はてなキーワード: セカンドオピニオンとは
承前 https://anond.hatelabo.jp/20230702130059
再出血の恐れはあるので、血圧を低めにして安静にするしかないが、主治医たちも症例を調べて、他の専門医にも問い合わせしてくれているようだった。
夫は点滴台を押しながらトイレに行けるぐらいまでは回復して、このままならば大丈夫そうにも見えた。
主治医から連絡があり、再度、カテーテル検査を行い、その結果で今後の対応を決めようとなった。前回のカテーテルよりは細いカテーテルを使い、おそらく出血したであろう血管の画像を立体的に撮りたい。それをやりながら医師たちで検討をしたい。カテーテルで手術が難しい場合は、後頭部から開頭して対応したい。などの目的で様々な画像を撮ったそうだ。
カテーテル検査後の説明はふたりで聞いた。3D画像になってみると、複数の箇所で奇形の血管があり、複雑につながっていることがわかった。
「手術は2段階で行いたいです。最初にカテーテルを使って対応できる血管を塞ぎます。脳の奥にあり、この部分は開頭手術では対応できません。その後、開頭手術を行い、対応できなかった血管を顕微鏡で見ながら排除します」
いろいろと質問をした。
セカンドオピニオンをとった方がいいのか?
丁寧に回答をもらえたのだが、要は質問を重ねようが、やるか、やらないか。それを決めるかなのだ。
やるしかないのか。
このまま安定していたとしても、根治はしない。
自宅にいるけど一人で生活できなかった爺ちゃん婆ちゃんにするのは、「介護」。
どちらにも該当しない人間は、自分の家では特別な扱いは無かった。
自分が聞いたことのない病気で2か月間小学校を休んだときも、たとえば食事の内容や家事のローテーションは特に変わらなかった。
強いて言えば、家族が旅行に行くとき、自分だけ連れて行ってもらえず、家で一人で寝ていた。
なんだか寂しくなって泣いていたら、うちをのぞきに来た隣の家の子(田舎というのはそういうものなのだ。)が「増田ちゃんが一人で泣いてる」とその子の母ちゃんに報告し、うちにきて桃缶を食わせてくれた記憶がある。
なので、強いて言えば、看病とは桃缶。
病気は寝とけば治る、怪我は唾つけとけば治る、転んだら自分で起きろ、早く起きなきゃ置いてくぞ、という育ち方をしたので、家族が病気になったときのケアの仕方が分からない。
直近だと、恋人の親父がやってきて、恋人を病院に連れて行き、その後、自分に対して切れた。
○年前まで××大学にいた指導医・専門医のいる病院で検査して、セカンドオピニオンももらったんだけどな。」
と自分は思うのだが、その病院まで自転車で連れて行ったことに対しても切れられた。
「痛み止めを出しておきます」と言われ、エコーもしなかったらしい。
看病の仕方が分からない。
ADHDに当てはまる症例じゃない?朝起きて本人としてはやることがたくさんあって、順序がめちゃめちゃになって、うまくいかなくて大幅な遅刻が見込まれて、休む選択をとる。(連絡すればまだマシな方)anond:20230622222313
遅刻するときまずいし怒られるから anond:20230623025912
感情のコントロール能力が弱いから、ストレスで物理的に肝臓が悪くなってるとか、
自律神経失調症の症状が出て、物理的にまぶたが開かないとか、睡眠障害だとか、
注意散漫と多動で物理的に負傷しがちで休むとかなら、ADHDだなぁって思うけど、
増田があげた内容についてのみ言及するなら、発達障害とは別のものだと思うで
ただ、まったく無関係なわけではなくて、おそらく典型的な二次障害だと思う
『回避性パーソナリティ障害』、『適応障害』、『鬱病』、精神病ではない場合はHPSな気がするので、
お医者さんや相談先から何も指摘を受けていないなら、別のお医者さんでセカンドオピニオン受けた方がいいと思うで
朝起きて本人としてはやることがたくさんある
あとあらゆる動作がめっちゃ遅い(うんこする歯磨きする着替える)
もしくは急に気になったことができたらそれ調べたり試したりもする
順序がめちゃめちゃになって、うまくいかなくて
あらゆる動作がめっちゃ遅いので家を出る2時間半前に活動を始めるが、
いつもピッタリかやや間に合わない
なお、冠婚葬祭や商談用にめかし込んでいるわけでは別に無い模様
余人をもって替えがたい人材ならばともかく、凡人やポンコツがみんな席についた後にしか来ないをやってると、
フツーに顰蹙ではあるけれど、それでも一般雇用で働けちゃうんだな。解雇規制は超強力だからね
相手に申し訳ない、怒られる・失望されるのが怖い、自分が不甲斐ないくて辛いは後にしよう
ここで、パニックになったり、辛くなって、どうしても正直に連絡出来ない(虚偽の連絡したり/連絡をしない)なら、
あと、在宅勤務を検討しよう。ワイは徒歩10分でも自転車で10分でも無遅刻無理だったけど、
流石に在宅勤務で遅刻やみんなより始業開始が遅いは一度もない
休む選択
仕事なんてとりあえずやっておけばいいので、
完璧じゃないから休む、迷惑をかけていて申し訳ないから休む(逃げたい)とかしなくていいぞ
ここで、パニックになったり、辛くなって、どうしても会社いけないなら、
ただ、フィジカルワークとかコールセンター(出社必要)とかは、その時間に人がいることを前提に設計してると思うので、
先に明言しておくが、俺はADHDの友人にまで発達障害扱いされるがセカンドオピニオンまで受けてトータル2度の検査をしたが発達障害ではなかった。(俺の特性を書くとはてなーたちは120%発達障害の検査をしろと言ってくる為)
俺は口頭でのやりとりが苦手だ。人の言葉を理解するのに時間が掛かるし、言葉もスラスラ出てこないし、その場で言いたいことを綺麗にまとめられずパニックになりしどろもどろな、的外れな回答をしてしまう。会話する気がないのではなく、真剣に会話しようとしてこれなのだ。相手の言う事を聞き逃してはいけない、間違った解釈をしてはいけないという観念が重度の緊張と体の強張りを生み、相手の言ってることが音としては聞こえるが、情報として処理されないような症状もまあまあな頻度で起きる。疲労感が大きく家に帰る頃には心身の疲労感が酷い。これが原因で新卒の頃に社交不安障害を発症し、仕事を辞め3年ほど寝たきりのような生活を送っていた。
最低限の日常会話や挨拶は出来る。なんなら俺は自分のこの頭の中で話を構成出来ない特性を理解してるので、雑談で聞き手に徹し、相手が何気なく話してたエピソードを覚えるようにして、何かの折に「○○の話、どうなったんですか?」と聞き「その話良く覚えてたね!」と喜ばれる事が増えた結果、お喋りな友人が何人か出来た。
しかし、仕事はそうは行かない。聞き手に回るだけで完結するならまだしも、報告連絡相談すら何年経ってもたどたどしく要領を得ないのは大問題なのである。
どうにかして、人並みに話せるようになりたい。頭の中で話をまとめて、仕事上のリアルタイムの会話について行きたい。人並みに仕事上の口頭でのやりとりをこなせるようになりたいのだ。
俺は30代なりたての男なんだが、大学生の頃から死恐怖症(特に癌恐怖症)が治らない。
きっかけは大学時代、病院に行っても解決しなかった謎の膝痛に数ヶ月近く悩まされたこと。レントゲン撮ってもMRIやってもわからなかった。
色々調べてた時に見つけたのが骨肉腫という病気。そしてYouTubeで骨肉腫を再発し当時の自分と同じ年齢で亡くなった女の子の闘病ドキュメンタリーを見たことがきっかけだった。結果的に膝痛はなくなり今ではなんともないが、それ以来俺は癌恐怖症になった。
記憶にないアザや怠さ、歯茎の出血があれば白血病、しこりがあれば悪性リンパ腫、ほくろがあればメラノーマ、下痢になれば大腸がん、幼少期からの鼻炎持ちで鼻くそに血が混じれば副鼻腔癌などなど。
何か一つの症状がある癌に当てはまれば癌だと思い動悸や立ちくらみに襲われ「ついにか…」と倒れそうになる。バイトもあり、思い立って翌日に病院に行ける訳ではないため病院に行き検査結果が知らされる不安で何も手につかない。総合診療医では信頼できず各専門クリニックに行くのでセカンドオピニオン含め財布には12枚の診察券、そして4つの病院の電子診察券を持っている。
「30歳でバイト?」と思っただろうが、この性格なので癌に当てはまる症状が出ると何もできなくなる。留年もしたし、就活も失敗したし、公務員試験も失敗したので現在はバイト暮らしだ。県立中高一貫校から一橋商学部を卒業しているので、幼少期からの親の教育投資を随分無駄にした。
死への恐怖は癌だけではない。電車では後ろに人がいたらホームの先頭には立てない。強盗が怖く、自宅を買い集めた防犯グッズや自作防犯システムで完全防御。大通りや赤信号も常に警戒。
俺の両親は俺が幼稚園卒園前に離婚しており、以来母が看護師として育ててくれた。自称経営者の父は養育費も大学進学費用なども「無い袖はふれない」と一切出さず、母は実家とも疎遠なので大学卒業するまでにかかったお金は全て母が稼いでくれた。
俺は母に「母よりも長生きする」「立派になった姿を見せる」「妻と孫を見せる」という3点を誓っていた。しかし、この死恐怖症によりレールから脱落し立派になった姿を見せることも結婚も孫を見せることも不可能になった今、俺が母のためにできることは母よりも長生きし母を看取るということだけである。
だから俺は何があっても母よりも先に死ぬことができない。先ほど言ったように母は独身で実家とも疎遠で俺は一人息子なので俺が先に死んだら母は一人になってしまう。
それなのに、常に俺に忍び寄って来て隙があれば俺の命を狙おうとする癌や突然の事故、犯罪に対して俺は極度に恐怖し強い怒りを感じる。
医者の趣味や金のために脳や体を切り刻まれるのとか絶対無理、民間療法の先生の言うこと聞いて、人体が持つ自然の力で治すのが一番。
こういうのって医療従事者に知り合いがいない自分はどうしたらいいんだろう...と思ったが、それなりに顔が広そうなかかりつけ医がいればいいのかと思った。
まあ、かかりつけ医が残念な人だったら残念だったねーって話だけれど、かかりつけ医がそこそこまともなら、ヤバそうな病院には紹介状書かなそうだなと思ったもので。
回復したら経過観察にその病院に戻ってくるわけで、回復の可能性が低そうな先生は選ばなそうだなと。
それに、「お前の紹介で行ったら後遺症残ったぞ!」とか言われたくないだろうし。
あとはセカンドオピニオンとかかなー。
手術みたいな不可逆な感じの処置をする場合はその症例に対して普通その処置をするのかを聞いておくというのはありなのかなと思った。
この記事、半分くらいはしっくり来たんだけどブコメは案の定否定的だった
https://finance.yahoo.co.jp/news/detail/cf8119b2b399388bdd094591eed6a8d4ab23d504
まあそれはいいや
胃腸について知ってることをだいたい書きたい
そう言ってもいいくらいに不調の元になっていると思う
あと胃腸不調トークに混ざってこないでほしい、安易に「病院行きなよ」なんて言わないでほしい、それいちょハラですよ
俺はよくいる胃腸不調系男子で、最悪期は朝に水を一滴でも飲んだら1時間後に激痛が走り全部くだすという学生生活をおくっていた
というか胃腸関係の一部の病気はマジでふさけんなというくらい何も分かっていない
三大何もわかってないやつ
特に分かってないのが過敏性腸症候群と機能性ディスペプシアだと思うが
これらは「症状はあるが原因が見つからない」タイプで、機能性障害とか言われたりする
つまり「元からそうだし、治らないし、死なないから帰っていいよ」って医者から言われるやつ
2010年くらいにIBSの認知が広がったけど、それより前は本当に「これは病気じゃない」とか言われたし、今でも曖昧な診断・治療しかされない
だから治るもんでもないし、研究も進んでないし、効く薬もないし、誤診断も多いから一生病院をはしごすることを覚悟しなきゃならない
いつも槍玉に挙げられる原因が「ストレス」だが、そんなわけはない
ストレスはあくまで一つのトリガーでしか無いが、医者には「ストレスをなくせ」と言われる
そういえば機能性ディスペプシアという診断も3回くらい受けてるんだけど、たぶん誤診だと思う
胆のうに強い医者にかかったらどうやら胆のうが原因くさいという話になって薬が効いたから
腸内細菌という生態系は個人差もあるし食生活でも変わるからもう分かりっこない
腸内細菌の移植というのも治療法としてあがってるが全然一般化されていない
あとは胃の形やら、腸の長さやらでも違うし、民族によっても違う
だから下手すると海外の胃腸についての研究が日本人に適用されなかったりする
海苔や海藻を消化して栄養にできるのは日本人と一部の民族くらいというのは有名な話
そう考えると「昔の日本人がどうしてたか」は考える材料として有りだと思う
なんだけど、だから個人差が大きいから答えなんて人それぞれなんだよ
1日3食が始まったのは江戸時代後期から、研究レベルで3色が良いってなったのは1930年代から
んでここ数十年は食育で「朝ごはんを必ず食べろ」とされていたと思う(今はどうなんだろう?)
給食を残すの絶対NGみたいなのとか、牛乳飲ませるのとか、そりゃ栄養不足だった時代は正解だったかもしれないけど今はどうなん?っていうネタがたくさんあるのに
まあいいや
とりあえず日本以外では3食じゃない所も多い
おそらく医者は「基本3食、人によってはそれ以外」みたいに言う人が多いと思う
俺も一回「朝は食べないでください」と言われた、別に医者信じてないし今は軽く食べてるけど
例えば3食は、エネルギーや栄養摂取の効率を目的にして言われている
ボディビルダーなんかは、空腹があると筋肉の分解が起こると言われていて、それを防ぐために1日5食みたいな人が多いイメージ(きんにくんが5か6だったはず)
ダイエットする人は、むしろ空腹を作るために1日1食みたいな人も居る
とりあえず言えることは1食の人も5食の人も別に病気にもなってないし不健康にもなってないし
それ言うなら何を食べるかの方が大事だろと思う
疲れた、気が向いたら続きかく
セカンドオピニオン、サードを求めてみてはどうでしょうか(特に専門医、認定医)。
クリニックの医者はサラリーマンよりも日々の患者対応で一杯一杯です。
全員そうだというつもりはありませんが、中にはそういう人や経営に力を入れている人もいるのは事実です。しかも明らかなミスではない限り医者は訴えられても裁判ではなかなか負けませんよね。だから何件か回ってみるのを勧める人が少なからずいます。
SEをされているとのこと。
システムのことで大抵のことはわかっていると思いますが、細部のことだったり、うろ覚えだったりでも他人から聞かれたらそれっぽいことは言えると思います。医者でも同じです。初診後に専門書を見返したり、症例を調べてみたりすると思います。
姉から連絡があり、母さんの体調が悪いこと、癌の可能性もあることを知らされる。母さんは自分の意志でがん検診は受けていなかったから、不安を感じつつも、「姉は大袈裟だからなー」と、大ごとになるとは思っていなかった。
ただ、残念ながら婦人科系の癌だった。コロナ禍ではあったものの、運良く地域の基幹病院に入院することができ、溜まっていた腹水を抜いてもらったり、検査をしたりと、色々と処置をしてもらったらしい。
医者からは一般論として「5年後にはいないだろう」という話をされたが、「医者は短めに言うんだろうな」と、前向きに捉えようとした。仕事の帰り、一つ手前の駅で降りて、歩きながら母さんに電話した。
「そうじゃないかと思ってたから、分かってスッキリしてるよ。子供たちは立派に独立して、みんな家族もいるし、私は思い残すことはないから。」
とサラッと話していた。なんとか気丈に話そうとしたが、涙が出た。帰宅し、妻に報告したら、また涙が出た。祖父を癌で看取った妻は「そんな簡単に亡くなりはしないよ」と、怒っていた。彼女なりに励ましてくれてたんだろう。
「何で癌で人が死ぬのか」ということすら知らないことに気づいて、いくつかの本を読んで、「多臓器不全で死ぬ」ということを今さらながら知った。
翌月、帰省すると、「で、何しに帰ってきたの?」と、とぼけたことを聞かれたので「様子見にだわ」と。特段変わった様子はなく、いつもの調子。
溜まっていた腹水を抜いてもらって、楽になったらしい。「しばらくは大丈夫かな」と思う。翌朝、母さんは「そのうち、『あれが最後に作ってもらった朝ごはんだったな』ってなるわよ」と軽口を叩きながら、目玉焼きを焼いてくれた。
その後の検査で、癌はそれなりに進行していて、「ステージⅢの後ろの方」と評価された。外科手術や放射線治療を行う段階にはなく、化学療法(プラチナ製剤)を試してみて、癌細胞が小さくなるようであれば、外科手術や放射線治療を検討しようということに。
母さんは「『髪の毛が抜けることがある』じゃなくて『絶対抜ける』って言われたわ」と笑っていた。
程なく、抗がん剤治療が開始され、母さんの髪の毛が抜けた。この頃は、抗がん剤の副作用が抜ければ、食べたいものだとかも色々あったから、買いだめしといてあげたりした。
実家に家族と帰省して、夜遅くまで母さんも交えて酒を飲んだりもした。まだ、言葉もしゃべれなかった娘も、母さんにはよく懐いていた。
副作用に耐えながら抗がん剤治療を続けたものの、思うような効果は得られなかった。
「癌の専門医の先生の方がいいんじゃないか」という思いもあり、主治医の先生にも相談の上で、セカンドオピニオンを取ることにした。
その道の専門医の先生2名にお話を伺いに行ったが、どちらも「うちなら治るかもよ」だとか「この治療法よりも、こっちの方がいい」なんて話は、当然なく、今診てもらってる病院で、「そのままお世話になる方が良い」とやんわりと伝えられた。
それでも、「やっぱり経験値が高い専門医の先生の方がいいんじゃないか」と、先の2名の先生のうちお一人にお世話になることにした。
細かく検査もしてもらったが、「やれることは限られている。選択肢がないわけではないが、リスキーな上、効果の期待値は低いので、おススメはしない。本人の希望に沿うならば、通いやすい、もともと診てもらっていた病院で改めて診てもらっては。」
とのお話があり、結局、出戻ることにした。その病院からの帰路、高速道路の大きなSAに寄った。
「あなたたちが小さい頃には、旅行の度に、いつもこのSAに寄ってたのよ」と懐かしそうに話していた。
ちなみに、今でもそのSAを通過すると、その時の母さんを思い出して、なんだか泣きそうになる。
改めてもともと診てもらっていた病院に伺ったところ、事前に調整はしていたこともあってか、主治医の先生は嫌な顔一つ見せず引き受けてくださり、次の段階の抗がん剤(単剤)にトライすることになった。
これ以降、段々と体力の低下、食欲不振が顕著になりだし、当初は「抗がん剤の副作用かな」と考えていた。思うような効果が得られず、抗がん剤の投与を中止してからも状態は改善しなかった。
母さんが癌であることは、母さんの希望もあって、積極的に知らせることもせず、また隠すこともしなかったが、状況を知った遠方の親類達が揃って見舞いにきてくれたりもした。
この頃は、まだ座ってコーヒー飲むらいのことはできていて、楽しそうにお喋りもしていた。
妹が介護休業を取り、母さんの面倒を見てくれることになった。その時点では、自分のことは自分でできていたし、正直言って「早いんじゃないかな」と思っていたが、結果的には、ドンピシャのタイミングだった。
死ぬまでに行きたいと言っていたスカイツリー。東京で結婚式に出席したので、その足でスカイツリーに行き、ビデオ通話で見てもらった。「すごいねー」と笑ってくれた。
12月下旬は、早めの冬休みを取って実家に。妹からは、体力の低下が著しいということは聞いていたが、想像よりずっと悪かった。
ベッドの脇に座って吐いてばかりいた。思っていた以上の状態に言葉が出なかった。夜も眠れず、食事も摂れず、水分を摂れば吐き。かわいそうで見ていられなかった。
足のむくみもひどく、母さん曰く、頭の中は「しんどい」一色だった様子。肩をさすったり、足を揉んであげたりしかできない。足をマッサージしてあげていると、少しの間だけ、寝てくれたのが、せめてもの救いだった。
そんな中、母さんは「とても渡せそうにないから」と、お年玉と一緒に娘の七五三の祝いを渡してくれた。涙が溢れた。母さんも「湿っぽくなってごめんね。」と言いながら泣いていた。年明けも早々に再入院。あまりに辛そうな母さんの姿に、打ちのめされてしまった。
母さんの希望は、「できる限り家にいたい」だったので、妹が訪問看護の段取りを取ってくれ、病院には無理を言って予定より早く退院した。この訪問看護のチームが素晴らしく、親身になって、それも超速で対応してくれた。母さんは「病院から逃げ出して正解だった」と、喜んでいた。
急遽、仕事を休み、実家へ。妹と交代で診る体制に。眠れず、体の置き所がない母さんは、15分おきくらいで、姿勢を変えてあげなければいけなかった。辛そうだった。
少し話ができそうなタイミングで、「今までありがとう。母さんの子どもで良かったよ。」と口に出すと、涙が溢れた。喋るのも辛く、手をあげるのもしんどいはずの母さんは「何を言ってるの。こっちのほうが、ありがとうよ。いい子だね。」と言って、頭や頬を撫でてくれた。涙が止まらなかった。
妹と交代で眠りながら看ていたが、日に日に意思疎通がとれなくなり、意識レベルも低下。せめて、苦しまず、穏やかに逝かせてあげたいと、鎮静剤の量も増やしていった。眠る時間が増え、顔をしかめる頻度も少なくなり。
「母さん、先に横になるね。また後でね。」と声をかけて寝ようとしたところ、ほとんど意識のないはずの母さんが、少し手を上げて応えてくれた。「バイバイしてんの?」と、妹と2人で笑った。
その晩、妹に「やばいかも」と起こされ、会ったときにはほとんど呼吸もなく。子供3人が揃ったところで、母さんは静かに息をひきとった。目を瞑り、とても穏やかな顔だった。皆、口々に「お疲れ様。よく頑張ったね。」と母さんの闘病生活の終わりを労った。
泣き崩れてしまうかもと思っていたが、不思議と涙は出ず、ホッとしたような気持ちになった。
訪問看護に連絡したところ、深夜にも関わらず、看護師さんが来てくれた。死亡診断は医師しかできないとのことだったが、脈拍を見たり、瞳孔を見たりして「確かに亡くなられていますね」と手を合わせてくれた。
そこからは、子供三人で、看護師さんの指示に従って、母さんの体を拭いたり服を着せたり。服は死装束じゃなく、妹が見繕ってくれていた、いつも母さんが来ていた服を着せることにした。
最後に看護師さんが、母さんに化粧をしてくれると、すっかり血色が良くなって、まるで寝てるみたいだった。
看護師さんが帰られてからは、葬儀屋を探したり、段取りや役割分担を話したり。葬儀屋は、空いてるところに頼むしかなかったというのが実態で、なんなら「火葬場に直送しろ」くらいのことを言っていた母さんの考えとは違ったんだろうけど、普通に葬儀屋に頼むことになった。
一旦、各自寝て、翌日以降に備えた。
翌日は午前6時の医師の死亡診断に始まり、寺や葬儀屋との調整や、親類への連絡、行政関係の手続きなどで忙殺され、あっという間に通夜になった。どんな感じで動いたのか、正直、思い出せない。
覚えているのは、いつも気にかけてくれていた母さんの友達が、偶然訪ねて来られ、母さんに会って「信じられない」と泣いてくれたことと、一報を受けた母さんの義姉にあたるおばさんが寄ってくれて、母さんに会って「寝てるみたい」と泣いてくれたこと。
おばさんは「お母さんは若い頃はお父さん(自分の祖父。自分が小さい頃に他界。)と、喧嘩ばかりしててね。今頃、お父さんから「うるさいのが来た」って言われて、また喧嘩してるかも。」と、知らない話をしてくれた。
納棺のときには、たくさんの花と一緒に父さんの写真や、自分を含む子どもの写真を納めた。
短い髪の毛の頭には、ウィッグをつけたかったんだけど、生前に「あんな高いものを燃やすなんてもったいないから、棺桶には入れるな。」と言われていたので、やむなく頭はそのままに。誰が使うんだよ。マジで。
葬祭会館で通夜を終え、そのままそこに泊まることにし、姉と妹は一旦、家族と帰宅。酒を飲みながら待ち、時々、隣室の母さんの顔を覗きに行っては、線香をあげ、その度に泣いた。
夜中の2時になっても、誰も帰って来ず、体力的にも限界だったので、寝た。深夜に姉が、朝型に妹が戻ってきた。
翌日も葬儀、火葬とバタバタ。孫たちが大騒ぎしてくれたおかげ(?)で、終始、湿っぽくならずに済んだような気がする。母さんも、「あんたらねぇ」と笑ってくれただろう。
母さんが望んでいたような「火葬場に直送」じゃなくて、普通の見送り方にはなってしまったけれど、許してくれると思う。
それから職場に復帰するまでは、皆で家の片付けや、クレジットカードの解約やら銀行関係やらのたくさんの事務手続き、親類縁者への連絡などを分担して対応している間に、あっという間に過ぎていった。
その間、近所の方だとか、母さんの旧来の友達だとかがたくさん弔問に訪ねてきてくれた。皆が口々に「いい写真だね」と言ってくれた祭壇の遺影は、母さんが自分で選んで、わざわざトリミングまでしていたものだったから、本人も満足してるだろう。
母さんの旧来の友達からは、母さんの若い頃の話や、その後の友人関係の話しを伺った。学生時代のことや、社会人時代のことだとか、自分が知らない母さんの一面をたくさん知ることになった。
当たり前だけど、母さんは「母」としてだけでなく、一人の人間として、たくさんの人と関係を作り、それを続けていたんだなと気付き、なんだか新鮮な気持ちになった。
そういえば、ウィッグは友達の一人で、自分もよく知っているおばさんが貰い受けてくれることになった。何度も「管理が大変だけど大丈夫?」と聞いたけど、それを踏まえて快く受け取ってくれた。
ウィッグの販売店には、その旨は連絡しておいた。弔問に来てくれた時にお渡ししたところ、母の遺影に向かって「返さないからね」と笑っていた。
思い返してみると、母さんが癌になってからというもの、母さんとは色んな話ができた。父さんのことだとか、嫁いできた経緯だとか、これからのことだとか。
癌との闘いは、とても辛かったと思うけど、近い将来確実に訪れる「死」に向かって、本人も家族も、心の整理も含めて、時間をかけて準備することができたように思う。僕は癌で死にたくないけれど、そんなふうに、ちゃんと準備をして死にたいなと思う。
【追記】
たくさんの方に、暖かな言葉をいただき、恐縮しております。ありがとうございました。
私自身が、母さんが癌になるまで癌のことを何も知らず、また、どのような経過を辿るのかを知らなかったので、「自分用に書いたけど、同じ境遇を迎えてたり、これから迎えるかもしれない誰かのためになるかも」と、乱文を投稿させていただきました。
野暮かなとも思いましたが、いくつかコメントいただいた内容を踏まえ、その趣旨に合うかなとも思うので、いくつか追記いたします。
母さんが癌の宣告を受けたのは、2月上旬で、翌年の1月中旬に60台後半で他界しました。10月頃まではまずまず元気でしたが、以降は段々と体力の低下が顕著になりました。12月中旬までは、体調が良ければ妹の運転でドライブに行く程度の元気さもあったのですが、食事を受け付けなくなってからは、あっという間でした。思っていたよりもずっと早い経過だったので、「もっと会いに帰ったら良かった」と思うこともありますが、「そうさせないところが母さんらしいな」とも感じています。
経過は個人差が非常に大きいものだと思います。母さんよりも早い経過を辿る方もいれば、もっと緩やかな経過を辿る方もおられるでしょう。早い経過を辿ることを前提に、たくさん話し合って、準備をしておいた方が良いと思います。特に、残された時間はできたら住み慣れた自宅で過ごしたいという方が多いと思うので、それができるよう、家族の介護+訪問看護の体制を整えられるかをしっかり考えておくべきだとも思います。うちの場合は、姉が実家の比較的近くに住んでいたこと、妹が介護休業に理解のある職場環境だったこと、また、訪問看護のチームが素晴らしかったこと等、様々な要因が重なって、自宅で看取ることができました。
なお、母さんがやっていてくれた事で本当に助かったのは、エンディングノートをしっかり書いていてくれたことと、重要書類(通帳、カード、年金手帳、マイナンバーカード等)を整理してくれていたことです。特に、亡くなったことを誰に知らせるのかは、親類縁者ならまだしも、友人関係はほとんど分からなかったので、これがなかったら不可能でした。「私も書くから一緒に書かない?」と、提案されてみても良いと思います。
長くなってしまいましたが、皆様の一助になりましたら、幸いです。皆様のコメントから、元気をもらいました。改めて、ありがとうございました。
アフタヌーンで大人気連載中の医療漫画「フラジャイル」。そろそろ連載10年が見えてきて、物語も新人宮崎がついに専門医になるなど節目を迎えてきた感があります。作中およそ3年を総決算したような21巻はまさにここで終わってもいい。第一部完。といった面持ちでしたが現在、新薬JS1編へと続いてくれています。
そこで今回、改めて読み直したと共に自分の中での整理のために作中の時間がわかるようなヒントを探してみた。
時間は明確な過去編とされてなければ話数が進むごとに線形に時が進むと増田が決めたんだ。
フラジャイルは今のような長期連載を予定されていなかった。
「5巻の回想シーンで岸先生が壮望会に来たのは7年前」「(18巻では)時効などの関係で3年前設定」
「初期は連載がこんなに長く続くとは思っておらず医事紛争編は構想されていなかったゆえ」
「5巻のことは忘れちゃっていたんですか?」「作家も編集もすっかり忘れて楽しくやってました」
長期連載にありがちな後から立て付けていく設定に深くつっこんでもしかたないね。個人的に岸と森井とのやりとりは時間軸を移してもなんとかなるけれど岸と高柴との関係は長い時間が必要と感じるので医事紛争は(個人的)正史からはずしたいと思いまする。
連載だけ読んでると混乱した部分なので時系列を書いてみる動機だよ。
まとめたようでまとまらない情報を羅列しているだけになってしまった。
特に困ったところが「日本病理学会総会~アミノ株式総会」。かなりぐちゃった。
それに加えいつかは不明だがリアルの専門医の受験資格が経験4年から3年に変わった影響もあるかも
たぶん2017年から3年に。フラジャイル1巻が2014年で、8巻から2017年発刊。
宮崎の試験はハッキリしてるかと思ったけれどそこもなんか怪しいし
あとは
・ 壮望会の悪評と建て直し
もなかなか謎い。あと高柴×岸のエピソードが初遭遇ぐらいしかなくて思ってたより掘り下げてなかった。
岸
森井
火箱
南波
細木
中熊
手嶌
比日野
壮望会
慶桜
岸入る前の壮望会、評判悪し(5話)
稲垣、医者に。「終末期の患者さんと~16年間そう働くのが僕の仕事」(63話)恐らく壮望会以外(27話)。
岸、研修医2年目?「去年、研修医ローテで2週間」前期研修か。
25歳前後?
将棋友道8「今月号」
恐らくすくなくとも9月以内に比日野死亡「治療開始より5日後死亡」
原因はSFTSで作中2011年以前。「当時はわかりませんでした」「SFTSが中国で特定されたのは2011年 それまでは日本でも原因不明」(90話)
稲垣、内科時代。慶桜ケア科に「よそのケア科に2年お世話」「研修先のケア科は慶桜」(85話)
(伴、無菌病棟立ち上げ「昔 伴君が責任者になって立ち上げ」(86話)時期不明「病棟を立ち上げて何年だ …何年もだ」(87話))
およそ13年前で火箱12歳
森井、21歳?大学三年の夏に退学。壮望会の専門学校に入学。(3話)
壮望会病院に入り、6年間は辞められない(3話)
岸、壮望会に転院。高柴と初対面。「7年前」「新しく来た病理の先生ですよね?」(18話)
物語開始前、岸が手嶌と最後に会う。「会うの何年ぶりだったんです?」「…5?6?」(作中1年以上経過)(34話)
岸の性格から正確さは怪しい。岸と手嶌が慶桜以外で会っているなら変ではない(岸の性格から怪しい)。
火箱、アミノ入社?22歳?スタート1年半以上のときに26歳(11巻巻末)。4年生大学から新卒ではいればこの辺り?
新人火箱、十王寺と会う「三ヶ月目」「入社一年目」薬事部所属(67話)
宮崎、医大卒業?。出身大学の病院で初期研修開始(80話)「初期研修は出身大学の病院」
手嶌が慶桜を出る。「岸先生は慶桜を出てね」「僕はしばらく残ったけど~アメリカに留学して~研究職に転向した」(33話)
本郷、最後の彼女(病理医)と別れる「4年と3ヶ月33日彼女いない本郷」至極どうでもいい(55話)
宮崎、壮望会に。後期研修開始(80話)第一志望にフラれる。「どうして後期研修は壮望会を」
一年間は神経内科?「神経内科の専攻医になって1年で病理に転科したんだ」(80話)
この1年って1年目(4月に入り半年後の9月)に転科したのか1年半後の9月に転科したのか…。半年なら半年って言うよねぇ。でも2話の宮崎の発言と矛盾する気がするんすよぉおおおおおお
9月23日-24日開始。院内描写は24日スタート。終了は25日。
24日に騒動、「ゆうべの手術」~「昨日はお世話になりました」で25日
宮崎、専攻研修開始から半年確定?「一応 卒後2年目のドクターなので」(2話)80話の南波の話がわからなくなる。
てかこの流れの"ドクター"とは"博士課程です"って意味でいいの?医者の意味でいい気がするけど。"博士とって2年目"だとまたいろいろ変わってくる…
岸、森井に転職の話をする。
6年間は辞められない条件を知っているなら森井卒業6年後?
森井30歳?
森井慰労会(4話直後?)
火箱登場、宮崎とは初対面。
宮崎、病理診断開始(2-3話間と5話時間経過を加味しても早くなあい?)
4月に入った新人かと思ったが作中4-5月ではない?初期研修のローテーションか?
根拠は9話で半年ほど飛ぶのは不自然。8話で中熊登場して9話冒頭で中熊ポスター。8話で火箱・中熊面識。9話で「先日はどうも」
実際何ヶ月生存したかはわからない?余命どおりならだいたい1年目終了。
火箱、アミノ退社(14話)
(間瀬、アミノ退社)
「あれから数ヶ月」
火箱、ビフィズス入社
(14話終了)
「この前」コンサル窪田参加(15話)
高柴65歳?、定年半年前(15話)
高柴クリニック開院。高柴編終了(20話)
慶桜、中熊により遺伝子検査ラボ設立。円が25歳で技師長に「2年前~25歳にしてラボの技師長に抜擢」(58話)
(手嶌、円と共に新薬開発)「手嶌くん~円も協力してる新薬開発の仲間だね」(時期不明)(61話)遺伝子ラボとは無関係か。ソフト開発し新薬の配列設計を発見。
5月時点で布施がまだ医大5年なので病理の学校は4月以降(25話)
布施「君何年生?」「5年生です」(25話)
人物紹介 年齢
岸不明
森井31歳?
手嶌登場「4月から京都の細胞研究所」~「なられる」へ「やっと慶桜から卒業か」(33話)
流石に何ヶ月も前に挨拶回りは変だと思うので4月前かなと思うけれど、後から見るとかなり早く挨拶してる?
ハル編(35話~)
野球回。(44話)
入局先宣言の話。「5年も~お世話になって」。後期研修終了タイミングの入局(4月)なら意思表示は入局前年の夏までが一般的らしいからここが夏で実際の入局は来年という話か。4月の線は薄い?
火箱が野球をテレビ中継で見ている「今期つれぇ~」(44話)プロ野球は3月末開幕なのでオープン戦でなければ4月以降で「今期」「つらい」とわかるのはやはり前シーズン夏前ぐらいか。
火箱26歳。ビフィズス在籍状態時。
こまごまとした話。3日謹慎や新聞掲載などがあるが明確で大きな時間移動はなし?
布施、院1年目(医大5年生?(80話))。「院の1年目であれくらい深く考えられる人」(55話)(MD-PhDコース)
現実と同じなら4月だが、布施の院1年目=医大5年生なら「布施は、MD-PhDコース選択で5年次に大学院入りした」(80話)だから初登場(8ヶ月経過、5月ごろ)から4月をまたいでないはず…
「神経内科から病理に転向して1年目のザッキー」(55話)1年以上経ってるから2年目だと思うんですが…?
しかし第10X回総会とあって現実的には4月の総会…(55話)実際の総会は4~6月開催と幅はあるけど3月とか年度前にはならない? https://pathology.or.jp/jigyou/meeting-spring.html
4月越えなら
森井32歳?
宮崎29歳?
火箱27歳?
作山、リンチ編
円、27歳?「2年前~25歳にしてラボの技師長に抜擢」(58話)
稲垣、オプジーボ同意後、慶桜の「遺伝子センターラボに1週間もお世話に」(60話)
稲垣、医師16年目?「終末期の患者さんと~16年間そう働くのが僕の仕事」(63話)42歳オーバーか。
ビフィズス、新薬とともにアミノへ(企業買収って数ヶ月はかかるとみていいよね?)(64話)
ビフィズス買収後、火箱、総務部、間瀬、MR(営業)へ「2週間前」(66話)
(株主総6月(69話)→慰安旅行6月末(70話)ならここは5月か)
新人関根先生(65話)また4月ではない?次が総会の話なのでここは4月に入ったガチ新人かも。
「来月末 壮望会病理部のスケジュール抑えてほしいんだけど」(65話)
アミノ編(65話)アミノの株主総会の話だが総会が多い6月になるのかは不明。
数日後?、火箱、アミノの未来を憂う会に。「我々は来月の株主総会で」(66話)
(*2年8ヶ月経過 5/15 宮崎、試験願書提出?(89話))
総会一ヶ月前の買収が5月としたら4月の日本病理学会総会から1ヶ月半(病理総会が4月12~14日)。作山関係で2週間近く使うとしたら買収"完了"が一ヶ月でしてることに。
そもそもオプジーボの同意を取れてから家族への報告に1週間。投与開始から検証&18人の遺伝子検査にいくらか。NDA違反に数日(60話)と2週間でもカツカツ。5月中に関根編こなす必要もあるし。
総会間近、火箱懲戒解雇(68話)
十王寺、株主総会前に退職?「この前の火箱さんの公演が記事になりました」(69話)
株主総会(69話)「後日~十王寺さんの解雇撤回」(「明日から無職」は形式的な話か)
間瀬、開発本部長に。火箱、開発本部 臨床開発3部 JSプロジェクト推進グループグループ長に。春田、火箱部下に。
慰安旅行(70話)「来月末 壮望会病理部のスケジュール抑えてほしいんだけど」(65話)
弁護士編は過去が矛盾してる編なのでここでまとめる。基点がここから3年前なのがネック。(ここまでの予測があっていれば宮崎が転科する数ヶ月前の話になってしまうし、後からみてもすぐに宮崎の実務3年を迎える)
前述のとおり時系列からは切り離すが、過去の各イベントはあったんじゃないかな。
また、過去以外の話の時間は正史として前の編から地続きと考えておく。
森井、「事件があった3年前は俺も壮望会で働き始めたばかりでした」(72話)
後の話では森井のほうが壮望会に先に入ったっぽいのでここでもここに
(6年辞められない縛りがあるのに転職話が出るのが変)
岸、壮望会に。(73話)
(これまでの話でも壮望会での高柴との出会いは7年以上前で矛盾)
患者、菊池通院後2ヶ月。「外来での通院が2ヶ月を過ぎたころ僕に~依頼があった 三年前だ 僕が壮望会に来てまだ数ヶ月にもならないころだった」(73話)
菊池、状態悪化後、「緩和ケア科に移って2週間後に亡くなった」(73話)
森井、彼女に振られる(18巻末)
宮崎、壮望会に居てニアミス(18巻末)宮崎は後期研修から壮望会に入ったので4~9月の間の話(神経内科専攻)とすると、3年前とはあまり矛盾しない。
壮望会、不評から立ち直る「壮望会を立て直した~医師の功績ですよ岸先生とか稲垣先生とか」(74話)
久坂部、米嶋の診療所訪問「2ヶ月前米嶋が働く診療所に~弁護士」(74話)
「今月の予定組むんで」(71話)
森井、「事件があった3年前は俺も壮望会で働き始めたばかりでした」(72話)
「夏も近い」(74話)これジョーク?
えー、医大に明るくないのでわからんのですが、MD-PhDコースは学部4-院3~4-学部2年で学士と修士両方とるルートデス。だから医大に6年居て学部は卒業してなくて院生2年生。かな。
「布施は、MD-PhDコース選択で5年次に大学院入りしたため国家試験は2年後」(80話)
「後期研修が3年 宮崎先輩は2年目なう 来年は病理専門医認定試験」(80話)
布施初登場から2年以内、宮崎登場から2年半以内になるはずだけど、ここまで2年半以上過ぎてる計算をしてしまってる。
日本病理学会総会12~14日(55話)を現実とあわせて4月に仮定してるけどここが変かなぁ。
9月スタート→(4月迎える)→25話 5月→(9月迎える 宮崎病理専攻医丸1年)→33~4話 4月と春が話題→(4月迎える)→(9月迎える 宮崎病理専攻医丸2年)→74話 夏前。
34話から74話の計40話が3、4ヶ月とするとかなりハードスケジュールだから厳しいとみて、もう一回4月を迎えてるとすると宮崎は4年間壮望会に居るはずで
ちょっと前置きが長くなるけど、というか9割ほどは前置きなのでご容赦を。
前置きが終わったところで====を記しておく。
就職氷河期だったけど、無難に大手企業に就職して、やりたい仕事ができるようになった。
そこでパワハラに遭い、恋人が死んで、子供の頃からの精神的虐待が吹き出てきて、鬱になり休職、退職になった。
転職をしてみたけど、そこでも鬱が再発したため、退職に追いやられた。
働いてた年数は6年くらいになる。
その間にためてた貯金はすべて食いつぶし、親にも少し借金をしてたがそれも食いつぶし、結局今は生活保護を受けている。
原因も意味も不明な恐怖にガタガタ震え、泣き出し、頭をガンガン床に叩きつけ、腕を包丁で切りつけまくってた。
精神科には通ってたけど、ほとんど死ぬことしか考えてなかった。
5年ほどそんな感じだったけど、鬱が転じて双極性障害になったらしい。
たまにめちゃくちゃなハイテンションになることがでてきた。
で、そのハイテンションのときに「このままでは一生このままだ。なんとか状況を変えないといけない」と思い、主治医に紹介状を書いてもらい他の病院にセカンドオピニオンをもらいにいくことにした。
そこで検査をした結果は、服薬だけでは治らない、認知行動療法を受けろ、というものだった。
とにかく治すためだ、多少遠くても構わない。
ネット、電話、自分の市以外の周辺の役所の福祉課など、いろいろ駆使して探した。
結果、意外と近所の総合病院で認知行動療法を行っていることがわかった。
しかも、普通のカウンセリングだと5000円から1万円程度のカウンセリング料を取られるけど、臨床心理士がいる病院で、精神科医が「カウンセリングが必要な患者だ」と判断した場合、保険が適用されてカウンセリング料は無料になることもわかった。
そしてこの病院が大当たりで、病状は劇的に良くなっていった。
人と話すことができる唯一の日である通院日が楽しみにもなった。
それから10年くらい経って今に至るわけだが、その間ずっとなんとか仕事をしたいと思ってきた。
アフィリエイトのためのコピーライティングやSEOのコンサルとか、You Tubeで稼ぐためのコンサルとかに何十万という金を払って勉強してたけど、どちらも駄目だった。
とくに指示どおり行動してたらGoogle AdSenseの規約に引っかかって、アドセンスの権利を永久剥奪されたのは痛かった。
ちなみに15分で1動画、ひと月で300動画を作れと言われてた。
BGMと静止画を背景に、ニュースサイトでコピペしたような文字だけが流れてくるクソ動画が蔓延してた時期があったことを覚えている人は多いと思う。
あれは俺たちが元凶だ。
そしてアドセンスが剥奪されたのは「ネットラジオ番組の、楽曲の部分だけ削除してアップしまくれ。楽曲さえ入れなければ著作権違反にはならない」という指示に従ったときだ。
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閑話休題。
そんな無駄な時間と金を数年分使ってしまい、今はプログラミングの勉強をしている。
ただ、頑張れない。
不調の日はパソコンも起動できない。
好調の日は、いくらでも勉強はできるのだけど、双極性障害は躁状態のときに調子に乗りすぎると、鬱状態でどん底に落ちてしまうため加減をしなければならない。
何度かこれを無視したことがあるが、突然動悸が激しくなり、胃酸が逆流、ヒステリー球、手足の震え、痺れが襲ってきてとんでもない目に遭った。
もう、あれは味わいたくない。
プログラミングなんて最前線で頑張っている人たちですら、毎日スキルアップを目指して勉強している分野だというのに、俺はこの有様。
けどこんな調子で、仕事ができるレベルに到達なんてできるのか。
一生生活保護とか嫌すぎる。
増田の主治医はなんでそんなハードコアダイエットやらせるんだろうな。なんも考えてねーんだろうな
短期間で病的に肥満した人間は先ず精神がどうかなってるんだから、そんな患者のメンタルをケアすることもなく通り一遍の精神力頼りの減量法をやらせるなって話よ
その身長体重だったら普通に糖尿病治療薬使えっつーの。保険適用で
このままじゃ金も時間も労力も無駄になるよ。おまけにそんな多大なストレス抱えてたら別の病気になるわ!
増田的には「別に痩せなくてもいい」のかもしれないが、医者の言う通り健康寿命を伸ばす為にも痩せた方が良い
肉体のみならず、精神の為にもな
収入・職場環境・仕事内容で不満があるなら歯を食いしばって転職するしかない
応援してる