍、この3つなんですが、まあ大雑把に言ってしまえば生きている戸籍と死んだ戸籍と旧版の戸籍って感じです。先祖のことを知りたいのなら、とりあえず全部1通ずつ請求すればオケ。現存している先祖の戸籍は全部手に入れてやるくらいの気持ちでいきましょう。請求理由に家系図作成のためって書いておけば、まとめて請求もできます。
戸籍はこれまで法改正によって6種類の様式が作られていて(明治5年式・明治19年式・明治31年式・大正4年式・昭和23年式・平成6年式)、現在入手可能で最古のものは明治19年式。ここまで遡れれば、だいたい江戸後期生まれの先祖がわかります。そして、さらに遡りたくなります、なるんです。ところが、明治5年式はいわゆる壬申戸籍ってやつで、新平民とか元穢多とかの表記があるらしく、昔の差別ガーって五月蠅かった奴らのせいで見ることができない。これ、完全に国民の知る権利の侵害じゃね?今の法律だと直系尊属の戸籍しか請求できないんだし、見せてくれたって何の問題もないよね。まあそもそも、部落差別がどうとかいう話がまず胡散臭すぎるし(職業差別なんか?地域差別なんか?血統差別なんか?)、そんなもん現代に存在しないやろ。解放同盟とか、差別反対って叫んでる連中が日本を歪めてるって、こんなとこでもわかんだね。みんなも部落探訪、もとい曲輪クエスト(©鳥取ループ)してこ♪ 楽しいよ!
で、戸籍請求して特に不備がなければ、1週間程度で返送されてくる。僕は最初に戸籍をまとめて請求した時、想定よりも枚数が多かったので小為替が足りず、追加で小為替を送ることになった。小為替は多めに用意しとくのがヨシ。
ここからは自分の先祖の戸籍の話。父方の実家は山口県の田舎で、江戸時代からそこに住んでいたと聞いていたので、1回の請求で割と簡単に明治19年式戸籍まで入手することができた。しかし、よく見ると本籍地の表記が現在のものと違っている。もちろん市町村合併が何度かあって〇〇郡〇〇村とかが今と違うのはわかるんだけど、番地が全然違うのだ。今の番地が「〇〇番地」なのに対し、明治19年式では「第△□番屋敷」になっていて数字も違う。調べてみると、現在の本籍地は地番を記載しているが、明治19年式の段階では地番とは別の壬申戸籍編製時に家ごとにつけた屋敷番号というものを載せているらしい、ということが分かった。そしてややこしいのが、地番と屋敷番号は全く対応していないようなのだ。その辺は地域差もあるみたいで、近代化の過渡期って感じのカオスが面白いですね。まあ現代でも住所表記は複雑で統一されてないし、そんなもんか。もしこの明治19年式の期間に先祖が転籍していたら、以前の本籍地が現在でいうどの場所にあったのか、地番と対応していないのでちょっとやそっとじゃわからないらしい。僕も詳しくはないから、知りたい方はググってみてくれ。そう思うと、父方の家が江戸時代からずっとそこにあるというのは、運がよかったのかもしれん。
他にも、高祖母の家系の明治19年式戸籍で、「〇〇郡〇〇浦」という、「町」でも「村」でもない表記のものがあった。町村制は明治22年施行だから、それ以前の藩政時代の表記が残っていたのだろう。これまた過渡期って感じでたまらぬ。こうなると郡制とか府県制とか市制町村制とか、行政区画の歴史についても、わたし、気になります!状態。心の中のえるたそが犬みたいに瞳を輝かせて迫ってくる。やれやれ、僕の頭脳はほうたるだからね、手短にね、やっちゃいましょうかね(Wikiを読む)。
そんなこんなで、クソ労働により病みそうで病まない少し病んでいる状態になりつつも請求を粛々と進め、とりあえず6市町から31通の戸籍を入手した。ある程度集めたところでExcelにまとめる作業に入り、そちらの作業の方に時間がかかってしまってまだ先祖の戸籍すべては請求できていない。単純に高祖父母の代まででも2^4=16家系あるからね、というのは言い訳ですごめんなさい。今のところ、一番遡れた人が高祖母の祖母にあたる人で文政3年(1820)生まれ、さらにその1代前の両親まで生年月日は不明ながらも名前は判明した。やろうと思えば200年くらい遡れるんやな。
戸籍には生年月日や出生地、婚姻などによる入籍・除籍日、死亡日、死亡地などが載っているので、ひとまずExcelでまとめてみた。眺めてみると、子供が早くに亡くなっていたり、夫と死別して出戻りしていたり、養子を迎えたり、韓国京城で死んでたり樺太真岡で死んでたりアメリカで死んでたり、戸籍から見えてくるものなんてその人の人生のごくごくわずかな部分にすぎないけれど、だからこそいろんな人生があったんだなと想像しちゃう。それに対して僕の人生……。もうずっと静止期、Stationary phase。Log phaseが一瞬すぎたんよ。いや、まだ長すぎるLag phaseの途中って可能性もないことも……ないか。
戸籍で父方の方を辿っていくと、長男がずっと(途中養子を挟んでいたが)家を継いでいて、一方母方の方を辿ると四男の四男の長男みたいな感じで家を継ぐという感じではなく、そこは対照的だなという感想をまず持った。自分のアイデンティティはやっぱり父方の方にあるけれど、自分自身の境遇(次男の長男です)を思うと、母方の方にも親近感が湧く。故郷を離れる、離れざるをえない人生というものに。特に母方の方は、一度栃木県を離れて北海道に渡ってからまた栃木に戻ってきており、中には樺太に渡って真岡で死んでいる親族もいて、これはおそらく長男の家系じゃなかったから移住したのだろうと思う。真岡なんて真岡郵便電信局事件でしか知らなかった地名だよ。こんなところで樺太と繋がるとは思わなかった。戸籍だと直系しか辿れないから、祖父母の兄弟とか曾祖父母の兄弟とかの傍系がその後どうなっていったのかまではわからないんだけど、自分自身が親元を離れていて昔の次男三男みたいな生き方をしているので、そっちの方も気になってしまう。それでも、おそらく当時の人たちには生まれ故郷という感覚はあったんだろうなと思ってて、自分なんかはもはや故郷が存在しなくていつか故郷に戻るみたいな感覚が全くないので、故郷が欲しい帰る場所が欲しいと思ってしまうんだけど、これはないものねだりだよね……。強く生きていくしか、ないね……。
父方の方は父方の方で、明治末から大正時代にアメリカに渡ってアメリカで死んだ親族が2人もいた。で、調べてみると山口県は全国でも5指に入る移民送出県らしい。有名なのは周防大島(屋代島)からのハワイ移民で、島には日本ハワイ移民資料館もあるよ。行ってみたいね。海外移民の歴史については、詳しくはググればWikiとかも出てくるし(Wikiの「広島県人の移民」の項目は読み応えあった)、興味ある方は調べてみてほしい。実際、父方の実家からは瀬戸内海を挟んで周防大島がよく見える。でかい。一時期周防大島出身の民俗学者・宮本常一の本を読んでいたことがあって、そこに宮本常一の父親が明治27年にフィジーに出稼ぎに行く話が出ていたので、まあ島と本土の違いはあるとは言え、あの辺一帯に外に出ていく気風みたいなものがあったのかなと想像してる。こんな感じで、家系っていう私的なものから歴史に繋がるのも面白いですな。
ここまで調べたことを表にまとめて、父方の祖父母に見せてみた。よお調べたのおって言われました。
「この人はアメリカに渡って、稼いだから家を建てちゃるけぇって言っちょったけど、向こうで喧嘩を止めに入って死んじゃったんよ」
「このおばあさんは酒造の娘でのぉ、気位が高い人じゃった」
「このおじいさんは働かん人だったみたいでねぇ、田んぼを売っちゃって大変じゃったんを○○さん(息子)が頑張って立て直したんよ」
あとは祖父が実は山口ではなく東京で生まれて幼少期は東京で暮らしていたり(当時は東京府東京市)、祖母が京都で生まれていてそれが実は自分が大学時代に下宿していた場所の近くだったり、なんてことも初めて知って、いろいろと話せて楽しかったです。
① 引き続き戸籍を請求:多分まだ結構取り寄せられる戸籍が残っているので、続けていこうと思う。古い戸籍は廃棄している自治体もあって(実際にもう無いですって3件ほど言われた・昔は除籍後80年経過したら廃棄してもよかったらしい・今は150年)、あれはとても悲しい。1回広島市に請求した時に無いですって言われたので、もしや原爆のせいか⁉と思って調べてみたんだけど、戸籍は疎開させていて無事で、単純に大正3年以前に除籍された戸籍を廃棄してだけでした。貴重な資料なんだし、廃棄せずに何とか残せんかったんかな。
② 昔の住宅地図を見る:せっかく先祖の本籍地を集めたので、古い住宅地図で本籍地がどういうところだったのかを見てみたい。複写したい。でも住宅地図は図書館でも禁帯出で、地域の図書館とか国会図書館とかの現地に行かないと見ることができないからな……。やるか――住宅地図複写旅――。
③ 菩提寺に過去帳を見せてもらう:これもいつかやってみたいね。
実際にやってみて思ったけど、これ、中学生の自由研究とかにいいんじゃないかな。役所で手続きして、資料集めて、整理して、発表用にまとめる。広げようと思えば家制度とか行政区画とかの歴史にまで広げてレポートにもできる。祖父母との会話のきっかけにもなる。お子さんがいる方、おすすめですよ!もちろん子供をもつ見込みのない独身の暇つぶしとしてもかなり面白いと思う。まあ、休日に何してるの?って職場で聞かれたときに先祖の戸籍集めてまとめてますって答えたらちょっと引かれたけどね。そもそも休日が少なすぎて疲弊して遊びにも行けんのじゃこのクソ会社がコラ。でも一人、この話に食いついてくれた女の子もいたので、あわよくばお近づきになりたいよ。一緒に新戸籍編製しませんか?住宅地図複写デートとかどうですか?もちろんオシャレなカフェとか映画館とか夢の国とかにも行きますから。高いご飯も奢りますから。自分、やれます、やらせてください。使うあてもないのにNISAで順調に積み立てられていく資産、何も積み上らない人生、虚しい。寂しい。一発やるまで死ねるか!!!
「意見」でしかねぇし、特定者を指し示さないと意味が分からんでしょ。
被差別者は差別された状況(不利益。感情を害するのは不利益ではない)が発生しない限り、被差別者ではないのが「基本的人権」がある市民なわけ。
だけど「特定の立場」に対しての「対立的な意見」は意見に過ぎず、それが差別的と思うのは被差別者であるというところに逃げ込んだだけ、って思えるけどね。
既に誰もが「基本的人権に基づき平等」である以上、「特定の立場」をアイデンティティにして「社会に」堅牢たる居場所(ゲーテッド)を作る行為やその立場への「対立意見」が出てくるのはむしろ「健全」でしょ?
(「特定の立場」をアイデンティティ化する自体が、俺は権威的だと思うので、基本は否定する。なんでコリアの歴史は是で、日本におけるジャップの歴史は非なんだよ、バーカ(笑))
同人女というかオタク女にありがちだけど、「オタク活動・創作は趣味」といいきるわりには、「趣味だけで恋愛も仕事もしてこなかった」とか「趣味一辺倒の生活でいいのだろうか?」とは言わない。
なぜか、「オタ活だけで恋愛も仕事もしてこなかった」とか「オタ活一辺倒の生活でよいのだろうか?」と言い換える。
オタクであることというのがアイデンティティなんだろうけど、自分の目を曇らしてない?
「趣味のサバゲーだけやってたんで恋愛も仕事もがんばってこなかったんだよね~」とかいう男いたら、「??」ってなるよね。
「趣味のアクセ作りだけやってたんで恋愛も仕事もがんばってこなかったんだよね~」とかいう女も、たぶん「??」ってなる。
いや趣味でしょ?趣味は趣味で楽しむだけにしときなよ、仕事とか関係ある?って感想になるじゃん。だから普通こんなこと言わないんだよね、ネットでも。
趣味とか関係ないじゃん。単に恋愛も仕事もしてこなかった/うまくいかなかった人、だよねこれは。
まずそのオタク活動への特別視、オタク活動してる自分への特別視みたいなのを辞めてもいいんじゃないかな。
生きがいなのはわかるよ。でも「趣味が生きがい」っていうのは、「趣味だけに生きる」っていう意味じゃないよ。
もちろん、本当にすべてをなげうって趣味だけのために生きる人もいるよ?でもそれは険しい道だよ。
男性でも女性でもそういう人はたまにいるけど、まぁ正直あんまり楽しそうに見えないし大変そうだよね。その道を選ぶなら、それはそれで良いと思うけど。
でもそれだったら収入をある程度得て趣味につぎ込むとか、家庭を持ちながら余暇で趣味を行うとかのほうがバランス良いじゃん。…趣味なんでしょ?
元増田の悩みは、たぶんオタ活とか二次創作とか別に関係ないんだよ。
今後どうするか、こんなに考えてない30代この世にいない気がしてきた。
ここでしょ。
あれ?自分このままだとどうなんの?このままでいいんかな?仕事も恋愛も、このままだと全然見通し立たなくね?って思ったんでしょ。オタ活とか趣味とか関係ないよ。自分の人生を考える時なんだよ。
まぁなんも考えてないヤツは世の中いっぱいいるけどね。「この世にいない気がしてきた」とかそんなことないよ。ネットオタクにありがちだけどそんな修辞しないほうが良い、ちゃんと現実見ろ。
あと、元増田が動揺してるのは「オタ活界隈こそが自分の本当の居場所だと思ってたけど、実は違うんじゃないか、ずっとはここにいられないんじゃないか」って心のどこかで思ってるからでしょ。
まぁ、これも実際その通りで、趣味の場って大抵の人にとっては「2つ目の居場所」なんだよね。
「家庭」とか「職場」で自分の役割をこなして、自己実現をするんだよ。趣味の場はその息抜きとして、別の役割をする場所なんだよね。
ただオタク活動をしているだけで、それが人生の居場所になるのか?っていうとそれは難しいかもね、実際のところ。残念ながら加齢で浮くってのもあるし。年取っても趣味の場に顔を出すこと自体はすごく良いことだと思うけどね。
で、実際のところ、仕事頑張ったほうが良いんじゃない?と思うよ。たくさん稼いで元気にオタ活すればいいじゃん。
稼げないから仕事楽しくないんだよ。稼げたら楽しいと思うよ。まぁ転職とか、大変かもしんないけどね…。
あと恋愛興味ないってのも、本心からなのかちゃんと考えてもいいんじゃない?最初からあきらめてないか?元増田の内心まではわからんけどさ。
「オタ活やってる」を言い訳にせずに自分と向き合う時が来たんだよ。
他の増田もいってるけど、仕事も趣味もバランスとりながらやったら良いよ。
あとさ、どうしてもオタ活を人生の中心に置きたいなら、「趣味」とかじゃなくてちゃんと「生業」にしなよ。
二次創作だから金儲けってのは難しいかもしれないけど、「大して売れない」じゃなくて「バンバン売れる」とか「界隈でも評価されてる」くらいを本気で目指してみりゃいいじゃん。
文字書きなのか漫画書きなのか知らんけど、売上あがったり、仕事につながったりするくらいまでやってみればいいじゃん。それか有名同人作家として評価されるくらいまでさ。
極論だけど、元増田の本業の半分くらいをオタ活の売上で稼げたら、たぶん今の増田の悩みは消えるよ。(税務署はくるだろうけどw)
クソな仕事してても、「まぁ私同人で稼いでるし?」と思えると思うよ。たぶん、居場所もできるよ。
「それは無理だな…」「ただ単に楽しくやるのが良いんだよな…」って思うなら、やっぱオタ活は趣味と割り切るべきだよ。
オタ活も頑張っても良いけど、仕事もちゃんと頑張りな。それか、険しい道だけど趣味だけに生きな。
あと最後に、「オタクそういうとこだぞ~」ってところを指摘しておくよ。
でも、自分でも心のどこかでそういう普通じゃないルート歩んでるのがコンプだから、Aさんが同人辞めたの気にしてるんだろうな。
元増田の人生も別に普通だよ、マジで。「特別・普通」「オタク・非オタク」「創作・非創作」で分けるのやめたほうが良いよ。
コンプを感じたのはAさんが「普通のルート」を歩んでるからじゃないんじゃない?
元増田がやってこなかったことをやってたからでしょ。おそらく同人活動と並行しながらそれをやってて、そんでもってサクッと同人活動(趣味)をやめたからでしょ。
真面目に議論するなら、お好み焼きをクラスとするかも怪しくなる。
オフトピだがね。
オブジェクト指向が栄華を極めたあの時代、責任、関心、主体性、凝集、アイデンティティ、is-a has-a、… 研究者やギーク、仙人らによって、あらゆる説明がされたが、結局、オブジェクト指向は現実世界を捉える人間の感覚の応用でしかなかった。
「モノ」と思える奴をクラスにすればいい。
それ以上でも以下でもなく、あとはプログラミングの構造を整理するために有効に使えるケース・バイ・ケースの妥協点を探すことになる。どうモデリングすべきかの議論は収穫が少ない。いや、極めれば霧の向こうで信じがたい洞察を垣間見れる可能性はあるにはあるが…、しかし多人数でソフトウェアを維持管理するのが正解だと分かった今、属人性を排除するためには霊感を説明するよりシンプルに留めるのがベスト・プラクティスだ。
プログラマーの関心が関数型に移ったのは、そういう経緯もある。数学をバックグラウンドに持つ関数型言語をバックグラウンドにする方が、ミーハーな技術屋連中の興味を引けた。
お好み焼きがクラスなら広島風お好み焼きはサブクラスじゃあないんだよな。
並列な、別のクラスとなる。
まず端的に言うと、日産自動車がやっていることは
「調達部門員(※1)による下請事業者(※2)の買いたたき(※3)」である。
これは”下請代金支払遅延等防止法(通称:下請法)”という法令に対する違反行為であり、
早い話、法人としての日産自動車はもちろん、それを行った一社員個人も完全なる犯罪者である。
そしてゆくゆくは日本経済全体を不況に陥らせる元凶ともなるほどの悪行なのである。
度々報道されているのに世間が今一つ騒ぎ立てないのはいまいち聞き慣れない言葉が多く、
日産自動車がやっていることの具体的に何が悪いのかが分からないせいだと思う。
ある程度の大きい会社になると、外部業者から物品を買うことだけを仕事としている部署がある。
業務内容は購入する物品の相見積(複数の企業に同じ条件を提示して価格を提示させること)候補企業の選定、
調達部門に所属する者、”調達部門員(通称:バイヤー)”としてのアイデンティティは何といっても「価格交渉力」である。
良いものを安く買い付ける。
調達部門で出世を目指すなら、これができるかできないかにかかっていると言っても過言ではない。
営業職が物品を売って売上げを立てるのが仕事なら、調達職は物品を安く買って原価低減をするのが仕事。
小中規模程度の企業では誰かが意図せずしてこういう業務を自然と兼務してるので、「調達」とかいわれてもいまいちピンとこない。
○(※2)「下請事業者」とは?
乱暴に一言で言ってしまうと、商取引における「弱者」のことである。
厳密には下請法で定められており、詳細は省く。
件の日産自動車の例に当てはめると、日産自動車は「資本金3億円以上の親事業者(=強者)」とされ、
その日産自動車と取引をしている大部分にあたる企業は「資本金3億円以下の下請事業者(=弱者)」と下請法は定めている。
日産自動車の資本金は現時点で「6,058億13百万円」。ついでに言うと連結従業員数は「131,719名」。
それに対する外部業者の大半は資本金1千万円以下、従業員数も100名に満たない。
力差は歴然としている。
この明かな力差を下請法では定量的に明確化し、弱い方を「下請事業者」と定めている。
○(※3)「買いたたき」とは?
圧倒的強者と圧倒的弱者間の商売では、絶対的な力差による理不尽的不利益が生じる。
強い方(親事業者)はいわば「選ぶ側」。相手は自身にとって都合の良いところであればはっきりいってどこだっていい。
対して弱い方(下請事業者)は「選んでもらう側」。選んでもらえなければ売上が立たず、経営は成り立たなくなる。
よって「買いたたき」が発生することは避けられない。
「買いたたき」とは、”通常支払われる対価に比べて著しく低い額を不当に定めること”である。
選んでもらえないと経営ができなくなる相手の弱い立場を見透かして、
選ぶ側が傍若無人に好きなように身勝手な条件を押し付け振舞う。
「買いたたき」とはこのような行為を指す。
概要ではあるが冒頭の用語を説明し終えたところで、もう一度言う。
日産自動車がやっていることは「調達部門員による下請事業者の買いたたき」である。
下請法は「下請取引の公正化・下請事業者の利益保護」を目的とした法律である。
公正化・利益保護を害する行為は行ってはならないと定めている法律である。
これに日産自動車の調達部門員が行っていることを当てはめてみると、
「下請取引を優越的地位を乱用して一方的に著しく低い額を不当に定め」、
「下請事業者が本来得て然るべき利益を不当に迫害」しているのである。
これに対する罰則は「親事業者の代表者、代理人、使用人その他の従業者」に
「五十万円以下の罰金」を処すると定められている。
早い話、法人としての日産自動車はもちろん、それを行った一社員個人も完全なる犯罪者である。
内閣府が5/16に発表した1~3月期の国内総生産(GDP)速報値は、年率2%減というものだった。
これはダイハツ工業で発覚した認証不正による生産・出荷停止の影響が大きく、個人消費や設備投資が落ち込んだことが一要因とされている。
1万社以上の会社にはそれ以上の数の従業員がいて、それ以上の家族がいる。
その家族たちが本来得られるはずの所得が得られなくなるとどうなるか。
当然として消費を抑え、倹約に走る。
さらに許されないのは、下請事業者の本来得られるべき利益の行先である。
例えば適正価格1,000円の部品を日産自動車が不当に500円で下請事業者から買いたたいたとする。
こうすることによって日産自動車は例えば定価300万円で販売会社に売ろうと考えていた車を
299万9,500円で売っても利益は変わらず、日産自動車が500円値下げすればその車を買おうとしていたユーザーは
500円安く買えるようになり、可処分所得が増えることになるが日産自動車はそうはしない。
変わらず300万円で売るのである。
そして不当に買いたたいて得た500円は、自分の懐に潜り込ませるのである。
調達部門員が自分の仕事に箔をつけるただそれだけのために下請事業者を買いたたき、
ユーザーを欺き、
本来ならば大々的な不買運動をして断固糾弾すべき企業なのである。
日産自動車は下請法違反の疑いがあるとして公正取引委員会から今年3月に勧告を受けている。
普通だったらここで、社内中が下を上への大騒ぎになって是正に躍起になる。
仮にも誰もが知る大企業。
許されるはずがない。
ところが。
冒頭の通り、「調達部門員による下請事業者の買いたたき」なんていわれても、
それを見越してかどうなのか定かではないが、凝りもせず、少なくとも今月になっても
オタクになりたい!
オタクになりたいなと思う。ツイッターを見てても思うし、友達と話してる時でも。
まあ確かに、自分はオタクだとは思う。なぜなら二次元キャラを好きだしアイドルが好きな頃もあった。二次創作もしてるし...
何より、仕事とか恋愛とかそういう”普通の人”ができること、どんなものより志向が向いているものに対して、自分は全く向いていないから。
でも、しかし、中学生頃に抱えた気持ちがいまだに全く薄れず、二十近くなった今でもまだ私はオタクになりたいと思っている。
田舎の子供だった。小学校入学と同時に違う地域から引っ越してきて、保育園からそのまま持ち上がりのような形で小学に上がってきた同級生達にうっすら疎外感を感じたまま遊んだ。運よく虐められるとか小学校六年間ぼっちで終了とかはなかったけど、みんなのノリに無理やり合わせていたとかが正しい表現かもしれない。でかい道路沿いの、都会と田舎の中間のどちらかと言えば田舎寄りで、遊ぶところも大して無く、親は仕事で周りともノリが合わない。そんな(まあ、普通にぼっちだね)子供だったので、案の定インターネットにはまり込んだ。ちっさい白色のノーパソで初音ミクの消失を聴きまくった。本当に幼少期の記憶はYouTube、3DS、着せ替えゲーム、あとマジックキャッスル(ドットの方ね。懐かし!)とかしか思い出せない。で、順当に行けば普通にオタクになる。ゆっくり実況、音楽はボカロしか聞かない、パソコンのタイピングがなぜか比較的早い、絵を描くのが好きではあったので、コピックも買ってもらった。小学校高学年から中学にかけての私は、その趣味に、...
その自分に、オタクであることについて、誇りを持っていた。インターネットだけが居場所だったしアイデンティティだった。めちゃくちゃ孤立してたわけでもないのになんでだろうとも思うが、めちゃくちゃ孤立してたわけでもなかったから気づけなかったんだろうなとも思う。
で、オタクっていうのは、固まる。中学美術部女子が教室の奥の方で腐オタトークをするように、私にもオタクの友達ができた。そこら辺からか、だんだん気付き始める。
というのも、私は全くと言っていいほど、アニメも漫画も見ないのである。
幼少期からのめり込んだのはYouTube、唯一読んだことがあるのは日常とドラゴンボール、それだけだった。
アニメを観まくり、商業BLを読み漁り、これこそオタク、女オタクの教科書みたいなオタク友達と、趣味が合わなかった。シンプルに言うとただそれだけなんだけども、
私は自分がオタクではないという烙印を押されたような気分になった。今でもそう思っている。
だってオタクが観るのはYouTubeじゃなくてニコニコ動画で、深夜アニメは録画して全部観て、たくさんの漫画を読んでいてその話で他のオタクと盛り上がれる、それをオタクと言うんだから。(今はちょっと違うだろうと思う。自分のトラウマの話をしています)私はオタクじゃなかった。
それと同時にオタクのことも少しずつ嫌いになり始めた。私個人の僻みもあるだろうけど、私が好きなもののことを他のオタク友達に話すと酷いことを言われたり、(例えば私が昔から好きなボカロpの話をしたら「まだ好きなの?」って言われたり)同じグループを推してる友達に私の好きなアイドルを「でもダンス下手だよね」って言われたりした。(トラウマすぎて涙出てきたw)こんなことみんなは言われ慣れてるのかもしれないけど、私は自分の好きなものを面と向かって小馬鹿にされたのがかなりショックで、しかもそれをパンピーじゃなく、仲間だと思っていた同じオタクに言われたもんだから、裏切られたとかではなく、ああ、私オタクじゃないんだ、って思った。逆に全然オタクじゃない、パンピーの友達の方がひどいことも言わずによく聞いてくれたと思う。
そんな感じだったので、元々早口オタクの話を聞く側の人だった私は、ますます自分の好きなものの話を他人にするのが怖くなった。もう否定されたくなかった。自分自身のことを否定されるより自分が好きなもののことを否定される方がきつかった。
で、今。私は女オタクという括りになるんだろうけど、そういうオタクへの憧れは女オタクへの憧れに変わっていった。正直満足に女オタクできてるわけじゃない。というかできてない。
誰かとぬいを持ち寄って写真撮ったり、ヌン活したり、アクスタと飯を撮る、新調したネイルの画像をあげる。私は現代のオタクに必要な『グッズが欲しい』という欲さえ持ち合わせていない。貢ぎたい欲もない、タイムライン上で名前を呼び合ったり、一生誰かとスペースしてたり。私はそのどれもクリアできていない。オタクになれない、オタクできてない、オタクとして失格。私は、オタクとして、女オタクとしてのノルマを、何一つとしてクリア出来なかった。私は女オタクにもなれずに、当然パンピーにもなれない。
じゃあ私は何の人なんだろう。私は何に属している人なんだろう。私は誰の話もわからない。誰にも私の話をわかってもらえない。私もみんなみたいに、誰かと好きなものを分かち合ってみたかった。結局何かのコミュニティに属してみたかっただけ。私はずっとひとりぼっちで...
そのじいさんが亡くなった。
昨年に父が亡くなり、私の実家は車を処分したので、実家に帰省するときはレンタカーを予約する。この連休もそうした。
安いので、地元の自動車修理工場がフランチャイズでやっているインディーズ系レンタカーにしてみたら、受付してくれた事務の親切な女性は、レンタカー約款を読み上げる間中修理工場から爆音で流れてくる演歌のUSENに向かって突然「ああうるさいっ!」とブチぎれ、「あなたもうるさいと思うでしょう!?」と私に同意を求め、同僚に修理工場につながるドアを閉めさせると、「最後に乗っていたのは平成15年式のbB(みんなの地元のDQNがよく乗ってたやつ)です。令和になってもまだ乗ってました」というある意味SDGsでは? みたいなことを平気で言う私に、令和2年式フィットハイブリッドという、まさに隔世の感というほかない車の操作方法をとても丁寧におしえてくれた。
そんな調子で車を借りて帰ったところ、母に、「同じ町内会のじいさんと私を、車に乗せて買い物に連れて行ってほしい」と頼まれた。
正直、ちょっと嫌だった。母はよく知っている人に違いないだろうが、私はそのじいさんをほとんど知らない。まさにあいさつ程度のイチゲンじいさんであり、むこうも私を同じように思っているだろう。そのイチゲンじいさんを車に乗せて買い物に行く…気が重い。万一大事故になったらどうしよう、面倒だなあとか、そもそも知らない人が苦手…などと種々のことが頭をよぎったが仕方がない。年齢的にも立場的にもそんな子どもじみたことは言ってられないので、私は母の申し出を受け入れ、じいさんと母を買い物に連れて行った。母には一瞬「ええ…」みたいな顔をしてしまったが、じいさんの前では全力の快諾顔を心がけた。
実家の所属する町内会は、会の中でまた数ブロックにわかれているらしいが、母らのブロックだけ会費が余りがちのため、いちど寄合(=飲み会)でぱっと使おうということになったそうだ。じいさんはブロックの会計掛で、だから買い出しにゆくとのこと。90代のじいさんが町内会の財布のひもを握る、これが種々の法律の目的条文に言うところの「少子高齢化の進展」ってやつだなと思った。なお、飲み会の予定は明日とのこと。何もかも急だ。
母とじいさんは、かごいっぱいに酒やつまみを入れた後になって、急に予算に収まるか心配しだし、その場で減らそうとするので、「レジ通して予算越えた時点で減らしてもらったらいいですよ」と私は横から口を出した。買い物は予算ぎりぎりにおさまっており、母は、じいさんのことを「さすが!」と謎にほめ、じいさんもまんざらでもなさそうだった。
じいさんは先述の通り90代、母は70代なので、畢竟ひとり30代の私が荷をせかせかとトランクに積み、これで一安心と思いきや、ついでに寿司の予約にも連れて行ってほしいというリクエストが出た。一瞬「マジか…」と思ったが、乗り掛かった舟というかもうすでに乗っている船なので、ニコニコ笑って「いきましょう!」とうけおい、ナビに寿司屋の住所を設定して寿司屋に向かう、その道々、寄合は公民館ではなくじいさんの自宅でやることになっているという話になった。
じいさんは、「もう暑いから、たくさん人が入るとエアコンを入れないといけないかもしれない」と言い、私は「電気代とショバ代として、今日買った酒の数本くらいご自身で晩酌にされても罰は当たらないと思いますよ。余っても最後みんなで分けちゃうんでしょうから、今日先に飲まれたらいかがです? あ、私は絶対誰にも言いません」と真顔ですすめ、それをきいた母は助手席で、じいさんは後部座席で笑っていた。
寿司の予約がすんで車にもどったところで、私はじいさんに「ほかに寄りたいところはないですか?」ときいた。じいさんが大丈夫というので、家まで送っていき、大量の酒を玄関通り越して冷蔵庫の中までわっせわっせと運び込み、私はようやくそこでお役御免となった。
じいさんの家の下駄箱の上には「努力」と彫られた大きな飾り駒があった。それは木工をしていたじいさんが昔手ずから彫った工芸品だそうで、「努力」と書いた将棋の駒というまんがみたいな一品を掘れる人がこんなに近くにいることに、私はいたく感じ入ってしまった。マクロ組めるより努力って掘れるほうがぜんぜんいいな。
そしてその三日後、飲み会から数えれば二日後に、じいさんは亡くなった。布団の中で亡くなっていた。連絡がとれないことを案じた親戚がすぐにかけつけ、発見ははやかった。
その日にはもう私は実家から婚家に戻っていた。母から送られてきたLINEでじいさんの突然の訃報に接し、文字通りの突然の訃報ぶりにひどく衝撃を受けたが、母はLINEに「まあ~おとしにふそくはないでしょう」(原文ママ)とも書いて寄越し、その意外なドライっぷりにはちょっと笑ってしまった。
そうして私は、じいさんを買い物につれていくことを快諾し、道中ずっとにこにこして、精一杯ふたりを手伝ったことを、本当によかった…と思った。じいさんのために、というか、自分の精神衛生のために、よかった。すげなくした直後に死なれたら、すげなくしたという自己責任(良心の呵責と言い換えてもいいかも)を背負いきれない程度にはショックだったと思う。
それに、連休のよく晴れた日に、ちょっと妙な三人組ででかけたその買い物、なんだか私には結局楽しく思われたから。
死ぬということが、生きるということから決して遠くはなれてはいないように、死んでしまった人たちもまたそうである、と私は思う。つかずはなれず、なんとなく私の歩様にあわせて、今も隣を歩んでいるように思う。
最初に私をかわいがってくれた人を亡くしたのはまだ私が赤ちゃんの頃、母の親友のお母さん。とても愉快な人で、父との結婚を迷っていた母に、「母(はは)ちゃん、馬には乗ってみよ、人にはそうてみよ、よ」とはげました。そのうちこの世にやってきた私は、母以外の人に抱っこされると、せっかくやってきたこの世の終わりのように泣き叫ぶタイプの赤子だったのに、その母の親友のお母さんにだけはごく機嫌よく抱かれていた。そういう写真が残っている。私は、物心もつかないうちに、おしゃべりもできないうちにお別れした、母に伝えきいただけで自分では何にも覚えていない彼女のことを、いつもお守りみたいに心の中に持っている。赤ちゃんだった私に向けられたその無償の厚意を、つらいときの糧にしているようなところが今もある。
最初に友達を亡くしたのは小学一年のころ、友達は前歯が抜けていて、永久歯が生えてくる前にいってしまった。その子のお母さんは今になっても私に会うと、生きてたらあの子もこんなふうだったのかと思うという。私の節目、節目に、そう思うという。そのとき、友達がわたしの隣にいないという人はきっといない。
父親は私のことが大好きだった。父と母と私の三人で、あるいは父と二人で、父の運転する車でいろいろなところに出かけた。ときには父にさそわれて、その仕事についても行き、こんなに大きな娘さんがいるのと客先に驚かれ、父はにこにこしていた。
父は死ぬ間際までほそぼそと仕事を続け、わたしは彼が亡くなる直前にアポをとっていた客先の数件に、父が亡くなったことを知らせる電話をかけた。はじめて話をした先方は、私が電話をかけてきたことによほど驚き、父が亡くなったとの知らせにしばし絶句した後、あなたのことを先生はいつも自慢そうにしていたと言い、最後には先生がいなくなったら誰を頼みにしたらいいか、本当にお世話になりました、と泣き出した。私は、涙する相手に、○○さんのおかげでほんとうに最後の最後まで誰かの役に立たせてもらって、惜しんでまでもらえて、父はとても誇らしく、ありがたく思っていると思います、と言うしかなかった。でも父は、実のところ、そんなに殊勝な人間でもない上、けっこう変わってるよなというレベルでこだわりの少ない人でもあった。
父が亡くなる直前までLINEをやりとりしていた人たちに、そのままLINEで父の逝去を伝えようとしたのだが、父はLINEのトークをある程度の期間が経つとかならず全削除するという、こだわりのなさを通り越して、ややサイコパスのような一面をもっていた。
亡くなるひと月ほど前、父は、免許を返納することにしたというLINEをわたしに送ってきた。車というものは私たちの思い出の多くを占めており、驚いた私が父に電話をかけると、「薄暮の時間帯に信号の見落としをした。今まで一回もそんなことはなかったんだから、もう潮時だと思った」と淡々と父は言った。あれだけ運転が大得意で、大好きで、アイデンティティの大部分をしめていたように見えたのに、引き際を悟ればもうしがみつない。その、ものに拘らない姿勢に私はいたく胸を打たれたし、これができない老人が多い以上、今もって、父の最も尊敬すべき美点の一つだとおもう。
ただ、電話を切ったあと、今までいろいろなところに連れて行ってくれて、たくさんの送り迎えをしてくれて本当にありがとう、と万感の思いをこめて送ったLINEも、父が、入院後(退院してくることはなかった)母とかわしあった感謝の思いを伝え合うLINEも、亡くなった時には父はすべて消しており、それを見て、私も母もあまりの父らしさに爆笑した。
(ついでに、父が亡くなる前々日まで、もはや執念のトークの削除を行っていたので、トークルームのどのあたりの人たちにまで逝去を伝えるトークを送るべきか見当もつかず、非常に頭を悩ませることになった)
そんな感じの人だったので、この世に未練というものがあったとは到底思えない。退院の手筈を整え始めていた日の深夜の3時過ぎという、家族がやや油断している上に一番身動きしづらい、マジでどうしようもない時間にいきなり息を引き取ったため、父の死に目にあえなかった母。父の逝去からしばらくして、急に「お父さん、最後に私に言いたかったことなかったんやろか」としんみり言い出したので、私は反射的にげらげら笑って「あるわけないやん」と言ってしまった。死ぬ間際まで律義にLINE全削除を続けた男にそんな情緒があるとはちょっと思えなかったのだ。母もすぐにげらげら笑いだし「そうやね」と言った。
こんなふうに父のことを思い出しているとき、私はやっぱり父がすぐ側にいるように思う、フロアシフトを挟んだスカイラインの、運転席と助手席くらいの距離のところに。
生まれてから今日にいたるまで、誰かの死はいつでもそばにありつづけた。だから死んでしまった人たちも、同じようにいつでもそばにいるように思う。
生きてとなりにいる人のように声をかければ答えるわけではない、電話をかければ出てくれるわけでもない。そうだったとしても、生きている人とはほんの少しちがう居方で、それでもわたしのとなりにいてくれているのではないか、と、わたしはいつも信じる。
じいさんは、私が買い物に連れて行った翌日の飲み会の日、つまり亡くなる三日前、近所に住むばあさんに、私のことを「車に乗せて買い物に連れて行ってくれた。あの子はとてもいい子だ」と言ったそうだ。
それを近所のばあさんから母は伝えきき、今度はわたしにそれを教えてくれた。じいさんがそう言ってくれたから、近所のばあさんは私に「会ってみたい」と言っているらしい。
ありがとうじいさん。よくわかんないけどばあさんも、私に会いたいと思ってくれてありがとう。会おう。
私は今、私に会いたいと思ってくれる人がいるなら、その人にとても会いたい。だから、次の帰省のときには、私は近所のばあさんに顔を見せに行くつもりでいる。
私の目にうつり、私が今生きている世界は、そのときには隣に、近所のじいさんがどうしたっていてくれる、そういう世界だ。
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6/22
父の死は、私にとってとても大きな出来事で、父のことを書きたいと1年間思い続けているけど、整理がつかずになかなかかけずにいます。一部ですが少し吐出せて、それを読んでもらえてうれしいです。
私が書いた別の読みたいというブコメをみかけたので、かなり以前に書いた増田ですが、お年寄りの話題・肉親の死が出てくるものを2つほど貼っておきます。
※ビービーの車名直しました。廃車するとき泣きながら見送ったのに間違えてしまった、ご指摘ありがとうございました。
>勉強はきっとウチらに平等だ! https://ynjn.jp/title/14812
>生活保護世帯から東大で博士号を取るまで① https://note.com/rshimada/n/n058fbbff18c9
教育格差の物語について、ちょっとだけ思うところがあるので書かせてほしい。
1つは「やる気も意思もあるのに、手段がない。リソースにアクセスできない」というもの。
環境が不遇で、優秀で志もあるのに時代や環境の逆風があって夢を叶えられない、というような、物語になりやすいタイプ。
昨今ネットで話題になるような教育格差の物語は、このタイプが多いんじゃないかなと思う。
ただ、私の考えでは教育格差の物語にはもう1つタイプがあって、それは
「そもそもやる気も意思もないし勉強なんて好きじゃない」という人の物語。
「意思のない個人」として、流れ流れて現代社会で生きづらくなっている人の教育格差の物語。
さっきの立志伝を潜在的上位層の物語とするなら、こっちは『C層の子の物語』と言えると思う。
こちらは当人が別にこうなりたいと思っていないからそもそも物語にならない。語られないから苦しみの構造が知られない。
まれに世に出ても「意思を持つかどうか」は社会構造の問題だと見なされがたい。
ただ、このタイプも、よく見ていくと家庭環境や生まれが要因で「意思を持つ機会がなかった」側面があることに気づく。
私は「意思が持てる」って運に左右される側面があると思う。
「意思が持てる」という幸運に見放された人というのは存在する。そういう格差も十分苦しい。
後者は本人が問題に無自覚で、問題の構造に気づけてないこともままある。勉強や教育によって状況を改善しようという発想自体がない。
なんだったら勉強を苦手なもの・押し付けがましいものとして疎んでいることも少なくない。むしろ教育的なものから距離を置こうとする。
(このあたりは教育社会学の大家苅谷剛彦氏が「"勉強しないこと"がアイデンティティになる環境」」みたいな話で書いてる)
実際の公教育の現場で見られる教育格差は「意思があるが武器がない」タイプは少数で、多くはこの「意思も武器もない」タイプだと思う。物語性も希少性も薄いから話題にならない。