2016-04-21

猫が轢かれていた

朝、自転車通勤通り道道路のわきで動かなくなっていた。

a. かわいそうに。車が思ったより速くて避けられなかったのかな。弱っていたのかな。もうちょっと気をつけて運転していればこんな事にならずに済んだかもしれないのに。のら猫っぽいけど、誰かお墓を作ってあげられるんだろうか。

b. 弱ってたのかもしれない。人も、疲れているとき事故を起こすものだ。すこし前まではやや元気がないなりに猫として日常を生きていたのが、ほんの一瞬のうちに遺体になってしまった。自分がもし事故にあって死ぬとしても、同じ過程をたどるのだろう。衝突のショックで意識を失い、骨や各部が損傷した痛みで気がつき、体の中の出血で完全に不可逆的に動けなくなる。意識がどうなるのかはわからないが、少なくとも外から見た生き物としての反応性が全てなくなり、しばらく硬直したあとで体が崩れていく。さっきの猫は、個体としてはもう死んでいたし、機能を保った臓器もたぶんない。細胞はどこか一部だけなら生きているかもしれないし、体に住まう細菌はたぶんまだ生きてる。これが死の過程。頭の中で、自分死ぬときの演習をしているみたいだ。

から見れば、そしてドライに言えば、個々の生き物の命にも実質的には替えが効く。誰かがいなくなっても同じ仕事をできる人は配置できるし、動物園であるライオンが死んでも新しいライオンが同じ役割を果たし、同じようにその日来た子どもたちはキャッキャと楽しんで帰っていく。ぱっと見たところは。でも、その1匹の生き物に近づけば近づくほど話は違う。隣の席にいた〇〇さんがいなくなるのは寂しいし、特有のしぐさでみんなの人気だった△△と同じことができるライオンはいない。大好きな歌手の代わりは誰にもできないし、ある友達に代われるひともいない。家族に代われるひともいない。自分は猫を飼ったことはないけど、猫の家族は、帰りを待っているのだろうか?猫の習性では、母子関係以外では、誰がいなくなってもどうってことないのだろうか?それでも、猫社会の中で、この辺でよく鉢合わせした気に入らないアイツ、かわいいの子、いなくなっちゃったな・・どうしてるのかな・・とは思うんじゃないかな。

あの猫の生涯はあそこで閉じたわけだけど、彼/彼女死ぬ前に一瞬考える時間があったなら、自分の一生をどう感じるのだろう。やり遂げたと感じるのだろうか?やり遂げた/やり遂げてないって、猫なら何を基に感じるのだろう?メスと交尾した/産み育てた子猫が立派に大きくなった、おいしいものをたくさん食べた、居心地のよい住処を見つけて暮らした、よくご飯をくれるおじさんと仲良くなった、優しい飼い主に拾ってもらえた、嫌いなヤツと喧嘩して勝った、兄弟といっぱい遊んだ、触るだけでおもしろい草とたくさん遊んだ、、、、 人がよく生きたかどうか、ややこしい評価軸がいろいろ組み上がってるけど、正直に言えば結局のところ、猫と何が違うのか?同じだと言ってしまったら、人間特別さ・"尊さ"みたいなものが薄まるんじゃないかと思ってるのかな。難しく言えばそうかもしれない。でも、猫と同じだとしても、自分は尊さが減るとはほとんど思わない。生き物としての楽しみや、生きることへの期待や希望を日々追求して、達成して失敗して喜んで悲しんで、、それだけでとても素敵だし、尊い。猫も尊い。ただ、自分人間なので、人の尊さ、温かさや冷たさにひと回りふた回り敏感なだけ。と言って、蚊が体にとまったらこからも叩くし、ゴキブリが出たらこからも全力で追いかける。蚊とゴキブリの命が尊くないとは思わない。でもやっぱり嫌なもの排除してしたいことをする。それが生き物。みんな同じ。

  • なんつーか、そーゆー無駄なこと考える余裕があってうらやましいわ ニートか哲学かぶれの暇な大学生かなんかかな

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