はてなキーワード: 敷衍とは
昔とある作品の製作委員会に身を置いていたことがあるので、思い出を書く。
製作委員会というのは「製作」をする人たちの集まりであって「制作」をする人の集まりではない。
私も最初ここの違いが全く分からなかったが、中に入ってようやく理解した。
つまり、「その作品を作るためにお金を出した人たちの集まり」であって
原作者や監督や声優や脚本家が集まっているところではないのである。
(このへんがネット上では未だにけっこう誤解されている気がする。)
これは良いとか悪いとかいう話ではなく、カネのために集まった組織なのだから当然の話である。
■どんな人がいるのか/どんなことを考えているのか
会議に出席するのは、出資社(出版社とか、TV局とか、広告代理店とか、製作費を出す会社)から送られてくる、各担当者だ。
いろんな会社から、いろんな人が出て来て、異業種交流会みたいで、けっこう面白い。
そして、ここがポイントだと思うのだけど、この会議に出席してくるのは、必ずしも映像業界に詳しい人間ばかりではない。
彼ら(そして私もそうだったが)のミッションは2つ。
1.出資金以上のリターンを持ち帰ってくること
2.本業へ良い影響があるように、動き回ること
1つ目は分かりやすいと思う。株買って儲けようとするのと同じだ。投資だ。
でも、それ以上に、各社担当者にとって大切なのは、2つ目なのである。
例えば、広告代理店。
彼らが委員会に出資するのは、「その作品の広告の仕事が欲しいから」 以外には無い。
仮にその作品が映画だったら、映画のTVCMだけで何億円という発注を獲得できるのである。
それ以外にも、新聞・雑誌・交通広告・ウェブ広告・・・いくらでも仕事は降ってくる。
例えば、出版社。
出版社が参加している場合は、原作の出版元であることがほとんどである。
彼らが委員会に出資するのは、「原作がバカみたいに売れまくる事」を期待すること以外に無い。
そのための宣伝費と思えば、映像化する際の出資なんて大したことは無い
そもそも作品性なんてものは、監督や制作側の担当領域なので、製作委員会の担当社員からすれば、自分たちでどうにかできるわけでもない。
だから、 2つ目の目的=自社の利益になりそうなこと の達成ばかりに力を入れ始める。
■どんどん仲が悪くなる
各社が2つ目の目的を達成しようとすると、どうしてもバラバラな動きになる。
それぞれ目指すところ(=自社の利益)が違うからだ。当たり前だけど。
2社だけなら良いが、委員会はたいてい5社6社は当たり前。
ということで、担当者の仕事は「複数社間の利害調整」がメインになる というカラクリである。
■個人的な思い出
自分の経験からすると、他社の担当者とケンカしていたか、ケンカの仲裁をしていた思い出しかない。
何がめんどいって、「みんな業界が違う」 ので、企業文化どころか、業界文化が違う。
「こんなこと当たり前だろ」が各社バラバラなので、話がとにかく合わない。
それが一番面倒だった。
まず共通言語を作るところから始めるのが正しいんだろうけど、正直そんな時間はないので
出版社と広告代理店とTV局(この3つは大抵どの作品にもいると思う)の人たちの文化がとにかく古すぎて、いっつもイライラしていた思い出がある。いわゆるギョーカイ人側の人たちですね。
会社の人と話せば5秒で終わる話が、なんやかんやで1か月かかるなんてザラである。
ただ、いろいろな業界のお作法などが垣間見れたのは面白かったと言えば面白かった。
普通の会社にいながら、ギョーカイ人と触れ合える経験なんてあまり無いし。
スキルとしては、複数社間の利害調整能力というものが身についたと思う。大抵のケンカは仲裁できるようになった。
当然のことながら、映像に関する知識はあんまり身についていない。
自分は下っ端だったし、作品が成功するかなんてのは比較的どうでもよくて、目の前の仕事をこなすのに精いっぱいだったのが正直なところ。
だから、ネットで製作委員会方式が諸悪の根源扱いされるのも無理はないな、とは思う。
でも、本当に映像を作ってる人たち(監督とか)は、こうした状況を理解した上で、うまく利用してやろうという人もたまにいて、そういう人はどんどん有名になっていった。
今は全く違う仕事をしているので、最近どうなっているのかも知らないけど、
ケモノなんとか の騒動があったので、思い出して書いてみました。
(ケモノなんとか は見てません)
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こんな糞記事にコメントしてくれた方、ありがとうございます。
>だけど「複雑な力学が働いてるから、たつきが善というわけでは無いぞ」と言いたいのかな、と思った。
もちろんたくさんの人に愛される作品を作った人という点では善だと思いますが、組織の中でどう見られるかは別の話なのですよね。悲しいかな・・・
>「いわゆるギョーカイ人側の人たち」の考え方が古いのは何が原因なんだろう?
やはり比較的、伝統的な手法を重視しますよね。これは別に製作委員会がどうこう、という話ではないと思いますが。
過去の成功体験に人間というのは縛られてしまうものなのだな、ということです。
立場も分かるので、ボロクソに叩くほどのことでもないと思っています。うまく操作してあげればそれでよいのです。ある意味わかりやすい人たちです。
まさに、ですね。普通こうした問題は事前に根回しがされるので、可視化されることは少ないと思うのですが、このパターンは珍しいですよね(だから騒がれているのだと思いますが)
ただ、その手前で十分に調整がなされたかどうかは分かりませんが、監督のツイートは説明不足過ぎるがゆえに事態を悪化させただけで、窮状を訴えるには良い手段ではなかった、と感じています。
いずれにせよ、調整がうまい人がいるかいないか は委員会運営には重要な要素ですね。
>これを敷衍すると、出版利権のカドカワが同人とか一枚絵とかウチ通さずに出してんじゃねーぞ、全部抜かせろって話?
そのへんは作品によって契約内容が違うので、外からはなんとも言えないところかと・・・
ただ、この業界頭悪い人しかいないので(汗)、契約なんてあってないようなものでして・・・今どうなのかは知りませんが。
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最近は、制作会社自身が出資するケースも増えてきていると聞きます。個人的には良い傾向かと思います。
ただ、最後は出資比率のパワーバランスになるので、常任理事国入りできなければあまり意味ない・・・というのもあるかも。
それこそディズニーじゃないけど、制作側でも札束で関係者を引っ叩ける存在が生まれると良いですね・・・
これはね、自分自身も含めてそうだと思っています。ほんと自分はバカなんで・・・残念ですが・・・!
自分のことはさておき、頭が良いことがアドバンテージになりにくいんです。
頭が良いかは二の次で(もちろん良いにこしたことはないですが)、そんなことよりとにかく「運がいい奴」が残る場所だなー、と個人的には思います。
逆に言うと、みんながディスりがちな「学歴社会」ではないので、それはそれで居心地が良い人もいるかも?
半分ぐらい当たってます笑
というか、逆に言うと「制作」の領域が神格化されすぎていて、現場の忙しい人は業務上何もタッチできないんですよね・・・
良く言えば分業化、なのかもしれませんが。
だから、よっぽど個人的に好きじゃない限り、興味もなかったです。
実際にものづくりにも参加できていたら、全然違ったんじゃないかな、と思いますが。どうなんでしょうか。
>ケンカ
ケンカ と書きましたが、ケンカするほど仲が良い というのは全くその通りで、意外と「現場に近い者同士」は、会社が違っても強い連帯感が生まれがちだと思います笑
会社同士はケンカしてても、現場の担当者同士はちゃーんと仲良くしています。
ある意味、「なんか知らんけど偉いっぽい人達」という共通敵が生まれるので、超連帯しやすいです!
だから、仕事で嫌なことも納得いかないことも沢山あったけど、それ以上に楽しいこともたくさんありましたよ!
元増田ではないが、追記がわかりにくく、実際に理解できてる人が少ないと思ったので自分なりに解説する。
次に、「アイデンティティ」とは、「自分を他社とは違うものであると認識する」ことだから、「区別」であり、従って「差別」である。
敷衍して、自分自身のみならず、世の中のあらゆる「存在」は、何らかの「区別」を与えられることによって認識されるものだから、「差別」をしなければ自分自身や他人を認識できず、「発狂」するしかない。
「差別」と「区別」を区別できればこの問題は生じないかもしれないが、「差別被害者」がいる限りあらゆる「区別」は「差別」と呼ばれうる。そして、人には認知の限界があるから、ある「区別」による「差別被害者」が存在しないことはどうしても担保できない。従って、「差別」をせずかつ「発狂」しない方法は、認知できない「差別被害者」は無視、すなわち容認することしかない。
君の理屈をそのまま敷衍すると、フェミニズムに限らず「全ての、弱者救済の権利運動は、常に他の全ての弱者の権利運動と共闘しなければ偽善」という、とてつもなくハードルの高いことを要求していることにならないか。そもそも、「すべての人の完全平等」が実現されない限り、何らかの弱者を救えば相対的に新たな弱者が立ち現れるわけで、その全てを見越してそれと連帯せよというのは、正論の振りをした無茶振りに近い。それは結局、あらゆる権利獲得運動に対して、「君らは実は権利乞食であり偽善だ」と言い、「弱者は黙って殴られていろ」と言っているのに等しい。
そういう反省が、運動の内部から起きることには、運動の一成熟過程として意味があるだろう。だが、それが外から投げかけられる批判である場合には、残念ながらそれはあまりに理想論過ぎて現実には機能しない。
アパホテルの例の本を考えてみる。
そのホテルにナチスのユダヤ人迫害はインチキだ陰謀だ的な本が備え付けてあったとして。
何を思うかといえば多分特に何も思わない。
帰国して土産話のついでに、泊まったホテルが変なホテルでさって笑い話にするくらい。
米国に行ってホテルに泊まってそこに本が備え付けてあったとする。
うん、腹は立つかもしれない。こんなホテル二度と来るかって思うかもしれない。
帰国して土産話のついでに、泊まったホテルがふざけたホテルでさって話すだろう。
けどその悪印象をそのまま米国全体に当てはめるかといえばしないだろう。
たぶんしないと思う。しないんじゃないかな。ま、ちょっと覚悟はしておけ。
まあ多少のイメージダウンはあるかもだけど、
いちホテルのことを国全体に敷衍する方が差別的だと思うのでそこは混同しない。
http://anond.hatelabo.jp/20161229111558
一応子持ち。
ちょっと無駄な煽りが過ぎるけど、このアホの言うことは部分的にはわからんでもない。特に、この一点に関しては。
みんないつかは死ぬじゃん。どんなに金があっても、どんなに才能があっても「いつか必ず死ぬ」ということに関しては人類みな平等じゃん。自分がこの世から消える、もうすぐ消えるその時に人は何を思うのかっていうと、「自分はこの世に生まれてきて、一体何をこの世界に残せたのだろう」ってことだと思うんだよね。文学やる人なら自分の作品とか、仕事に熱中してる人なら仕事の成果物とか、ゲームに夢中な人ならやり込み尽くしたアカウントデータとか。何を残したいと思うかは、その人の人生観、価値観に大きく左右されるんだけど、必ず人は何かを残したいと思うんだ。ほら、この前解散したSMAPだって歌ってたじゃないか。「あれからぼくたちは何かを信じてこれたかなぁ」って。
子どもは、そういう残したい「何か」の究極の形態だとぼくは思うわけだ。
自分が今生きているのは、はるか太古から脈々と誰かが命を繋いできた成果だ。どこか一点が途切れていたら自分という生命は現世に存在し得なかった。命がなめくじみたいな存在だった頃からバトンをつないできてくれた。ぼくが生きているということは、そうした無数の命がこの世界に存在したことの証明でもある。
それを敷衍するなら、子どもは自分が存在したことの証明となる。「この世界に何かを残す」というこの一点において、これ以上のものはない。子どもを残すということは、自分が親から受け取った命のバトンを次の世代に引き継ぐということだ。そういう存在がこの世界にあるということが、もうすぐ命が尽きようとする人間の心をどれほど救うと思う?
それに比べれば老後の介護問題なんて瑣末な話だよ。子どもがどんだけいようと、自分の介護してくれるかどうかなんて結局わかりゃしないんだから。少なくともぼくは、自分の子どもにそんな期待はかけてないよ。
一応言っとくと、ぼくは「子どもをもつことが正しい」なんて思ってないよ。第一「正しい」っつったって、一体「誰」にとって「正しい」んだよ。ぼくか? それとも君か? 日本か? アメリカか? わかりゃしねえよそんなことは。何十億年も繋がれてきた命のバトンに比べりゃ、現代の人達が言う「正しさ」なんてちっぽけなもんだよ。たかだか100年くらいの歴史しか持たないただの幻想でしかねーじゃねぇか。
まぁその流れで言うと、元増田が言う「子供を作っても良い環境が与えられないから作らない」という人に対しては、しいて言えば「もったいない」という感想になる。だってそうでしょ? 結局自分の行動を他人の「正しさ」に縛られてんじゃん。世の中の人と比べてどうだとか、収入がないからどうだとか。もっと言うと、生まれてもいない自分の子どもも他人の「正しさ」に縛られるって決めつけてんじゃん。「こんな環境で自分を産んだ親を恨みます」って思うかどうかは、あくまでその子が決めることであって、親が決めるわけじゃないからな?
自分がどうしたいか。基準はそれしかないじゃん。その結果が「子どもいりません」なら、この世界の誰もその人に文句は言えねーよ。
ただ、その判断の要因が「他人と比べてどうこう」だったら、気にするべきじゃない部分を気にしすぎているし、その人まで必死につないできた命のバトンがもったいないなって思う。ただそれだけ。
――
長谷川豊による「自業自得の透析患者は殺せ!」との一連の言説からの炎上が、
イケハヤのエントリが提示した「あるべき倫理観」によって収束解消されてってる気がする。
けど、あんな御為ごかしで溜飲下げてる阿呆は運動と瞑想と睡眠と野菜とPCの電源落とした後にモニタ映る怪物との対峙が足りない。恐ろしい恐ろしい。げに恐ろしきは人の心。ああ今はスマホか知らん。靄靄するので書き出す。
長谷川の繰言もイケハヤの戯言も個人の責任論に終始している。本来いま議論し深めるべきは、来るべき苛烈な負債処理社会に向かう再分配制度の再設計、人命尊重至上主義からのその基盤となる思想、そのパラダイムにシフトする方策なのだろう。一連の話は関連するがまずはさておき。
それにこの文章は腐れトマトの与太の与太っぷり、味わい深さについて口上を述べるなんていう霊媒師の譫言だ。
――
” いやいや、そりゃあ、卑怯者はいるでしょう。当たり前です。この世から犯罪はなくなりません。”
まず、犯罪者と卑怯者は違う。これ混同すんのは真の与太者の思想だ。
元エントリを要約する。
~~
卑怯者はいる。けれど、「その人が弱者であるかどうか、卑怯者であるかどうか」は判断できない(他人からも自分からでも、)
だから、人々の倫理観を高めるべき。それは他者に対する疑念を捨て、他者を信頼すること。
「大半の人は正しく行動している」と信じることで、自分自身も正しい行動を取るようになる。
「みんなズルをしている」と考えている人は、当然ズルをしたくなる。
だから、ぼくらはまず、信じなければならない。
不正をする人がいても、ほとんどの人はそれを正しく、望ましく利用している、のだと。
~~
自分でも他人からでもその人=自分が卑怯者かどうか判断できないっていう考え方ね。
「その人」とは「自分」と交換可能じゃなければまずおかしい。ここでもう自分だけ特別なのか?
・自分からも他人からもその人または自分が×か○か判断できない、
もしくは、
・自分からも他人からも、その人または自分は×あるいは?、/じゃなければ○。
間違っているかどうかはわからないのに、正しいかどうかだけはわかる。現代詩かよ。
で、この「大半の人は正しく行動している」の「正しさらしさ;正しさみ」を判断している主体は誰?
これは、「大半の人は“ボクにとって正しいと思える”行動をしている」という程度の意味だ。
あるいは「みんなは、ボクから見て正しいと思える行動をしているなあ」って、阿が取れたら呆者だ。
ボクにとって正しいと思える行動をみんながしていると信じるならば、ボクにとって正しいと思える行動を取ることは容易い。
ボクにとってズルと思える行動をみんながしていると信じるならば、ボクにとってズルをするのは容易い。
お前はどこからどのようにその価値判断基準を得てきたんだよ。社会から、自分なりに、だろ。
だから大体において自分は正しいわけだ。なのに、差異があり、衝突もある。おかしいな、自分は正しいはずなのに。当たり前だ。みんな自分なりに様々な文化社会から得てるんだから。
みんな違うのです。なので絶対的な正しさはないのです、だから「自分からも他人からも価値判断されるものではないです」などと言うのは誤りだ。それは社会上、相対的に決まる。たとえば法律がある。人がどう思うかによる。
(アプリオリかどうかとかは知らん。;
このひとつの人間の心理、思考回路は、拙筆にも矛盾なく親しく感じられる。私はこの心理を、日常生活においてはあなたや、誰にとっても矛盾なく親しく感じられるものと思っているが、厳密には誰かにとって矛盾なく親しく感じられない可能性があることは理解している。)
――
たとえ、「ボクにとってさえ本当はズルいと思える行動」があっても、他人によってそれがズルかどうか判断される意味はなくなる。
また、ボクに良いこと・自然なことと思えることこそ、他人にとっても良いこと・自然なことだと思えるようにならざるを得ない。
――
ここで正しいとか間違ってるとかいうのは、人間社会での価値の判断だ。それは単純な話、みんなが間違ってるって言ってれば社会通念上の間違いだし、みんなが正しいって言ってれば社会通念上正しいってだけの話だ。
自分にとってどんなに正しいと主張しても、その社会において認められなければ間違いとされるし、自分にとってどんなに間違ったことだと主張しても、その社会において認められなければそれは正しいとされる。Xはなんでも良い。論理の式が真理なだけだ。
自分の価値判断は自由だし誰にも侵されない。考えてるだけなら自由だ。でも、文章をはじめ、行為にしたとたんに何らかの、他者からの評価、価値判断は免れ得ない。
――
懸命な諸氏にあられては既にお気づきのように、紐解けばこれまでの、逃亡トマト師への批判と齟齬ないだろ。で、お前らも揃いも揃ってサイコパスか。って言いたいためだけに書いてる。
――
ほとんどの人が「それ」を、自分にとって正しく、自分にとって望ましく利用しているはずだ。
自分にとって正しくなく、自分にとって望ましくない「それ」の利用が不正と思えるだけだ。
たとえば「それ」がなされなければ死ぬというとき、「それ」が自分にとって正しくないことだ、なんて言えるだろうか。
現に制度が整備され、第三者によって利用が認められ、「それ」なしでは自己保存本能が侵されるときに、「それ」を断てるだろうか。
そこに「卑怯者」はいない。社会通念上の価値判断を外してただ個人の生存から見るならば。
そうなったらみんな同じだよねと。
どんなイメージを持つかは自由だけど、基本的にはただ待ってるだけで自分の存在が脅かされるときに、何もしないで待っていられるのは、そりゃ馬鹿か釈迦か瞑想のし過ぎのどれかor全部だ。
誰もがみな生きることに必死だ。必死で生きてるんだから。必死なのに生きずにはいられないんだから。
死にたくないんだ、より生きたいんだ、卑怯もクソもあるかよ。使えるカードはみんな使うよ。
要するに生存競争なんだからと。それを敷衍してけば、バレなきゃなんでもアリだ。捕まらなきゃいいんだ。バレてもゴリ押せば勝ちだ。大義名分の下に持てる力全て使ってこの先生きのこるんだと。
だから、誰かに対して、あなた方だけはどうぞご遠慮くださいなんて言い出す奴は、お前こそ御免下さいだとよと焚べられるのも当然の流れで。
じゃあどうするのか?爺婆が自分で自分を火に焚べるのをまだかなまだかなって夕ご飯よろしく待つか。あるいはカタワらもまとめて誰かが知らぬまに処理してくれるのを見て見ぬふりするか。とりあえずどう考えても自業自得っぽい麻薬中毒者はガンガン殺してもいいかな。もちろん人殺しはどんどん死刑にしよう。「私達」が安心して生きられるようになるまで、どんどん減らそう。
ね、だいたいそんな感じで人類は衰退するんじゃないかな。トランプが勝って、核もまだいっぱいあるし。おそらくそのほうが最適なのかもね、地球全体にとっても。
自分で自分を制御できないんだから、AIに操作してもらい、バランス取ってもらうのが最後の頼みの綱ではあるよね。環境に適応して増殖し始めちゃって自分達では止められないんだもん。ライフゲームよろしく、絶妙なバランスを、自分たちの手だけで構築できるなら良いけど、どうやら無理っぽいし。ホーキング博士やイーロン・マスクが恐れてるのってそういうことだと思うけど、もうそれ以外に方法がない。自分だけ助かる方法なんてないし、結局みんな死ぬんだから、まあ、それでいいんじゃないかな。
・自分は発達障害疑い。専門の外来にかかっている。IQは全検査の値が120前半、言語130ぐらい、動作110くらいで、主治医によると発達障害に特徴的な凹凸はないので「疑い」止まり。ただし主治医の主観ではエピソードなどを聞いているとASD強めに感じられるとのこと。自分としては典型的ADHD。締切の段取りがうんことか部屋が常に空き巣被害現場とか。
・「ひとの気持ちがわからない」。感情の動きとか、「傷つく」と苦しいとかは経験的に知っていて、それを他人に敷衍して考えることは出来るので、「傷つけないように心がけて動く」ことはまあまあできている、と思いたい。ただ、傷ついた人のケアとかが致命的にダメ。泣くときとか一人で泣いて気を落ち着けたい派なので人前で泣くともはや泣いた原因より泣いたこと自体が悔しく、ほっといてもらいたいタイプ。
・上記を敷衍して仕事の先輩が隣のデスクで泣いてたのをそっとしといたら「ほっとかれた」「無視された」と思われたらしく、最近無意味にあたりがきつい。雑談一切ふってこなくなったしそれどころか業務にぼちぼち響き始めている。
・しかし先輩は先輩でスケジュール詰めすぎて突発でこっちに穴埋め振ってきたりしているので、ぶっちゃけ塩対応していることで自分で自分の首絞めてる感があるように見える。(雑談カットは過集中のケがある自分的にはほぼノーダメージ)
・これまでもぼちぼちと悪気なく不快な心持ちにさせて下さった方なので(こっちがやってる仕事を唐突に「引き継ぐ」宣言しておきながら、「過去のメールをほじくり返すのが面倒で時間の無駄だから」という理由で詳細まとめた資料について口頭説明を求めるなどされる。「都度CC送信しろ」という指示はなんだったのか。こちらの時間は無駄にして良いと思ってる的な言動がナチュラルにある)ただでさえ前々から嫌気が差さなくもない状態だったのだが、それがじわじわエスカレートしつつある。ぶっちゃけもうフォローしたくない。
・昨日は残業して作業してるときに、「自分がやりたい仕事があるし増田は今急ぎの仕事とかないはずだから端末空けろ(意訳。物言い自体はもっと柔らかかった)」と言われて端末譲って帰ったがなんか納得いかない。先輩がやりたい仕事があるのは良いんだが、私はその時やってた作業以外にルーチンでこなさなきゃならないのがあと二つ残ってた。しかもうち一つは今週木曜までに目処をつけてその先輩に報告せねばならんやつだ。それを「他に仕事ないはずだよね」と来た。それはなくね? それはありえなくね?? 木曜ぐらいまでを目処にしろ言うたのはアンタやで?
・発達あるあるだと信じているのだが、こういう細かいエピソードはだいたい全部覚えている。何なら書き出せるのだが、書き出して提出するとなぜか見た人は大抵ドン引きする。書かれている内容にではなく、「こいつよくこんなに細かくいくつも覚えてんな」というところにである。
・覚えていることに引かれるのなら、その都度「それはやめて」と訴えれば良いかというとそうでもない。というかそれやると一発で「反抗的」「ケチ」「不寛容」「自分のやり方に固執しすぎ」などなど悪名高くなること請け合いである(ただでさえ仕事の仕上がりの精度を気にしすぎていると言われているのに!)。何より、経験から「まず相手の言い分をのみ、できるだけそれに沿うように動く」ようにしてトラブル回避を試みるよう行動様式が固まってしまっている。上記の「他に仕事ないよね」への腹立ちを今ごろ言語化しているあたり典型的。
・健常者ってこういうときどうしてんの? どう持ち込んだら「自分にも非があった」みたいなことを認めやすいの?? それともアレか、私が神経質すぎるのか? でもこの調子で突発的に作業ペース乱されると、ただでさえ締め切りまでの段取りがアレなのにキャパ超えてまうんで困るんですけど。仕事の成果が出ないという意味でも困るし、この先輩たぶん「締切守れ言うたやん」って指導してくるはずで、それにこっちも内心で「おまいう」ってなってしまって良くないと思うんだよね。
・転職とか配置換えは視野に入れない方向で(仕事内容自体は向いてるので辞めたくない&代われる人員居らん)、なにか良い案ないですか健常なるみなさま。あるいは宇宙人仲間たち。
増田で定期的に投下される「童貞ネタ」でモヤモヤしていたことを把握できたので、記事を投稿してみる。
ツッコミどころ満載だと思うから、変だと思ったらどんどん指摘してもらって構いませんw
増田で投下される自称童貞の記事って、ひどいミソジニー臭がすることが多い。
ブコメではそれに過敏に反応して、記事の一言一言に噛み付いて、「それだから童貞なんだ!」とディスる。
特に女性と思しきトラバ主やブクマカ達は、やや滑稽なほど童貞増田に対する激しい差別的感情を露わにする。
記事に書かれていないことまで邪推して、「あなたは○○な人物だからダメなんだ!」と強い語調で猛省を促すわけだ。
はてな民に限らず、多くの女性はモテない男性に対してやや否定的な感情を持っていると言われている。
モテる男性から酷い目に遭わされ続けていても、それでもモテない男性に対して視野を広げることはしない。
(でも、人間ってそういうものだから、個人的にはそれは悪いことではないどころ、それが自然だとすら思う)
ところが、よく考えてみたら、増田によく出没する自称童貞さん達と、
そうやって童貞増田を激しく糾弾する女性ブクマカ達って同じ人種なんじゃないか、と思うようになった。
というのも、自称童貞さん達はまだ女性と交際したこともないくせに、
「女は○○が悪い。だから女はクズだ」と女性全体を切断処理する。傍目には「すっぱい葡萄の論理」を展開しているようにしか見えない。
一方、童貞糾弾派の女性たちも、実際に童貞さんと実際に相対したわけでもないか、そうだとしても極少数のサンプルだけを判断材料に
「モテない男は○○」と決めつけている。ようは、童貞さんも童貞糾弾派も、頭の中の害悪的なイメージと戦っているだけじゃないだろうか?
童貞さんの「女」と、童貞糾弾派の「童貞」は、とにかく「悪い批判すべき奴」という意味の代名詞程度の役割しかなくて、
「女は○○だから悪い」や「童貞は○○だからダメ」という言説は、単純なトートロジーになっていて、それ故に常に正しくなってしまう。
いわゆる「主語が大きい」問題とも言い換えられるし、この記事内容自体が結構ブーメラン刺さっているところではあるんだけど、
人間は思いのほか個人差が大きい生き物だし、同じ社会的属性を持った人たちが皆、同じ特性を持っていると考える方が無理があるんだよね。
実は最近ちょっと前に話題になった『ルポ中年童貞』(幻冬舎)という新書を読んで、
その中に「外見に自信がないせいで同性愛に走った」という男性のケースが紹介されているんだけど、
それを読んでいるとき、「いや、これは童貞云々が問題じゃなくて、本人がセクシュアリティ(バイの同性愛寄り)に気付いていなかっただけじゃない?」と思い、
そのケースを敷衍して考えた結果、「やっぱり童貞問題は十把一絡げに語れないなあ」という思いを強くしたんだ。
自分自身を言えば、初めてセックスしたときに何か「ああ、俺は童貞卒業したなあ」なんて実感は全くなくて、
むしろ、(後の妻になる)彼女が風邪をこじらせて酷い肺炎になったとき、急遽会社を有給取って休んで彼女の看護していたとき、
「AVを手本にしてセックスをする男性」というのは一定数いて、
それに困っている(というか肉体的苦痛を感じている)女性というのも、これまた一定数いる。
AVの真似をする男の言い分としては「上手いセックスをしろと圧力をかける女性や雑誌や社会が悪い」というわけだが、
現に痛い思いをしている女性としては「何でもいいから早くやめろ」「AVの真似するよりも私の話を聞け」となる。
という話を、「いろんなステップを飛ばしてホテルにいきなり連れ込もうとした男性」をめぐるやりとりを読んで連想した。
http://anond.hatelabo.jp/20160606131354(増田A)
http://anond.hatelabo.jp/20160606003455(増田B)
たしかに広い視野で考えれば「上手く恋愛できる人間かどうか値踏みする人たちが悪い」と言えるのかもしれない。
値踏みする視点に脅えて「上手くやらなければ」と焦り、結果としておかしなことをしてしまったというのが実際のところであろう。
(ただ、女性側を批判する増田(増田A)が「チェックする女性の恐ろしさ」を語りつつ、「コミュ能力」「顔」「服装」に関する女性(増田B)の低い評価に触れて「そんだけ悪評価しか出来無い人をなんで好きなの?」と語るのを見る限り、恋愛を「値踏み」しがちであるのは誰よりもこの増田Aなのだろう。増田Bにしてみれば「誰かと比較して~さんを好きになったわけじゃない!」と怒るところだろう。ましてや「自信をもって」を「私に好かれたことに自信もつべき」と曲解されたことなどは怒り心頭だろう。たぶん)
とはいえ、増田Bが言いたかったことを敷衍するならば「お互いの意思を確認しながら進めていくべき交際を、お仕着せのマニュアルで進めるのはやめてくれ」ということであり、そのマニュアルを背後から支える規範(顔とかファッションとかデートの上手さとかを絶対視して、それらが無ければ女性から好かれることはないはずだという発想)を捨ててくれ、ということだと思う。
それは全く正しいことであるし、誰にとっても(増田Bの彼氏さんにとっても)受け入れられる結論だろう。
一方では、女性が「私はあなたを「値踏み」して好きになったんじゃないんだよ」という意味を込めて言及したであろう「スペックの低さ」に対して、男性がそれを真に受けて、割と頻繁に傷ついたり落ち込んだりするのも事実である。女性にしてみれば「スペックが高い/低い」は職場や近所・友人づきあいといった「外の世界」において意味のある指標であり、恋人関係のような「内の世界」では無意味な指標であると割り切っているのだけど、男性にとってこの二つの世界はあまり切れていない(家庭においても「スペックの高い人間」として見られたがる)傾向があり、そこで齟齬が生じるのだろう、と思う。
リア充的な格好をしている人がリア充的な行動をとる理由が分からなかったんだけど。
ちょっとわかった。
民族衣装なんだわ。
清潔感のあるブサメン。の対比で、不潔感のあるイケメンを想定してみる。
すると、なんとなくわかった。
死にかけて、死を意識すると世の中どうでもよくなって、暴力とかなんでもやれる。
これを言うための装備として、リア充の格好をしてる。
リア充の衣装ってのは、死を意識して現実への虚無を感じたゆえのニヒリズムなんだろう。
だから、暴力的で、論理の無いドキュンみたいな男がリア充的になるし。
そこに女が引かれるから、そういう雰囲気が世に敷衍されたんだろう。
これは、死を意識していない。リア充的な格好をすることで、死を意識した行動を取れる。
この嘘のオラオラでしか女とはコミュニケーションが不可能な世の雰囲気が出来上がってしまったため。
マジメな男は他人と絡まないところで、マジメを貫きとおす。
死を思え(メメントモリ)って奴があるが。
この暴力性が世に敷衍されてるから、虚無的になっちゃったんだろう。
女に相手される、されないが生殖の根本だからこそ。死を思うとリア充的行動をしだす。
マジメな男はじゃあどうすればいいのか。
「騙されたほうが悪い」のではなく、「騙されないほうが悪い」んだ。
赤信号、皆でわたれば怖くない。ってことだ。
「(客観性を根拠にすることを指して)それは翻ってネトウヨ以上に何の意味もない主観的な欲求だよ」
知性のきらめきを感じる一文に出会いました。あなたの批評精神は、真実を穿っていると思います。
なぜ昨今は、客観性ということをしきりに事とするのでしょうか。
それは、「簡単に理解される」からだと思います。客観性は「自明」という迷信があるのですね。
しかし本来、客観性は、数字や統計上の概念であって、主観とは何の関係もない。
それなのに、現代人は「主観的意見は客観的事実によって客観性を付与しうる」という思考法に慣れきっているので、
「神はいない」という事実が、「神はいる」という信念を曲げられるでしょうか。
都会が人口過密で、特に満員電車が異常な日本社会では、痴漢被害がとても多いのです。
しかし、痴漢被害はトラウマ体験であり、現場でも言い出せないのはもちろんのこと、時間が経ってもなかなか、他人に公然と話せることではありません。また日本では、男だけ、女だけ、といったかたちで交友関係が構成する傾向が強く、性別を超えたコミュニケーションが断絶しがちです。言い換えれば、日本社会には性別のセクショナリズムがあります。そのため、痴漢被害に遭ったことのある人は多いのに、そうした事実が話題にのぼるのは概ね、女同士の会話ばかりです。
そして、人口比率で男と女が概ね半々であるのは当然として、日本は、社会的に表立っているのが男中心であるいわゆる男社会です。そうすると、痴漢被害の体験がある女の数は社会の半数にまでは満たないうえに、男の方が外に出てくる日本社会ですから、あまり認識されていません。
わいせつ被害に遭ったことが知られたら「女としての値打ちが下がる」とさえ思われているところすらあります。公然とは言うな語るなという話になりますし、また被害者自身も「話したら損だ」と思うこともあります。
痴漢というのも、触るだけではありません。触らせるというのもありますし、道端で露出するというのもあります。そうした被害のトラウマがありながら、トラウマであるだけに他人に打ち明けられる機会もなく心の内に抑圧していなければなりません。
性被害体験の精神的外傷が癒やされないから、「女性蔑視だ」という批判行動の衝動に表れるのだということもあるわけです。そしてさらには、あれもこれも「男根のメタファーだ」という人すら出てきかねないわけです。その人はもしかすると過去に、露出狂に、膨張したモノを見せられたことがあるのかもしれません。
こうした社会状況を、批判者の単なる個人的な特異性だとしてバカにしているだけではいけないと、思います。想像力や配慮、コミュニケーション力があれば、侮蔑する人格批判は、到底言えないはずです。
今の日本社会では、男女間の現実の交際の代わりとなるものが商品化されています。それは、「アダルトビデオ」などは言うまでもなく以前からありますが、「アイドル」やアニメやゲームの類でも、現実の交友の代わりとして消費されている時代になっているわけです。
例えば「アイドル」というのも、商売として展開されています。男性向けも女性向けもあるわけで、例えば「ジャニーズ系」だろうが「AKB」だろうがあるわけです。この手の商売は、顧客の熱中、より本質的に言えば「依存」、それを利用しているわけですから、成功すれば売上規模は大きいです。とりわけ数十年にわたって底無しの経済後退にある日本では、こうした商売を批判することも、タブーとなってきています。
「アイドル」というのは元来は神々しい偶像であったはずですが、とりわけ男性向け市場では、グラビアモデルの類までもが「アイドル」と呼ばれていて、アイドルのインフレ化が悲惨なくらいです。
もちろん、これらの多くは、「アダルトビデオ」などとは異なり、非わいせつの範囲で行われています。しかし本質的には「性の商品化」です。たとえ性欲処理用でなかったとしても。
そしてこうした一種の「性の商品化」は、実在の人物、いわゆる「三次元」に留まらなくなりました。具体例を挙げなくてもいいと思いますが、男性向けであれ女性向けであれ、アニメやゲーム等の「二次元」でも、「性の商品化」は進んでいます。
近年のアニメについて、以前に押井守氏も「オタクの消費財になっている」と言って批判していますが、そうして「こころのスキマを埋める依存性商品」になっているわけです。それにその方が売上が出るわけで、この経済退潮の日本で、少しでも収益性があればまるでビジネスの「救世主」として扱われるわけですから。
このような動向がありますから、「アニメ=依存性商品」という、一般論としてはあてはまらない、事実と異なる偏見ももたれています。それ自体が誤解であったとしても、その誤解が起こる背景に目を向けるべきです。
アニメタイアップで観光客を呼び込んで「地域活性化」「街興し」とかいうことが増えて、もうけっこう経ちます。そのタイアップ作品の中にも、「性の商品化」の範疇にある作品もあるかもしれません。
しかしそうでなかったとしても、その作品に依存性があるからこそ、わざわざ遠くの人を呼べる、そういうことがあるわけです。「聖地巡礼」とかいう表現は明らかに異常ですが、本当にそれくらいの認識でやっている人達すらいるわけですから……。(そしてたかがその程度の動機で来るレベルにとどまってしまったら、リピーターになってくれないので、一過性の経済効果しか出ないわけですが。)
タイアップ例のなかでは、「ユーフォニアム」だとか、その元ネタとでもいうべき「けいおん!」だとかは、それほど「男性専用」という作品ではありません。いわば、性的なセクショナリズムは、低い方です。
それでもその作品を嫌がる人がいるのは、たとえ作品自体がニュートラルであったとしても、その熱狂的な(依存している)ファンこそが当地に来てカネを落としていくという現実があること、そしてまた前述のように偏見をもたれているということから、作品自体に対しての批判にすり替わっているからなのでしょう。
そして、熱狂的な(依存性の)男達を嫌がる女が少なくない背景には、過去に性被害の体験があることから恐怖を覚えるというのも原因としてあるわけです。
その極一部のまともを敷衍して一般化することはできるはずだろ
そういう部署に配属させること自体がハラスメントだと筆者は書いてるし、事実そのとおりだと思う。
簡単な話で、「乙武を基準にするな」ということ。障害者はハンディキャップを抱えているがゆえに健常者でも苦しい労働に使役することは問題である。
それを知ってか理解なく飛ばしている可能性が大いに考えられるからこそ、彼はこうして告発しているわけだ。
特に、ゲームというのは健常者でも苦手な人が多い。障害者でも楽しめるからと言って、すべての障害者にそのとおりだと敷衍するのは問題である。
どちらが偏見をお持ちか、もう一度ブログを読んでみればいかがか。