はてなキーワード: 理研とは
→ Twitter で医師を拾ってきて Google のソフトウェアエンジニアにするだけの簡単なお仕事 - 白のカピバラの逆極限 S.144-3
「超優秀な人間が、地方の劣った人間を見下すな」という趣旨だ。
元の文章に「田舎初段」という言葉が出てくる。素人よりは段違いに上手だが、その道のプロから見ると桁違いに下手、という真ん中を指して揶揄した言葉だ。頂上感が自尊心のコアになっている時に尊大な田舎初段を見ると、本物はどういう事か教えてあげるために、ちょっと捻ってみたくなる気持ちはよく分かる。
 ̄ ̄
聞く方は羽生名人が田舎初段を捻り潰すのを見るような後味の悪い感じがしてしまうものだ。
羽生名人はそんな事をしなくていい。あなたの優秀さはそんな事をしなくたって周りの人に伝わっているから大丈夫ですよ、と言いたくなる。
まったく低レベルの曲解なので、呆れてしまう。元記事のブコメも、同趣旨の理解が多いようだ。しかしそれらはすべて誤読である。では、正しくはどう理解するべきかを示そう。
「田舎初段」という言葉の意味は、「井の中の蛙、大海を知らず」というのとほぼ同義である。ただしそれに「自惚れ」「過信」という意味が加わる。
そして、その言葉で示されるのに典型的な事例は、「素人よりは段違いに上手だが、その道のプロから見ると桁違いに下手、という真ん中」ではない。つまり、「二流」や「一流半」ではない。
では何かというと、たとえば菅首相だ。
・ 自分はすごく頭がいいと自惚れる。
最後の一点に限っていえば、はてなーの好きな「トンデモ」という用語に当てはまる一種だ。しかも、自惚れの度が強い。
こういう人間が、周囲の反対を押し切って、「緊急事態宣言の解除」とか、「GoTo イート」とか、「ふるさと納税」みたいな自己流の方針を貫徹する。そして、そばにいるエリートが反対すると、そのエリートを左遷する。他人の言うことを聞かないのが絶対的に正しいと信じている。
ここまで言えば、わかるだろう。元のブログ記事は、「二流の人材を侮辱している」のではない。「一流の人間たるもの、田舎初段になってはいけない」というふうに、一流の人間に向かって「戒めの言葉」を示しているのだ。
なにかの分野では一廉でも別分野では田舎初段に容易になるということです。
学者とかでも、他分野に友人が十分にいれば、そう踏み間違えないが、孤独ならばどんどんおかしなことを言い始めます。
これを止められるのは、かなり簡単に狂うことを意識していることと分野を超えた人間関係があることが揃っている場合くらいでしょう。
普段から様々な分野の学者と話し合っていると、およそまともではない専門家の意見がネットで飛び交っているのがよく分かります。
ここでは田舎の二流人間が批判されているのではない。一流の専門家が批判されているのだ。どう批判されているかというと、一分野に偏ってタコツボ化した専門家だ。そういうタコツボ化した専門家が、
「なにかの分野では一廉でも別分野では田舎初段に容易になるということです。」
の事例となるのだ。
たとえば、Wikipedia の英語版にも掲載されるような、非常に優秀なプログラマーがいる。
→ https://en.wikipedia.org/wiki/Kohsuke_Kawaguchi
こういう超優秀なプログラマーでさえ、日本語をまともに理解することができず、見当違いな批判を書いてしまう。自分の分野から、ちょっとはみ出ると、まともに理解することもできなくなってしまうわけだ。これこそ、元記事で「あってはならない事例」として示された例だ。
――
元記事を「超エリートの自慢」「頂点に上り詰めた人が他人を見下す」「狭い領域で頂点に立って自惚れている」というふうに受け止めるのは、勘違いだ。
では、どう受け取るのが正しいか?
元記事では、普通の人々は、まともに視野に入っていない。それらは言及外であって、良いとも悪いとも言っていないし、見下してもいない。もともと視野に入っていないのである。
視野に入っているのは、エリートクラスの人々だけだ。そして、そのなかで、どういうふうにあるべきかを考えている。
そのとき、彼自身は、自分を「エリート」とは考えていない。むしろ「エリートの中の落伍者」と考えている。元記事のそのまた元記事になった人もそうだが、「東大理3から、プログラマーに転じた」という経歴らしい。これは、医学の道でも、プログラマーの道でも、どちらでも大成しなかったということだ。筑駒や理3の卒業生の中では、(やや)落ちこぼれ組に入る。
はてなー中では、「グーグルに勤務して年収 3000万円」というのは、「凡人社会の頂点にいる」というふうに見えるのだろう。だが、筑駒や理3の卒業生の中では、医者としてもプログラマーとしても大成しなかったというのは、(やや)落ちこぼれ組に入るのだ。
ちなみに、私の知人(同級生)の多くは、国立大学教授や理研の研究員として大成している。世間的には超一流の肩書きを持つ。そういう仲間と比べると、今回の人々は、頂点どころか、(やや)落ちこぼれ組というしかない。威張れるのは、年収だけだろう。(公務員研究者は、年収が高くないので。)
元記事を書いた人や、そのまた元記事を書いた人は、非常に優れた才能の持ち主だ。(後者は高校時代に数学オリンピックに出たらしい。)しかし、その生まれ持った才能を生かすことには失敗しているのである。才能は素晴らしいが、才能を生かすことには失敗したのだ。
そして、そのことを、私は批判しているわけではないし、侮辱しているのでもない。「人生の選択肢で道を間違えたね」と感じて、「可哀想に」と憐れみを感じるだけだ。「私も道を一歩踏み間違えたら、こういう無駄な人生を送っていたかもしれない」と感じて、自分の幸運を感じることもある。
(蛇足)
たぶん、道の選択を間違えた人と、成功した人との違いは、周囲の人々の影響の差だろう。周囲に素晴らしい人がいれば、道をあやまたずに、正しい道を進むことができる。そして、そういう機会のなかったエリートには、同情を禁じえない。
私はグーグルのプログラマーなんかにならないで済んだが、それは本当に幸運だった。(そしてそれは、人生の最初に、素晴らしい女性との出会いがあったからなんだ。そしてまた、高校時代に、素晴らしい教師を知りえたからでもある。それは優しい親切な教師ではなく、星一徹のような鬼教師だったが。)
あった・なかった以前の問題で、言ってることやってることそれ自体が無茶苦茶なのだ。
どれほど無茶苦茶で出鱈目なことをやっているか、一例をあげよう。
西岡昌紀、木村愛二という1990年代にホロコースト否定でちょっと話題になった人がいる。この二人は、ホロコースト否定の仲間である。
私は西岡とTwitter上でつい最近やり取りした。必要以上に詳しい内容は書かないのでそんなもんだと思って読んで欲しい。
西岡の本に否定論界隈では有名な話が載っている。「137人のドイツ人捕虜の睾丸が修復不可能なほどアメリカ兵によって蹴られた」という虐待話である。その話自体はどうでもいいので割愛する。
この話が、いったいどこに書いてあったのかがポイントだ。
この時は西岡本を読んでなかったので、西岡のブログしか知らなかった為、「文献名も知らないのに読めるわけねーだろ」と私は噛み付いた。
すると、西岡、文献名を示した。後でわかったが、その文献名は西岡本に書いてあったそのままである(実際には一文字抜けてたが)。
ところが、どういうわけかなっかなか見つからない。でも、Googleさんは偉い! ちょっとくらい単語が違っても似たような候補を勝手に探してくれるのである。
それは、アメリカ合衆国の政府サイトだった(ちなみに彼らの著書の執筆時である1990年代には存在しなかった)。
そしてそれは確かにあった。しかし、資料名がかなり違う。西岡の言った文献名の「Report」は実は「Record」だった。しかもそれは、正しく記述したとしても、文献名そのものではないのである。
実は、西岡が書いた文献名は、その資料のいわゆるヘッダーに記載された文字だったのである。
どこの世界に、文献名ではなく、ヘッダーを記載するバカがいる?
なぜそうなったのかは、実はその資料、木村が西岡にそのコピーを渡したものであり、木村が国会図書館で簡単に見つかった!と自著で豪語していた資料だった。
つまり、木村は西岡にきちんとした文献名を伝えなかったのである。そして西岡は木村に確認もしていない。ヘッダーに書いてあったからそれをそのまま脚注文献名に書いたのだ。アホか……。
木村は西岡に「ここにあのネタが書いてある」しか言わなかったに違いない。
私は、西岡に怒った。違う文献名を書くとはどういうことだ? と。でも西岡は、木村が国会図書館にあると言ったから、とか言い張るのである。お前著者だろ? 文献名も知らないで自著に全然違う文献名を記載したのか? と文句言ってやったが、まだわかってないようなので、私は今度は国会図書館をネットを通じて探した。
ところが。
正しいと思われる文献名で検索しても、まるで見つからないのである。この辺の事情はちょっとややこしい。アメリカの政府サイトの文献名が正しいとは限らないからだ。その文献名はあくまでも、ネット上の資料を示している。
それで、文献名の単語の組み合わせを工夫したりして、延々と探し続けたが、今度はそうすると、ヒット件数が多くなりすぎたりして、どれがどれだかさっぱりわからない状態が続いた。
イライラしてきた私は西岡に「木村のやつ嘘ついてんじゃねーのか? 国会図書館に見つからないんだが」と言ってやったが、西岡の木村に対する信頼は揺るがない、絶対にあるはずだという。
そこまで言うならと、国会図書館に直接問い合わせていやったら……あった。しかし、外部からは絶対に検索できない文献名だったのである(国会図書館もどうかしてると思うけどw)。
見つかったので、正直言えば、ある程度は嬉しかったが(自力で苦労して見つけたから)、それだけ苦労させるとはどう言うことだ? お前が知ってなきゃおかしーだろ? と西岡に噛み付いたらやっと西岡は謝ったのである。
だが、疑問は終わっていない。その文献は、アメリカ議会記録というもので、議会での議論を記録するものである。アメリカ政府は1800年代から延々とずっと記録し続けている(大抵の国はそうしているが)。そして適当な日数分ごとに製本してまとめて保管している。
だから、膨大な量の議会記録が存在するのである。一冊あたり、私が見つけたその冊子だけでも一千ページはゆうに超える。それが数えきれない冊数が存在する。
もちろん、「137人の睾丸」事件のあった年代はある程度は絞れる(これ自体は別の本に載っている)。しかし、それでもどう考えても何千ページもの記録から探し出さねば絶対に見つからない。
と言うよりも、その情報が議会記録にあるとどうして知ったのだ? もちろん時期も含めて。
つまり、木村が自著で豪語したような「簡単に見つかった!」は絶対にあり得ないのだ。それは誰かから情報をもらったからとしか考えられないのである。多分、その情報が上院議会のある特定の日の議論にあるとだけ教えてもらったのだ。
そんなもん、英語さえわかれば誰でも簡単に見つけられるわ!バカタレ!
それは、細かくいうと第95巻のvol.1という108ページ分の塊の中にある、冒頭ページから20ページ分くらいのところにある情報だったのだ。
俺でもあっさり見つけたわ!バカが!情報を知っていたからだ。西岡の言ったヘッダーにある日付分だけを探したのである。
どうして、そこの情報を欧米のリビジョニストから教えてもらえたか(もちろん知り合いだからだが)、は簡単に理解し得る。欧米のリビジョニストの多くがお気に入りにしているネタであり、元ネタの記載が事実上そこにしかないからだ。
元々はある古い雑誌の記事なのだが、1949年当時、議会の中で、その記事のことが話題になり、議会記録に記録することになったからである。
当時の雑誌を入手するのはアメリカ人ですらかなり難しいそうだ。
が、有難いことにある程度の規模の図書館なら、議会記録は存在するので、アメリカ全州で簡単に確認可能なのである
日本でも、国会図書館にだけは存在する(その後調べたら、戦後占領政策をやったGHQが米国政府議会記録を日本の国会図書館に保管するようになり、この業務が停止されず延々と続いたそうだ。ただし、今はアメリカ政府のサイトで容易に閲覧可能なので、近年の議会記録については国会図書館に保管はされていないと思う)。
このことを知っていたら、情報だけで日本人も容易に見つけられる。
ところがまだ話は終わらない。
西岡とこの話を最初にしていた時、私が言いたかったのは、上院議会のことではなく、その事件に関する公聴会の報告記録の方だった。ところが、西岡は上院議会と公聴会の区別がついていないのだ。だから、西岡は自分が所有している木村からもらった上院議会記録のコピー用紙の中に公聴会の記録もあると、訳のわからないことを言うのである。
そんなもんある訳ない。だって、公聴会の報告記録は上院議会記録とは全く別のものである上に、議会記録は日本にも関係するから国会図書館に所蔵するとしても、細かい公聴会報告までいちいち国会に所蔵するわけがない。しかもその公聴会報告は「137人」事件を否定するものでああり、リビジョニストが知っているわけがない(知ってたら、リビジョニストに都合の悪い話だから、自著に絶対に137人事件は書けない)。これを何度言っても、西岡は理解しないのである。
こんな連中の書いた本の内容を、どうやって信じる? だから否定論は出鱈目なのだ。あった・なかったの問題のレベルではないのである。欧米のリビジョニストの論文も幾らか読んだけど、まじで酷すぎるよ。フォーリソンなんか読んでるこっちが頭がおかしくなりそう。ただし、基本的な文献名などの記載は、欧米の方はしっかりしてる。西岡・木村よりはその面では欧米の方が信頼できるけどな
東大理1入ってドイ語選択して理学部入るようなインテリになりたかった。
どうしてそう思うようになったんだろう?
高校1年生の頃はバリキャリの丸の内OLになるんだ♪とか言ってたのにな。
理系に行くと決めたからか、社会科見学で理研的なとこに行ったからか、思い出せないな。
実際東大じゃないけど理学部行ってドイツ語取ったけどさぁ、そんなインテリにはなれなかったなぁ。というか女だし。むしろオタサーの姫の方がなりやすかったわ。
自己イメージの修正が必要である。この世界には私よりもよっぽどインテリに溢れているから、この中じゃ私はポンコツ技術者だなぁ。私よりも頭の回転が早く知識が広く知識欲に溢れる人ばかりだなぁ。ポンコツ技術者だけどどうにか食い扶持を稼いでいきたい。
すんごく脈略が無いな。まあいっか。
なるほど、久里浜医療センターは、ゲーム障害をWHOに提案し、それを元に国の調査予算を獲得して、最終的には医療機関としても予算獲得するといったことが大きなターゲットなのか。このマッチポンプ感…。
そりゃ樋口氏が香川ゲーム規制条例にも賛同するわけだ。 https://t.co/H3OUk1j1h3— 新清士@VRゲーム専門会社 よむネコCSO (@kiyoshi_shin) 2020年1月23日
草。
場合によっては久里浜医療センターのみならず、厚労省まで飛び火しそうやね。
何かの拍子で首に何かが絡まったり、屋上から落ちたりする様な事態が起きなければいいけどね。
理研の様な事が起こりそうな気がしてきた。
しかしこのマッチポンプ感どこかで見た近視感があるなと思ったら、児童ポルノ規制におけるユニセフやキリスト系フェミ団体の活動とかとそっくりなんだよね。
でも当初からこいつらのWHOへの強い働きかけの結果認められたとか、その癖に学術論文もなく、その症状の因果関係や定義すら不明確なのに名称のみ認可された点もおかしいと指摘されていたし、この樋口氏自体、子供にすら麻薬治療薬をぶっこめとか言っちゃうようなちょっとアレな人物である事も指摘されていたりしたしね。
ただでさえ日本のゲーマー以外にも一般人すらこの規制に対しての懐疑的意見多いし、空気の読める国政地方問わず議員すら流石に問題視しているのにWHOの段階でIGDA、DiGRA、HEVGAまでが反対意見を出しているとか随分面白い事態になってきているなと言うのが正直な感想。
今ですらここまでボロが出ているからこれからもどんどんゲーム障害についてはボロが出てきそうだし、まだまだこの件については色々と話が出てきそうだなと思う。
理研の元研究員。STAP細胞発見で「リケジョの星」から、それが虚偽だったことから「論文偽装」に。AO入試から始まり一連の論文不正、笹井芳樹に取り入り最終的に自殺に追い込むなど悪質度は高い。近年のこの手の女性の草分け的存在。
医療系スタートアップ「セラノス」創業者。血液一滴からあらゆる病気が発見できるという触れ込みだったが、実質は詐欺だった。ジョブズかぶれで年中黒いタートルネックを着用。まさにアメリカの小保方、あるいは小保方氏が日本のエリザベス・ホームズとも。
家電ベンチャー「UPQ」創業者。優れたデザインとコストパフォーマンスの高い製品が特徴だったが、そのほとんどでリコールが発生。技適未取得やスペック偽装、バッテリー爆発などまともな製品を作れていない。
秋葉原の寿司店「なでしこ寿司」店長。当初ガールズバーのようなコンセプトの寿司店だったが、なぜか「女性差別と戦う寿司店」に。しかし衛生管理に問題があったり、ホームページやSNSの写真がパクリだったり次々問題発覚も逆ギレ炎上
銭湯絵師。モデルとして活動する一方で銭湯絵師の丸山清人に弟子入り。大正製薬のイベントでのライブペインティングが盗作だったことから、過去の作品の盗作も発覚。
男性でも古市憲寿や落合陽一や小泉進次郎のようにいないこともないが、日本が男性優位社会のせいもあり、あらが目立ちにくい。またこの手の女性が、ある種の女性性を武器にするのも男性優位社会という一面もある。エリザベス・ホームズはアメリカ人だが。
一部削除
スパコン事業仕分けの議事録と音声データは以下のサイトに置いてある。
https://blog.wktk.co.jp/ja/entry/2015/06/08/renho-super-computer-siwake
事業仕分けがはじまったのは民主党政権時代で、記憶が曖昧なのだが、自民党政権時代の無駄を仕分けしようと意気揚々と打ち出された政策だったと憶えている。
事業仕分けで話題になったのはスパコン関連の蓮舫氏の「2位じゃだめなんですか」発言で、当時テレビ等のメディアではこの発言がピックアップされ何度も報道された。スパコンの事業仕分け自体は「予算計上見送りに近い縮減」として事実上の凍結で終わったのだが、このときの蓮舫氏の発言が非常にフォーカスされ報道された。民主党政権が力を入れる政策で、その担当に抜擢されたのがズバズバ物言う気の強い蓮舫氏だったが、そのくせ科学技術に疎い素人質問で事業仕分けが進み、本来は必要な事業も事業仕分け対象にされてしまったと、事業仕分けが残念な形で行われてしまったという風に報道されていたと記憶している。
Wikipediaの事業仕分けでの議論の項を読むと、評価者(仕分け人)側の評価コメントは以下のようになっている。
色々書いてあるが、つまり「方向性・必要性を再考せよ」ということだ。というのも、当時の状況では「そもそもスパコンプロジェクトが本当に完成できるのか疑問」だったからである。
当時の状況としては、NEC・日立・富士通が3社共同で開発するはずだったが、NECと日立が経営の不振を建前上の理由で撤退し、富士通1社で開発をするという状況であったからだ。「建前上」と書いたのは、企業が事業を撤退するときの理由はたいてい経営上の理由を建前とするからだ。このことは事業仕分けの会議でも指摘されている。しかも撤退条項なしなので、特に罰則はなかった(たぶん)。その後、理化学研究所は賠償請求をNECに対してするが、逆にNEC側に未払いの開発費を払う形で和解している(なんじゃそりゃ)。ともかく、この「撤退条項なし」というのが嫌な予感しかしなくて、そんなゆるふわな契約でプロジェクトを進めていているのか?という懸念は、「もしかしたら他にもずさんな計画を立ててるんじゃないのか」という疑念を抱いてしまう。実際、事業仕分け会議で様々な角度からスパコン開発の方向性、スパコンの必要性が突っ込まれるが、理研と文科省の説明者は窮地に追い込まれた人間特有の迂遠な言い回しで具体的な回答ができていなかった。といっても、説明者が会議で言っていたとおり、研究と費用対効果は相性が悪いし、必ず実を結ぶ研究というのは存在しないので、断定的な説明を避けざるを得ないという点では同情する。
もう一点の懸念事項としては、富士通単独での開発になるので、その1社に多額の国家予算を割り当てるという形なる。これは富士通が事業に失敗、撤退すると言い出したらプロジェクトが事実上崩壊するという意味である。そんなことはないと信じたいが、ともかく、当初3社でやっていくと言っていた中、2社が撤退し、1社のみの力でやっていきますと言われたら、予算を出す方は当然「ちょっと待てよ」となる。逆に言えばそれを説得する必要があった。
2社が撤退したことで問題は既に発生していた。スパコンの仕様変更のことである。スパコンの当初の仕様としてはベクトル型とスカラ型の複合だったが、ベクトル型を担当していたNECと日立が撤退したので、富士通が担当していたスカラ型単体のみに大幅設計変更する必要がでてきて、ソフトも頑張って書き換え中とのことであった(議事録に書いてある)。そして総予算1154億円のうち、すでに100億円の予算超過をしている。このような状況の中で、第一回スパコンにさらに700億の追加予算を投じるか会議をして、追加予算が可決されるほうがおかしい。「予算計上見送りに近い縮減」という終わり方をしたのは、ふつうに合理的で理性的な判断だったと思う。
会議の議事録だけではわかりにくいが、会議はかなり詰められる形で進行されている(音声を聞けばわかる)。そんな会議なので説明者は疲弊するだろうし、ところどころ支離滅裂で、抽象的な回答をせざるを得ない部分もあったと思う。ただまあ、「世界一を目指す理由をきちんと回答できるように」と事前に宿題を出されておいて、抽象的な解答しかできなかったのは、多くの人が言及しているとおり甘いとしか言いようがない。
世界一を目指す理由に説明者が「国民に夢を与える」と回答したとされている。これについて一つ擁護すると、この回答をする直前には文脈があり、以下のような流れになっている。
泉内閣府大臣政務官「(中略)ですから、皆さんが今、本当に国民生活に向けて、届けたいメッセージが何なのかということをお答えいただきたいのが1つと。(中略)もう一つは、(中略)果たして一時的にでもトップを取るということの意味が、本当にどれくらいあるのかということも、併せてお聞きしたいと思います。」
中村進行役「その一般論は皆さん共通の認識でございますので、これだけのお金をかけてこれを来年度やる必要性について、具体的にお答えください。」
説明者「こうした国民に夢を与える、あるいは世界一を取ることによって夢を与えることが、実は非常に大きなこのプロジェクトの1つの目的でもあります。」
「国民に向けてのメッセージ」と「一時的にトップを立つことの意味」を問われ、説明者は費用対効果の回答をしている。この時点で支離滅裂なので疲弊していることが察せられるのだが、その後、説明者は改めて回答する形で「国民に夢を与える」と回答している。
この「国民に夢を与える」という回答は、直前の「これだけのお金をかけてこれを来年度やる必要性」に対する回答と見るのが普通なのだが、もしかしたら「国民に向けてのメッセージ」に対する回答だったのではないか、とも思う。まあ、だからなんだよという話なのだが、つまり言いたいのは、文脈を無視した切り取りで一意に解釈されがちだが、必ずしもそうではないと言いたい。音声データを聞くとこのへんの詰められた感じが印象としてわかるので、それも込みで勘案してあげたいと思った次第である。
まあ色々書いたけど、最終的には削減予算が割り振られプロジェクトは再始動し、スパコンは完成した。しかも1位も取った(すごい)。結果論としてはスパコンプロジェクトは成功だったと思う(そうだよね?)。しかし当然、当時からしてみれば未来というのは不確かなものなので、結果論のみで語られるわけにはいかない。やはり当時の状況としてはプロジェクトの合理的な必要性を説明できない上に、そもそもプロジェクトがうまくいくかどうかも疑問という中での「予算計上見送りに近い縮減」は、まあ普通に考えてそうだよね。といった感じ。
削減予算でプロジェクトは再始動したが、金田評価者の「少し足りないぐらいが一番いい。物すごく足りなくては困るけれど、少し足りなくて努力させるくらいが本当にアイディアも出るんです。それが新しい研究分野なり産業なりを育成するかもわからないです。だから一番を取るというのは、おかしいと思います。」という言葉の仮説が強化されたように思える。当時そのまま予定通り予算が与えられたときの可能性として、(1) 京よりももっと良いスパコンが誕生していた、(2)京と同等のスパコンが誕生していた (3)京より劣ったスパコンが誕生していた、(4)スパコンプロジェクトがポシャった、の4つくらいの可能性が思い浮かぶが、(1)が達成できていたとは思えず、むしろ…と思ってしまうのである。私も労働者で、常日頃潤沢な予算が欲しいと思っている立場にも関わらず。
あとやはり、音声データを聞くのが一番である。会議の雰囲気も伝わるし、議事録だけではわからない発言の意志や意図がつかみやすい。蓮舫氏の「2位じゃだめなんですか」発言も、蓮舫氏一人が尖った発言をしたわけではないことがわかる。むしろこれより以前に金田評価者からフルボッコに突っ込まれているわけで、むしろそういう中で、蓮舫氏があのような回答しやすくわかりやすい質問をしたと考えれば、あれは「助け舟だった」という意見が出てくるのも頷ける。前後のやりとりが苛烈すぎるせいか、蓮舫氏のあそこの発言のときは声色が優しく聞こえるくらいである。
最後に、会議の中でプロジェクトの様々な問題点が浮き彫りになり紛糾しているのに対し、その中でもどうでもいい「2位じゃだめなんですか」発言をピックアップしバズらせ世間に話題を提供したマスメディアの手腕には脱帽するばかりである。
人工知能美学芸術研究会(AI美芸研)による、第23回AI美芸研「宗教と数理脳」の甘利俊一先生と上祐史浩の講演が問題になっています。
https://twitter.com/kikumaco/status/1080488625161232384
第23回AI美芸研「宗教と数理脳」の公式ページに掲載されており、ツイートにも使われている甘利俊一先生の画像が、理研の広報から2011年7月7日に「理化学研究所」名義で出されている「甘利俊一 特別顧問が瑞宝中綬章を受章」のページで使用されている画像と同一に見えます。
人工知能美学芸術研究会(AI美芸研)は、この画像の使用許可をちゃんと甘利俊一先生から取ったのでしょうか?
2011年の理研広報の画像が見えるページ:http://gyo.tc/1LBQW
近年、諸要因に伴う労働プールの枯渇と求人倍率の上昇により、博士課程院生のキャリアパスとして、日本でもようやく民間就職が現実味を帯びつつある。
例えば、この前も数学科?の博士課程修了の方が研究職を諸事情により諦め、民間就職にシフトしたことについての総括エントリをまとめ、バズっていた。
http://wakabame.hatenablog.com/entry/2018/11/04/190441
こうした潮流自体はもちろん喜ばしいことであると思う。しかし一方で、一人文社会科学系院生であり、かつ一応数年間民間企業で働いていた人間として、民間企業でのキャリアパスが確保されること=バラ色の未来とはとても思えなかったという経験がある。
これは、①本質的に博士課程院生を日本の民間企業で雇う際の歪み(特に非エンジニア職制の場合)と、②いわゆる「役に立たない」ことを研究している院生は、本質的に民間企業の価値規範にそぐわないメンタリティーを、大学院教育の中で滋養しているという二点に起因していると思う。
というわけで、極めて私的経験かつ、まったくもってエゴイズムの塊のような問題提起をあえてしておきたい。これは、前述したような近年の博士課程院生の民間就職を過度に褒めそやす風潮に対し、挫折し結局研究業界に戻ってきてしまった人間として嫌味を言っておきたいという気持ちによる。
私は修士終了後、まあいろいろあって博士課程進学と同時に民間企業へ就職をした。コレ自体、かなりイレギュラーではある。
仕事内容はまあ、詳しく言うと確実に特定されるので防ぐが、政策調査や地方自治体の計画策定コンサルである。官公庁の調査案件を請負、クソみたいな――時々インターネットで炎上するような――分析と鉛筆なめなめを行い、官僚様と政治家様の願望にそぐう数値をでっち上げる仕事である。
で、これは当然のことながら人文社会科学系の研究者の価値規範と真っ向から相反する。というのも、私たち人文社会科学系の研究者は、扱うデータがどのようなものであれ、そのデータの分析においては仮説を用意したとしても、最初から結論を用意するということはしないからである。ところが、この業界――まあいわゆるシンクタンク業界なんだけど――においては、最初から結論が決まっているので、データ分析はいかに結論をでっち上げるかという方向に労力が注がれる。
これはなんでそうなるかというと、この手の仕事がコンサルから派生しているからである。すなわち、元々コンサル業界の倫理観においては客の求める結論をはじき出すということがある程度正当化されているので(外コンのプレゼン術を名乗る本は多くの場合ただのごまかしである!)、それに基づいて目の前のデータを弄ることに抵抗がないのだ。ただ、そのデータを弄る際に、人文社会科学のスキルセットを援用するというだけなのである。
で、問題はこのスキルセットが活用できるという理由でもって、人文社会科学系の院生がこの業界を志望し、実際雇われているという現実である。サンプルサイズは極めて少ないが、私の周囲を観察するのならば、このギャップにやられて会社を辞める人間は実に多い。特に「優秀」――ここでの「優秀」とはアカデミアでの評価である――な人間ほどである。
事実、私は「優秀」ではないが、こうした現状に辟易して、言い換えるのならばアホなクライアントと上司の妄想に無理やり付き合うことに疲れて退職してしまった。
なぜこうなるのだろうか。それは、人文社会科学系の教育カリキュラムの価値規範が、現代日本企業と致命的にあってないからであると思う。
よく人文社会科学系の先生は、「常識を疑うこと」や、「新しい仮説を立てること」を大学教育の美点として強調する。私ももちろんこれらのことが本質的に良いことであることには同意したい。だが、これが現代日本の新卒就職においてよく働くかといえば、まったくもって嘘である。というのも、少なからぬ日本企業においてこれらのスキルが必要となるポジションは、多くの場合前頭葉が退化した老人によって占められており、我々若手社員がやりうることは、老人が出した意味不明な結論に向けて数字をでっち上げることだからである。この作業は、前述した批判精神と真っ向から相反する者である。私たちは、今まで培ってきたスキルセットをもってクソの世話をするのだ。
であるからにして、私は現在のアカデミア教育は、少なくとも人文社会科学系に限るのならば、民間就職に対し逆作用しか生み出していないと考える。ただ、これはアカデミアが悪いとは必ずしも言えない。繰り返すがこれは高スキル社員を作り出せず、無駄に高コストなジェネラリストという名の無能を社内に飼いながらスペシャリストの下請けを買い叩くという、日本大企業の伝統的構造に起因しているからである。鶏が先か卵が先かは言い難いが、そもそも日本企業において、一部理工系エンジニア(計量系の経済・社会・心理なども含めてもよい)以外は、「無能」――ここでの「無能」とはアカデミックにおける「無能」を意味する――でなくては生きていけないのである。
というわけで、現状の日本大企業の構造をそのままにしていては、博士院生をふくむ多様なキャリアを持つ社員の活用なんかできっこないし、実際出来てなかったよ、ということを本エントリは主張するものです。
金はないけどアカデミック最高!好きなことを好きにやれる環境って、結局俺たちには大学しか無いの。俺たちには理研も産総研も産学連携ベンチャーもない。同情するなら金をくれ。役に立たない研究しかしないけどね。
国研というのは全く世間的に知られていない。
国立研究開発法人。昔は独立行政法人だったが、研究機関であるものだけ数年前に名前を変えた。小保方さんで有名になったあの理研も国研だ。
何をやっているところかというと、要するに、大学のセンセ程度に研究ができる人を捕まえて、100%公的研究、世の中の役に立つ研究、に従事させる機関だ。
博士号を取った時、企業就職は全く頭に浮かばなかった。国からお金をもらって博士号取得の学費や生活費を賄っていたので、お国に貢献したい…そう希望を持って国研の任期付き研究員になった。国のために働いて国のために死にたかった。
が、結局、任期付きなので任期が切れたら終わりだった。任期なしになれるように努力はした。業績も出した。すごい頑張ればもしかしたら任期なしになれたかも?
が、ここで業績を出すことが本当に国のためになってるのか分からなくなってきた。
一昔前、任期付きが一般的でなかった時に任期なしで採用してしまった研究者がいた。もちろんスーパー研究者もいるが、多くは研究能力を失って、適切とは思えない仕事を割り当てられていた。研究能力が高いのは30代まで。それより後まで前線で戦える人はわずか…イチローみたいな例外だけだ。
年齢別の分布を見ると、研究能力は低いがテニュア持ってる研究者を生かすために自分たち若手は任期付きになっていて、任期なしになれるかどうかは業績よりも、上が詰まってるかどうかによる。そりゃ圧倒的業績があれば任期なしにはすぐなれるだろうから、圧倒的業績を出してないお前が悪いといえばそれまでなのかもしれないが…
結局、国研で任期付きで働いても国のためにはならず、昔入った任期なしの人を生かすことにしか貢献してない気がしてきた。要は、研究員採用の失策の穴埋め要因?そう思ったら、急速に労働意欲を失った。
研究能力が一番高いのは30代までなのに、その貴重な自分の時間を、組織の採用の失策のためだけに使うのか?
もちろん、自分も将来研究能力を失う可能性はある。だが、大学教員なら、将来、研究能力を失っても教育を頑張ることができるし、自分が率先して教育を受け持って、将来の若手の先生の教育負担を減らすこともできる。その方がまだ、生産的に思えた。