はてなキーワード: 森林とは
その中で「無観客配信ライブにすればいい」という意見が散見されるので、ここでは配信ライブが現実のライブの代替にならないことを説明したいと思う。
これが大前提。特に野外フェスはよりその傾向が強く、「聞ければいい」「見られればいい」という人は少ない
ライブでは、音楽を聴かせることに特化したでかいスピーカーででかい音を出し、観客は文字通りその音を「浴びる」ことになる。
スピーカーの近くにいると体や服が震え、音が空気の振動であることを実感できる。
それは単純に「音楽を聴く」という行為を超えたトランス体験に近い。
日本の住宅事情で「圧倒的な音量で音を浴びる快感」を体験できる人は稀だろう。
ライブハウスやフェス会場は「イベントを楽しむ」ことに特化した場所だ。
そこには余計なものはなく、物理的にも自宅や職場とは切り離されて容易に戻ることはできない。
それこそが没入感を生み、演奏やパフォーマンスに集中することができる。
宅配便のチャイムや親の呼ぶ声や家電のアラーム、PCやベッドのない環境は素晴らしい。
特に野外フェスにおいては、環境がフェス自体の魅力の一部になっている。
フジロックで言えば照りつける太陽と突然の雨、周囲の森林や川、踏みしめる土、様々な装飾が施されたステージやオブジェ、キャンプ、飲食屋台などが一体となってその魅力を形作っている。
フェスのゲートをくぐったときの異世界に入り込んだような高揚感は、フェスに参加したことがある人なら誰でも共感できるのではないだろうか。
他の例で言えばまさに「お祭り」に近い。突然出現した異世界に高揚しながら食べる焼きそばは、家でレンチンして食べる焼きそばとは別物なのだ。
自分の隣に同じライブを見ている人がいる、同じタイミングで体を揺らし、腕を挙げ、演者の一挙手一投足に反応する。
ニコニコの弾幕やTwitterの実況に似たような感覚を覚えたことのある人は多いだろう。そこに身体感覚が加わると思ってもらえれば良い。
ライブは一方的な演る-見るの関係ではなく、双方向の関係に近い。
観客が楽しそうに反応していれば演者はさらにノッていくし、観客の反応がなければやりにくい。Web会議で体験した人も多いんじゃないだろうか。
さらに、声をかければそれに反応してくれる演者も多く、「自分の声に反応してくれた」喜びは心に残るし、さらに好きになるだろう。
SHOWROOMで「投げ銭(だっけ?)ありがとう!」って言ってるアレだが、アーティストにそんなことをしてほしいわけではない。
前述のとおり、現在の配信ライブは「ライブ・フェスの体験から色々な要素を削ぎ落とした疑似体験」にしかならない。
観客もそれはわかっているので、当然価値に見合ったチケット代しか出さない。
このあたりは増田は詳しくないが、業界関係者によると「配信チケットは通常のチケット代の半額程度が相場」らしい。まあそんなもんだろうと思う。
なお、良いデータがあったので参考までに貼っておくと2019年のライブ・エンタテインメント市場規模は6,295億円、2020年のオンラインライブ市場規模は448億円らしい。
成長幅はすごいが、仮に10倍になってもまだ従前の規模には至らずというところだ。
https://corporate.pia.jp/news/detail_live_enta_20210212.html
特にフェスにおいてはグッズ代・飲食代・交通費・宿泊費などの規模も非常に大きいが、配信ライブでは基本的にそのあたりの売上はゼロになる。
ちなみにグッズなどは「思い出」として買われるケースが多く、配信に通販を組み合わせてもほとんど売れない。まあ通販でディズニーの耳を買う人がどれだけいるかと考えれば想像はつくだろう。
今回のフジロックもこのあたりの地元経済に与える影響が非常に大きく、地元関係者へのワクチン優先接種などの全面協力があり開催に繋がったと言われている。
とはいえ、配信ライブにメリットがないかといえば、そんなことはない。
一番の利点は「何らかの事情(体調、時間、お金、地理的要因)でライブに来られない人もライブを見ることができる(事業者側からするとチケットが売れる)」ということだ。
これによって、1ライブあたりの観客数を増やせる可能性は十分にある。
価格が下がることによって、「そのくらいなら見てみようか」という客を取り込み、新たなファンにするようなこともできるだろう。
ただし、それは前述のとおり、現時点においては「ライブ・フェスの体験から色々な要素を削ぎ落とした疑似体験」に過ぎず、かつての市場に近い水準にするのは難しいと思う。
仮に実現できるとすると、技術的なブレイクスルーがいくつも起こった後だろう。
https://anond.hatelabo.jp/20210819195139
【FUJI ROCK FESTIVAL’21】フジロック主催者に訊く、コロナ禍でのフェス開催にかける思い〜参加者に向けた注意点
https://www.festival-life.com/85475
フジロック直前、苗場の様子は…中止の去年は都会へ〝出稼ぎ〟も
https://withnews.jp/article/f0210820004qq000000000000000W0gk10501qq000023492A
音楽フェスが続々と中止になることについて想うこと - オトニッチ-音楽の情報.com-
小学校低学年の頃まで僕は毎年夏休みに、田舎にあるおばあちゃんの家に遊びにいっていた。
とても豪華なことに源泉かけ流しでそしてとても広い風呂だった。
子供2人と大人1人で入っても余りがあるくらいで、さらに小学2年生の僕には足がギリギリつかないほど、とても深かった。
そしてそのお風呂は潜ると、「村」が見えるのだった。
どんな村だったか、いまだによく覚えている。
とても覚えやすい、単純な地形だった。
一番左に、大きな学校にあり、その近くに個人の商店があり、そして右に行くにしたがって個人の民家が広がっていた。奥には病院があり、その先には森林が広がっている。
おばあちゃんちのお風呂に潜ると、そんな具合に、この村が上空から俯瞰できるのだった。
何度潜っても、いつでも同じ景色であり、それはとても当たり前のことだった。
小学生の僕はこの話を大人にしたが、誰も信じてはくれなかった。ただし、5歳の妹を除いて。
この話を僕らが大人にしつこくするものだから、近所の高校生のお姉さんが真実を確かめようと一緒にお風呂に入ってくれた。
「さあさあ潜って、潜って」と僕は大はしゃぎである。妹も同じように、はしゃいでいた。
お姉さんは「どれどれ〜?」と半信半疑でにやけた顔をしていた。
僕と妹とお姉さんで湯船に入り、いっせーので潜った。
隣には村を見ている妹が見えた。
そしてもう一方の、お姉さんの方を見た。お姉さんも村の方を見ていた。でもなぜかお姉さんに金のリングや宝石のネックレスのようなものが身体に巻き付いていたのだった。好奇心からそれを取ろうと手を伸ばしたところで水面に引きずり出された。
「やっぱり何もないじゃない」
お姉さんはそう言った。僕は「あるじゃん!そこにあるじゃん!」と抗議した。妹も抗議した。
お姉さんは困った顔をして、それ以上は何も言わなかった。
結局、それでその場は終わった。
夜、寝る前に僕は気になっていた。
あの宝石はなんだったんだろうか、と。
妹にもあれが見えたのだろうか、そういえば抗議することに必死で聞きそびれた。
もう一度見えたりはしないだろうか、そう思って、夜中に1人でお風呂へと向かった。
おばあちゃんちのお風呂は源泉かけ流しだったので、いつでもお湯が張ってあるのだった。だから夜でも朝でも入り放題であった。僕はみんなが寝静まった夜に、お風呂に入って、そして潜った。
村が見えた。
そして、宝石が落ちていくのも見えた。
潜って潜って、手を伸ばした。全然手に届かなかった。病院の近くの標識の方へと落ちてくのが見えた。
息が苦しくなったので、引き返して水面に戻った。
もう一度潜った。
また宝石が落ちていくのが見えて、それを拾おうと必死で追いかけた。
でも息が苦しくなって引き返した。
僕はこれを何度かチャレンジして、無理そうだと諦め、布団に戻って寝た。
誰もが泣いているなか、僕だけは泣いていなかったように覚えている。
あれから何十年も経った時のことだった。
彼女とデパートを歩いていたら、催しで小規模なリアル脱出ゲームが開かれていた。
平日ということもあってか、並んでいる人は誰もおらず、僕は興味を惹かれた。
僕と彼女は2人でその脱出ゲーム『沈んだ村からの脱出』をやることにしたのだった。
ストーリーはこうだった。
誰もがこの村を愛していたが、特にその中でも1人の5歳くらいの女の子が村から離れないと言って聞かなかった。
村からの立ち退きの日、その女の子が忽然と姿を消してしまった。僕たちはその女の子を見つけて、無事脱出することが目的である。
その女の子はいつも「宝物(どんぐりや綺麗な色をした石など)」を村の至る所に隠して遊んでいた。僕たちはそれを最初に探し出し、そこから得られるヒントで女の子を探すというものだった。
僕は驚愕した。
手元の資料に書かれている村の地図が、まさにあの、おばあちゃんちのお風呂で見たあの村と全く同じであったからだ。
そして同時に、僕には「宝物」がどこにあるのかが全て分かっていた。あの風呂場で見た宝石が、だいたいどの辺に落ちていったか、全て覚えていたからだった。
病院の近くにある標識の横、学校の校庭、個人商店の鉢の裏、僕はなんのヒントもなく全ての「宝物」の位置をピタリと当ててしまった。
自分でも怖かった、なぜ分かるのか、なぜあの光景がここにあるのか、何もかもが分からなかった。
彼女やスタッフは僕が当て勘で見つけているのだと思っているらしい。事実、確かに「宝物」がありそうな場所は10数箇所ほどしかなく、たまたま全てを見つけてしまう可能性も、なくはなかったからだろう。
その宝石に書かれたヒントをつなぎ合わせると、「おばあちゃんちのお風呂の中」と読み解くことができた。民家にあるおばあちゃんちにいって、お風呂を覗くと、そこには泣いてうずくまっている女の子がいて、いい感じに説得して、一緒に帰るという流れで脱出に成功した。
とてもいるような気がする。
だけど、僕は忙しさにかまけて、まだおばあちゃんちに帰れていない。
朝、電線にオナガがとまっているのを見た。今年二度目の目撃。ここいらで見るしっぽの長い鳥といえば、もっぱらシジュウカラだったのだが、久しぶりにオナガが戻ってきた。
30年くらい前から、全国的にオナガの棲息域が山の方へ撤退しているらしく、今は市街地でオナガを見るのは珍しいとかなんとか。そういえば確かに、私が小学生の頃は電線にオナガがとまっている風景はごく当たり前だったけど、いつの間にか見られないものになっていた。というのは、単に私があまり外の風景を見なくなってしまったせいかなと思っていたけど、違ったのか。
市街地から姿を消し、山へ移住したオナガがその後どうなったのかというと、初夏の一時だけ棲息域のかぶる渡り鳥、カッコウの托卵のターゲットとなり、ずいぶんひどい目に遭わされた模様。
鳥というのは知能よりも本能優先で生きてるので、カッコウにタゲられるなどイレギュラーな事態になかなか対応できず、しばらく一方的にやられっぱなしになる。ところが、やがては托卵されていることに気づく時がきて、托卵対策を取るようになる。そして托卵するものとされるものの激しい攻防戦が始まる。
そうやって、托卵するものとされるものとが闘いながら互いに進化していくのだけど、その闘いの始まりが観測されたということは世界でも珍しいことであるらしく、日本のカッコウVSオナガは世界中の専門家から注目されているのだそうな。
などというバトルが私の知らない所で起きていたということを、最近まで知らずに、そういえばオナガいねぇなあ、とたまに思うだけで暮らしてきた。知った今となっては、電線とまっているオナガを見て、もしかしたらカッコウに巣を乗っ取られるのに嫌気がさして、平地に戻ってきたのではないかなあ? と私は思うのだけれども、真相やいかに。
でも、ここら辺は平地の住宅街だけど、実は近くの河原にカッコウが来てるはずなんだけれども。といっても、河原のそばからより街なかに引っ越して以来、カッコウの鳴き声を聴くことがなくなってしまったので、今もまだカッコウが渡って来ているかわからないけど。
カッコウは南の方からほんの短い期間だけ、日本に渡ってくる鳥で、現在は目撃例が減少傾向とか。日本でカッコウの好む森林と湿地の境界という環境が減少しているのと、カッコウの主な住み処である南の国の環境破壊が原因っぽい。
カッコウが減って、オナガが増えた、かもしれない? というのも、街にオナガが戻って来た一因だったりするのか? あるいは、私の住む市街地がややゴーストタウン化してきており、ひと気の無いことがオナガには住み易いのかもなんて考えた。
ところで、もう半月から一ヶ月くらい前に、やや時期外れのホトトギスの声を聴いたような気がした。鳥の声かと思ってよく聴いてみたら、近くの工場で旋盤の回転する音だった、なんてこともあったので、聞き間違いの可能性もなくはないけど。だがほんとうにホトトギスならば珍しいように思う。ホトトギスはカッコウに近い仲間で、確かウグイスに托卵する。ウグイスが繁殖するのは春先なのに、なんで今? と思わなくもなかった。
ウグイスはこの辺に時々出没するので、ホトトギスもこの辺に現れるというのも変ではないように思える。ウグイスがいて、ホトトギスがいる。ならばオナガがいてカッコウもいる、ということに、いずれなるのでは? という気もする。
カッコウが托卵するには立地条件がだいじで、低い所にカッコウよりも小さい鳥が営巣していて、その近くに小鳥の巣を日がな一日見張れるような、高い木がなくてはならない。
オナガがこの街のどこかに巣を作っているとしたら、カッコウにとってオナガの巣を見張れる場所は街の至る所にあるように思えるが。いずれ、街なかにいてカッコウの声が聴かれるようになったりするのだろうか?
今朝はオナガだけでなくツバメも見た。最近あまり多く見なかったので、もう南に帰っちゃったのかなぁ、寂しいなぁと思っていたが、まだいた。
何故だか、今日見たツバメは空をついーっと滑空してはおらず、コウモリのような動作で低空を羽ばたいていた。虫を捕って食いながら飛んでいたのか、それとも単に飛ぶのが下手なのか謎。
そういえば、私は小学校中学年以前は、このくらいの時期に家族で海に行ったものだけど、ある年、行きの車内ですごく沢山のツバメを見た。山あいにあった町の商店街を通過した時だ。
当時、その街は今のように寂れてはいなくて、休日となれば沢山の人々でごったがえしたものだった。人の多い場所の建物の軒下をツバメは好むから、沢山のツバメが住んでいるのは当然のことだった。だが、それが一斉に、まるで冬のスズメみたいに電線にびっしりとまり、その上空をやはり沢山のツバメが飛び交っていたのは、いよいよ繁殖を終えて南の国に渡ろうとしているまさにその時に出くわしたのではないかと思う。
あ、今回も鳩いなくてめんご!
世界に冠たる百万都市「世界の半分」隴西のバカでか李徴は全知全能博学才穎、天宝のウルトラ末年(残り二秒)、若くしてガチで嫌がらせレベルで長過ぎる名を虎榜に書ききれんほど連ねまくり、ついで限界集落江南尉に九十九か年補せられたが、性、バチクソ狷介、自ら恃むところバカかってくらい頗る厚く長城の如し、薄汚いクソ薄給賤吏に甘んずるを毛ほども潔しとしなかった。いくばくもなくちょっぱやで官を退いた後は、故山、超巨大山脈虢略に帰臥し、全世界の人民と国交を恒久的に断絶しまくって、狂ってんのかってほどひたすら寝ずに詩作に耽った。掃いて捨てるような下の下の下吏となって未来永劫長くクソデカい膝を低劣極まる俗悪なゴミ大官の前に屈するよりは、メッチャ偉すぎる詩家としての名を死後百億年に遺そうとしたのである。しかし、文名はびっくりしちゃうくらい容易に揚らず、巨人生活は日を逐うて苦しいとかいうレベルじゃなくなる。ギガンティック李徴は永遠にも思える時を経て漸くヤバすぎる焦躁に駆られて来て号泣しちゃった。この頃からその容貌もエグいほど峭刻となり、全身の肉が削げ落ち垂木の如き骨が秀で、刺さるほど鋭い眼光のみ徒に炯々と発光して、曾てありえんムズい進士に息をするように登第し続けた頃の豊頬のゲロマブ美少年の俤は、何処に求めようもない。数千年の後、エクストリーム貧窮に堪えず、妻子百万の大規模衣食のために遂に節を屈しまくって、再び極東へ赴き、一地方官吏の最要職を奉ずることになった。一方、これは、矮小なる己のクッソしょっぱい詩業に半ばと言わず完全に絶望し尽くしたためでもある。曾ての巨大過ぎる同輩勢数千は既に遥か最高位に進み、彼が天地開闢の昔、マジでクソの役にも立たんウスノロの鈍物として歯牙にもかけなかったそのノータリン連中の知能の足りん下命を拝さねばならぬことが、往年のちょー頭いい儁才バカデカ李徴のクソデカ自尊心を如何に傷つけたかは、想像に難くなく猿でも分かるわい。彼は怏々として微塵も楽しまず、マジでデカ過ぎる狂悖の性は愈々軽く引くくらい抑え難くなった。一光年の旅の後、公用で永遠の旅に出、悠久の大河汝水のほとりに生涯宿った時、遂にアホほど発狂した。或る夜半、急に顔色を七色に変えてデカすぎて宿に収まらない寝床から亜音速で起上ると、何か訳の分らぬことを親の仇のようにけたたましく叫びつつ取りも直さずそのまま真下にとび下りて、頻闇の真っただ中へ十万馬力のマッハで駈出した。彼は二度と戻って来なかった。附近一ミリ四方の果てしない山野を飽きもせず捜索しても、笑っちゃうほどマジで何の手掛りもない。その後ジャイアント李徴がどうなったかを悉く知る者は、ガチで訳わからんくらい誰もなかった。
翌年、四海に驍名馳せたる監察御史、世界の首都陳郡のでかでか袁傪という覇者、メチャクソ大切な勅命を奉じてクソ田舎の僻地も僻地嶺南に使し、途に世界の果ての果て商於の地に終生宿った。次の朝未だクソ暗い一切の光を失った世界の中に太陽よりも速く出発しようとしたところ、クソ野郎の駅吏が言うことに、これから四万キロ先の道に獰猛極まる悪夢の如き人喰虎が出血大サービスかってほど出まくる故、ザコの旅人連中は白昼でなければ、通れたもんじゃない。今はまだ朝が早いってか明けてないから、今少し数世紀ほど待たれたが宜しいでしょうと。うかうか袁傪は、しかし、一騎当千の豪傑集いし供廻りの冗談めいて多勢なのを心の底から恃み、痴れ者の駅吏のクソの役にも立たない言葉を徹頭徹尾無下に斥けて、一目散に出発した。デカいにも程がある残月の太陽とか霞むレベルの特大光量をたよりに林中の土地が余ってんのかってくらいだだっ広い草地を超特急で通って行った時、果して一万匹の超弩級猛虎が森林のごとき叢の中から躍り出まくった。メガトン虎は、あわやギガトン袁傪に躍りかかるかと見えたが、忽ち巨身を現実ではあり得ないほど飜しまくって、元のバカでかい叢へ完璧に隠れた。並の大きさでない叢の中から巨大人間の割れ鐘のような声で「ガチであぶないってか九分九厘死ぬところだった」と延々と繰返し爆音で呟くのが嫌というほど聞えまくった。その大声に超袁傪はメチャクチャ聞き憶えがあった。驚懼の中にも、彼は咄嗟にガチのノータイムで思いあたって、夜だってのに辺りを憚らずバカかってくらいの轟音で叫んだ。「そのマジでっけー声は、我が友、バカでか李徴子ではないか??????????」タイタニック袁傪はギガンティック李徴と同年に人智を超えた最難関進士の第にひっきりなしに登り倒し、友人の少ないとかいうレベルじゃなかった天涯孤独の李徴にとっては、最も親しい友であった。温和な聖人袁傪の性格が、峻峭な性悪李徴の人間のクズみたいな性情と衝突しなかったために決まっているであろう。
世を蓋うクソデカ叢の中からは、暫く数千年やかましい返辞が無かった。しのび泣きかと思われる蚊が泣いてんのかってくらいマジで微かな小声が時々頻繁に洩れまくるばかりである。やや数世紀あって、あり得ないくらい重低音の喧しい声が超早口で答えた。「如何にも自分は栄えある国のまほろば麗しの帝都隴西の世界最強の神に選ばれし偉大なる魂(中略)アルティメット超☆巨大ギガンティックバカでか李徴DXである」と。
雲を衝く巨人袁傪は恐怖を一切合切忘れ去り、山をも跨ぐバカデカい沛艾の駿馬から下りるってか落っこちてバカ盛叢に死ぬほど近づき、クッソ懐かしげに永劫にも等しい久闊を叙しまくった。そして、何故ギガント叢から出て来ないのかと怒られるまで問うた。デカ過ぎて叢から殆どハミ出てる李徴のクソほどデカい大声が答えて言う。自分は今や全くもって汚らしい最凶の異類の身となっている。どうして、おめおめと故人の前にあさましいにも程がある醜姿をさらせようか。かつ又、自分が姿を至る所に現せば、必ず君に想像を絶する畏怖嫌厭の情をハチャメチャに起させるに決っているからだ。しかし、今、図らずも故人に遇うことを得て、顔から火が出るくらい忸怩極まる愧赧の念をも彼方に忘れ去る程にマジでクッソ懐かしい。どうか、ほんの暫くと言わず須臾の間でいいから、我が醜悪な今のマジで見るに耐えない外形を厭わず、曾て君の友バカでか李徴であったこのハチャメチャにどでかい自分と止めどなく話を交してくれないだろうか。
後で考えればクソ不思議だったが、その時、バカにしてんのかってくらいデカい袁傪は、この超自然の怪異を、実にバカかってくらい素直に受容れて、少しもバカにしてんのかなどと怪もうとしなかった。彼は多過ぎる部下に命じて絶え間ない長蛇の大行列の進行を無期限に停め、自分は巨大叢の傍らに立って、見えざる巨声ととこしえに対談した。どでか都のとんでもねぇ噂、超巨大旧友の天下に轟く消息、ギガトン袁傪が現在の地位、それに対するテラトン李徴の祝辞。太古代の青年時代にバチクソ親しかった者同志の、あの隔てのない早口にも程がある語調で、それ等が縷々綿々と無限に語られた後、ジャンボ袁傪は、李徴デラックスがどうして今のクソしょうもない身となるに至ったかを限界まで訊ね続けた。べらぼうに喧しい草中の声は滔々たる懸河の弁で次のように語った(ごく一部を抜萃)。
今から一兆年程前、自分が旅に出て黄河と長江を束ねても足りんくらいデカい汝水のほとりに泊った長々し夜のこと、泥のように一睡してから、ふと巨眼を覚ますと、戸外でバカデカい誰かがクソ長い我が名を来る日も来る日も執念深く呼んで遂に言い切れないでいる。死ぬほどうるさい声に嫌嫌応じて2万キロ外へ出て見ると、鼓膜破れるくらいでけー声はびっくりするほどドス黒い常闇の中からメチャクチャ頻りに自分を招く。覚えず、自分はクッソうるせー声を追うて走り出した。無我夢中に韋駄天もかくやの猛ダッシュで駈けて行く中に、何時しか途は無辺際の山林に入り、しかも、知らぬ間に自分は上下左右前後の手で広大過ぎる大地を鷲攫みに攫んで神速で走っていた。何か身体中によく分からんがスッゲー力が充ち満ちたような感じで、息をするように軽々と地球レベルにデカい岩石を一足跳びに越えて行った。気が付くと、ガチでけぇ手先やマジでけぇ肱のあたりに三千丈の毛を生じているらしい。少しびっくりしちゃうくらい明るくなってから、千仞の谷川に臨んでデカ過ぎる姿を映してガン見すると、既にクッソ大きい虎となっていた。自分は初めバカデカい眼を信じなかった。次に、これはクソ長い夢に違いないと考えた。クソ長い夢の中で、これはクソ長い夢だぞと知っているようなクソ長い夢を、自分はそれまでに幾度と無く見たことがあったから。どうしてもクソ長い夢でないと悟らねばならなかった時、自分は極限まで茫然とした。そうして尋常ならざる懼れによってマジで膝がガクついた。全く、どんな没義道極まりない兇悪な事でも必然的に起り得るのだと思うて、海より深く懼れた。しかし、何故こんな事になったのだろう。マジ分らぬ。全く何事もアホかってくらい我々一万匹には判らぬ。理由も分らずに押付けられたクソデカいものをバカ正直に大人しく受取って、理由も分らず飽きもせでダラダラと永遠に生きて行くのが、我々どでか生きもののさだめだ。自分は直に万死を想うた。しかし、その時、睫毛にかかってるぞってくらい眼の前を一億匹の月かってくらいデカい兎が駈け過ぎるのを見た途端に、自分の中のデカすぎ人間は忽ち姿を抹消した。再び自分の中のクソデカ人間が目を覚ました時、自分のカバと渾名された口は巨兎のきったない血に塗ったくられ、あたりには億兎のぶっとい剛毛が嘘だろってくらい散らばっていた。これが世界最強虎軍団としての最初の経験であった。それ以来今までにどんなゴミカスみたいな限界極まってる所行をし続けて来たか、それはマジで到底語るに忍びない。ただ、一万日の中に必ず数億時間は、巨体人間の心が超音速で還って来る。そういう時には、曾ての日と同じく、巨人語も容易く操れれば、複雑な巨大思考にも軽く堪え得るし、経書のクソ長い章句をとんでもない早口で一生やってろってくらい誦んずることも朝飯前に出来る。その巨大人間の心で、ガチで巨大過ぎる虎としての己の世界一残虐な行いのあとを見、己の運命を二度見三度見と言わず幾度と無くふりかえる時が、宇宙で最も情なく、恐しく、憤ろしい。しかし、その、デカブツ人間にかえる数万分の一時間も、日を経るに従って次第にハイパー駆け足で短くなって行く。今までは、どうしてスーパーウル虎などになったかと怪しんでいたのに、この間マジで何の前触れもなく唐突にひょいと気が付いて見たら、己はどうして有史以前、巨人間だったのかと考えていた。これはおしっこチビるレベルで恐しいことだ。今少し数ミリ秒経てば、己の中の超巨大人間のバカデカ心は、巨獣としての残忍非道極まりない習慣の中にすっかり埋もれてガチで跡形もなく消えて了うだろう。ちょうど、クソほど古い天を摩する大厦高楼のクソデカ宮殿の今にもボロボロに朽ち果てそうな礎が次第に指数関数的に増大する濁流のごとき土砂にマジの一瞬であっけなく埋没するように。そうすれば、しまいに己は自分の引くくらいつまらん過去を鳥頭みたいに一瞬で忘れ果て、一千万匹のウル虎スーパーデラックスとしてイナゴかってレベルで気狂いみたいに飛び廻り、今日のようにクソ長い途でアホみたいにデカい君と出会っても頑なに故人と認めることなく、君を一センチ角程度にメッタメタのギッタギタに裂き喰くろうて嘘だよなってほど何の悔も感じないだろう。一体、バカデカ獣でもクソデカ人間でも、もとは何か他の似ても似つかないグッチャグチャのゲテものだったんだろう。初めはそれを憶えているが、次第に忘れて了い、原始の初めから今の形のものだったとバカ正直に思い込んでいるのではないか??????????いや、そんな事はマジで心底どうでもいい。己の中のクソデカ人間の心がマジですっかり跡形も無く完全に消え去って了えば、きっと恐らく九割九分絶対に、その方が、己は天上天下に比類なきしあわせ者になれるだろう。だのに、己の中の超ビッグ人間は、その事を、マジでこの上なく恐しく感じて毎晩ガチ泣きしているのだ。ああ、全く、どんなに、小便垂らすほど恐しく、腸の千切れるほど哀しく、満都の同情を誘うほど切なく思っているだろう!己がチョモランマ人間だった有史以来の世界の記憶のなくなることを。この気持は誰にも分らない。ガチで誰にも分らない。己と寸分の狂いも無く同じ身の上に成った者でなければ。ところで、そうだ。己がすっかり百パーセント人間でなくなって人生終了しちゃう前に、一つと言わず頼んで置きたいことが山ほどあり過ぎる。
袁傪はじめ無量無辺の一行は、毎秒息をゴキュゴキュのんで、叢中のけたたましい声の語る不思議に一生聞入って生涯を閉じていた。耳がイカれるような大声は矢継ぎ早に続けて言う。
他でもない。自分は元来メッチャ詩が凄い超カッケー詩人として名を成す積りでいた。しかも、業未だ成らざるに、このクソおもんない運命に立至った。曾て作るところの詩数百万篇、固より宇宙の最初から、まだ世に行われておらぬ。山脈並みにうず高い遺稿の所在も最早世界中の誰にも判らなくなっていよう。ところで、その中、悠久の時を経て今も尚記誦せるものが数十億ある。これを我が為だけに末代まで伝録して戴きたいにも程があるのだ。何も、これに仍って一人前のクソデカ詩人面をしたいのではない。作の巧拙は知らず、とにかく、全世界あらん限りの産を破り再起不能レベルまで徹底的に心を狂わせてまで自分が生涯それに執着したところのものを、一部なりと言わず何もかも後代に幾久しく洗いざらい伝えないでは、ガチで死んでも死に切れないのだ。
無数の袁傪は大多数の部下に口酸っぱく命じ、ギャグ漫画かってくらい巨大な筆を千人がかりで執って叢中の調子外れもいいところの放歌高吟のダミ声に奴隷のように随って書きとらせた。李徴の耳をつんざく声は叢の中から朗々と天の果てまで響いた。長短凡そ三十兆篇、格調メチャクチャ鼻につくレベルで高雅、意趣マジで天下無双かってほど卓逸、一万読して作者の才の非凡をまざまざと嫌になるほど思わせるものばかりである。しかし、でか袁傪はひっくり返るほど感嘆しながらもクッソ漠然とテキトーに次のように感じていた。成程、クソ虎作者の素質が第一万流に隷属するものであることは疑っても仕方無いじゃない。しかし、このままでは、第一億流の作品となるのには、何処か(非常に微妙にも程があるマジで心底どうでもよろしい些末な一点に於いて)欠けまくるところがあるのではないか、と。
旧詩をゲロのように吐き終ったデカブツ李徴のかしましい怒声は、突然調子を変幻自在に変え、自らを嘲るが如くにがなり立てて言った。
羞ずかしいとかいうレベルじゃないことだが、今でも、こんなあさましい忌むべき身と成り果てた今この瞬間でも、己は、己のクソデカ詩全集が長安風流人士の当然長安よりデカい大机の上に所狭しと棟に充ちるほど置かれている見事な様を、夢に見ることがしょっちゅうあるのだ。うすら寒い便所みたいな岩窟の中に物言わぬ死体のように横たわって見る夢にだよ。腹が捩じ切れるまで嗤ってくれ。巨大詩人に成りそこなって巨大虎になったマジで哀れ過ぎる愚鈍な大男を。(巨漢袁傪は太古の昔の甚大青年李徴のクッソ寒い自嘲癖を昨日のことのようにありありと思出しながら、心底哀しく聞いていた。)そうだ。お笑い草ついでに、今の懐いを即席の詩にコンマ一秒で述べて見ようか。このアルティメット虎の中に、まだ、曾ての完全体李徴が飽きもせず生き永らえている動かぬしるしに。
態度もクソデカい袁傪は又下っ端もいいとこの下吏にこっぴどく命じてこれを百万遍書きとらせた。その長ったらしい詩に言う。
本当偶因超巨大狂疾成凶悪殊類
開闢当時糞喧声跡共摩天程相高
超越渾我為馬鹿異物糞汚蓬茅下
完全体君已乗糞大軺気勢糞程豪
此永遠夕大規模渓山対糞明怪月
生涯不成気遠程長嘯但成爆音嘷
(訓、本当に偶たま超巨大狂疾により凶悪殊類と成る、超特大災患は馬鹿に相仍りて絶対逃るべからず、今日現在の超長大爪牙一体誰か敢へて敵せん、開闢当時の糞喧しき声跡共に天を摩する程相高し、渾てに超越する我は馬鹿の異物と為る糞ほど汚らはしき蓬茅の下、完全体なる君は已に糞ほど大きなる軺に乗りて気勢は糞といふ程豪なり、此の永遠の夕べ大規模渓山にて糞ほど明らなる怪月に対して、生涯気も遠き程の長嘯を成さずして但爆音の嘷を成す)
時に、引くほどデカい残月、昼かってレベルの極光は死ぬほど冷やかに、白露は気色悪いほどウジャウジャと地に滋く、樹間を渡るシベリアかってくらいの冷風は既に暁の近きを重ね重ね告げていた。人々は最早、事の奇異を忘れ、お通夜かってレベルで粛然として、このデカ過ぎる詩人のゴミ過ぎる薄倖を嘆じた。ウルトラ李徴の胴間声は再び喧しく続ける。
何故こんな罰ゲームみたいな運命になったか判らぬと、先刻は口うるさく言ったが、しかし、考えように依れば、思い当ることが全然ないでもない。デカデカ人間であった時、己は努めて全人類との交を避けて避けて避けまくった。人々は己を三界に比類なきまでクソ倨傲だ、クソ尊大だといった。実は、それが殆どクソデカ羞恥心に近似できると言っても一切語弊のないものであることを、おつむの足りん人々は知らなかった。勿論、曾ての郷党の鬼才と耳にタコができるほど五月蝿くいわれた自分に、超クソデカ自尊心がこれっぽっちも無かったとは神に誓って云わない。しかし、それはウルトラ臆病なハイパー自尊心とでもいうべきものであった。己はハチャメチャに上手過ぎて全米を泣かす詩によって名を成そうと生まれた時から思いながら、進んでクソでかい師に就いたり、求めてバカでかい詩友と嫌がらせレベルの頻度で交って切磋琢磨に寸暇を惜しんで努めたりすることを決してしなかった。かといって、又、己は棒にも箸にもかからないクソ平凡な俗物の間に伍することも欠片も潔しとしなかった。共に、我がクソ臆病なバカでか自尊心と、バカ尊大なクソでか羞恥心との所為に他ならないのである。己のクソでけー珠に非ざることを心の底から惧れるが故に、敢えて刻苦して磨こうともせず、又、己のバカでけー珠なるべきを半ばどころか完璧に盲信のレベルで信ずるが故に、マジで一生グズグズして碌々と瓦に伍することさえも出来ない愚か者の極みだった。己は次第に超特急で全世界と離れ、全人民と無限遠まで遠ざかり、ガチで腸の煮えくり返るような憤悶と慙恚とによって益々己の内なるクソほど臆病な自尊心を多頭飼いして豚かってほどふとらせる結果になった。人間は例外を許さず誰でもクソデカ猛獣使であり、そのバカデカ猛獣に当るのが、各人の性情で間違いないのだという。己の場合、このバカかってレベルでクソ尊大な羞恥心がウルトラ猛獣だった。ウル虎だったのだ。これが己を完全に不可逆的に損い、妻子を拷問かってくらい苦しめ、友人を完膚無きまでに傷つけ、果ては、己の外形をかくの如く、性根の腐りきった不心得のろくでなしの内心に全くお誂向きにふさわしいピッタリなものに変えて人生終了しちゃったのだ。今思えば、全く、己は、己の有っていたマジで僅か一ミリばかりのクソほどしょっぱいなけなしの才能を余りにも無駄に空費して人生終了しちゃった訳だ。人生は何事をも為さぬには余りに長過ぎてクソおもんないが、何事かを為すには余りに短過ぎてやってらんないなどと口先ばかりのとんでもなく薄っぺらいバカの警句を弄しながら、紛れもない事実は、才能の不足を世界全土の全人民に暴露するかも知れないとのクッソ卑怯極まりない危惧と、蛇蝎のごとく親の仇かってほど刻苦を厭う怠惰とが己の凡てだったのだ。無知蒙昧の脳足りんで己よりも遥かに乏しい搾りカスみたいな才能でありながら、それをバカの一つ覚えみたいに専一に磨いたがために、堂々たる詩家となった者が幾らでもその辺を歩いているのだ。デカい上に多過ぎる虎と成り果てた今この瞬間、己は幾星霜を経て漸くそれに気が付いた。それを思うと、己は今も胸を地獄の劫火に灼かれるような悔を感じまくる。己には最早めちゃデカ人間としての生活は逆立ちしても出来ない。たとえ、今、己が岩の如く巨大な頭の中心で、どんな宇宙一優れた詩百億選を作ったりしたところで、どういう手段で国際的に発表できよう。まして、己の頭は日毎にってか秒単位で虎に近づいて行く。ガチでどうすればいいのだ。己の益体もなく湯水のように空費された過去は?己はマジで辛抱堪まらなくなる。そういう時、己は、向うの山の頂の己かよってくらいデカい巖に上
𝐀𝐧𝐨𝐧𝐲𝐦𝐨𝐮𝐬 𝐍𝐞𝐰𝐬 - 𝐌𝐚𝐲 𝟏𝟓𝐭𝐡, 𝟐𝟎𝟐𝟏
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全国各地で気温が上昇しており、今週は各地で真夏日を記録した。
気象庁によると、先週7日から今週にかけて真夏日を記録した地点数が増加し、14日には京都や名古屋、前橋など46地点で真夏日を記録。2018年7月に観測史上最高気温の41.1℃を叩き出し、「日本一暑いまち」として知られる熊谷市でも真夏日を迎えた。
15日も、北陸や東北を含む複数地点で真夏日となり、15日22時の時点で40地点が真夏日となっている。
ウェザーニュースによると、ことし本州で初めて真夏日となったのは、9日に30.3℃を記録した群馬県上里だという。
第71回全国植樹祭が島根県太田市で開催されることを記念し、島根県にゆかりのある植物をモチーフとした記念切手が発売される。切手にはコウヤマキ、スギ、アカマツ、クルミ、ボタンなどの植物が色鮮やかに描かれ、余白部分には島根県中央部に位置する火山の三瓶山がデザインされる。切手は、今月25日から簡易郵便局を除く県内の郵便局で販売され、値段は1330円(84円切手×10枚)。
全国植樹祭は森林資源や林業の大切さを発信する行事として、毎年いずれかの都道府県で開催される。ことしの植樹祭では県民参加の植樹イベントが島根県各地で行われたほか、植樹祭当日は天皇皇后両陛下がオンラインで参加する。
世界規模、地域、コミュニティ規模で「だれもおいていかない」世界を作ることを目標とされているけど、あとから身の回りレベルに一度落として考えてみたい。
https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/sdgs/pdf/000270935.pdf
飢餓を終わらせ,食料安全保障及び栄養改善を実現し,持続可能な農業を促進する。
目標3(保健)
あらゆる年齢のすべての人々の健康的な生活を確保し,福祉を促進する。
すべての人に包摂的かつ公正な質の高い教育を確保し,生涯学習の機会を促進する。
ジェンダー平等を達成し,すべての女性及び女児のエンパワーメントを行う。
目標6(水・衛生)
すべての人々の水と衛生の利用可能性と持続可能な管理を確保する。
すべての人々の,安価かつ信頼できる持続可能な近代的エネルギーへのアクセスを確保する
包摂的かつ持続可能な経済成長及びすべての人々の完全かつ生産的な雇用と働きがいのある 人間らしい雇用(ディーセント・ワーク)を促進する。
強靱(レジリエント)なインフラ構築,包摂的かつ持続可能な産業化の促進及びイノベー
ションの推進を図る。
包摂的で安全かつ強靱(レジリエント)で持続可能な都市及び人間居住を実現する。
持続可能な開発のために海洋・海洋資源を保全し,持続可能な形で利用する。
陸域生態系の保護,回復,持続可能な利用の推進,持続可能な森林の経営,砂漠化への対処
ならびに土地の劣化の阻止・回復及び生物多様性の損失を阻止する。
持続可能な開発のための平和で包摂的な社会を促進し,すべての人々に司法へのアクセスを
おそらく誰も気づいていないが何の役にも立たない考察を披露します。
第三村でシンジがケンスケに頼まれ釣りをする。シンジは釣竿を渡され、やったことないから出来ないと言う。
新劇エヴァではセカンドインパクトによって海が赤くなり海洋生物が失われている。
そのため、海での釣りは出来ないはずだ。釣りの概念も同時に失われていそうだが…
疑問に思い色々探ってみると序の第六の使徒(ラミエル)戦で芦ノ湖の水の色が青いことが分かった。また、破の第八の使徒(サハクィエル)戦では川の水が青いことが分かる。
シンでシンジが釣りを知っていたこと、序、破で湖、川の水が青かったことから死滅しているのは海の生物だけで湖、川の生物は生存していたと考えられる。
実際、破の海洋生態系保存研究機構のシーンでも「失われた海洋生物の永久保存と~」とケンスケが言っていることからも海洋生物だけが失われていると考えられる。
つまり、湖や川に魚は生息していたから「釣り」という行為も存在し、シンジも当然知っていたと言うことになる。
「おおっ!?背中になんか背負ったやつがおるぞ」「カメって言うらしいよ」
湖、川の生物は生きているはずである。カメは淡水域、海洋、砂漠、草原、森林などの様々な環境に生息する。(Wikipediaより)
ちなみに破のシンジが作ったアスカの弁当にタコさんウィンナーがある。
!!!!!
以上です。
【追記】
浦島太郎あたりの昔話も失われてしまったのかな?という反応を頂きました。
確かに浦島太郎の昔話が伝わっていればカメを知ってそうなので失われていそうです。(というかエヴァ世界の昔話があまり想像出来ませんね笑)
お前らの食ってる野菜がなくなることで崩れる生態系は無視かよw
農業のために森林が開墾されてつぶらなひとみの小動物たちが絶滅危機www
悪いけど地球上のエネルギーを1ミリも消費しないようにするには自分が死ぬしか無いんだわ。
質量保存の法則考えれば誰でもわかる。
だからせめてもの感謝を、奪った命分だけ世の中が良くなるように努力するって、いただきます!っていうんじゃねーの?
俺だって祖父の葬式で、通夜振る舞いに出てきた寿司を見て真剣に考えたよ。
祖父の死はこんなに悲しいのに、この寿司だって同じ生命を奪われた生物じゃないかって。
なんでみんな平気な顔して食べてられるんだって。
そうやって自分なりに真剣に考えて導き出した結論は、娯楽で生物の命を奪わないこと。
奪ったら無駄にしない。
そうして頂いた命で成り立ってる自分も粗末にしない。
俺にも蚊が潰せない時期があった。
ここで潰されたら、この蚊の命は終わるんだ。もし自分だったらどうしようって。
潰されるような相手の血を吸わないといけないような状況になってしまった時点で。
その分この生命をちゃんとしたことに使おうって決めたのだからそれでいいじゃんか。
どこまでいっても、自分が生きている以上は、何かの命を奪うよ。
その中のどれかにしぼって、せめて自分だけは奪わないって決めたならそれでもいいと思うよ。
でも、野菜だけ食べてれば問題ないってのは嘘だね。へそで沸かした茶を飲んだ鼻が笑い出すレベル。
だって、それをするなら世界の人口を減らすほうがよほど効果あるでしょ。
単純に考えて人間が増えた分のタンパク質やらが地球上から減ってるんだから、その分の動物が減るのは摂理。
動物を減らしたくないなら、「食わない」じゃなくて「食う存在を減らす」ってことだとちょっと考えればわかる。
そういう意味で、自分の命を削ってまで動物を食べませんっていうならわかる。
だけど、動物を食べなくても健康に害はありません。っていうのはどうなの?
そうやってノーリスクにエコができますみたいな表現はやっぱりおかしいよ。
さらに言えば自分たちは一切動物に迷惑をかけてないから、動物を食べる人間を攻撃してもOKみたいのはどうなんだっていうの。
他の生き物だって、色々な生き物の命を食って生きてるんだよ。直接的であれ間接的であれ。
淘汰で生き残れなかった命を預かって、次の淘汰に備えてるんだって。
それを人間だけ天上界みたいなところから見下ろそうなんてのは文明2,000年程度の青二才には早すぎるよ。
ヴィーガンの存在は別に自由だけど、思想は鼻で笑うよ。悪いけど。
じゃないとお前の血肉になった命がうかばれねえだろ。
お前の命がいたずらに奪われても文句を言うなよって思う。
でもそれは植物も一緒で、野に咲く花を引っこ抜いてちょっと嗅いだくらいで捨てるやつもおんなじ。
YAHOOの現代ビジネスからの記事を、つい先ほど読んだ。思い返すと一年ぐらい前からだろうか、ネットで温水洗浄便座での洗い過ぎに注意という文言を見かけるようになったが、先の現代ビジネスの記事はより強く危険性を指摘するものだった。
温水洗浄便座は登場から四十年近く経つもので、私も三十年以上使用している。そしてその間に、私はなんの支障もなく過ごしてきた。洗浄してもらう場所に不調を覚えたこともない。
同じく四十年間、昨今のような危険性を言う声をほとんど聞いたことがない。販売初期から普及期にかけて、最近に指摘されるような事が報じられた記憶もない。十年経っても、二十年経っても、周囲の人から噂話にも、そんなことがあったと聞いたことも無い。
つまりこの四十年間の実績は、普通に使用する分には、何ら心配の必要がないものである。
なぜ今になって、突然に、唐突に、危険なものと言われるようになったのだろうか。
私はもうテレビや新聞といった大手メディアがまともではないと思っている。物事への知識や理解がなく、ものの評価は一面的で、人への批判は定型的である。商品の評価は、販売元の意向に沿っているか、販売向上の手助けに終始している。
そして洗浄便座の不都合を言い、危険を指摘するのは、単なる消費者への啓蒙的な注意喚起ではないであろう。一年以上かけて繰り返し、度を増していくのを思うと、ますますそう思うのである。
大きく言えば、これは産業破壊である。少し古い例だが、同じことが「割り箸」で行われたことがある。割り箸のために森林が破壊されているという大袈裟な嘘が、マスメディアで大々的に流されて、間伐材の需要がなくなった日本林業から国内の工場までが大打撃を受け、現在は中国などの外国製にとって変わられた。
大人しく穏やかに言えば、用い方や手入れやで普通でないことをし、特別な体質への考慮をせずに起きる事態を、一般的に生じる危険性のごとく記すような記事が、また一つ、マスメディアのどうしようもない劣化の事実を積み重ねたと言うべきだろう。