はてなキーワード: 根付とは
どこかのフェミニストが、規制ではなく配慮を求めている、と言ったらしい。
不快にならないことであり、
後は自分で考えろと全部投げつけてくる。
マナー講師も「ハンコをお辞儀させる角度は○°以上」などとは言わない。
とにかく「ハンコをお辞儀させろ」という。
一方、マナーには、謎マナーと、そうでない一般的なマナーがある。
むやみに他人に注意すると、揶揄の対象になったりする。マナー講師(笑)。
基準が明確でなくとも、他人に注意すれば配慮してもらえる場合が多い。
おそらくフェミニストは自身の主張を、後者の一般的なマナーのレベルで考えていて、
それなりに男女同権の考えが根付いた現代において、ある程度それは正しい。
しかし、マナーに対する配慮を促すにあたっては、必要な視点が抜け落ちている。
それは、配慮する側が「相手に嫌われたくない」と考えている必要があることだ。
なんなら、音を立てることにこだわりをもっていてもいい。
そんな中「食事中にクチャクチャと音を立てるな」と言われたところで、
相手に嫌われてもいい、あるいは、相手をすでに自分が嫌っている場合、
「知るかよ。オマエが席を移ればいいだろう」となるし、
そうなること自体を責めることはできない。
そこを強制させるというのならば、マナーの文脈では力不足であり、
日本では前世紀末に、オウム真理教などのカルトが宗教に対しての誤った固定観念を植え付けてしまった。
宗教とは本来、(オウム信者のように)熱狂的に常に力んだ状態で励むものではなく、もっと自然なもので、生活の一部として根付いたものだ。そして、ゆるい形でありながらも信仰対象への信頼は揺るぎない。
現在、そのような形で日本人の生活に馴染んだものは何であるかと考えてみれば、まさに世論調査のお約束
これに尽きる。
野党や野党支持者、外国の政府関係者などがどれだけ現状の問題点を探し、指摘し続けても、この信念は揺るがない。
オウムのような熱狂的な形ではないが、なかなか揺るがないのである。
もし外国人に「日本人にとっての宗教とは何か?」と問われたら、現状で一番近い答えは、良いか悪いかの判断は全く抜きにしても、とにかく「政権与党」ということになるだろう。
ジャンプは今の体制を崩してほしくないね。少年の心と少女の心は違うし、一応分けておいて、その中で女が少年向けを読んでもおかしくないという環境を社会が作らなくてはならないのだ。
漫画は大衆のものではない。大衆のものなど、もうこの日本には存在しないといってもいい。
ジャンプ系出身の女性作者は、なぜか売れっ子でも男性名に見えるものを使っている。
別にこれはジャンプ系だけの話では無く、割合的にも男性名を使うことが多いようだ。
なので未だに女性が描く漫画は下手だとか面白くないとかいう偏見が残り続け、さらに名前を隠す文化が根付いているようだ。
この点においてはジャンプが変えていかなくてはならないはずだ。
多作ヒット傾向にあるのは女性漫画家だと、そろそろ気付いているころだからだ。
そのことを高橋留美子を通して散々知っているサンデー、小学館系から出る女性漫画家は「○○子」など思いっきり女性名を出している。
サンデー編集部に女性が複数人居るのは、多くの作品で恋愛を取り扱うので、女性の気持ちを汲むバランサーとしては必須だからだ。
そのため腐女子媚びをしていると思われることもあるが、サンデーの腐人気作品は全くその要素が無いのに人気になっているため、ジャンプの腐人気作品となんら変わらない。隙あらば男女がいちゃつくのがサンデーだ。
恋愛を扱わないジャンプに少女恋愛漫画視点は必要ない。ラブコメをたまにする作品に女性アシスタントがいればいい。結論は出ている。
昨今の『自称フェミニスト』の発言を見る限り、残念ながら日本のフェミニズムは完全に死んだ物としか思えない。
そもそもフェミニズムとは『不自由だった時代の女性の解放』『性的な自由を求めた自己決定権』を求めたいわゆる『自由を求めた人々の運動』である。
しかし、今日本で唱えられている主張はやれ『アニメ・漫画を規制しろ』だの『公共的な場所に性を想起させるものを置くな』だの、真逆の主張を続けている。
これは、日本で唱えられているフェミニズムが全て『ラディカル・フェミニズム』(急進的女性主義)なのだが、これが一般的なイメージの『女性に優しい社会を作ろう』というものと全く違く、それどころか真っ向から敵対している主義であるのが原因である。
『ラディカル・フェミニズム』の最終的な目標は『結婚や家庭自体の廃止』や、『男性の社長や役員の廃止』『男性向け性的サービスの完全根絶』等『社会の根幹的な物自体の改革』が目的の活動である。
しかし、海外ではこの主張は全くと言っていいほど受け入れられていない少数派、それどころか海外では主流の『リベラル・フェミニズム』とは真っ向から対立している集団である。
なぜ、海外では受け入れられないかというと、この『ラディカル・フェミニズム』の主張者の多くが『キリスト教原理主義団体』や『白人主義』等の胡散臭い団体に所属しているからだ。
何故、普通なら真逆の差別主義者が『フェミニスト』を名乗っているかというと、内容をすり替えて行けば自分たちの主張を通しやすくなるため、その下準備として『女性』をシンボルに掲げているに過ぎないからだ。
(例:性的なアニメ・漫画は見ていて不快だから自粛しろ⇒黒人は見ていて不快だから自粛しろor性的な物が公共の場にあると問題が起きる⇒〇〇教の物が公共の場にあると問題が起きる)
そのため、『ラディカル・フェミニズム』の主張者は『問題が起きる前に撤去しろ』『表現や思想を自粛しろ』という主張は行うが、実際に風俗営業を行っている女性の賃金向上や男性の家庭への参画(いわゆる主夫)、風俗営業を行ってる女性への職業あっせんなどの現実問題への活動は全く行っていないのが特徴だ。
何故なら彼らor彼女らの目的は『女性の解放』ではなく『自分が差別しているものの排斥が簡単に行える社会』の実現であり、その足掛かりとして女性を利用しているに過ぎないからだ。
では何故日本だけはこの『ラディカル・フェミニズム』がやたら根付いてしまっているか、というと日本は奴隷として扱われた時代が無いため『白人主義』への嫌悪感が少なく、宗教観が薄いため『キリスト教原理主義』を唱えられてもピンとこないため、そういった胡散臭い団体の隠れ蓑としてピッタリだからである。
また、いわゆる『純血主義』が根強い国でもあるため、『自分と異なる物は徹底的に排除したがる』という国民性も『ラディカル・フェミニズム』にはプラスに働いてしまっている。
要するに『自分の理解できない得体のしれない物は差別・排除しても問題ない』という発想が根底にあるため、過激な言動や行動が容易に取れてしまうのだ。
(いじめ問題もこれが根底にあるが、本題ではないためは割愛する)
さて冒頭で『日本のフェミニズムは完全に死んだ』と言ったかというと、かつて女性の自由を求めて戦った『女性解放運動』は今主流となっている『ラディカル・フェミニズム』の真逆である『リベラル・フェミニズム』の運動だからである。
かつて政府や社会から規制されていた『表現の自由』や『性の解放』を求めて運動していた人々の名だけ借りて、今は『表現の規制』と『性の抑圧』を求めて運動しているのが今の日本のフェミニズムなのである。
現在のフェミニストの活動が活発になればなるほど、日本は過去の差別的な社会に戻っていくだろう。
いや、既に一部は戻っているのかもしれない。
長々と書いたが、フェミニストの大好きな『海外のフェミニストの意見』を持って締めくくりたいと思う。
法学者でもあり、アメリカ自由人権協会初の女性代表で、アメリカで最も影響力のあるフェミニスト、ナディーン・ストロッセンの言葉だ。
「ポルノをやり玉にあげる検閲は、性差別や暴力を減らせない。本やメディアを求める男性層と性差別や暴力を行う男性層は全く異なるからだ」
宇崎ちゃんポスターに対しての批判の中に、実在巨乳への批判を避けたいが為か「乳袋」に絞って問題視する声は度々見られたが、
この点にとても違和感があったので少し考えてみた。
「乳袋」的な誇張表現は90年代には確立、いや発祥を遡ると恐らく70年代頃にはあったと思うが、その体系的な解説は識者に任せるとして、
そもそも「乳袋」という言葉自体がネットミーム化したのは比較的最近のことであり、朧げな記憶だが恐らく2010年前後。
ニコニコ大百科の記事が10年6月に作成されていることから、大きくはズレていないだろう。
https://dic.nicovideo.jp/a/%E4%B9%B3%E8%A2%8B
その記事内にも言及があるが、元々は巨乳イラストが現実に即していないという批判的な文脈から生まれており、
裏を返せば「乳袋」という言葉が出て来るまでは、オタク達は無意識無批判的にその表現を受け入れていたこととなる。
そう言うと批判側の「オタク達は(乳袋がエロではないと)麻痺している」との言説に一定の説得力があるように思えるが、自分としては実情が異なる印象だ。
乳袋の表現は、言ってしまえば、実在の巨乳に対する無理解から生まれるイラストの巧拙や、デフォルメ表現としての流行や表現の確立としての側面が強く、
類似例として、巨大すぎるリボンや、カラフル過ぎる髪の色も、(判子絵的な)キャラを区別する為に生まれた創作者側の都合によるものと考えられる。
つまり「乳袋」はオタク的には直接的なフェチ表現ではなく、イラスト表現の変遷で発生したものであり、副次的に受け入れてきたものだろうということ。
その証拠としてあげられるのが、pixivのタグ検索。「#乳袋」のタグがついたイラストは現時点で2578作品。フェチ的表現としてオタクに人気な気がする「#黒タイツ」の44025件に比べると寂しい数字だ。
タグがついていないだけで乳袋とされるイラストは膨大にあるから、フェチ表現ではなく、表現技法として根付いているように見える。
「根付いているのでは麻痺と一緒では?」と思った方もいるかもしれないが、ここで主張したいのは「乳袋」は巨乳を表現する技法の一種でしかないこと。エロに対して直情的だから蔓延した表現というのは誤認である。
批判するのであれば、「乳袋」ではなく、漫画アニメイラスト業界に蔓延する過度な巨乳女性を安易に描く風潮そのものでなければ、抜本的には解決しない。
(その風潮が生まれたのは、男性の性欲からという点は否定しない。男はだいたい女体が好きであり、それを空想として描くときに現実離れするのは不自然なことではない。安易であるが)
しかし巨乳女性イラストへの批判は直接的な表現規制になり得るし、実在巨乳女性へ飛び火する危険性や、国民的作品へのバッシングにも繋がる。それを分かってるから批判側もそこまでは言及せず分かりやすい記号である「乳袋」にターゲットを定めた心理があるのだろう。
だがそれはオタク文化への直接的な加害であり、オタクからすると「カラフルな髪の毛は現実に即していない!」と同レベルの文化侵略であるように感じられるし、また単なるオタクヘイトと区別がつかないのである。
余談的となるが、宇崎ちゃんの巨乳設定は、漫画を読む限り読者を扇情させる為の魅力というより、ウザい後輩キャラ的な属性をその大きなおっぱいが文字通りクッションとなって印象を和らげる為に機能としてあるようにも見える。漫画としてはエロよりずっとラブコメの色が強い。
あと、2巻3巻の表紙は確かに「乳袋」だが、1巻の表紙や漫画内ではいわゆる乳テントで描かれてる部分も多いので、「乳袋」は宇崎ちゃんにとって重要な構成要素ではないこともわかる。
(漫画の印象に関しては読む人によって意見が別れるだろう。ただ巨乳設定=扇情と限らないのはアニメ漫画を嗜む者には理解して貰えると思う)
作品表現とポスターとしての問題を直結する必要はないが、特にエロの権化でもない宇崎ちゃんが「乳袋」の絵だからといって性的搾取のシンボルとして掲げられるのは不憫としか言いようがない。
そんな感じで、一介のオタクとしては、「巨乳ではなく乳袋批判だ」という詭弁的な批判ではなく、男性の欲望と直結してしまってる創作界隈の巨乳文化をターゲットにして貰いたい。
その声が大きければ、自主規制による創作界隈のアップデートは十分起きうるだろう。巨乳がいなくなれば当然「乳袋」もなくなる。無論個人的には望まないが。
オリンピックや都知事に全く興味なかったのに北方領土くらいでというあれをみて、は?ふざけんなよと思った。
郷土愛なんて自分は持ってないと思って三十年生きてきたし、道民は郷土愛に薄いなと思っていたが、あの発言に対する周囲の反応を見て道民にもそういうのがあったんだと気づいた。
(SNSなど見ているとこの道民の反感を「北方領土と北海道を一緒にするなんてふざけるな、そんなに田舎じゃない」という意味だと勘違いしている方がいたので、念のため断っておくと、多分多くはそういう意味じゃないと思うよ)
同時に領土問題は道外ではジョークにできる程度の話題なのだと、逆に北海道では今まで意識してこなかったが自然と領土問題が根付いてるのだと気付いた。
政治に興味がなく政治的な立場を持っていなくても、土着の感覚として世代に生きているというか。
考えてみれば、特に地理が得意ではない自分でも北方四島の名前を言えるし、北海道の地図に四島あることに何の違和感も感じない。
天気予報の地図にも普通は北方四島のシルエットが入ってるし、まだ感動が記憶に新しいコンサドーレのサポーター達のコレオグラフィーにも入っていた。ずっとそういうのを見て育ってるからそれが普通だと思ってる。政治的立場がはっきりしている人からみれば、それは知らずに洗脳されてるだけだと言うのかもしれない。
重ねていうが自分自身には明確な政治的な立場はない。正直、政治に興味がない。
ただ、ずっと北海道で暮らしてきた自分にとって領土問題はファンタジーではなく実際にあって、北方四島は実際にそこにあるものなのだと再確認したのだ。どこで学んだかなんてわからないが…例えば納沙布岬にいけば歯舞は見えたし、ひいばあちゃんとばあちゃんは四島ではないが樺太に住んでいた。この樺太という言葉も道外だとかなり忘れられてきていると今調べて知ったし、サハリンと言わず樺太と言えば政治的意図と取られかねないようだ。俺はただ樺太に住んでた時の話を聞いてるから、それが記憶にあるから樺太というだけでそこに政治的な意図はないのだ。
なにもかも自然とそう知って当たり前すぎて意識することがなかった。
そういう基盤があって、あの発言への反感に繋がっているのだと思う。
増田と同年代で趣味がバイクとサッカー観戦とピアノ演奏のものだが、
楽器は弾けると楽しいけどそうでないと苦行の下積み期間が長いので、そういう素質というか経験が無くて趣味でやるのは微妙やな、バイクも特に複数人でのツーリングとか思いっきりアウトドアやし
スポーツ観戦はどう?最近はラグビー熱が高くなってるみたいだけど、サッカーもなかなか面白いよ
JリーグのクラブはJ2,3まで含めると地域密着なスタイルが根付いているので元増田の地元にあればちょうどいいし、サッカーって戦術性がかなり高いスポーツだから在宅評論家ばりに分析ばっかりやってるのもオタク心を刺激されて楽しいよ
毎週1回っていうのもちょうど観戦するには適度な頻度だし、サッカーなら雑誌とかメディアでの評論も多いので掘り下げがいがあるし。
献血ポスターのイラスト問題が、連日タイムラインを賑わせている。私のタイムラインでは大元のツイートは流れてこなかったが、オタクがオタクの献血を賞賛し、"環境セクハラ"をこき下ろすツイートがちらほら見られた。シンプルによくわからん、と思った。私自身もオタクだから人のことを言えないのかもしれないが、オタク、オタクを賞賛するのが好きすぎる。献血は確かにえらいが、そんなに過剰にオタクだけ褒めそやすのはどうなのか?それにセクハラは色々な問題を抜きにしてもまず透明化したらダメなのでは?とさまざまな思いが巡り、このオタク献血賞賛ムーヴがどこから来たものなのか調べることにした。
先に結論を述べておくと、「二つの議論を一緒くたにして考えるからダメなのだ」である。
この一文だけで察してくださる方もたくさんいることだろう。そんな方にとっては、以下の文章にさして内容はないと思う。煮るなり焼くなり好きにしていただきたい。
さて、今回の件の発端となったのは、恐らく弁護士のこの方による引用リツイート。
https://twitter.com/katepanda2/status/1183729350207623169?s=21
渦中のポスターは、漫画「宇崎ちゃんは遊びたい!」のヒロイン、宇崎花ちゃんと献血のコラボキャンペーンポスターである。
『文字通り絵に描いたような爆乳で困り眉の女の子が、挑発するような台詞・表情で』献血を促している。
多分、弁護士の方がここで問題にしたいのは『』の部分だけだ。献血を促すこと自体に文句を言っているわけではない。ポスターに採用されたキャラクターの造形に問題があるという話で、漫画・アニメ作品が採用されることに不服があるわけではない、と思いたい。このていで話を進める。
話は変わるが、Twitterランドはスラム街である。日々クソデカ主語や極右極左、クソリプパクツイデマツイお気持ちマシュマロと戦うオタク諸君はこのあたりよくご存知のことであろう。こんな環境で、果たしてまともな議論ができるだろうか?できるわけないのである。揚げ足取りは腐るほどいるし、文脈が読めないまま発言の一部のツイートだけが一人歩きしたり、過激な思想を持った影響力の強い人々が発信する偏った意見が多くのRT・いいねを獲得していたりするのだから。一つの議論をまともに話そうというのがそもそも無理な話だ。
ここで話を戻そう。
先のツイートは、一見すると問題提起に見えなくもない。いや、そのつもりがあってしているのかもしれない。この弁護士さんはフェミニストの方々の間では有名な方だと聞いた。だとしたらこの方の主張は、『環境型セクハラに配慮しないポスターを貼るのは無責任だが、日本の環境は麻痺していてそれを問題にする人もいない』であろうと思う。
環境型セクハラと言っているもののそもそも微妙に意味が違う気がする(気になったら各自調べてください)のだが、今回のを要約すると"生きているだけで目に(女性が客体である)性的なイラストが目に入ってくる"というところだろう。
私はこの主張にのみ関して言えば、議論されるべき問題であると思っている。女性身体の過度な客体化とアニメ文化が密に結びついた日本では、驚くほど性的アイコンが強調されたイラストがそこら中にあふれている。性的アイコンは巨乳とか服の上からでも分かるマン筋とか、困り眉赤面涙目とか、濡れてんのか?みたいなピタピタの服によるわかりやすいボディラインとかそういうものである。生きていれば上述のアイコンの何かしらを目にしたことがあるだろう。それこそ都会ならば場所や時を選ばず、どこにいても見られる。コンビニのエロ本撤去が少し前に話題になったが、あの区画に限らず様々な場所にあの手のイラストや漫画があふれているのだ。意識して見てみるとわかるが、そのイラストに感じる独特の「気持ち悪さ」はよっぽど理解がないと感じ取れないかもしれない。それだけ、この国の女性客体化思想は深く深く根付いてしまっている。
とまあこんな具合に、この問題は一朝一夕140字ちょっとでは到底語りきれない深刻な問題なのである。そして悲しいかな、今回の件について、この文脈で議論を展開している人はあまり見られない。
「萌えアニメのキャラを献血ポスターに使うのの何が悪いのか?」
「セクハラだかなんだか知らんが献血量が減ってないならなんの問題もないし知ったこっちゃない」
「我々はオタクの献血で命を救われた。オタクが献血に行くことのなにが悪いのか」
こんなもんである。そもそも論点がズレていることに、一体この話題に参加したオタクの何人が気づいているのか。指摘しているツイートも少なからずあったが、そちらはバズらずじまい。なぜだろう。原因はわからない。
そもそもこの問題の要点は『性的アイコンが強調されたポスターはセクハラだ』であり、『オタクが悪い』『アニメキャラ(クソデカ主語)はポスターに相応しくない』とは誰も言っていない。誰も言っていないのに、勝手にオタクの好きなものが批判された、こき下ろされた、エログレーゾーンのアニメキャライラストを全て規制しろということか、表現の不自由だと逆ギレしているのである。
何故?これもわからない。表現の自由が誰かを不快にするのを厭わず行われるべきだというのなら、なぜ「表現の不自由展」はあんなにバッシングを受けたのか。人に不快感を与えるという点でそこに上も下もないと思うのだが。
結局日本は右寄り日本人男性の視点優先の社会構造が浸透しすぎており、女性の視点や気持ちはほぼ透明化されているということなのであろうが、このあたりは話しだすと論文一本じゃすまないので今回は割愛しておく。右寄り日本人男性というカテゴリーも微妙なところだ。男性というだけで生きやすい国なのだ、ここは。
一方で、もし発端の弁護士の方にアニメキャラ全般をこき下ろす意図があるとするならば、それはそれで問題である。過度なミサンドリーという点でもそうだが、このご時世、アニメイラストというだけで拒絶反応を示していてはキリがないし、正当なフェミニズム思想や反論の材料にならない。アニメイラストが不快、というだけでは「個人の問題」になってしまうのだ。とにもかくにも、今回の件は議論にするには材料や前提となる問題提起の部分が弱すぎた。
長々書いたが結局のところ、今回の騒動は
①性的アイコンが強調されたキャラのポスターが誰にでも見えるところにあるのは不快だしハラスメント
②ポスターにアニメキャラが採用されることはなんの問題もなく、それを規制することは表現の自由の侵害である
という二つの問題がごっちゃになったまま拡散され、憤るオタクたちが様々なツイートをし、歪みに歪んで広まったというわけである。繰り返すが、誰もオタクがダメともオタクの血が不快とも言っていない。だから「女は献血への貢献度が低いくせにごちゃごちゃ言うべきではない」とか、「巨根男性がポスターについてたら男は嫌だろ?」とかはまた全然別の議論を立て直さなくてはいけないのだと思う。このあたりはミソジニーとミサンドリーが混ざりすぎて本来の目的を失っているようにも見える。個人の快・不快ではなく、議論はフラットな目線で行いたいものだ。私自身それができているか甚だ不安ではあるが、特大スラム街・Twitterにいるともう何が何だかわからない。そしてその辺りを踏まえて、発端の方のツイートが個人の快・不快に帰結するものかどうかについても、議論すべきかもしれない。私は社会全体の問題だと思うけれど。
ついでに今回の問題をこねくり回したツイッターの人々を十把一絡げに「オタク」と言ってしまったが、これも本来良くない話だ。まさにクソデカ主語。目につくツイッタラーが皆オタクに見えてしまうのは、ツイ歴五年になるクソオタクこと私の決定的に良くない点である。反省。
さて、散々色々とりとめなく書いたので、このあたりで渦中のポスターのメインキャラについてもひとこと。
失礼ながらタイトルも知らなかったのだが、「宇崎ちゃんは遊びたい!」はTwitter発の漫画作品らしい。現在はニコニコ静画などで連載しており、コミックスも三巻まで出ているようだ。以下あらすじ。
一人でいることが好きな先輩を「ぼっち」扱いするウザい後輩が絡んでくるドタバタラブコメディ。非日常的な要素はなく、基本は主人公とヒロインを中心に大学での青春を描く。
ヒロインはショートカット、巨乳、八重歯、~ッス口調、アホの子というキャラクター性を持つ。ただし他の女友達と過ごす時や独白では標準語で話す。(Wikipediaより引用)
清々しいほど分かりやすくオタクの好きなやつである。私も好きである。属性は盛りすぎてもいけないが、あって悪いことは一つもない。かわいいことはいいことだ。こんな後輩欲しかった。いつか思う存分揉めると、その柔らかい触り心地を夢見て大学生活を送りたかった。
この宇崎花ちゃんは今回なにも悪くない。だから過剰に擁護すべきでも、過剰にディスる必要もそのいわれも全くない。じゃあ誰が悪くて、なにがいけなかったのか。今回の話はこのあたりが議論されるべき点だったと思う。そしてすでに意見を述べている人々は、反対意見の人々の意見も詳しく聞いてみるべきだ。
最後に、今回の件で一つ良かったことがあるとすれば、献血に興味を持つ人が少なからず増えた点ではないだろうか。結果的に宇崎ちゃんのポスターは本来の目的を大幅に逸れて拡散され、献血を広めることになった。そして宇崎ちゃんの読者もさらに増えたことだろう。よかったね。
献血は人類のために必要不可欠な活動であることはわかっているつもりだし、今更その重要性について語る必要はないだろう。ツイッタラー各位は特に、今回の件で献血に救われた人間の話をたくさん見たことと思う。私はウッキウキでカントリーマアムをもらいムシャムシャ食べながら献血を待っていたら、ヘモグロビンと鉄の量が足りず献血ルームから追い出されてしまったが、今後も献血をする人が増えるよう祈るばかりである。
人間である以上、大抵の人は会話をはじめとするコミュニケーションが大好きだと思う。社会的動物ってそういうものだ。コミュニケーションへの欲求はみんな持っているだろう。
ただこの欲求を叶えることに向いていない人種が存在する。オタクだ。もっとしっかり言えば、会話力のないオタクである。
オタクには会話力のない人物がどうにも多い。これは会話力のない人たちが面白くないという理由で避けられ続けた結果、オタクという社会的カーストの下の層に落ちる傾向があるからではなかろうか。ちなみに「オタクは下ではない」という方がいたら申し訳ないが、オタクである私はこのことを地動説と同じくらいは信じている。まぁこの話や理由の推測は本題ではない。
こういった人たちも人間である以上コミュニケーション欲は当然持っていても不思議ではない。ただコミュニケーションを取ろうにも彼らはあまりにも会話が下手なのだ。
『まったく面白くないセンス』で『こちらがまったく知らない話題』を使い『相手の気持ちを考える能力無し』のまま話すのだ。どうだろう。こう書くと信じられない状況だが、こういった人に心当たりはないだろうか。
前提として、コミュニケーションは双方向性のものだ。互いに伝えたいことを伝え、互いに楽しむ。そうして互いに関係を築きたいと思ったときにはじめて友達と成るわけだ。これは社会的動物として、成長の中で当然知ることなのだ。しかもこれは本当に前提であって、これを知った上でコミュニケーション能力を高めて実際に人と関係を築くことまで含めて社会的動物の本能である。
しかし会話力のないオタクにはその前提の知識すらない。こっちがまったく面白くないと思っていても、勝手に笑って楽しんでいる。当然、能力の方も持っていない。こっちがまったく理解できていないのに、それを察することなくヘタクソな話を恥ずかし気もなく続ける。
そのうえ問題なのがそういったオタクであってもコミュニケーション欲だけはあるのだ。だから話せる機会があると思うや否やベラベラ喋りだす。その行動で一層人から避けられることになるのも理解せず。
地獄のような状況である。欲に能力が追い付いていない。欲求とそれを叶える要素が見合ってないことで社会的動物の機能がバグっていると言ってもいい。下手したら一生この状態から抜け出せないだろう。
せめて知識さえあれば、もっと会話の仕方を考えるだろう。そうして試行錯誤していれば能力は身に着く。当然能力が身に着けば自然と話し相手も出来て欲求も満たせる。
だがそういった知識を根付かせられるのは多くの場合幼少期だけなのだ。大人になってからこういう根本的な知識を身に着けることはあまりにも難しい。それにこういった間違いは友人などの近しい人間から指摘を受けて気付くことが自然だろうが、そもそも彼らにとって近しい人は少なすぎる。
だから、詰んでいるのだ。終わりである。会話力のないオタクは詰んでいる。
「オタクに限った話ではないのでは」と思う人もいるだろうが、まぁそれはその通りだろう。ただ私の思い当たる限りこういう人はオタクしかいないし、オタクほど社会的行動を軽視しがちな層もいない(だから前述した知識がつかない)。やはりこのことはオタクにこそ言いたいのだ。
会話力のないオタクは詰んでいる。でも意識さえすれば抜け出せる可能性は見えてくるのだ。私もかつてそうだったが今は友人もいる。だから詰んでいる状態から抜け出して欲しい。
懐古厨、懐古することそのものを否定するつもりはないが「過去作を見ている過程で根付いた自分の作品に対する理想」こそが「あるべき現在の作品の姿」だと思ってそれにそぐわないから中傷するってのなんなんだ
「伏線回収がなされていない」とか「心理描写が不十分」とかそういう構成とかに基づく現在の作品のあり方の批判は別に良いと思うしその通りだと思うよ
「〇〇が作品中でこういう扱いされてんの許せない」ってツイート見かける度に「それはお前の好みであって断じて質の問題じゃねえ」ってなる 「扱いは変わった」かもしれないがそれはあくまで「変化」にすぎず、「変化した」からといって作品の質が落ちたことにはならない
そういう感想を抱くこと自体を否定するつもりはないけどその感想で作品の質を判断するのは違くないか? あくまで「作品が合わなくなった」だけであり、「作品の質が落ちた」ことの裏付けにはならない まあそれをそう思うなら勝手にしてくれよって思うけどそれを理由に意気揚々と公式のリプ欄に乗り込んで自慢気にディスっていくオタク メンタル強。
話変わるけど「ファンとして許せない」ってなんだ 許せてないファンは一部に過ぎないし仮に全ファンがそう思ってたとしたところでアンケート取ってるわけでもねえのにマジョリティ代表した気になってんのなんでなんだ
そもそも我々が「ファンである」時点で作品に関して干渉する権利は(運営が開催する企画などを除いて)ない 作品を変える権利はファンには存在しない 「運営、最近△△の扱いひどくない?キャラのことちゃんと理解してんのかな」 逆だよ 変わった運営についていけてないんだよ レストラン言って「昔の料理の方が好きでした、私の方が昔のこの店の料理のこと知ってます、傷つきました」って言う奴いたら完全に悪質クレーマーだろ
もうなんか色々と辛すぎて勢いで書いたので文法等めちゃくちゃだけどこんな風に思う若者もいるんだということを知ってほしいなと思って書いた。
親がとても厳しく、小さい頃から非常に色々制限の多い生活を送ってきた。自分がしたいこと、気分が上がってふざけたいとき、何かに成功したり楽しいと感じるとき、調子に乗るなと言われ続けた。いわゆる心を殺されてきた。そのため楽しくても何か嬉しいと感じることがあっても決して人から分からないように表情や感情を殺して生きてきた。明るくて笑顔が可愛いと言われていたのに今ではクールだと言われるようになった。学生のころはこれでも生きていけたし、まだ良かった。就活もなんとか頑張ったから首席で採用され、ああ自分も無事社会に出ることができるのだとちょっと安心した。しかし、社会に出たときにすぐにおかしい、と感じた。いざ一人で戦えとなったとき、何もできないのだ。一歩も動けない、話せない、非常に恐い。周りは自分よりも一回り以上年上の人ばかりで、親と同じ世代だ。仕事を円滑に進めるためには、意見を言わなければいけないのに、言えない。ああ、こんなにも自分はただのクズでしかなかったのだと絶望した。
●自分で考えて行動できない
全て親の言う通りに行動してきたから自分で物事を決めたことがなく、いざ一人で決断しようとしてもできない、又は決断しようと思っても自信がなく、恐くてできない。
●目上の人に意見が言えない
基本的に年上の人が恐い。何か言うと怒られるというイメージが根付いてしまっている。
●したいことが見つからない
長い間自分のしたいことを制限され批判されてきたので、気付けばしたかったことを忘れてしまっている。ただ時の流れに身を委ねるだけの過ごし方しかできなくなる。
●自分を見失う
本当にしたかったことを忘れてしまうので、何をして何のために生きているのか、自分は何のために生まれてきたのか悩み、苦しむ。
結果、心がない、常に喪失感、何をしても楽しくない、嬉しくない、悲しい感情は人一倍大きい、悲しい、辛い、苦しい、助けてほしい、そんな感情でいっぱいになる。
人を強く恨むようになる、人を好きになれなくなる。
何か頑張ることを見つけたいが、見つからない、特にしたいこともない。
食欲がない、ただ寝ていたいと思うだけ。
このまま放置していたら、本当にひどくなるんじゃないかと思う、自分でもやばい状態だと自覚している、自覚しているだけましだということも分かっている。
助けてほしい、とまだ人に甘える気でいる自分にも腹が立つし情けない。
もう自分の力だけではどうしようもない。
だと言ってある一人の力に頼って流されたくもない。
あの頃の自分に戻りたい。
甘い、結局甘えなのだ。こんなでも頑張る人は頑張るし、逆に見返してやろうと闘心に燃える人もいるのだろう。でも私にはそんなことはできない、頑張れない。
好きなことをして、好きな人と笑って楽しんで、時に頑張って、努力が報われて、達成感を感じて、時に人間らしく情に流されてあほになってみたりして、そうしているうちに本当に正しいことに気が付いて、それを大事にして生きていきたい。
そんな人生を歩んでみたい。
今時分が何を考えているのかを把握するためにはそれを言語化していくといいと聞いたので実行してみる
が
よくよく考えると私は基本的に脳内独り言により思考を制御しがちなのでもともと思考は言語化されがちなのだが
それとは別に頭で別のことを映像イメージとして処理していることががあるのでそっちを書き出してみたいが
その場合は前後に「複」とつけることで主たるイメージである言語化済みの思考と区別して書き出せばいいのだろうか
「複」実際今でも頭の隅では今日読んだ進撃の巨人のイメージが走馬灯のように処理されていて今は訓練中の食事シーンがアニメ風に再生されている
「複」とつけるよりも二行段落下げの方が書きやすいし分かりやすいので次からそうしていきたい
何故か延々とアルミンが芋とスープをスプーンで食べ続けているビジョンが浮かび続けている今コレを書いているうちに霧散して脳が虚無になった
施工を言語化してみようと考えた所であまり意味がない気がしてきた
一秒の描写には一秒以上の時間がかかると大昔に詩人が口にしていたと昔どこかの神話にかかれているのを読んだ気がするがそれは翻訳者が適当に付け足した文学的なエッセンスでもとの神話にはそんな台詞なかったのかも知れない
部屋の水道管の中を通る水の音が非常に煩いためそれが映像として脳に流れ込んでくる
上の部屋で人間の足音がするのが非常に鬱陶しいが単なるラップ音の気もする
寝るか
正直寝ようとしてもなかなか寝付けないので困る
人間は寝ようとしてもすぐに眠りに落ちることが出来ず一〇分程度は現実と夢の間をさまようというがその時間が非常に面倒くさい
私は一時間半の倍数で寝たいので寝る前にはたとえば七時間45フン後に目覚ましをセットするのだが根付くのに30分かかるとそれが15フンズレてしまいそれが非常に気になる
それでそわそわしてなかなか眠れない
変換を意識すると思考が先に流れてしまうので変換が雑になってきている
脳波でキーボードをコントロールできるようになれば変換の成功率はあがるのだろうか
つかrた
ねう
AKB系列、ジャニタレの適当なダンスとは比べものにならないぐらい上手い。昔の指原のこの発言には本当に幻滅した。
https://news.livedoor.com/lite/article_detail/8159790/
当然整形で治してるわけだから、その甲斐もあって顔は整っているのだと思う。(個人的な好き嫌いは別として)皆同じ顔という批判もあるし、実際そうだが、ファンには区別がつくならまあ整形成功だろう。
個人的には5人ぐらいがベストだと思うが、AKS系列のように48人もいないところは良いと思う。人数が多いの、キモい。
東アジア文化の最先端、という虚構で見事に若者を騙せたと思う。カンナムスタイルの再生数詐欺は有名だが、そこまでして「流行っている」と押し切って実際にそれなりに流行らせているのだから、まあ勝ってると言っていいだろう。短期留学に何度か行って思ったのだが、白人国家に住むマイノリティアジアンにとってKPOPスターは、アジア人の自尊心を満たす拠り所なのではないだろうな。東南アジア、オーストラリア、アメリカ、中国人と薄い関わりを持つ機会が点々とあったのだが、どの国の人の中にもにもKPOPファンがそこそこいた。日本のアイドルは世界展開する気も、する能力もないが、そこに成功している点は素直に凄い。国内市場の狭さ故なのだろうか。
大東亜共栄圏のような夢をアジア人ファンに見せている気がする。
日本にもダンスの上手い世界進出アイドルはいる。ハロプロだ。しかし、ハロプロはもう一般知名度はない。あそこにはドルオタしかいない。また、AKSも若い女の子ファンはそこそこおりファッション誌でモデルもやっているが、実際に金を出している層はおっさんである。おっさんから金をむしり取るビジネスとかした日本のアイドル文化より、かっこよくて可愛い韓国アイドル(という虚構)に若者が心惹かれる気持ちもわからなくはない。
KPOPファンの友人がいるので、なんとなく内情を把握してはいるが、実際に名前と顔が一致するアイドルはいない。KPOPファン、armyとかonesとか名乗ってる彼女らは独自の(韓国から発信されてくる)文化を受け取り、再発信している。「ハングルが可愛い」「韓国語はわからないが発音が可愛い」など難解なコンテキストの上でガラパコス化した可愛い文化を築いていて、まあ理解不能なんだが、凄いと思う。水を差す奴らがいないので、加熱されやすいのだろう。好きじゃない奴にとっては微塵も興味を持てない対象であるが、好きな奴にとっては神様、という分断を少し感じる。
若い子のトレンドはkpopっていうのが嘘で無くなってきていると思う。日本の文化のリバイバルが韓国の最先端と一致したのと、「かっこいい西洋」がアジア人賛歌への立ち還りによって「かっこいい韓国」への移り変わりが起こったのが上手く言ったのかなーと思う。
若者間でも左翼と右翼のように「kpopが好きで親韓の人々」「普通に日本のポップカルチャーが好きな保守的な人々」っていう分断が起きているのが、なんとなく怖いところだと思う。kpopファンはkpopファン同士固まるからそこでヒートアップしやすいのだよな。
個人的にはkpopファンは妄信的でうざいので嫌い。「日本文化sage、韓国文化age」が彼女らには根付いてて、ジャニオタなどとの軋轢を生んでいるところも頻繁に目にしてきた。
まあ政治には全く関係ないが、かつてセーラー服を着ていた頃に見てきて思ったことを書いてみた。田舎者なんでこれでも韓流オタク少ない方だったと思う。都会はみんなオルチャンメイクとか地獄かよ。椎木里佳みたいなのがインフルエンサーなんでしょ。きついっすわ。
やっても意味ないのがわかったのかな、あんなもんやったって効果は一時的だもん
僕もLinePay使っていたけど、スイカのほうがよっぽど簡単だし根付いている
電車に乗るときは必ず使うから、あらゆるキャッシュレスサービスはスイカには絶対にかなわない
どうすんだキャッシュレス?もうここまで投資したからには引けないよね!?
聞いたことあるキャッシュレスサービスでの利便性を向上させる施策って
飲食店で入店するまえに注文支払いしておき、店舗に着いたら商品を受け取るだけ
銀行振り込みだと払ってしまったら元に戻ってこないので、キャッシュレスはサービス会社が間に立って、一時預かりをする
入金機なしで気軽にカーシェア
あと他になにがある?