はてなキーワード: 浪人とは
男性と女性って、脳みその神経の張りめぐらせ方がだいぶ違うのだなあと改めて納得しました。
たくさんリプライもらってよかったね。
高校生のときは受験少女でした。とにかく隙間の時間ができたら勉強。同級生の男は、バカの木偶に見えていました。実際バカだったし。
同じ高校で、学年でトップを争っていた女の子がいました。理系同士で、学年3位だった男の子を遠く引き離して争っていたのですが、違いは容姿でした。私は明らかに太り気味で、もっさりしてて化粧っ気も全くなかったのですが、彼女は容姿明眸で大人びていて、背が高くて手足が長いのに女子っぽい柔らかさがあって、私から見ても綺麗な子でした。もちろん彼女は男子からもモテまくりなのに、私は、毛虫のように嫌われ、陰で「豚めがね」と呼ばれていたようです。
勝負の受験。彼女は東大理二、私は理一を受けました。そうした理由はたった一つで、彼女に負けたくなかったからです。理一の方が理二より偏差値が高かったからです。うちの学校から東大なんてたぶん十何年ぶり、先生たちもかなり気合が入っていました。私の親は、容姿も平凡以下の娘が唯一の取り柄が勉強ということで、経済的には厳しかったのですが、しぶしぶ受験を認めてくれました。彼女の家は地元でも有名な名家で、経済的には全く問題ないし、一族の男子たちは、みな地元進学校から一流大学に進んでいたそうです。
彼女は合格し、私は不合格でした。人前で泣くのは悔しかったので、宿泊していたホテルで一晩中泣き明かしました。
家庭の経済的な事情で浪人できなかった私は、併願で合格していた某私大の政経学部に進学しました。私大の理系は学費が高く、その割に就職時の評価が高くないからです。ところが、東京の私大の華やかな雰囲気に飲まれた私は、友達もまともに作らず、上京していた高校の先輩が彼氏にはなったのですが、寂しいばかりに付き合っただけで、どう考えても容姿も知能もいけてない男です。彼氏だけが家にセックスするために入りびたる程度で、ほぼ引きこもって暮らしていました。
成人式で田舎に久しぶりに帰りました。件の彼女も来ていました。東大生の彼女は、とても華やかな容姿はそのままに、人の輪の中心でした。聞けば、素敵な同級生の彼氏もできたそうです。彼女と直接話したのですが、当時の彼氏が私のことをぺらぺらしゃべっているのを聞いたらしく「あなたの彼氏って、○○先輩なんだってね」って言われました。心なしかせせら笑われたように見えたのがとても悔しかったです。別の子たちも「○○先輩って今ブタメガネに行ってるんだね、物好き~」と言っているのが聞こえました。きっと聞こえよがしに言っていたのでしょう。周りを見れば、大学に入って可愛くなった女の子たちの周囲に男の子が集まり、とても華やかな雰囲気を醸し出していたのに、私はといえば、声をかけてくれる友達もいるわけでもなく、ひとりぼっち。だれも私に話しかけてくれず、遠巻きに陰口を叩かれるばかりです。私は、屈辱でその場にいられなくなり、家に帰って泣きました。みんな努力らしい努力もしてなかったのに、勉強できなかったくせになんで私をバカにするのか。キレイはそんなに強いのか。勉強ができることよりも、キレイが評価されるのなら、私は全力で綺麗になってやる。
まずあれだけバカにされて悔しかったので、例の彼氏とは別れました。相当しつこく粘られましたが、間接的に聞いたところによると、私と別れるとセックスできなくなるのが嫌なだけだったようです。ブタと言われるほどには太っていなかったので、痩せるようにしました。毎日ジムに通って、プロのトレーナーについてエクササイズ。半年で10キロくらい痩せたら別人のように顔がすっきりし、スタイルがよくなりました。もともと胸は大きかったんだし、痩せればそれなり。で、ダイエット中に、そこそこ見栄えがするようになったところで、渋谷のサロンで髪を切ってもらうようにし、メイクの心得もあるという担当の美容師さんと付き合うことにしました。髪の毛のお手入れとか化粧の方法を徹底的に知りたかったからです。脳みそはアヒル並に空っぽでしたが、そんなことはどうでもいい。それと、新宿に会ったセレクトショップの店員とも同時進行で付き合うことにしました。ファッションセンスを身につけるためです。この男の脳みそもカエル並にスカスカでしたが、そんなことはどうでもいい。
ここまでしたところで、綺麗になるには莫大なお金がかかることがわかりました。ところが私の実家にはお金はないし、バイトするのは時間効率が悪いです。私は綺麗になるために忙しいのです。そこで、交際クラブに登録し、スポンサーになってくれる男性を探しました。2人ほど適当なのが見つかりました。一人は大学の先輩で、某大企業の役員になっている50代の男性でした。彼はやはり容姿に問題があり、学生時代ちっともモテなかったので、「青春を取り返したいんだ」って言うのが口癖でした。定額10万円/月+デート代は向こう持ち。受け身で純情な女の子として振る舞うととても喜んでくれました。もう一人は、大きな保険代理店を経営している40代の経営者で、高卒の学歴コンプレックスの塊みたいな人でした。「早稲田の美人が俺に全てを捧げてるってだけで無茶興奮する」ってのが口癖でした。デートのたびに5万円+デート代は向こう持ち。フェラとか全身舐めとか、とにかく奉仕させられました。それと、中出し原理主義者で、「俺の子どもを孕め」とか言いながら中で出すのが常でした。ピル飲んでるんで問題ないんですが。二人ともやたら精力が強く、一晩に2~3回は当たり前で、お金持ちになる人は精力の強さがはんぱないなーと思いました。二人とも、お金をくれたのはもちろんですが、学生ではまず行けないレストランとか、美味しいワインの選び方とか、一流ホテルってどんなところでどういう振る舞いをしないといけないかとか、そういうことを経験させてくれたのはとてもありがたかったです。
成人式から1年。これだけの努力をした結果、私は、見違えるような美人になりました。美容整形とかはしていないので、元も悪くなかったのだと思います。
そのころには、ITベンチャーの経営者に大学生を紹介するのが事実上の商売、みたいな男性にスカウトされて、そういう合コンにも出るようになり、そのうちの一人の独身若手経営者と付き合うことになりました。お金はスポンサーからもらっていたものがそこそこ貯まっており、彼氏から教えてもらったいろいろな情報で、株式で結構儲けました。リーマンショックの少し前、皆がイケイケだった時代のことです。1年くらい株で遊んで、数百万円になったところで、スポンサーを2人とも切りました。40代の経営者はあっさり別れてくれましたが、50代の会社役員は、すごくねちねち渋りました。私はこの時、青春コンプレックスの方が、学歴コンプレックスよりはるかに重いことを学びました。若いころモテなかったことは、心の深い傷になるものなのです。
スポンサーと切れて、後ろめたい足かせがなくなったその後は本当に交際の範囲も上に広がりました。ITベンチャーの後は、独身・既婚取り混ぜて、官僚、広告代理店にコネで入った御曹司、総合商社、銀行で働いている某企業の御曹司、若手経営者と順に付き合いましたが、世の中こういう風に動いてるんだ、ってのが彼氏の言動とかからわかるのです。見える風景が一変する、というのはこのことです。それにあわせて、私の運用資産も殖えていって、大学を卒業するときには2000万円を超えていました。キレイを続けるために相当のお金を使いましたが、それでもまだまだ貯まるものです。ああ、一人だけ、プロ野球選手と付き合いましたが、地アタマはよさそうでしたがなんせ関心が酒と女と野球とマッチョにしか存在しないので、結局うすらバカでした。セックスだけは異常に強かった。体力もすごくて、体が壊れちゃう、って思うほど気持ちがいいのですが、まあそれだけですね。彼氏とのセックスに満足できないときの代用品として散々使わせていただきました。プロ野球選手と結婚する女子アナの人は、お金好きでなければセックスマニアだと思って差し支えないと思います。
大学を卒業して、東京に来ている高校の同級生で集まる機会がありました。東大の大学院に進学した彼女は相変わらず美しかったのですが、実験疲れ?なんだかやつれて見えました。間違いなく私の方が綺麗です。かけたお金と時間と努力が違うのよ。如才なく人との会話を紡ぐことができるようになった私の周りには、人垣ができました。私は内心、つい3年前に私に陰口を叩いていた人たちが私にひきつった笑みで話しかけてくるその姿、その軽薄さに反吐が出る思いをしましたが、そんなことは振りにも見せず、同窓会の主人公になりました。無論、「整形?」とか陰口で勘ぐる人もいましたが、何言ってんの?何の努力もしていないくせに。
外資系金融に就職し、それなりのお金を稼いでまあだいたい1億円くらいの資産を得ることができました。もうしばらくすると、収入はさほどではないけれど、名家の出の夫と結婚して退職します。屈辱の成人式から7年。東大に行った彼女は、まだまともなアカデミックポストを得ることがないまま、同級生の東大男子と結婚したとの報せが先日ありました。ご主人も、同じく根無し草の研究職のようです。ご夫婦の写真を見ましたが、まあ平凡な容姿になっていました。苦労は美貌を蝕みます。勉強ができることにこだわった彼女は、結局世の中の幸せと縁遠い人生を歩むのでしょう。勉強だけができることは人生の勝利には結びつかない。キレイであること、お金があること、コネクションがあること、人生で勝つために必要な要素はもっとたくさんあるのです。
あれから7年。短いようで、長い7年でありました。こんなところでしか書けないけれど、私は勝利した。本当にあなたに会えてよかった。そうでなければ、今のこの私はないのだから。
嫌な奴のいる学校なら行かなければいいし、例えば週5で別々の学校に行ってるから、週1だけ行かなくなっても影響は少ないし。その教科だけ別の地域の学校を探せばいいし。
そして、今みたいに不合格点(30点?)を取らなければ進級できる制度はやめて、合格点(80点)を取らなければ進級できない制度にする。
そうすればもし不合格だったとしても、ダメなのはその教科だけだから、他ができてればその教科は先に進めるので、全体に与える影響は少ない。
進級テスト自体は、センター試験的な全国共通の試験とする。この試験で何級まで取得してるかがその人の現段階での実力なわけだ。だから独学でできちゃえば学校に行く必要がない。
今の受験制度だと、例えば苦手な1教科が足を引っ張って総合で合格点に達しなかった場合、そこで1年浪人しなければならなくなる。これは時間的な影響が大きすぎる。
できる科目は進めちゃっていいんだよ。なんなら入学・新年度の始まりを4月だけにする必要なんてなくて、例えば4月、9月、1月それぞれがスタートのコースがあればいい。
そうすればもし78点で不合格だった人は、もうちょっとがんばれば合格点に達するわけだから。4ヶ月がんばって合格点を取り4ヵ月後のコースから次に進めばロスが4ヶ月で済む。
この制度の最大メリットは、「教室に色んな人がいるようになる」ことなんだ。
この制度は主要5教科だけでなく技術、美術、音楽、体育、道徳倫理も同様に行なう。すると10教科になるが、1週間は五日なので、どれかの教科は後回しにすることになる。人によっては集中的にある教科だけ毎年やって、あとで他の教科をやろうと考えるかもしれない、人によっては2年かかけてどの教科も満遍なく勧めていくかもしれない。
そうすると、教室に色んな年齢の人が入ってくる。
進みの速い人、遅い人、ここでも年齢も別れる。
働きながら休みの日にある教科の学校に通う人もいる。この制度だと家があまり豊かでなく、早めに働かなければならない人も、働きながら通える。現代の夜間や定時制や2部や通信制と違い、ちゃんとしたレベルの、普通の人と同じ授業が受けられる。現代の夜間学校は、実際には「できない人の受け皿」という側面が強くあり、レベルの高い人たちが集まってレベルの高い授業をしてるかというとそうではないことが多い。
まず、教室に教師以外の大人がいるというのは大きい。どうしても教師は外の世界を知らないと言われるし、小さな世界で横暴になってしまうケースもあるし、また子供に影響されて幼稚化してしまうケースもある。が、ここに大人が入るだけで教師に多少なりとも影響を与えることができる。あまり理不尽に子供に当り散らしていたら、「先生、それはおかしいんじゃないですか?」と。
子供にもいい影響がある。子供がどうして悪い意味で子供なのかといえば、それは「モデルとする大人が周囲にいない」というのが大きな原因だ。人間は周囲のまねをして生きるものなんだ。10代前半くらいになれば、本当ならもっとしっかりした考え方や倫理観をもてるんだ。人間は。ただ現行の学校制度によって、周囲に子供ばかり配置されるためにその機会が訪れない。
もちろん、くだらないダメな大人も山ほどいる。が、大人というのはサンプル数を多く取れば平均値的にはまともなのだ。というかそれが日本人の限界ということになる。この制度だと、一人のダメな大人と同じ教室になったからといって、他の教科でもその大人と一緒というわけではない。各学校は独立して、各教科の実力はみんなバラバラだから。合うとしても週1とかだし、他の曜日に通っているほかの教室では他の大人がいる。サンプル数を多く取れば平均値には近づくから。
そしてこの制度を使った場合、現代で言う「学歴」は無意味になる。あれ「学歴」というのは実は学校暦なんだ。何々学校に行っていた、と書く場になっている。学校の名前が学力や能力の偏りと相関関係があるために、学校名を利用していただけに過ぎない。だからスポーツ推薦やエスカレーター式などという名前と実際の剥離が訪れる。
専門学校化、各教科別レベル認定センター試験化すれば、通ってる学校は多すぎて書ききれないので、履歴書には各教科の現在のレベルをあらわすレーダーチャートを使用することになる。もちろん技術や音楽や体育なども全て入れてだ。そしてこのレーダーチャートの形こそがその人の個性をあらわすことになる。この人は主要教科はできてるけど体育は全然ダメなじゃないか、とか。この人はまんべなくやってるが面積がちっちゃいなー、30歳なのに、とか。
http://anond.hatelabo.jp/20140627003412
浪人、仮面しても無理だとわかってるなら、早いとこ大学生活を充実させる方向に切り替えよう。
いつまでもしょーもないプライドを満たすために周りを見下したりしてたり、憂鬱だとか言ってダラダラしてたら後々後悔するよ。
授業をきちんと選べば少しは為になる収穫はあるはずだし、しょーもない大学でも真面目に頑張ってる凄い奴は必ずいる。センターの結果とか後期だからとか、もはや過去の栄光と化したものを引きずるより、将来の為に大学で貪欲に知を追求する奴の方がカッコ良くないか?
後期入学だったら、どうしても本命と比べて悪いところしか見えないけど、そんなことしたって辛くしかならないよ。良いとこ探してみようよ。そしてどんどん利用して飛び込んでみよう。
大学に何も期待出来ないなら無理矢理だけど視点を変えてみて、自分が有名になって大学の名を上げてやろうなんて考え方もかっこいいね。
就活の場では、AOとか前期の人より後期の人の方が上手くいく傾向もあるみたいだし、大学授業やゼミでも後期組はやっぱり違う。
君の努力や能力は今回は報われなかったけれど、必ず形を変えて実る時がやって来るよ。
大丈夫、いまは辛いけれどきっと乗り越えられる。乗り越えた時には絶対人間的に成長しているはずだ。数ヶ月後、数年後の大きくなった自分を楽しみにして、いまは無理矢理前を向いて歩みを進めていこう!
浪人したけど第一志望には受からなかった。てきとーに受けた後期試験で合格をもらえたのでとりあえず入学した。正直、この大学は志望すらしてなかった。
入学して3カ月くらい経ったけど、正直よかったことなんてなにもない。合格をもらえた瞬間くらいは多少うれしかった。けど地方駅弁に期待して入学した僕が馬鹿だったのかもしれない。
授業はクソつまらないし、研究だって大したことないものばっかり。高校レベルの内容しか解説しない授業とか、ゴミだろ。
今は一般教養やら語学中心だから……なんて思っていたけれど、先輩が言ってた。「進級したってクソみたいな授業しかないぜwww」
浪人期の努力が足りなかっただけ、理解しているけど、現状をどうにも変えられないと思うと憂鬱。仮面すりゃあいいんだろうけどまともに予備校通ってでも第一志望落ちるくらいなんだから、仮面したって受かるわけがない。
正直もうやだ。
もう何年もセックスをしていない、と言えば昔はやっていたように聞こえてしまうけど
その何年か前は童貞を捨てただけの日だ。
彼女がいた事もある。でも、それは中学生の時に何回かでどうやってもセックスに結びつかなかった
だけど、その頃から体調がおかしくなりはじめた。外出をするととにかく疲れる。
互いに忙しくて月に何回かしか会えなかった。一時間しか会えない月もあった
もしかしてがあるかもしれないと思って会う日の二日前からオナ禁をして備えた
にもかかわらず、セックスはできなかった。
そんなハタチは開放感から別れた日に出会い系掲示板Mコミュに登録をする。
翌日にはてごたえがあり、登録3日後にセックスをした。
かわいくなかったなー、臭かったなー、ミキちゃわ。厚木のデリヘルで働いている
って言ってたかな。
体調はその半年後からガンガン悪くなる。外出しようものならどこでも便意をおぼえ
下痢。家では普通の便。下痢は食事のタイミングを工夫して克服した。
でもね、その後は外出するとめまいや震え、視野の異常に悩まされるようになった。
そこからどんどん怖くなり籠った。
でも、怖いこと以外は至って平常心で人と電話で爆笑し、時々来る友達とバカな事をした。
引きこもり期を何度も脱出しかけては、舞い戻るを繰り返している間にどんどん人肌が恋しくなった。
若い女の人の身体に触れたい欲求はどんどん膨らみながら、それまで平常心だったメンタルはだんだん萎んでいった。
細かい話は出来ないが周りの人達に支えられ、萎んだ心はほんの数ミリ膨らんだ。
一つ二つ諦めきれない事があってそれに向かうほんの少しの光も見えた。
景気づけになのかヤケになったのか己もわからないが
不意に吹っ切れた。
パネマジには圧倒されたし、俺よりちょっと荒れた肌には閉口したけど
何年かぶりにさわった女はよかった。涙は元来出ないけど
泣きそうになった。
身体が少し軽くなった。いつも寝転がりたくなるのに。
ひと月経ったら、また体調は戻り始めたがどういうことなのだろう。
これをどういう風に病院の医師なり心理士に伝えればいいのだろう。
デリヘル代は健康のためにプールしなくてはならないのだろうか?
大学生の間に私は成長したのだろうか。 生まれたときから世界には完璧という概念が存在しており 人間が人間であることを放棄しない限り、人間は成長することはないと思っていたので 成長という表現を聞いたときは不快感がずっと存在しておりました。 私の頭の中は、相対評価ではなくて絶対評価であっても、小学生のときがピークでして それから10年以上、ずっと退化するのに耐え抜くだけの時間を過ごしました。 中学受験塾という環境で過ごして、中学受験をしました。 入学した学校は、とある物差しでは関西で5番目くらいの学校 希学園の偏差値表で、灘が63、東大寺が61、甲陽が59、洛南(併願)が58、大阪星光が55 (当時は西大和は52、今はもう少し大きな数字だと思います)(女子は神戸女学院が54) 星光の入試配点は国語120数学120理科80社会80の(傾斜)配点で、合格最低点は7割 7割というのは高い方(6割が平均的)で、得意不得意が日本一レベルだった私には無駄な難関でしかない。 母数のレベルが低いテストによる合否判定は、得意不得意が異常な私は生涯を通して最高でもE判定しか出ないシステムであり 私は当時からその仕組みが理解できたけど、まわりにいた無能たちはそれすらも理解できなくて話が通じることはありませんでした。 そしてその成績の私には、言及するには心理的抵抗が大きかったのですが、灘や甲陽の配点は国語200算数200理科100で合格最低は6割 私の心の奥底には、星光よりも灘の方が簡単ではないのか(妥協して甲陽)と思ったこともあったのですが 灘も甲陽も兵庫県で、非常に残念なことに星光は家の近所にあるという環境の違いもあったりしまして。 当時の私のテストの答案はいつも同じでして 算数は冒頭から順番にすべて正解、一番最後の問題は時間切れ。テストは毎週ありましたが、計算ミスもしないのですべてがその結果になります。 社会も冒頭から比較的には正解率が高かったのですが、正解に自信が持てないので非常に時間がかかり、100点中後半50点ほどは常に白紙での提出でした。 理科は物理と化学は算数に同じ。生物と地学は興味がなかったので社会と同じ。 国語は文章問題2題が多くて、いつも片方しか読む時間がありませんでした。そして常にクラスで最下位。塾全体の公開テストでも下から数人目。 公開テストは600人ほど受けていて、上から10位までは名前が公開されます。(科目ごと+3科目合計+4科目合計) 当時4科目合計で名前が載ってた人は、国際科学オリンピックでメダルをとっていたり、当然のように東大医学部に行ったことまでは把握しています。 そして名前が載るのは「S1クラス」という能力別クラスでの1番目のクラスばかりになるのですが、 算数で時間が足りたことがあって、そのときに「H1」という平均以下のクラス所属で私の名前が載ったことがあります。 すごくどうでもいいですが、能力別クラスでは定期的にクラス替えが行われるのですが、私の成績が算数はクラストップ、国語はクラスビリで安定していて 「H1」という所属クラスってふつうは変動するのですが、なぜか入塾時から小6の途中まですべてH1のままで動くことがありませんでした。 小5までは谷町九丁目教室ではS1からS5とH1からH3、小6からはS0からS8とH1からH6でした。つまりH1っていうのは偏差値では50以下です。 なので志望校として決定されるのは星光になるわけですね。また星光合格者の中では、私が一番下のクラス所属でした。 自分の記憶力が残念なので想定外に長くなりました。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 さて、小6の3月から2年間にもなる長期間、虐待の日々がはじまりました。 その結果、定期テストの前に、勉強するということもしたことがありません。 中3の時の、通知表の成績は、高校への内部進学の基準になります。 全科目の平均が60点が条件で、テストの点数そのままが通知表の点数になる科目もありますが、 平常点を用意したり、救済措置を用意して下駄を大量に用意すう教師もいます。 学年人数は200人で、毎年学校を追い出されるのは10人とか。他の学校よりも多いと思います。 中学受験での話を想定外に長く書いたので、少しここは省略します。 日本語を話してくれない教師への反発もあって、中3での通知表成績はビリから2番目の人(50よりは上)よりも10点くらい下です。 T野(体罰数学教師)の数学で、一番はじめて満点を達成したのは、M君ではなくて私だったりします。 名前が汚いからという減点は毎回受けていましたが。 英語のS水(中1中2での担任)も相当無能でゴミだったし、 国語の学年主任(中3での担任)もゴミだった。愛のかけらなどどこにもなかった。 テストのために勉強する、という行為はしたことがなかったですが、テストの最中は中学受験時代での私の哲学をただただ耐え抜く日々でした。 そして、私の中には中学受験での自己評価をもとにした学力観というものがありまして 勉強したと言えるような時間は、授業中に教師が答える前に自分の脳内で答える予習的学習と テスト時間中における、問題作成者との、問題を通したコミュニケーション、その2つだけ。 私は私自身の美しい過去を尊敬しており、またそう言えるためだけに命をかけております。 信じるかどうかは好きにすればいいと思いますが、勉強したと言えるような時間は上記以外には特にないまま 高校入試を受験するみたいでした。(受け身) 甲陽の高校入試の配点は英語200数学200国語200理科150で、合格最低点は脅威の5割。 西大和の高校入試の配点は忘れました5科目で、合格最低点は7割。 西大和の高校入試の数学はレベルが高くても小6レベル以下の問題でびっくりしました。(過去問とかも知らない)計算用紙にポエムを書きました。(計算用紙も提出です) そういえば、テストの最中にはテストに向かい続けるという呪縛を本当に無駄に守り耐えてきたのですが さすがにあれなので、問題用紙に脳内ポエムを絞り出す習慣が発生していました。 私の問題用紙に書かれた脳内ポエムの絞り出し、見たことある人いるでしょうか。 その一部は高校時代にやっていたブログに模写投稿されていたりします。 といいますか、私は言葉から行動に移すような経験が一切ないと思います。 国語という科目が全くわからなくて、表現能力は障害者でしかないのです。 表現というものに、全く価値を感じる機会が今までずっとなかったのです。 (相手の意思とは関係ない)教えてくれる人間が自分視点の環境には存在しなかったってことです。 この世に信頼できる人間が1人もいなかった。 そうすれば、こうなります。 存在する存在空間の、表面結果が表現されるだけで、それだけでしょ。 伝えたいと本気で思える人間が私の前に現れることがなかった。 脱線しましたけど、西大和は不合格になりました。人生初の不合格です。計算用紙になんだこの数学はアホかやるきあんのか、って書いたのが相手を激怒させたのかもしれません。 入試の科目で満点とれてるのは西大和の数学が人生初だと思う。(大学入試では同志社物理とセンター物理が満点。センター物理って小学生でもry) (大学入試数学は私は全く訓練がされてないので、同志社レベルでさえ時間足りないです) そして、甲陽おちた場合、出願は2校しかしていないので、いく高校がないです。 けど合格してた。勉強して合格したわけではないので、何も感じなかった。 自分の人生は他人事で、どうでもよかった。 人は過去を美化するという表現を見かけることがあります。 この表現の意図はこうです。 そんなわけがない、人間をなめるな。しかしすべてを説明するのは一生かけてもできない膨大さ。情報を努力して絞り、本質的な情報を簡略に表現する意図がある。 人間が人間であるための努力だ。 そして過去が存在しない人たちからの言及をそらし、内心ほくそ笑むための表現です。 人間であることを放棄した人が、人間を舐めるな。 人間は、人間を人間だと信じている人たちだけで暮らせばいいです。(そう信じることしかできないんです。) 脱線の方が長くなってしまいました。ごめんなさい。 高校。高3で人生で初めて、通知表に0がつきました。 英語の定期テストで選択問題が初めて0問で、(授業でやった)東大京大等の英訳和訳問題のみだったのです。がんばったけど0点でした。 けど留年とかされても高校にとって迷惑になるので、卒業という形で平和に追い出されました。 中学では宿題をだす教師はいて、平常点が存在しました。 高校では宿題をだす教師はおらず、自分で勉強する人たちが自分の意志で医学部とかにいってた。 東工大の大学入試の配点は理数系が68パーセントで、合格最低点は忘れました。(ふつうの東大生であれば英語国語0点にしても東工大には合格する程度の合格最低点です) ちなみに早稲田理工は理数系67パーセントで慶応理工は70パーセントです センター試験本番は現役時が47パーセントで、物理に関しても波長って何?λってなんてよむの?らむだってなに?って思いながら知恵とセンスを絞って問題に正解してました。 浪人した時は、波長とはなにか、λがらむだってよむんだって知りました。 一切の本も読まずに、微分とか極限の解釈でただ単に考え事をしていたら、テイラー展開って表現されているものが発見されました。 数学は自分で問題をつくって遊ぶことしかしてなくて、浪人時代の1月も2月も一回も過去問とかやらずに 自分で問題つくっては遊んでました。 (1)30!の一の位は0である。ここから始めて十の位百の位と順に左に見ていく。最初に0でない数字が現れるまでに連続していくつの0が並ぶか。 (2)(1)において最初に現れる0でない数字を求めよ。 (3)ここで「n!は10^kの倍数である」これをみたす自然数kのうち最大のものをpとしてf(n)=10^pとする。このとき以下の数の一の位の数字を求めよ。 (イ)100!÷f(100) (ロ)100000!÷f(100000) (4)100兆の階乗を10進法で表示したとき右から数えて25兆番目にある数字は偶数であるか奇数であるか調べよ。 問題を読んでほしいためこのようにしてみた →方法論は省略して 100兆(10進法)=101101400兆(5進法) 100兆!÷10^(25兆-2)≡2^(25兆-2)×4!1!1!1!1!≡6 …□6が4の倍数なので□は奇数です 普通の電卓を使用して 2の常用対数の小数第10位の値を求めよ。 とかに関しては、あるごりずむとかいうやつっぽい。 AA>Bと同値はA>√BまたはA<-√BまたはB<0(A実数)または-√(-B)<Ai<√(-B)である。ではAA<Bは? とかに関してはすうがくっぽい。 大学に入ってからも痛感しますが、勉強したことがないので、勉強のやりかたが全くわからない。 環境というものは目には見えない力なのです。 クソみたいな社会に適合してたまるか、という環境も世の中には存在します。 社会に適合化された言葉を使ってしまうのは屈辱でもあります。 なにが世界を破綻させているのか。それは現実主義者の存在です。 「数学に対する価値観は、誤答を解答として提出したのであれば死刑にすべき」 の意図している意識が共通認識となれば、世界は平和になるのではないかと思います。 共通認識と共通認識における努力さえあれば、別に死刑にする必要はないです。 いつかきっと、人類が私の意図を理解することができればいいなって。 おなかがすきましたね。 http://anond.hatelabo.jp/20140617174318
http://anond.hatelabo.jp/20140608182409
多分、県外の人のが評価が高い。
それは多分、長野、ってものに対して田舎すぎて軽くコンプレックスを持ってるというか、
大学まで行くなら都会に行きたい、という田舎根性があるからかと。
だが、逆に年取った連中は信州大学の評価が異常に高い。
それは単に信州大学以外の大学を東大とか一部の有名大学しか知らないし、
地元の名士や役所のお偉いさんは信州大学出身が多いから(東大や、それこそ東工大まで言ってわざわざ長野に戻ってきたりしないので。。。)
信大ってもうちょっと評価されても良いんじゃないか、と思う今日このごろ。
以下のコピペは信大なんて行くか、と高校の頃思ってた俺でもちょっと悲しい。
伯父「○○君も大学生か!小さい頃よくだっこしてやったんだぞ!がっはっはー」
俺 「覚えていますよ」
伯父「どこの大学に行っているんだ?」
伯父「そうか、工業大か!高校時代遊びすぎたんだろ!でも浪人しなくてよかったな!」
「お前と同じ年の息子の××覚えているだろ!深志から信大工学部だぞ!(勝利者宣言)」
親父「無言・・・(瞳が潤んでいた)」
伯父「おい、信大生こっちこい(息子の××を呼ぶ)」
向こうでも大学の話をしていたらしい××が鼻高々でやってきた。
××「(馴れ馴れしく)○○、久しぶりー、元気!」
「あっ、叔父さん、こんにちは、俺、今年から大学生になりました。」
親父「そうか、大きくなったな」
××「信大に行っているんですよー(勝利者宣言)○○君はどこに行ったの?」
俺 「東工大w」
ニヤついている伯父を尻目に、一瞬にして××の顔色が変わった。
伯父「○○に勉強教えてやれよw」
××「(しばし、絶句)・・・みっともないからやめてくれよ親父」
伯父「?」
動揺しまくりの××は伯父を速攻連れだした。
以後、伯父親子は、俺達のいるテーブルに加わらなかった。
久しぶりに無口な親父の晴れ晴れとした顔をみた。
帰り際、充血した目をした伯父と目があった。
長いし、ただただ書き留めておきたいだけの自己満足だ。
両親が共働きでおばあちゃん子だった。おばあちゃんに孫は自分を入れて4人いたが、一番下で他の孫と年齢が離れていることもあって自分が一番可愛がられた。
本当に溺愛という言葉が正しく、同じ家に住んでいるのに、少しでも自分の姿が見えないと探しに来た。10分離れると不安だったのだろう。
高校時代に受験勉強(という名のただの夜更かし)をしているときも、1時や2時に起きてきて「えらいねぇ。まだ寝ない?」と聞いてきた。
そのたびに「まだ。もうちょっと。」と言ってあしらっていた。
近所でも有名になるぐらい、自分のことを溺愛していた。
高校を卒業し、浪人した。この時に実家を出て、予備校の寮に入って祖母との同居から離れた。
18年片時も離れず育てた孫がある日突然出て行くのだ。寂しかったのだと思う。もちろん電話が頻繁にかかってきた。
2、3日に1度というペースで、かかってきて、いつも決まって同じことを言った。
「次はいつ帰って来るんよ?カレンダー見ながら指折り数えてるんよ。はよ帰ってきて。」
寂しいことはわかっていたが、毎週末帰るわけにいかない。
するとだんだんと電話の頻度が多くなってきた。言われることはいつもと一緒。
「次はいつ帰って来るんよ?はよ帰ってきて。」
ある時、少しだけ反発をした。
「昨日も電話したやん。同じことばっかり言われてもすぐ帰れんよ!」
ちょっと強めに言ってしまった。少し後悔した。その瞬間、思いもよらぬことを言われた。
あとで母親に聞いたところ、自分が家を出てから物忘れが加速しているのだそうだ。
財布を家の中で失くしたり、ご飯をたべたことを忘れてしまったりと日常生活に支障をきたし始めていた。
ショックだった。祖母は働き者で、両親が働いていて居ない間はご飯を作ったり塾への送り迎えをしたり、常に動いている人だった。
自分が家を出てから、世話をする人がいなくなり、昼間にずっと寝る生活になったのだという。
自分が家に居たら。そう思った。
だがもう限界をとっくに超えていたのだろうと思う。
夜も満足に眠れず、昼間も祖母が気になって仕事場からちょくちょく家に見に帰っていた。
家族はそれに賛成したし、もちろん僕も賛成した。
自分は実家から遠く離れた大学に進学したので帰るのは半年に1度程度だった。
その頃には自分のことは忘れられていた。
「おまん、誰よ?」
辛かった。けれど祖母が育ててくれたことに対する感謝の気持ちがあったので、帰ってきた時は毎日のように会いに行った。
大学4年のある日の朝に夢に祖母が出てきた。
白いぼんやりとした、もやもやしたものの中に祖母が立っていた。
はっきりと「もう長くないんよ。」と言った。
ハッとして起きた。嫌な胸騒ぎがした。しかしその時期は大学の研究発表会が近づいており、こんな夢を見ることもあるだろうと思い大学に向かった。
夜8時を超えたぐらいだったと思う。父親から電話がかかってきた。嫌な予感がした。
当たった。
「もう今晩がヤマらしい。」
聞いた時は冷静だった。
「今すぐ帰るから、待ってるように言って。」
結局実家に帰る終電には間に合わず、朝いちの電車で帰ることになった。
それまでにいろんなことを考えた。もし自分が着く前に亡くなっていたら。
せめて自分が着くまで。今まで育ててもらった感謝の気持ちをまだ伝えてない。
その願いは叶った。
病室につくと、両親や親戚が集まっていた。意識はもうない。
無意識の中で人工呼吸器を手で取ろうとしていた。邪魔なのだろう。
母親は泣きながら「お願いやからとらんといて。お願いやから・・・」
言葉にならないようなか細い声で懇願しながら、人工呼吸器を祖母の口に戻した。
そこにいる全員がその時は近いことを悟っていた。
だがもともと体力だけはあった祖母だ。そこから24時間保ち続けた。
もともとその数日前から病院につきっきりの母は明らかに体力の限界だった。
自分は祖母の手を握りながら、「頑張って。おじいちゃんが向こうで待ってるよ」と語り続けた。
いままでありがとう。こんなに立派に育ったよ。本当にありがとう。感謝の言葉を言い続けて手を握り続けた。
ギュッと握ったら、少しだけぎゅっと握り返してくれた。
生物学的な反射という行動なのかもしれないが、そんなことはどうでもいい。
朝5時過ぎた頃だったと思う。疲れたいたので少しうとうとしかけた所にお医者さんが入ってきた。
手首を触って脈をみる。
一言だけ言った。
「ご家族を呼んでください。」
意味がわからなかった。先生はその言葉を残して病室を出て行った。
「やめてくれ。一人にしないで。」と思ったが、することがあった。
何を言えばいいのかわからなかった。
出た言葉は「来て。はやく。」
たったこれだけだったが、十分だった。
その中で眠るように祖母は逝った。
みんな泣いていたのだけは覚えている。
そこから2日ほどは様々な事務処理に追われてほとんど覚えていない。
「名前を継いで欲しい。」
祖母には娘が2人いるが、どちらも嫁に出たので祖母とは苗字が違う。
うちの地方ではよくあることだが、祖母の養子に入ることで名前を継げる。
自分は次男なので、事あるごとに名前を継いでほしいと言われていた。
不思議な気持ちだったが、自分の中でこれが一番の祖母への感謝を表す方法だと思ったからだった。
今では祖母の名前を継いだことを誇らしく思う。
私の両親が私に与えてくれた程のものを私は私の子供にしてやることはできない。
うちの親はなにも特別裕福というわけじゃない。と思っているが、実のところは上の下くらいにはなるだろう。
けれど私が小さかった頃にはそれなりに苦労していたようだから、特別贅沢な育ちをしたわけではない。
兄弟二人どちらも浪人したうえで私立大学に入れてくれたのはなかなかに贅沢な気もするが。
お金がないから大学には行かせてやれない高卒で就職してくれ、と言われるような状況は、ちょっと想像できない。
私の感覚では、それくらいになると中の下以下に相当するのではないか。大学進学率50%の時代だそうだから。
さて大学を卒業してさえ、正社員として就職できるかどうかわからない。今年は上向いてきているというが、いつまた氷河期に突入するかわらかない。これから日本経済が発展し続けていくという希望を持つことは途方もなく難しい。
派遣社員となれば、いつまたナントカショックが起きて契約更新せずと告げられるかわからない。
就職して、子供を産んだら、産休をとって、育休をとって、保育園を見つけて、復帰して、仕事しながら育児と家事を分担して、お金を稼いで、子供が幸せになれるだけの環境を用意するためには、
福利厚生の整った企業に就職し、その会社に必要とされるだけの実績を残し、そこそこ高齢になっていそうなのでもしかしたら不妊治療が必要になるけれど、
そもそも伴侶がいないので、いい人に出会って、好きになって、付き合って、信頼して、結ばれなければ。
将来に絶望しているのは私だ。恵まれていたことはわかっている。恵まれていてさえ幸せになれない。
ちなみに年金は自分が払った分が返ってこないことはわかりきっているのでこんなもん負担したいやつがいるものかと思いながら真っ当な人間でありたいので支払っている。
英検準一でそれくらいのことはできる。専門用語ばかりというのもあるかもしれないが、とりあえず使える。
ただ、あくまで目安。理系進学なら受験に専念し、余計な事に首突っ込むな。やりたいなら大学受かってからにすべき。
浪人あると思っているかもしれないが、それなりの企業に就職するつもりあるなら、浪人は考えてはいけない。
就職時期、浪人要素が加わるだけで大学ランクからー0.5差し引かれて評価されるとおもっていい。
人生において、大学受験は人生を大きく左右するターニングポイント。今やれる事を精一杯きっちりやるべき。たいていの企業は締め切りまでに成果出せない奴は採用したくないからね。今、頑張れ。
もっと小さい話だけど、
友達が95点(正確には忘れたけど自分より上)だわ、って自慢して
結構皆点数引く人が多かったから(だから自分も自慢じゃないが結構出来たと嬉しかった)
そいつのこと更にすげーなー、って褒めてた。
だが、かわいそうなことに、そのテストは後に上位者が発表された
(うちの学校は予告もなくたまに一部のテストで上位者が発表されてた)
それみてそいつは、あれーおかしーなー、とか漫画かよ!と突っ込みたくなる様な言い訳をしてた。
そいつは大学現役で落ちたけど、そういう無駄なプライド持ってるやつだったから皆と一緒に地元で浪人、
ってことは無理だったらしく、何やら一人で都会の方で浪人してた、との噂。
医者というと、大学に6年行けば医者になれると言うのが一般的だろう。研修2年があるから都合8年でしょ?という人もいるだろう。
おおよそ、次のようになっている。以下18歳の現役で医学部に入り、全部ストレートで行った前提とする。
①医学部6年 18~22歳
②研修医2年 22~24歳
③後期研修3年 24~27歳 ←「認定医」とかを取る。外科なら外科領域をグルグル回ったりする。
④専門医になるための教育期間3年 27~30歳 ←「専門医」とかを取る。試験とか受けたり試験資格のために実績を積んだりとまだまだ受験生みたいなもの。外の病院に行ったりする。
⑤大学院4年くらい 30~34歳 ←「博士号」を取るために大学院生に!これが無いと、大学で役職がつかない!
という風に、ストレートに行っても34歳くらいまでは受験生みたいなことをやる。試験試験、研究。である。
ここまでやってようやく普通の医者としてのスタートラインとなる。当然、多浪や浪人、国浪、試験落ち、体調悪化、研究結果が出ない、等々と人生のレールからズルズルと滑ることもある。そうすると40代でようやく新卒、みたいなこともざら。
もちろん、途中で別の方面に行くのもありで、研究医になったり、完全に基礎研究行ったり、開業したり、それは自由。そうなると、医者の中ではある意味高卒とか中卒とかという扱いになる。
この流れは医学部の学生でも知らない人も多いが、普通に知られるべきだと思う。
もちろん、⑤のあとにも「レール」は残されている。がしかし、そこから先はいろいろ曖昧でドンドン変わっていくのでハッキリとコレだとは言えない。海外留学して向こうの実力社会で職を取って、日本で教授とか。地道に基礎研究して教授とか。
今、45のおっさんです。25年前の自分に対してだと思って、書いてみます。
(1)まず、どこの大学に行きたいのか?決めよう。
「なぜ高校2年生のころは、この大学に行きたかったのだろう。」
※どこでもいいと、いうのであれば、とりあえず、今通っている
高校の過去数年間のうち、卒業生実績から上位5個ぐらいを対象とすればいい。
(この時点では、まだ候補)
おっさんの場合には、親は中卒で、誰も何も教えてくれなかった。せいぜい年に1人浪人して、
あるきっかけで、ある大学をターゲットにして、結果的に、現役でそれに受かった(旧帝大は滑り止めぐらいにした)
本を20冊ぐらい親に買ってもらって、「勉強の仕方」(どういった参考書をつかって、どのような勉強をするか?)
を勉強した。
(3)目的を再確認する。
目的は、「頭が良くなること」でも無く、「勉強ができること」でも無く、
上位で入る必要はなく、ギリでいいから入り込んでしまえばいい。
今、大きな人生の目標が無いのであれば、目標の設定後は、1年後にまた考えればいい。
長い人生、1年ぐらい誤差だ。
大学を選び間違えることもあるかもしれない。当然ながら、
大学に入った後の「貴方の人生」なんて、(親以外の)他人は誰も真剣に考えてくれない。
大学勉強の過程で、「勉強が楽しい」と感じられるのに「変わった」であれば、
それは嬉しい副作用だが、それも将来考えて下さい。
よく就活で、出身大学が問われるけれども、これは「親のしつけ・教育」「地頭の良さ」
「目標に対して真面目にコツコツ努力できる」ことの総合力を見るには都合が
いいからだと考えている。
話は変わりますが、「幸せ」とは何か?という質問があったとします。
何か食べにいく場合でも、「ファーストフード」の店「しか」選べない人と、
お金があれば、購入物の選択肢が増えて幸せと見なせることが多いですが、
代わりに時間を失うと、それは(行動)選択肢が減ってしまい、不幸せという解釈です。
Fランクの大学に行くよりも、上のグレードの方が、貴方の人生の選択肢は
もちろん、人生万事塞翁が馬のため、保障はしませんけれども。。。
最近は、弁護士や歯医者さんなども収入が減って大変だそうです。
それでも自分で職業を「選べる」だけまだ「幸せ」なんだと思います。
貴方の人生の選択肢を増やすために、1年間「だけ」真面目に勉強してみては?
(4)ひたすら過去問を解く。
現在2年生で、3年生の範囲は?となるかもしれないけれども、それは関係ない。
わからなければ、模範解答を丸暗記するぐらいまでやりこむ。
手に入る限りの過去問をやっていると、「どのジャンル」が出て、
今回は、(どの大学でも受かる)ジェネラリストを目指しているのでなくて、
ある大学に受かるスペシャリストを目指しているから、「出ないジャンル」の
勉強は、ばっさりと切り捨てる。
それは「リスク」として割り切る。
今まで真面目に勉強してこないんで、それなりの価値をつかもうとしているので、
ある程度の「リスク」を抱えるのは当然だと思う。
もしかしたら、次年度のテストは、過去問とは、関係のないジャンルが初めて出る
かもしれない。それは「不運」としてあきらめる。(=実力無い分、リスクを背負っている)
および(問題には出なかった過去問の周辺知識)を把握する。
※(導入の無い)答えの丸暗記は当然NG。
あくまでも答えの導入方法を理解して、または設問内容を把握できて、
厳しいこと書くと、その英語の問題集って、試験に受かるのに役立つ?
そういったことは余力がある人がやればいい、または余力ができてからいい。
まずは、「大学に合格する」という目標を定めて、具体的に、「何が試験に出て」、
「何が試験にでない」のかを把握すること。
「試験に出ない」ことは、現在の目標「大学に合格する」からすると、
※一般的な受験勉強は、教養にはなるし、自分のポテンシャルアップには
繋がるけれども、それはまた別の目的。
そういった「不純」な目的は、大学に受かる実力をつけた後に考えればいい。
大人の世界での、困難なプロジェクト管理におけるコツは、目標から逆算して計算して、期限を区切ること。
決して、現状から、コツコツつみあげるようなことはしない(できるのであれば、それは
目標の再確認をすると、今の目標は「大学に受かること(=Fランクにはいきたくない)」。
そのために、「勉強する範囲を精査する」(試験に出ない範囲は勉強しない)
そのために、「過去問を解く」そして、「現在の自分の実力」と「目標」
そして、その「差異」をいつまでに埋めるのか?の「期限」の設定を行います。
ここまでくれば、「てか何やったらいいのか分かんねえよorz」には、
なっていないはずです。
例えば、来年前半に、物理に、90日割くとします。過去問を3回繰り返すとします。
90日=60日(初回)+15日(復習)+15日(復習)。初回分は、60日。
仮に(計算しやすいように)120問だとしたら、1日2問づつ、確実に理解・把握していく。
感じで、大学入学という漠然とした目標から、目先の数時間レベルの具体的行動まで
落とし込んでいきます。
※お父様が筑波大学ならば、それなりに地位の方だと思うので、
大人がやるスケジュール「管理」の方法は相談しましょう。自分で全てをやる必要は無いです。
最悪、答えは理解できなくとも、時間の限り、「写経」するだけでもいいです。
私も同じ回答を何度も、(参考書みずに書けるぐらいまで)書き写しました。
あとは、本番で、数字・記号を変えるだけで、最悪、頭で覚えていなくても
「手が覚えてくれています」のでなんとかなるケースも多かった気がします。
(このご時世、受験の範囲で、高校生が、世界で初めてひらめくような
ことは、ほぼ無くて、既に、誰かが考えています)
数ヶ月後、一通り、過去問が解ける状態になったら、またここで、質問すればいいと思います。
誰か親切な人が答えてくれるでしょう。
まず、インターネットが無かった。今、空気のようにあるインターネットが
非常にうらやましい。
田舎だった。当然、学校の先生も、高度な大学の入試についてこれない。
(これは先生の能力の問題ではなくて、その他大勢の生徒のレベルに合わせるため)
おっさんの高校生(2年生2月)の行動力は、自画自賛になるけれども、
今でも褒めてあげたいぐらい。
(A)まずは、合格体験記を20冊ぐらい読みあさり、効率的な勉強の方法を調査。
※合格体験記を見て、自分なりのコペルニクス的転回は、「できない問題は捨てて良い」
ということ。田舎の学校では、そんなことは教えてくれず、目の前のことは
がんばってやりましょう」という概念が変わりました。
(C)我が家は貧乏だったので、「予備校に行かせて」とは言えないし、
そもそも予備校までも遠かった。
(参考書代金と、模試の代金は、貧乏ながらも出してもらえました)
「3ヶ月に1~2回の試験を受ける人」と「3ヶ月で20回試験を受ける人」
とでは、駄目出しされる回数が圧倒的に違うから、修正ポイントも早く気づきやすいし、
ジャンルが違う模試は、厳密には無意味だけれども、周りの受験生の雰囲気などにも
早くなれることができました。
>てか何やったらいいのか分かんねえよorz
「親が模試の費用を払ってくれている。少なくとも、費用分の元を取りたい」
と考えられるのであれば、模試をうければ、「3時間以上の濃厚な時間」を勉強できる。
時間内は、必死で考えるから、印象にも残る。試験後に、気になることは自分で調べたり、
先生(しつこいが、学校の先生に聞くのはタダでできる)に聞いたりして、同じ問題には
対応できるようにするだけでも、レベルが変わってくると思います。
試験で悪い点を取り慣れていなければ、自分も頑張らなきゃと思うようになると思う。
(勉強しようとう環境に、当時のおっさんは、自分を追い込んだ)
スポーツに例えると、武者修行(道場破り)にいって、週1でコテンパンに
やられて帰り、翌週までにまずかったところを調整。再度、やられにいく感じでした。
(少なくとも、同じパターンではやらなれないようにした)
頑張るのは、1年間だけだから、
睡眠時間+学校の時間(通勤時間)+2時間以外(基本的生活時間)は、
全て勉強するつもりだったら、なんとかなるかも?
生活は親が面倒みてくれていると思いますので、一生のうち1年間だけは、
狂ったように勉強してみるのも、いい経験になるのではと思います。
大人になると、「勉強だけすればいい」という贅沢な時間は持てなくなります。
1日8時間寝るのであれば、それは残りの16時間のためを充実させるための
必要経費です。
そもそも、最初から、1日16時間、さらに基本生活時間の2時間を除くと、
残りの14時間を効率的に生きること。それは、「本を読むスピードを上げましょう。
問題を解くための手を早く動しましょう」のような基本動作のスピードアップと
いう意味ではありません。
今の自分にとって、「必要なこと」「不要なこと」を見定めて、「不要なこと」を
やらない勇気を持つということです。
25年前の自分宛のつもりで書いてみました。
<追記>
おっさんは、元質問者に書いたつもり向けだったのですが、ここまで読まれるとは思いませんでした。
(1)実力者(上位10%)
(2)中間層(上位30%)
(3)残り(他)
(1)の人は、普通に王道を歩めばよくて、今回、おっさんが書いたような
おっさんは、「(3)残り」の人が、「(2)中間層」にどうやって勝つか?を書いたつもりでした。
(3)の人達は、まず(1)の人には勝てません。どのジャンルにも「天才」と呼ばれる人がいます。
勝つことは考えていません。
(3)の人達が、実力をごまかして、(2)の人達に勝つ(かもしれない)方法を書いたつもりでいました。
(2)の人達は、大学受験では、n校受験などして、それなりにリスクを分散をしています。
(3)の人達は、普通に実力勝負をすると(2)の人達に負けます。
当然ですが、(3)の人が追いつこうと思う間に、(2)の人も前にすすみますから、差を
縮めるのは大変です。
(3)の人達が、(2)の人達に勝つためには、リスクを背負うしか無い。具体的には、
それでも勝てそうになければ、更にリスクを背負う(フィールドをより絞り込む)ことに
なるでしょうし、余力があれば、リスクを分散化(フィールドを広げる)すればいい。
過去問というのは、自分が勝てる場を探す作業。おっさんの受験は25年前で情報古いですが、
実力無い人が、とりあえず、「この戦いに勝てばいい」の方法を書いたつもりでした。
もちろん、後のことなんて考えていません。
おっさんの書いている方法は、当然ながら、真の実力はつきませんし、
でも、「まったく勝ち目の無い戦い」よりは、マシとは思います。