はてなキーワード: 立憲君主制とは
https://anond.hatelabo.jp/20170715102110
↑1「連邦議会・党試案」
党員数が多い順に掲載・1~10ランク付け。10は1万人以上。
①同胞団
連邦レベルでは、保守共和党のリベラル派や緑の協同体と連携している。
地方にまず合法的な事実上の解放区を作る方針も持つ。郡部では半ば成功している。
都市では労組の組織化、企業組合の設立と地方では共同体の建設も行う。
へき地など、経済的に貧しい地域では保守層にも浸透を図っている。8)
③公民ファーストの党
(→行政、議会改革と福祉国家の建設など穏健な政策を並べているが
連邦レベルでは、保守共和党や民主中道同盟に所属する一部の連邦議員を非公式に支援している。7)
(→特定の地方州に基盤を持つ小政党、農民や漁民など「生産者」のための政党。
地方議会や公益農業、漁業法人、福祉法人、土地改良区などの議員、役員にメンバーを送り込む。
農本主義の政党。緑風共生党や緑風社稷党とは共栄関係にある。6)
⑥新○○連合
直接行動をしつつも「合法部門」が一部の州や郡部の議会に議席を持つ。6)
⑦自由改革連絡会(リバタリアン党・急進減税改革党・表現の自由党)
(→3党はそれぞれ自由改新党から急進主義を理由に分離したグループ。
平和裏に分離したため、除名されたわけではない。
今でも非公式のつながりはあるため、改新党の「別働隊」という見方もある。
都市部に支持者が多い。連邦議員はいないものの、若干の地方議員がいる。
⑧生存のための共闘
行政や半公的組織が設立した「差別に関する諮問組織」には若干の役員を送っている。
街頭や職場の労組での直接行動を得意とする。都市部に支持者が多い。
国境線の廃止と政府の解体を呼びかけており、世界革命を志向する。
労組の組織率はかなり高く、ストライキなどの中核を担う場面も多い。5)
10.女性の権利党
行政や半公的組織が設立した「性差に関する諮問組織」には若干の役員を送っている。社民党の一部政治家を支持している。5)
時に直接行動(街頭活動や対象企業への直接抗議)をモットーとする。
12.スポーツ新党
(→スポーツの普及のために結成。健康志向。地方議員が若干いる。
13.連邦進歩同盟
国政から遥か昔に議席を失っている。
余り独自の動きを取らず、事実上の中道系の地方議員の交流会となっている。
国政では民主中道同盟に協力。
(→連邦建国功労者、宗教の権威に「王位」や「爵位」を授与するべく活動する団体。
ただし、当の当事者の多くは君主制には興味がないため、活動は一部にとどまる。3)
世界中を「連邦」の枠組みに取り込み、「世界新秩序」の確立を目指す。
現状の社会をスターリズムと規定しており、それに反対している。
自らを「前衛政治集団」と規定しており、街頭活動を盛んに行う。3)
16.自由労教会(連邦シェアスぺース連絡会議・隠者当事者連合
・労働時間短縮会議・最低所得保障を求める市民の会・教育制度を考える会)
(→自由主義者、福祉国家を求める者、宗教リベラルのグループ。
自由な働き方、学び方を求める。最低所得保障や多文化共生も求めている。
17.セックス新党
(性風俗業界に勤める人たちの団体。性風俗業界の正しい認知の拡大や雇用環境向上を掲げる。雑民の党とは友党関係にある。3)
①理性会議
そのたび毎に活動している。2)
②愛酒・愛煙家同盟
(→いわゆる「民酒主義」を掲げる。
夜の社交場こそが民主主義の原点という信念も持つ。2)
(→右派、直接行動主義。
右派各党から金銭的援助を受けて
④自然大麻党
都市中心の街頭活動から山間部、離島でコミューンを作る方向にシフトし始めた。
郡部の議会に隠れた支持者を送り込んでいる。2)
⑤快楽至上党(正式名:ポゴ無政府主義者と耽美主義者のための政党)
(→反議会制民主主義、反資本主義、脱労働、耽美主義を掲げる。
支持層はサブカル層やアーティスト、ニヒリストが多い。都市部が拠点。2)
⑥憂国無境輪
⑦禁欲党
(→禁欲主義を掲げる。
アルコールやタバコの販売停止は勿論、ポルノ雑誌や性風俗の禁止を求めている。
宗教右派系の影響を受けている。1)
(→自身の意識をインターネットに移植して、実質的な不老不死を可能とする
ことを求めている党。1)
主張としては…
「開星」して「銀河連邦」へ加入すべきと訴える。
オカルト雑誌の発行や示威行為、選挙活動でマス・メディアへの露出を図る。1)
10.反文明党
(→現状の世界は文明発展を急ぎすぎ、このまま行くと世界破滅が起きると信じる集団。
文明を退化させ、人口を減らして、人は自然に還るべきと主張する。1)
。
明らかに不勉強なのに国民大多数が無関心なのをいいことに事実を顧みない主張を続けている。
仮に押し付けられたから変えるという発想も幼稚だし。そういう自覚がないのかな。
それともそういう無知を利用したプロパガンダ戦略なのか。洗脳かよ。
自民党と安倍総理の言う、憲法96条改正の主張もおかしい。 3分の2以上の賛成があれば国民投票を開けるというのは「ハードルが高すぎ」てダメだと言っている。それは国会議員の言っていいセリフじゃない。
立憲君主制に反するからだ。(自分が立憲君主制について受け入れているからだけど、これを受け入れられない人って多いのかな? どうなんだろう。)
安倍総理は「国民の過半数が改正したいと思ているのに、国会議員の三分の一が反対しただけで改正できないのはおかしい」などと発言したらしい。
有権者の30%以下の投票で与党になってる所が言いそうな事ではある(もちろん皮肉)
それにしても論理の飛躍が過ぎるとは思いませんか? <論理的思考が極端にできない人に改憲とか政治とか任せていいと思ってるの? それは大きな損失ですよ。 いろんな機会を失ってますよ。>
現行の政治制度を理解しているのか、だって国会議員を選ぶのは国民であるから、その議員を通じて民意は反映される。
国会議員の三分の二が憲法改正すべきだとなる状況は普通に考えられるでしょう。
今において憲法改正について多数の賛成が得られないのは、それが最優先事項ではないという事と理解できないのだろうか。
どうしても自分の我を通そうとするような、他人を顧みることができない、我儘な子供のやるような議論。
与党は大きな権力を持つ。人がある条件下で簡単に暴走する事は有名。だからこそ、与党になった後は増長しないように気を付けてほしい。
誠実な議論をしてほしい。
本当に不勉強なだけなのか、確信犯なのか。自分さえよければという人に人の上に立ってほしくない。
また、人が暴走することを自覚している人そういう人がいいと思う。
稲田さんとか極右団体でアジテーションしたり、芸人程度なら、普通に面白い人で良かったんだけど、国政にあげちゃだめだろ、我々国民の選択ってなんなのもうヤダこんな国、草生える。
まず国民が分断されまくっていて自公も僅差でしか野党に勝てない。
だから世論調査でも、例えば戦争挑発問題だけとっても意見が分かれる。
1980年代以前生まれの世代だけで、右翼支持者の大半を占めてしまう。経済成長・バブル期に子供・青春時代を過ごした中高年が十分な政治思想教育を受けていない。
確かにゆとり世代以降の若者や富裕層系の高学歴層に左翼層がいるみたいだが、 それも日本社会の陳腐化と老朽化する日本からの人口の流出(少子化ではない)で、これから日本国全体が更に凋落するだろう。
そもそも日本全体を見渡した時、日本でなければならないものがない。あの立憲君主制もイギリスの真似。
強いて挙げれば天皇制なんだろうが、それとて国民が惰性的に支持しているに過ぎず、保守政権で反対者が少ないだけで、国民が問題点に気づいて怒れば流れは一気に共和制に転落する。
また民間などでは質の高い社会システムを維持できないのも事実。使いづらさを嫌った国民が公的機関に泣きつき、負債だけが積み上がる現実。
日本の風景はアジアのラストベルトに、日本の政治はトランプ政権になるだろう。10年後、15年後、いや、天皇制崩壊や外国人系首相誕生の兆しから地獄が目に見えている。
昔の道路の写真や警察の資料を見ると、気付くことがある。免許を持つ若者が少ないということだ。徒歩が多くいたほか、自転車を使う人がかなりいたし、駐車場や駐輪場はコンパクトだ。今の日本のように、公共交通かマイカーかオートバイかの構造はない。寛容性があるから、選択肢も多かったのだ。
また、今では考えられない程に車やバイクを持つ若者も多かったが、たとえばそれで通学する者はいなかった。もし今のような非寛容主義の論理を昭和に当てはめれば、都市部の一部を除いて学校の駐輪場が学生の乗り物ばかりになっていなければおかしい。しかし当時の若者は空気を読むことの前に普遍的な価値があることをわかっていた。
今の自転車乗りが四六時中ずっと子供か貧乏人だらけで、理由が「持つものにふさわしくないから」というのは、そもそも気がくるっている。若者向け二輪車の数が減ってるにもかかわらずユーザー数が2012年以降突然増えたのも、今時の風潮の影響だからだろうが、そもそもその前に普遍的な倫理や常識や文化の価値に立ち返るべきだ。
たとえば1990年代~2000年代がそうであったように、バイク所持そのものを止めさせるのもいい。道路交通の数を減らし、当然公共交通への負担は増えるわけだが、今はバスがあるので誰も困らない。
そして、大人の交通も、例えば自転車は制限されても誰も困らない。どうせ今の大人は貧しい人や自転車すきでもない限り自転車やロードバイクなんてみっともないから乗らないんだし。自転車は全部若者に渡したほうがいいし、実際アジアの自転車乗りの大人は一部地域を除いて少ない。欧米は危ういけど。
平民ないし持つ層も、公共交通の混雑や車内での外国語の多さに辟易する暇があったら、そんな風習を改め、自転車やオートバイやマイカーで移動した方がいい。
鉄道交通業界も商売根性の件のようなことがあるくらいなら、鉄道の既得権を守ることは無謀で限界なので諦めるべきで、公共性ありきに回帰することでゆるやかに最適化していくほうがいい。そうして他の公共交通などでカバーしつつインフラへの負荷を緩やかに減らそうよ。
2011年に原発業界と同時に鉄道公共交通ビジネスは突然死した。福島の原発が地震や津波や爆発で死んだら、日本各地の原発が止まり、原発だけでなく、鉄道みたいな電気に依存する交通インフラのバブルも一端全て終わった。2012年に「所謂暴走族がほぼ撲滅状態になった」という建前の元にバイク3ない運動が事実上死んだ。いまはJR九州のあの列車の成功でバブルが復活し、一部の原発も運転再開したが、多分この状況も決して安泰ではないだろうと思う。
今度、突然死が起きるとしたら、それだけの話ではなく、社会が、文化が、そしてそれらすべてを束ねる現代の文明が倒れるリスクがある。というか、日本の右派と立憲君主制度が倒れれば連鎖的にその庇護にある日本の伝統的社会が一気に終わる。これは本当に怖いことなので、「終活」と「進化」を始めてほしい。
現在の兵器は、パソコンやサーバーや高速通信機器の総合体なので、北関東のヤンキー風の体力派のあんちゃんよりも、SEとか運用の人とかプログラマとかが真っ先に軍に取られていくと考えられる。
兵器のオペレーション以外にもサイバー戦争要員としても利用価値が高い。
海を渡った戦地へ赴く必要がないとしたら、企業ごと徴用されるかもしれない。
運輸関係は、真っ先に徴用されるだろう。日通とかクロネコとか佐川とか日本郵政とか軍需輸送を受託するようになる。
次に建機メーカー。造船メーカー。自動車メーカーも準国策企業になるように法改正されるかもしれない。
この法改正というのがポイントで、日中戦争や日米戦争当時の日本も法律に基づいて国家が運営されており、あの「国家総動員法」ですら国会の議決によって施行されている。
戦前の日本は軍事国家ではなく、立憲君主制に基づく民主主義国家だった。なのに戦争を止めることはできなかった。
世界恐慌に端を発する不景気対策をどうするのか、食い扶持がない人々をどうするのか、エネルギー政策をどうするのか、欧米列強に植民地をとして屈するのかといろいろな要因が重なって、誰も責任を取らない体制ができてしまってあのようになってしまったのだろう。
戦争をしないという決意は、大切だろうけど、周りのいじめっ子が隙あらばけんかを仕掛けている状態で己を守るにはどうすればいいのかという問いに対しては常に考えを深めて、実力行使にならない道を探ってしかなくてはならない。
タイがクーデター政変が起こったが、その背景には「現国王の高齢化」(いつ崩御してもおかしくない)と、「王位継承の争い」がある。
また、スペイン王室も代替わりし、国内に王政廃止論が高まっているらしい。
ということで、立憲君主制の2国が、状況次第では「立憲君主制の危機」「共和制移行の可能性」という事態になっている。
このように眺めてみると、実は「立憲君主制」というのは、政治学が想定しているような安定的な制度ではなく、
実は「極めてイレギュラーな、極めてローカルな政治形態」なんじゃないか、という気がする。
共和制移行過程の過渡期の政体で、最終的には共和制に移行してしまうんじゃないか、と。
言い方を変えれば、立憲君主制の君主の存在意義が、以前と今では変わっている、だから立憲君主制が不安定になっているのかもしれない。
かつては「立憲君主制の国と絶対君主制の国」で国際社会が成り立っていたから、外交儀礼上君主の存在意義があったが、
「フランス革命は、平民(第三身分)が旧体制を打破した革命である」
のように説明されることがあります。この説明は間違っているわけではありませんが、「平民」という均質な集団が一丸となって何かをしたかのような誤解を与える点で、フランス革命の内容を分かりにくくもしています。
平民(第三身分)は、農民や都市の下層住民を総称した民衆と、民衆よりも裕福な中間層であるブルジョワからなります(職人を雇わずに家族だけで仕事をしている親方や店主ぐらいが下層のブルジョワと民衆との境界層です)。しかしブルジョワと民衆は意識の上でも利害的にもあまり仲がよくありません。
ブルジョワと民衆は協力関係にあるよりもむしろ敵対しており、それぞれ自律的に行動していたととらえる方が、フランス革命の動向が分かりやすくなります。
普通フランス革命の期間は、バスティーユが襲撃される1789年7月からロベスピエールが処刑され恐怖政治が終わる1794年7月までの5年間、またはナポレオンが総裁政府を軍事クーデターで倒す1799年11月までの10年間とされます。
しかしその当時フランスの社会構造がどのようなものでフランス革命が始まるまでどのような進展があったを知っていた方が、フランス革命の推移もわかりやすくなります。
わかりやすくなるのですが、ここではバッサリはぶきます。ブルジョワと民衆がそれぞれ自律的な勢力であるという複合革命論の考え方を前提にして書かれた
などを読んでみてください。
があります。こちらのタイプの説明の方が分かりやすいという人もいるでしょう。
(ヴェルサイユで開かれた全国三部会は、第三身分の強硬姿勢により憲法制定の議会に変身し、バスティーユ襲撃後の国内混乱を利用し封建的特権の廃止に至ります)
1789年5月5日にヴェルサイユ(パリから約25キロ)で始まった全国三部会は、採決形式でもめ審議に入らないまま紛糾します。第三身分が強硬姿勢を崩さず、特権身分の中にも第三身分への同調者が出たこともあり、7月9日に憲法制定国民会議として再出発します。
しかし7月11日に第三身分に融和的な財務長官ネッケルが罷免され、これがパリが伝わるとパリ市民は王の軍事行動が近いと恐れ、自衛のための食料調達武器調達に動き、焼き討ちや略奪が発生します。富裕市民は政府軍隊への対抗と秩序維持のため常設委員会を設置し民兵を組織します。
7月14日にはバスティーユの要塞に武器の引き渡しを求めて民衆が殺到し、バスティーユ内で交渉が続くさなか襲撃が始まり、バスティーユは陥落します。市庁舎まで連行された司令官ドローネーは群集に引き込まれて殺され、市長フレッセルも射殺されます。
新たに組織されたパリ市政当局とブルジョワの民兵(国民衛兵)を国王政府は追認せざるをえず、他のほとんどの都市でもブルジョワが市政の実権を握ることになります。
一方バスティーユ占拠の報を受けた農村では、貴族が浮浪者を雇って報復をおこなうという噂が広がり、その恐怖から各地で領主の館の襲撃が行われ、「大恐怖」と呼ばれるパニック状態になります。
自由主義貴族だけでなくブルジョワの議員の多くも地主であるため民衆の騒乱は早急に鎮める必要がありますが、正規の軍隊に頼ることは王や保守貴族の立場を強めることになるのでできません。そうしたなか8月4日の決議が行われます。
8月4日閉会後の夜に抜き打ち的に再開された議会で、自由派貴族によって領主特権の廃止が提案され、熱狂的興奮のなか課税特権の廃止など諸特権の廃止が次々と宣言されます。大恐怖の圧力を利用して封建的特権の廃止に成功し、農民の騒乱も沈静化していきます。
これで憲法の議論が進むようになり、8月26日には人権宣言が採択されます。
しかし王は特権廃止の法令も人権宣言も批准せず、9月末には治安維持の名目でヴェルサイユに軍隊を集結させます。
10月5日に食糧危機を訴えるパリ民衆がヴェルサイユに行進し国民衛兵がそれに続き、民衆は窮状を訴え国民衛兵は王に圧力を加えます。王は法令と人権宣言を批准、翌日には王一家はパリのテュイルリ宮に移されます。続いて議会もパリに移り、ここから憲法と法令の議論が本格化していきます。一方で亡命する貴族が増えていき、国内の政治分裂も本格化していきます。
(91年半ばまではフランス革命期としては平穏な時期ですが、この時期に国内の対立が進んでいきます。また国王の逃亡未遂が発覚するヴァレンヌ逃亡事件(91年6月)によって王の威信が失墜し戦争を望む声が高まります)
議会がパリに移り、諸特権廃止の内容や具体的な法律が決められていきます。ヴァレンヌ事件が起こるまで比較的平穏とされる時期ですが、国内にさまざまな対立が生じていきます。
1789年後半から91年にかけて、議会外に政治組織が形成されていき対立の構図ができていきます。
また各地で反領主騒乱が発生していますが、そうした騒乱は徐々に革命か反革命かという政治的な枠組みで解釈されていくようになります。
さらに聖職者民事基本法をめぐって宣誓拒否問題が起こります。カトリック聖職者の多くは革命には好意的でしたが、叙任式における宣誓義務に対して大多数が拒否をします。議会からの警告が出されますが、地方によって大きくバラツキがあるもののフランス全体で約半数の司祭が拒否します。教皇ピウス6世が民事基本法を否認したこともあってカトリックは内部分裂する事態になります。宣誓拒否司祭とそのもとにあるカトリック民衆は「反革命」に押しやられ、のちのヴァンデの反乱(ヴァンデ戦争 1793年3月~)の原因の一つになります。
91年6月に国王一家がパリから逃亡し途中で発見されるというヴァレンヌ逃亡事件が起こります。
これを受けて、外国に支援された亡命貴族が攻めてくる、外国の侵略が始まるという考えが広がり、国王救出を目的とした外国人が侵入してくるという予想から国民衛兵による警戒体制もしかれます。
7月には主要な政治組織であるジャコバン・クラブが、王の廃位と共和制を要求する請願書をめぐって分裂し、多数派の穏健グループはフイヤン・クラブとして分離します。
8月にオーストリアとプロイセンが、フランス国王のために武力介入もありえるとするピルニッツ宣言を出したため、亡命貴族の陰謀説にさらに拍車がかかり、外国との戦争を望む声が高まっていきます。
そうしたなか9月3日に立憲君主制にもとづく1791年憲法が制定され、9月30日に憲法制定国民議会は解散します。
(インフレや物価上昇により食料問題が悪化し民衆の不満は増大していきます。国内の多数が開戦を支持するなかオーストリアに宣戦布告し(92年4月)、続いてプロイセンとも戦争状態になりますが、フランス軍の劣勢となります。軍事的危機と国王への不満が積み重なり、パリに集結していた連盟兵やパリ民衆の恐慌的な敵意が王に向けられ、王の廃位が要求され、8月10日テュイルリ宮が武力制圧されます(8月10日事件)。これを受けて議会は王権の停止を宣言し、新たな憲法制定のための国民公会の召集を決議します)
憲法制定議会が解散した翌日91年10月1日に、9月までの選挙で選ばれた議員達による立法議会が開会します。再選が禁止されたため全て新人議員で、貴族がほとんど選挙に立たなかったため議員のほとんどは裕福なブルジョワです。立憲君主制を守りたい穏健派のフイヤン派が議会の最大勢力、共和制を主張するジロンド派(ジャコバンクラブのこの頃の多数派)がそれに続きます。
なお同業組合や団結を禁止したル・シャプリエ法(91年6月)に抵触する恐れがあるため、政党は存在しません。そのため、どの派でもない、審議内容ごとに立場を変える中間派(平原派)が、この時期に限らず常に議員の多数を占めます。そのため派閥の議員数だけでなく、中間派の動向(またその動きに影響を与える議会外の動向)が重要になります。
また議会内の各派の勢力数自体も確定したものではなく常に流動的で、各勢力をどう呼ぶかにかんしても文章によって違うことがあります。
議会の中心的課題は、周辺諸国からの脅威にどう対処するかです。(それと穀物価格の上昇に対する価格統制の要求に対して、革命後の基本原則である自由主義をあくまで守るのか、民衆の要求を受け入れるのかも問題になっていきます)
これに対してジロンド派は、国内の不満をそらして(インフレにより物価が上昇し各地で食料暴動が発生していた)政治のイニシアティブを獲得するために「自由の十字軍」などの言葉で対外戦争をあおります。民衆の多くも「外国と共謀する亡命貴族」への脅威と愛国感情の高揚から戦争を望んでいました。
92年3月、フイヤン派の大臣が王によって解任されジロンド派内閣が成立し、4月にオーストリアに宣戦布告、数週間後にはプロイセンとも戦争に入ります(戦争はナポレオンが二度目の失脚をする1815年まで中断もありつつ続くことになります)。
しかし緒戦から敗戦が続き、「反革命」者へのより強力な措置を求める声や宮廷への不信から共和制を求める声が高まっていきます。またセクション(区)の政治活動を通じて民衆が政治的に組織化されていきます。
そうした流れが最終的に民衆と連盟兵による8月10日のテュイルリ宮の襲撃に行き着くのですが、この事件は偶発的に起こったバスティーユ襲撃とは異なり王の廃位を求めての組織された行動だったにもかかわらず、そこに至る決定的な原因があるわけではないので要約しづらく、フランス革命の大きな転換点の一つのわりに説明しにくい事件です。
ここでは事件の結果だけ述べると、立法議会は蜂起側の勝利がはっきりした後、王権の停止を宣言し、新たな憲法を制定するための国民公会の召集を決議します。これでフランスが共和制に向かうことが確定します。また国王一家はタンプル塔に幽閉されることになります。
(戦争はフランス軍の劣勢から優勢に変わり周辺領土を占領します。93年1月には国民公会の裁判結果により国王が処刑されます。周辺領土の占領や国王の処刑を原因として周辺諸国の多くと戦争に突入し、さらに国内ではヴァンデ地方を中心に大規模な反乱が起こります。議会ではジロンド派と山岳派の対立が深まっていき、国内外の諸問題への対応のまずさからジロンド派が民衆の支持を失い、93年6月ジロンド派は逮捕、議会から追放されます)
8月10日に王権が停止しますがフランス軍が劣勢の状況にあることは変わりません。義勇兵がつどわれ前線への準備がなされる一方、反革命、裏切り者を排除する空気が広がり、家宅捜索がなされ多くの反革命容疑者が逮捕されます。さらにパリへの侵攻の脅威が高まり、義勇兵が出発したあと反革命者がパリ住民を虐殺するという噂も流れ出します。
そうした不穏な情勢のなかヴェルダン要塞陥落のニュースがパリに届きます。これをきっかけとして、囚人の多くが殺されるいわゆる九月虐殺が発生します。
この事件の結果、内の脅威が消えたと民衆が大挙して義勇兵に参加し兵数万を増やすことになります。
一方、この事件は国外からの印象を非常に悪いものにします。宥和政策を取っていた隣国スペインの首相も宥和政策を撤回せざるをえなくなり、またフランス革命開始時には革命に好意的だった知識人たちも国王一家の幽閉と九月虐殺で決定的に革命嫌悪に転じます。
戦況にも変化が生じます。フランス軍はヴァルミーの戦いで勝利し、戦況が優勢に転じていきます。なお多くの本でこの勝利はフランス兵の志気の高さによるものと説明されていますが、志気が影響するような戦いではなく兵と砲台の数の差によるものといった指摘もあります(たとえば『近代ヨーロッパの情熱と苦悩』)。
普通選挙でしたが投票率は悪く、ほぼブルジョワ議員で占められています。フイヤン派は出馬していないので議会におらず、共和制穏健派のジロンド派と共和制急進派の山岳派、それに中間派という構図です。(ジロンド派がジャコバンクラブを脱退していくので、山岳派=ジャコバン派とも呼ばれます)
ジロンド派は経済的・政治的自由主義を維持し議会主導で政治をおこなうという近代的な原則をあくまで重視し、山岳派は革命の推進と防衛のためには民衆の要求も受け入れ民衆運動の利用もありと考える現実路線です。
……とまだまだフランス革命の時期は続いていくわけですが、予想外に長くなったので中途はんぱなところですがここまでとします。
93年1月に国王が処刑され、6月ジロンド派の追放で山岳派の一党独裁(ただし基盤の脆弱な独裁)になり、恐怖政治の時代が翌94年7月まで続き、ここで一区切りとなります。
大石英司氏が、
「従軍慰安婦問題や竹島問題は、韓国にとっては付属的利益(本質的利益ではない)だが、
天皇制否定は、韓国国家体制にとっては「体制正統性のレーゾンレートル」なので、
この部分で韓国側が妥協することはありえない、この泥沼は数十年間に及ぶ」と看破していた。
一方の日本にとっては、(立憲君主制ではあるが)天皇制、もとい「国体」は、
日本の、少なくとも保守派にとっては国家のレーゾンレートルになっている。
「国家のレーゾンレートルの正面衝突」という事態に発展してしまった。
以前知人が
「韓国は自力で独立を達成できなかった原罪を抱えている」と投稿していたが、
あの書き込みは本質を言い当てていると思う。
別の言い方をすれば、今回の天皇謝罪要求は「韓国にとっての、第二の独立運動」となる。
(その過程で武力を伴うケースも多い)
しかし韓国の場合は「宗主国(=日本)の消滅」という特殊な独立形態を辿ったため、
「独立時点で、宗主国と独立国を関係付ける条約類が一切不在」という特殊状態に陥った。
それゆえ、旧宗主国と独立国の関係を、後付けで現状追認する必要が出てきて、
現状追認的な条項が多い日韓基本条約で誤魔化すことになった。
日韓基本条約の「日韓併合条約は『もはや』無効」条項の仕切り直しを意味する。
つまり「原初的に無効」であり、それゆえ、不法支配した天皇は謝罪責任が生じる、というロジックである。
その意味では韓国独立のレジティマシーの再確認、第二の独立運動なのである。
「日本は自力で民主化できなかった原罪を抱えている」と投稿したことあるが、
「俺達は自力で民主化した」という自負のようなものを、持っているのでは?
「日本は民主主義国家を自称しているが、天皇を抱えていて、天皇タブーがあったりして、
と内心思っていたりしているのでは?
論点が「竹島」だけに限定されると、国際司法裁判所で不利な立場になるが、
加えて、天皇責任まで持ちこんだことで、日本国内の足並みが乱れることになった。
「天皇が権威を司り、政治的実権は将軍なり首相なりが握る」という
「権威を司る天皇に、過度に政治的マターにタッチさせてはいけない」の論理が働く。
しかし、「権威と権力の分離」、或いは「立憲君主制」は、アジア的には少数派である。
ヨーロッパは永年の争いの上で、立憲君主制な国家のみが王室を維持できているが、
ドイツでは絶対王権が戦争を指揮し、その結果ウィルヘルム2世は退位に追い込まれた。
比較的政治にタッチしていなかったイタリア王室ですら、退位を余儀なくされた。
フランスは言うまでもない。
結局、立憲君主制がうまく行ったのは、イギリスや北欧程度でしかなく、
アジアを眺めても、比較的「立憲君主的」と見なされているタイ王室も、
立憲君主的だったネパールは王室親政に転じた結果、逆に王室廃止に追い込まれた。
日本とイギリス程度であり、全世界的には「君主制は失敗しやすい」というのが
「立憲君主政体」を経験せず、「絶対王政」と「共和制」しか経験していない。
そういう国民が、「立憲君主制を肌感覚で理解する」ことは、至難の技だ。
国民感覚として「なぜ君主が政治的に責任を取らないのか?責任を取れないのか?」と
感じても、不思議ではない。
日本学生が韓国学生に「なぜ日本には天皇がいるのに首相もいるのか?」と聞かれ、
返答に窮した、というエピソードがあるらしい。
「民主主義と君主制は両立できる」と考える韓国人の方が少数派で、
「君主制というからには、相当程度、政治的権能を有していないと不自然」と考える韓国人の方が、
多数派ではないか?
また、韓国で「権威」と「権力」が未分化なのは、元大統領の処遇を見てもわかる。
日本なら「元首相」は権力は少なくても、「権威」として遇されるが、
韓国では元大統領は「権力」も「権威」もない。だから末路は悲惨である。
ということで、
一歩引いて
「まずどうやって韓国の人たちに天皇制、立憲君主制を理解させられるのか?」を
考えた方がいい。
立憲君主制って理解しとらんやろおまえ。