はてなキーワード: お笑い芸人とは
面白い! 以上。
アナ雪の第一印象は、多くの女性が絶賛しているが、私が好きな一部 お笑い芸人さんの評価はイマイチ。っていうか、「特にストーリーは無い」というような評価だった事が強く残っている。
公開当時にネット上で大量に書かれた感想、評論、考察なども結構興味深く読んだ。宇多丸さんと荻上チキさんの評とかも聞いた。
それらを読んだり聞いたりした上で時間が経ってから本編を見たので、完全に真っ白な状態では見れていないのだが、
私の感想としては、少なくない超絶賛には付いて行けないものの、しかし一部 芸人さんの評価は低過ぎると思う。ストーリーはちゃんと有る! むしろ濃過ぎる! 丁寧に煮込まれたスープの上澄みだけを飲んでいるようなモノで パッと見の印象がシンプルに感じられるだけだ。
かなり好き。勿論、素晴らしい作品で、超絶賛される理由も分かる。
んで、ここからが本題なんだけど、
公開当時も沢山の評論や考察はあったんだけど、私が読んだ範囲では それらには書かれていない部分が気になっているんだ。
それをここで書こうと思う。
ザックリ書くと、
「アナ雪って、作中での『運が良い事』が重要な基盤になっているんじゃね?」って事。
まぁ、ディズニーアニメの例によって例のごとく アナ雪も『真実の愛』が重要なテーマになってるじゃん。そして、それが問題解決の鍵じゃん。 それは……、良い。
私が気になるのは、その焦点が「自発的な愛」なのか、他者から与えられる「受動的な愛」なのか、「両方」なのか って事なんだけど、
私は、その「先」も気になるのよ。
つまり、私は、
「エルサの『雪の呪い』は『自発的な真実の愛』でしか解呪出来ない。」という解釈の余地がある事が アナ雪のパワーの源じゃないのか?と思っているんだ。
いや、分からんよ。 旧来型通りクリストフから与えられたであろう「受動的な愛」でも解呪可能なのかもしれない。
でも、無視出来ない描写もある。エルサの良心+妹への贈り物であるオラフが愛が何であるかを知っている事だ。
これは少なくともエルサは愛が何であるかを知っている証拠だし、アナに対して「受動的な愛」を与えている。でも、アナの呪いは解けていない。
また最終盤、エルサが自身の愛を自覚することで氷の魔法を制御出来るようになることも重要だ。
では、仮に「エルサの『雪の呪い』は『自発的な真実の愛』でしか解呪出来ない。」という前提で本編の描写を見てみよう。
まず、最序盤、城の中で二人が雪遊びするシーン、この時点で雪の魔法がアナの心臓に当たっていればアナは為す術無く死んでいたよね。
だって、幼児に自発的自己犠牲的愛なんて期待出来る訳が無いんだから。
これはトロールの長がエルサの魔法を強く警戒する事とも整合性がとれる。子供に対しては致死性の呪いになるからだ。
両親がエルサを自室に閉じ込めるのも危険性を顧みれば已むを得なく、エルサからすれば妹を殺しかけた訳だから強い反省からくる自傷的な引き篭もり、恐怖も理解できる。
つまり、最初にエルサが「運良く」アナを殺さなかった事が最終的なハッピーエンドの結果を生んだのではないか?
日に日に強くなる自分では制御出来ない魔法。閉じ込めるという対処法。最初の被害者は自分より幼く弱い近親者。一度、開放されれば国中を巻き込む影響力。
エルサの雪の魔法は「感染症」のメタファーでもあるのではないか?……
これは”エグゼクティブ・プロデューサーのジョン・ラセターが、難病である1型糖尿病と10歳で診断された息子からエルサのキャラクター作りにインスピレーションを得たと語っている。”
事とも整合性がとれる。
つまり、アナ雪は 表層の魔法とファンタジー+家族再生の物語。中層のディズニープリンセスからの脱却といったジェンダー論。下層の人類の「感染症」との戦いの歴史。対処、献身、治療、回復。の三層構造のストーリーが極めて高い次元で昇華されているため大きな感動を産んでいるのではないか?
そして、ハッピーエンドの核を「運が良い」事に放り投げているので説得力が損なわれず説教臭くさえない。
ただし、無意識の不安は残る。が、アナ雪の場合、コレさえ長所にもなっている。
これを「正義の主人公(達)の努力と理性と決断による悪に対する『必然的勝利』」という構成に出来れば、物語としての強度も視聴者の快感も高まる。が、
同時に説教臭くもなってしまう。作中の「問題」解決の条件と能力に焦点が集まり、説得力が損なわれやすい。
ズートピアとベイマックスは両方とも素晴らしい作品だが、どこか説教臭く、アナ雪に比べ説得力が薄いのはこのためだ。
主人公(達)に「運」の影響が無い作劇は、安心で子供向けにもしやすいが、ややもすると『答え合わせ』になってしまう。
が、主人公(達)に「運」が有りすぎても御都合主義展開になってしまう。
アナ雪はこのバランスが絶妙で、ディズニーアニメとしてはギリギリまで「運」が良く、更にそれを最初の「室内雪遊び事故」一点に絞ってるのが凄い。
要は アナ雪 超良かったです。好き。
ズートピアは素晴らしいし良かったけど、完全には好きになれない。
さて、ここで問題!
では、ウッチャンナンチャンは、
何ちゃんと何ちゃんでしょう?
ズンズンチャッチャ、ズンズンチャッチャ!
ズンズンチャッチャ、ズンズンチャッチャ!
また来週~!!!
なんかさ、
なーんて。
森口博子がイントロクイズであまりにも即答しまくるもんだから、
一切呼ばれなくなったって言うのはここだけの話よ。
なぜ角を取らない!でお馴染みのクイズ番組も
あの児玉清節がよかったんじゃない。
私あれ大好きだったのよね。
今もうあれが見れないのは悲しすぎるわ。
さあ、踊りましょう。
ダンスが済んだ!
ダンスの後にしてね。
うふふ。
それの残りで朝ご飯よ。
味はそこそこ美味しいと思うわ。
手前味噌味だけど。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
なんだろう、胸が色々と痛くなってる。自分の中にこんな感情が存在するのか。yahoo!のトップに踊り狂う、幸福と科学の文字。新興宗教=危険な敵というストーリーは、とってもわかりやすくて、スマホを覗き込むバラバラな「個人」となった僕たちに、そいういや日本人という集団の一員だった!とアイデンティティを再認識させてくれる。気持ちいいよね。
俺の父も、今回の清水さんとほとんど一緒。20年くらい前に”幸福”を求めて出家したんです。今回の騒動で「出家」なんて言葉使うんだと驚いてるんだけど、普通の企業をやめて宗教団体の職員になった父。出家、というのを”瀬戸内寂聴”と、お笑い芸人さんが笑いに変えていたみたいだけど、実際は坊さん的な状態になるわけでは無いと思われる。髪の毛もそのままでいいだろうし、食事制限もなさそうだ。お寺というより、彼らの趣味は教会に近い。建物は大体、古代ローマ神殿みたいな感じ。父がお祈り用の仏壇みたいなのを部屋に持ち込んだ時期があったけど、ドラクエばっかりやってた俺は「これはもしや…ダーマ神殿ッ!?」と思ったものだ。
父はずっと家にいなかったから、俺と家族は宗教への接点はほどんどなかった。そんな俺が「幸福の科学」のコミュニティに具体的に触れたことがあるのは、人生で3回。
【コラム】すごい昔「幸福の科学」の東京ドーム集会に潜入した時の話
http://rocketnews24.com/2017/02/13/862050/
これだよ、まさにこれ。リンク先見た途端、記憶のドアが開いた。23年前だから、当時10歳足らずの俺を、まだ宗教のことをよくわかってない母親がビクビクして連れて行った。姉は物心つく年齢だから置いてかれたんだと思う。この記事のように15歳くらいで見に行ったら、裏読みで楽しめたかもなんだけど、俺の脳が危険を察知したのか具体的な内容は覚えていない。(ただ竜に乗ったシーンは、リンク先を見ることで蘇った。脳すごい。)ただ、イベントが始まるとき、彼らにおける「お経」みたいなのをみんなで読むシーンだけ、今でも覚えている。周りは自分より背の大きな大人たちで暗いブルーな照明。黒山の人だかりが一斉に立ち上がり、全く前が見えなかった。子供ながらに感じたのは、大人たちの高揚感と空気。内容は違うにせよ、大人になって同じ場所でミスチルのコンサートを見たときと、感じ取る空気感は変わらない。彼らにとってはハレの日であり、インディーズバンドがメジャーデビューするような、お祭りだったんだね。
これも小学生の時。父親の仕事を見る、的な学校の課題があったのか?母と見に行ったら、ダーマ神殿内部の集会場みたいな場所で、老人相手に説法を説いている父がいた。イメージは葬式後に坊さんが喋る、ありがたい系の話だったような記憶がある。職員はそこの運営をやったり、教えを説いているっぽい。今回の清水さんは広告塔しての貢献度が高いから、映画出演や広報や選挙戦出馬とかさせられるんだろう。ただ出家して職員になったら、教えを広めるのが基本の仕事だろうから、まあ似たようなイメージなのかと推測する。
これは大人になってから、なので7年くらい前かなあ。父親から話がある、と、おそらく人生一度きりになるだろう召集がかかった。どっかの山奥。この施設に永代供養できる場所があり入りたい。お前の了承が欲しい、と。俺とか母は嫌なら自分で別の墓を選んでもいい、みたいな確認をして、かくかくしかじか。結局了承したんです。ずっと避けていた父の決意というか意思の固さやピュアさを前にして、何も言えなかった。というか、あれ?自分に彼を否定できる根拠ってあったっけ?とも感じました。他者への想像力の無さも、自身の信念があまりに脆いことも体感した。あの時は、あまりに無力だったなあ。んで、ずっとその場所っておじさんの声で呪文がテープで流れてるんですよ。なんかこりゃ聴いたことあるなあ?って思ったら、あ!16年前の①のライブのセットリスト1曲目のやつ!
散々コスられてきているように、俺もネタっぽく書いたように、”普通”とか”世間”と比較して見ると、みんなで嘲笑できるトンデモな面白い対象なんです。
③の施設を見学したんだけど、彼らにはコミュニティがあって(地方の経営難のゴルフ場なんかを買い取って作ってるから相当疎外された感はある)そこに怪しい金ピカのモニュメントとか作って、学校なんかも作っている。隔離されて、オリジナルの歌とか教科書とかを元に教育を受けるのだろう。子供はそれが当たり前だと思うんだから、洗脳されちゃうよね。歴史の教科書とかは興味本位で見てみたい。勝手に乗り移って本出せちゃうくらいなんだから、アパホテルなんて比じゃないクオリティなんだろう(と予想される。ちゃんとした内容だったらすみません)。
出家して職員になった父を憎んでいたけど、尊敬していることもある。自分が信じている絶対の世界を全く家族に押し付けて来なかったこと。これは問題になっている清水さんの両親と圧倒的に違う差だと思う。本来は自分の課題や状況に合わせて、必要だから門を叩く存在であるのが宗教だと思うんだけど。生まれた時から両親から信じ込ませられてしまったら敵わないでしょう。まあ信者の人からしたら、身近な子供に自然と教育してしまうんだろうし、そうやって宗教って続いてきた歴史もあるんだろうけけどさ。”必要とされている人”のところに、クリーンに行き届けばいいのになあ。
時は流れ、俺は結婚して子供が生まれた。寝息を立てる愛しい我が子を左横に見ながら、ベッドの上で増田に投稿する文章をぽちぽち考えている。iPhoneをスクロールしていくと、件のニュースに紐づいた感情的なヤフーのコメントたちが姿を表す。”普通”の感覚からしたら、よくわかる。だけど自分が生きている世界が、価値観が、本当に正しいと”信じ込んでいる”という側面では、どっちも50歩100歩じゃないなのでは?とも思ってしまう。信じる人にかける言葉も、感情的なコメント欄の彼らにかける言葉も、想像してもあまりにも答えがなくて、難しくて。どちらも真剣で、本当は笑っちゃいけない気がするんですよ。
そして自分の子供が物心ついた時にどんな言葉をかけられるのだろう。誰かを嘲笑するのをためらう想像力と、自分が信じるに値する経験を積んで欲しい。それってどう教育すりゃいいのだ?難しくね?
答えが出ずに途方にくれる、新米父さんの自分語りにお付き合いいただき、誠にありがとうございました。
お笑い芸人で絵本作家の西野さんについて、「無料公開はクリエイターの首を絞める」「いや、無料公開はいいけど、あの態度が問題だ」とか色々な論争が起きてるじゃないですか。でも、ぶっちゃけ全部ずれてると思います。彼はクリエイターなんだから、彼の作品のみによって批判されるべきだと思うんです。
この論争で誰も触れないですけど、あの絵本面白いですか?絵本として面白いですか?
絵は凄い。でも、絵本の面白さってそこですかね。大事ですよ、絵は。でも、もっと大事なのは、そこから広がるセンス・オブ・ワンダーだと思うんですよ。『かいじゅうたちのいるところ』みたいな名作には、それがあるじゃないですか。
絵本の楽しさって、枚数・文字ともに制限された世界から、読み手が思い思いに広げる、広がる世界、そこにこそ絵本の豊かさがあると思うんです。要するに、ヤバイ世界をどれだけ見せてくれて、どれだけ僕らの心を刺激してくれるかじゃないですか。
僕の好きな絵本に「ガガガガ」っていうインディアン神話をもとにした絵本があるんですけど、これは凄いですよ。主人公は石と鳥がまぐわって生まれた子供で、物凄く長いへそと尻の穴を持っていて、邪魔な奴は尻の穴を首に巻きつけて、絞め殺しますからね。何を言っているかわからないと思うんですけど、そういう話だから仕方ない。
ヤバイ世界をどれだけ見せて、僕らの心をどれだけ刺激してくれるか、絵本の魅力ってそういう所だと思うんです。
「えんとつ町のプペル」はその点が極めて、極めて凡庸じゃないですか。何ですか、「風船をたくさんつけて空を飛ぶ」って、その児童作品で7兆回くらい繰り返されてきたモチーフは。何ですか、「ゴミに人の魂が…」って。その何度も繰り返されてきた展開は。登場人物の目的が「世界のはての綺麗なものを見に行く」っていうさ…イオン行け、イオン。何でもあるぞ、あそこには。
「絵がすごいなー」ってだけで、一回も「ヤバイものを見た感」が味わえない。「はらぺこあおむし」とか、絵からして強い(確信)ですからね。そういう驚きが一個もない。
さらに、質が悪いのが「あとがき」ですよ。「夢を語れば嗤われる世界(えんとつ町)で、それでも夢を見るからいじめられる」「捨てろといわれる夢を捨てられない象徴が、ゴミ人間」みたいに、一個一個メタファーを解説しちゃうわけですわ。これ最悪でしょ。「糞だせー」でしょ。読み手の中には、それぞれの世界が広がってたんですよ。きっと。このあとがきを読むまでは。
でも、このあとがきを読んだ瞬間に、読み手の世界の広がりは雲散霧消して、「西野のお説教」に矮小化されてしまう。もう、この「あとがき」の時点で、西野さんはどこまでいっても西野さんだし、西野さんは既に凄い人なんだけど、たぶん、ずっと西野さん以上にはなれないんだろうな、という次第。
西野さんはどこまでも絶え間なく広がっていて、もがけばもがくほど、きっと西野さんは西野さんの五臓と六腑に染み込んで、また西野さんが再生産されていくんだろうな。きっと。
吉本興業に所属するお笑い芸人・キングコングの西野亮廣氏の界隈が燃えている。
彼がプロデュースした絵本「えんとつ町のプペル」についてである。最近の西野氏は声優の明坂聡美を名指しで吊し上げたり、
みんなの心が一つにならないと倒せないのだ
— 平野耕太 (@hiranokohta) 2017年1月21日”
と表現した。
たしかに批判的にであっても西野氏を話題にすることで、「えんとつ町のプペル」にはパブリシティ効果が生まれてしまい、
それは西野氏を経済的に利することになる。吉本興業という大企業に守られた彼の立場もまた安泰だ。
西野氏が経済的利益を目的にしているのなら、彼に対する対処は確かに大変に難しい。
金銭的メリットで見た場合、西野氏にとって、ましてや吉本興業にとって、絵本の売上やクラウドファンディングから
上がる利益はそれほど莫大とは言えない。
彼がお笑い芸人・タレントとして積み上げていくであろう利益と、繰り返される騒動の中で生まれた彼に対する面倒くさ
そうなイメージ、負の印象がもたらす長期的不利益を天秤にかければ、収支としてはマイナスも大きい。
最近コンプライアンスや芸人教育に神経をとがらせている吉本からしてみれば、ほどほどにしておけよ、いい加減にしろよ、
それでもなお西野氏がこの道を邁進するのは、彼が欲するのが金銭ではないからだ。
西野亮廣という妖怪を一言で分類するなら、肥大化した虚栄心の化物である。
彼が焦がれるほどに欲しているのは、知的でウィットに富んだ、唯一無二の優れた芸術家という他者からの評価と喝采なのだ。
西野氏の対応は常に後手後手で、その時々に批判された内容に愚直なまでに対応している。
無料公開で広告収益をあげていると言われれば寄付を発表するし、外注イラストレーターたちの処遇が批判されれば特別
ボーナスを出すと吹聴する。
西野氏が本当にビジネスとして割り切って炎上を狙っているのであれば、ここまで右往左往する必要などないのだ。
それほどに彼は、小銭稼ぎに長けた絵本商売人、と見られることを恐れている。
西野氏が明坂聡美を槍玉に挙げたのは、マウントを取る相手として手頃だった…ということもあるだろうが、一番大きい理由
その点に論点が向かう限り、革新的なビジネスに挑戦するアーティストと、旧態依然とした者たちの無理解の戦いという図式
では彼が向かってほしくない方向がどちらかは明らかで、
クラウドファンディングという他人の金で、
作り上げた成果を持って世のクリエイター、購買者を「金の奴隷」と嘲った西野亮廣の尊大さ、あさましさの是非を問われる
ことを彼は一番恐れているのである。
彼の手元に何千万か残ったところで、絵本商売人がアーティストを搾取してうまいこと稼ぎましたね、という評価では西野氏
「なんだ、偉そうなこと言って自分で描いてないんじゃん」
といった個々の評価は、ダメージを与えている手応えはないかもしれないが、エゴサに余念のない西野氏にはちゃんと届いている。
私はドブスだ。
それこそ子供の頃からブスが原因でいじめられるレベルにドブスだ。
が、せめて努力はしないとと思い、髪をとかすだけでも色気づいてると嫌味を言ってくる実家から離れてからダイエットをし、皮膚科に引き、どれだけとかしてもうねる髪は縮毛矯正をかけメイクをした。
そのおかげかなんとか彼氏もでき、あからさまないじめに遭うこともなくなった。
が、ぱっと見美人風だがよく見たらブスなので、道行く男に悪口を言われることが多々ある。
「パッと見100点だと思ったのによく顔見たら30…いや、10点wwwwwwwww」
勝手にうちの駐車場にたむろっていた中学生が私の顔をじっと見て「……ぶっさwwwwwwwwwwww」
職場で本当に顔が美人な子と比べられ、本当の美人とは全然違うとなじられたこともある。
悪口には慣れるということはない。何度言われても傷つく。
少し前、ピピピピピという人のブログで「モテるブス」「モテないブス」についての話があった。
モテるブスは自分をブスと認め、美人ぶらないというような内容だった。
ブスのくせに髪をストレートロングにし、女子アナのような恰好をし、外ではお世辞で「上品で真面目な人」と言われるようなタイプの私はブスの良さをかき消してしまっているようだ。
開き直ってお笑い芸人みたいな感じにした方が周りから好かれやすいのだろう。
が、私はもともと内気で大人しく、趣味も料理や手芸、好きな食べ物はケーキやパフェ、ラーメンや焼き肉は胃もたれするから苦手といった、悪い意味で女女したタイプだ。
ブスの見た目にこの性格趣味は確かに滑稽だが、これが素の自分なのだ。
しかし、生きづらさを感じているのは事実なので、なんとか人格趣味服装を変えていくべきなのだろう。
てはじめに髪を茶色に染めショートカットにしようと思う。ハリセンボンの春奈っぽい感じのマッシュなやつに。
胃を強くしてラーメンを食べてもおなかを壊さないようにしよう。
例の人の発言、作品を作って売って生活している人からすりゃあたまったもんじゃないでしょうね。
そりゃお前はお笑い芸人として稼いでいるし、絵本の収入がなくなったところで何も問題ないだろうが。
こっちは作品作って、見てもらって、気に入ったら買ってもらって、それで生活してるんだよ。
お前みたいに名前売るためだけに絵本売って、その知名度とか高感度活かして本職の芸人で稼げるヤツとは違うんだよ。
外様が勝手にやってきて業界のこと生意気に語ってんじゃねーよこの野郎。
……っていうのが、まさに今流行りのFinTech(フィンテック)で起こっていることなんだなぁと。
そりゃお前はアプリ広告や購買データの販売やネット通販で稼いでるし、決済手数料がなくなったところで何も問題ないだろうが。
こっちは口座管理して、信用確認して、複数の金融・決済会社とつなげるネットワーク作って、それを使ってもらった手数料で生活してんだよ。
お前みたいにビッグデータ手に入れるためだけに金融入ってきて、その知名度と情報技術活かして本職のネット通販で稼いでるヤツとは違うんだよ。
外様が勝手にやってきて業界のこと生意気に語ってんじゃねーよこの野郎。
「紙の本買わなくても、ネットでタダで読めるんだやったー」だし、
「振込手数料負担しなくても、個人間で資金移動できるんだやったー」ですよ。
絵本で、映画で、漫画で、音楽で儲ける必要がない人たちだから。
要は作者~読者を繋げりゃいいんでしょ? じゃあPixivで、ニコニコで、なろうで。基本無料にして、他の儲け方考えるわ。
要は人とお金と商品が繋がりゃいいんでしょ? じゃあ個人間送金は無料で、他の儲け方考えるわ。
ってことなんですよ。
ビジネスとして「印税」「手数料」を収益源として見込んでないから。
だから「お金の奴隷解放宣言」、「印税の奴隷解放宣言」、「手数料の奴隷解放宣言」ができるわけですよ。(開放宣言の人は他の仕事で稼いでいるからですけど。)
だから、今回のお金の奴隷解放は自分の属している業界に置き換えて考えてみるといいと思います。
(以下蛇足)
とは言え大手の人って「ワシらは長いことかけて築き上げてきた信用と実績があるからな。手数料は信頼代や。外様なんか相手にする必要ねーわ」とFinTech企業を相手にしてないところが多いですね。
で、お前の言うその信用ってお前が築いたもんなん? お前はその信用を維持するために何をしてきたん? 先代の築いた信用に居座ってるだけじゃないですよね?
という感じですよ。
でも、創作している人らをバカにしたような発言をしたアイツは許さない。
カネを取ることは悪じゃねーんだよ。生きるために必要なことなんだよ。
作品の人気、作家としての信用は紛れもなくその人自身が築き上げたものなんだよ。あの人らはマジで作品作りを中心に生きているんだよ。
……あなた達はもう少し上手に生きてください。
一晩過ぎて自分自身だいぶ心が傷ついていることに気がついた。
母曰く僕が生まれて初めて覚えた曲(童謡とか抜いて)がSMAPの「俺たちに明日はある」だったそうだ。伝説の教師。
そこからずっとファンだった。CDも全部持っている。(ライブは結局一度も行けなかったが…)
年始の解散騒動を発端に、2016年一年間通して(あるいはもっと前から)各種メディアがSMAPについて有る事無い事好き勝手書いて小銭を稼いでいた。
スマスマという長い歴史のある冠番組が終わった今も"本当の関係者"は誰も納得のいく説明をしてない。
そこにはただ"食いつきの良さそうなウワサ"があるだけ。
結局こうなってしまった以上、情報は個々人で取捨選択して自分が一番納得するストーリーを飲み込んで落とし前をつけるしかないのだろう。
僕はスマスマスタッフの愛を感じるとともにフジテレビサイド?のエゴ、印象操作を感じずにはいられなかった。
番組前半はこれまでのSMAPの歴史をスマスマの時系列を追って懐かしい映像とともに振り返った。
放送前から森くん脱退の件や稲垣吾郎逮捕、草なぎ剛逮捕の件は果たして放送するのか?と気になっていたが、そこも包み隠さず放送した。
とりわけ稲垣吾郎逮捕に関しては、これまでテレビではあまり放送されてこなかった逮捕報道翌日のナゴヤドームの奇跡まで説明していて「すごいとこまで突っ込むな!」とただただスタッフに感心した。
これも話題になっているがソフトバンクのCMも素晴らしかった。
あの1分のCMのためだけに急遽スタッフが素材を編集し、北大路欣也さんがナレーションを入れたかと思うと目頭が熱くなった。
27時間テレビのライブも、僕自身はファンだからもう何度も録画した映像を見ていたので泣きこそはしなかったが、いつまでたってもCMが入らないのでソフトバンクこの尺全部買ったのかと、ここでも孫正義の株が上がった。
で、だ。
鳴り続けるオルゴールとスマスマ以外のSMAPが活動したテレビ番組の総集編。
結局ファンもそうでない人も何がしたいのかよくわかんない西山アナが仕切っているFAXのコーナー。
もう、滑ってるとかそういう次元じゃなかった。
これは推測の域を出ないけどTwitterなどで多くの人が言っていたようにあそこはスマスマスタッフではなくフジテレビの人?が携わっていたのだろう。
ただ一視聴者としてそれまでの熱が一気に冷めてしまったのは事実だ。
まだ、これが逆の流れならうまく受け止められたかもしれないのに・・・。
そして最終回にして今回唯一の撮り下ろし「世界に一つだけの花」。
僕は期待していた。何がメンバーが話してくれるんじゃないか、別れの挨拶なのか「ドッキリでしたー!」なのか怒りのメッセージなのか。なんでもよかった。
ファンからすれば「何よ!テレビや事務所の都合でこんなめちゃくちゃな最終回持ってこられて最後に喪服みたいなスーツ着たメンバーで歌うって!」って感じだし、ファンじゃない人から見てても相当寒い演出だっただろう。
それが例えば事務所やテレビ局サイドの圧力あってのことなのか、はたまたメンバー自身の意向なのか、一般人には想像しかできないが、僕には「言葉で仕事をしてきた中居正広」という人間がスマスマ最終回で何かを語ることでまたメディアの餌にされることを危惧して「何も語らないこと」を選んだように思えた。
最終回あの場所で「今まで応援ありがとうございました!さようなら!」あるいは「ドッキリでしたー!」(こっちがよかった)とにかくなんでもよかった。
メンバーからの、リーダー中居正広からのメッセージを全国の視聴者は望んでいた。しかし、そうはならなかった。
最初に僕は情報は個々人が納得できるよう取捨選択しなければならないと言ったが、ファンとして好き勝手に予測するなら、中居正広はスマスマ最終回で何も語らないことで「SMAPを殺した」のだ。
一年間いやもっと長い間大人たちに振り回され続けたSMAP、ゴシップにもワイドショーにも苦しみ耐え抜いたSMAP、その最期を中居正広の涙が殺した。
テレビで活躍してきたスターアイドルが最後に何も語らず(あるいは語ることが許されず)ああして去って行った事実がテレビっ子の僕を深く傷つけたのだ。
テレビが嘘や欺瞞やデマで溢れているなんて百も承知で、それでも笑えてた僕は目の前で自殺したSMAPのせいでこれからしばらくはテレビで笑えないだろう。
SMAPとはまた別に大好きだった嵐の曲も、今回の事務所のいざこざ(これもゴシップの域を出ないが)で対立勢力がどうだとかあったせいで聴けそうにない。
(iPhoneに入っていた嵐の120曲近い曲目は今朝消してしまった。)
これまでだってスマスマやライブ以外は個々人の活動がメインだったんだし、素直に来年からは個々人の活動を応援しなよ、という人の声がある。
僕はSMAPの中居正広、SMAPの木村拓哉、SMAPの稲垣吾郎、SMAPの草なぎ剛、そしてSMAPの香取慎吾のファンなのだ。
(多分こういう感覚ってSMAPじゃないにしても誰しもが好きなミュージシャンやお笑い芸人やスポーツ選手に抱く感情だろう)
映画の内容どうこうっていうか、主人公の名前が「勝俣慎吾」っていうんだよ。演じてるのは、「佐藤隆太」なんだけどさ。
俺は、この映画を見る前から、この俳優さんを「勝俣慎吾」だと思ってたんだよ。「お笑い芸人の勝俣さんが主演の映画なんだ」って思った。
勝俣慎吾っていう俳優さんがいて、「あれ?お笑いじゃないんだな今回は」って思った。
見ている内に、どうやら、この登場人物も、「勝俣慎吾」らしいんだよ。
「へ~、登場人物に俳優さんの本名使ってるんだw」くらいに思った。
見ている内に、「ふ~ん、俺が子供のころからいる芸人さんだけど、今で言えばこういう風な人がモテるんだよなあ。(俺は28歳)」と思った。
子供のころからテレビに出てる人は、なんとなーく、普通に思ってたけど、やっぱテレビに出るだけあって、結構頑張ってる見た目なんだよなと。
で、見終わってから、エンドソング流れるけど、「主演:佐藤隆太」。
え?
佐藤隆太って聞いたことあるけど、出てきてたか?佐藤隆太ってどういう顔だっけ?
勝俣州和ってお笑いの人はいるし、確かに俺もこの人は知ってるが、この人じゃない。
え?最初から「佐藤隆太」って名前だった???違うでしょ、君、「勝俣慎吾」って名前の人だったでしょ?
「佐藤隆太」って確かイケメン俳優で、ダルビッシュみたいな顔してた人じゃなかったっけ?「佐藤隆太」については全然知らないけど、確かダルビッシュみたいな顔だったような、、、。
いや、絶対この人は、「しんごちゃん」って昔から呼ばれてたよ。
おかしい。
デジャブとかじゃない。
デジャブなら、「気がする」だけど、俺はこの人が芸人として芸をしたのを絶対に何回も見ている。
目を内側によせて、「慎吾ちゃーん」って言いながら、ホホに両手をあてる、そういうギャグを絶対やっていた。
なんか、三枚目がイケメンセリフ吐くみたいな、そういうギャグやってた。西部警察のパロディみたいなのもやってた。
ブラックビスケッツとか、ホワイトビスケッツがやってた番組、『うりなり』にレギュラーだったと思うし、社交ダンス部で踊っていたはず。
本当に怖い。どうなってんだ。
世界線が変わったってやつか????異世界に飛んだ系のオカルト話みたいでマジで怖いんだが。
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どうやら、
俺が見ていたのは、柳沢慎吾。
メッチャよかった。
まだ週休2日制ではなく、土曜日も学校に通うのが当然だった時代。朝、突然に級友のしんちゃんによってもたらされた衝撃的なニュースに、クラス中が騒然となった。
「今日、公民館にテレビに出てる芸能人が来るんだってよ!お笑いの!!!」
一大事である。人口1万人にも満たないこの小さな町に、演歌歌手以外の芸能人が来るのだ。帰ったら急いで家族にも伝えないと!あと、色紙だ!色紙以外にサインを求める事はマナー違反だというのは田舎の小学生でも知っている。家に色紙があるか確認しなければ。その日は授業の内容など全く耳に入らなかった。僕としんちゃんは開演時間も入場料もわからないそのイベントに、何故か参加出来るという確固たる自信を持って、下校後のミッションを練り上げていた。
「じゃ、30分後に公民館前に集合な!」終業のチャイムと同時に僕らは散開した。
公民館前に到着すると、そこはもう沢山の人であふれ返っていた。昼間からこんなに人が集まるなんて、芸能人ってやっぱりすげー!!興奮する僕の横で、しんちゃんがぽつりと言った。
「あれ?何か大人ばっかりじゃね?」
言われてみれば確かに大人がずいぶん多い。大人8に対して子供2くらいの割合だ。しかも、中高生がほとんど居ない。子供は小学生と幼稚園児が大半だった。そして次の瞬間、唐突に思った。
「これ、僕たち中に入っていいのかな?」
今更である。もちろん入場料やチケットの類は持っていない。田舎の小学生に現金を持ち歩く習慣など無い。持っているのはマッキー1本と色紙1枚のみ。少しずつ不安が大きくなり、入り口から中の様子を伺っていると、親戚のおじさんと目が合った。おじさんはこちらに気付くと手招きした。どうやら入っていいらしい。
おじさんの明るい声に背中を押される形で僕らはホールに足を踏み入れた。
暗いホールにぎっしりと並んだパイプ椅子。席はほぼ埋まり、少し蒸し暑かった。ステージには演台と大きな花瓶。左手に司会者と思われる女性が資料を持って立っている。
しんちゃんの言葉にクスクスと笑いながら、僕達はその時を待った。これからここにお笑い芸人が来る!面白い事が起こるんだ!!!
定刻となり、司会者の挨拶からその会は始まった。何人かの偉そうなおじさんが代わる代わる話をした。その話は校長先生の話より退屈だったけど、僕達は芸能人への期待で何とか持ちこたえていた。子供の興味と集中が途切れそうになる間際、司会者が高らかに宣言した。
「さぁ、それでは皆様お待ちかね、本日のスペシャルゲストをご紹介しましょう!!」
僕らは背もたれから背中を引き剥がし、ステージの右側を凝視した。
次の瞬間、そこにはスーツに身を包んだ一人のおばさんが立っていた。薄いピンクのスーツ。左の胸にはブローチがキラりと光っていた。にこやかに手を振ってステージの中央へ進んで行くおばさん。挨拶をして、さっきまでのおじさんたちと同じような話をするおばさん。突然泣き出すおばさん。泣きながら微笑むおばさん。誰かに感謝しているおばさん。拍手喝采を受けるおばさん。深々とお辞儀をしてステージを後にするおばさん。
僕らは最後の最後まで期待していた。笑っていいともやバラエティー番組で見せる、女の人があまりしちゃいけない様な格好から繰り出すギャグを。トーク番組で披露するような、面白いエピソードを。きっと、どこかで、必ず、会場を沸かせるギャグを披露してくれることを。
「…面白いこと、1っこも言わなかったな。」
「うん…。」
僕は手に持った色紙とマッキーを見つめながら何となく相槌をうった。
朝、学校で感じた胸の高鳴りは何だったのだろう。僕はどうしてあんなに必死になってお母さんに色紙をねだったんだろう。
横を見ると、しんちゃんの悲しそうな顔が目に入った。朝一番に「芸能人が来るってよ!」と教えてくれたしんちゃん。あのときのキラキラした瞳の輝きを思い出すと胸がチクリと痛んだ。
「俺知らなかったけど、芸能人ってテレビに出てない時はけっこう普通なんだな!!」
しんちゃんは、この沈んだ空気を打ち消そうと、精いっぱい明るく言った。その明るい声が、なおさら僕を悲しくさせた。
「しんちゃんさ…」
「ん?」
僕も精いっぱい明るく言った。
「いいよ!!でもピノ禁止な!!」
しんちゃんがキラキラした眼で答えた。僕らは全速力で駆け出した。
某脳科学者がツイッターで、日本のお笑いは批評性がなくてつまらないって書いてた。
批評性云々はともかく、自分もお笑い(てかお笑い芸人さん)は昔から苦手で、
芸人さんたちの上下関係に基づく、イジリイジられとか、目立つためのアピールとか
(そのおかげでM-1とか長らく見ず嫌いだった)
で、さっきふと、テレビとかあまり見ないのでよくわからないのだけど、
芸人さんたちによるものだったらどうなってたんだろうな、とか想像してみたんだ。
なんとなく長寿番組にはなって無かっただろうって思った。
でも自分は、同じジャニーズでも学校へ行こうとか苦手で、見てらんなかったので、
出てくる人と企画の両方がよくないと面白くないんだろうなって思った次第。
お笑い芸人の上下関係に基づくイジリイジられを楽しめる人って、どういう人なんだろう?
現実世界でイジる担当しかやったことない人?イジられるのが好きな人?
上下関係のある世界と無縁の人?現実世界からテレビの世界を切り離して考えられる人?
どうなんだろうな。
ゴールデンタイムの視聴率でNHKが一位になったという記事がホッテントリしていて
やれ最近の民放はつまらないのどうのというブコメが上位にあがっているけれど、
そもそも、テレビは見るほうも出るほうも高齢化しているというのが正しいと思う。
その昔、NHKというのは、おっさん、おばちゃん、じいちゃん、ばあちゃんが見るチャンネルだったが、
そこは変わっていなくて、
今時の若いもんは、テレビなんぞ見なくなったということではないのか。
かつてテレビの黄金期、「東村山音頭」で一斉風靡したとき、志村けんはまだ26歳だった。
「全員集合」が終わったときですら、まだ35歳だったのだ。
いかりや長介ですら54歳。いまの明石家さんまより6つも若いのだが、あの貫禄はなんだったのだ。
なお、「ひょうきん族」が始まったときのビートたけしは34歳、
今、一番テレビで大手を振っているお笑い芸人は40代以降だろう。
そんな、おっさんがはしゃいでいるバラエティなど、そりゃ若者が見たって面白くもないだろうなあ、と思う。
「ガンダム」の話なぞ、当然の「ベースの知識」として語っていたり、中森明菜の物まねをなんの説明もなくやっていたりするが、そんなもん、若者がわからなくて当然である。
エヴァンゲリオンでさえ、初回放送から20年以上たっているのだ。
うちの祖父母は、割合固い人で、「全員集合」や「ひょうきん族」を、「くだらない、つまらない」と切って捨てていたが、
あれば、僕らが今、ユーチューバーを「くだらない、つまらない」と思ってしまうのと同じことだったのだなあ、と、最近感じている。