こんばんは。
前回01と02に関してコメントやブックマークを入れて頂いた模様。有難う御座います。
SHUFFLEって2004年だそうで、14年前って何してたでしょうか。
山本直樹。懐かしい名前を聞きました。上げて頂いた作品、読ませて頂きます。
デッキが無いといいますか、撮影、編集側にもビデオデッキで再生する為の機材、今となっては化石の様な機器を使用して編集する必要がありそうですね。
親しい、大事な女性が堕ちていく様と云うのは私事ですが、まったく興奮しません。その時点で他人か汚物になります。なりました。
さて、この速筆習練は寝る30分前より行っている。寝る前に日記を書く。と云った体なのだが、書くのに時間が掛かった場合、その分寝るのが遅くなる。
01と02は結局40分前後の時間が掛かってしまった。もっと早く文章化出来る様になりたいし、ならなくてはならない。この意味不明な決意も、如何せんまったくの思い付きスタートであり、いつ私の事情で取りやめになるかも分からないのだが、まあそれは之を読んでくれている方には関係の無い話ではある。
それはそうと、誤解が無い様に記載するがニッチな性的嗜好を否定する気はまったく無い。私自身もニッチな性嗜好だからと云うのもあるが、01に記載した通り様々な性的嗜好があるのだ。何かを攻撃したい訳では全く無い。
私自身がああ、こういう性的嗜好があるのだなぁ。とラベリングしたいだけなのだと云う事を改めて記載しておく。
4.愛される事について
昨今、創作物の影響かそれとも時代の流れなのか”愛される事”に飢えている諸兄を見かける気がする。
性的嗜好と云うか人間、否さ動物としても勿論愛される事とは重要ではあるのだが、それでも此処まで愛される事に貪欲であっただろうか?
愛される事。と記載したが、それは愛では無い。愛とは得るものが無くとも与える物だ。と云うのが年寄り臭くも私の考えなのだ、確固たる信念でそう言い切る。
愛が足りないぜと歌っているのは、自分自身の愛情が足りないぜといっているのだ。
だが、この愛される事。と云うのはそもそも様相が異なる。愛する事でなく、自分自身がどうであっても愛を注いて欲しがる。
自分自身は何も変わらない、変化もしない。だが、自分を愛してくれる存在はそんな自分自身がどの様な存在であっても愛を注いでくれる。そんな存在を欲している様に感じた。これは私自身も全力を持って賛意を表明したいのだが、そもそもそんな愛情を注いでくれるのはヤンデレか、父なる神のみである、仏にはお門違いの願いだ。
誰かに愛してほしいという感情自体は、決して疎まれるものでも拒絶される物でもない。なのだが、この無償の愛のみを求めるのはいささか勝手が過ぎるのでは無いだろうか。
この考えに至ったのはとある成人向けゲーム、所謂エロゲ―をやってみた事で益々強い考えになった。
実のところ、友人に勧められたのだ。強力に。アガペーを求める私向きだと言う、求めた事は無いのだが。
年甲斐も無く、ワクワクしながらゲームをプレイしてみた。こういうジャンルがあるのかどうかは分からないが”甘やかし”とでもラベリングしようか。
で、やってみた感想としては”違うよクソ!”である。私は赤ん坊に成りたいのでは無い。こんな愛の押し付けは私が望んだものでは無いのだ。
まあ、この作品は所謂ヌキゲーらしいので、プレイ内容を煽情的に見せるのが目的であって、こういうシナリオなのだろうと無理やり納得した。
しかし、冷静に考えるとこれがフルプライスで販売される世の中なのだから、こういう愛を望む者も多くいるのだろうか。だがこの歪んだ愛され方と云うのは少し気になる流れだった。
このゲームに固執する訳では無いのだが、愛情表現が男女がする物では無く、大人が子供に向ける、云わば庇護欲、母性愛を性欲と一緒くたにして求めると云うのはまるで性的嗜好が歪に歪んでいる様に感じたのだ。可愛くてヒロインから愛されて当然だからこっちは勝手にやる。俺の性欲もママが処理してね、と。
昨今、創作物の中でも愛や恋は不変の人気ジャンルとして成り立っている、男性向けでも女性向けでもだ。
しかし、こういった作品の中でも所謂ハーレム物と謳われる作品がある、こういった作品が流行るのは時代でも何でも無い、誰でも愛されたいのは当然だ。
中々捻った作品もあるし、面白い作品もある。だが愛され具合はちょっとした宗教を感じる作品も見受けられる。名付けて主人公教だ。
他の作品の中には納得出来たり、いたたまれない理由で主人公と共にいるパートナー達も居るが、そういった作品では主人公がどういう立場なのか表明されている場合も多い。つまりは失恋前提の物もある。それが分かっていてもヒロインは主人公に惹かれるのだ。
だが、私はハーレム物で主人公が愛されて当然と、主神の様に崇め奉られている事に恐怖と違和感を感じる。その愛に応えない、愛する事もしない、優柔不断で神様気取りの主人公の何処が良いのだと。
ハーレムのヒロイン同士で約束や協定など結び出した日には目も当てられない。結局一人しか選ばれないのに、その気持ち悪い約束事は何だ。
世界観で一夫多妻制?サブヒロインがハーレムに入った瞬間出番が無くなったりしていないだろうか?それは主人公教のハーレムに入る事が目的になってしまって、ハーレムの中でどう生きるかが適当にしか描写されていないのでは無いだろうか。
作者は、そして物語の中で主人公はサブヒロインもヒロインと同じだけ愛せて無いのではないか。サブヒロインをハーレムに入れた事で彼女の人生への責任は誰が取るのだろう。
こういった作品ではこの責任という事を極力嫌がるか、表現しない作品が多い。人間の人生を無責任では負えないだろうに。
その主人公よりこっちのサブキャラクタの方が良い男だよ?と言いたいヒロインも居れば、キャラクタの愛を強調する為に登場した元初恋の人(どっちの思慕だったにせよ結局フラれる)等、不憫でならない。そのキマってギリギリのヒロインよりイイ女いっぱい居るから大丈夫と、酒でも奢りたい気分にさせる。
これが酷い物になると、異性に限らず、別世代、同性、動物、神、敵、など皆主人公を愛して止まない世界になる。主人公がやる事なす事、諸手を上げて肯定する。分かり合えない敵も居るには居るが、そういうのは主人公が来るまで、トラブルが起きなかったのが不思議なレベルの気持ち悪い犯罪者になって断罪されるか、主人公の実力を認めながら消えていくか、味方になって主人公教に入信する、全肯定なのだ。正に狂気の世界である。
こんな主人公のみに優しい世界は気味が悪いとは感じないだろうか。私が主人公なら日記に狂気を記録しながら外なる神とコンタクトを取って、死体も残さず消えるだろう。
主人公教タイプの創作物が好きな方は勿論沢山いらっしゃるだろう。そういったファンが作品を支えて市場を作っている。つまりは売れ筋なのだ。
大いなる力には大いなる責任がある。とある作品では主人公の行動をそう制した。主人公にも人としての責任があるのだと私は思う。