はてなキーワード: 図書館とは
木村拓哉主演で映画化されたことは知っていた東野圭吾の「マスカレード・ホテル」を図書館で見つけたので今更読んだ。
連続殺人事件の次の事件現場と目される東京の一流ホテルに警察が極秘で潜入し、犯人逮捕を目指す話であった。
その序盤、ホテルマンの振りをして警戒にあたる刑事の指導をしてほしいと上司から頼まれたホテル従業員の女性の台詞に引っかかった。
(略)でも、なぜ私なんですか?(略)それに捜査員というのは男性の刑事さんでしょう?女性から指導されるのは、先方としても抵抗があると思うんですけど
女性からの発言ではあるが、例えば今ツイッターで男性が「女性から指導受けるの抵抗あるわ〜」とかつぶやいたらおそらくボコボコにされるだろう。
女性管理職の苦労、苦悩みたいな話は今もフィクションでよく見るけれど(逃げ恥のゆりちゃんとかMIU404の桔梗さんとか)、今の私の感覚だと、男性刑事が女性ホテルマンからホテル業務を教わるのに抵抗を感じるかも、という想定にはすごく違和感がある。
(その後指導される当該男性刑事は女性から指導されることについて特に何も抵抗は無さそうなんだけど)
でもこの小説の初出は2008年からの連載で、私も10年くらい前だと同じような感覚を少しは持っていたような気がする。
なんで女から指導されるのが嫌かというと、女は常に目下の者だと思ってるからだよね。
今でもそんな風に思ってる人は特に年配の男性にはいると思うけど、最近のフィクション作品だとそういった描写は控えられているんじゃないかな、と思った。
あと、参考文献や推奨文献なんかも書いてあるから読んでみるといい。
決定版を1冊見繕って2時間で読むなら、10冊をそれぞれ20分でななめ読みした方がいいと思う。斜め読みしつつきになったら熟読にシフトした方がいいが。
あと「この分野まとめて1冊でわかります」はやめといたほうがいい。
元増田だと思って書くけど、こういうこと言う腐女子珍しくない。フェミニズムがオタクを攻撃すると思ってる腐女子
別にそんなことはないから本を読んだら?と言ってる。これが助言。ここで有象無象の人間がすすめた本なんて信用できないでしょ、自分で初心者向けとかでググって探しなよ
ちゃんとやりたいなら図書館行って、司書さんのレファレンスサービスを使うといいですよ
元増田が本当に腐女子なら、「女子」がフェミニズムを敵視してるの本当にがっくりきてしまうんで書き込んだ
それと心配してるようだけど、フェミニズム(そういう団体があると思ってる?)には表現を規制したり強制的にゾーニング強化するような権力はない
私が小学生時代を過ごした土地は、所謂ニュータウン。街がつくられる時にそのまま居着いたブルーカラーの家と、ベッドタウンとしていついたホワイトカラーの家が、住んでいる地域でわかるような土地柄だった。
とてもではないが治安がいいとは言えない街。小学生が放火をし、中学生が喫煙し、高校生がバイクで走り抜ける街だ。某児童売春斡旋組織事件発覚の発端となった小学生もうちの地元出身だった。
私の家は紛うことなきホワイトカラー一家だ。元ボンボン・サラリーマンの父と江戸っ子の母の間で、歳をとってから出来た一人娘として、それなりに大切に育てられた。世帯収入は高くも低くもなく、他に兄弟姉妹がいれば私立に行くのは許されなかっただろうレベルだ。しかし女子校に入れたいという父親たっての希望で、私の中学受験は私が園児の時に既に決められていたことだった。
そうは言っても、その受験計画は実にのんびりしたものだった。目的はあくまで「公立中学校に行かないこと」。小学校一年生から塾に行くような子もいる中で、私の中学受験は小学校四年生から始まった。それもSAPIXや日能研といった進学塾ではなく、まったりとした中堅の塾。10人に満たない同級生たちと、地元の中堅私立を目指す予定だった。
しかし、それでも学校の教員からの敵意からは逃れられなかった。
彼らは常にブルーカラーの子供たちの味方だった。ブルーカラーの子供たちはまさにギャングエイジといった風体で、私の学年は4年生になる頃にはすっかり学級崩壊に陥っていた。
そんな状況の中で、私のような「恵まれた家庭」の子供は、彼らを「根性論で更生させる」ための必要悪にするのに適していた。ホロコーストと一緒。共通の敵をつくることで、教員たちは彼らと連携をとろうとしていた。
まずは保護者会で、担任の教師が「私は中学受験と塾が嫌いです」と言い放つところからスタート。この言葉はあっという間に子供たちにも伝わった。小学生にとって、それがどんな不良小学生だったとしても、「先生の言葉は絶対」だ。「先生が悪いと言った」子は、いじめたっていいのだ。
休み時間に円周率の計算暗記表を見ていたら、担任にそれを取り上げられ、クラスメイトの前で激昂された。帰りの会で黒板の前に立たされ、「私は学校で塾の勉強をしました。本当にごめんなさい」と謝らせられた。それを皮切りに、ブルーカラーの子供たちからのいじめが始まった。
帰り道で待ち伏せされる。容姿についての罵倒や、時には両親への悪口もあった。ある時はマフラーで首を絞めあげられた。子供の力なので大事には至らなかったが、笑い声のなか、酸欠で頭がぼうっとしてきたことは覚えている。
「先生の言うことは絶対」。これは私にも有効だった。だから私は、自分は悪い小学生なのだと思い込んだ。
おうちが貧乏で、ちょっと不良みたいで、勉強は嫌いで、でも、中休みになったら一番最初に校庭に出てドッジボールを始める。そんな生徒が、「良い小学生」なのだ。クラスメイトたちが音楽室に立てこもって授業をボイコットしていた時、私は大人しく教室で待っていた。でも先生が好きなのは「仲間意識の強い」彼らなのだ。
悪い小学生なのだから、虐められて当然なのだ。そう思った私は、繰り返されるいじめを誰にも相談出来なかった。
また、これは本当は幸運と言えるのだが、殊にこの場合にのみ不運と言える、両親の誤算があった。私の成績だ。
私はどうやら「出来る子」に分類される子供だったらしい。入った中堅塾ではあっという間にトップに立ち、テストも満点以外とれなくなった。ここまで来ると両親にも欲が出てきたようで、私はバスで通える範囲に出来たS某超進学塾に通うようになった。そこでも女子ではトップの成績で、あれよあれよという間に御三家を目指すことになっていた。小学生にとっての成功体験は、その子の人格形成において重要だ。私は勉強するのが楽しかった。そもそも運動は嫌いで、中休みも図書館にいるような子供だった。かけっこしか見てくれない小学校の教員たちとは違って、塾の先生は私の「勉強の」成績を褒めてくれた。後は好循環だ。持って生まれたメンタルの弱さで、模試の前に嘔吐するようなこともあったが、私の中学受験は大方順調だった。
一方小学校生活は、ぼろぼろのメタメタだった。私の通塾先が変わったことがどこからか漏れ出て、「エリート意識を持った嫌な奴」の烙印を押された。低学年までは仲良くしていた子達も、私のことを大腸菌呼ばわりするようになった。
担任が、わかりやすく私に嫌がらせをするようになったせいだった。授業中に指されて答えても、「どうせ塾でやったんでしょうね」。覚えもないいじめ事件の首謀者にも仕立て上げられた。
だんだんと体調にも影響が出るようになっていた。学校に行く前に必ず吐いた。食道は焼けただれ、小学校5年生の冬には胃薬が手放せない体になっていた。
真面目な気質のせいで、私はそれでも学校に行くのをやめられなかった。親も流石に勘付き、担任に嘆願書を出した。しかしそれも虚しく、担任は私にその嘆願書を叩きつけ、「どうしてあたしがいじめなんて言われなきゃいけないんだよ!!」と私を怒鳴りつけた。
別の小学校に越境入学しようと思ったこともあった。別の中学受験をする同級生が、そそくさと学校を変えてしまったからだ。実際両親はその準備もしていた。しかし、自分の学校に問題があることが外部に晒されることを恐れてか、校長はそれに難色を示し、「○○ちゃんだって仲良しと離れたくないでしょ」と、結局その小学校から離れることは叶わなかった。
私の小学校時代は闇だ。小学生5年生の学芸会の劇で、悪役の親分のオーディションに受かったら、自分の母親と隣のクラスの教員が寝ていると噂されたこともある。最高学年になる頃には、私は両親と塾の教師以外の大人を信じられなくなっていた。
話は飛んで、中学受験の結果から言うと、私は第一志望には落ち、第二志望の女子校に通うことになった。そこは天国だった。私が休み時間に勉強していても、誰も怒らないし、誰も馬鹿にしなかった。正直それだけで救われたし、良き友人にも多く恵まれた。そして高校生活を経て、今私は東京大学に通っている。
もし父親に先見の明がなかったか、私が過度のストレスで受験全滅していたことを考えると、今でも寒気がする。
数年前の東大の入学式の祝辞は、ノブレス・オブリージュについての話だった。私も上野先生の意見に大方は同意する。しかし私は、もし「恵まれた人間」として支えなければいけないのが「あいつら」なのだとしたら、それは吐き気を催す話だと思う。
エリートが冷たいなんていうのは嘘だ。いや、もしかしたら真実な場合もあるかもしれない。でも、そんな言説よりずっと、「学のない連中は残酷で野卑だ」という言説が本当だと言うことを、私は知っている。
大学を卒業してそのまま大学院に進んだけどついていけずメンタルもフィジカルもぶっ壊して一旦地元に帰ることになった.一浪して入った大学,一年休学することにした大学院を経て得た肩書きは実質無職なニート予備軍の学生(24歳独身男性)であった.
結構絶望の淵にいて,健康状態を考えると寿命で死ねるとも思えないし継続的に勤続することもかなわないという思いも首をもたげ始めてしまっていた.地元の図書館で司書でもやって静かに死んでいこうと決意し親と相談するまでに至っていた.親としてはひどく心配し,そして失望したことだろう.手塩にかけて育てた長男が体を壊して地元の小役人に封ぜられてしまうのだから…….そんなふうに思われているかもしれないことにひどく憤った気もするが,自分にはどうしようもない定めだと受け入れていた,いつの間にか.
何がきっかけだったか,毎度帰省しても引きこもってばかりだったのを,今回くらい誰かと連絡をとってみようということになった.確か,ほとんど話したこともなかったような,それでいて不思議な魅力をまとった子から「よんだ?」とだけメッセージを貰ったことが発端だったかも.今見返してきたらたしかにそうだった.彼女に救われたんだと思う.
久方ぶりに会うさしてよい思い出があるわけでもない男女,なんてどんな距離感で話せばいいのかわからなかったけれど,彼女の都合で結構遅い時間から駅前で飲もうということになった.そんな,都合がいい女ムーヴされて俺はどうすればいいのかと困惑したけれど(下心がなかったかと言えば嘘だけれども),誠実に対応して,テッペン過ぎてから何故か近くの史跡を深夜徘徊したり,あまりにも蚊が多いので彼女のクルマの後部座席で一夜を明かしたり(もちろん手を出したりはしていない),ともあれ楽しかった.ただ肌に触れて髪に触れて,延々と中身のないことを語らっただけなのだが,それまでのすべてが報われたような気持ちになった.
それだけでも十分に価値ある時間だったけれども,そのあとにもいくつか同様に幸せな機会が連続した.艱難辛苦をともに乗り越えてきた男友達と温泉に行った.それがきっかけで地元の友人達とさらに顔を合わせる機会が増えた.謎の営業マンとのみらいを語る会に巻き込まれた.これはこれで楽しかった(データサイエンティストはいいぞという話をエンドレスエイト).地元の連中なんて中学以降ほとんどあっていなかったけれど(そのせいでそもそも自分の進んだ足跡がほとんど知られていなかったのは驚いたけれど),いろんなやつのその後を知った.成人式に息子を連れてきた中卒のやつはもう社会人9年目とか,結婚と離婚も経験してたりとか,婿入りして逆玉の輿社長になってるやつとか.当時は気づかなかったが,友人女性はみな本当に美人で,彼女らをブスブサイクだのと対立してきた当時のぼくらはいったいどれだけゼイタクだったのだろう(笑)そんな彼女らと笑って語らうことができる機会もまたありがたかった.自分が肯定されている気持ちになった.
気づきもあった.例えば学歴を武器に生きている人間はそこには一人もいなかったこととか.みんな別々の流れに沿って強く生きていた.みんな社会人になって自分の力で生きようとしていた.自分はまだ学生,それも親に頼り切ったままであった.
ある意味無敵状態になっている気がして,この流れを逃すまいとして昔々の恋人に連絡を取ってみることにした.非常に不甲斐ないことに,いづれも不本意な終わり方,不誠実な別れ方をしてしまった過去が私にはあり,それがずっと心のどこかで引っかかってトラウマになっていた.呪いや縛りや鎖と呼ばれるものである(大学時代に誰一人としてうまくやり取りできなかったのはここに原因があるのではないかとも思っている).それと向かい合ういい機会であると思い立った.
返事は直ぐに返ってきた.「ふたりで」食事に行こうと提案した.拒否されなかったのが不思議であるが,このせいでさらに調子に乗ってしまった.自分は祝福されている.肯定されている.生きていてもいい.本当にそう思った.いまもそう思えている.そのときのことはここには書かない.自分の中にしまっておく.
もう長すぎるのでまとめる.
1.自分だけの人生の閉じこもっているとひたすらつらい.もっと他の人の人生を見て聞いて,感じるといい.
2.そのためには自室から出よう.物理的に出る必要はないけど,もっと自分の外の世界と触れたほうがいいだろう.
3.自分を肯定してくれた存在を思い出そう.自分を肯定してくれる存在とともに生きよう.きっと自分も誰かを肯定できる存在であるはず.
言いたいことがうまく表現できているとは思えないけど,推敲なしの文章一発目ならこんなものだろう.
いまは休学中だけど,とりあえず生きていけるだけの資格と経験を得られるようにしようと思う.文字にして自分の考えをまとめられてよかった.以上です.
このコロナの時世でどこもかしこも検温をやっているが、最近いつも37度とか38度といった値が出てしまう。
直射日光の下を数分歩いただけで顔が熱くなる感じはあって、夏が原因としか思えない。
冷房のついた室内で数分落ち着いた後に、脇で体温測ると36度台の平熱。
今までに病院、図書館、ゲーセン、訪問企業の受付で入るのに足止めを食らった。再測定前に、おいてあるアルコールをおでこに塗って気化熱で冷まして検温をクリアして今までは入った、なんと無意味。
いま、コロナ関係なしで皮膚科にきて、案の定37.5度だった。再測定してくれなかったから別室で待機させられている。
他に検温で困っている人いない?体質だから諦めるか、実は何か病気なのか、意味ないけど毎回顔を冷やしてから入るしかないのか。
終戦の日は、Y君の命日です。
高校時代の同級生Y君とは、それほど親しくありませんでした。同級生とは言っても、三年間で同じクラスだったのは一年生の時だけでした。その後は、時折廊下などで会った時に軽く話をし、稀にメールをする程度の仲でした。
Y君は、予備校の友人と二人で海水浴場に行って事故に遭ったそうです。酷く天気の悪い日で、彼らの他に誰も泳いでいなかったと伝え聴いています。それ以上Y君の死の理由は誰も話しません。みな察しがついているからです。
しかし、僕は彼の死の理由と向き合う必要があります。悼むだけでは足りないほどの仕打ちを、僕は彼にしてきました。
Y君と最初に話したのは、高校入学初日です。僕らの高校は、マンモス私立高校で、大概は公立高校の受験に失敗した人間が行く学校でした。お世辞にも賢い学校とは言えません。それでも、それなりの生徒を集めて、特進クラスが二クラス編成されます。僕らのクラスはその一つでした。
入学式からしばらくは、みな口々にどこの高校に落ちてこの学校に来たのかを話していました。例によってY君も学区一番の難関公立高校に落ちたそうです。最も、僕らの高校の進学クラスの大半は、その高校か、県下トップの公立高校を落ちてきた人間でした。
はじめは出席番号の近い者同士で輪になるものです。彼と僕の出席番号は二番違いでした。ゴールデンウィークに入る頃には友情の再編成が済み、僕らは別々の交友グループに加わって行きました。
端から見ていて、グループの中のY君の地位は極めて低かったと記憶しています。彼らのグループはみなテニス部でした。Y君はいつもいじられる役回りを演じていました。自分から話を切り出しても「調子乗るなよ」という言葉を掛けられている様子をよく見かけました。
入学式が終わってすぐに、実力試験を受けさせられます。Y君の試験結果がどうであったか僕は知りません。少なくとも、僕より上ではなかったことは確かです。学年トップ十人は公表され、僕は四位でした。
第一志望でこの高校に進んだ僕は、周囲から奇異の目で見られていました。ただ一人、Y君だけは、周囲と少し違う反応をしていたのでよく覚えています。Y君の同じ中学校で、学区トップ校合格間違いなしと言われて落ちた二人を、僕は下しました。そのことをY君は自分のことのように喜んでいました。
その時の僕にはまだ、そんな理由で勉強をはじめようと思う理由を理解できませんでした。彼にとって高校はどのような意味をもった場なのかと怪訝に思いました。今になって思えば、不本意に入学した学校について、明るく思える理由を見つけられた日だったのでしょう。
とは言っても、その後Y君が試験のライバルとなることはありませんでした。二年生からは、進学クラスの文系理系とで別れてしまい、一緒になることはありませんでした。英語の授業だけは進学クラス二クラス合同で、レベルごとの三グループに別れて開かれていたが、ついに一緒になることはありませんでした。二年間、Y君は成績下位クラスから上がって来ませんでした。
交友グループが完全に別れてからも、僕はたまにY君と話す機会がありました。というのも通学に使う電車の駅が同じだったのです。そうかと言って一緒に通う約束をするような仲でもありませんでした。遭えば多少話をするといった具合でした。Y君はよく話しかけてきましたが、僕から何か話しかけたという記憶はあまりありません。
彼の家はごく近所でしたが彼の家に遊びに行ったことはありません。詳細な場所も知らず、団地の名前で知っているだけでした。僕は中学卒業後にこの街に引っ越してきたので、同じ中学校の出身というわけでもありません。彼が普段通学路にしていた道が、僕の部屋の窓から見えます。しかし、駅との直線距離上に住んでいる人と思っているだけでした。
Y君はテニス部に入部していました。中学から続けていたと聴いています。しかし、同じクラスのテニス部員から伝え聞くかぎり、部の中での実力ははじめから下位だったそうです。Y君は小柄で、先も細く、よく中学生のようだとからかわれていました。
Y君と同じグループのテニス部員は、高校二年にあがるまでに部活を辞めてしまいました。部員の層は厚くないものの、後輩にも実力で追い抜かれ、Y君は引退まで団体戦のメンバーに入ることはなかったそうです。
ときに一年生の頃にY君と同じ班だったM君は強豪のサッカー部員でした。髪を染めピアスをしていたM君は、Y君に対していつも高圧的な態度をとり、掃除当番を押し付けて、誰よりも早く部活の練習に行き、後にレギュラーの座を得ていました。少なくともY君はそのような気概を持ち合わせてはいないように見えました。
僕らの通った高校には、進学クラスを中心とした三泊四日の受験勉強合宿がありました。合宿中は山のように課題を出されました。ホテルに着いて早々、会議室に籠ってひたすらに特別授業を聴かされました。それが終われば翌日までに解いてこいとプリントを大量に渡されました。まともに取り組んで解き切れる量ではなく、教師もその事を知った上で出していた節がありました。それでも僕らは、教師の鼻を明かしてやろうと思って夜を徹して問題を解いていました。
Y君は、ちょっと問題を解いては周りに話しかけていました。「どこまで進んだ?」「この問題どう解くの?」と。そして周囲が邪魔そうな顔をすると自虐的に謝った後、「よし、俺も集中する」と宣言して問題に取り組み、三十分と保たずに振り出しに戻るのでした。
高校二年の頃、しばしば僕はY君のクラスでごく親しい友人と受験勉強のノウハウや、進行状況について情報交換をしていました。そこに、部活が休みになってY君が加わったことが何度かあります。
Y君が、自分の勉強について詳細を語ったことはありませんでした。自分より成績の良い人間の発言には同意をし、自分と「同等程度以下」と思っている人間の発言にはあまり信用していないような素振りをしていました。しかし、前者が後者の発言に賛同すると、途端に賛同し出す、風見鶏な態度で話に加わっていました。
僕らはみな自分に合わせて勉強のスタイルを組み立てていました。Y君には、そのような節はなく、彼の尊敬する誰かの勉強の仕方を真似しているだけでした。正確には、真似している「つもり」なだけでした。
僕がセンター試験模試で九割をマークした時、Y君が英語の勉強内容について尋ねてきました。その頃僕は学校で配られた基礎的な問題集で文法問題を毎日大量にこなしていました。ケアレスミスを減らしつつ長文問題に十分な時間を確保するためでした。自宅学習を英語の長文に充てられるよう、学校での細切れの時間は文法を勉強していた方が都合よかったのです。
そのような事情は告げず、学校で配られた問題集を解いているとだけ告げると、Y君は基礎的な問題集にずっと取り組んでいました。かなり後になってから知ったことですが、Y君は毎度の模試では長文問題で大量失点を繰り返していました。長文を読む訓練からはじめるべきだったのに、同じ文法の問題集に何周も取り組み続けていたのです。その後も彼は模試の度に取り組んでいる問題集を尋ねに来ましたが、僕は同じ問題集だと答え続けていました。
時を同じくして学年上位の人間が「単語力が足りない。」と言ってハイレベルな英単語帳に噛りつくと、Y君はそれを無条件に肯定し、同じ単語帳に取り組み出しました。
学年上位の彼女の場合、元から基礎的な語彙力・単語力がしっかりあり、それに支えられて文法問題を解きこなし、身に付けた語彙・文法で長文を読み解き、総合的な英語力を身に着けた後に、日々取り組む実践問題の中で単語力の不足を感じていたのでした。Y君は、そのような事情を知る由もありません。
すべての教科の勉強がこのような具合で、Y君の受験勉強は日々、一貫しないものになっていきました。誰かが「基礎をしっかりしないといけない」と言えば同意をし、しばらく基礎的な勉強を繰り返し、また誰かが「基礎ばかりで実践レベルの問題が解けない」と言えば、応用問題を解き始めました。Y君は、自分の実力を冷静にみて勉強する習慣がなかったのです。
試験が終わっても模試が終わっても、Y君はいつも「次で挽回する」とだけ言って答案用紙を二つ折りにして閉まってしまい、自分が何を間違えたのか何が不足しているのか反省をしているようには見えませんでした。僕らは答案を見せ合い、点数をひけらかし合い、同時に何を間違えたのかも見られ、ときには馬鹿にされ、それを恥じ、次には同じ過ちをしまいと心に誓ったのです。そして口々、「次の試験では負けない」と言い合うのでした。
Y君は、ただひたすらに成績上位の級友に勉強方法・勉強内容を尋ね、それを真似してみるだけでした。あるいは、それで成績の落ちた級友に反省点を尋ねてみるだけでした。自分の頭を使って、自分に必要な勉強をして成績を上げようという姿勢が見られませんでした。
高校二年の秋頃から、学年トップ十人の常連の内で、制服に細工をするのが流行りました。理科実験室から拝借してきた薬品で五円玉や五十円玉を磨き上げ、ブレザーの左胸にある校章の裏に挟むのです。すると鳥をあしらった校章が後光の差したように見えます。上位三人が五円玉を、残り七人が五十円玉をはさみ、模試のたびに奪い合うのです。
事情を知らぬ者が見れば、何のこともない遊びです。どんなにかよく言っても「お洒落」程度のことです。何も知らないでY君がそれを真似して校章に五円玉を挟んでいたのを、僕らは影でクスクスと笑いました。自分の手で掴む喜びを知らないで、努力する苦しみを知らないで、努力した者の成果にだけ憧れるY君の態度を、僕らは気づき、そして内心侮蔑の眼差しで見ていました。鈍い色の五円玉が、それを象徴しているように思えたのです。
勉強をしたからテストの結果が伴うのだという自信が、僕らの中にありました。また、勉強していないから全国模試で他校の人間に負けるのだと悔しがっていました。進学クラスの同志とともに学内順位で一喜一憂するのは全国模試で泣くほど悔しい思いをした腹癒せであり、本懐はみな志望校への合格でした。
正直に言えば、僕は心底彼を見下していました。大した進学校でもない私立高校の成績上位だけを見て、「◯◯君、勉強できるもんね」と言えてしまうY君の姿勢を、僕は内心唾棄すべき存在だと思うようになっていました。
僕は、努力の方向性を間違える人間は愚か者だと思っていました。そして努力すらしようとしない人間を軽蔑していました。他の何もかも投げ打って練習に取り組むわけでもなく実りのない部活動にただ漫然と時間を費やすY君の姿勢は、まさに軽蔑の対象でした。「三年の夏に部活を引退したら、本格的に受験勉強をする」というY君の弁に至っては、この時点でもう勝負はついていると僕は思いましたが、哀れな奴だと思うことにして黙っていました。
当時進学クラスの上位面々にしても、実際には大した学力は持ち合わせていませんでした。勉強すればするほど募る不安を振り払うべく、ビックマウスで自分を鼓舞させ、歯を食いしばって受験勉強に打ち込んでいたのです。
みな手の内を知っているから言い合えた言葉がありました。「普通クラスの連中が努力して行くような大学だから、日東駒専は滑り止め」「明青立法中はセンター利用入試で一学部二学部抑えて、あとは試験慣れ」「本命は早慶、国公立大学」
Y君が目指したのも、早慶の文系学部でした。折りに触れ志望学部を聞いた時に「受かったらいいなぁ」という言い方をしていたので、どこまで本気で受験していたのか分かりません。また彼が将来どういう職業に就きたくてその大学を目指したのかも知りません。いずれにしても、当時のY君の実力からすれば、合格は絶望的なので記念受験だったと思います。
日本で双璧をためす有名私立大学どころか、当時のY君は本気で日東駒専を第一志望にして対策を組んで然るべき成績でした。それにも関わらず、十分な対策をしていなかったのでしょう。そのレベルの大学を「滑り止め」として受験し、行き場がなく浪人が決まりました。
先にテニス部を辞めたある級友は、有名私立大学に合格しました。Y君から学業面で「同等程度以下」と思われていましたが、彼は初めからY君より成績は良く、そして努力の甲斐あって志望校に合格しました。Y君が、センター利用試験で抑えるつもりだったレベルの大学です。
高校の卒業式で、Y君は自宅浪人をするつもりだと話していました。図書館で勉強している方が集中できるからだと本人は話していました。それを聴いて、受験勉強のやり方を根本から間違えているのだから予備校に通わなければY君は同じ失敗するだろうと、僕は思っていました。
僕も浪人が決まっており、同じ境遇の友人らと、どこの予備校に行くか、予備校が始まるまでどう過ごすか情報交換をしていました。しかし、僕は、彼と同じ予備校に通うのは自分の精神衛生に悪いと思い、誘いませんでした。
僕は気心が知れた戦友二人と予備校生活を送りました。定期的に他の予備校に通っている元同級生とも食事に繰り出し、情報交換とリフレッシュをしていました。時には勉強会を開き、時には悪い遊びに繰り出し、予備校生活を満喫しました。僕はY君に対して意図的に声をかけませんでした。
Y君が亡くなった後、彼がどのような浪人生活一年目を送ったのか、聴いて回っても誰も知りませんでした。分かっているのは結果だけです。一年後の再戦にY君は敗れました。彼が受かったのは、日東駒専の文系学部一つでした。浪人してそんな大学行けないと、二浪することを決めたそうです。Y君と伴に最後までテニス部にいた普通クラス出身者が、予備校生活の後に地元国立大学の教育学部に合格したのも少なからず影響があったと思います。
Y君の二浪目については、僅かながらに噂が流れていました。僕らが通った予備校とは別の大手予備校に通ったと聴いています。そしてそれはY君の両親の望みだったという話です。しかしそれ以上のことは誰も知りませんでした。
Y君は、限りなく記念受験に近いであろう第一志望の早稲田大学に落ちました。それでも、今度は明青立法中レベルの大学に手応えを感じていたそうです。高校時代の担任教師の元には、今度は大丈夫そうだとメールが来たそうです。滑り止めに受けた日東駒専の合格は決まっていました。
しかし受かった手応えを感じていた青山学院大学は、不合格だったそうです。その結果が判明した時、既に日東駒専の手続き期日は過ぎていたそうです。二浪して予備校に通い、親に負担を掛けたくない気持ちが働いたのでしょう、Y君は日東駒専の入学一時金を払わなかったそうです。
かくしてY君は三浪目が決まりました。その頃のことは、Y君の級友何人かが打ち明けられていました。「一浪、二浪までは変換できるけど、三浪って、ケータイで変換できないんだね」Y君からある友人に宛てられた最後のメールには、そう書かれていたそうです。
苦しさは後に喜びがあると知っているから耐えられるものです。喜びのために経験する苦しさと、苦しさの後にある喜びとは、価値が全く異なります。失敗の先に成功を掴んだ人間だけが、成功を評価できます。しかし成功を掴めない人間には、そのような言葉は無力です。苦しさの中でも特に失敗は辛く、とても重ねていられるものではありません。
三浪目の夏、Y君は、予備校の友人と二人で海に行き、事故に遭ったことになっています。酷く天気の悪い日で、盆過ぎの海水浴場には彼らの他に誰もいなかったと伝え聴いています。
同行したのが同じ予備校の友人であるのかは分かりません。しかしその新聞を調べてみると、天気予報では、県内は午前曇、午後から雨となっていました。海水浴に出かける天気ではありません。実際の天気を調べてみても、前日から曇り、実際に曇のち雨だったようです。
二人は遊泳禁止柵を超えて、外へ外へと泳いでいったそうです。友人はしばらくして怖くなり引き返し、Y君のことを警察に通報したそうです。海上保安庁と警察が捜索したものの、Y君が発見されたのはそれから二日後のことでした。
沖に流されて生還した人の体験談を、折りに触れ読んでみました。だんだんと手足の感覚が無くなって行き、全身が重く感じられ、乾きと苦しさと絶望のあまりに、自ら沈もうとしても身体は死を受け入れず、数時間に渡って浮かんでいると言います。その間、Y君は何を思ったのでしょう。
暗く塩辛い海の底に引きずり込まれるまでの数時間、海に来たことを後悔するのでしょうか。自らの力の無さを恨むのでしょうか。早くから勉強しなかったことを悔やむのでしょうか。時代を恨むのでしょうか。日本社会を恨むのでしょうか。
人生の遠回りを許さない日本の空気に、Y君は命を奪われました、一体誰が仇をとってくれるのでしょうか――僕はそう思うことで、Y君の死は、自分の責任ではないと思い込もうとして来ました。そんな綺麗事では済みません。彼を死に追いやったのは僕らです。
彼の学業上の相談に乗らなかったのは、彼が気楽に、好きなことをしていたことに対する妬みです。彼が、僕の思う独善的な「努力」をしないことについて、快く思っていなかったからです。「努力」などと呼んでいいものではありません。自分の味わった苦しみを人も味わえばいいという意識は、酷い嫉妬心に過ぎません。
彼が学業面で悪循環に陥っていると知りながら、僕ら「成績上位者」を誤解していることと知りながら、僕らが手の内を明かさなかったのは不当な仕打ちです。Y君は、級友の受験勉強という、励まされる理由にも自信を持つ理由にもならないものを盲信していました。そして、僕らはそのことの具合の悪さに気づいていながら放置し、影で嘲笑っていました。僕らはY君の話を聞ける関係にあったのに、聞かずに見殺しにしました。
こうまで酷い仕打ちをして、どうして彼の死を受け止めて来られなかったのでしょう。
今なお、僕は「僕ら」でないと責任を背負えない弱い人間です。そんな僕にも毎年夏は訪れます。しかし、今に自分一人、罪の念を免れたいがために記憶を上塗りし、忘れ去ってしまうことでしょう。あるいは、もうそれは始まっているのかも知れません。
実家にある、かつての僕の部屋からは、一車線しかない県道が望めます。Y君が三年間、高校に通うために歩いた道です。なんの変哲もなく、田んぼと林に囲まれた田舎の風景です。僕が彼から奪ってしまったものの一つです。
発達障害の診断が出ている。
大学をクビになった。本当に被害妄想のくそったれた悲劇のヒロインごっこだけど、それでも主観としては、大学をクビになった。どれだけ頑張っても、折角合格しても、少しだけ届かない決まりごとに無理ンゴw単位やらンゴwされて辞めざるを得なくなった。数年経った今オンライン授業なら、もしかして通えてたのだろうかとか。本当に悔しくて未だに夢に出てくる。あの学科、学びたかったなあ。
その度に怒られた。これから先の人生で遅刻をするとどんなに損をするか、どれだけ他人の時間を奪っているか、似たようなことを一体一で語られ続けた。未だに年上と一体一のあのなんか圧のある空間が怖い。
遅刻以外はわりと真面目にやっていた。ノートが取れない(1回1回の授業はちゃんと受けているのに、ノートを完成させられない、途中で抜ける、忘れる、ルーズリーフが揃わない、なくす、などなどなどなど)とか苦しいことはたくさんあったけれど、とりあえず人を殴らずに生きれた。中学以降は。小学生の頃は何回か殴ったかも。ごめんなさい。あとリストカットもしてない。ドライヤーで腕を殴っていた。今は煙草に落ち着いたので比較的穏やかになった。
大学に合格した。三年経っても俺は一年生のままだった。何度も辞めろと言われた。ついに辞めた。500万の借金だけが残った。
学びたかったなあ、と心から思う。人体のこと、細胞やなんやの小さな小さな世界のこと、いろんな生物の仕組みはちらっとやってて楽しい。他にも心理学とか、犯罪心理学って名前がかっこいいから気になるし、海のこととか知りたい、趣味寄りでいうとフィルム写真を学びたいし楽器にも憧れがあるし。趣味は知識だからいっぱい学びたかった、いっぱい好きなことを作りたかった。
学校で「されたこと」は、本当に苦手すぎて一欠片も身につかなかった数学と英語の補習、遅刻の叱責。カスカスのバカのまま、しかもガイジが判明してもう何?wwwという感情。もちろん笑い事ではない。
なんかずっと罰を受けていたような気がする。
できないなりに、必死に学校行ってたのに。授業中に眠っている・読書しているやつ(彼らは塾に通っており当たり前のように遠い学校へ進学した)は良くて、遅れてくる俺は罰された。部活でも、なんか数日間、一日六時間ぶっ通しで罰掃除をさせられたりもした。「遅刻するから」。俺はアホなので見張りもいないのにちゃんと掃除してしまって手がなんか赤くガスガスになってしまった。
罰を受けましたという事実ができたら担任は満足して、俺を退部させてくれた。顧問が言った「お前はいてくれると思ってたのにな」が忘れられない。なんやそれ。どんだけ浮いてもハブられても遅刻してもできなくてもやってたのに、ついに大会に出させなかったの誰やねん。
はいはい悔しかったね。つらかったね。ほんでそれはそれとして、じゃあこれからどうする?って切り替えてもさ。
高卒ガイジが一般的な職業に就くのがどれだけハードル高いか。もうそれは程度によるけども個人的に言うと「無理😉🎶」や。ニッチな知識を身につけてニッチな職業に就ければ、ガイジはただの変な人になれる。ニッチな知識つけたるで!と思っても味方してくれるのは図書館だけ。
図書館の利用者カード作るだけで一苦労。借りるのも返すのも苦手。青少年広場みたいなやつにも登録したけど、ホームページに書いてない規則で無理ですね…と言われて数回追い出された。書けや。ガイジか?交通費返せ。
なおNHK高校講座(響きが草)はかなりありがたい。ネット環境っていう豊かさが必要ではあるけれど、かなりガイジ的ハードルの低い作りである程度信用できる情報に辿り着ける。タダ。
他に、どこに行けば「学べる」のかが全く分からない。高校ってあれ、なんやったんやろうな。本当にひたすら罰されてた。関係代名詞よりもたすき掛けよりも教えてほしいことがあった。もう今やクラップユアヘァンズぐらいしかぱっとわからんし繰り上がりの足し算で電卓立ちあげる。苦手なことをずっとやって、やっても結果はでなくて、罰されて、
最終的に辿り着いたのがここでも、自分がガイジに生まれたことも、塾に通えない経済環境のくせに夢を見たことも、物理と精神殴られ続けた日々も、謎の説教を受け続けて誰も解決してくれなかったことも、なんかもうそのへん全部ひっくるめて自己責任なんかな。俺が悪かったんかな。ガイジのくせに普通になろうとしてえろうすんまへんな。
なあこれからさ、ちゃんと学んで、現実逃避しすぎずに生きれるかな。生きててよかったとか言う日が来んのかな。ちゃんと自分の稼ぎでドルオタできたりするんかな。はやく半身不随になりたい。
来世では恋をしたい。まともで穏やかな人になって、自分は人ではないんやから結婚する権利なんて〜〜とか一欠片も考えないまま、普通に、ふつうに生きたい。欲を言えば、教育に携わる人になりたい。ほんま教育がおクソのこの国をッッッ!!変えたイーーーイイーッアアーーーーーンッ!!!命がけデーーエエーーーッ!!!!
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/blog.kyash.co/entry/2020/08/12/092539
あかんよなあ。
エンジニアが本番DBにアクセスできるのはしょうがないかなとも思うけど
聞いた話では管理画面にいたってはほとんどの社員にフルオープンだとか。
”どこで何買ったか”って図書館の貸出履歴以上に取扱注意な情報だと思うんだが。
社内に閉じてるとはいえそんな気軽に誰でもアクセスできちゃだめでしょ。
ついでに言うとこの記事に書いてるチーム構成もヤバイと思った。
これ入社2年目でシニア扱いってことでしょ。他の二人は半年にも満たないし。
人事異動で職場が変わったが、精神的に不調をきたし、適応障害で数ヶ月休むことになった。
気分が落ち込まない薬を処方され、夕食後に飲んでいる。朝は会社に行ってた頃と同じように起きているが、午前中は頭がぼーっとしている。
ずっと働き詰めで、いざ休めるようになると時間を持て余している。
勉強とか運動とかやりたいことはあるが、実際にやろうとしていない。
ぼーっとしたままその日が終わってどんどん日にちが経っていく。
地方都市の車通勤なんだけど、勉強できるスペースってどこかないかね
7時30分くらいまで空いている場所
図書館は閉まっているし、喫茶店やマクドナルドはコロナのせいで長く居づらい
大喜利で「家」と答えた人は電源抜くよ
気がつくと増田は図書館から借りた一冊の本を手に持っていた。題名も覚えている、米沢穂信「満願」だった。図書館の場所が分からず友人aに聞いたのち自転車で図書館に行った。図書館に着いたのだが、気がつくと自転車は消えていて、何故か自分で本を本棚に戻していた。その時の風景は本屋と図書館を合体したような場所であった。何というかショッピングモールの本屋に図書館にある読書台がポツポツある感じ。そこに友人aもいた。が、友人aに対する増田の興味は薄く友人aも気がついていなかったので無視して満願を本棚に自分で戻しに行く。驚く事に満願はシリーズ作品では無いにも関わらず「満願2」「満願3」が本棚にあった。とりあえず満願を本棚に戻す。そこから少し意識が飛ぶ、気がつけば図書館の外にいた。増田は自転車を駐輪場に置きに行っていて、そこで子供用のカゴがついたママチャリに乗る女性に会った。子供が一緒居たかどうかは記憶にない、そして増田は気がつけば彼女を姉御と呼んでいた。正直タイプだった。増田の好きなアニメキャラの特徴を全て併せ持つ様な女性だった。久しく恋愛感情を忘れていたが、増田は夢の中で彼女と付き合いたいと思った。図書館の中に入ったはずが気がつけば彼女とゲームセンターにいた。完全にデートだ。しかし、甘い時間は長くは続かない。そこで目が覚めてしまう。凄く贅沢で甘美な夢だった。巨大な忍者ハットリ君軍団に追われる夢を昔見たが、それ以来初めて忘れられない夢を見た。
今年の夏の課題図書が図書館に置いてあった。小学校高学年が対象の本で『飛ぶための百歩』というタイトルだ。翼を広げた平べったい鳥の後ろ姿の曲線がに惹かれ、手に取った。なお、私は小学校高学年の少年少女ではない。夏休みの苦行、読書感想文を書かねばならぬ彼らがこれを必要としていることは認識していた。罪悪感はちゃんと持っていた。多少の良識がある大人だと、自分に言い聞かせた。
本の貸し出し、一番乗りだった。ごめんなさい。
この本は、目の見えない少年が人付き合いが苦手な少女に出会い、絆をつくる、ボーイミーツガールの物語だ。
タイトルにある「百歩」は山小屋の名前とラストでの「ここまでちょうど百歩だった」ことのダブルミーニングと思われる。ラストの舞台は1年後の話になるので、困難を乗り越えたあと、彼が良好な状態になる「ための百歩」だろうな、とタイトルの考察をした。
ただ、「飛ぶ」がわからなくて、いやラストシーンで”飛ぶ”んだけど”トぶ”にしか思えなくて、飲み込めなかった感あり、今もなお喉奥に引っかかっている。
この物語は、タカのひなが密猟者にさらわれ、それを救出し、巣に戻す、という事件があるのだが、都度、主人公の驚異的な聴力と、驚異的なモノマネ力が爆裂し、困難を乗り越える。その過程で主人公と少女はお互いの悩みをぶつけ合い、自身の在り方を見つめ直していく。
いいでしょ。いいんですよ。少年少女なんです。
でもね、1年後のラストシーンで主人公が上空を飛んでいるタカを「ぼくに会いに来た」とのたまい始めて、様子がおかしいと不安になる。よしんば、空を飛んでいるタカがその時のひなだったとしても、ひなは君を認識していないだろう。双眼鏡でヒロインに実況してもらわないといけないほどの距離にいたのに。
さらに彼は、崖に向かって走り、崖下へ飛び込んでしまう。空を飛んでしまう。比喩である。比喩であった。しかしこの描写は、私を完全に置いてけぼりにするには十分だった。
これは自論なのだが、舞台装置としての魔法・奇跡といったものは、冒頭の設定で使われるか、事件解決のために”1度だけ”使われるべきだと思っている。(SAVE THE CAT が言ってた)
この場合、事件解決に使われた主人公の驚異的な〇〇が魔法だとしたら、2回目が使われたのは残念に思ったし、なにより、最後の最後で突然、前触れもなく白昼夢のような魔法の世界が描かれ始めてしまったことで、今まで読んできた現実的な世界観との温度差が生じ理解が追いつかなくなった結果、本当に崖下にジャンプしたのだと解釈したほど混乱した。
それまで、物語の傍観者だった私は、彼が飛び立った崖に取り残され、空から降ってくる立方体のキャラメルを眺めていることしかできなかった。
さて、ラストシーンから書いてしまったのは悲しみが深かったからで、文字数的なノルマはまだ残っているので、この物語が課題図書たるゆえんっぽいところについて、述べたいと思う。
作中に明記されているが、この社会はマジョリティーが便利なように作られている。その中で、マイノリティはサバイブしていく作戦を練り続けなくてはならない。主人公は、このサバイブしていく少年である。しかし、ヒロインもまた自信のなさをを抱えたマイノリティでもある。
誰しもどこかにマイノリティを抱えている。その部分を痛むのではなく、誰かに助けを求めたっていい。また、マイノリティな部分を自覚して向き合うことも大事だ。
ボーイがガールにミーツして成長する話ですが、この成長は冒頭に述べた"崖からトぶ"力を得る、ではない。当然である。
ヒロインのキアーラは、男子に憧れられ、女子に嫌われるタイプのミステリアス引っ込み思案クールビューティーなわけですが、無言でジェスチャーをしたところで目の見えない主人公には何一つ伝わらず、口に出して表現せざるを得ない。その状況に置かれて初めて、言葉に出さないと気持ちは伝わらないことに気づく。
これは、万人に対してそうであることはご承知のとおり。しかし、ひるがえってみれば「言葉がなくても理解できる」と錯覚するほど、ジェスチャーやアイコンタクトからは多くの情報が得られる、ということなのだろう。
私の会社の営業が「付き合いの長い取引先とはWebミーティングでもいいけれど、新規さんは相手のクセが分からないから、やりづらい」と言っていたのを思い出した。だから”最大の理解者”というのは尚早すぎると思うよ、キアーラ。
主人公のルーチョは、目が見えないことを"アクセサリー"と考えている(この表現は好きだし、私もハンディは個性の一種だと考えている)のに、周りが「目が見えない」ことを前提に自分を見ることに怒りを感じている。
ルーチョは誰かに頼ることを極端に嫌う、意地っ張りで頑固な少年だ。でも、その意地っ張りは、誰かに頼ることなく、自分でできることは極限まで自分でやれるように訓練する努力にも結びついているのだと感じて、だれか、彼の頑張りを称賛して欲しいとずっと思っていた。
それをやってくれたのが、キアーラだった。私は心のなかで拍手喝采した。ありがとうキアーラ。ルーチョが君にミーツしてよかった。
キアーラが「口に出さないといけない」と気づいたのと同様に、ルーチョも「人は誰かに頼らないと生きていけない」と気付いてくれて、私は少年少女の成長の瞬間に立ち会ったことに感動した。青春だ。これが。
道中ギブアップしたルーチョのおばのベアは、彼ら二人が戻ってきたとき、どんな反応をしただろう。彼女はルーチョのこれからを誰よりも案じていたから、帰ってきた甥が自立への一歩を踏み出した様子を見て、泣き出さん勢いではなかっただろうか。
私だったら泣いてしまうだろう。自分では何年かけても気づかせることができなかったことを、甥に気づかせてくれた、昨日今日会ったばかりの少女と、それを受け入れた甥を全力で抱きしめたい。
靴ずれでズルむけになったかかとが痛いと言いながら。
まあ、1年後、なにわらってるの?と青ざめるのですけど。
余談
ボーイがガールにファーストコンタクトしたときにツンな反応をされたのを「質問4回でノックアウト」と表現していて、イタリアーノだなぁ、と思った。日常的に口説いてんの?
また、地獄のオタクなので、高校デビューした美少女キアーラがとんでもないギャルになっていて、初恋?をきび砂糖のごとく粉々に砕かれるルーチョはアリかな、と思いました。でも、見た目ヤマンバになってても関係ないのか、内面が見えるのは良いことだね。