2014-06-02

祖母の話を書こうかと思う

長いし、ただただ書き留めておきたいだけの自己満足だ。

両親が共働きでおばあちゃん子だった。おばあちゃんに孫は自分を入れて4人いたが、一番下で他の孫と年齢が離れていることもあって自分が一番可愛がられた。

であるおじいちゃんは、自分が5歳の時に亡くなった。

本当に溺愛という言葉が正しく、同じ家に住んでいるのに、少しでも自分の姿が見えないと探しに来た。10分離れると不安だったのだろう。

高校時代受験勉強(という名のただの夜更かし)をしているときも、1時や2時に起きてきて「えらいねぇ。まだ寝ない?」と聞いてきた。

そのたびに「まだ。もうちょっと。」と言ってあしらっていた。

あるとき夜遅く帰ると、家の近くでずっと立って待っていた。

近所でも有名になるぐらい、自分のことを溺愛していた。

高校卒業し、浪人した。この時に実家を出て、予備校の寮に入って祖母との同居から離れた。

18年片時も離れず育てた孫がある日突然出て行くのだ。寂しかったのだと思う。もちろん電話が頻繁にかかってきた。

2、3日に1度というペースで、かかってきて、いつも決まって同じことを言った。

「次はいつ帰って来るんよ?カレンダー見ながら指折り数えてるんよ。はよ帰ってきて。」

寂しいことはわかっていたが、毎週末帰るわけにいかない。

「まだわからんよ。また分かったら電話するから。」

するとだんだん電話の頻度が多くなってきた。言われることはいつもと一緒。

「次はいつ帰って来るんよ?はよ帰ってきて。」

ある時、少しだけ反発をした。

「昨日も電話したやん。同じことばっかり言われてもすぐ帰れんよ!」

ちょっと強めに言ってしまった。少し後悔した。その瞬間、思いもよらぬことを言われた。

「昨日電話したけ?そうやったかなぁ・・・。」



あとで母親に聞いたところ、自分が家を出てから物忘れが加速しているのだそうだ。

財布を家の中で失くしたり、ご飯をたべたことを忘れてしまったりと日常生活に支障をきたし始めていた。

ショックだった。祖母は働き者で、両親が働いていて居ない間はご飯を作ったり塾への送り迎えをしたり、常に動いている人だった。

自分が家を出てから、世話をする人がいなくなり、昼間にずっと寝る生活になったのだという。

自分が家に居たら。そう思った。


だんだん痴呆が進んでいった。

1年と少し経つ頃には介護必要な状態になった。

母親介護をしていたのだが、痴呆改善することはない。

悪化するばかりで、母親が消耗していった。

電話越しで母親が「もう限界…」と呟いた。

母親は長女で自分が面倒を見なければという正義感が強かった。

だがもう限界をとっくに超えていたのだろうと思う。

夜も満足に眠れず、昼間も祖母が気になって仕事からちょくちょく家に見に帰っていた。

ある日母親決断をし、祖母を介護施設に入れた。

家族はそれに賛成したし、もちろん僕も賛成した。

自分実家から遠く離れた大学に進学したので帰るのは半年に1度程度だった。

その頃には自分のことは忘れられていた。

おまん、誰よ?」

自分は○◯やで。あなたの孫よ。」

「そうやったかなぁ。もう忘れてもて誰が誰かわからんわ。」

実家に帰るたびに辛い時間を過ごした。

辛かった。けれど祖母が育ててくれたことに対する感謝の気持ちがあったので、帰ってきた時は毎日のように会いに行った。


大学4年のある日の朝に夢に祖母が出てきた。

白いぼんやりとした、もやもやしたものの中に祖母が立っていた。

はっきりと「もう長くないんよ。」と言った。

ハッとして起きた。嫌な胸騒ぎがした。しかしその時期は大学研究発表会が近づいており、こんな夢を見ることもあるだろうと思い大学に向かった。

夜8時を超えたぐらいだったと思う。父親から電話がかかってきた。嫌な予感がした。

当たった。

「もう今晩がヤマらしい。」

聞いた時は冷静だった。

「今すぐ帰るから、待ってるように言って。」

結局実家に帰る終電には間に合わず、朝いちの電車で帰ることになった。

それまでにいろんなことを考えた。もし自分が着く前に亡くなっていたら。

せめて自分が着くまで。今まで育ててもらった感謝の気持ちをまだ伝えてない。

恥ずかしさなんてこの際どうでもいい。どうか自分が着くまで。

その願いは叶った。

病室につくと、両親や親戚が集まっていた。意識はもうない。

無意識の中で人工呼吸器を手で取ろうとしていた。邪魔なのだろう。

母親は泣きながら「お願いやからとらんといて。お願いやから・・・

言葉にならないようなか細い声で懇願しながら、人工呼吸器を祖母の口に戻した。

そこにいる全員がその時は近いことを悟っていた。

だがもともと体力だけはあった祖母だ。そこから24時間保ち続けた。

そうなると疲労困憊なのは家族の方だ。

もともとその数日前から病院につきっきりの母は明らかに体力の限界だった。

自分が診てるから今晩は帰っていいよ。少しは寝て。」

そう言って母親を深夜12時ごろ帰した。

自分は祖母の手を握りながら、「頑張って。おじいちゃんが向こうで待ってるよ」と語り続けた。

いままでありがとう。こんなに立派に育ったよ。本当にありがとう感謝言葉を言い続けて手を握り続けた。

ギュッと握ったら、少しだけぎゅっと握り返してくれた。

生物学的な反射という行動なのかもしれないが、そんなことはどうでもいい。

きちんと感謝言葉を言うことが出来た。

朝5時過ぎた頃だったと思う。疲れたいたので少しうとうとしかけた所にお医者さんが入ってきた。

手首を触って脈をみる。

一言だけ言った。

「ご家族を呼んでください。」

意味がわからなかった。先生はその言葉を残して病室を出て行った。

「やめてくれ。一人にしないで。」と思ったが、することがあった。

実家電話すると母親が出た。

何を言えばいいのかわからなかった。

出た言葉は「来て。はやく。」

たったこれだけだったが、十分だった。

15分後母親をはじめとする家族が全員来た。

その中で眠るように祖母は逝った。


みんな泣いていたのだけは覚えている。

そこから2日ほどは様々な事務処理に追われてほとんど覚えていない。

祖母は元気な時から自分に言い続けていることがあった。

名前を継いで欲しい。」

祖母には娘が2人いるが、どちらも嫁に出たので祖母とは苗字が違う。

うちの地方ではよくあることだが、祖母の養子に入ることで名前を継げる。

自分は次男なので、事あるごとに名前を継いでほしいと言われていた。

祖母が亡くなる前に役所に書類を提出して、名前を継いだ。

不思議な気持ちだったが、自分の中でこれが一番の祖母への感謝を表す方法だと思ったからだった。

今では祖母の名前を継いだことを誇らしく思う。

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