はてなキーワード: 動物園とは
増田に作品を放流すると、ただ殴りたいだけとしか思えないブクマが一定数必ず付く。
匿名相手にしか偉そうな顔をできないほど現実世界では隅へと追いやられているのだろう。
ところが当然こちらも匿名だ。
作品がいくらけなされようが、わたしの名前に傷がつくことはない。
こちらはこちらでガラスを一枚隔てた安全な場所からそんな彼らを眺めているのだ。
常日頃、動物園の動物達は檻の外にいる愉快な人間たちを観察できて羨ましいと思っていたが、増田の楽しさはまさにそれだ。
これからも手の届かぬ相手に向かっていくらでも殴りつづけるといい。
果たして動物園の檻は中の動物を守るためにあるのか、それとも見ている人間を守るためにあるのか考えたことはあるだろうか。
いつかインターネットの檻を越えてあなたの手がわたしに届くとき、それはつまりわたしの手もあなたに届く時だということを忘れてはならない。
いわば動物園の猿が人間の言葉を話し出して周囲の人間が驚いている程度のことなのに、本人たちは本気で語るだけの価値があるみたいな口ぶりなところが。
どんなに壮絶な過去があったり、あるいは逆に意外なほどビジネスに徹していたりしても、所詮は同じサル山の猿。
そういう自分語りもAV作品と同じ使い捨ての消費対象に過ぎないわけで。
あの元AV女優にして元日経記者の女性、まあまあ賢い人なんだからそれに気付いていないはずがないのに、
そういう寒いことをやってしまうあたり、やっぱり元AV女優の肩書では日経に出入りしにくかったから仕方なく辞めたんだろうな。
もっとアホな人気AV女優なんか、喜々として自分語りしてしまうところ、やっぱり一般人の感覚から逸脱している証拠なんだろう。
通勤の道すがら、いつも同じ時間に反対側に向かって歩いてくる女子中学生がいる。
力強い眼差しで真っ直ぐ前を見て、いつも少し早めの歩調を崩さずに歩く。
僕はもうすっかりおじさんで、彼女くらいの娘がいてもおかしくない年齢だ。
運動には気をつけているので歳の割には若く見られる方だが、彼女からすれば醜い生き物にしか見えないだろう。
彼女が中学生であることはその着ている制服でわかる。近くにある公立中学のものだからだ。
一見不機嫌そうな無表情で、前だけをみて歩いている。
顔立ちは今時のアイドルといった可愛らしさではなく、マニアックなシンガーソングライターのような大人びた雰囲気を持っている。
回りくどい言い方をしないのであれば、私が好んでやまなかったfra-foaという解散したロックバンドのヴォーカルにそっくりなのだ。
ただ顔立ちが似ているというだけではない。
彼女の視線や歩調から感じる意志の強さや、それでいて身にまとう儚げな空気感のようなものまでが生き写しといっていいほどだった。
僕が彼女の存在を意識するようになったのは、そのことに気付いてからだ。
間違っても間違いを起こす訳にはいかないし、そんな汚れた目で彼女のことを見ているつもりもない。
だから僕は、僕の存在が彼女の人生の汚点にならないように、彼女とすれ違う時はできるだけ彼女を意識していないように、彼女の印象に残らないように振舞っていたつもりだった。
そこは500mくらいの真っ直ぐな一本道で、僕はいつも左側を歩くのだが、彼女ははじめのうち向かって右側を歩いている。
そうしてその道を100mほど進むと、彼女は決まって左側に道路を渡ってくる。
彼女が右側から左側へと毎回渡ってくる理由は、彼女がその道に入るのに右に伸びる側道から入ってくるからで、その道を抜けた先にある学校は左に伸びる側道の先にあるからだ。
ただ、なぜか理由はわからないが、彼女はいつも決まって同じタイミングで道路を渡った。
長い一本道でなので、多少出発時間が前後しても大体どこかしらですれ違うことになる。
つまり、すれ違う場所によって、彼女は右側だったり左側だったりするのだ。
はじめは彼女を少しでもそばで感じたいという気持ちに負けて、彼女が左側を歩いている時にすれ違えるようにとタイミングを見計らったりしたこともあった。
しかしそんなことが続けばいらぬ疑いをもたれかねない。
そのために、むしろ早すぎたり遅すぎたりして彼女とすれ違わない日も作るようにもした。
彼女と同じ左側ですれ違える時は、正直に胸が高鳴ることを感じていた。
そんな自分が彼女にとっておぞましい存在であることは自覚しているつもりだった。
そんなことを半年ほど繰り返したある日のこと。
その日、彼女はまだ僕と反対側、道の右側を歩いていた。
いつものように彼女の存在を気づかないふりをしようと歩いていたのだが、距離が近づいてくるとふと違和感を覚えた。
彼女の顔がこちらに向けられているような気がしたのだ。
気のせいかもしれない。そう思い込みたいだけかもしれない。相手に見られてる気がするだなんてよくあることだ。
自分にそう言い聞かせようとしてみた。
しかし、あっけなく好奇心に負けた僕は、とうとう彼女のほうに視線を送ってしまった。
するとどうだろう。
驚いたことに僕の陰鬱で卑屈な視線は、彼女の真っ直ぐな視線と真正面から衝突を起こしたのだ。
彼女の記憶に、おぞましいものをおぞましいものとして残してしまったかもしれない。
それでもまだ感じる視線を払いのけるように、僕は前だけを見てひたすら歩き続けた。
次の日、昨日のことは何だったのか考えながら再び僕はまっすぐな道に差し掛かった。
すると、僕はいつもの様に真っ直ぐ前を見ながらこちらに向かってくる彼女を見つけた。
その時彼女はまだ道の右側を歩いていた。
そんな彼女の顔に何気なく視線を向けてみると、その視線はまたしても彼女の視線と真正面から衝突することになった。
僕はすぐに視線を逸らした。
まだ近いとは言えない距離にも関わらず、彼女の視線は間違いなく僕に向けられていたのだ。
もうすぐで彼女が左側に渡ってくるポイントに差し掛かった時のことだ。
僕は視線を動かさないようにしているつもりだったが、今度は彼女の方から僕の視線に入ってきたのだ。
そうして今度は明らかに、はっきりと彼女が僕を見ていることが分かった。
僕はできるだけ動揺をさとられないように、あたかも別のものに興味を示したかのようにして視線を泳がせるのが精一杯だった。
一体どういうことだろう。
誰かと勘違いしているのだろうか。
いくら冷静に理由を考えようとしても、彼女の真っ直ぐな視線に矢のように射抜かれてしまった心臓は落ち着きを取り戻せないままでいた。
その時、遠い昔に忘れていたような感覚が、どす黒く薄汚れた内臓をかき分けてこみ上げてくることが分かった。
自らのおぞましさを恐れずに言うなら、これは恋だ。
その言葉が僕の口から発せられることが、どれだけ気持ち悪いことなのかは承知しているつもりだ。
まぎれもなく目覚めてしまったのだ。僕の奥底で息絶えたはずの甘酸っぱくも苦々しい感情が。
とうの昔に、薄汚れた性欲によって噛み殺されたはずの純粋な気持ちがまだ僕の中に生きていたのだ。
勘違いだと思い込ませようとしながらも、好奇心に負けて彼女に視線を向ける度に、真っ直ぐな眼差しが僕を射抜いた。
彼女は何を思って僕のことを見ているのだろうか。
動物園の動物を見ているような感覚なのか、それとも万人に対し同じように興味を持ち合わせているのだろうか。
どちらにしても僕のようなこんな醜い生き物にしてみれば、彼女の存在も視線もあまりに眩しすぎるのは確かだ。
僕はとうとう堪え切れず、出発時間を大幅に早めることで彼女とはもうすれ違わないことを選択した。
誓って言えることは、彼女に対して性的な興味は一切持ち合わせていないということだ。
自分でも不思議と、いやらしい目で見ようと言う思いすら浮かばないのだ。
もし彼女と何がしたいのかと聞かれれば、僕はただ一緒の時間を楽しみたいと迷わずに答えるだろう。
夕暮れの土手に座って、ただ何もせず色を変えていく空をみあげているだけでいい。
二人の間を同じ風が通り過ぎていく切なさを噛みしめたいだけなのだ。
ただ、もし贅沢を言えるなら、せめて手だけはつなぎたい。
それ以上のことは一切望まないし、望もうとも思わない。
目の前にある美しさに、ただひれ伏して打ちのめされたいだけなのだ。
どうしてこんなにも醜くおぞましい生物に成り下がった僕から、こんなにも純粋で苦しい想いを成長は消し去ってくれなかったのだろうか。
彼女が近づくことも遠ざかることも、今の僕にとっては苦しみでしかないのだ。
色々なことに慣れ、無感動で欲望だけに突き動かされている獣と化している今の僕には、あまりにも耐え難い苦痛だ。
ただ、一つ理解して欲しいことはこれは僕の欠陥ではないということだ。
人間がもともと持っている欠陥に、僕は振り回されているだけなのだから。
会わない日が続けば、いつか必ずこの苦しみからは開放されるはずだ。
そう信じていた。
今朝、僕は大幅に寝坊をした。
彼女は進級したはずだし、もしかしたら中学を卒業してしまったかもしれない。
もしそうならば、僕はまた以前と同じ時間に出勤ができるし、彼女の視線から身を隠す生活を続ける必要ももうなくなるのだ。
そうしていつものように長い一本道に差し掛かると、僕の視線には道路の右側を歩いている見間違いようのない彼女が真っ先に飛び込んできた。
期待していなかったといえば嘘になる。
遠くから少しずつ近づいてくる彼女を、視線の芯に捉えないように、それでいて視線から外さないように注意深く追い続ける。
視線をさとられないように、それでいて不自然にならぬよう、僕は傘を前に傾けると少し顔を隠した。
歩調にあわせては時折上下する傘によって、お互いの顔は見え隠れを繰り返した。
前よりも少しほっそりと、色白になったように見えた気がした。
それによって、彼女が持つ儚げな雰囲気はより美しさを増したかのようだった。
しかし、そうしてすれ違おうという時だった。
突然牙を剥いた抑えていたはずの好奇心によって、僕の決意は湿気たクッキーよりも容易く噛み砕かれてしまった。
僕は傘を上げると、堪えきれずに彼女に視線を送り、今の姿を焼き付けようとした。
そして、それを待っていたかのように彼女の顔を隠している傘がふわりと跳ね上がった。
気付いた時にはすでに、透き通るような輝きの瞳から迷いなく向けられた真っ直ぐで力強い眼差しによって、しかもこれほどまでに間近かな距離から今だかつてないほどの強烈さで 、僕は脳天を射抜かれていたのだ。
一瞬の出来事だった。
彼女は何事もなかったかのように、いつも通り学校への道を急ぐ。
すでに遠く後ろを歩いている彼女には知られることはない。
というか、マッタク楽しくない。
合コンだの、友達たくさんだの、週に何回も飲み会だの、バーベキューだの旅行だの。
あれ?と言う感じ。
というのも、俺が持っていた「スクールカースト的?」な劣等感なんてなかった。
スクールカーストはあって、俺はそれが『うらやましいもの』と思い込んでたけど。
俺は多分、「なれない」んじゃなくて、「ならなかった」側だったんだわ。
勉強ばっかりしてたから。将来研究医になることしか興味なかったから、そもそも周りに興味なかった。
よく、ドラマとかで王子キャラが、「セバスチャン」的なノリで出てくるけど、あれがリアルだと思う奴はいない。
少女マンガの白馬の王子なんてのも、流石にリアルでいたらアホ。
なぜ信じてしまったのか。
それは、見た目がクソブサメンのチビデブハゲふけ顔だったから。
でもさ、関係ないんだよ。
女からしても男ってそういう動物園の動物なんだよなあ、リア充世界では。
漫画やドラマで見るような、「ウフフ、オホホ」なことは一切無い。
小学生がカードゲームや家でゲームやってる時のほうがよっぽどリア充。
キモオタがコミケで集団で同人買い占めてるけど、あっちのほうがよっぽどリア充。
カースト上位のリア充集団なんて、女は金持ちのペット、男はパズドラ並のクソゲーをやってる気分。
これは、せいぜいパズドラ程度しか楽しめない層のための、ゴミゲーなんだわ。
一方で、キモオタ集団やカードゲーマー、ラブライバーみたいなのが本当の面白さ。
こっちのほうがよっぽどリア充。
なんで、キモオタが馬鹿にされるって、結局女とやれるやれないの差だけ。
女は、結婚とか恋愛で脳みそが馬鹿になってるってか、カワイイとか雰囲気いいみたいなノリじゃないと楽しめないからパズドラばっかりやってるわけ。
女は、『ワンピース』みたいな、まったく戦略もしっかりしてないのにノリや仲間感で敵を倒せたりみたいな、ドキュンノリのファンタジー的なカワイイ系のりしかわからない。カワイイ系ノリで問題解決するわけがないんだけど、『ワンピース』では、カワイイ系ノリの絵で雰囲気だけで話が成立している。
リア充ってのは、そういうワンピースノリそのもの。馬鹿らしい。
一方で、キモオタはスグ文学に走る。文学なんて、学校の図書館でホコリまみれだったでしょ。誰も読まないけど、クッソ面白い。
結局、この程度のものなんだけど。
キモオタは文学的に考えちゃうから、「キモオタ視点のエロ漫画」とかになると、すぐリア充を『勝者、人生楽しんでる』と設定したがる。
二次元絵でメン球やおっぱいを巨大にかいてしまったり、体重を30キロ台に設定してしまうような、極端な抽象化をしてしまう。
ドストエフスキーが『地下室の手記』で劣等感まみれの男を書いたり、『賭博者』ってので女に貢ぐ男を書いたりと煽られたのもある。
とにかく、文学が言うんだし、エロ漫画も読みまくって刺激受けまくって。
「これぞ真実だろう、死ねよリア充。堕胎やいじめを産んでるクソ文化死ね。他人を犠牲にしてリア充とか本当に人間性ねーなバーカ」
と本気で思ってた。
しかし、当のリア充は、「精神的に貧困」な人達ばかりだ。特に女。こんなクソゲーに女はガチでやんないとだめなんだなとアホらしい。
男はこんなんを降りても余裕でキモオタ文化で楽しめるわけで、むしろキモオタ文化のほうが高度なわけだし。
う~ん。劣等感消えましたなあ。
キモオタ文化の抽象化された「リア充うらみ」をそのままトレースして遊んでいたんだなあ俺は。
好きだったアイドルがAV落ちしたときに泣きながらオナニーしてる奴がうらやましくって、そのアイドルがアイドルしてたときの動画を必死に漁りまくってファンだった設定で泣きながらオナニーしてるようなもの。
そして、その、最初の、「アイドルがAV落ちして悲しんでいるオタク」ってのを抽象化して、二次元キャラみたいに物凄い劣等感を抱かせて神格化して。そういう神格化された非実在キモオタをトレースして気持ちよくなってたんだなあ俺は。
猫(猫科含む)のアイコンの人ばかりをお気に入りに追加していったら、なんと400を超えました。
いやー驚きました。はてなに猫がこんなに生息していたとは…。
余談ですが以下雑記
・猫族が圧倒的に多い。
・犬族はそこそこいますが、猫族の半分以下
・ちらほら鳥族がいる
・牛、羊、鹿、馬族は少ない
・もっと少ないのが猿族
それにしても猫というのは本当にフォトジェニックですね。小さいアイコンでも丸みを帯びたフォルムとあの特徴的な二つの突起(耳ですよ!おぱいではない)でわかりますね。
たまに灰色の煙の写真を長毛種の灰色猫と見まがったり、テラコッタの茶色の床を茶虎と見まがったりしましたがね。。。
こんなに集めたのに1つとして同じ子いないんですよすごくないですか猫!
お気に入りの欄にずらりと猫写真が並ぶさまは大変よい。いつもニヤニヤしてる。
猫は良いですね。最高ですね。モフモフ!
*追記*
なんと499匹に達しました。柴さん合せて500人になった。
それでやっと気づいたんですけどお気に入りできるのは500ユーザーまでなんですね。
これはしまった。上限が500なんて知らんかった。
そういえば同じ写真の猫がいました。ギター持ってる子猫のコラのやつですね。これ同じ子2匹いました。
猫は顔立ち(目の位置)と丸顔で判断してることが多いのですが、フェレットが非常に似ていることがわかりました。
あと象がいないね。ほとんど見かけませんでした。2ユーザーくらいしかいない気配がします。
げっ歯類は身近なのかそこそこいますね。リスとかハムスターはよく見ました。
猫は良いですね。最高ですね。モフモフ!
君の卒業した小学校。世界一ではないにしろ、初恋の男の子や、楽しく喋った友達がいたんじゃないか?
君の卒業した学校の素晴らしさはスペックがすべてか?学力がすべてか?思い出やそこにしかない季節の事物。
あるいは、君が昔住んでた家でもいいよ。
たまたま生まれた町のたまたま生まれた学校といえを体験した自分って存在が特別じゃないか?
自分にとって自分が特別なように、他人も自分にとっての特別に思えるはずだけどな、スペックで視なきゃ。
確かに、東大卒ってスペックは面白いけど、そのスペックに恋なんてできない。
動物園で、「動物」っていう動物を見に行くようなものだろそれじゃ。
お金で何を買いたいじゃなく、「お金」がほしいとか言い出すのと同じ。
『ズートピア』はオーウェルの小説『動物農場』のディズニー流のアップデートである。舞台こそ農場という本来動物がいるであろう場所から都市、街に移されて、動物たちの文明化もはるかに進んでいる。また、田舎と都会という多層的な背景を採用し、人間社会の複雑さがさらに反映され、戯画化されている。戯画化で思い出したが、古くから動物を擬人化させて描かれた物語は数多くあり、日本でも代表的なのはその名の通り、『鳥獣戯画』であろう。その中でも『動物農場』がモチーフとされていると断定できるのは、こと権力の逆転が物語の節目として描かれているところだ。さらに、『動物農場』の結末が、「動物主義」という思想を掲げながら搾取的な社会構造が生み出されたのは、人間とほとんど見分けがつかない"2本足で立って歩く豚"であることを考えると、もはや『ズートピア』は『動物農場』の続編的な作品ではないのかと思えるほどだ。
しかし、私が主に取り上げたいのは『ズートピア』と『動物農場』の相違そのものではない。『動物農場』のアップデートであるなら、そもそも『動物農場』という作品が生み出された背景がそうであったように、『ズートピア』もまた同様に"子供向け"に戯画化されたものではない、ということだ。つまり、ある一定のディズニー並びにハリウッド作品を観る際にどうしても想起してしまう"勧善懲悪"とも呼ばれる単純な力関係に留まる作品として論じてしまうのは、この作品が描いている(我々が住む"先進国"社会に酷似した)社会形態のを、グロテスクなものとして描いているという事実を見落としてしまう、ということだ。
「グロテスク」が具体的にどういう性質を指してるかは後に詳しく取り上げるとして、まずは『動物農場』との相似を洗い出そう。『動物農場』では既存の権力の持ち主である人間を打倒しようと農場内の長老である豚が呼びかけた後、その長老と同じ種である豚が主導となり人間の打倒と、権力の奪取を果たす。権力の逆転が描かれた後、そこからさらにその権力が腐敗し、かつての権力の持ち主と酷似していく様を描いている。『ズートピア』でも同様に、権力の持ち主である肉食獣を追放し、草食獣が権力を得る。しかし、その後の社会様相の腐敗として描かれるのは、『動物農場』のそれとは違うものである。この肉食獣が追放される背景は、砂川秀樹が「男色は近代社会化以前には受容されていた」という言説に対する反論として、近代社会以前から否定的に捉える見方があったことを挙げ、それが近代化社会以降にゲイに対する「病理フレーム」が形成されたことの背景にあるという指摘していたケースと酷似している。すなわち、ズートピアという街にあてはめるなら、冒頭の子ども劇において近代化・文明化というものを"進んだもの"とする言説が背景にあるからこそ、その言説が暗に導き出す"野生"というスティグマが、肉食獣という属性に表象として充てられた、というわけだ。草食獣であり小動物であるジュデイが警察官を、肉食獣の子どもが税の査察官を目指すということを、それぞれの属性と"相反するもの"への志向(だからこそ"自由"や"可能性"の提示となる)として挙げられていること自体に、すでにこの世界を形成する言説の中に、後に肉食獣が「病理フレーム」の中に収められることを暗示している。
『ズートピア』と『動物農場』でそれぞれ権力の腐敗の在り方が違うのは、『ズートピア』が主題として据えているのは、差別が未だ存在する社会においての振る舞いであり、また、そうした社会と対峙することの難しさであるからだ。だが一方で『動物農場』と共通しているのは、たとえ既存の社会構造の不当な点を糾弾したものであったとしても、新たに権力に座する者が、特定の属性を以てして社会的地位を不当に貶めたり、あるいはその逆に持ちあげたりすること。つまり、権力の立場にあるものが、いち個体が否応なしに複合的にまとうあらゆる属性の中から任意の属性を持ち出したり、あるいは見出したりして、それを根拠に権力側の良いように用いることそのものが社会の腐敗を招く、と指摘している点にある。こうしたケースは今日の"先進国"社会においても行われている。そのあらゆるケースの中でも、創業者であるウォルト・ディズニーが、かつて「赤狩り」と呼ばれたハリウッドにおける排除運動に加担していたという記憶を持つディズニーにとっては、なおのこと無縁ではないだろう。なぜなら、その赤狩りこそ、『動物農場』が受容されたのと同じ背景の中で起きた現象なのだから。つまり、『動物農場』が、"反スターリニズム、反ソ連"として受容された時代のイデオロギーの中に回収された結果招いた、「赤狩り」という別の形での全体主義化を経た後の問題提起をする為、違った様相の社会の変化を描く必要があったのだ。では、その必要とはいったいどういう形のものなのか。
まず、そもそもの『ズートピア』(原題も"Zootopia")というタイトルから振り返ってみたい。誰もがその語感から、動物園("Zoo")とユートピア("Utopia")を連想するこのタイトルと、それが充てられた都市の姿や本編内で取り上げられている問題とを照らし合わせると、この名前が一種のミスリードを引き起こそうとしていることは誰の目にも明らかだろう。しかし、このユートピアに対するミスリードを行おう、という意図が製作者側にあることを考えると、一方でユートピア思想そのものを全く信じていないであろう、という可能性が高いものとして浮かび上がってくる。つまり、この作品世界はそもそも、主人公にとっての、あるいはそれに感情移入するであろう観客が考える様なユートピアを描こうという意図の下では成り立っていない、と考えることも決してできなくはない。では、それなら反対にディストピアを描こうとしていた、とするのもまた違うだろう。それこそオーウェルが『動物農場』の後に出したディストピア小説『1984年』で問題としているような、監視カメラシステムを駆使した管理社会は決してネガティヴなものとしては描かれていないし、作中で市長と並び権力の象徴として現れる警察だって、最後にはジュディに味方する。ズートピアに張り巡らされている権力構造が、一様に悪しきものに還元されるものとして描かれていないところを見ると、『映画クレヨンしんちゃん モーレツ!オトナ帝国の逆襲』において大人たちが夢中になる昭和の街並みのように、ユートピアを模したディストピアを描いている、とするのものまた違う。では何を志向していたかといえば、ただひたすら身も蓋も無く、我々"先進国"における社会の現在の姿を炙り出すことにこそ本作の力点がおかれていたのではないだろうか。
オーウェルが『動物農場』で描いたようにユートピアへの志向がある種のディストピアを生み出し、また『1984年』でディストピアは一方で誰かにとってのユートピアであることを描いてきたこと、さらに言えば今までのディズニー作品やハリウッド作品が数多く生み出してきた作品へ寄せられた批判を鑑みれば、主人公ないし観客のユートピアを描くことで何かの可能性を見出そうとする、虚構の作家なら誰もが夢見る境地との決別こそが、今のディズニーが走っている地点ではないか、とすら思える。だとするなら、管理化・全体化社会の兆しとして表象される監視カメラとの関係、後半で肉食獣と草食獣とが分断されてしまったと言われる前から存在する、小動物と大型動物との"棲み分け"をあからさまに感じる都市デザイン(マジョリティとマイノリティの形成はマクロでいうところの都市デザイン、ミクロでいうところの建築様式という、物理的な段階からすでに反映されている)、朝礼時には着席を強要しながら、大型動物に合わせて設計されてるが為に、ジュディが座ると署長の顔すら見えないサイズ感の机とイスが、ジュディが"認められた"後も変更は行われず、それどころかジュディとニックに同じイスを共有させること(1人分の席に2人が座らされているのである)や、かつてジュディに偏見としかいいようがない対応をしてきたことに対して何も悪びれもしなければ、むしろジュディに対して冗談を飛ばすほどの親密さを示してみせる警察署長の態度、そして何より権力に対して何も批判的な態度を持てそうにない警察という組織が持つホモソーシャルな性格をあけすけもなく描いているのは、それらに対して作品内で明確な批判が行われないということの薄気味悪さも含めて呈示しているのではないか。
だとするなら、本作が「子供向け」であるが為に、権力に対して批判的な態度を伴っていない、とするのは、少々早計ではないだろうか。確かに、ディズニーは子どもを含めた幅広い年齢層の支持によって成り立っている。しかし、その中には子供と呼ばれる低い年齢層の観客もいれば、それこそ子供の頃からディズニーに触れ続けた高齢の観客だっている。そうした状況の中で、こと任意の年齢層の観客だけ取り出し、それにのみフォーカスをあてようとするのは、作品がもつ性質を見誤ることに繋がるおそれがある。「子ども向け作品だからしょうがない」とするのは、すでに子供の在り方を規定づけるものでしかないのみでなく、未だ巨大資本によって子供たちが社会へ"馴致"されるべきだとすることへの別の形での肯定にも繋がる。しかし一方で、ディズニーが「子供向け作品」の地位に就いていることも、決して無視していいものではない。ならば、なぜディズニーはずっと「子供向け作品」であり続けたかを問わねばなるまい。結論から述べれば、それは「グロテスク」だからである。
これまで述べた「グロテスク」の定義は、マサキチトセが自身の論考のタイトルに用いた『排除と忘却に支えられたグロテスクな世間体政治としての米国主流「LGBT運動」と同性婚推進運動の欺瞞』 http://ja.gimmeaqueereye.org/entry/23399 に依っているところが少なからずある。しかし、ここで取り上げたい「グロテスク」については、美術的観点からのものである。どういうことかというと、ディズニーがアニメ製作者としての名前を不動のものにしてからずっと追及してきたのは、デザインと動きの"かわいさ"である。"かわいい"とされるものは、その多くが直線的なイメージではなく、曲線的なイメージによって、硬質なものではなく、柔軟なイメージによって構成される。これらの美学の根本を辿れば、動物や植物をあしらった、古代ローマの美術様式の一つである、グロテスク様式に辿り着く。ツイッター上で「モフモフ」と公式アカウントで形容された『ズートピア』を形成する美的様式は、根本からして「グロテスク」なものなのだ。この2つの「グロテスク」がピタリと重なり合うのは言うまでもなく、主人公ジュディの造形や仕草であり、冒頭に警察を夢見る彼女に暴行を働いたキツネ、ギデオンがウサギが(警察官を目指すに値しない)弱者たる徴として挙げた「鼻をヒクヒク」させる動きが、権力関係が決定的に転覆される場面の直前に配置されていることからもわかる。
「かわいい」は弱者の徴である。それ故に、その「かわいい」を極めたディズニーは、今日のアメリカを象徴し、公的な権力からも寵愛を受ける地位を築き上げた。つまり、『ズートピア』は、その地位を利用しつつ、現在のアメリカをはじめとする先進諸国の社会形態の描く"多様性"の脆さと「グロテスク」さを描くことと、またそのヒントや問題は、明白に誰かに取り上げられているわけでなくとも、世界のいたるところにある、この2つを描くことを目論んでいたのではないだろうか。その一例として、コロンビアの女性シンガーであるシャキーラ演じるポップスター・ガゼルのモデルとなっている動物であるブラックバックは、オスにしか角が生えていないこと。つまり、ガゼルはトランスジェンダーのポップスターであるということが、作品内で明確に言及こそほとんどされていないが造形として現れていることから見ても、決して拭い去れるものではないと私は思う。
上野に行ったら
「ゲイバー」
と書かれた大きな電光看板があって、
「うおっこんなにあけすけに商売してるのか!」
と思ったら
だった。
トラバで指摘された「男ビデオ高価買取り」も確認してみたらかなりでかかった。
何であんなに広いの。
結構綺麗で臭いも少ない他と比べてみたらどちらかと言うと臭う方だ。大便器の方はちょっと汚なかった。
まあおすすめ。なんたって広いし。
生まれも育ちも風習も違う人間が死ぬまで毎日一緒にいる生活を送るなんてーのは俺には無理なんだよ。
良かった事と言ったら親族縁者に家庭をもてるだけの男になったかと安心させられたことくらい。
果たして俺の人生はその縁者関係を満足させるために使い果す事になってしまったのか、
それとも自分勝手に自由気ままに生きていた方が人生謳歌できたんじゃないかと今更後戻りできないながらに考えるよ。
そもそも俺の場合は生まれて初めて付き合った彼女と喧嘩もしないまま3ヶ月で結婚してしまったもんだから、
お互いの意見をすり合わせるとか、お互いが実際にはどんな人間なのかとか、どこまで遠慮しているのかわかんないまま結婚したのが大失敗。
結婚してから半年で女房は妊娠して男の子が生まれたんだけど、やはり育児の方針が全然違いすぎる。
そもそも男3人兄弟の真ん中の俺と母子家庭の一人娘じゃ境遇が違いすぎる。痛感する。
ちょっとぐらい変なとこ舐めたり外に出て遊んだりしてもそうそう悪くはならねえよと考えている俺と、
時間通りにミルクをあげてちょっと床を触ったらすぐに除菌シートで手をふいたりしてるくらい神経質な女房とではそら毎日もめるわな。
それがお互いが「自分の行動は子どものためを思っているんだ」っていう正義感をふりかざすからたちが悪い。
でもさあ、ちょっと過剰じゃないの?
7ヶ月目にもなるのに動物園に連れて行きたいと言ったら感染症が怖いと言い、
祖父が急逝して俺の実家に連れ帰ったら兄夫婦が咳をしていたもんだから子どもに風邪が感染ったと言い、
ショッピングモールのベビーベッドは他の子がどんな使い方してるかわからないから不潔だと言い、
それお前どんだけ世間のことを信用してないのよ?いくら赤ちゃんとは言え過保護すぎやしないかい。
そもそもミルクと母乳なんだし、母乳飲んでる間は風邪をひきにくいと言われているこのタイミングを逃していつお出かけに行くのさ。
育児と家事が大変なのはわかるよ。だから俺も休みの日は積極的に散歩に連れてったり料理作ったり重いもの運んだりしてるじゃない。
それなのに「育児は24時間休みなしでやってる」「育児を甘く見すぎてるんじゃない?」って言われた日にはさ。
俺も育児以外の時間は会社で仕事をしているよ、わかっておくれよ。ここんとこ土日はどこにも行けず3人で食料品買出しに行っておしまいじゃない。非効率な。
そこまで言うならせめて最低限の家事はしてくれよ。
葬式で使ったスーツを平日の昼間にクリーニングに出せないかと頼んだら「子どもをだっこしながらスーツは重くて持てない」と言い、
じゃあせっかく買ったベビーカーを使ったらと聞いたら「この辺は車通りが激しくて怖くて無理」と言い、
それなら日中何しているのと聞けば「子どもが膝の上で3時間寝てしまって動けなかった」と言い、
起きてたら起きてたで寝返りうつから家事ができないってそれせっかくエルゴ買ったんだからおんぶしたらええやんけ!
そしたらおんぶは怖くてできないってなんだよそれ!
そしたら他の家のお母さんはどうやってるんでしょうね!みんなウチと同じかな!
でもこの辺でお母さん一人で赤ちゃんだっこしながら買い物してる人見るけどね!
それに休日俺が料理するのもさ、ぶっちゃけ君は料理するとき味見をしないからご飯がおいしくない事が多いんだ。
俺も早く結婚したいと言っていたクチではあるが、
やはり自分と相手の本性を受け容れられる人同士が結ばれるべきであって、
a. かわいそうに。車が思ったより速くて避けられなかったのかな。弱っていたのかな。もうちょっと気をつけて運転していればこんな事にならずに済んだかもしれないのに。のら猫っぽいけど、誰かお墓を作ってあげられるんだろうか。
b. 弱ってたのかもしれない。人も、疲れているときに事故を起こすものだ。すこし前まではやや元気がないなりに猫として日常を生きていたのが、ほんの一瞬のうちに遺体になってしまった。自分がもし事故にあって死ぬとしても、同じ過程をたどるのだろう。衝突のショックで意識を失い、骨や各部が損傷した痛みで気がつき、体の中の出血で完全に不可逆的に動けなくなる。意識がどうなるのかはわからないが、少なくとも外から見た生き物としての反応性が全てなくなり、しばらく硬直したあとで体が崩れていく。さっきの猫は、個体としてはもう死んでいたし、機能を保った臓器もたぶんない。細胞はどこか一部だけなら生きているかもしれないし、体に住まう細菌はたぶんまだ生きてる。これが死の過程。頭の中で、自分が死ぬときの演習をしているみたいだ。
外から見れば、そしてドライに言えば、個々の生き物の命にも実質的には替えが効く。誰かがいなくなっても同じ仕事をできる人は配置できるし、動物園であるライオンが死んでも新しいライオンが同じ役割を果たし、同じようにその日来た子どもたちはキャッキャと楽しんで帰っていく。ぱっと見たところは。でも、その1匹の生き物に近づけば近づくほど話は違う。隣の席にいた〇〇さんがいなくなるのは寂しいし、特有のしぐさでみんなの人気だった△△と同じことができるライオンはいない。大好きな歌手の代わりは誰にもできないし、ある友達に代われるひともいない。家族に代われるひともいない。自分は猫を飼ったことはないけど、猫の家族は、帰りを待っているのだろうか?猫の習性では、母子の関係以外では、誰がいなくなってもどうってことないのだろうか?それでも、猫社会の中で、この辺でよく鉢合わせした気に入らないアイツ、かわいいあの子、いなくなっちゃったな・・どうしてるのかな・・とは思うんじゃないかな。
あの猫の生涯はあそこで閉じたわけだけど、彼/彼女の死ぬ前に一瞬考える時間があったなら、自分の一生をどう感じるのだろう。やり遂げたと感じるのだろうか?やり遂げた/やり遂げてないって、猫なら何を基に感じるのだろう?メスと交尾した/産み育てた子猫が立派に大きくなった、おいしいものをたくさん食べた、居心地のよい住処を見つけて暮らした、よくご飯をくれるおじさんと仲良くなった、優しい飼い主に拾ってもらえた、嫌いなヤツと喧嘩して勝った、兄弟といっぱい遊んだ、触るだけでおもしろい草とたくさん遊んだ、、、、 人がよく生きたかどうか、ややこしい評価軸がいろいろ組み上がってるけど、正直に言えば結局のところ、猫と何が違うのか?同じだと言ってしまったら、人間の特別さ・"尊さ"みたいなものが薄まるんじゃないかと思ってるのかな。難しく言えばそうかもしれない。でも、猫と同じだとしても、自分は尊さが減るとはほとんど思わない。生き物としての楽しみや、生きることへの期待や希望を日々追求して、達成して失敗して喜んで悲しんで、、それだけでとても素敵だし、尊い。猫も尊い。ただ、自分が人間なので、人の尊さ、温かさや冷たさにひと回りふた回り敏感なだけ。と言って、蚊が体にとまったらこれからも叩くし、ゴキブリが出たらこれからも全力で追いかける。蚊とゴキブリの命が尊くないとは思わない。でもやっぱり嫌なものは排除してしたいことをする。それが生き物。みんな同じ。
エキスポシティにあるNIFRELに行ってきましたわ。去年新設されたおしゃれな水族館ですわ。
大きな水槽は少なかったけれどどれも綺麗な水槽ばかりでしたわ。
チンアナゴの砂が透明なやつでグヘヘ中まで丸見えだぜ~でしたわ。
生き物たちが放し飼いのコーナーがあって間近を歩く動物達にわたくし大興奮でしたわ!今考えるとあれは水族館じゃなくて動物園でしたわ。ペンギンもいらっしゃいましたけど区切られたところにいましたわ。ペリカンもいらっしゃいましたけど出ちゃうおじ様はいらっしゃいませんでしたわ。
スッポンモドキが産卵のときしか陸に上がらないのをすごいことのように書いてありましたわ。
鯖は産卵の時すら陸に上がりませんのに!鯖は産卵の時すら陸に上がりませんのに!
http://anond.hatelabo.jp/20160321120853
トラバで1期2期本放送当時の空気や、それ以前のにこの扱いについてツッコミをいただいたが、これについては今以て反論のエビデンスが見つからないので、ここでは否定しないことにします。
今回また筆を執ったのは、それでもなお熱心なファンが、先日のファイナルでドームを埋め尽くすほどのマスを何故獲得したか、思うところがあったからだ。
きっかけは、元のエントリを書いてからいよいよ続きが待ち遠しくなって、程なくしてDVDレンタルで2期をチェックし、その勢いで劇場版も再チェックしたところ、久しぶりに心動かされるインプレッションに直面したことである。
元エントリで、自分は「あれだけの人気が出たのが不思議で仕方がない」と書いたが、これは撤回せざるを得ない。
我ながらこんなふざけた掌返しは、いわば「北風と太陽」を味わってしまったからである。
それくらい、2期のクライマックス(9話以降)から劇場版に至るまでの盛り上がりは熱く、そして眩しかったのだ。
今までこんなにやる気・前向きの熱気に溢れ、眩しすぎるくらい眩しい作品があっただろうか。
そりゃ話の筋書きだけ見たら全くパーフェクトではない。
てか2期だって、8話までは基本ほぼ早送りで見てもいいくらい退屈だった。
それこそ「1期でヘマやらかして批判を受け、制作側が必要以上に萎縮した結果、2期は美少女動物園」という、ありがちな体たらくじゃん・・・正直ゲンナリしていた。
でも話が終わりに近づいた所で大きな軌道修正が入ったのだろうか、そこからが本当に凄かった。
上に書いたようなツッコミや、その他シニカルな見方(例えば「ずっと一緒にいると、お互いの考え分かっちゃうんだよね」とかホントか?と思わなくはなかったり)を軽く吹き飛ばすくらいの、超ポジティブ展開で畳み掛けてきやがったと。
勿論「この1期があったからこそ、2期があった」と思わせるようなニクい演出もキッチリ作ってきてたし。あと神田明神が痛絵馬だらけになる事まで見越した話も挟むとかもヤバい。
そして、その勢い冷めやらぬまま突入していく劇場版は、2期まで見た後だと全く違って見えた。
まさに一面パーッと花が咲いた感じというのだろうか、目を見開かされたのは間違いない。
そして、この目の回るような展開が、少なからぬ視聴者の心を捉えて離さなかった結果の大ブレイクだったのだと、確信した次第である。
「皆が一生懸命頑張って頑張って、そしたらどこまでも飛べる、そして花は咲き続ける」
という、素晴らしく力強く、明快直截で、そして純粋なものだった。
そもそも「どこまでも飛べる」と何か1つでいいから思えるメンタリティこそが青春なので、ある意味では青春の輝きを体現したアニメなのかも。
しかしそれにしても、中高生以上がコアターゲットのアニメで、こういうメッセージをここまで最前面に打ち出し、押し通した作品を自分は他に知らない。
もしかしたら、こういうラブライブ!のような直球勝負な作風がブームになるレベルでウケるくらい、アニメがカジュアル化したということだろうか。
てか、もしそれを見越して本企画を思いついたのなら、考えた奴は神だと思う。
「アニキャラでアイドルユニット作ってPVもどきの形でアニメにして、アニメと全く同じパフォーマンスを中の人がライブで披露する」
と、要するに
ことがオリジナリティの核という、とんでもないイロモノ企画だったわけで、実際
と当時は思ったものだ。
それがこんな化物コンテンツに成長したのだ。
恐ろしい。
恋愛に勇気を持てない男が、草食系になるパターンってあると思うんだよ。
で、なんとなーく、草食系って言葉があるから、俺は草食系なのかーって思ってたけど。
イヤイヤ。ちょっとまて。
本当に性欲が無くて、彼女作れるけど作らない奴が草食系なら、まあそれも戦略だろうってなるけど。
元々彼女いない歴どころか、頑張ってもできない俺みたいなのが、草食系なんだーってもう完全に終わってるじゃねーか。
これ単なる負け組じゃねーかw
でも、負け組が無気力になって諦めてるのは、ちょっと違うじゃん。絶食で自殺してるのに近い。即身仏系男子って感じか?
底辺高校とかだと、昔は不良化してたけど、最近では不良が少なくなって無気力系が増えてるらしいね。不良する体力すらなく、アニオタ、キモオタになるらしい。
高学歴だから、そういう奴らの意味が分からなくて、ちょっとでも勉強しろよって思ってたけど。
元の頭が悪いと努力すらしない。元の顔が悪いと努力すらしない。
草食系って、大学受験でいうと、コスパでマーチとかのウエイ系かねえ。
俺が底辺の無気力相手にどういうアドバイスをするだろうか。う~ん。学問の楽しみを少しだけでも味わってもらう?無理くさいな。
努力すればニッコマやマーチ狙える?そんな無責任なこと言えないなあ。不可能ではないだろうけどさあ。かなり厳しい。
じゃあ。目標下げて動物園大学に行くか?う~ん。。。そうだなあ。看護とか、専門学校とかそういう感じを進めるかなー。多少勉強の喜びとその後の社会生活コミで。
無気力底辺ニートになってドキュンにもなれずにフリーターにすらなれないよりは、そのほうがよっぽどマシだぞって。
じゃあ、俺はどうだ。恋愛。無理だろ。少なくともAVや二次元みたいなレベルは絶対無理だし、普通ちょい上の女(ニッコマ、マーチレベル)も無理だろ。
よっぽど子供の頃からガリガリ努力してればかなり馬鹿でもニッコマギリギリ目指せるかもしれないが、もう余りにも周りから遅れをとったし才能も相当ヤバイ。
う~ん。どうしましょう。う~ん。。。ドキュン(メンヘラとかの底辺女狙い)に移行できるかなあ。。厳しいよねえ。
看護、専門学校に該当するのって。あれかな。婚活パーティーでアラフォーくらいの後が無い女と子供ができるかどうかもわからない結婚とかかねえ。それすら難しいかな。
ゲー。どうしよ。
普通の性欲無いだけの草食系なら、マーチレベルの女と妥協しつつ多少努力した結婚とかなんだろうね。
俺みたいな即身仏系男子はどうなんだ。専門学校かねえ。それってまったくの無気力ニートよりかマシって言えるんだろうか??
わかんねえ。努力のしかたもわかんねえ。メンズノンノは違うんかなー。とりあえず服とかダイエットとかかね。身長と髪の無さはもう変えられないしなあ。
結婚して楽しいぞーwwwwww系の2chまとめを見てて違和感を感じた。
なぜ楽しいか説明がマッタク無い。子供かわいいとか、家に人が居て幸せとかだ。
多分、嘘は言ってないんだろうけど、なぜ楽しいかがマッタク説明されない。
だって、そういう奴が炎天下パチンコとかやってんだろ?脳タリンだから幸せだけを見れる。
俺はこういうのが実際理解できない。
というのも、多分俺に感性が無い。
俺みたいな奴は結構いるんじゃなかろうか。小中高大学とまったく人付き合いが面白くも無く、まったく学校生活が面白くなかった奴。
映画や漫画みたいな青春はジョークだとしても、その100分の1も面白くもない。友達とゲームだのしたこともなく。休み時間も一人で読書してたような奴。
そういう奴は多分もとから、理解する感性が無いんじゃなかろうかと思う。
で、俺は高学歴になってエリート職になってみて。8割くらいはまともな奴だけど、2割くらいは俺みたいな奴が居ることに気がついた。
いや、その8割って奴も半分くらいは「リア充的な感性を持っているフリ」している奴らだと思った。
皆頭がいいし心も根はいい奴ばかりで、なるほどこれが知的エリートの当然だよなって思うんだけど。
この人達がはたして小中高と楽しめたのか疑問だった。
高校は一応全国トップレベルの高校だったが、それでも一部のドラマとか見ない陰キャラとしか友達になれなかった。
正直、小中の頃のクラスメートは動物園の動物、もっと悪くいうと、障碍者学級に正常な人が突っ込まれた気分だった。
少なくとも日本社会はそういう中流から下流の層にマッチした社会が作られている。
高学歴には高学歴の社会があるが、世の本流はドキュン用、いわゆるマイルドヤンキーってやつか。そういう層に向けた社会だ。
俺みたいなダイブ知能の高い奴にとっては、動物園の管理みたいで生き辛い。
でも、世のボリューム層がマイルドヤンキーなら、マイルドヤンキーに都合のいい社会になっていく。
特に、女がドキュン大好きだから、ドキュンがいい女を若い内抱きまくって、ドキュンが繁栄する。
まるで、民族浄化(占領した国の女を妊娠させまくって民族を追い出す的な)みたいだ。
世の学歴社会に乗ってなんとか俺みたいな奴らはサバイバルしてるけど。
そうだよなあ。自然にとっては、俺みたいな馴染めない奴は不自然だから、なんらかの淘汰があるべきだわ。
俺みたいなのが世の大半になったら滅ぶわ人類。
これを代償する圧力って当然あるわけで。
それがドキュン圧なのかな。