はてなキーワード: 愛されたいのとは
俺は犬と猫が好きだ。嫁も猫と犬が好きだ。だからずっと犬を飼いたかったのだが住宅事情と仕事の関係でずっと飼えなくて、去年の暮に満を持してペット可能の借家を借りることにした。
家は多少ボロいのだがペットOKの条件で探したのでそこは文句なく、中村珠緒似の大家さんに犬を飼っていいか尋ねると「もちろんいいですよぉどぼぼぼぼ」と中村珠緒みたいに笑って許可してくれた。
果たして犬を(願わくば猫も)飼うべく俺たちがまず認識を共有したのは「保護犬(猫)にしよう」ということだった。ここでは生体販売がどうのとか言うつもりはない。ただ、可哀想な子を可愛がろうと思ったのだ。
いくつかの里親募集イベントをネットで調べて二人で出かけてみたが、なんか色々と条件を付けられ「それ必要なのか?」って思うようなものまであって、いくつかのイベントを見送ってはめげずに別の里親イベントの予定を作っていた。
その犬に俺たちが出会ったのは、やや騒々しくある比較的都市部で行われたイベントであった。その日は猫がやや多めだったが、それでも何頭かいた子犬たちがせわしなく動き回り訪れた里親希望者や冷やかしに愛想を振りまいていた。成犬であるその犬、おそらくポインターとかゴールデンレトリバーとかの雑種とおぼしきその犬は子犬たちのケージから少し離れた位置で、子犬目当てで来た人たちに社交辞令的に撫でられては子犬ケージに向かう彼らを見送りながら静かに寝そべっていた。
俺たちも子犬が目当てであったが、とりあえずこいつを一応ひと撫でしようとしたら、俺たちを見るなりその犬は何故か突然ゴロンと仰向けになり腹を撫でるよう促してきた。俺も嫁もそうかそうかと撫でまわしてから子犬ケージに行ったのだが、どうにもその犬が気になる。吠えもしないし立ち上がりもしないでこちらをずっと見つめている雑種の成犬が。
子犬はどの子も可愛かったが、一つだけひっかかった(気に入らないとまでは言わないが)点は、どの子もポメラニアンとかダックスとかいわゆる座敷犬系の犬で、どうも俺の中での犬好きメーターがレッドまでは行くが振り切りはしなかったのだ。嫁に意見を求めると「どの子も可愛いけど、あなたはどう思う?」と返してきた。こいつがそう言う言い方をするときは「私はピンと来ないんだけどあなたがいいならいいよ私はピンと来ないけどね」と言うときなので、何となくだけどあの成犬が気になると伝えたらありがたいことに「あれね!あれも可愛いよね。それに成犬だからもしかして子犬より手かからないかな?」と好感触だった。
俺たちが再度あの成犬の所へ近寄ると、さっきの腹見せゴロンのときとは違い「え?え?また俺の所へ来た?もしかして俺のこと好き?!」と興奮気味に立ち上がり激しく尻尾を振りながら前脚を足踏みし、俺たちの歩みがもう待ちきれないとばかりに何度も上半身を上げ下げし始めた。(この上半身の上げ下げと言う表現で伝わるだろうか)
俺はもちろんだが、予想外に嫁が気に入ったので、この推定年齢3歳という犬を引き取ることにした。
引き取ると言ってもその場で決定ではなく、トライアルと言って数日預かって様子を見てから(予防注射などの経費を負担した上で)正式に引き取るというプロセスがあり、後日その犬が俺の家にトライアルに来た。とりあえずどこでトイレをしてもいいようにとペットシートと雑巾を手に持って家の中に犬を入れると、多少遠慮がちではあるがそれでも「お?お?ここはどこだ?これはなんだ?」と2DKの小さな家の中を好奇心旺盛に歩き回る。3周くらいしただろうか、手に持っていたそれとは別にバスルームの前に「ここにしてくれるといいな」と嫁が敷いておいたペットシートの上に犬がおしっこをした。トイレのトレーニングは済んでいるとは聞いていたが俺と嫁が「えらい!えらい!」と誉めると「だろ?だろ?」と嬉しそうに寄ってきた。ちなみにこの犬がトイレで失敗したことは今日に至るまでない。
一緒に暮らし始めて気づいたが、この犬は常に俺か嫁を見ている。必ず目が合う。窓辺に寝そべっていてもこっちと目が合うとずっと見ている。そして次第にカーテンに隠れた尻尾がぱんぱんぱんぱんと床を叩き始めてやがて「そうかボールか!ボールを投げたいんだな?」とボールを咥えてこっちに来る。俺がいないときも犬は洗濯機の前に座って、洗濯をしている嫁を笑顔で見上げて「手伝おうか?」と言いたげに尻尾を振る。散歩に出ると(嫁のときもだそうだ)、俺の一歩か二歩前を歩きながら俺を見上げる。あまり激しく引っ張ろうとはしない。やや大きめの犬だから運動量が必要だろうと自転車で散歩すると今度は別人のように走る走る!「もっとだ!もっと早くこげ!何なら俺引っ張るぞ!」と言わんばかりに飛ぶように走る。そして飛ぶように走りながらもやはりチラッチラッとこちらを見上げる。
俺と嫁が食事していると(食卓の構造上俺たちは並んで食事をしている)テーブルの向こう側から鼻だけが出てきて鼻の孔がひくひくしている。ソファに座っていると俺たちの間に飛び乗って来て俺に頭、嫁に腹を向ける。言っておくがこの時点ではトライアルである。とにかく「賢くていい子」なのだ。職員の人は「トイレはちゃんと訓練済みです」とだけ言っていたが、ここまでいい子なのは訓練によるものじゃなかったのか?持って生まれた性質なのだろうか?
そして俺たちはもうとっくに気づいていた。この犬は愛されたいのだ。愛されても愛されても愛され足りないのだ。事前に遠まわしに事情を聞いたがこの犬は山奥につながれて捨てられていたそうだ。つながれた理由はおそらくはついて来ようとするからだろうと。保護されたあとも、子犬たちと比べれば確実に成犬の自分を里親が敬遠する経験も沢山したのだろう。だから最初に接触したときにお腹ゴロンをしたのがこの犬にとっては毎回最初で最後のチャンスで、一番可愛い所を見せなくてはいけない勝負のときだったろう。そして何度もその勝負に敗れた末に、遂に俺たちが現れたのだ。
俺は嫁にこの犬を引き取りたいと言ったら「というか私はじめからそのつもりだから」と返ってきた。嫁がこの犬を俺と同じように気に入ってくれて良かった。はじめから決定権が俺になかったのはこの際どうでもいい。
そんな日々の様子を適当に写真に撮って(この作業は約束だった)送るトライアルの期間が終わり、引き取りの意思最終確認のとき、俺たちが当然のように正式譲渡を希望すると、職員の人は「まあそうだと思ってました!」と笑った。俺たちの送り続けた写真がやたら多かったのと、写真にうつる犬が一枚残らずカメラ目線だったのでこの犬は(もちろん飼い主としての俺たちも)大丈夫と早い段階で判断してもらっていたようだ。
一通りの手続き(書類や経費の支払い)を済ませて正式にうちの子になったこの犬に名前をつけよう(トライアル期間中は施設で呼ばれてる名前で呼んでた)としたら、嫁がすでに決めていた。いい名前だ。俺の意見など無用だったみたいだがいい名前だ。
始りが高尚なんだ。恋愛に悩んでる同士が、相手を身代わりに勝手に憂さ晴らしするまでかな。
「こんなことしい」「こんなことされたい」。でもその相手を見てるわけでないから、相手を意識しないし。
エロが幼稚か。エロいことだから受け入れて欲しいんだ、恥ずかしいことだから。
女の子と裸で抱き合いたいなんてごめんね。みんなそうだし、私も抱き合いたいから。
おちんちんおっきくしながらキスばかりして変かな。おちんちん握ってる私をエッチだと思う?ううん。
なんとかさんも、こんなに、可愛いくて、気持ちがいいくて、エッチなのに、もったいない。
彼女とはまだだっけ。あなたのも、おちんちんもこんなに気持ちがいいのにね。この指も、唇も、
実はコンドーム付けてなかったと思うんだけど、付けずに挿入するのもうだけど、
いく気配が感じられてから「中で出したら困りますよね」「それは困るなー」「ですよね」って、
外に出したのかな(膣外射精は避妊では有りません)。でも僕は中で出さないだろうし、
妊娠してもお互い困ったことにはしないだろうって、相手を分かってたからかな。
相手がすることなら何でも受け入れるし、相手は自分が受け入れられない非常識なことはしない、
なぜならそんなことしてもつまらないし、相手に嫌われるし、結局自分の欲しいものも失うし、
そうゆうことを全部含めて自分を全部知ってくれてしたいことをさせてくれて、
自分はおかしくないまともな人間なんだっていう知る安心と、許されてる感が麻薬みたいに欲しいのかな。
女子の想像して書けば、私も好きって大事にされて、少しわがまま言っても許されるくらいには可愛いよね。とか。
いつもは服着て恥ずかしいことしないでいるんだから、エロは幼稚さ何だからと思う。
愛されたいの!(おちんちんいれたいの!)で、いいのよってわがまま聞いてくれる。
だって僕の恥ずかしいおちんちん握られて舐められて、射精するところも見られて、
お茶してるときも(おっぱいさわりたいなー)とか思っても(そうそうもう見たし揉んだし、
手でいかされもしたんだっけ!)って気付くと、色々問題が簡単になる。
仮定として、せっくすしたくてその女の子との関係性に色々考えるのなら、
せっくすした女の子ならそんなこと考えなくていいから、他のことを考えられる。
ここまで書いたことは全部僕の頭の中だけの話で、せっくすしたから相手を知ったふりとか、
欲求達成とか、我が物顔とかでは全然違くて、ちゃんと否定しておかないと。
相手の気持ちは全く関係なくて、僕が僕の中で自分のことは知られてしまった。
僕に「私のこと好きでしょ」って聞くなら、そりゃ嫌いなら目の前にいないからね。
なんだっけ?そうそう、僕のエロ幼稚だけど、僕には要なことなんだよ!
問題は他人を愛するつもりが全くない事、他人からみれば自分は他人なのにその自己視点からの他人に対して愛されたいのではと想像することがないため他人から愛されることがなく、また他人の愛のかたちが多用であったとしても自分には都合がわるいことを受け入れるつもりがない事なんじゃないの?
自分は愛してくれたら愛し返すんだけどといっていれば愛をもってしてなにか得られるものが現実的に予定されていなければ、だれでもよい、誰であってもハッピーな結末に至る可能性はゼロではないってことになるでしょ。
またそれを同じこと思ってる他人がいるとすれば愛さないと愛し返してもらえないということなんじゃないの?
してほしいことを具体的に情報共有するのではなく、相手に行動を規制するよう指示することがコミュニケーションや権利だと思っているなら排除することこそが最も望んでいる人間関係じゃないの?
能動的に自分に関わってほしいと思っているなら関わってもよい範囲や関わってほしい方法を褒めたり、黙ってろするなではなくどうしてほしいどうしたら好感がもてるというべきだと思うけどなんでしないの?
結局他人に対して自己中心的な愛し方という意見の仕方や嫌われる関わり方を親からしっかり受け継いだのでもしだれかいい人いたら僕の歪んだ成長の仕方をさせる子供を一緒に育てませんかパートナー募集中なんだろうなとおもうとそれがもしわかったならふつうにご遠慮願うと思うわ。
渇望って自分の欲求だけは丸出しにすることは厭わないそんなご一家と一生付き合うことになるのに相当なメリットが金銭的なりにもなければ好んで我慢をするために愛するようなまねができる人はそう多くはいないと思うし現にお金さえもらえたらそれに見合う数量では愛すよという人以外、身近にいないんじゃないの?
この記事は29歳独身男性が正月に帰省して、家族とのやりとりから自分の生き方の癖の原点と、自分の慢性的な渇望を自覚した話を淡々と描くものです。過度な期待はしないでください。あと、部屋は明るくして、ディスプレイから3メートルは離れて読みやがってください。
もちろんフィクションですので実際の人物団体とは関係ありませんし一部フェイクいれてます。
今回帰省で1日目は母方の祖母の、2日目は父方の祖父を訪ねる日程だった。実家と祖母、祖父が住んでいる家はすべて関東圏内で、車で1時間程度の距離である。
今回祖父母の家を訪ねるにあたり、大学生の妹が練習のために運転して父が助手席で監督するというかたちだったのだが、運転席の後ろに座っている母が運転中に車間距離や運転速度、歩行者について大声で責めるような口調で口出しをするのがとてもいたたまれなく、つらかった。5分に1回以上のペースで「あぶない!!(どこに歩行者がいるのかなど具体性なし)」「(車間距離が)近すぎ!」「もっとスピード落とすようにしっかり指示しないと!(父に向かって)」と叫ぶのを聞くのが耐え切れなくなり、母に対しかなり強い口調で運転中に別々の人間から指示を出されるのは運転手にとってフラストレーションだし危険である、ということを伝えた。そうすると母はやや不満げにわかった、といいしばらくは黙っているのだが10分も我慢できなかったようで、またすぐに口を出すようになった。私が運転に慣れてなかった頃も同じように父に監督してもらったが、そのときも後ろに母が乗ると必ず口を出してくるためやめてほしい、と何度も伝えたのだったのが思い出された。
そこで私は、あぁ、母は本当に私や妹がどう思ってるか興味はなくて、自分の子が自分の思い描いた通りに動くかどうかに1番の関心があるんだな、と諦めがついた。この車のエピソード自体はまあ大したことではないのだけれども、私にとってコップから水があふれる最後の一滴だった。私は自分の感情や欲望というものに蓋をするのが非常に上手で、他人の顔色を伺い、自分の気持ちを表明せずに飲み込めば場がうまくいく予感がする場合、ほぼ必ず飲み込んでしまう。その原点のひとつがこの情緒不安定で話を聞き入れない母で、その対策として私の性格が形成されたんだろうな、と納得した。とても寂しいけど、とても腑に落ちる納得だった。
母は非常に心配性であるとともに、自分が正しいと思ったことは絶対に曲げない性格である。そして気分の波が激しく子供のころはそのことで随分苦しんだ。父は御三家中高→東大→大手銀行、母も御三家中高→名門私立大学首席と大変立派な学歴であり私が中学受験するのは生まれる前から決まっていた。(私が生まれる前の時点でマンションを購入するときの判断材料のひとつが御三家に私が合格した場合に通学しやすい駅であることだった、というエピソードから色々察してほしい)。3、4歳から公文を習っていて、宿題の計算プリントが終わらなくて家で泣きながらやっていたら強い腹痛を感じたため母にそのことを伝えたら嘘をつきなさい!と睨まれたのは今でも忘れない。自分のつらさを伝えても無視される無力感はいまだに生々しい。カリキュラムテストや公開模試の結果が返ってくることがとても憂鬱であったこともよく覚えている。専業主婦だった母にとって、私の中学受験、そして大学受験は一大プロジェクトだったのだろう、母のエネルギーと執着は私に注がれ続けた。
母の狂気、そして父の経済力のおかけで私は予定通り御三家に進み、国立医学部に進学、卒業し現在某県で四六時中働いている。普段はそこまで意識しないのだが、毎年年末年始はとくに情緒が不安定になる。愛し、愛されていますか?と周りから問いかけられているような被害妄想にかられてしまう。別に目の前で夕飯の具材を和気藹々と選んでいるカップルは私を追い詰めて孤独感をつのらせようとしているわけではないし、スーパーに鳴り響くクリスマスソングは今年も恋人と過ごせない私に意地悪して惨めな気持ちにするためにかかっている訳ではない。勿論そんなことはわかっている、わかっているが胸が締め付けられるし深呼吸できなくなるし、少しでも油断すると愛されない自分と、愛し合ってる幸福な関係を呪いたくなってしまう。こんなにも愛されたいのになんでこんな愛されにくい性格なのか、どうして愛されるのは私じゃなくてお前なんだ、と。
私は他者に従順で、他者の顔色を伺うのがうまく、自己主張は激しくない。他の人が面倒がってやらない仕事もするため上の先生受けは悪くない(はず)し、患者や病棟スタッフからは優しい先生だとどこの病院に勤めても言われる。病院を移るときに泣いて感謝されて別れを惜しまれたことも数回ある。それは大変、大変ありがたいし私の数少ない生きる支えになっている。本当に感謝している。単に便利な駒と思われてるだけかもしれないけど、それでも身が粉になるまで働くね。が、一方で私の利他的な言動の根幹に自己嫌悪と人間不信が深く深く根付いていることに最近気づいた。
人を信じていないため、相手の利益になることをしないと自分に価値はないからすぐに捨てられるだろうという確信、強迫観念がある。素の自分に価値はないから勉強すべきだし、素の自分に価値はないから他の人がやりたがらないことをやるべきだし、素の自分に価値はないから他人のために生きるべきしそのために自分の感情や欲望に蓋をするのは当然だ、と。見せかけの自分を偽装することが年々上手くなり、幸か不幸かその評判が職場では悪くなく、ただ自分の気持ちに厳重に蓋をして他人軸で生きているため満たされなさ、慢性的な空虚感、欠乏感がある。正直今なにかの拍子に即死したらお、ラッキーじゃん?と思う気がする。この欠乏感はどういうときになくなるか自分の気持ちを必死で感じてみると、心を許せる人と時間を過ごしているときだけはこの胸の裏をカリカリ引っ掻かれるような気持ちがなくなることに気づいた。ただ一人に誰よりも愛されたい、受け入れてほしい、という普遍的な、しかし切実な気持ちである。
私はとにかく異性に縁がなく、人生唯一の交際していた期間は24歳のときの1年間で、それ以外は凪である。そのときの相手には今でも深く深く心から感謝していて、あの未熟でどうしようもなかった当時の私をいっときでも受け入れてくれたことは生涯忘れない。幸せにしてあげられなくてごめんね、幸せになってほしいといつだって祈ってるよ。その後職場や婚活で何人かに好意を示したが、私の空虚がバレるのか交際まで至ったことはない。みなさん大変見る目がある。おそらく私にとっては2人の時間のおかげで心が安定するが、相手にとってはそうではなかったのだろう。包容力、余裕のなさよ。私は貯金もあるし料理もするし水回りの掃除は好きで家事機能付きATMとしてはそれなりに機能するのだがそれを差し引いてもお断りされるのだから笑ってしまう。私がなぜ愛への羨望、渇望があるのかと考えると、無条件に愛されているという実感を感じたことがなかったからではないかと思い至った。父も母も私を愛し育ててくれたが、それは条件付きの愛ではなかったか。従順で手のかからない優等生"だから"愛していたのではないか。だからこそ勉強をやめようとするとじゃあ中卒でいいんだな、今すぐ家を出ていけと言われたのではないか。患者やスタッフから好意的に受け入れてもらえてるだけで本来は幸せであるべきなのにそれでは全く足りず穴が空いたバケツに水を入れるような状態になっているのではないか。
私の魂の深いところに自己嫌悪と人間不信があり、他人軸な生き方をしてきている。そのため満たされなさ、空虚さがあるがいままで自分の気持ちに蓋をしすぎて、自分の気持ちの詳細がわからなくなっている。様々なひとが私にうっすら好意的だが、私を誰よりも深く愛してくれる人はこの世界に1人もいない。親は私を愛してくれてはいるが、それは条件付きである。愛への強い渇望感があるが、渇望感があるため愛されない。
このデッドロックを言葉にできただけでもこの正月に意味はあったはずである。いくつかの本(※)を読むと愛されるのを目指すのではなく愛せ、自分を愛せない人は他人を愛せない、と書いてあった。さすがに交際している人全員が交際前から自愛できているとは思えないのでそうであったほうがより幸せだよね、と解釈しているが… …突破点として自愛が鍵になりそうな予感はある。自分を愛せるようになるにはまず自分の気持ちや欲望を言語化すること、自分の身体感覚を取り戻し快不快を自覚することだろうと信じてこの記事を書いた。書いている最中はやや気が滅入っていたが、書き終わった今、かなりすっきりした気持ちでいる。
あと以前親からは酷く嫌がられたので諦めていたが、内緒ではてブで有名な某結婚相談所に申し込んだ。万が一出会ってしまったら何卒よろしくお願いします。
いつかこの記事を笑って読み返せる日がくることを願って、そして自分だけじゃなく他の誰かの心の整理の一助になれたら。
※「愛する意味」上田紀行、「生きる技法」安冨歩、「アダルトチャイルドが人生を変えていく本」アスク・ヒューマンケア相談室 など。どれもよい本でした。
駅で肩を突き飛ばされてもへなへなと笑って
ポジティブシンキングしないといけないから嘘だとわかっても前向きに取り繕って
そんなものが人生ならば今すぐやめてしまいたいのだがどう思うだろうか
我儘だ、とよく思う
当たり前に権利の主張を声高にする
傷つかないために決めた強すぎる自我の発露がたくさんあって
そのせいで疎まれたり嫌われたり距離を置かれることはいざ知らず
仲良くなるのは大得意
見限られるのも大得意
大丈夫大丈夫、来るもの拒まず去る者は追わないよ、っていうけれど
拒絶すれば寄ってくる?最初だけだよ。みんな本当は話せる僕を見てたじろいでいくんだ。
愛される真似をすればするほど、吐きそうになったのはいつからだろう。
前はうまく演技できたのにな、演技してもしなくても人が去っていくことは変わらないけど。
絵を描くことが好きだった。
でも誰一人、私の絵がほしいわけじゃなかった。
みんなそうだ。そうだけどさ。
若さ。女であること。望むコンテンツ。エロティシズム。いろんな理由から、邪に私の絵は消費される。褒めてくれるならなんだっていいよ。自暴自棄に陥ったらどんどん、空っぽになっていった。本当に好きなものを好きと言って否定されることが怖かった。
でも媚びたところで、結局何にもならなくて、私は社会の歯車として生きる一生のみを嘱託されてこの世に生れ落ちてきたのかと思うとこの上ない絶望に苛まれた。それはきっと、いい年してろくに恋愛もセックスもこなしてこなかった虚しさと、学歴すら擲った自分の愚かしさにある。その上まだ過去の虚妄に執着し美しい偶像をだれか一人に求めてはその個人を消費し、自分自身を優位化することでしか自我を保てない惨めさに打ち震える自己はなんて、なんて情けなく、醜く、地獄のような許されない存在なんであろうか。
私は私の作るものが全て大好きで、大嫌いだ。
正直、才能はないと思う。でもやりたい気持ちがあるから、ずっと下手の横好きを続けている。望まれない夢を描き続けている。「特別な何か」なんて幻想を諦めればすぐに普通に生きられるのに。でもそれはあまりにも、あまりにも苦しい選択だった。あの家に居続ける限り、家族はいつまでも優秀な私という過去の幻影に縛られ続けるだろう。私もその幻影を忘れることはできず、しかし生活を迫られるだろう。母親はこの盛大な自己矛盾を理解していながら、血縁という親が子供に振るえる最大の暴力でもって自己矛盾を正当化し続けるであろう。祖母は疲弊した私に思考停止を勧め、父は自立を促すであろう。最悪だ。本当に、最悪でしかない。
マジで何も面白くない。というか、自分の空っぽさ加減に虫唾が走る。結局言いたいことなんか何にもありやしないじゃないか。単なる幼児のわめきだろ、構ってほしいだけだ。構ってほしいと言って許されるのは一部の才能を持って生まれた人々だけだというのに。愛されるべく生まれ、生きるべくして生きている人々。素晴らしい。本当に最高のことだ。そういった人間を生かし、この世に少しでも美しいものを増やしていくことが、われわれ人間に課せられた最大の使命なのではないだろうか。これは嫉妬などではなく、本当に心の底から思っている。対して、、、、自分の無力さ加減はどうだ。もう自分自身にアイデンティティや価値を感じずに生きれるようになりたい。傷つくことに鈍感でありたい。自分自身は所詮この世を回遊するために与えられた必要最低限の肉体であり、利用されるべきコンテンツなのだ。
だれか一人に期待したり、何度も神を掲げたり、忙しすぎていやになる。
美しくなければ存在意義はゼロなので、こう考えてしまう限りは私は美しくあるための努力が足りないのだな。何でもできる人間になりたいが、未だ私にフィットした「できること」が発見できないのはどういうわけであろうか。
仕事にできるほどのことが何もないのに事務職で金銭を傍受しており、そしてまたそれがないと生命を維持できず、いつもなんだかんだ「本当にヤバイところ」には飛び込まずにのうのうと生活をしてしまっているのはどういうわけなんだろう。
インド哲学はこの世は全部幻だという、若き日のロバート・M・パーシグはそれに絶望して履修を停止したと自伝で読んだが、絶望しすぎた生活の中でその考え方に何度救われたことか。あ、これを教えてくれたのは私の随分と年上の友達です。優しくてスピッてて適度に狂ってて怖くて面白い人。近づくと逃げてくのに時々追ってくる謎なひと。でも、愛される人だ。いいなあ。私はいつになったら人に愛されるに足る人間になるのだろう。
もうちょっと学をつけて、自分を好きになれたときだろうか。母の言うように「女の子らしく」なれたときだろうか。初対面で大好きな音楽の話や、SF小説の話をしなくなったときだろうか。それはもう私ではない。
SNSに美しいモデルがビフォーアフターの写真を載せたとき、よく「前のほうがかわいい」「前のほうがよかった」とリプライを送る人間たちのことを想う。本当にそうだというのなら、その時可愛いと言ってくれれば良かったのに。きっと彼らは彼女が普通の女の子だったころは見向きもしなかったに違いない。純粋に標準体型の女子を賛美し、きちんとパートナーとして選択するだけの度量があるならばすごい。本当に尊敬する。私は考えに考えた結果この世には美醜しかないという結論に至ってしまったから。美醜というのは顔かたちの美しさに限らず、その人の持つ輝けるばかりの才能や、声、スタイル、頭脳など、あらゆるもののことを指す。パーシグに倣うなら「クオリティ」だろうか。結局唯美主義に落ち着いてしまうのだ、空しくなるほどに。
もう携帯ゲームやオタク・コンテンツで思考停止して分かり合ったふりをするのには疲れてしまったから、私は今度こそ哲学と心中しようかな。本当に無理です。さようなら。音楽が理論化された数式でしかないなら、私は多分いま理解できない時点でたいして好きではないし、漢文と英語と思想を頭に詰め込むだけで救われた気になりたい。本当に仕事なんかやめてしまいたいよ、たとえ後がなくても。出来てしまうことは最悪だ。狂っているのに気づけないから。逸脱しているのにしていないよ、ってふりして生きるから辛いんだ。はみ出してしまうのだ。あなたのことが好きだという気持ちが最大にして最悪のノイズだから、どうか勉強して勉強して一般化することで濾過しきって永遠に浮かび上がらないように細かくして細かくして細かくして葬り去ってしまいたい。限界になって君に好きと言ってしまったことが、ものすごく汚くて情けなくてどうしようもないことのように思える。君がそばにいてくれないと辛くて気が狂いそうなのに、君にはきっと僕以外のほうが相応しくて、君自身もそれを渇望していて、だがしかし私は私にできる最大限の力でもってそれを捻じ曲げ君に愛されたいのだ。もう、それがかなわないのならこんな地獄のような生活に世界、どう期待して生きろというのだろう。調べたらユニテリアン教会だけは信仰できそうなので、私も私なりに信頼できる哲学の教会に身をおけるようにもっと思考を研ぎ澄ませたい。頼むから救い出してくれよ、知性の神様よ。もうこりごりなんだ。息が苦しいんだ。
この前渋谷で新興宗教に勧誘されたとき論破してやろうと思ったらまだキリスト教知識が薄くてできなくて、本当に惨めだった。こんなことではダメなんだ。ちょうどオウムが台頭していたころに生まれたから、幼少期はサリン事件の指名手配ポスターを目にすることが多くて、新興宗教に騙されたくなくて宗教学に興味を持ったんだろう?ああもう本当に情けないよ。生きているのが、つらい。
病院とかへ行って、検診してもらったことはない。けれど、思い当たる節だらけなのだ。
そして、親もおそらくうちの子は発達障害を抱えていると思っているであろう、というところがさらに胃の痛いところなのである。
この前置きで察すかもしれないが、異常に人からどう思われているかが気になる性質である。大体ネガティブに想像してしまう。臆病になって、言いたいことが言えなくなる。
これはおそらく中学でいじめられていたせいのところもあると思う。小中ではいじめられていじめられた。恐らくコミュニケーションに難があったのだろう。(まあ難があってもいじめる側が悪いと思う)
今は当時いじめてきた側とも仲良しで、表向き人間関係の問題は抱えていない……が、人との距離感の取り方が異常に下手だ。静かに輪の外にいるタイプである。そーいう奴って、ハブられないけど相手にもされない。
おごられるのとかが異常に下手で、誰かに頼るのも下手だから抱え込みがち。
同時に二つをこなす器用さがない。よく慌てて失敗してしまう。異常に飽きっぽく、課された課題をスムーズにこなせない。アドリブに弱い。
こういう色々が細かく重なっていて、一つ一つは些細で、誰でもよくあることなのかもしれないが、発達障害の気がしてしまう。
幼い頃に、母に言われた。「できないことは出来ることでフォローするしかないのよ」
その通りだと思って素直に受け入れてきた。けれど大きくなってから、キッチンでホコリを被ったADHDの子供への接し方の本を見つけた。そこにそのまんまのことが書いてあって、わかってはいても気が重くなった。
やっぱり自分は、普通の人にできることができない人間なんだ。それがひどく苦しい。末の妹と仲が悪いのだが、それさえ、そんな愚かな自分をバカにしているんじゃないかと思えて、一人で勝手に落ち込んでしまう。
人は誰しもADHDの気質があって、それが色濃い人のみがそう扱われるのだとよく言う。そうだとおもう。けれど、人より劣っていると言葉にすることは本当に苦しいことだ。
今後もこれに向き合わなくてはならない。だからどこかに文に吐き出してしまいたかった。
自分は人より劣っているところがある。けれど、自分は自分を好きでしかたがない。楽しいと思えることをしている自分が大好きだ。
だからといって、自分の欠点で人を傷つけたり、人と上手く接することができないのは良くない。できないことが多くても、私は人に愛される自分でいたい。誰かを愛して、誰かに愛されたいのである。
こんばんは。
前回01と02に関してコメントやブックマークを入れて頂いた模様。有難う御座います。
SHUFFLEって2004年だそうで、14年前って何してたでしょうか。
山本直樹。懐かしい名前を聞きました。上げて頂いた作品、読ませて頂きます。
デッキが無いといいますか、撮影、編集側にもビデオデッキで再生する為の機材、今となっては化石の様な機器を使用して編集する必要がありそうですね。
親しい、大事な女性が堕ちていく様と云うのは私事ですが、まったく興奮しません。その時点で他人か汚物になります。なりました。
さて、この速筆習練は寝る30分前より行っている。寝る前に日記を書く。と云った体なのだが、書くのに時間が掛かった場合、その分寝るのが遅くなる。
01と02は結局40分前後の時間が掛かってしまった。もっと早く文章化出来る様になりたいし、ならなくてはならない。この意味不明な決意も、如何せんまったくの思い付きスタートであり、いつ私の事情で取りやめになるかも分からないのだが、まあそれは之を読んでくれている方には関係の無い話ではある。
それはそうと、誤解が無い様に記載するがニッチな性的嗜好を否定する気はまったく無い。私自身もニッチな性嗜好だからと云うのもあるが、01に記載した通り様々な性的嗜好があるのだ。何かを攻撃したい訳では全く無い。
私自身がああ、こういう性的嗜好があるのだなぁ。とラベリングしたいだけなのだと云う事を改めて記載しておく。
4.愛される事について
昨今、創作物の影響かそれとも時代の流れなのか”愛される事”に飢えている諸兄を見かける気がする。
性的嗜好と云うか人間、否さ動物としても勿論愛される事とは重要ではあるのだが、それでも此処まで愛される事に貪欲であっただろうか?
愛される事。と記載したが、それは愛では無い。愛とは得るものが無くとも与える物だ。と云うのが年寄り臭くも私の考えなのだ、確固たる信念でそう言い切る。
愛が足りないぜと歌っているのは、自分自身の愛情が足りないぜといっているのだ。
だが、この愛される事。と云うのはそもそも様相が異なる。愛する事でなく、自分自身がどうであっても愛を注いて欲しがる。
自分自身は何も変わらない、変化もしない。だが、自分を愛してくれる存在はそんな自分自身がどの様な存在であっても愛を注いでくれる。そんな存在を欲している様に感じた。これは私自身も全力を持って賛意を表明したいのだが、そもそもそんな愛情を注いでくれるのはヤンデレか、父なる神のみである、仏にはお門違いの願いだ。
誰かに愛してほしいという感情自体は、決して疎まれるものでも拒絶される物でもない。なのだが、この無償の愛のみを求めるのはいささか勝手が過ぎるのでは無いだろうか。
この考えに至ったのはとある成人向けゲーム、所謂エロゲ―をやってみた事で益々強い考えになった。
実のところ、友人に勧められたのだ。強力に。アガペーを求める私向きだと言う、求めた事は無いのだが。
年甲斐も無く、ワクワクしながらゲームをプレイしてみた。こういうジャンルがあるのかどうかは分からないが”甘やかし”とでもラベリングしようか。
で、やってみた感想としては”違うよクソ!”である。私は赤ん坊に成りたいのでは無い。こんな愛の押し付けは私が望んだものでは無いのだ。
まあ、この作品は所謂ヌキゲーらしいので、プレイ内容を煽情的に見せるのが目的であって、こういうシナリオなのだろうと無理やり納得した。
しかし、冷静に考えるとこれがフルプライスで販売される世の中なのだから、こういう愛を望む者も多くいるのだろうか。だがこの歪んだ愛され方と云うのは少し気になる流れだった。
このゲームに固執する訳では無いのだが、愛情表現が男女がする物では無く、大人が子供に向ける、云わば庇護欲、母性愛を性欲と一緒くたにして求めると云うのはまるで性的嗜好が歪に歪んでいる様に感じたのだ。可愛くてヒロインから愛されて当然だからこっちは勝手にやる。俺の性欲もママが処理してね、と。
昨今、創作物の中でも愛や恋は不変の人気ジャンルとして成り立っている、男性向けでも女性向けでもだ。
しかし、こういった作品の中でも所謂ハーレム物と謳われる作品がある、こういった作品が流行るのは時代でも何でも無い、誰でも愛されたいのは当然だ。
中々捻った作品もあるし、面白い作品もある。だが愛され具合はちょっとした宗教を感じる作品も見受けられる。名付けて主人公教だ。
他の作品の中には納得出来たり、いたたまれない理由で主人公と共にいるパートナー達も居るが、そういった作品では主人公がどういう立場なのか表明されている場合も多い。つまりは失恋前提の物もある。それが分かっていてもヒロインは主人公に惹かれるのだ。
だが、私はハーレム物で主人公が愛されて当然と、主神の様に崇め奉られている事に恐怖と違和感を感じる。その愛に応えない、愛する事もしない、優柔不断で神様気取りの主人公の何処が良いのだと。
ハーレムのヒロイン同士で約束や協定など結び出した日には目も当てられない。結局一人しか選ばれないのに、その気持ち悪い約束事は何だ。
世界観で一夫多妻制?サブヒロインがハーレムに入った瞬間出番が無くなったりしていないだろうか?それは主人公教のハーレムに入る事が目的になってしまって、ハーレムの中でどう生きるかが適当にしか描写されていないのでは無いだろうか。
作者は、そして物語の中で主人公はサブヒロインもヒロインと同じだけ愛せて無いのではないか。サブヒロインをハーレムに入れた事で彼女の人生への責任は誰が取るのだろう。
こういった作品ではこの責任という事を極力嫌がるか、表現しない作品が多い。人間の人生を無責任では負えないだろうに。
その主人公よりこっちのサブキャラクタの方が良い男だよ?と言いたいヒロインも居れば、キャラクタの愛を強調する為に登場した元初恋の人(どっちの思慕だったにせよ結局フラれる)等、不憫でならない。そのキマってギリギリのヒロインよりイイ女いっぱい居るから大丈夫と、酒でも奢りたい気分にさせる。
これが酷い物になると、異性に限らず、別世代、同性、動物、神、敵、など皆主人公を愛して止まない世界になる。主人公がやる事なす事、諸手を上げて肯定する。分かり合えない敵も居るには居るが、そういうのは主人公が来るまで、トラブルが起きなかったのが不思議なレベルの気持ち悪い犯罪者になって断罪されるか、主人公の実力を認めながら消えていくか、味方になって主人公教に入信する、全肯定なのだ。正に狂気の世界である。
こんな主人公のみに優しい世界は気味が悪いとは感じないだろうか。私が主人公なら日記に狂気を記録しながら外なる神とコンタクトを取って、死体も残さず消えるだろう。
主人公教タイプの創作物が好きな方は勿論沢山いらっしゃるだろう。そういったファンが作品を支えて市場を作っている。つまりは売れ筋なのだ。
大いなる力には大いなる責任がある。とある作品では主人公の行動をそう制した。主人公にも人としての責任があるのだと私は思う。
ただ、「クリスマスに4℃のアクセサリーを貰って喜ぶ女はチョロい」というブログがホットエントリーしたときにはカチンときた。
http://megalodon.jp/2016-1221-2320-10/toianna.hatenablog.com/entry/2016/12/21/222010
何なのこの人?と思って当時ほんの少しだけ調べた。
トイアンナ氏は歴代の彼氏に「愛されたいのに愛されない」扱いを受けてきたらしい。
何をどうしたのか知らないけど、「恋愛障害」を見事克服して結婚。
https://www.amazon.co.jp/dp/B01I2W9M4W/ref=dp-kindle-redirect?_encoding=UTF8&btkr=1
読んでないけど、レビューを見た感じ「自分を好きになれ」ってことらしい。
このサロンについては、はあちゅう氏のTwitterにスクショが残っている。
タイトルは「恋愛障害の保健室」、副題に「愛し愛されるあなたになるエクササイズ」。
ちなみに写真は本人じゃないらしい(知らんけど)。
https://tofufu.me/toiannna_16/
トイアンナ氏が何にダメージを受けたかというと、「夫に愛されていなかった」ってことにつきる。
30目前にして友人たちも次々と結婚していき妙に焦りがでてきたんだけどこの焦りって「結婚したいから」じゃない気がする
友達には「世界で1番自分を愛してくれる人」がいて国にも認められた結婚という制度でまで結ばれたのに、自分だけ取り残されて誰からも愛されてないからなだけな気がする
遡れば小さい頃から同じデブでも妹はぱっちり二重で柳原可奈子似、親戚一同からも「おモチみたいでかわいい」「あんたはモテる」と言われていたのにわたしは一重クソブスだから無視されてきたし 実際妹には彼氏が途切れず普通に結婚した
道を歩いていて「クソデブ」「今の女スゲーブスじゃね」「あんなデブスでよく生きれるよな」とか主に男からの暴言を浴びせられことも多数
結婚したいというより誰かに愛されてみたいのかなーと思うけど現状自分のことが嫌いなので自分のことを褒められたり好かれたりすることに慣れておらず不信感でいっぱいになるし こうしてる間にも友人たちは楽しく旦那や彼氏と過ごしてるんだなと思うと目の前が真っ暗になってきた
このまま眠って目が覚めなければ楽なのにな〜
この世に生まれてから今まで、彼女というものができたことがありません。よくよく考えてみると、友人らしい友人も、できたことがないようです。というか、他人と仲良くなった、という経験が、ほとんど、いや、思い出せる限りでは、まったく、ありません。
中学校に通っていたような頃までは、なんとかそれでも生きていけたのですが、高校に入って、しばらく経った頃には、なんだか耐えられなくなってきて、途中で学校へ行かなくなったわけですが、問題は解決するどころかますます酷いことになっていきました。ひきこもりになったことで、ただでさえ少なかった、他人との会話が、激減したのです。ほぼ、ゼロになりました。たまに、親に連れていかれて、カウンセラーと話す以外は、全然、人と会話をすることがなくなりました。そのカウンセラーとの会話というのも、向こうが話すだけで、俺のほうは全然喋らないので、最早会話の体をなしていませんでした。俺は来る日も来る日も、ずっと部屋にこもっていました。当時のことを思い出そうとしても、うまく思い出せないのは、それほどに、日々何もなく、毎日が同じことの繰り返しであったせいだろうと、そう思います。
病院でもらった薬も、睡眠導入剤以外は、なんだか飲む気になれなくて、狭く薄暗い部屋にこもりきりの生活は、一向に終わりが見えませんでした。そのうち、空想上のパートナー、彼女でも、友人でも、ましてや天使や妖精でもない、自分のパートナーを、頭の中に作って、会話するようになりました。時に慰められ、時に励まされ、きっと俺は、このパートナーがいたおかげで、なんとか日々を渡り歩いていくことができていたのでした。
やがて、時が経って、俺は、再び、外に出て、そうして、学校に通うようになりました。当然のように、留年はしてしまったわけですが、それでも徐々に、ゆっくりとではありますが、他人とコミュニケーションをとることができるようになり、しばらくして、俺は、無事に、高校を卒業することができました。
今は、普通に、人と会話をすることができている、と、そう思うし、特に、直面しているような問題もなく、普通に生活しています。たぶん、昔から、たいした問題など、一度として抱えたことはなかったのだと思います。ただ、うまく、人と親しくなることができず、それでたぶん、寂しかったのでしょう。寂しい、という言葉は、なんとなく、あまり安易に使いたくはないのですが、でも俺の、今までの、よく意味もわからない人生を振り返って、その馬鹿らしい道のりを、たった一言で言い表すとしたら、それはきっと、「寂しい」という言葉が、ぴったりなような気がします。
最近、また、この寂しさに、耐えられなくなってきました。人と、親しくなりたいのです。人と、触れ合いたいのです。欲を言えば、人を愛し、また人から愛されたいのです。多くの人が、当たり前のようにしているこれらのことを、なぜ俺は、一度足りともできないのでしょう。原因が、わかりません。わかりたいとも思いませんが、でもわからなければたぶん、何も変わりません。
運命の人。いればいいなと、心から思うのですが、おそらく俺にはいないような気がします。
きっと俺は嫌なやつなんだと思います。だから友人もできないし、恋人もできない。嫌なやつに、運命の人なんて、いないでしょう。嫌なやつは、永遠に嫌なやつなまま、嫌われて、避けられて、生きていくのです。
近頃は、例のパートナーは、ほとんど、姿を見せてくれません。でも、昨日、久し振りに、夢に出てきました。俺とパートナー、二人きりで、手をつないでいました。夢の最後に、パートナーが言った一言が、妙に耳にこびりついて、離れません。
「そっと、やさしく、抱いていて。」
何もかもを忘れて、諦めて、そうしてこの空想上のパートナーをそっと、やさしく、抱き締めたなら、そうしたなら、きっとそのとき初めて、俺は寂しさを忘れ、幸せになれるのかもしれません。
「自分なんかが愛されるはずがない」
という思念に囚われてしまってる状態なんだよね。
低スペック時代の失恋やその他の要因で、恋愛に関するかなり基礎になる所がぶっ壊れてる。
童貞をこじらせるというのもこのこと。
例えば、一人の女性を好きになる。
付き合い始める。
でも、思うんだ。
「自分なんかが愛されているはずがない」
と。
どんなにスペックを改善しても、やっぱり自分を好きになれないし、彼女の愛(本当にあったかどうか疑わしいが)は非モテに届かない。
カネ目当てなんじゃないかと思うし、他の男性がみなハゲとデブばかりになってるせいなんじゃないかと思う。
歌人・エッセイストの穂村弘はこの「さかのぼり嫉妬」を人間の感情の中で最も不毛なものと評してる。
頭ではわかっている。
過去があって今がある。
彼女を愛するということは、彼女の過去も受け入れることなのだ。
…だが出来ない!
君が人生で一番キレイな時期を捧げた相手より、僕のことが好きだっていうなら、じゃあなにを捧げてくれるんだ?
と、心のなかで叫ぶ。もちろん声には出さない。
もし、声に出して聞いたなら、彼女は、前の恋人に捧げたものなんかよりも大きなものを捧げるつもりだと言うだろう。
責任と失敗から逃げ続け、不器用と要領の悪さをペーパー試験の点数の良さでなんとか逃げきってきた僕に、結婚だと!
僕が欲しいのは、一方的に愛されたいのだ。無限に愛されたいのだ。
僕の歳では、そろそろ結婚を視野に入れない恋愛というのは不可能になりつつある。
と言われたことがある。
自分自身が不完全すぎるのに。
というよりは、僕は大人になりきれてない。
だいぶ印象が悪いだろうけど、俺は色々な女性に愛されていたい。
そして、一度愛してくれた女性にはずっと愛していてもらいたい。
一度愛してくれた人が、自分を好きじゃなくなる状況を想像すると胸が締め付けられる。
たとえ、俺自身がその人をそこまで愛していなかったとしても。
しかし日本では一夫一妻制で、いずれ一人の女性を選んで一生を捧げなければいけない。
この倫理が俺をまた苦しめる。なぜならそれは、一人の女性にしか愛してもらってはいけないということだから。
こんな捻じ曲がった思考が生まれたのは、幼少の頃にさかのぼる。
一人っ子なため家に人が居ることが少なく、ご飯も作り置きのものを一人で食べることが多かった。
しかし幼く、なおかつ体の弱かった俺は母の手を煩わせがちで、時々「あんたがすぐ病気になるから」だとか
「ご飯作らないといけないから」など、俺の存在が邪魔して満足に仕事ができない様子だった。
もちろん母に悪気は無かっただろうし、ついポロッとこぼすような感じだった。疲れてたんだろうな。
当時小学校低学年の俺は、自分は邪魔者で、必要とされていないんじゃないか、と思っていた。
さらに、昔から仲がいいとは言えない両親は俺が中1のころに別居を初め、高2のときに離婚。
父は生活費をよこさず、中1から今(大学3年)まで母は女手一つで俺を食わしてきた。
口に出すことこそ無かったが、自営業を始めた母にとって、働く上で俺が足かせになっていたのは察していた。
深い意味ではないだろうけど、「あんたが居るから」とよく言っていたのを覚えている。
昔から親に対して異常に「遠慮」をする子どもだった。それは自分が重荷だと感じていたから。
息子のように護ってほしくて、世話をやいてほしくて、甘えさせてほしい。
そして、無条件に愛していてほしい。
しかも、複数人に愛していてほしい。
幸か不幸か俺はわりとモテるほうで、同時に何人かの女性にせまられることもある。
しかし、最終的には誰かを選んで、誰かを蹴らなければいけない。
俺は自分を愛してくれる人全員に愛していて欲しいのに、最後は誰かを悲しませなければいけない。
自分を愛してくれる人が悲しむ顔を見たくない。
そのくせ、彼女が居ても女性と話すときは「彼女はいない」とウソをつく。
その人が自分を愛してくれる可能性がなくなるからだ。矛盾しているのは分かっている。
自分が愛されるに値する人間では到底ないことも、分かっている。
「浮気がしたいだけだろう」と言われるかもしれないが、少し感覚が違うように思う。
俺の感情の根源は、「愛されていたい」「愛してくれる人の悲しむ顔を見たくない」「だから求められたら断りたくない」。
そして、彼女よりももっと好きな人が現れたとき、フりたくない。
愛されたい。必要とされたい。だけど複数人に愛されると辛い。
いっそ消えてなくなってしまいたい。
愛されたいのに、愛されたくない。