はてなキーワード: 家財とは
これで終わりにしたい、という期待を込めて書き捨てる。
いきなり離婚届を出したという報告だけが来て、予定を告げて荷物を取りに行ったらやはり不在で、LINEで残りの家具や家電の話をした。
そのくだりで「やっぱり不倫してたんだね」と言われた。「みんなそう言ってる」だそうです。してないっつの。根も葉もない噂すぎて一番びっくりなのが私だよ。というか『やっぱり』って何なんだ。
とにかく、そうやって、いまだに他に理由があると思っているところに失望した。自分は悪くないと言わんばかりだ。やっぱり全く分かってない。
私にとって、うまいバランスで人と共同生活を送ることが思った以上にストレスだったこと(事前にそれを自覚していなかったこと、結局自分ではどうにもできなかったこと)は、私の至らなかった点である。
相手が、いくら言っても協力してくれない(人に変われって期待するのが無謀なのも分かるので、ある程度仕方ないと諦めてはいた)のも結構辛かったけど、それ以上に「私のこういうところは良くないが、既に病院のお世話になっている状態で、これ以上無理は出来ない」って話した時に「でもそれはあなたの問題だよね」と突き放されたのが一番堪えた。というか『あっこれもう無理だわ』って思った。一緒に・うまく・やっていく気無さすぎじゃん。
そういう状態で「うまくやってる」と思えた鈍感さだとか、具体的な解決策もなく「仲良くやろうよ」って言えちゃう無神経さとか、そういうの思い出すと、本当に早めに決断して良かったと思う。あのまま何十年と大きな息子のお世話をする人生を送ることにならなくて、本当に良かった。いや、向こうにもきっといろいろ言い分はあると思うけどさ。
やってみて初めてこんなに上手くいかないし向いてもいないってことが分かったので、仕方ない結末だなと思ってる。高い授業料ではあったけど。
一度は一生を共にするっていう選択をした相棒なので、もう少し後味よく別れたかったけど、結局カネと家財の話でごねられて、高圧的にされて太刀打ちできなくて家電も全部とられて終わりそう。まぁ実際こんなもんなんだろう。これも高い授業料の内だ。
https://anond.hatelabo.jp/20180921192216
派遣で働いていたときこんなにコメントを貰えた事ないからすごく嬉しいありがとう
ホームレスの生活から今までのことを知りたいという人がいたから覚えてる範囲でかいてみる分かりにくかったらごめん
どこの会社化は言わん方が良いよね派遣を解雇されたときは寮を追い出されるまでは二か月くらい時間もらえたかな
でもすぐに正月が来てしまったしあまり沢山の求人もなくて応募も出来なくて仕事はみつからなかったな
行くところなんかないから持っていた車で寝るようになったけど車もひもじくて売ってご飯を食べるお金にしてしまった
路上で寝ていたら仲間のおっちゃんが掃除の仕事で稼げるから若いからまだ社会に戻れるからやるかって言って掃除するようになった
でも全部で60日くらいしか働けないからゴミ箱や炊き出し以外の飯は食べられるけど家を借りる様なお金にはならないよね
この生活は結構続いた寝るとここは公園だったけどお金があってご飯が食べられて炊き出しとかでも食べられて良かった
あとはアルミ缶を集めて売ったりいろいろだねたまに食べられる牛丼ほどおいしいものはないなって思った
公園から追い出される事が決まった時にNPOの人が若いからって東北の方にある施設に入れてくれて仕事をくれた
仕事は農作業の手伝いとか震災の後片付けで時給700円だけど道具のレンタル代を毎日1500円払っていたし食費も払ってたから
手元には3000円くらいしか残らなかった皆でお酒飲んだり煙草を吸ったりすると残らない
馬鹿だから作業がとろくて叱られた時に時給は1000円も払ってんだからって言われて不思議に思ったんだよね
もう食費も家賃もレンタル代も払ってるのに300円はなんだろうって
皆で済んでる家も庭の物置みたいな奴でトイレは仮設で臭くてなんか話が違うし俺ら騙されてるのかなって怖くなった
このままじゃ駄目だと思って施設の人には黙って逃げたんだ東北に居たら掴まると思って歩いて逃げた
また地域清掃の仕事させて貰えないかと思ってたんだけどビッグイシューの人の夜回りで良くしてもらって興味を持った
一冊170円で仕入れて350円で売るから180円てもとに残るんだよ
寮は1万五千円の家賃だけど1万円は将来為の積み立て一か月頑張って売って8万円位は稼げた
おにぎりとか貰えたりするし豆腐とか安い物を買って食費は一か月に2万円も行かない位
着るものは一杯寄付があるみたいだから着れるものを貰えるから買わなくても大丈夫
恥ずかしいけど酒は飲んでたしタバコも吸っていたから貯金は2万とか3万とかしかしてなかったなもっと頑張れば良かったかな?
寮を出る為のお金は貯まったけど仕事は本当にみつからなくてビッグイシューは長く売ってたなあ
おじいさんとかもっと必要な人もいるもんね俺は若いしまだ働けるんだから頑張んなくちゃって思ってた
世の中が良くなって仕事が増えてから家の解体屋の仕事を貰えたからまだ試用期間で正社員じゃないけど
アパートを借りて今に至るという感じです。クビにならなかったらいつかは正社員になれるかもしれないから頑張りたい
みんなは酒もたばこもパチンコもやっちゃだめだ人生をダメにする
期間工って上手くやれば半年で160万円位は貯金できるのに酒とパチンコでお金残ってなかったからおれはホームレスになった
酒もパチンコもだめだ金がないのにタバコ吸っちゃダメだよね酒はばかになっちゃうから怖い
政治の事は分からないけれど今のもとホームレスでも仕事を貰える位仕事がある世の中は続いてほしい
1人でも多くの仲間が助かって欲しい
みんな好きで辛い思いしてないでも仕方ない無理だって諦めてる俺らも悪いけどと思う
ビッグイシューはたまにでいいから買ってあげて欲しい1冊で180円だからパンが食べられるし1日また生きられると思って嬉しいから
嬉しいから買ってくれてありがとうって手紙を挟んでいたらいつも買ってくれるおねぇさんとかもいて
そういう人たちがいたらかもう死んでもいいやじゃなくて頑張ろうと思えた
今はもう一回おかあさんに会うのが夢です正社員になれたらおかあさんに会いたい
いまいち踏ん切りつかないんだよなあ。
バイトも辞めたし、家財もほぼ全て処分してあとはゴミ袋1袋で収まるくらいにまでしたんだけどさ。
住居も今月いっぱいで退去するんだ。
生への執着も死への渇望もべつに無いんだよな。途方に暮れてるよ。
嫌な思いをして生きるのが苦痛だからまあ消去法で死ぬ方になるよねって感じ。
まだ生きることに対して希望を持っちまってるんだろうな。
周りに人がいない状況なら心は穏やかなんだよなあ。人の全ての悩みは対人関係に帰結するって本当かもな。
数年続けたバイトをもう死ぬから、ってバックレ辞めしてからは気持ちがふわふわしっぱなしだ。
吹田市民です。
私のスペック。30代男性。大阪市内の会社に勤務。妻、30代、専業主婦。
自宅。築40年のマンション。古い。6階。
朝、いつもアラームは8時20分に設定している。(始業は10時なので、ゆっくりめ起床)
妻も既に起きていて、本能的に体を寄せ合う。
阪神大震災の時は、目覚めた時、既に揺れており、部屋が平行四辺形にグラグラ揺れていたのを覚えている。
違ったのは、振動の長さ。阪神大震災の時は1分ぐらい続いたと思うが、今回は15秒ぐらいで済んだ記憶がある。
震源に近かったせいか、緊急地震速報は、揺れの最中から鳴り出した。
玄関にいき、下履きを持ってきて、泥を払った上で、室内用として使用する。(ガラスや陶器が割れて散乱しているので)
ダイニングの食器棚が倒壊し、食器は約半分が使い物にならない。
書斎のPCモニター(24インチ液晶)が机から落ちていた。正常に動作するかどうかは、未検証。
書斎の本棚が倒壊し、再起不能なほどに壊れた。当然、中の本はすべて書斎内に散乱。
寝室は、引き出し式のクローゼットが私の寝床に倒れていた。すぐに飛び起きていなければ、頭直撃コースだったに違いない。
それ以外は深刻な被害はなかった。
続いて、風呂に水を貯める。ガスの元栓を閉じる。ベランダなど、すべての扉が開くかどうかをチェック→正常に開いたので、問題なし。
自分と妻のワイモバイル回線→音声通話は不可だったが、4Gは通信できた。
我が家は、基本的に必要なものしかストックしないという妻の方針のため、非常食になるようなものがない。
会社の上司に連絡。電車がいつ動くかわからないこと、部屋の中に割れた食器と家財道具が散乱していることを伝えると、出社しなくて良いとの連絡。
(家の惨状を写真に撮って送ったら、たいそう驚かれた。上司は京都に住んでいるので、ここまでひどくなかったのかもしれない)
確認したところ、こういうときに必要なものとしては、2リットルのミネラルウォーターが2本と、昨晩沸かしたお茶約1リットル弱しかない。
そこで、コンビニへ買い出しに行くことにした。
買ったものは、昼食の弁当×2、非常食相当のカップラーメン×2、朝食相当のカロリーメイト×1、紙パックのお茶1リットル とりあえず、夕方まではしのげる量の食料を確保。
自宅に戻り、午前中の間はテレビとネットで情報収集しつつ、下手に動いて余震にやられないよう、寝室で待機。
正午過ぎにお昼を食べて、そこから部屋の片付けを開始。
下履きを履きながら、室内の割れ物を回収していく。みかんのダンボール箱相当で、3箱分ぐらいの、ガラス・陶器の割れ物が発生。
細かい割れ物は新聞に包んで、特に営利で凶器になってしまいそうなものは、ガムテープとラップで養生してから、マンションのゴミ捨て場に捨てに行く。
同じような割れ物が、たくさん捨てられていた。
片付け作業中、1時間に1回ぐらいの割合で、テレビをつけて情報収集。私はずっとつけっぱなしにしたかったが、妻はこういう状況で災害の放送をずっとつけていると、精神的にもよくないと反対。
私も納得して、必要以上に情報に接しないよう心がけた。単純に、片付けにも集中できるという意味で、効果は高かったと思う。(私はテレビ見ながらの作業は、ついつい手がお留守になりがちなので)
5時になり、ライフラインの疑問が解決しないかと思い、マンションの管理室に行ってみる。
水道水がにごっていること、ガスを使っていいのか、この2点を尋ねに行った。
ガスは、一定の震度に達すると自動的にストップするので、再始動の手順がガスメーターに記載されていることを教えてもらった。
昨晩の残り物、白ごはん、ねぎ焼きが残っていたのでそれを電子レンジで温めて、惣菜といっしょに食べた。
室内の掃除はあらかた終わり、あとは細かい破片を取るために粘着ローラーをかけるだけとなった。
夜は、寝室とは別の、一番家具の少ない部屋で寝ることにした。
念の為、天吊の灯具は外した。寝るにしか使わない部屋なので、当面困ることもない。
翌日は普通に出勤するも、一部でJRが動いていないため、阪急で出社。30分の遅刻。
妻は、最後の片付けをしていたようだ。
一部の交通機関を除き、平常運転だったようだが、街の中には様々な傷跡がのこっていた。
マンションや駅のエレベーターは、軒並みストップ。点検して安全が確認されるまで封鎖。
公共施設の多くで、天井や壁に亀裂(クラック)が入っており、これも点検修理が終わるまでは近づかないよう、カラーコーンなどで規制線がはられている。
街ゆく車の中には、工事関係の車が目立った。かんでん○○とか、ガスサービスセンター○○といった、インフラ系関連会社や、
○○ビルテクノ・サービスといった、ビル管理系の車がよく目につく。
自分の会社の自席は奇跡的になにも倒壊していなかったが、いくつかのモニターは倒れていたようだ。
あと、うちの会社の部屋だけエアコンがついておらず、昨日今日と暑い中、汗をふきふき仕事をしている。
マスコミの報道内容とか、ヤフーニュースのトピックを見ていると、地震の扱いは過去の地震と比べて小さいように思う。
死者の数は1桁、翌日から通常営業できるようになったせいか、さほど深刻に受け止められていないように思うが、
実際に震源の近くで暮らしているものからすると、余震に怯えたり、想定外の後片づけに悩まされたりと、色々苦労をしている。
ただ、これだけの震度でありながら、犠牲者の数が少なく済んだのは、阪神大震災の経験が大きいと思う。
私は小学生の時に自宅で震度7を経験したが、揺れ方だけ見れば、あの時の悪夢と全く同じだった。
それにもかかわらず、倒壊損壊した建物、火災になった建物がわずかばかりであったのは、過去の教訓が行きていると思う。
当時幼いながらも、そのことで、人の生死なんて、いつどうなるかわかったもんじゃない、と感じた。
改めて今回思うのは、儚さだ。人の命もそうだし、割れた食器たちを拾い集めている時も、同じ気持ちを抱いた。
しかし、22年前と比べると、確実に社会は変わったと思う。もちろん、前向きな意味で。
マグニチュードや震度だけ見れば、当時より少し小規模だが、被害の規模は明らかに小さい。
建築物は、確実にあの時よりも丈夫になっている。
情報インフラも発達し、被害状況がほぼリアルタイムで分かるようになった。
色んな課題を抱えているこの社会だけど、耐震性というか、カウンターディザスタネスとでも言えばいいのか、
亡くなったクラスメイトの命も含め、過去震災や災害で命を落とした人々の尊い犠牲の上で、私達は日々暮らしているのだと実感した出来事だった。
引っ越しの時期なので書く
十数回以上の引っ越し経験の中で個人的おすすめとハズレ業者をまとめた
紹介時に優良物件が多かったのと、契約時に騙すようなことが一度もなかった
良くも悪くも普通
二度と利用したくない→アパ○ン、エ○ブル、M○ST...etc
契約時に要らないサービスや物(ウォーターサーバーとか)を無言でつけられたり、必要事項を説明しなかったり散々だった
名前は覚えてないけど、やたら条件のいい囮物件ばっかり掲載してたり内見時に契約を急かしてくるところはダメ絶対
格安引越し業者は格安な分、家財の補償額が低いので高価な家具・家電持ってる人にはあまりおすすめしない
でも多少の傷ぐらいだったらその場で直してくれる
大手は万が一家具破損しても保証や修理の対応がしっかりしてるので安心
二度と利用したくない→サ○イ
3回使ったけど時間に遅れるどころか、3回ともその日に来なかったのでもうやだ
ある日突然子を連れ去られ、自宅に帰ると家財一式持ち去られていた。実家に帰ると弁護士からの手紙が届いていた。
俺も悪かった。酒に呑まれ覚えていない事も沢山あった。
結局そこをうまく使われて、やってもいない事もやった事にされ、気付いた時にはDV夫にされていた。
当時妻は自営をしていて、俺は会社員で経済的にはかなり助けていた。妻のところの職員の給料だって一時的に肩代わりしたりしてさ。
子供は連れ去られるまで殆ど俺の実家で生活していた。金だって俺の親から貸してもらって運転資金にしていた。
結婚した時に俺はマンションを買った。でも俺自身の仕事がうまく行かなくて、妻の仕事もうまく行っていない。もう手放そうと思っていた。
もぬけの殻になった自宅を見て俺は絶望したと思う。昨日も子供と2人で実家で寝てたのを思い出して俺は泣いた。
俺のいうことなんて全く聞いてくれなかった。それでも1年戦った。昔のメールをほじくり返して、俺が子供の保育料が払えなくて妻にお金を要求したらキレられた日の事。そして程なく妻が2週間遊びに行った時の写真なんかも引っ張り出したのに、届く調書にはそんな事を鑑みた形跡なんか殆どなかった
日本では子を連れ去った母親の方が全てにおいて有利なんだと骨身に沁みた。
俺が築き上げたマンションも家財の一部も車も全て持ち去られた。そして何より最愛の息子さえも。
結局調停では決着がつかず裁判になった時、裁判官は話の始めにこう言った。
これが日本だ
そして俺は和解した。今は毎月4時間の面会で子供と会っている。
面会が始まった当初は、子供から、お父さんが悪い。僕を連れ去ったらお父さんは刑務所に行く、と何度も子供に言われた事は本当に悲しかった。
今俺は、言葉に気をつけ、子供の意思を尊重する形で今も子供に毎月会っている。
憎くてたまらない元妻とも上手く付き合う為に考えながら連絡を取り合っている
俺には今新しい彼女がいる。時が経てば色んなことが形を変えて行くのだ。
ただ、俺は今も思う。子を連れ去った母親がこのまま上手く過ごせる今の日本はおかしいと。
1人親の生活が苦しいとか言う前に、この子の連れ去りの理不尽、母性有利の日本の理不尽をもっとみんなは知るべきだと思う。
俺は今前向きに生きているけど、そうじゃない人は少なくないはず。
みなさまごきげんよう。
かきつばた またかきつばた かきつばた
古来、池鯉鮒と呼ばれ伊勢物語で在原業平が歌を詠んだことで有名な土地ですの。
ところがあらびっくり。延喜式より前の史料では「知立神社」または「智立神社」と
書かれていて、池鯉鮒は大洗池という殺生厳禁の池で鯉や鮒が繁栄したことから
付けられた地名らしいのですわ。いまの地名は一番昔に戻っていることになりますわね。
また、かきつばたも中世にはなくなっていて、ガッカリ観光地になっていたところを
お茶売のお爺さんが尽力してお寺や庭園を復興させたそうですわ。
池鯉鮒は江戸時代も東海道の池鯉鮒宿として重要な土地でしたから、
その関連の展示が多かったです。
いろいろな浮世絵があり、中山道広重美術館にあった浮世絵摺り体験もハガキサイズが
ひとつありました。駒屋という旅籠を再現したコーナーもありましたわ。
お二階には民俗資料館らしい家財道具の展示が並んでいましたわ。
こないだ両国にある横網町公園に行った。無料で入れる普通の公園なんだけど、たまたま入って見たらなんだか石垣の立派なお城のような建物が建っていて、花が供えてあったりして慰霊してる雰囲気。説明書きの看板もあったけどスマホで検索したらなかなか凄かった。
当公園は元々陸軍被服廠があったところであったが1922年に赤羽(現在の東京都北区)に移転し、東京市(当時)が買収し公園として整備したものである。工事は1923年7月から始まったが、その最中の9月1日に関東大震災がおきた。直後、周辺の下町一帯から多くの人が、この造成中の公園を絶好の避難場所とみなして集まったが、16時ごろ、地震で発生した火災による熱風が人々を襲った。避難の際に持ち出した家財道具に火が移り、さらに巨大な火災旋風が発生、人はおろか荷物や馬車までも巻き上げ、炎の中に飲み込んでいった。結果、横網町公園に避難した人だけで38,000人が犠牲になったという。震災後、その38,000人の遺体はその場で火葬され、3メートルの高さになるほどの大量の遺骨はその場に急遽作られた仮設の慰霊堂に収容された。
「火災旋風で38,000人が犠牲に」って想像を絶するけど、東日本大震災の死者が確か2万人くらいと思うと凄い事件だなと思って。(今調べると東日本大震災は死者16,000人弱の行方不明者が約2,500人だった)
関東大震災で習った事って「大きな被害」「朝鮮人が井戸に毒を放り込んだというデマで殺された」くらいな気がする。東京の人はもっと詳しく習ってるのかな。
関東大震災のWikipediaを見てみたらこの火災旋風のことは直接書いてないみたい。公園に建ってた慰霊堂のことがちょっと載ってるけど。
一見長閑な公園でかつてこんな大惨事が起きていたなんてと、なんか不思議な気分だった。調べたり看板を読んだりしなかったら何も知らないままだったわけで。また東日本大震災の話になっちゃうけど、「ここから下には家を建てるな」って立て札があってそれを守ってた村?町?は被害が無かったとかいう話とかさ、奇跡の一本松を残すだの残さないだのの話とかさ、語り継いでいかないと記憶って無くなっちゃうものなんだなって。
横網町公園で検索すると「心霊スポット」と出てくるから少しは知られた話なのかもしれないけど。(あと今年の7月に殺人事件起きてる)
(追記)
ブコメ見てURLの最後のスラッシュ消してWikipediaちゃんと読み直してたら関東大震災のページに横網町公園の火災旋風のことしっかり記述してあった…長いんで読み飛ばしてた…
安倍さんがようやく東京で演説をしてくれたので、子どもと一緒に聞きにいきました。
池袋の駅前に集まった人の数はものすごくて(アンチも含めて)、枝野さんや小池さんのときとは比べものならないくらいでした。ヘリが飛んでたり交通整理の警官がうるさかったりで大変だったけど、演説の全文を書き起こしました。
https://anond.hatelabo.jp/20171014230038
https://anond.hatelabo.jp/20171015174223
も合わせてご参考まで。
みなさん、この選挙は北朝鮮の脅威からいかにして国民の命と幸せな暮らしを守りぬくのか。それを問う選挙であります。そしてこうした中、いかにして子どもたちの未来を切り開いていくのか。これを問う選挙であります。
先般新潟で街頭演説をしておりましたら、安倍さん、この地域は横田めぐみさんが通っていた学校があるんだよね、めぐみさんを助けてください、そう話しかけられました。お母さんの早紀江さんも、お父さんの滋さんも だいぶお年をめされた。なんとしてもお二人の手でめぐみさんを助けることができる、その日がやってくるまで私たちの使命は終わらない。そういう決意を新たにいたしました。
昨年トランプ大統領と会談を行った際、今年の2月10日の首脳会談においても、私はこのめぐみさんの話、そして拉致事件、核の問題について時間をかけて話をしました。この前の国連演説においては、世界が最も注目するアメリカ大統領の演説においてトランプ大統領は、米国の大統領としてはじめて、めぐみさんについてふれてくれました。私はうれしかった。
首脳会談を行ってお礼を言った。そして11月にトランプ大統領が日本にやってくる際に、どうかめぐみさんのご両親、そして被害者のご家族に会ってください、そして日本からこの問題を変えていかなければいけないというメッセージを発してもらいたい、そうお願いをしました。そうしたらトランプ大統領は、晋三わかった、ひどい話だ、この問題を解決をしていくためにも米国は全面的に協力するよ、そう約束をしてくれました。
この拉致問題についても核問題についても、あるいはミサイル問題についても、アメリカや国際社会に連携をしていかなければなりません。中国の習近平主席ともこの問題について話をしました。ロシアのプーチン大統領やあるいはドイツのメルケル首相とも話をしました。そうした外交努力をもって、先般国連において、北朝鮮へ厳しい制裁を下す決議が、満場一致で採択をされました。北朝鮮へ対して厳しい圧力をかけていかなければならない。それは政策を変えるためであります。
安倍さん、そんなに圧力かけて大丈夫ですか。戦争になりませんかという方がおられます。確かに気持ちは分かります。私は紛争なんてまったく望んでいない。闘争を望んでいる総理なんて世界にはいないんです。
みなさんこの20年間、わたしたちは話し合いのための話し合いは意味がないということを経験してきた。94年の核合意。北朝鮮はもう核開発をやめるという約束をした。そして日本や世界は支援した。でも北朝鮮は私たちの目を欺いて開発を行っていた。そして残念ながら貸した400億円、一円も戻ってきていない。
でも私たちはこれを飲み込んで、そして話し合いを続けてきましたが、そして2005年、北朝鮮はもう一度核放棄をするという公約をしました。でも残念ながらみなさん、次の年には核実験を行なったんです。私たちの誠意を欺き、そして話し合いを時間稼ぎに使って、核やミサイルの開発をしていたんです。もうわたしたちに、騙されてる余裕はないんです。
本来北朝鮮は、勤勉な国民がいて豊富な資源がある。しっかりと北朝鮮が新しい道を歩んでいけば国民を豊かにできる。北朝鮮に明るい未来がやってくる。でもみなさん、北朝鮮がミサイル問題や核問題をそして拉致問題を解決しないのであれば、北朝鮮には明るい未来はないんです。いま北朝鮮が意図的に緊張を高めている今こそ、私たちがぶれてはならないんです。みなさん、北朝鮮の脅かしに屈してはならないんです、みなさんそうじゃないでしょうか。北朝鮮の側から政策を変えます、話し合いましょうと言ってくるようにもっていきたい。そう考えています
あの当時のことを思い出していただきたいと思います。日本全国を黒い雲が覆っていた。ひどい円高で、工場や会社はどんどん世界へ出ていった。中小企業や下請け会社はついていけないから、お店や工場を閉めるしかなかった。若い方がどんなに頑張ったってなかなか就職できない、そういう時代だった。
みなさん、日本のGDP、経済力は1997年536兆円、過去最高になりました。でもその後はデフレです。成長できなかった。民主党が政権をとってからはとうとう500兆円をきって、493兆円になってしまった。あのとき民主党政権はなんと言っていたか。人口が減少すれば成長なんかできない。こう言っていました。
でも私はそう考えない。正しい政策さえしっかりとすれば日本人はやればできる。成長させられる。その思いで、三本の矢の政策を進めてまいりました。結果どうなったか。民主党時代、493兆円まで落ちたGDPが543兆円、過去最高。みなさん50兆円も増えたんです。やっぱり日本人はやればできるんです。人口が減少していたって、政策が正しければ成長していくことはできる。
みなさん、株価も22年ぶりの高い数字になった。わたしは株持ってないから関係ない、というかたがおられるかもしれませんが、そうではないんです。みなさんにとって大切な年金がこの株式市場で運用をしていますから、この4年半で年金の資産は46超円も増えてもう心配しなくていい、という状況を作り出すことができました。
また海外からの観光客は800万人から2400万人まで増えた。今年はもっともっと増えていくと思う。この海外からの観光客。日本人の観光客はだいたい5万円使う、でも海外からの観光客は15万円使う。ですからいま海外からの観光客が日本で使っているお金は、4兆円になりました。民主党政権時代はたった1兆円だった。4兆円になって、もっともっと増えていくと、こう思います。
そしてみなさん。中小企業、大切です。
わたしは総理になって従業員10人の町工場を視察しました。その町工場の社長さんのお父さんがいった、言いつけ。それは、従業員を大切にしろ。そのお父さんが残した言葉を大切に、中学や高校を中退して入ってくる従業員、彼らを会社が応援をして定時制高校を卒業させました。
そしてこの会社は、リーマンショックで厳しくなってしまった。民主党政権時代とくに厳しくなっていった。でもお父さんのいいつけを守って彼は誰も解雇せず、がんばって雇用を守った。その後政権が変わって、だんだん状況が良くなった。従業員はこの彼の思いにこたえて、一生懸命工程を改良して、生産性を上げた。そして販路を拡大したんです。その結果いま、みなさん自動車のスピーカー端子のメッキは、世界中を走っている車の約3割は、この工場から生まれているんです。
まさにこれが日本の中小企業の力です。日本人の力なんです。わたくしは頑張る中小企業を応援をして行きます。
たとえば新しい機械を買った。お店を新しくした。そうやって売上を伸ばしたり、生産性を上げて、従業員の給料を上げようと思っている。そういう小規模事業者に、私たちは投資をしたい。固定資産税を半分にする、約3年間半分にするという政策をスタートしました。いまもう3万人の方々が使っている。
またみなさん、大企業の社長に求められなくて、中小企業や小規模事業者、小さな会社やお店やさんに求められるものは何か。それはみなさん、個人保証です。設備投資をしようと思って銀行からお金を借りると、個人保証を求められる。家や土地や家財一切を担保にしなければお金を借りられない。一回失敗すれば終わりなんです。
本人はもとより家族も人生を失うかもしれない。これはやっぱりおかしいと私たちは考えました。そこで私たちは新しい仕組みを作りました。一定の条件を整えれば、小さな会社でも個人保証抜きでお金を借りられるようになったんです。こうした努力も実って、あるいは経済がよくなって、みなさん、前の政権よりも中小企業の倒産はなんと3割も減らすことができました。
もっともっと私たちは中小企業を応援してまいります。みなさん、2009年、私たちは政権を失いました。でも政権を失っても私たちは自由民主党という名前を変えようとは思わなかった。悪いのは党の名前ではない。やっぱり私たち自身に責任があった。何回何回も車座集会を、ミニ集会を開いて皆さんの声を聞いて、真剣に反省をしました。そして、ひたすらに政策を磨き、鍛えてきました。
私たちは三本の矢の政策で政権を奪還しました。デフレから脱却をして、経済を成長させ、雇用を作って、国民を豊かにしていく。こうお約束をし、一つ一つ私たちは実行してまいりました。
雇用は185万人分増えました。そして今日も、若い方にこの街頭に足を運んでいただきました。若い方にとってはやっぱり正規雇用がいいでしょう。正社員になりたい。多くの人はそう思っている。とうとう日本は、一人の正規雇用を求む求職者に対して、一人分の正社員の職がある正規雇用、有効求人倍率1倍を、それを私たちは初めて成し遂げることができました。
前の政権ではどうだったか。私たちに対して正規雇用がないと言って批判していた前の政権時代はどうだったかといえば、あの民主党政権時代は、正規の有効求人倍率は0.5倍しかなかったんです。つまり2人の求職者に対して1人分の正規の職しかない。そういう状況だったんです。
批判だけをしていても、やっぱり何にも生まれてこない。大切なことはしっかりと政策を立てて進めていくことであります。そして、うれしかったことは、この4月、高校や大学を卒業して就職した若いみなさん、就職率は過去最高水準になりました。この前会ったお年寄りが、私にこう言っていました。
安倍さん、最初の孫は運が悪いことに民主党政権時代に就職をした。だから、就職がなかなか決まらなくて悩んでいる孫を見るのがつらかった。でもねえ、次の孫はおかげさまで行きたいところに行けたんだよ。こう言ってくれました。
みなさん、若いみなさんが、自らの手で未来をつかみとることができる社会。そして働きたい人が働くことができる社会。この社会こそがみなさん、希望ある社会ではないでしょうか。私たちはこれからも未来ある、意義ある、希望ある社会をつくっていきます。
この選挙は、どの党に日本を託すか、これを決める選挙です。同時に、誰にこの地域を託すことができるのか、それを決める選挙です。そして、誰を信用することができるか、誰が信頼できるか、それを決める選挙でもあります。当選するために、ころころころころ政党を変える人を信用できるでしょうかみなさん。当選したいがために看板を替える人を信用できるでしょうかみなさん。
どんなに厳しくても歯を食いしばって、自分の信念、政策を遂行するには、がんばるしかない。北朝鮮の脅威から、国民の命と幸せな暮らしを守り抜くことができるのは、子供たちの未来のために、日本の未来のために、その未来を切り開いていくことができるのは私たち自由民主党そして公明党であります。
この選挙はもっと厳しい選挙になる。みなさんの一票を必要としております。どうぞ皆さん、よろしくお願いを申し上げます。ありがとうございます。
なんであれらのサイトは一社が複数同じようなのを運営してるの?
一括で見積もり依頼できて便利とか思う人もいるのかもしれないけど、あれはただの広告だよね。
某侍とか某価格ガイドとか10万円キャッシュバックとか書いてあるけど、絶対誰にも当たらないだろ。一括見積もりしたら提携されてる会社から鬼のように電話がかかってきそうで怖くてできないよ。
それよりもクレカのサイトから〇〇%引きの会社に何社か電話して見積もってもらう方がマシだろ。
引越しなんて安かろう悪かろうだろうし、家財破損や盗難あっても四六時中立ち会うわけじゃないから事後で文句言っても戻ってこないだろうし。
いや、ファミリーとか金額がデカくなるなら多少は意味あるのかもしれないけど、客数的には単身が圧倒的に多いと思うから、自分も含めそういう人はある程度の金額を見込んだ業者に頼むのが結果的に安くなるんじゃないの。
そろそろ結婚について前向きに考えないかと言われた。私はこれまで結婚について前向きに考えるつもりはなかったのだが、このように正面切って言われたら私が納得して結婚できるように私自身も考えなければいけない。
いくつか条件を提示してみた。
唯々諾々と自分の姓を変えるのは嫌だが「私があなたの姓になるのは嫌だ」と馬鹿正直に言ったら険があるだろう。どちらの姓になっても構わないとお互いが思った上で勝負して決まったなら納得する。
そしたら相手は言った。「夫たる俺が君の姓に替えたら婿養子になったように見えるし「じゃんけんで決めました」と弁解するのも世間体が悪いからそれは嫌」だとさ。
私は返した。「貴方は自分の姓が結婚によって変わるとは思ってもみなかっただろうけど、女性は常に社会からそれを意識させられているんだよ。貴方が自分の苗字が変わるかもと思ったらモヤモヤするように、私も抵抗を覚えるよ。 自分の姓に無条件で変わってくれと私に言うなら、私が納得できるような理由を考えてみてくれない?」
そしたら「思いつかない、だから俺の苗字になってくれと頼むしかない」と言われた。何それ、何も考えてないんだね。アハハハ。俺の世間体のために君は自分の気持ちを我慢する、そういう役割を私に期待していると言う事は分かった。私にはそんなつもりはないので、相手の誤解をこれからなんとかしないといけないな。
②夫の家(持ち家)の合鍵を夫の両親が持っていていつでも好きに出入りしている現況では、私はここを自分の家だと思えないから鍵を回収してほしい、貴方の母親の私物化が進んでいる部屋も撤収してくれと言った。
曖昧にうなずいてた。これは駄目かもしれん。だが絶対に譲れん。
相手は、すぐには変われなくてもお互い生活スタイルが変わるのだから俺はきっと変わるだろう、君が俺と結婚してこの家に来るなら君の私物を持ってこれるよう趣味のプラモ(埃被ってる)を処分するだろう、と言った。
私は「埃被ってるし、もはやどうでもいいものだったらさっさと捨ててしまったらいいだろ」という言葉を飲み込み「結婚のために趣味を捨てる必要はないよ。私も自分の趣味を捨てないし将来何かあった時に「お前との結婚のために俺は趣味まであきらめたのに」とか恨み言を言われても困るし」といった。
話はそこで終了。
君に色々変化を求める替わりに俺はゴミ風の所持品を捨てるよ、これでどう?とか意味わからん。
私には今の住処を離れて家財も生活拠点も自分の懐へ移動させ、「何か嫌…あと世間体が…」みたいな理由で名前も自分に合わせて変えさせ、結婚をしたあとも相変わらず親が自分の家をウロウロするままにさせておきたい。
相手は「俺は変わる」というが、私に変わる条件ばかりを出し自分や自分が頭のあがらない相手は何一つ変わらない。
そんな人のいう「俺は変わる」って何なんだろうな? せめて金のかからない書類手続きと外観だけの問題である姓の件だけでも乗ってくれたら「変わろうとする決意」を見ることが出来たのに、自力では何も変える気が見えなくてガッカリだよ。
ひょっとして悟空が超サイヤ人になった時のように、自分も人生の転機が来たらあっという間に変われると思っているクチだろうか。
幸い、私と相手はお互いに給与所得者で年収には大差がない。今後の話し合いが実に楽しみだ。勿論、結婚に向けての話ではなく、相手がどれだけ「明日から本気出す」に過ぎない生ぬるい認識でいるかを話し合いで分からせるのがな。
それで互いに落としどころが見つかれば結婚するだろうし、平行線のままなら互いに人生の分岐点に立つも良し。面白い一年になりそう。
40歳になったのを記念に、「不惑」からはほど遠いが、自分語りする。
自分のことがよく分かっていなかった。
あとから聞かされたのだが、幼稚園にはじめて行った時、まったくしゃべらなくなったらしかった。
毎晩UFOがうちに来ていると思い込んでいた。
恥ずかしさというものが何なのか分からなくなり、なぜかパンツをずり下ろして登下校していた。
しょっちゅう小便をもらしていた。
身体の動かしかたが分からなかったため、ぎくしゃくとロボットのように身体を動かしていた。
特殊学級があるのを知り、そこに自分がいないのはなぜかといぶかしんだ。
いつも親は、泣いている自分に明日にはいいことがあると言い聞かせていた。
あくる日になったらなったで明日にはいいことがあると繰り返す親の言動に、混乱はさらに加速した。
自分のことを指さして笑う同級生や教師を見て、確信は深まるばかりだった。
人形遊びにはまり、何時間でも独り言をつぶやいているのを見た親から人形をとりあげられ、泣き叫んだことがあった。
転校生だった。
性格が明るくなった。
また性格が明るくなった。
やはり転校生だった。
もし親友に恵まれなかったら、自分の人生はまったく違っていたと断言できる。
自分を受け入れてくれるかもしれない可能性を思うことが、すなわち恋だった。
そのかわり勉強に恋した。
度を過ぎて打ちこめば、やっていることがなんであれ、それを勉強と言ってしまえると思った。
だとすれば勉強することが、あるがままの自分でいることにつながる道だと思いこんでいた。
寝ている時と食事している時、風呂に入っている時以外のすべての時間を勉強に費やした。
母はついに気が狂ったと思ったらしかった。
大学生になって間もなく、猛烈に女の人を好きになった。
自分が好きになったそのひとは、友人のひとりと出会ってすぐに付きあっていた。
今でも理由が分からないのだが、なぜか二人から付きあっていることを隠されていた。
そうとは知らずに告白しつづけ、ふられつづけた。
大学3年生の時、友人にふられたそのひとが自殺未遂を起こした。
血で染まった畳を清掃したあと、睡眠薬で眠りこんでいる女性の様子を見に隣室に入った。
枕元に置かれた手帳が目に入り、いけないと思いつつも手帳を開いた。
その年の夏休み、どうしようもなくなって東京〜九州間を自転車で縦走した。
当時大阪にいた親友のひとりに電話し、大阪で合流して3週間かけて九州の実家に帰った。1500キロの道のりだった。
もうひとりの親友は、大工として上京していたが、たてつづけに失踪した母親と兄を追いかけるように行方知れずになっていた。
なんとか大学卒業してそこそこの会社に入社、企画の仕事にたずさわった。
特許をいくつか取るほどにはがんばった。
が、結局丸3年勤めたところで退職した。
働くことの意味も分からないのに5年、10年先が見通せる会社員生活がうとましくなった。
会社を退職後、大学院に入りなおして修士課程・博士過程と6年間を大学院生として過ごした。
結局また勉強に頼った。
家財を売り払ったお金を学費にあてていたが、実家が困窮してこちらから仕送りする必要が生じ、苦学せざるを得なくなった。
この間に、嫁さんになる人があらわれた。
自分の人生でこのようなことが起こりえたことを思うと今でも驚かされる。
博士号を取得する前後からいくつかの大学で非常勤講師を勤めた。
結婚した翌年に母が死んだ。
誰になんと言われようが面接を受けようと思った。
自分が大学教員にふさわしいかどうか考えると、向いていないと思えることのほうが多い。