はてなキーワード: 独り言とは
1話はちゃんと見る派
3話はちゃんと見る派
いろいろいるけど
俺は台詞回し、イントネーション、最初の展開のパターン、演出、コンテなどで決めることが多い
脚本、キャラなどは起承転結や積み重ねがあるから徐々によくなっていくことはあるけど
それが上記にあげたもの
これは良い悪いというより、合う合わないだから、合わないともう「他が良くてもダメ」ってなる
これはどうしても脚本の癖が出ると思う
同意するか、否定するか、早口でわざとらしい反論をするか、少女漫画風に言いよどむか、熱く返すか、などなど
この癖は作中でキャラを入れ替えても、大体似たパターンになることが多い
(癖を消している脚本もあるが、その場合は判断できず継続する)
これが意外とよく当たる
ちなみにこの方法が通用しなかったのがハルヒ1話と、けものフレンズ1話
そういうのは化ける可能性がある(化ける過程を見るのはとても面白い)
逆に、開始2,3分でこれは良いものだ!と思えるのもそこそこある
攻殻機動隊とか
もっとあった気がするが
咳払いがうるさい。生理現象だからしょうがないけどそれにしたってすごいときは1分に1回するんだけどひどくない?V8エンジンみたいな音量だし
食事中の音がうるさい。クチャクチャもだし箸やスプーンをお皿に叩きつけるように使うのがうるさい。
ドアの閉め方が乱暴。うるさいしこわい。
独り言が多いしうるさい。ニコ生主かよ。いや生主は悪くないよ!
自分自身をおもしろだと思ってる。話がクソつまんねえ。こっちが楽しくテレビを見てるときにクソつまんねえ話をおもしろと思ってしてこられるからたまったもんじゃない。楽しく見てたお笑いのオチが父親のせいで聞き取れない。
他にもたくさんあるけどむなしくなってきた
羅列したことのほとんどを何回も何年も注意してるのに全然なおらない。指摘するのって気力いるじゃん。気力振り絞ってもなおらないから無駄になると思ってスルーするしかない。と思うのがずーーーっとだから疲れた。スルーするのも気力いるんだね。スルーできてない。ていうか指摘すると気にしすぎとか言い返されるんだけど。もうやだ。反面教師って点ではありがたいけど。あんなのの血を引いてるんだなと思うとなんか嫌。ふとしたときに出る無意識の仕草とかが似てて嫌
行動あるのみってなんすか。注意は行動じゃないですか。こっちからするとスルーも行動なんですが。家を出ていくとかですかね。それは他の事情で無理なんです。父親というよりは同居してるおじさんが鬱陶しいみたいな感覚のほうが近いのかな。いや実の父親なんだけど、父親としての評価は今ここでは問題にしてないというか…そんな感じ。この話母親としかしてなくて、もう我慢ならなくて吐き出したかったんです。すみません。父親みたいな親にも大人にもなりたくないからこれからも反面教師にはしていきます
前提として、私は元々アニメ・マンガ・ゲームが大好きな所謂二次元のオタ。
そんな私が一番ジャニーズの音楽を聴いてたのは小学校中学年〜中学1年生あたりで、ちょうどジャニーズがドラマの主演・主題歌に抜擢されることが多かった時期。あと「学校へ行こう!」とかも見てた。
その頃は見ていないと次の日学校で話題についていけないタイプの番組のような認識もあって、もちろん楽しんで見ていたけどファンになるほどの熱意はなかったような感じがします。
そのまま中学に上がって、二次元に目覚めてしまったので芸能人に対する興味は右肩下がり。
頻度は減ったもののテレビは見てました。でも、友人とはテレビの話題はめったにしてませんでした。
というのも、中学に入ってから周囲にジャニオタの子が増えたんです。テレビの話題はそういう子達のグループがしてた記憶。
その子達の熱意はほんとにすごくて、もう別世界みたいで、ジャニーズってすごいんだな!とただただびっくりしてました。
そういう趣味は完全に自分とは別世界という認識のまま大学生になったある日、昔見ていた「学校へ行こう!」が久しぶりに帰ってくるというのを知りました
懐かしいなあ〜と思って見始めたんですけど、小学生の頃の記憶なので案外覚えていないことが多い上に見た期間もわりと短くて、かなり新鮮な気持ちでした。
で、「V6ってこんなに面白いグループだったんだ」と思って、そこで少し気になり始めました。
それまではV6といえば、「学校へ行こう!」の修学旅行とかブルーベリー狩りのトレス動画をよく見るなあくらいの認識でした。
それ以降、そういえば・・・と思う事が重なってきたんです。
当時観てた「喰いタン」「ランチの女王」にも出てて、「清盛」でかなり癖のある平時忠役やってたの森田くんだった。
アメトークのボーイスカウト芸人、芸人じゃないのに出てるの長野くんだった。
ディズニーで一番大好きなターザン主題歌の日本語バージョン歌ってるの坂本くんだった。
大好きだった「犬夜叉」も「ごくせん」も、第1シリーズの主題歌歌ってるのV6だった。
学校へ行こう!の記憶が強かったけど、実は個々での活動をよく見ていたし、曲だってけっこう小さい頃から馴染みがあったことに気づいたんです。
個人的にはターザンとFeel your bleezeのことを思い出した時の衝撃?が特に大きくて、俄然気になりだしました。
とりあえずCDだ、と思ってSUPER Very bestを買って聴いてみたらもう全部好きでびっくりして、その勢いでグループについても調べたら私が生まれた年にデビューしていて二度びっくり。
なのにバラエティともなるとあんなに面白いなんて、こんな魅力的な人達が存在していたのかと。
坂本くんの色っぽく伸びやかでどんな曲でもハマる全てを兼ね揃えた歌声、
長野くんのしっとりと優しくて穏やかな気持ちにさせてくれる歌声、
森田くんの心地よく、キャラメルボイスと名付けた人は天才か!と思うような歌声、
三宅くんの一度聴いたら忘れられない、かわいい中に色気もある耳に残る歌声、
岡田くんのホッとするような、まっすぐな癒しと爽やかさに溢れる歌声。
更にトニセンならカッコイイ大人の代名詞か!と思わせてくれる色気と爽やかさの中に積み重ねてきた色々なものを感じさせる曲になるし、
カミセンなら特徴的な3人の声質が抜群に効いたカカオ70%前後っぽいスイートビターなアイドル全開の曲になるし、
それだけじゃなくどのコンビで組んでも本当に素敵な曲になるのがすごい。これ以上言葉がもう出てこない。
ちょこちょこと他のCDやDVDも揃えつつ、TVや雑誌のスケジュールもチェックして見て。FCは社会人になったら入りたい。
デビューして20年以上、同じメンバーでこれだけ高いクオリティの歌とダンスを続けているのってすごいことなんだ!と思います。
ダンスとか疎いけど、V6のダンスハチャメチャにかっこいい。何回でも見れる。
もっと早くに生まれたかったとは言わないけど、もっと早くにこの魅力に気付けていれば・・・とかつて三次元に見向きもしなかった自分に後悔したり。
大きな趣味だった二次元オタク活動でしんどいことがあったり、将来のことでいろいろ悩んでいる時期にはまったのも大きかったかも。
まだしっかり聴いていない曲もある身で言うのもあれなんですが、V6の曲って、世界とか愛とか壮大なことよりもっと身近な未来のこととか、そんな中での夢とか希望、明日も頑張ってみようよ、と思わせるような楽曲が多いような気がするんです。
それを聴いていると本当に勇気が湧いてくるし、「あ〜〜〜生きよう!!!」ってなります。助けられてます。
ROCK YOUR SOUL聴いてイライラをぶっ飛ばしたり、
by your sideを聴いて脳内で乙女ゲー原作アニメのOP映像みたいなのを想像したり(乙女ゲーマーの業かもしれない)、
まだまだファンになりたてなので、ファンの方の親切なブログを読んだりして色々教えてもらいながら、V6を応援していきたいなと思う今日この頃でした。
うちは貧乏だ。今の季節、古い木造なのに冬でも暖房つけないから外と風がないだけでほとんど変わらない。体が震え、手がかじかむ中勉強をしている。
そう言うと「うちもエアコンつけないし寒いよ」と元彼がぬかしていたが、家におじゃますると質のいいマンションで断熱性があるためか全く寒くなかった。
我が家は夜勤から帰ってきた母親が夜中までテレビを見て独り言を喋るので寝ようと思っても寝れない。
低学歴な親は教育の価値を知らない。高校受験の頃、私はそこそこ偏差値の高い進学校に行きたかった。先生にも勧められた。でも親は行かせる気がなく、「近いし、兄弟のおさがりがあるから」という理由で自称進学校に行くことになった。
対して元彼の家。高学歴の人間が周りにたくさんいる。そのためか親も教育熱心だ。(うるさいくらい)
家族の会話がある。これが家族の会話がない私には信じられなくて、私を家に招いてくれた時、正直うるさいなぁと思ってしまった。
あと、私は能年玲奈タイプである。顔がではない。会話が遅いところがだ。きちんと頭の中で整理したり、話しながら推敲したりするから時間がかかる。それを元彼の親には毎回「遅い!」とつっこまれ、元彼には気を遣っているから喋れないのだという勘違いをされ「イライラする」と言われた。
何を書きたいのかわからなくなってしまった。深夜のイライラに任せて書いているのでひとつも推敲してない。
私は別に自分が駄目人間なのを親のせいにしたいわけではない。それでも、なんかやりきれなくなってしまったので元彼に親のことを話したら親のせいかよと言われた。
勘違いされてるのも嫌だけど、いい環境に生まれた人間に偉そうに言われるのが一番イライラする。
結局私が原因で別れたけれども、なんか最近、元彼への思いが恨みに変わってきていて怖い。
私のこと何もわかってないくせに何わかったような口きいてんだ。みたいな。
たとえば風呂に入るとき、夫は椅子やシャワー、ナイロンタオルといった配置を元の位置に戻していく
そこが片付いていた場合は片付いた状態に、散らかっていたら散らかっていた状態に「戻して」その場を立ち去るクセが、夫にはある
いつぞやの地震でバスチェアの上に置いてあった洗面器が転がり落ちたことがあったのだが(落下音が浴室からリビングへと響いてきたので分かった)、その後に入浴した夫は、わざわざ洗面器を浴室の隅の床に伏せた状態にして風呂からあがっていた
長年のそういった習慣のせいなのかは不明だが、夫の体臭は皆無と言ってよいほど薄く、寝息も殆ど聞こえないくらいに小さい
そのため、夫が隣に寝ているのにも関わらず、一人暮らしだった頃と錯覚して思わぬ独り言を呟いたり、「のび」や寝返りで夫にチョップやエルボーを食らわせてしまう事がある(それに関して夫は、単に私の寝相が悪いだけだと考えているようだ)
生活する上では「勝手に散らかされる、勝手に物を動かされる、相談もせず高価な物を買ってくる」という事はないのだが、その代わり「気を利かせて何かをしてくれる」といった事も一切無いので、プラスマイナスゼロか、割り切ってしまいさえすれば若干プラスくらいだと思っている
地獄の釜が開くまで、残り一週間弱と言ったところか。
駅の構内で、大手就活系マスコミの広告をよく見かけるようになった今日この頃。
去年の11月から少しずつ就職活動を始めて、最終面接に辿りついた会社が2社。エントリーは7社くらい。それほど悪い途中経過ではないが、最終面接が終わるまで油断はできない。
自身の本性を覆い隠しながら(嘘を付いたことはない)面接に挑んでいるが、度重なるストレスが尋常ではなく、早くも脳味噌から血が噴き出そうな時分だ。無論、エントリーにしろ面接の場数にしろ、経験が少ないことは自認している。
でも、辛いもんは辛いし、苦しいもんは苦しい。
主観ではあるが社会不適合者濃度75%ほどの私にとって、就職活動はガス室に閉じ込められているようなものだ。
強固な自我を有した学生、人文科学系の学問を極めた果てに社会不適合者になった学生、コミュ障を拗らせた学生、遊び足りないがゆえに社会に出る目的を見出だせない学生。
ひとくくりにできない事情の数々が、人の数だけ存在する。その事情とやらを社会人の練習として、見栄えよく加工し説明するのが就職活動だ。
そうは言うものの、それが難しくて苦労するのが就職活動でもある。文章にしてみると簡単そうに見えるが、現実は非情だ。
そうした世の中の価値観とズレた感性を持ってる学生、この記事に目を通した人がいたら、是非教えてほしい。
支離滅裂とした独り言になってしまったけれど、これを読んでいる就活生は自分自身とどのように折り合いをつけて戦場に繰り出すつもりなのか。
売上 初週 2週目 3週目
バイオハザード7 187,306 52,665 22,338
仁王 75,477
メタスコア
バイオハザード7 85 (user7.7)
仁王 87 (user9.0)
バイオハザード7の前作、バイオハザード6は初週で約63万本売り上げている。
しかし、国内ではバイオとしてあまり売れたとは言えない結果となった。
仁王は新規IPながらUKチャートで2位、米アマゾンでは売り切れになるヒットを飛ばしている。
国内アマゾンでも品切れになった。品切れはソフトの評判が良いときに起こりうる。
しかし、裏を返せば期待値が少なかった、つまり予約数が少なかったのだ。
仁王は日本が開発するサムライゲームとしての地位を無二のものにしてくれた。
その原因はキャラクターにあるのだと私は思う。
勿論他にも色んな選択肢がある。
しかし、多くの人が最初に知りたいのはどんなキャラクターが登場するのか、ではないだろうか?
キャラクターといっても主人公とその仲間だけではない。敵やボスも含まれる。
バイオハザード7と仁王はそのキャラクター性が乏しい、というよりもそもそもキャラゲー要素を排除している。
バイオハザード7で話題になった「ファミパン」という言葉がある。
ただのキチガイ親父を「お前は家族だ」とパンチする家族思いの愉快な親父というキャラクターにユーザーが仕立て上げたのだ。
それは結果的に国内ではプラスになったと思う。ただのホラーゲームではなく、一部の人にはキャラゲーとして浸透することができた。
仁王は主人公が外人というのもあるが、思いっきり現代寄りのため、そもそもキャラクターに差別化を付けるのは難しい。差別化を付けるとしたら妖怪やボスだ。だが余りにもファンタジー的なボスを出すと世界観が崩壊してしまう。それ故に人型のボスが多かったのは仕方ないのかもしれない。
PS4にはもうライトユーザーがいないと言われているが、実際そんなことはない。
ペルソナ5が売れまくっているし、おそらく二―アもそれなりに売れる。
一方でそのようなキャラゲーを好まない人もいる。
AAA級の洋ゲーやFIFAなどのスポーツゲーを長く遊ぶ遊んでいる層もいる。
しかし、結果的に見れば日本にはライトなゲームを望む人が多いように感じる。
これはもう今のスマホゲーを見ても同じだ。コンシューマとスマホゲーはある意味で似ている。
勿論コンシューマ・PCゲームの方がゲームとしての面白さは圧倒的に上であることは言うまでもないが、国内のユーザーはゲームとしての面白いかどうかを見極める前に、キャラが好まれるかどうかのハードルが高すぎるのだ。これはアニメ漫画文化の影響でハードルが爆上げされている。
前に「私が言ったことを聞いていないってことは私に興味がないってことでしょ!」ってめっちゃくちゃ怒られたんだよ。
聞こえなかったものはしょうがなくね!?だからって興味ないわけじゃないし!?タイミングの問題じゃね!?なんつーか理不尽じゃね!?生理か!?って思いつつ、
「アテクシが言ったことは一字一句聞き逃さないでよねっ!」ってことなんだろ。これからは受信感度チリバツな感じで気をつけますね。ってことで収束したんだよ。
それからはなんかブツブツ言ってるなって思ったら超聞き返してる。独り言?知らんがな。おまさんが聞き逃すなって言ったんだから、こっちは聞き逃すまいとするわいな!俺はやればできる男!
でもねー、昨日、今度は逆。俺が言ったこと聞いてないわけ。無視なわけ。聞こえてなかったーって。
おまさんそれでこの間めちゃくちゃ俺にブチ切れたやつじゃんよー。
人には「興味ないんだろ!」って言うくせにおまさんは俺を無視していいんかーい!!っていいわけないだろー!!
自分ができないことを人に強要するもんじゃないと思うんだけどなぁ。自分ができなかったときに倍で返ってきちゃわないかい?
(もちろん、その時の状況にもよると思うよ。超可愛く「もうちょっと興味持ってほしいなハァト」って感じなら俺だって…俺だって…)
俺はおまさんみたいにブチ切れやしないし「俺にも興味持てゴルァ!」なんか言わないけど(いや、興味持ってくれるにこしたことはないけどさ!)、
俺がいないところでも理不尽なこと言って周りの人を困らせてんだろうなぁって容易に想像できてしまって…なんだかちょっとだけ引いてしまった。
とんでもない作品だった。とんでもない体験をした一週間であった。
それは原作が推理小説にカテゴリーされているからとか、原作者が江戸川乱歩だからとか、そういう理由じゃない。
私はその解説、および回答を以下に記すのだけど、それは完全なるネタバレです。
もう知らなかった頃には戻ってこられない、作品を殺す系のネタバレ。
なので、未観劇の方には本当に読むことを勧めません。
本作は素晴らしい完成度の傑作だし、舞台演劇でここまでのミステリーを作り上げるのは絶対に容易じゃない。
また、私はエグいほど容赦なくネタバレしていますので、正直自分ももう二度とミステリー演劇は鑑賞できない脳になってしまったのでは…と震えております。
(なので、読んでほしい気持ちがあって増田に書いているものの、観劇済みの方も生半可な気持ちではネタバレを読んでほしくない。六道の辻で迷い不幸だと感じている方にだけ、光が届けば良い。)
つまり未観劇でネタバレを読むということは、人生の楽しみを自らの手で一つ潰すということ。尋常じゃない損失です。
本作はDVDの発売が決定しています。
公式DVD予約サイト:http://www.shop-ep.net/east_park/shopping/a04020102/iid/0000000001746/
(発送日未定。予約は3月末まで)
めちゃくちゃ好評だったので、あなたの周りにも購入している人が居るはず。そして恐らく「見せてほしい」と頼めば喜ばれるはず。布教したくなるタイプの作品なのです。なので数ヵ月後DVDを鑑賞してから、是非また読みに来てください。
「数ヵ月なんて待てねーよ!」って方は、妥協点として2015年に他の演出家さんで上演されたものを見ることができます。
こちらは未観劇のためなんとも言えませんが、おそらく2015年版は絶対解けない「超ハードモードの『ミステリー演劇』」か、『ミステリーではない普通の演劇』の可能性が高いと予想しています。でもまぁ全く観ないでネタバレ読むよりは絶対良い。
たぶんDVD売ってるし、3月になれば我らがdアニメストア殿が配信してくれます。
https://anime.dmkt-sp.jp/animestore/CP/CP00000660
高いチケット買って劇場に行くか高いDVD買うかしか選択肢がなかった時代を生きてきた作品の取捨選択にすごい苦しんできた勢なので、dアニさん月額400円でこんだけ見れるとかマジ神過ぎ。最初目を疑った。(WOWOWさんにも感謝していますが、うちTV無いから見れないんですよ…そもそも家にあんま居ないし。お金なら払うのでスマホでもWOWOW見れるようにしてください。)
原作「孤島の鬼」を読むのも手ですが、本作はある意味では『原作の本質を描いている』けど、ある意味『原作とは全くの別物』です。だから舞台版のネタバレは、舞台版を観てから読んでほしい。
そして、せっかく未来の楽しみを潰してまでネタバレを読んでしまうのだから、その前に『ミステリー演劇』の推理に挑戦してほしい。
一人で解くのは超ハードだと思うので、できれば仲を深めたい方と一緒に。(私が今回の回答に至るのに協力してもらった友人の数は4人です。内1人は原作を読み込み一緒に推理してくれました。)
ぼっちの方も安心してください。本作はめちゃくちゃ面白かったので『2017年版の感想』も、ネットの海に転がっています。そこから辿り着くことも不可能じゃないはず。鮮度のいい印象論の良さも、一晩寝かせた感想の良さもあるので、いろいろ漁ってみてください。
あと私は推理した一週間の思考ログをほぼすべて残しているので、トリックがわかってからログを読み返してみたら翻弄されている自分がめちゃくちゃ面白かった(当時は睡眠不足の神経衰弱で瀕死でしたけどね)。間違ってはいないけど騙されている。そんな楽しさもあるので、ぜひ推理に挑戦してみてください。
そして私がまだ解いていない謎の答えを見つけられたら、ぜひ教えていただきたい。
また、運良く本作を劇場でご覧になられた皆さま。感想はもう書き残しましたか?
公式がwebでアンケート回収もしています。送ると抽選で非売品舞台写真もらえます。私もとても欲しい。
本作は、『感想を残す』ところまでを含めて作品です。せっかく運良く観劇できたのだから、140字で良いから書き残しておきましょう。
できれば思いの丈をすべて書き出しておくと良いです。『他者に感想を伝えようとした人だけが、謎解きの後に得られる感動』があります。(※個人の感想ですが!)
この感動を、本作品が本当に素晴らしい江戸川乱歩の原作舞台化であったことを伝えたくて、読んだら作品を殺すことになるようなネタバレを恥を忍んで書いています。
私はソワレ観劇後、徹夜で翌昼に感想書き上げました。これが私の沼への一歩だった訳ですけれども、これを書き残しておいたお陰で、謎が解けた時に私の回答を出すことができました。
一度ネタバレを読んでしまうと、もう観劇で感じた感想書けなくなると思いますので、本当に一言で良いから感想書き残しておいてください。ついでだから公式アンケートに答えて非売品写真当てましょう。当たったら私にも見せてください。
最後に公式各位。
ネタバレにあたる部分は私の個人的なミステリー体験なので、これが公式解とは主張断言しません。
と言うか、理由なき見落しと、自分の能力ではどうしても咀嚼できなかった部分(言葉がスムーズに脳に入ってこなくて読解しながら観劇することができなかった原作には無いシーン)があったので、私のネタバレは不完全です。他にも拾い損ねている箇所がポロポロ出てくる。逆転する可能性が大いにある、お粗末な推理。
ですが、キャストの皆さまが最後までネタバレに配慮されていたのに、ネタバレを公開し誰かに読んでほしいと願うことが、浅間しいようにも感じています。
ネタバレ注意喚起に約2000字程裂きましたので、どうか堪忍してください。
p.s.オリジナルマグボトル購入しました。作中に赤い色が無かったのでデザインも綺麗だし購入したのですが…紐解いてみるとなかなか意味深なグッズですね。とても良い記念品になりました。
それでははじめます。
無人の屋敷に風が吹き込む
暗転
まったく光のない深い暗闇から男性の声が聞こえる
「不幸ということが、私にもよくよく分って来ました。本当に不幸という字が使えるのは、私だけだと思います。遠くの方に世界とか日本とかいうものがあって、誰でもその中に住んでいるそうですが、私は生れてから、その世界や日本というものを見たことがありません。これは不幸という字に、よくよくあてはまると思います」
暗転明け
無人だった屋敷に白髪の男性が立っており、書物を音読していた。
彼……『私』を語り部とした、物語がはじまる。
http://anond.hatelabo.jp/20170206104211
ミステリーとして解いた今読み返すと相当ブッ飛んだ納得の仕方をしている。自分の妙さについて今までなんとなく感じていた部分が浮き彫りになりすぎである。こわい。
当時も気持ち的にスッキリはしたけども、<もやもやした原因が『認知を歪められている感覚』だったのに、「それは作者の願いだよ!」という犯人と動機の『妄想』では、『論理的解決』にまったくなっていない>ので、悶々とはしていた。
作り手側は演劇を魅せるプロだが、観客は演劇を観るプロだ。伊達や酔狂でやっているわけではない、こちとら真剣に観ている。
『認知を歪められている感覚』なんて中途半端なものは見過ごせない。
そこからずるずると私は沼に嵌まっていき、推理のためにガチで眠れない一週間を過ごすことになる。
そもそも、舞台「孤島の鬼―咲きにほふ花は炎のやうに―」の何がミステリーなのか。
それは、本作品が叙述トリックを駆使し、とある『真意』を隠しているということにある。
しかし私の目下の推理動機は、トリックを逆手に取った『簑浦も諸戸も幸せになれる最適解』にあった。どうしても二人を幸せにしたかった。
そのために以下のことを行った。
そしてひたすら二人が相思相愛ではないという可能性を潰し、相思相愛である可能性を見つけ出す作業。
二人の愛の一番の障害は、箕浦の白髪化=「箕浦は同性愛を『生理的』に受け付けられない」という点。
これが諸戸が箕浦の前にあらわれることがなくなった原因だと思う。彼がどんなに誠意を尽くそうとも、これだけはどうにも覆すことができない。
しかし、実は原作では白髪化したタイミング=直接的な原因が諸戸に襲われたことのみだとは明記されていない。
そして舞台でも、実はめちゃくちゃぼやかされている。
冒頭、語り部である『私』が自身の体験した恐怖について語ろうとする。その時にまるでトラウマが呼び起こされるかのように喉元を掻く仕草をする。
後半井戸の奥、深い完全なる暗闇の中、水位が増して死の恐怖に襲われた時。『私』佐藤箕浦も、諸戸と石田箕浦と同じマイムを行って移動し、水位が増しだすと喉を掻いて苦しみ悶絶する。
これは、白髪化するほどの『生理的』な恐怖が、諸戸に襲われる前から強烈にあったという解釈にできる。
では逆に、諸戸に襲われた後の恐怖はどうだろう。助八さんの救助が来て、生死の恐怖は去った。丈五郎の恐怖も去った。では諸戸に犯される恐怖はなくなるか? 普通に考えれば、自分を襲ってきた相手が側に居るなんて恐怖しかない。第三者が居るから安心だなんて暢気になれる訳がない。(学術的根拠を略していることは恥じています)
箕浦は、諸戸に襲われた時にあれほど恐慌したのに、襲ってきた相手が側に居てもケロっとし過ぎなのである。脱出できた時なんて笑いあっていたりする。
これらによって、「箕浦は同性愛を『生理的』に受け付けられない」ということを否定できる可能性が、十分にある。
『生理的』に受け付けられない訳じゃないのなら、箕浦の同性愛への拒絶はどこからくるのか。
諸戸が触れるままにさせ遊戯を楽しんでいたと言っているが、これってちょっとエッチではないですか? 私は『もてあそぶ』というよりも、遊廓でのお戯れみたいな印象の方が強かった。エロかった。
ましてや「あつい手だね」というセリフは、諸戸と佐藤箕浦の両方が同時に口にする。
これは原作では諸戸が言い、簑浦も『私も同時に、火のような相手の掌を感じた』とある。
あの夜、諸戸と箕浦は、本当は同じ気持ちであったのではないか。
しかし大人になった箕浦…いや『私』佐藤箕浦は、頻繁に同性愛を拒否する。
そして井戸の中、「今こそ、僕の願いを容れて、僕の愛を受けて」と請い願う諸戸を「あさましい!」とはね退ける『私』佐藤箕浦。
実はこのセリフ、原作には無い。そして学生時代のあの夜は諸戸の方が言っていたセリフなのだ。
「君は浅間しいと思うだろうね」と。
箕浦に『同性愛を持つ者は異人種』だと一番最初に植え付けたのは、他ならぬ諸戸であった。
そしてあの夜、「『私』は諸戸との関係はこれで終わったと思った」。
もし、もし諸戸が、自分で自分の気持ちを否定してしまわなければ、二人が結ばれていた可能性もあるのではないか?
あの夜の後、箕浦が大人になりSK商会に勤める場面から「過去の『私』」石田箕浦が登場する。
大人になった『私』佐藤箕浦は同性愛嫌悪の感情を見せるが、石田箕浦は同性愛を嫌悪していない。
諸戸が自分に恋していることを頭では理解しているが、そもそも同性愛をわかっていない。だから諸戸からの熱視線(性愛アピール)をまったく感知できないし、諸戸からの接触に応えること・握手を求められた手を握り返すことができる。
(スポットライトが当たらないところでの石田箕浦と諸戸は、まさしく「諸戸と簑浦は何か変だ」状態。熱視線を送ったり触れようとしたり羞恥の色を見せたりする諸戸に、石田箕浦はまったく気付かない。A.T.フィールド固すぎ)
原作の簑浦とはかなり印象が違うそう(私は一度推理完了するまで未読を貫く主義のため世論であるが)。
簑浦と箕浦、原作とは名前の漢字が異なるし別人か? いや、そうじゃない。無意味な改変は絶対に起こらない。「虚偽の事柄を事実として書くことはアンフェア」だからだ。印象が違うなら、『変えた理由』と『変えても原作の簑浦を成立できる理由』がある。
石田箕浦が登場する前。佐藤箕浦が諸戸との関係は終わったと思ったあの夜。諸戸が泣きながら請うた内容は以下だ。
「君は分っていてくれるだろうね。分ってさえいてくれればいいのだよ。それ以上望むのは僕の無理かもしれないのだから 。だが、どうか僕から逃げないでくれたまえ。僕の話し相手になってくれたまえ。そして僕の友情だけなりとも受け入れてくてたまえ。僕が独りで想っている。せめてもそれだけの自由を僕に許してくれないだろうか。ねえ、簑浦くん、せめてそれだけの……」
諸戸が願った内容、これまんま石田箕浦じゃん……
石田箕浦は諸戸を友人として深く信頼しているし、井戸の中でなんて一緒に死ぬことすら受け入れている。諸戸の願いを、字面通りに叶えている。
しかし周知の通り、諸戸が心の内で望んでいたのは、彼の『死にもの狂いの恋』を受け入れてもらうことだった。
諸戸は自身について怖れている描写が多々あった。それは自分の素性と性愛対象が『普通と違う』ことでもあったし、『父に命じられたから行っていたはずの不気味な研究にいつしか諸戸自身も不思議な魅力を感じはじめていた』ことも大きいと思う。
我と我身を醜いと卑下すればするほど、美しいものを強烈に求め、美しくあるべきだという観念に囚われる。
諸戸の心の内の葛藤が『手記の秀ちゃんと吉ちゃん』そのものに見えた。諸戸の望み(イド)と願い(超自我)は大きく解離している。
箕浦が写し取ってしまった『同性愛を持つ者は異人種』という価値観、『親友という姿』は、諸戸が持つ美意識の刷り込みだった。箕浦にとって諸戸は、本当に「美しい青年」だったのだ。
石田箕浦は本当にクセのない、まっすぐな好青年だった。諸戸の理想とする『普通』がそこにあるように見えた。そして原作の簑浦とは印象が異なる存在…
これはつまり、簑浦のイドと超自我のようなものが、『私』佐藤箕浦と石田箕浦に分かれて表現されているのではないか。一人の人間を二人で演じ、二つの存在(語り部の『私』と、簑浦のイド)を一人が演じているのではないか。
彼らの箕浦の分担は、紀州の孤島に着いてから大きく変動し反転してゆく。
井戸の中で諸戸に襲われ、完全に石田箕浦から佐藤箕浦に替わったのは、諸戸が望んだ存在が友人ではなく恋愛対象としての箕浦だったこと、そして諸戸の手によって「諸戸の理想とする『普通』」が壊されてしまったこと…『私』になった石田箕浦にも諸戸の姿は獣のようだと評されている。学生時代のあの夜に諸戸が否定をしてしまったこと、それの繰り返しだった。
そして秀ちゃんへの恋心を諸戸に恥ずかしいものと責められる場面。実はあれは原作だと簑浦のモノローグによる言い訳タイムとなっている。諸戸はそもそも丈五郎に捕まって、島に到着して以降会っていないというのだ。正確にセリフを覚えていないが、原作未読の私でも、最初に秀ちゃんから手紙を受け取ったシーンに諸戸が居ることに強い違和感を感じた(そして友人が原作では諸戸が居ないことを確認してくれた)。
よくよく考えれば変なのである。箕浦に恋慕を寄せる諸戸に責められる筋合いはない。初代に操を立てるなら諸戸の恋に応えることも恥ずべきことだし、諸戸に気を遣う必要だって本質的には無いのだ。(まるで『アイドルは恋愛しちゃいけない』理論だ。)
ではなぜ超自我のポジションである石田箕浦ではなく、諸戸が責め立てるのか。
箕浦の美意識は諸戸の影響を強く受けているから諸戸の姿をしていたとも捉えられるが、それ以上に、常識的な葛藤だという以上に、箕浦の心の中に諸戸を慕う側面も幾ばくかあったから、秀ちゃんに恋する自分と、諸戸を慕う自分で対立したことを表現していないか。
佐藤箕浦はもちろん初代にも秀ちゃんにも惹かれているが、彼が箕浦のイドのポジションであるならば、諸戸のことも結構好きだった。(イドでなく単なる『私』なのだとしても、諸戸を見つめる視線に愛憎のような熱が込もっていたし、)諸戸との会話に深山木が入ってきたとき「早くないですか!?」と驚くのは二人の箕浦で、石田箕浦一人だけが言うと単純に時間が早かっただけに聞こえるが、佐藤箕浦も合わせて言うことで「諸戸との会話に邪魔をされた(もっと諸戸と話したかった)」かのような邪推ができてしまう。
そして諸戸が握手のために差し出した手を『箕浦が握り返さなかった』時。諸戸は驚愕の表情で『私』を見る。見つける。実は、物語の始まりを告げる運命が廻りだすような音楽が流れて以降(犯人だと疑って諸戸の家を訪ねて以降)、諸戸が『私』を初めて見たのが、この『箕浦が握り返さなかった』時。
握り返さないのは、握り返すことに意味が生じてしまうから。石田箕浦は諸戸の恋をまったく感知しない。そんな石田箕浦が握り返さないわけがない(実際に、諸戸に見つかってしまった『私』が顔を背けた瞬間、石田箕浦は手を握り返す)。つまり学生時代のあの箕浦が、心の中にまだ居たということ。
諸戸にとってはそりゃあ嬉しいことだろう。彼はそれ以降箕浦に話しかける時、佐藤箕浦を見てから石田箕浦を見る。ここからどんどん、『箕浦』の行動を表現するのが佐藤箕浦へ移行してゆく。
一度は友人として、諸戸と共に死ぬことも受け入れた箕浦。
しかしその結末を自らの手で潰す諸戸。
逃げながら箕浦は吼える。「死んでたまるか!」と。箕浦は白髪化するほどの生死の恐怖を体験したばかりだ。
諸戸に襲われるも未遂に終わり、命が助かることに深く絶望する諸戸。
井戸を出た二人は笑いあう。諸戸は箕浦が白髪化するほど生理的に同性愛を受け付けないのだと認識したように、箕浦の白髪を見て泣いているように笑う。
そして箕浦の前に現れなくなった諸戸は、気持ちを遺して逝くことで最期にまた箕浦へ大きな傷を残す。
先述の通り、私の推理動機は叙述トリックを逆手に取った二人が相思相愛であったことの証明にある。
からくりが解ってみると、どうってことない・ただ上演されているものそのままに過ぎないのだけど、ここに辿り着くまで本当に一週間ひたすら睡眠時間を削って悩んだ。二回目に観劇した時などは、とにかく正確に推理するためにありのままを最前列からガン見してきたのに、どうあがいても悲恋という現実に心が折れそうになった。マジで。実は二回目に最前列で観測した時よりも、初見H列サイドから観劇した時の方がイイ線いってたよな(納得の仕方はブッ飛んでるけど)と思う。
で、共に推理していた友人が先に原作の叙述トリックに気付き、簑浦と諸戸のBLは成立しているという解を出してくれたので、二回目の絶望した記憶で観劇を終えるのもなんだし推理はやめて初見のつもりで観劇しようと思って向かったのが三回目の観劇。最後尾辺りの補助席。
しかし驚くほど新たな発見がまたどんどん出てきたうえ、深山木のセリフによって私は舞台も叙述トリックを使ったミステリーなのだと確信してしまう。
これは原作にもあるセリフらしいのだが、深山木がトリックについて思わせ振りなことを言うシーン。そのセリフが完全に『叙述トリックの説明』になっていたのだ。聞いた瞬間、震えが走った。
本作がミステリーであると気付けるように、最初から以下の違和感と解法が提示されていた。
さて。ここで疑問に思われることがあるだろう。なぜ叙述トリックを使用しているのか? 隠したいものは何なのか?
この件について私は非常に貴重な体験をする。
本作の大好評っぷりと、推理に明け暮れ神経衰弱している私を心配して、友人が本作を観劇してくれた。三回目観劇の日、偶然スケジュールが合って友人2人(友人Aと友人Bとする)と一緒に観ることができた。終演後、私はわくわくしながら二人に感想を求めた。
友人A「箕浦殴りたい……不快過ぎて体調悪くなってきた……」(※意訳)
当時、箕浦殴りたい勢は最大勢力に感じた。過激箕浦擁護派も0ではないが、大多数が箕浦(おそらく『私』のみ)に不快な感情を持っていた。冗談ではなくガチで友人Aが苦しそうにしており、私も初見後は物凄くモヤモヤしていて苦しみがよくわかるので、少しでも気が晴れないかと友人Aと対話することになる。
不快感を分解していく。
友人Aは非常に言いに難そうに、しかし押しかかる不快感から助かるため、意を決して打ち明けてくれる。
友人Aも不快の対象は『私』にあり、その根源を追ってゆくと友人自身が「『拒絶』されるのが本当に無理」だから、諸戸を拒絶しているのに側に居た『私』を悪だとした。
増田「拒絶することを『悪』だとするなら、今『拒絶を拒絶』している友人Aも悪だということになるでしょ? 友人Aは悪なの?」
結局友人Aには私の初見感想を読んでもらい、加えて私の心の闇()もひっかかった話をしたことで、とりあえず翌日出社できるレベルには不快感が晴れたと言ってもらえた。良かった。
さて、私は友人Aと対話して思った。「もしかして江戸川乱歩のやりたかったことってこれでは?」
感想を書いた方ならわかると思うのだが、感じたことや思ったことの根拠を話そうとすると、自身についての話、しかも心の闇()の部分を語らないとどうにも説明できなくなってしまう。
私も推理ログ含め大量に書き残したが、心の闇()を除いても、暗闇マジ怖い体験とか、無意識下の生理的拒絶は実在するよ体験とか(思えばこいつが二人の恋の一番の障害だった)、とにかくネガティブな体験談がバンバン出てくる。
共に推理し原作解読した友人も、舞台の感想を書こうとしたら闇にぶち当たって、書くのを控えようとしていた。( Permalink | 記事への反応(0) | 22:47
ミスが多い。
言いたいことが分からず人の話を聞かない。
とまあ、このような状況を抱えて仕事をしている。
面接のときも、「しんどくなったら言えますよね」と言われ、はいと答えた。
しかし、しんどいなどと言い出せないのである。なぜなら、定型基準でものを考えないといけないからだ。
いくら上司が理解したつもりでいても、結局は雇用。仕事が出来なければ会社側も雇用する意味がないのだ。
私は常に1日1日が戦いだ。自分の意図せぬ思考や独り言、自分の脳みそと常に人一倍戦わなければならない障害だ。
頑張りすぎてるぐらいに頑張っている。と支援者にも言われた。
同時に「定型と合わせて生きることを望んだのはお前だ」とも言われた。
期限もある。賃金も低い。
おまけに、私の雇用期間(とされている期間)は2年だ。
これは、障害者を雇用した際に貰える助成金が支給される年数にも当てはまる。
ゆえに、お金が穫れなくなればお役御免とでもいうことだろう。
労働契約法で5年で切られるかもしれない懸念がかつて話題になったが、これも似たようなこととして考えられないだろうか。
私は一旦ここで筆を置かせて頂く。
また何かあれば覆面をつけてここに現れたい。
その人が亡くなったときにどれだけの人が哀しんでくれるか、も指標になるかもしれませんね。
という主張の方もいるでしょうね。
本当にそうでしょうか。
たとえば、人気絶頂のアイドルが不慮の事故で亡くなったら大勢の人が哀しむと思います。
不謹慎ですが、死刑になることで喜ぶ人もいるのではないでしょうか。
このように人にはそれぞれ存在価値があって、そう考えたとき私の価値はマイナスだと思えて仕方ないのです。
それがつらくて苦しい。
これを読んでいる方には、私が「存在価値」なんていいだすのをみて、普段から他人を見下しているろくでもない人間だ。
そんな風だから、存在価値がマイナスだと思われるかもしれませんね。
ごもっとも。
私には人を見下したりへりくだったりする汚い部分があるのかもしれません。
なぜ、そのように考えるのか。
自分では気が付かずにいましたが、中学生のころにイジメに遭い、イジメっこたちを「あいつらは最低の人間だ」と見下すことで精神の安定を図ろうとした…。
そんな青春時代が影響しているのかもしれません。
もっと踏み込んで語らせていただくと、いじめられた原因は私にあります。
というのも、当時の私は勉強でノイローゼになっており、常にぶつぶつと独り言をつぶやく気持ち悪い人間でしたから。
クラスメイトの立場にたてば、そんなやつ気持ち悪くて攻撃したくなっても仕方ないですよね。
両親がね。学歴始業主義でとにかく勉強しろ、とうるさかったんです。
なんのために勉強するのか?
いちばん大切なそこを教えてくれずに、ただただ自分が低学歴で苦労したから勉強しろ、と無理やり自室に閉じ込められました。
大人になってわかる。
勉強以外の遊びの経験がどれだけ、その人を輝かせるのか。身に沁みてわかってしまうのです。
となると、もう劣等感で押しつぶされそうで仕方なくなってきます。
私なんていなくてもいいんじゃないかと思うと泣けてきて。
そのグループは私にとってはとても応援したくなる楽しいグループだ。
twitterのアカウントを作り毎日些細な情報を追っては幸せな気持ちになっている。
しかしtwitterでそのグループ名を検索すると当たり前だが批判的な意見もヒットする。
その当たり前の範疇に入るのは歌番組に出ている彼らを歌下手だなー、ドラマに出演している彼らを演技が下手、など彼らをよく知らない人たちが素直に感じてつぶやいた意見だと思っている。彼らのことをよく知らない人たちは好意というフィルターがかからないからこういう意見が出るのは仕方ない。ファンからすれば音を外すのも演技が少し怪しくても好きだから、かわいいからで済まして過大評価している場合もある。
しかしいつからのムーブメントかは知らないがここ1年か半年くらい前からかな、彼らのことをよく知る人物による批判的なつぶやきを大変よく目にする。
彼女たちはもともとは好意を持っていたファンだ。しかし今は悪意のフィルターを持ってtwitterは好きなことを自由につぶやくツールであることを建前にしてあることないことを鍵もかけずに全世界に言いふらしている。
彼女たちの中には熱愛がきっかけで一気に冷めてしまったタイプの人もいれば、長年追っていくうちに1番好きだったころと今の自分の熱量の差にだんだん埋まらないギャップを感じてしまいそれを彼らのせいにしてしまう責任転嫁タイプもいる。そのとき自分が楽しくて彼らに貢いだはずのお金を返せなんていう輩も目にした。
元ファンによるアンチ化なんてどの界隈でも別に珍しくない。しかし楽しく応援しているもの(彼女たち曰くお花畑、純粋ちゃん)からすれば愚痴垢ほどうっとうしいものはない。
愚痴垢はたくさん目にしてしまったけれど自分のつぶやきがアンチ行為だという自覚を持っている人たちがほとんどいなさそう。
あの頃のきらきらした彼らに戻ってほしいんだもんね?アイドルでありながらプライベートで下手打って週刊誌に撮られたからてしまったもんね?
彼らの今の仕事に胸が躍らなくなったのはあなたの心境の変化じゃなくてあくまで無条件に信じさせてくれなくなった彼らが悪いんだもんね?
だからあなたたちは今純粋に応援しているファンの人たちが目にしたらドン引きしてしまうような発言してもいいんだよね?
あと本垢で愚痴をつぶやくとフォロワーさんたちに不快な思いをさせてしまうから住み分けのために作った的なのを目にしたことがあるけどそれはあなたがそんな愚痴をつぶやくような人間だと思われたくない、嫌われたくないだけろう、結局鍵をかけずにつぶやく愚痴はまわりまわってあなたが不快にさせたくないフォロワーが目にする可能性があるのにすごい綺麗言ですね?
まあでも愚痴垢というものは結局長くても1年以内には収束するものだろうなとも思っている。
結局は彼らのことをよく知らないと愚痴なんて言えない。そして愚痴を言い続けるためには最新の彼らを追い続ける必要がある。だから新曲も聞くしわざわざコンサートにもいく人もいる。
そして(特にまだ若い人は)新しい愚痴を発信するために彼らの仕事を追う行為は次第に馬鹿らしくなる。あるものは好きだということを自覚し冷静なファンに戻っていくだろうし、あるものは彼らを追うことをやめもっと自分にとって楽しい世界に身を置くんじゃないかな。そして愚痴垢はのちに黒歴史になる。
せっせと愚痴垢を運営するあなたに言いたいことがあるんだけど、鍵をかけない限りあなたの発言は全世界の人が見る権利があって、あなたの発言に対して意見する権利を持ってる。あなたの発言が何の信頼も持っていない言葉ならそれは大多数の人間によってツッコまれて淘汰されるんだよ。もし愚痴垢に対して文句のツイ―トをしている純粋なファンの人がいてそれをあなたが不快に感じたとしたらそれは鍵をかけていないあなたが悪いんだよと。
別に一時的に不満をつぶやく愚痴垢が何百あったて彼らの活動には一切影響されない。そんなことに影響されるつまらない人たちを応援しているつもりはない。
しかし純粋に応援している私にとってはしょうもない言いがかりのオンパレードでどうしようもないくらいに腹が立つ。
誰でも目にするtwitterを利用しておきながら見なけりゃいいじゃん、じゃない。頼むからその悪意のフィルターをかけたつぶやきは鍵をかけて見せてくれるな。
この間、某有名なリポジトリがメンテナンスモード(新機能追加よりもバグ等の修正を優先にする)に入っていることを知って独り言を書こうと思った。
また、この間メンテナや開発仲間でいろんなリポジトリの現状共有の話があった。
最近、様々なOSSコミュニティの記事を見るようになったのも理由の1つかもしれない。
はじめに私は複数のリポジトリのメンテナをしており、その目線で書けたらと思う。
私が最初に思ったのは結局、OSSコミュニティというのは社会と構成は変わらないなぁと思った。
大きな違う点として、
だと思う。
私がOSSで活動するのは、志が他の開発者と同じであり楽しいと思えるから。
仕事だとお金を稼ぐためというのは当たり前だし、そのために働いている。
なのでお金を稼ぐためという人もいれば、サービスを使われたいとか、もっと拡大させたいとか様々な意識があると思う。
しかし、OSSコミュニティで活動するのは物を良くしたいという部分が大きくコントリビューターやコミッターがそういう意識で活動していると思う。
メンテナが減るのは当たり前で、飽きもあるだろうし家庭の事情とかもあるだろう。
また、別の興味あるプロジェクトにコントリビュートしたり、自分の開発に専念するといったこともあるだろう。
これは私の中で転職に似ているなって思った。
OSSコミュニティというのは今の時代、多くの会社が普通に使っており、市場の規模は大きいと思う。
しかしメンテナの数というのはとても少なく、著名なリポジトリでも2, 3人しかいないというところもある。
みんなが知っている有名なフレームワークやツールも内部を見ると、少人数で回しているのが現状である。
本当にPull Requestを出してくれる方や、バグ、RFC等のフィードバックをしてくれる方には感謝している。
そういう方が居てこそ成り立っており、このような体験は仕事では得られないと思うので大切にしていきたい。
日本人の方の参入率は自分の観測範囲では結構低く、やはり敷居が高いのかなって思った。
一番最初に壁になるのが英語だと私は思う。 実際、私はそうだった。