はてなキーワード: 肥大化とは
よくある話だが、地元の底辺公立中学で自分は優秀だと勘違いし、自分は優秀である、そうでなくてはならないという願望が無視出来ないほど肥大化すると、それ以降の人生が悲惨なものになる。
昔からネットで自分のことをちょっと書くとお前はこういうタイプだろとレスをつけられることがしばしばあったが、あんまり気にしないままおっさんになるまで生きてきてみると、彼らは何を言っていたのかよく分からないなと振り返って思うようになった。
俺に「自分は優秀でなくてはならないという願望」があったのかどうか、今あるのかどうかは今でもよく分からない。でも俺は単に学問とか学術的なものに関わることが好きで、紆余曲折もあったけどそういう仕事をして色々新しいことを勉強したり面白いテーマに繋げようとして全く上手く行かなかったりちょっと上手く行ったりしながら生きてきて、当時より少しは賢くなったとは思うし当時全く知らなかった知識も無数に増えた。なんなら最近ようやく色々な知識や経験が繋がってきて新しいことを生み出せる実感が少しずつ湧いてきたくらいだ。それを優秀と言うのかどうかはよく分からないし、若い人でもっとずっと凄いことをやってる人は腐るほどいる。
でも別にそれはあんまり関係なくて、俺が進歩して昔の俺よりはマシになったということが全てなんだよな。それを「願望の肥大化」と言うのだろうか?
結論から言えば「人から求められてはいるが、そこで求められる行為は下賤なもの」であるのが原因だと思う
若い女性が性を売れば特別な技能や人を惹き付ける様な魅力が無くとも男から肯定され、求められ、結果として、実際は単なる穴モテでしかないのにも関わらず、自分は素晴らしい人間なんだと徐々に勘違いしていく
だが売春という行為で精神は疲弊していき、「売春をしているが自分は素晴らしい人間である」という矛盾を抱えきる事が難しくなっていく
結果「自分は素晴らしい人間だが、男に不当に搾取されたが故に売春に至った!自分は被害者である!」と自分の性的な需要が減るにつれて、つまり男から肯定され求められる機会が減るにつれて、売春という負の要素を抱えきれなくなっていき、被害者としての自己を確立し自己肯定を試みる
そういう感じだと思います
反撃を受けたくないなら自分がトラバ返しを読まなければいいだけだということに気づけないおバカな増田。
もしかしたら今なお「最後にレスをした側の勝ち」というルールを信じており、自分は必勝法を編み出したと思っているのかも知れない。
コミュニケーションに致命的な問題を抱えており、いつ低能化してもおかしくない危険な増田
嘘か真かニュージーランドに住んでいると自称しながらニュージーランド社会を憎んでいる増田。
日本に住めばいいのでは?というツッコミをするべきか、嘘松乙!と言い切ってしまうべきか、どちらにしろ精神状態がデンジャラスな増田の一人
異常な行動によって注目を集めようとする承認欲求の強さには危険な匂いを感じる。
はてなにおいて注目されることに強い価値を見いだし始めている。
頼まれてもいないのに突然ウマ娘の攻略理論を投稿していく増田。
WIKIに書き込めばいいものを増田でやるということから、書いている内容の信憑の低さを感じざるを得ない。
周回遅れの攻略情報をネットでかき集めてきては面白くもないジョーダンを交えて語る姿は、ネットDE真実を会社や学校で言いふらす痛いネット初心者そのもの。
ネット慣れしていないということはまだ振れ幅が大きいということであり、低能化という闇へと堕ちていく危険がある。
対立する闇と闇。
他者の価値観を声高に蔑んで見せるのは自身の価値観に対する盲信か不信か。
語気の強さから精神の不安定さが見え隠れしており、低能化する危険性の高さはかなりのもの。
突然女児向けアニメや女児向けゲームに対して熱いアンチ活動を始める増田。
自分はもともとファンだったが最近のシリーズは酷すぎるという自分語りと昔は良かったのあわせ技という酔っ払った老人のような喋り方が特徴。
ハッキリ言って脳の機能に欠陥が見られる人間特有の徴候があり、いつ精神のマッハが危険域に突入してもおかしくないというか既に突入した上でヤバイ行動に移してないだけな感じ。
名前を隠して楽しく日記をするサイトと、匿名のレスバトルサイトの区別がついていない極めてヤバイ奴ら。
ネットですぐ調べれば分かることだが、日本の教師の労働環境は最悪である。
特に公的な学校となると、企業では違法とされる労働環境でも教師なら問題無いとされる。
また他にも団体交渉権が無い等々、人が持つべき人権のいくつかがはく奪される。
これにより少し脳みそを回転させて調べてみれば近寄るだけで危険と分かる職業である。
しかし馬鹿は調べない上に公務員は安定しているという信仰を簡単に信じてしまうので、結果的に馬鹿だけが教師になる。
学校には基本馬鹿しか集まらないが、馬鹿の中でも生存本能は馬鹿でないものもいる。
そういう馬鹿は早ければ1ヵ月、遅くても数年働けばさすがに気づくので、すぐに学校現場から逃げるように辞めていく。
しかし残る奴らはそのヤバさにすら気づかない、また気づいていても逃げないので結果、生存本能的にも馬鹿しか残らなくなる。
しかしその免許は10年の更新性で、その更新も運転免許とは比較にならないほど時間とお金が掛かる。
しかも大学で教員免許を取ろうと思ったら4年大学でみっちり専用の授業を受けなければならない。
免許を取るのも大変な上に、更新性という苦行を突破して初めて教師という仕事に着ける資格を得る。
しかしその見返りは決して大きくない。
頭の良いものであれば、即そのことに気づき教員免許など取りに行こうとは思わない。
教員免許を取りに行こうとするのは基本的には馬鹿か、教師に恩を感じて自分も教師を目指したいという少数である。
馬鹿の中でも教師という職業に耐えられて、かつ教師という職業の適性がかなり高いものもいる。
ただそういう馬鹿は年齢が上がるにつれて皆から褒められ慣れ、自尊心が高まりすぎた自己愛性障害になってることが多い。
なので最終的には後輩たちにマウントを取りまくり、自分の面子のために教師潰しを無意識に行うことが多発する。
またこういう奴は上に立ちやすいので、教頭の8割は大体こいつらで固まってる。
残り2割は自制心が強い比較的マシな部類だが、いっても教師世界に残る馬鹿なので比較的マシでしかない。
ちなみに校長まで行くと比較的マシは1000人に1人くらいしかいない。
これは言わずもがな。
もはや理屈ではないが、嘘だろ?と思うくらいの馬鹿と馬鹿のコラボレーションによって現場で大混乱が起きることが多々ある。
しかし周りも基本馬鹿なので大混乱を大混乱とすら認識できずに、あとで振り返ってやっとおかしいと気づくことが多い。
昨今、親によるモンスタークレーマー問題が取り上げられてるが、一番のモンスタークレーマーは教師だったりする。
先にも触れたように自尊心が肥大化した自己愛性障害者が教師の中によくいるので、彼らはよくモンスタークレーマーになりやすい。
しかも無駄に教師適性が高いので、教師適正の高い馬鹿からの言葉はそれ自体はとても正しいことが多い。
また他の馬鹿からの支持も集めやすいので、比較的親しい同僚に相談しても「あの人が言うのだから正しくてお前が間違ってる」と言われて、追い詰められた方はよりクレームを重く受けることになる。
……とまぁかなり誇張かつ過激に書き殴ったものの、そこまで事実とかけ離れてません。
そして今の若い人達や社会経験を積んで転職を考える方々には教師は止めた方が良いということを伝えておきます。
しかしあの狭すぎる世界では社会経験とするには役不足としか言いようのない現場です。
馬鹿の一人である私は教師を辞めて別の職に就いたときに初めて思い知ったことです。
それくらい救いようのない酷い世界ですので、それでも教師になりたいという人は馬鹿になる覚悟をしてください。
世代的にもそろそろという感じもあるが、やはり昨年から続いている流行り病の影響もあるだろう。
私もその期間に結婚した一人だ。
芸能人の結婚報道も多く感じるので、世間的にもブームになっているのだろう。
Twitterでは「俺(私)も結婚したい」という人をよく見かける。
大抵はろくでもない相手で嫌な記憶を引きずっているため、新しい恋愛が出来ないだのなんだの言っている。
そういう人こそさっさと新しい恋愛すればいいのに...。
こういう人に限って、本気を出せばすぐに出来るという態度なのも謎である。
結婚相手として求められるものは上記の「異性の魅力」と「人としての魅力」を足したものだと思っている。
ただ、これらは厄介なことに人によって魅力として感じる内容は変わるし、魅力的だと感じても異性としてなのか人としてなのかも変わってしまう。
加えて、異性としての魅力と人としての魅力を足したものをトータル評価としたときに、割合は必ずしも半々ではない。
人によっては足切りみたいな要素もあるだろう(最低でも大学卒や平均年収を超えていること等)。
そんな不安定な要素を抱えた恋人づくりにもかかわらず、過去の唯一の成功体験を持ち出して、
デカルトといえば有名なのが「われ思う故にわれあり(コギト)」。ここから近代的自我が始まった。
自我というものの存在を確立したデカルトの三段論法は西洋に影響を与えまくったが、特に注意しなくていけないのは神の存在を使わなくても自我の存在を規定できるという点だった。
でも実際のところデカルト自体はコギトから神の存在証明を行っている。神の存在を証明する時代の要請があったのだけれどそれについては後で触れる。
時代は流れてフランス革命が起こり国民国家が誕生する。国民国家が誕生すると神が死ぬ。
どういうことかというと、それまでの王による国の支配がどういう理屈で正当化されてきたのかということを説明する必要がある。
「王権神授説」というやつだ。それまでの王族による支配権は神が王に与えた権利だった。
神がこの世界を作って人間も作ったのだから神には人間を支配する権利がある。王は神に権利を与えられたので国民を支配する権利がある。
中世の神学者たちが大真面目に神の存在証明に邁進した理由がこれでわかるが、
彼らは頭の体操をしていたのではなく、国家の礎として必要な公共事業として神の存在を証明し続ける必要があったのだ。ご苦労さま。
ところが、王が打倒されて国民が自分たちの代表によって自分たちを支配する国民国家が生まれると、神は必要なくなる。
そして神に変わったものは国民の自我と理性のみとなり、国民は唯一絶対なものであるそれらによって自分自身の足のみによって立つことになる。
これにて「近代的自我」いっちょあがりだ。
なぜなら人間が生まれてくるのは神が「産めよ、増えよ、地に満ちよ。」といったからだし、日本で言えばイザナキ神が妻ともめて「いとしい妻よ。あなたが千人殺すなら、私は、一日に千五百の産屋を建てよう。」といったためだからだ。
なので神がいる前提だと反出生主義は成り立たない。
フロイトといえば精神分析だが、あとで精神分析の手法が全然間違ってたということがわかったせいで、その功績についても一般的には忘れられている気がする。
フロイトの偉大な功績は2つあって、1つ目は「精神を科学のまな板の上に載せたこと」それ自体。
フロイトは夢分析の過程で人間が表層意識には浮かんでいない、既に忘却している過去のトラウマに影響されて現在の行動を選択していることに気がついた。
患者自身は自分が理性的に考えて選択した結果だと思っていても実は意識に登ってきていない「無意識」によって人間の行動や症状が変化する。
これはすごい発見だった。それまでは人間の行動は意識、つまり自我がコントロールしているとされていたのだから。
フロイト的無意識の例で言うと、チャップリンの「ライムライト」という映画がある。
あの映画のオチでヒロインは忘れていた過去のトラウマを思い出し、それを乗り越えることで身体的な症状も克服する。
これはフィクションだし、ちょっとフロイト的すぎるので、もっと卑近な例を出すと、
犬が苦手だなあと思っていたら、実は記憶にないくらい小さな頃に犬に噛まれたことがあった、とか
梅干しの写真を見たら、「梅干しをこれから食べよう」と意識しなくてもつばが出るとか(パブロフの犬)。
映画の映像の途中で肉眼では認識できないように一枚だけコーラの写真を入れておくと映画館でコーラの売上がのびるだとか(サブリミナル効果)。
こういう感じで無意識が人間の行動に大きく影響を与えるということは、今では常識にまでなっているけれど、これを言い出した始めの人がフロイトというわけだ。
フロイトは原始的な欲望とかが無意識の正体だと考えてなんでもそれで説明しようとして失敗したわけだが、(夢分析の本とか何でも性欲で説明しようとしていてやばい)。フロイトの後続の研究者たちは無意識の概念をさらに発展させていった。
表層意識に上らないのに人間の行動に影響を与えているもの、といえば「不随意運動」だ。
たとえば、眩しい光みたら瞳孔が小さくなるとか、膝を叩いたら足が上がるとかが有名だけどそれだけじゃない。
心臓が動くのを意識して止めたり動かしたりできる人はいないから鼓動も不随意運動には入る。
呼吸も意識すれば止められるけど意識しなくても止まるわけじゃない。意識しているときは随意運動で意識していないときは不随意運動といえる。
ところで人間の意識は脳の一部である大脳新皮質で起こっている反応であることもわかってくる。
脳のその部分以外で起こっているこのと大半も無意識下で行われている。細胞の代謝とか。
さらにさらに、全ての行動に当てはまるわけじゃんないみたいだけど、「人間がある行動をとろうと表層意識で考える一瞬前に、既にその行動を取るためのニューロンが発火している」なんて話も出てくる。
さてそうすると、どうなるかというと、人間が自分の意識で自分の体をコントロールしているという考えは実は間違いで、人間の活動の大部分は無意識がコントロールしていることになる。
意識が肉体(無意識)をコントロールしているという従来の主従の逆転がここで起こっている。
ここまで来ると「無意識」を拡張しすぎて「無意識」ってなにって話になってしまう。細胞の代謝のことを「無意識」という言葉でまとめるのは違和感があるから。
ここでいいたいのは「表層意識下に上らないすべてのもの」みたいな意味であり、一般的な言葉の「無意識」とはちょっと違うものになってしまうので哲学者はこれに「エス」とかいう名前をつけた。
意識ではなくエスが人間の行動を決めるのである。というか人間が何を考えるのかもエスが決めているといえるのだとするとコギトがおかしなことになってくる。
「われ思う故にわれあり」ではなく、「われ思わされているゆえにエスがある。われはあるかどうかわからない」に修正しなければならない。
「生きるのは苦痛である。苦痛でない場合もあるが生んでみないと分からないのでいわばギャンブルである」
「生まれる際に両親は子に生まれてもいいかという同意を取っていない」
「よって生むのは無責任であり生むべきではない」
しかし人間の9割は無意識下の存在であることを踏まえて見ると、見え方が違ってくる。
第一の登場人物である「子」は産まされるという受動的な立場ということになっているが、同意を取るべきタイミングには意識が存在しない。つまり無意識である。
無意識の相手に無理やり生まれることを強制するのかと反出生主義者はいうのだが、これまでの議論で無意識(エス)こそが人間の大部分であることをこれまで延々と説明してきた。
で、重要なことはその「エス」自体は生まれてこようとする方向性を持っている、ということである。
今だに現代人は意識がなければ何も決定することはできないと思っているが、むしろ無意識が先にあって意識が後から形付けられたといえる。そして人間の肉体の不随意運動は生き残ろう、という方向で行動を起こす。
精子の蠕動だって不随意運動だし、卵子の排出だって不随意運動なのでこれらはエスである。
胎児は産道を通るとき自分の体をねじって頭蓋骨を変形させながら外に出てくる。生まれてこようとする意志がそこには感じられるが、もちろん意識も自我もない。
だがそれらの反射が自分自身ではない、というのもおかしな話である。
それらが全て生まれてこようという方向に方向付けられているのに、「本当は生まれてきたくなかった」というのはどういうことなのだろうか。
自意識、理性を過大に評価するのが現代人の病巣であってこれは単に、いまだにデカルトの呪いがとけていないのだと思う。
「生まれてこないほうがよかった」という人間だって、それはそれで大変な状況なのは間違いないのだけれど、ひざを叩けば足が上がるし、急に熱いものに触れられたら自分を守るために手を引っ込める。
生きたくないとか言うけど呼吸は止められなければ、心臓は勝手に動いている。
どう見ても肉体は生きようとしている。
やっていることと言っていることが違う。
でも不思議なことは何もない。自意識なんて人間のほんの一部でしかないからである。
自己の定義を自我に狭めるべきではない。それは単にその方が精神衛生上いいというだけの話ではなく間違っている。
エスの定義は自意識に上がらないすべてのものと書いたが、哲学者によるとこれはつまり「自我」以外の「世界全て」のことを指すらしい。
流石にそこまで悟ることは難しいが、自己の定義を自分の不随意運動、や無意識の習慣程度にまで広げておけばデカルトの作った罠にはまらないで済む。
随分とキツい状況のようだ。
何度も不満や気持ちを思い切って伝えているにも関わらず、相手がそれに対して対応してくれておらず、根本解決に至っていない。
夫自身も優しさからくるものか、相手にも不快感を与えたかもしれないと若干自己嫌悪に陥っているようだ。
見てみると段階がある。
第一段階は、なぜセックスができないのかの疑問だ。これは解決している。
第一段階。
客観的に見ればセックスに応じない妻に対して夫の不機嫌は当然の反応なのだが、
夫が思い切って客観的に妻がセックスに応じられない明らかな理由を問いただしたところ、
「もう、セックスをする気になれない」との回答が得られた。
これをちゃんと伝えない妻も世の中にはいて、ここで拗れることは多々あるのだが、
しかも数次にわたり「する気になれない」との回答が得られている。
ここで、夫がセックスを諦められたのなら一件落着だ。
だが夫は、夫婦生活においてセックスは欠くべからざる要素であるという認識だ。
「妻がなぜセックスに応じてくれないか」については「もう、セックスをする気になれない」の回答が得られており、これは妻の偽りのない状況である。
今度は、夫が「それでもセックスがしたい」という次のコンフリクトの対処に焦点が当たる。
第二段階。
妻側も、「セックス以外は」夫側に譲歩しようとする姿勢が見て取れる。
夫は、それに対して感謝はあるものの、一番の目的であるセックスが慎重にかつ確実に逸らされていることがわかるため、満足に至ることはなく、むしろ不満が鬱積し抑圧されている状況だ。
夫は自分が最も大事にしたいセックスが蔑ろにされており、妻はセックス以外は夫に何とか対応しようとしてくれているため、感謝と怒りが綯い交ぜとなっており、混乱している。
「セックス以外は」順調であるがため、なおさらセックスが満たされない焦燥が肥大化しているように見受ける。
そして困ったことに、夫側の主張によればそのセックスは単純な性欲ではないため、性風俗産業の利用といったいわゆる外注では解決できない。
妻その人とセックスできなければ満たされないのだ。
まあ浮気や不倫といったリスクが排除されるためこの観点からは良いことだが、
妻側の意思の変更以外には解決がなく、現状打破の解決策の狭隘という意味ではむしろ手詰まり感は更に強い。
(余談だが、「お前だけを愛している」という感情は、無条件の愛ではなく、むしろこうしたコンフリクトを生じることがままあることを社会は知る必要があると感じた)
気になるのは「大事な話だからまた話そうね」という妻側のセリフである。
気休めならこんなセリフは言わない方が良い。
本当にしたくないなら「する気になれない」を繰り返せば良いだけである。
或いは妻側も、「大事な話を繰り返せばセックスの要求を諦めてくれる」ことを暗に期待しているのかもしれない。
それであるなら大事な話はすればするだけ亀裂を深めるだけである。(両者の気持ちが不変であることを前提)
心の奥底では、これ以上踏み込んだら「破綻」も覚悟するような賭けに出なくてはならないかもしれない予感を無意識に感じているのかもしれない。
お互いに。
…夫婦生活にはセックスが前提であり、これに応えない場合は応えない方に責任があるというのが、法的側面も含めた我が国の社会の解釈である。
だが責任問題として争いをすることも夫の望むところではないだろう。
だが、一番求めているものが、お互いの間ですれ違い、もつれていく。
もし妻が浮気しているのならここまでダラダラ書いたことは完全にムダだが、
そんな片鱗すらないというのなら、
お互いの最も望むものが噛み合わず、つらく、くるしいという人間関係のコミュニケーションそのものなのかもしれない。
吐き出してスッキリしないのなら、
このままの現状を維持することが夫側の目的ではないと思われる。
行くところまで行かなければこのすっきり感は得られないだろう。
そしてこれは心の問題であり、
形式的に「夫が諦める」を選択しても「妻がセックスに応じる」を選択しても、
そこに心が本当に存在していなければ、どちらにしてもどちらの「スッキリ」も得られないだろう。
上辺だけ、形だけ、その場しのぎのことをやったとしたって、
夫も妻もそれは必ずわかってしまうだろう。
現に夫は形式上諦めようと試みたが、あらゆる心の反応が嵐のように起き、諦めることは(今のところ)できないことは証明済みである。
「夫が本心から心の底からセックスを諦めてくれた」とは到底言えない状況だったからだ。
同じように、妻がたとえセックスに応じてくれたとしても、そのセックスの反応、満足度等々から、
「妻が本心から心の底からセックスに応じてくれたとは到底言えない状況」がセックス最中・セックス後に感じて取れてしまったら、
妻がたとえ何百回セックスに応じてくれてもこの問題は解決しない。
「わかった、セックスは諦める」
これは言葉だけでは、形だけでは、そして実際にそうしてみただけでは、どれほど意味がないかがわかるだろう。
たとえ他人からはどれほど幸せに溢れた夫婦生活や家族生活が営めたとしても、
『自らが本心から望む人生』において永遠の飢渇に苛まれることは疑いがない。
………或いは、この世界において、心の底から望むものなど決して叶うことはないのだと思い知ることも必要なのかもしれない。
周囲を見回してみれば、そうした選択をしている大人は数限りなく数え切れないほどおおぜいいる。
どちらを選ぶのかは夫の選択であり、
そして、妻もこの選択に参加しなくてはならないだろう。
社会人二年目というので二十代前半とするとあーまぁそりゃそんなにかわらんやろとしか。
むしろ心肺だけヤリすぎて心臓肥大化すると、のちのち、ちょっと面倒なことになる。
心肺機能だけの話ならコロナにかかって発症しなきゃどうやってもそこそこいける年代なのよ
ほかに鍛えようとおもう場合、「バランス感覚とか精密なタイミングとり(こう球が来たらこう打つとか)」は若ければ若いほうが効く、
ある程度つくったら満足してそれはそれでいいとおもう
日に当たる習慣としては有効だがあえて歩くでなくてもよい。夜勤でなければ通勤通学で10分も日中外に出れば鬱予防としてはそこそこイケる。
歩くのでは上半身が鍛えられない。室内クライミングとかやってみろ。腰痛、肩こりにめっちゃ効く。
ストレッチもかならずしろ。のちのち五十肩になるかならないかがここで決まるとおもえ。
栄養学がんばれ。脂肪をへらしてプロテインと野菜を自分なりにうまく摂取する自分なりのやりかたをみつけろ。
女性なら鉄分。便秘ぎみなら食物繊維とマグネシウム。ダルいならビタミンB群。野菜嫌いはビタミンC。魚嫌いはDHA。
子作りがんばりたいなら女性は葉酸、男性は亜鉛。高血圧家系はカリウム。低血圧はナトリウム。
もちろんサプリでもいいぞ(面倒なら全部入ってるのが売ってる。のみ忘れたりするな)。
言いたいことの大半はこの増田に書いてあったんだけど
https://anond.hatelabo.jp/20210515224207
女児の親として見てもプリキュアが女の子のために・子供のためにってのは嘘っぱちなんだわ。
例えばキラキラプリキュアアラモードではいちかがアキラを男だと思い込んで好きになったけど女だと知った瞬間好意が消え失せるのなぜ?むしろ自身のセクシャリティに疑問を感じてもおかしくない描写なんですけど?ってあたりにマイノリティに属する女の子の気持ちなんかこれっぽっちも考えてないんだわな。
え?同性愛者の女の子なんか知ったこっちゃないってことですか?
うちの娘は同じ保育園の仲良しの女の子のことを大好きだって教えてくれるけどまあ、まだ子どもなのでそれが所謂LOVEなのかLIKEなのかは分からん。
本人が自分の気持ちをいつ・どういう風に理解するか分からないけど異性愛であって当たり前だなんてもの見せてくれるなよ。
自分自身もバイセクシャルとして世の中に当たり前に異性愛ばっっっっっっっかり見せられて自認にいたるまで無駄な時間を過ごさせられた。
近所にはちょっとぽっちゃりした女の子も住んでる。弱視の女の子も保育園にいるよ。アニメではほとんど存在させられたことないしプリキュアにもなれないけど。
子どもがそんな表現に文句言ってないから別にいいだろって?生まれて数年でな毎日新しいことだらけ、目の前のものをどんどん受け止めるので精一杯の子どもが何年もアニメばっか見てる大人みたいに一つ一つの表現に文句言うの?笑
この作品にこういうシーンがないのはおかしいって?子どもを盾に利用してアホなことを言うな。
表現の自由戦士みたいなのが自分の思想を馬鹿にされたと勘違いしてこれだからフェミは、とかポリコレ棒とか言って必死こいて騒ぎ立てる。
文句言ってるのはプリキュアとか子供向けコンテンツ全般の表現や内容なんだけどなぜか自己を肥大化して自分に文句言われたと勘違いしてる上にそれに気づかずわめいてる…。
売上が~とか商業的に~って言って必死こいて自分たち大人も消費しやすい可愛くてピンクと白とリボンで細身で眼鏡をかけてない女の子以外存在しない幅の狭い表現だけ楽しませろって…はあ…。表現の自由を守るっていいながら言ってる表現めちゃめちゃ狭いな。
元増田だとディズニーとかセサミストリート出してるけどマーベルだって多様性に富みまくってるのに多様性を金儲けに使うなと逆に文句言われるほど売れてるよ。
やる気が無いんだよ。最初からあらゆる女の子を勇気づけようって気持ちよりも、世の中の都合の良いなんとなし多様性っぽい雰囲気のものをキラキラ可愛くコーティングしてそれっぽく見せたらもうそれでやってる感抱いちゃって本気で現実の子どもたち・女の子たちの抱えてる困難なんて勉強してないんじゃないのか。
「女の子のため」っていうのコンセプトに掲げるなら本気出してやれよ。
プリキュアに限った話じゃないけど、少し前のプリキュアの制作の裏側みたいな番組で「自分のためのメイク」みたいなの言ってて見られる性としてこれまでたくさんの女性の表現やルッキズムやらが問題になってきたことを勉強してきたのか?とむしろ不安を抱いたよ。
これまでも適当な多様性やってる感だけ出してる表現しか出来ないプリキュアが、今度も同じようなこと繰り返すんだな、と。
うちの娘をのけものにすんなよ。
できないんだったら「女の子」を軽々しく作品のターゲットやコンセプトに利用すんな。
おい、アイカツお前もだぞ。
そもそもリベラルが人々の連帯を謳うこと自体がおかしいんだよ。
リベラルは連帯と同時に"個々の人々の価値観や個性を尊重する"ことを標榜することが多いが、これらは現実的には相反する理想なんだ。
何かを素晴らしいと言えば、それは権威化し、それに反するモノは排斥される。
考えの違う人達を一か所に集まれば争いが起きて、結果、優越が決定される。
その辺りを見ようとせずに権威として肥大化したリベラルの罪に関しては、カズオイシグロなりバラモン左翼なりの話題で散々糾弾されてきた話だろう。
本当に個々の人々が尊重される世界を作ろうとするなら、連帯を標榜するのではなく、むしろそれぞれの価値観で構成された集団に分かれて互いを害さず、同時に相手が自分たちにとって好ましくない価値観を持っていても(自分たちを直接的な形で害して来ない限りは)他所の価値観には踏み込まないようにする、そういう適切な距離の取り方を目指すのが正解だと思う。
それ自体は間違っていない。
そして次に新時代のリベラルが為すべきは、考え方の違う人々を自分達の価値観で教化しようとすることを止めて、距離を取ることにシフトすることだと思う。
プリキュアの演出とかが批判されてるのに自分が批判されたみたいに自己を肥大化させて必死になって悪しき日本の子供向けアニメの欺瞞をそのままにしようと必死になるのいい加減やめなね。
日本には数多の新宗教と呼ばれる宗教が存在する。そして大体の宗教は聖地を持っている。そんな聖地に信者でもない人間が入ってもいいのか?と思ってしまうが開放している宗教はそこそこあるので行ったことがある宗教本部の思い出を辿ってみる
・霊友会
法華系新宗教の先駆けであり数多くの分派を輩出したことで知られる霊友会は東京都港区麻布台という都内の一等地に「釈迦殿」と呼ばれる巨大な建物を保有している。最寄り駅の神谷町駅からとぼとぼ徒歩で行ったが、自分は平日に行ったのでほとんど人が居なかった。巨大な礼拝スペースががらんとしているのはこの世の終わりを感じさせてなかなか楽しいものだった。霊友会には小谷喜美と久保角太郎という二人の教祖的な人物がいるのだけれど歴史紹介コーナー的なところはほとんど小谷恩師小谷恩師と書かれていて久保角太郎の名はあまり見受けられなかった。(霊友会の元会長が久保角太郎の息子なのだが、平成に入って分裂騒動があり現在の霊友会と袂を分ったためか)
奥の方には食堂もあったが行く前に食事してしまったので食べずに終わった。
上に書いた霊友会の分派として戦後期に創価学会と並んで肥大化した新宗教である立正佼成会の本部は杉並区和田にある。方南町駅から北に向かって歩いていくと円柱が多数取り囲んだような形の立正佼成会の大聖堂が見えてくる。道を挟んで南側には「吹奏楽の甲子園」と呼ばれた教団所有の普門館があるのだが、自分が行った2019年のクリスマスには耐震上の問題から取り壊しが行われていた。
中に入ると一階には土産物屋があった。教団関連の書籍や仏具とともになぜか国旗が売られていたのを妙に覚えている。上の階の展示室では脇祖・長沼妙佼の特集が組まれていた。若いころの開祖・庭野日敬の写真などもあったがなかなかいい顔立ちだなと感じた。展示を見終えた後、屋上に上がり中野から東京を見たりした。
昼ぐらいになったので食堂に行った。この日はクリスマスだったのでシフォンケーキが売られていた。仏教系とかあんまり関係ないのね…大聖堂の外にもいろいろあったが博物館的なところは休館だったのでコロナが収まったら行ってみたいと思います。
・国柱会
さっきから法華系の新宗教ばかりに偏ってる気がするけど次に国柱会の説明を。戦前に日蓮主義を引っ提げた田中智学の国柱会の本部は江戸川区一之江にある。一之江駅からバスで行くものの最初はどこが入り口かわからずぐるっと回りを一周してしまった。やっとこさ入口らしき道を見つけたが、教団が経営する老人ホームが本部の中にあって驚いた。老人ホームの道を進んでいくと国柱会の本部が見えてくる。ただまあそんなにデカい建物ではなかったのですけどね。道の端々にいろんな石碑が残っていたけどあんまり記憶にない。本部の中も恐る恐る入った。術師みたいな恰好の人が居た位しか覚えてないですね。本部の中のパンフは教団関係のやつもあれば右派的な主張のものもあった。そこは戦前からの流れがまだ生き残ってるんだなあ…と思った。
・霊波之光
いままでは東京都内だったが今度は千葉県野田市にある霊波之光本部へ。東武野田線運河駅を降り東京理科大学を横目に歩いていく。途中で信者らしき人々がすれ違いざまに挨拶をしてくる。霊波之光は教義上挨拶を重視してるようでまあ返さないと申し訳ないな…という感じで返事をする。
入り口についたころはちょうど正午で礼拝タイムだったのでそれを眺めてから境内にINする。入り口で記念撮影ができるようだが内部では写真は撮影禁止らしかった。休日であったこともあり先に述べた三つの本部よりも人が多かった。とりあえず腹ごしらえに一部オタクに認知されているドムドムバーガーの生き残りの店で昼食を食べた。お好み焼きバーガーって炭水化物ばっかじゃん!!!!
施設内のことで覚えてることが花が多いとか焼き物が飾ってあったとかその程度しかない…教団について知らなかったので資料館的なところも見たかったけど休館だった悲しみ。
・金光教
中国地方に18きっぷ旅行した時にせっかくだからと行ってみた金光教本部はその名もズバリ金光駅から歩いて行った。
本部までの道にある店が軒並み金光教マークの提灯を掲げていたのは流石宗教都市だな…と思ったりしました。本部に入ったけど手水鉢とかもあって割と神社に近い感じでしたね、教派神道ですから。
歩き回ろうと思ったけど信者の方々が掃除の奉仕活動的なことをしてたからなんか申し訳なくなってそそくさと退出してしまいました。帰りに買った金光教マーク入りのまんじゅうはなかなかおいしかったです。
…と、ここまで駄文を垂れ流してきたわけですが、見に行ける新宗教施設は割とあるように思います。ただ、そこにいる信者の皆さんに失礼とならないようなふるまいは必要となってきます。あくまでアウトサイダーなのですから…
あと、創価学会でおなじみの信濃町なんかは行ったけれど学会本部は厳重に守られてますし土産物屋で三色グッズを買うくらいしかできないからあまり面白くはなかったですね。
今後もいろいろな新宗教施設を訪ね歩きたいと思います。天理とかまだ行ってないですからいずれコロナが収まったら行きたいですね…!
釣られとくわ。
うるせぇよ、馬鹿。
全ての作品に対してそんな尺度でしか評価出来ねぇんならテレビ向いてねぇよ。文化レベルを平安末期まで戻して鳥獣戯画でも見とけやタコ。
あのな、トロプリはお前の根性のようにねじ曲がってヒビだらけのメガネで見るような作品じゃねぇんだよ。
脳みそ取り出したとこに可愛いの箱をねじ込んでその中に本編を直でブチ込むアニメなんだよ。
能面かと思えばトロピカるなことには体が動いちゃうみのりん先輩
不良だから友達いないと思いきや割と面倒見が良くて友達少ない原因がマジに分かんねぇあすか先輩
今のところ完全にペット枠のくるるん
どうにか退場しないでくれとSS以来に願ったあとまわしの魔女たち
こいつ等がテレビの中で大暴れしてくれるだけでいいんだよ。それだけで楽しいんだよ面白いんだよ。
日常パートも表情豊かで底抜けに明るくてこれを見るだけでステキな日曜を迎えられるんだよ(余裕があったら一時間前に放送するアイカツプラネット!も見てね)。
バトルも絞めるとこは絞めるけどギャグをやるとこはとことんやるんだよ。
"昼飯食い損ねたから戦闘中空腹に襲われる→敵を氷漬けにしてる間に弁当かきこむ"
もうね、コロコロコミックか?ギャグ世界の住人だから多分フリーザ軍の攻撃効かんぞ。大好きだよお前ら最高だ。
子供は大人が使ってるものに無条件に憧れるんだよ。お姉さんキャラがメインターゲットに人気あるの知らんのか?そういうもんなんだよ。もう"大人"が憧れの対象なんだよ。
「可愛いは追及するな。全員がしなくてもいい」とかもういいじゃねぇか。
かっこよくなりたいから。
綺麗になりたいから。
単純に使いたいから。
これでいいじゃねぇか。
「自分をエンパワメントするためのメイク」に噛み付いてるのはよく分かんねぇけど、本編で一度とてそういう話題出たのか?メインターゲットはそこ気にするのか?大人が勝手な理屈で勝手にメインターゲットのこと心配するのもどうなんだ?余計なお世話じゃねぇのか?誰もそんな目でプリキュア見てねぇよ多分。
エンタメだよエンタメ。大前提でエンタメなんだよ。政治的テーマを入れるような作品じゃねぇだろ。
そういうの欲しかったらHUGプリでも見とけよ。うっすら表面化してるからあっちは(個人差があります)。
よく分からん釣り針垂らすのを後回しにしないのはあートロプリ見てんなぁって関心するけどさぁ、
もういい加減お前の肥大化した妄想だけで作品を評価するのをやめろ。なーにがルッキズムだよ。バカフェミはなんであいさつ代わりにぶん殴ってくるんだよ。ブクマ乞食の為にトロプリを利用するのはやめろ。
わかるー。俺もSNSにありがちな「求めすぎる姿勢」にはちょっとなーと思う。別におならが臭くても嬉しくはないが。
誰に届くかわからない、反応もない、見てもらえるかすらわからないけど、外の世界に放り投げてみようっていう、外の人間と繋がりを持つにしても、そういう慎みの精神が足りないんじゃないかと思う。
肥大化した自我を周りに押し付けながら「承認されたい!分かってほしい!」だなんて、傲慢もいいとこだろ。
あと、ネットのせいかなー、これはなんにも根拠ないんだけど、「相手にわかってもらえるように伝える能力」の低下がかなりひどくなってると思う。どんだけ適当に書いても、自分と同じ見解の人間、わかってくれる人間がネットを使えば苦労せず簡単に見つかるから。