はてなキーワード: 無意識とは
食い尽くし系とかいう言葉あるけどあとちょっと理性がなかったら甘い物verのそれになってたと思う
でも食後のデザート食べだすとお腹いっぱいだったはずなのにいくらでも食える
やめたくても目の前の甘いものが無くなるまで止められない
色々調べたけど、過緊張→甘いもので緩和している説が一番近いかも
常に身体中に力が入っている
過緊張がなくなればいいんだろうけど何故か無理
家にいても寝る直前でも常に過緊張してる
寝てる間も歯を食いしばり続けて朝起きたら疲れている始末
自覚はない
ただ食べ続けてしまう
脳がバグってる感じがする
胃に悪そう
女性は男には長生きしてもらいたい(動物的本能で守られたい、死ぬまで働いて生活安定させて欲しい)という要望があると思うから
だから長生きしそうな個体が無意識に選ばれている可能性はあると思う
逆に女性は独身既婚で寿命に男性ほどの差異がないのも男性は女には健康な子供を産んでもらいたいという要望しかなくて何歳まで生きるかは気にしていないからとも考えられる
だから結婚した方が男は健康で幸せだから長生きするとか女は男がいるとストレス溜まるから早死にするとかはないのではなかろうか
男は長生きする個体が選ばれているだけ、女は子供産める個体が選ばれているだけ、その結果が平均寿命に反映されているのだと思う
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20240620195747
自分自身で考えない人に対して、イライラしたり、理解できないと感じるのは当然です。しかし、彼らの背景や心理を理解し、適切なコミュニケーションを図ることで、より良い関係を築くことが可能です。
デューデリジェンスはやめた方がいい。違う。買収監査ってなんですか?ここで言うDDとは誰でも大好きというアレである。
というわけで、推し増しはいいことですとかいう説があるが普通に愚策なのでやめた方がいい。
2022年の夏ごろからちょっとハマりだした某声優がいたんだけど、それまで名前と顔だけ知ってる程度だったのがひょんなことから本格的に追うようになって、番組見たりしてた。まだイベントとかそんな出る人じゃなかったから、ボケーっと眺めながら手紙を送ろうとした矢先に事務所を退所してしまった。
えー送り先消滅しちゃったやん・・・と思ってたら数週間後にどでかい発表があった。バチクソ超大手事務所に移籍した。
お~仕事増えるやん!実際移籍した瞬間鬼のように仕事が増えた。普通に深夜アニメのレギュラーはバンバン決まり、イベントにもガンガン出て、ありえんくらいコンテンツに所属してなんかユニットめっちゃ組み始めた。
ここで俺はある答えにたどり着いてしまった。時間と金が足りないことに・・・
DDをやっていると、どうしても愛の大きさに優劣をつけることになる。イベントが被った場合、どうしても金の工面がこれ以上できない場合、単純に行く気があるかないかは、「今まで推してきた時間」が決め手になるか、「とにかく今好きな子への愛」が決め手になるか、まあそんなとこである。
一応好きな女性声優数名のところには平等に行けるように調整してこの子のイベントとか舞台にも行ってたつもりではあるんだけど、どこかで破綻するのはもう時間の問題であった。
そして2024年に入り、また新たなコンテンツに所属したり映画の声優まで務めるようになった。アニメの先行上映会とかコンテンツのリリイベとか、とにかく安価で時間の拘束も短い現場に行ったりしてたんだけど、そのコンテンツのライブへ行くに至るまではできず(履修にとてつもない労力を要すため)徐々に「置いて行かれてる感」が出始めた。
そもそも女性声優への応援行為にタイパだのコスパだのを求めだしたら終わりである。俺は間違っている。皆はマネしないように。
一方その頃ほかの声優とは関係値をさらに深めており、この子に対してだけ「俺は何のために追っている?」「この子のためになれているのか?」という状態が続いた。
番組を見てても最近のライブとか舞台挨拶の話だし、疎外感を感じており(行ってないのが悪いのだが・・・)、メールも半年以上採用なくなっちゃたし、このまままたリリイベでも行こうもんなら「ライブとかには来ないくせに接近戦だけ来る典型的なイナゴ」認定を受けるのがオチであり、しんどくなってきた。
ここまで大風呂敷が広がると、もはや他の声優を追っているようじゃすべてを追うのは不可能なのだ。この子一人にすべてを捧げる相応の覚悟が必要なターンに入るくらい売れた。
推しの仕事が増えるのは良いことであるが、自分は結局、自分のボーダーラインスレスレで仕事をし続ける女性声優のような何かを応援したかっただけなのかもしれない、と最近思う。
なんか売れた瞬間身を引く人っているよね。あれの気持ちがちょっとわかり始めたかもしれない。じゃあ仕事がないやつを追ってろって話だ。なんやこいつ。人間収入と支出には限界があるし、土日は48時間しかない。優先順位をつけたときに、無意識に「下」に落とす声優はどうしても出てきてしまう。
ので、他の女に時間と金を割くのは良くない。一人と真摯に向き合うべきである。DDはやめた方がいい。
中途半端に応援するって最終的に自分の首を絞めることになると思う。「この子は好きだけどあのイベントには行かない」みたいな確固たる信念を持っているならいいと思うし(現に自分もそういうのあるので)、ここで一区切りついたかなっていう具体的な節目があってそこで身を引くのもいいと思う。そういうのが自分の中で作れないと、いつまでもゾンビみたいになってしまう。
ところで他のコンテンツの履修がだるいので俺はいつまでたってもアイマス声優という呪縛から逃げられずにアイマス声優に収束してしまうのかもしれない。怖くなってきた。アイマスから逃げたい。
ショック受けてるのは増田自身がIQ平均以下の人を見下してるからなんやで。
無意識に自分はそういう見下される存在じゃないと思ってたのに、調べてみたら増田自身も同じ程度の人間だったということ。
第二段階「 宣伝。メディアの掌握。大衆の扇動。無意識の誘導 」
第四段階「 抵抗意識の破壊。平和や人類愛をプロパガンダとして利用 」
横だが
例えばセックスを知らない児童の恋愛感情とか、肉体的な欲求抜きで「この人を大切にしたい」みたいに感じることも、
それは遺伝子に組み込まれた生殖のための感覚と行動であるから広い意味で性欲であるとも言える、というときの「性欲」と、
上増田が言ってるような日常生活で使うような語義での「性欲」とを分けるべきだということだよね
きらら作品を見るのは乳児やペットを可愛がるような感覚で、それはつまり日常的な言語感覚で言えば「萌えと性欲は別」ということになるが、「好ましい特徴を持った異性キャラクターを愛好する」という行為にはやはり無意識下の性欲が影響を及ぼしているはずなので「萌えと性欲は同源」とも言える
途中で切れた。長いと切れるんだな。知らなかった。
概観してみると、今の私を状態を説明する要点は、下記のようなものであると考えられる。
特性を持って生まれた子どもが、いわゆる体育会系の世界に入れられ、なまじ才能があったがために、支援が必要な特性について見過ごされたまま、強いストレスを肉体と精神の両方に受けることになったこと。
また、発達特性が仇となり、ストレスを軽減するための人間関係を作れず孤立したこと。
これらの要因により精神的な限界に達した時、受けた負荷が強いパニックの形で噴出してしまい、結局はそれが水泳を挫折する原因になったということ。
また、子ども当人(つまり、私)が、その負荷をむやみに強いられたと感じ、母親への不信を深め、その感情に向き合って修復する機会がないまま、成人後に関係を破綻させてしまったこと。
そして、これらの感情的な傷付きに至る経緯とは別に、特性について適切なケアやトレーニングを受ける機会を得られなかったこと。
これらのことが、社会に出てから仕事への意欲が薄いこと、将来への展望を描けないこと、社交場面における不安などに影響し、また自分の特性を扱う上での経験不足がストレスによる不眠、日中の眠気などに繋がり、上記の不安に拍車をかける結果となった可能性はあるのではないか、と私は思う。
そして、冒頭の「あなたの言葉は感情を説明しない」という指摘もまた、やはり『嫌だ』『つらい』という訴えを繰り返し退けられ練習を強要された経験から、自分のつらさを他人に訴えてケアしてもらうことを諦めてしまい、直視せずに蓋をすることが常態化している精神状態にある、そのために精神的な問題を抱え込みやすくなっている、と説明できるかもしれない。
また、休職前に孤立無援と感じられる状況にふたたび置かれたことで、水泳でパニックを起こしたときのように、強いパニックをおそらくまた起こし(あいまいな書き方なのは、あんまり覚えていないので)会社に行くことができなくなっている。
これが当時のトラウマのいわゆる『再演』にあたる可能性はあるかな、と少し思う。
両親は私を愛しすぎるほど愛してくれており(少し連絡が取れないだけで着信を100件超えて入れるのが常態化していた程度には)、特に金銭の面では一般的な親の倍以上に私に支援をしてくれたことは事実である。
上記の事実をもって、私をまだ幸運なほうと思う人もいるだろうし、就活のくだりなんか、特に甘ったれていると思う人間も多いだろう。
ただ、3歳〜16歳ごろの人格形成期+思春期に、チームメイトと精神的にまったく連帯できない状態でスパルタ式の暴力的な教練を日がな毎日受けるという負荷は、おそらく定型発達の人間でも耐えられる人は限られるのではないか、という気もする。
そういう負荷に発達特性のある子どもが挑む場合には、おそらく精神的なケアは定型発達の子ども以上に必要で重要なことだったのだろうと思われる。
私がそういう子どもであったことが親の不運で、特性由来のストレスに対する適切なケアや社会的トレーニングの機会が得られなかったことが私の不運である。
正直なところ。
母は小学校高学年くらいの段階で、私を発達障害者だと疑ってはいた。ネットの普及し始めた当時、私の持つASD的な特性の一部分はアスペルガーと呼ばれていたが、そのことについて母が情報収集していたことを覚えている。
しかしそれは、障害を受容した上で、適切な支援に繋げるという結果にはならなかった。
ちょうどそのくらいの時期に平成不況がやってきたのだ。私の特性を考え、進学先に私立中学を視野に入れていた母の計画は、完全にそれどころではなくなってしまった。父の会社にもリストラの波がやってきたのだ。
タイミングの悪いことに、私が水泳の過度のストレスからチックに陥った時、ちょうど母は不況への恐れからパートを始めたばかりの頃だった。私の『病気』の原因について、母は周囲からの責めを一人で負うしかなかった。父の両親との二世帯同居の家で、専業主婦の母は孤立した養育者だった。
結論から言うと父はリストラを免れ、我が家の経済危機は回避されたのだが、その頃には私の私立進学計画はとっくに頓挫していた。母が「結果で黙らせなさい」と言うようなことを口にし始めたのも、この頃だったかもしれない。
父親はというと、やはり私の親で発達的な特性が強く、自分の興味のあることしかやりたがらないタイプだった。養育者として、社会的な範を示すとか、発達的な特性とどう付き合っていくかとか、そうした問題についてまったく頼りになる人ではなかった。
悪い人ではない。悪気のある人でもない。一流企業にまじめに勤め、高収入であり、私に関わる多額の費用を全部賄ってくれた人である。そしてそれが、おそらく自身でも困りごとをたくさん抱えていたであろう身で父にできた、私への精一杯の愛情だったろうと思う。
母もまた、母の出来ることを最大限にしてくれた。母は、思春期の私の苛烈で発達のアンバランスな性格(受けていたストレスを考えると、おそらくそうなるしかなかった)に何度も振り回されて、傷付き、それでも最大限考慮した上で、「あなたは結果で黙らせなさい」と言うしかなかったのだと思う。
これは私がどう生き、どう傷つき、現在どう困っているかにまつわる記録ではあるが、同時に単に毒親からの被虐待についての記録としてはなるべく書きたくはないと思っている。充分悪者に書いただろう、と思えるような筆致だったかもしれないので、ここに補足しておく。私は難しい子供で、両親は常に一方的な加害者ではなく、私を支援してくれようとした。私たちはお互い感情的な対立を何度も経験し、お互いに何度も傷付き、それを乗り越えてきた。その過程でいくつか間違いがあり、一度関係が破綻してしまったが、それでもまだ、この先に和解の可能性がないわけではない。
それぞれの人間がそれぞれに苦しんだ結果、私の今日につながっているのである。
これを書いているいま、これからどうなるのか私にはわからない。これらの生い立ちから私が受けた傷を癒せるかもしれないし、そうではないかもしれない。困りごとを軽減してなんとか社会で上手くやっていけるかもしれないし、どうにもならないかもしれない。
ただ、良くなってほしいという希望を持って先生たちは治療に当たってくれているし、希望は捨てるべきではない。そう思うので自分の恥部を曝け出す覚悟でこれを書いた。一種の『底尽き』を気力で前に持ってきた、というやつかもしれない。
ただ、強いトラウマを抱えた発達障害当事者の予後は正直あんまり良くなさそうだなぁ、とは、当事者たちの声をインターネットで拾ってみて思わなくもない。
ただ、復帰できないとこれが現実に起こりうることが現状最大の懸念である。
当然、持っていく予定である。
プラダリアの取捨だれかおせーて。
それはそう。
カウンセリングにはこの記録を持っていこうとは思うが、どの程度まで自己開示すべきなのか、いまが適切なタイミングなのか、そのあたりをきちんと確認しながらやっていこうと思う。
少なくとも、これを書き下せたことで、私の中では問題解決へ向けて、整理と準備がついたと思っている。
べつにわかってもいっかと思って書いている。とくに失うものはない。
何かしらの連絡手段で私とつながっていて、内容でなんとなく察した人は、「もしかしてこれお前?読んだよ」とメッセージくれると嬉しいよ。困窮者だ!金ヅルにしよう!と思って寄ってこられるとちょっと悲しい。というか休職人間に金はない。
自分は言語理解が比較的高い特性を持っているので、書くことによって自分をメスで捌くように腑分けして、人前に晒すという自傷行動に割と慣れているし、やはり言葉によって自分を説明できるとなんとなく落ち着くタイプである。その助けもあってなんとか書き切れたが、それでも書き切るのにかなり涙を流したので、この記録には多大な精神的労力を必要とした。文字通り血を流しながら書いたと言っていい。
その上で、超フラットに、予断を挟まず言えば、その可能性はないとは言えない。私のような人間はレトリックを使うのがうまい。そのレトリックの中にいつでも逃げ場を作り出せてしまうので、「可能性がない」と言い切るのはフェアではない。自分でも気づいていない可能性がある。
私の半生を占める水泳と、それがその後の人生に及ぼした影響について整理するために書いた記録である。
なお、当時は強いストレス下に置かれていたため、詳細を思い出せなくてぼんやりしている部分もある。
私は現在休職状態にあり、ADHDの診断を受けたところである。
精神科に通いつつ、投薬とカウンセリングの治療をおこなっている。
そしてカウンセリングを受けつつある今、自分がいまこうなっていることの底にはあまりに苦しかった水泳の記憶があり、それを直視することは避けては通れない道ではないかと思ったからだ。
(先生に直接「直視しろ」と言われたわけではない。ただ、「あなたの言葉はあなたの感情をひとことも説明しませんでしたね」、と言われ、その原因を自分で考えていたら、勝手にそこに行き着いたという話である)
正直に言えばそこに目を向けるのはめちゃくちゃ嫌で、前回のカウンセリングを受けてから2週間くらいメソメソメソメソメスティーソ泣いていたのだが、友達と遊んで少し息抜きをしたらちょっとした気づきと癒やしがあり、なんとか気力を振り絞れそうなので書いてみた。
早いうちに才能を見出され、小学校1年か2年くらいでヘッドハンティングのような形で選手育成クラスに移った。
当時、肉体にすごく負荷を掛ける練習方法が流行っていた時代だったから、シンプルに肉体的につらかった。スパルタが主流で、体罰は当たり前だった。
楽をしようものならコーチにも怒鳴られ叩かれ全員の前で吊し上げられた。そこまでは周りのみんなと条件は変わらないのだが、私の場合は母親もほとんど毎日練習を見にきていて(それほどに熱心な親は他にはいなかった)、仮にコーチに怒られなくても、母親の目から見て私のパフォーマンスが悪ければ、そのことを帰りの車の中で詰められる日々だった。
行き帰りは車で母親に送迎してもらっていたが、車の助手席に乗り込むと母親の「今日の練習について」の裁判が始まるので、毎日まるで犯罪を犯して法廷に立たされるみたいだった。キツい負荷の練習をこなしてやっと家に帰れるのに、すこしも安らいだ気分になれなかった。
でも、私は無理にでもやらせればやらせただけ、負荷をかければかけただけ、結果が出せてしまうタイプの人間だった。
父親も叔母もスポーツで学生時代に成功した経験があって、家系としても肉体的に優秀だったのだと思う。
それが母親の成功体験になってしまい、尻を叩けば叩いただけ結果が出るという思い込みを強化したふしがおそらくあるんじゃないかと思う。
長期休みに入るたび、朝夕2回の練習では足りないと別のプールに連れて行かれ泳がされた。この習慣は我が家では「こそ練」と呼ばれていた。
ただでさえキツい練習をしてるので嫌だったが、嫌がれば母親から「速くなりたくないの?」と頷くまで詰められる。
こうやって追い込めば追い込むほど結果が出たので、母はどんどんエスカレートしていった。
極め付けはようやく出来始めた友人関係を破壊されたことだった。
中学に上がると、小学生の選手育成クラスから中学生クラスに上がって、ここがジュニアの女子の選手としては一番上のクラスだった。その上に、高校生の男子のさらにその上澄みだけが入る、一番練習がハードなクラスがあった。
いま振り返ってみると、私はかなり発達障害的な特性のはっきり出た子どもであり、周りと関わるのがかなり下手だった。だから、キツい練習を何年も毎日一緒にこなしてきたというのにチームメイトと連帯感を育めなくて、ずっと浮いていた。浮いているのに才能だけあったから、周りからすると目障りな子どもだっただろうと思う。選手育成クラスというだけあってそこそこ実力主義ではあるので、幸運にもいじめられこそしなかったが(あるいは特性上あまり他人に興味がなく嫌がらせに鈍感だっただけかもしれない)、やっぱり浮いていた。私は人生を通してずっと普通になりたい、と漠然と願ってきたが、その願いはこういう環境のなかで醸成されてきたように思う。
(ちなみに、当時どのくらい浮いていたかというと、なんか男子たちが私に話しかけるのを何かの罰ゲームの一種として扱っているな、と気づいたことがある程度には浮いていた)
けれど、ここで話の合う友達ができたことで、この一瞬だけ練習に行くのが楽しかった時期があった。
私はもともと才能があったので、中学生のクラスを受け持っていたコーチにも期待されていたし、たくさん話を聞いてもらえて、私自身もコーチのことを頼れる大人だと思っていたし、期待に応えたいと思っていた。信頼関係を築ける大人との出会いがここであった。だから、このクラスでちゃんと私の記録は伸びていた。
だけど母はその伸びでは満足できなかった。
母にはいわゆる白雪姫の母コンプレックスみたいなものがあって、私が楽しそうにしていると不安になる性質だった。不安を感じやすく、その解消のために誰をどれだけ振り回しても良いと考える傾向があった。
私が楽しんで練習に行き始めた時、母は不満だった。私が苦しんでいないから、きっと負荷が足りないのだと考え、「娘の才能が無駄に消費されている!」と強く不安を感じたのだろうと思う。これでは速くなれない、と母は考えた。
そして、「上のクラスに上がりたいと言いなさい」と母は私に強要した。
私はかなり嫌がった。もともとジュニアの女子が入れる中で一番上のクラスではあったし、せっかく話の合う友達ができたのに、その子たちと話せなくなってしまうことも嫌だった。先生の期待を裏切ってしまうことにもなる。すごく抵抗があったことは覚えている。
母は私に、「あんな肥溜めみたいなクラスにいたら、あなたはダメになってしまう」と言った。
嫌だった。泣いて抵抗した気がする。あまり覚えていない。でも、最終的には「上がりたい」と言わされた。コーチはショックを受けていたと思う。でも最終的には上のクラスのコーチに頼んでくれて、私の(母の)要求は通った。
中学1年の女子が高校生の男子のクラスに入れられて泳ぐことになった。毎日階段をまともに降りられないくらいの筋肉痛になった。まわりはひと回り年の違う高校生の男子しかいないので、友達と話せる機会は減った。肉体の負荷は上がるのに、心の支えは何もなくなり、ただ苦しかったしつらかった。
私が苦しんだので、母の不安は解消された。
実際に大幅に記録が伸びた。一緒に泳いでいた高校生の男子より私は上のタイムを叩き出し、彼らにもよく頑張ったと認められた。中2のころにはジュニアオリンピックで決勝に残り、関東中学で優勝し、全国でも10本の指には入った。国体にも県代表で選出された。県で私より速い選手はいなくて、私がベストを出せばその度に大会新記録、県の新記録だった。母はこのことについて、自分が尻を叩かなければ結果が出せなかったはずなので、自分の手柄だと考えた。
注意して欲しいのは、これらの成果を私自身もまた喜んでいたことである。才能や能力があると見做されることは、特性持ちの人間にとっては他人から受けるマイナスの感情を弾く盾にもなる。母の手柄は、私を絞り上げ、苦しめて作り上げられたものであるが、同時に私を守るものでもあった。
「あなたは結果で他人を黙らせなさい」というのが、母の持論だった。母は私のために、心を鬼にして私を苦しめていたはずである。叩けば結果が出ることがわかっていたのだから。
この頃から、試合や合宿で遠征先に行くと、夜中にこっそり抜け出して、当て所もなく歩き回るようになった。特に裏道や暗い道を選んで歩いた。いま考えると、間接的な自傷だったと思う。酷い目に遭いたかった。私という価値が一気になくなってしまうくらい、誰かに酷い目に遭わされたかった。母が守る『私』という価値と、それに伴う苦しみが分かちがたく結びついていたために、母の目の届かないところで地味な自傷行為に走っていたのだと思う。
体に傷を残すようなことはできなかった。そんなことをした日に母を襲う衝撃と、その衝撃の余波を受ける自分のことを考えたら、とてもではないが無理だった。
しかし、こういう無理は続かないものである。ほどなくして精神的に破綻して、泳げなくなった。中3の秋ごろだったように思う。喘息を悪化させ、負荷のキツい練習から逃げ、最後は何か喚き散らして家に帰り、そこからしばらく練習に行けなくなったように思う。詳細は覚えていない。
だけど、そこで辞めるには水泳は私の人生で大き過ぎた。人生の大半を占める一大事業に等しかった。だからそこから高校2年の夏まで、通うスクールを変えて足掻き、ブランクを取り戻し、記録は少し伸びたし、インターハイにも出た。
ただ、大学受験に切り替えるならこの辺りがタイムリミットだった。結局、わたしはここで引退して受験に切り替えた。水泳のために自分の学力よりかなり下の高校に行ったので、辞めてからは予備校漬けになった。
受験勉強は圧倒的に楽だった。体の負荷も消えたし、学業は自分の特性から見ても結果の出しやすい分野だった。あまりにも結果が出やすくて、母も不安にはならなかった。躓きや苦しみも多少はあったが、水泳で受けたそれとは比べ物にならなかった。この時期、私と家族はかなり明るく過ごした。
大学には簡単に合格した。願書を出した大学ほぼ全てに受かった。
とにかく家を出たかったので、その名目が立つ大学を選び進学した。
ひとり暮らしをはじめて、やっと手に入れた自由を楽しんだ。でも1年目、ぜんぜん他人との関わり方がわからず、友達が作れなかった。小中高と水泳にかまけていて、相変わらず発達特性的な部分で学校でも浮いていたし、そもそも自分の偏差値より随分下の学校に行った(水泳にはリレーメンバーの都合がある)ため、頭の程度が均されている環境でほかの人間と接して友達になる機会がまったくなかったのだ。県大会で何度も優勝し、実家に腐るほどトロフィーがあっても、友達の作り方がわからなかった。この時点で、私の能力は社交性に比して随分歪だったと言えると思う。
ひたすら学校と家を行き来して、家ではゲームばかりやっていた。
1年の後半の方になってようやく所謂オタクサークルに入って、対人能力に似たような問題を抱えた人たちに出会い、それでやっと少し友達ができた。ここから就職活動が始まるまでは、楽しく過ごせていたと思う。彼氏もできた。
とはいえ、あまり成績は良くなかった。勉強したいと思って進学したはずなのに勉強に向かう気力が湧かなかった。どころか、水泳を辞めたことが傷になっていて、「どうせ最後には全部台無しにする、水泳だってあれほどつらい思いをして人生を捧げてきたのにそうやってダメにした」と囁く声が頭から離れなくて、あまり集中できなかった。
学業もそんな感じだったので、いざ3年になってもぜんぜん就職活動を進められなかった。というか授業もギリギリのラインだった。
振り返ると、つらい思いをして思春期を生き延びた先に、ようやく手に入れたご褒美としての『自由』がたった4年で終わることに全然納得が行っていなかったんだという気がする。他の人たちは将来を考える精神の準備ができていたのに、私には何もできていなかった。こんな人生の先に、また何十年も続く苦痛が待っていると思って、絶望感があった。
このあたりのことはぼんやりしているが、就職活動が出来なさすぎて就職留年した。ちょうどリーマンショックや東日本大震災の影響があった時期で、特に女子の就活は周りを見渡しても厳しかった。なので就職留年という言い訳は通った。
でも、留年したのに就活が全然ちゃんとできていなくて、とうとう親が乗り込んできた。希望する企業の傾向は決まっていたので、母親がマイナビリクナビでエントリーする企業を選んでくれて、エントリーシートや履歴書に書く志望動機などの文章としてこちらで考えたら、それを母が手書きで代筆してくれたりして、こんな大学生はおそらく他にいないなと思うほど過剰にサポートしてもらった結果、なんとか書類選考が通るようになり、面接を受けたりと就職活動らしいものを進めることができた。
面接が苦手すぎて苦戦はしたが、なんとか内定をもらった。たた、周りがちゃんとこなせていることも自分にはろくすっぽできないとわかって情けなかった。
このあたりもぼんやりしている。夏くらいに内定が決まって、そこからたしか全然ゼミに行かなかった。いや、たぶん特性的に並行してふたつのことができないので、就活中はゼミにも授業にも行けていなかった気がする。内定が決まった後、バイトはしろと言われてしていて、必要な授業の出席とバイトくらいはしていたが、ゼミに出てないので卒論が当たり前に書けなかった。英米文学専攻なので卒論は英語で書く必要があった。ぼんやり決めたテーマがあるくらいしかなくて、そのまま冬になった。ちょっと書こうとしたけれど当たり前に書けなくて、でもそれを就活を熱心にサポートしてくれた親には言えなくて、卒論提出の日に失踪した。1〜2週間家に戻らず、銀行口座の金が尽きたら死のうかなくらいの気持ちでいた。漠然と死のうと思っていたし、その時が来たのかと思っていた。
結局親に口座の金を引き上げられて、無様にも死ねずに戻った。怒られ、殴られ、彼氏にも心配をかけまくり、色々あったとは思うのだが、この辺りの記憶はぼんやりしている。
ひとり暮らしの家を引き払い、実家にカンヅメになって母親の監視のもと卒論を書いた。足りない単位のための授業とバイト以外の外出はさせないくらいの感じだったと思う。
ひとり暮らしの家を引き払った時、この時も家がゴミ屋敷になっていたので、ゲーム依存で病気だと親に疑われたが、ゲームは単なる逃避行動で、やれない環境であればあっさり辞められた。振り返ってみれば、何らかの支援の網に引っ掛かっておくタイミングがここだったような気がする。ただ、スポーツで結果を出し、世間的には良い大学に行ったような人間が、ゲーム依存なんかで病院に罹るのは外聞が悪い、という意識がなんとなく家族全員にあったのか、結局ここでは必要だったであろう支援とつながることはできなかった。
この環境でなんとか卒論を書いて卒業した。就職は結局バイト先に拾ってもらうかたちになった。
働き始めるととにかく眠かった。ひたすら眠かったことを覚えている。仕事でも会議でも寝てしまい、怒られて、怒られたあとは体が一時的に闘争反応というか覚醒状態になるので、それで過集中を起こし仕事を進めてなんとか巻き返す、みたいな感じだったと思う。昼に寝てしまうので夜は眠れなかった。その悪循環で昼にまた意識を失った。
本当は病院に行くべきだったと思うが、家に帰るとその気力もなかった。家の電球が切れて、ほとんど暗闇だったのにも関わらずその家を引っ越すまで電球を変えられなかった。1年以上真っ暗闇で生活した。歯が折れて激痛でも病院に行けなかった。ぎっくり腰でも行かなかった。ゴミ屋敷はここでも生産された。
この時期私は相当な困難を抱えていた気がするけれど、同時にどこか安心しているような部分があった。自分の価値がこうやって毀損されていくことに対する「ざまーみろ」という気持ちがあった。ちょうどこの頃、母親と完全に連絡を遮断して、実家と絶縁状態になった。直接のきっかけはなんだったか覚えていない。ただ、自分の価値がボロボロと溢れ落ち、人生がダメになっていくことについて、母親への不健全な復讐の欲求が満たされるように感じていたのは覚えている。
この状態を5年くらい続けて、3つくらいの現場を経験した。就職先は人売りのSESだった。
これは自分にとって大きな転換点だった。寝ているところを他人に見られないのでストレスが大幅に減り、なんとか自分が起きていられる時間帯に仕事を進め、眠りたい時は寝ていることができた。とても褒められた就業態度とは言えないが、それほど能力的なハードルが高い客先でなかった幸運もあって、なんとか巻き返しが効いた。この時期が一番平穏だったように思う。この現場が自分にとって一番長く続いたし、終わり方も案件ごと終了ということで円満だった。
リモートワークが終わり片道40分くらいの通勤の生活が数年ぶりにスタートする。10年近く戻っていなかった本社に知った顔はほとんどなく、コミュニケーションが得意そうな子たちの若い顔が並ぶ。すでにこの時点でうまくやっていけるか不安ではあった。
自社開発の案件にアサインされるも、やはり眠気の問題が復活し、怒られる。仕事も客先常駐とは違い、粒度の粗い仕事を上手いことやっておいてというような感じで振られるため、勝手が全然わからず、先の見通しが立たない。作業をうまくこなせず、進捗が出せない。学歴とスポーツの成績だけ見れば能力はあるはずだと思われているので、サボっていると見做される。寝てるよね?なんでコミットが全然出ないの?
年次だけは無駄に高いので直属の上司もおらず、まともな相談先もなく、周りの子たちは若くてこんなことを相談できる相手ではなく、結果誰にもうまく頼れずにひたすら信頼を失い続け、頼みの綱だった週1回のリモートワークも許可を取り消される。
社長から「新卒みたいなことを注意させないでくれる?」と言われる。怒られて、闘争反応になった勢いで、なんとかメンタルクリニックの予約を取った。
これらの問題は通院治療を開始したところでたちどころに解消するようなものでもないので、年末年始の休みを挟んだ後、ボツボツと休みが増え、雪崩れ込むように職場に行けなくなって休職開始。
心理検査(WAIS-Ⅳ)の結果、言語理解とワーキングメモリ・処理速度の間で有意差50を超えた。言語理解・知覚推理凸、ワーキングメモリ・処理速度凹のタイプだった。
この結果と、現在社会生活が送れていない実態をもって、5月ごろにADHDと診断された。
概観してみると、今の私を状態を説明する要点は、下記のようなものであると考えられる。
特性を持って生まれた子どもが、いわゆる体育会系の世界に入れられ、なまじ才能があったがために、支援が Permalink | 記事への反応(21) | 22:15
これついてるんか?くらいでOK
てか美容オタク以外はすっぴんとナチュラルメイクなんてほぼ気づかん
今年で25歳になる、脳性麻痺の四肢体幹機能障害。身体障害者手帳持ち。
障害者雇用で官公庁の正規職員に滑り込んだら、1年目の冬に爆速でうつ病を発症した。薬を飲みつつ何とか仕事には行けているから、精神障害者手帳は持っていない。休職経験もない。
月に3万円を入れることと、飼っている犬の散歩をすることの2つを条件に実家に寄生している子供部屋おばさんだ。何故か犬が私としか散歩に行かないので、犬が死ぬまでは実家の世話になろうと思っている。
普通に歩くことはできるし日常生活にもほぼ支障はないけれど、体幹障害のおかげで階段を自力で降りることができない。手すりがあれば何とかなるが、なければ段に腰掛けてケツでずり下がりながら降りるという奇行を披露する羽目になる。
バスや電車なんかの床が揺れる乗り物で立っているのもダメだ。吊革や手すりを持っていても必ずバランスを崩して転び、人間ドミノ倒しを開催してしまう。ヘルプマークをつけて優先席に座っていると乗客の視線が痛いけれど、周囲の安全のために許してほしいと密かに思っている。
ついでに言うと、某バラエティ番組の運動神経悪い芸人が泣いて逃げ出すレベルで運動ができない。
さて、ここで本題に戻る。
私には5歳下の妹と9歳下の弟がいる。どちらも心身ともにハンディキャップのない健常者だ。
奴らは物心ついた頃から「姉ちゃんにひとりで階段降りさせちゃダメ」というのが常識になっていて、一緒に出かけた時に手すりのない階段に遭遇すると当然のように手や肩を貸してくれる。私がうつを発症してからは、自主的に精神疾患の勉強をしてこまごまと気遣ってくれるようになった。
2人ともとても優しい子に育ったなと思うし(弟なんかはほぼ10歳離れているので、気持ちの上ではもはや親目線だ)、こちらとしても大変ありがたいことだが、昔からどうにもそれが苦しくて仕方がない。
あらゆるハンディキャップやマイノリティに関して「理解を、助け合いを」と叫ばれる社会になった。私は妹と弟にに助けてもらったことは山ほどあれど、奴らを助けてやれたことなどひとつもない。これでは助け合いでも何でもなく、ただの一方的な寄生だ。
Twitterなどで、所謂きょうだい児の方々の投稿をよく目にする。
私は妹と弟を苦しめていないだろうか?知らず知らずのうちに、奴らの人生の可能性を狭めてはいないだろうか?
奴らは「姉ちゃんには手を貸すのが当たり前」と思っているようだが、その「当たり前」がなければ、もっと自由に生きられたのではないだろうか?
先日、高校から進路希望調査を貰ってきた弟に「家出ないの」と聞いてみると、「えー嫌だよ、だって姉ちゃんと一緒に野球見に行けなくなるもん」と返された。
私自身はいつ自分の状態が悪化するか分からないから、結婚もしないし子供を作るつもりもない。自分の子が滑り台に登るとき、後ろについて守ってやれない人間に親になる資格はないと思っているからだ。
だが、そのぶんの負担が妹と弟に降りかかり、無意識に「家を出て一人暮らしをする」という選択肢を最初から抹消しているのだとすれば、奴らがヤングケアラーになっていて、自分が本当に生きたい人生を歩めないでいるのだとすれば、それをどう償えばいいんだろうか。今の私には分からない。
奴らは今のところ、仕事から帰って寝込んでいる私のベッドの傍に毎日必ずやってきて、その時喋りたいことを喋りたいだけ喋って、1時間くらいすると満足して自室へ帰っていく。だから、たぶん嫌われてはいないんだろうなあと思う。
でも、私のせいで彼らが広い世界を知るチャンスを逃しているなら、それはとてつもなく恐ろしくて、取り返しのつかないことだとも思っている。
私が生まれて来なければ良かったのかな。
他に吐ける場所がないのでここで自分語りを書き散らした。長い上に推敲も何もしてないから読みづらいと思う。
俺は親が離婚したわけじゃないから一緒にするなって言われそうだけど。
父親に学費とか生活費とか出してもらってたけど、父親がうざかったし、感謝の念なんて全然湧かなかった。
母に対してあたりがきつく、しょっちゅう揉めてたし、そのくせ兄が一時期グレてた時は他人事で、何て奴だと思っていた。
とりあえず言いたいのは、親に「ありがとう」って言いたくないのは、離婚関係なくよくあることだ、ということ。自分は反抗期をやれただろうか、いま反抗期だろうか、と考えてみるのはどうだろうか。ここからは推測だけど、お母様の味方をやってて、しんどくなかっただろうか? 誰かに甘えたくはないだろうか?
あと、たいていの家はわざわざ言わなくてよい中、養育費をもらうという立場上、言葉にしなきゃいけないのはつらいというのはすごく想像できる。よく頑張ってる。
あと、「実家が太い」という下品なスラングに代表されるネットの風潮に毒されてないか心配。
「親が金持ちなら文句言う資格ない」みたいな考え方を内面化していないだろうか? そういう風に言いたがる人の気持ちはおそらく正当な面があるし、処世の知恵としては「お金があって満足です、感謝です」と外向きに言うのは大事。
でも、お金のある家に生まれても苦労はある。それは自分自身では認識しておく必要があるし、「実家が太い」とかやっかんでこない親密な友人とかと共有できたら更にいい。
「恵まれてるのに文句言うなんて俺はダメかな」と卑下したり、そういう考えによって無意識に思考が邪魔されるのはもったいない。「確かに経済的には恵まれてるけど、〜については悩んでるんだよな、傷ついてるんだよな」ってちゃんと向き合って、お父様とどういうコミュニケーションとるか考えていい。