はてなキーワード: トロとは
フェミニストからキモオタは死ねと言われ、私はもちろんキモオタであるから激昂してクソフェミは死ねと言い返しかけて、そこでふと気がついて困惑した。
フェミニズムとは何だろうか。
私はフェミニズムを名前ぐらいしか知らない。しかし知らないものを知らないままにしておくことは、少なくとも私にとってキモオタらしからぬ行為である。私は自分に自信をもってキモオタでありたい。クソフェミに死ねと罵られるキモオタであることに誇りを持ちたい。ならばフェミニズムについて知らなければならない。
しかしフェミニズムについて知りたかったら何を読めばいいのか。これが意外と分からない。ロールズやセンを読めというのを見つけたので読んでみたが、やはりフェミニズムが分かった気になれない。
そこで手当たり次第に適当にフェミニズムの書籍を読んでまとめみることにした結果が本稿である。決して十全ではないが、私同様、フェミニズムをよく知らないオタク諸姉諸兄にとって、フェミニズムの理解の取っ掛かりになれば幸いである。
フェミニズムは大きく三種類ある。ラディカル・フェミニズム(以下ラディフェミ)、リベラル・フェミニズム(以下リベフェミ)、そしてマルクス主義フェミニズム(以下マルフェミ)であり、それぞれ理論の組み立ては全く異なる。以下順に見ていこう。
現在のラディフェミの理論的支柱はキャサリン・マッキノンと言っていいだろう。「性の不平等の源はミソジニー(女嫌い)」であり、「ミソジニーの源は性的サディズムにある」(C.マッキノン,"フェミニズムと表現の自由",1987,*1)。そして社会に溢れるポルノグラフィ(以下ポルノ)こそが「性差別主義者の社会秩序の精髄であり、その本質をなす社会的行為」(*1)に他ならないと喝破する。この諸悪の根源はポルノであるという揺るぎない確信から、ポルノの法規制を推進する。
ポルノが性犯罪を誘発するという統計的な証拠はあるのか。この批判に、しかしマッキノンは自覚的である。誘発するという調査もあり、無いという調査もあると率直に認める。従って彼女が起草した反ポルノ法は「被害をもたらすことが証明されうる物だけが告発できる」(C.マッキノン&A.ドウォーキン,"ポルノグラフィと性差別",1997,*2)。「証明されるべき被害は、強制行為、暴行脅迫、名誉毀損、性にもとづいて従属させる物の取引といった被害でなければなら」(*2)ず、不快に感じた、宗教上の信念を侵しているといった被害は認められない。被害者ではない第三者が告発することも認められない。
ポルノには、ホモもレズも二次元も、古典文学から芸術作品まで被害をもたらすことが証明される限り全て含まれる。自分が叩きやすいゲームやマンガだけを槍玉にあげて、自分が叩かれやすい文学や芸術から目を背けるチキンではない。殴るからには全て殴る。それがマッキノンである。
なお、田嶋陽子はラディフェミを名乗りドウォーキンへの共感を示しているが、ポルノを諸悪の根源とはせず、現実的政策としてはリベフェミに近い内容を述べているため注意されたい("愛という名の支配",1992)。
J.ロールズの「公正としての正義」やA.センの「不平等の再検討」をその理論的土台とし、リベフェミは次の点を問題視する。「ジェンダーシステムは、その根を家族における性別役割にもち、事実上わたしたちの生活の隅々まで枝葉をはびこらせた、社会の基礎的構造のひとつ」(S.オーキン,"正義・ジェンダー・家族",1989,*3)であり、「女性と男性の重要な差異が、家族内で現在おこなわれている性別分業によって作られる」(*3)。
夫婦がともに働いている姿を子供に見せることが教育上望ましいと考え、そして共働きにおいて妻にだけ家事育児が押し付けられることは不平等であり、二人で平等に分担するべきであるとする。もし専業主婦なら、夫の稼ぎは夫婦二人で稼いだものとして両者で均等に等分すべきだとオーキンは言う。
このように家庭内の賃金、労働の不平等の解消によって性差別の無い社会が構築されるとする考えから、リベフェミは女性の社会進出を推奨し、出産休暇や託児所の拡充、男性の育児休暇取得を推進する。また「子どもたちがなりたい人間になる機会」(*3)を拡大するため――その機会を無知ゆえに狭めないために、性教育の重要性を訴える。
なお、「男性を敵視し憎む分派は消滅するだろう」(B.フリーダン,"新しい女性の創造",1965)が示すように、フェミニズムを男性と女性の権力闘争化することに否定的立場をとる。
出産を含む女性の家事育児は明白な労働行為である。にも関わらず男性社会はそれに一切の支払いをしてこなかった。ゆえに女性とは搾取されるプロレタリアートであり、その意味で男性とはブルジョワジーである。女性の抑圧は、資本制と家父長制の構造上必然的に生じたものであると喝破し、資本制・家父長制の打倒を訴え、そしてこれが日本の伝統的フェミニズムである。
女性の社会進出に関してはリベフェミの主張とほぼ同一だが、フェミニズムの主要な敵は男性であると断じ、マルフェミでは家事育児という労働に対する賃金の支払いを請求する(上野千鶴子,"家父長制と資本制 マルクス主義フェミニズムの地平",1990,*4)点で異なる。ただし誰に請求しているのか、また家父長制を崩壊させるために「資本制との新しい調停」を、というが、それが共産制かというとそれも曖昧で判然としない。
日本ではさらにそこに独自の思想が入り交ざる。例えば男女混合名簿の推進は「日の丸・君が代をシンボルとする儀式を撃ちくずす」(河合真由美,"「男が先」を否定することでみえてくるもの――学校の中での性差別と男女混合名簿",1991)から良いのだ等、目的が何なのか、いささか混沌としている向きも見受けられる。
レズビアン・フェミニズム、ブラック・フェミニズム、エコロジカル・フェミニズム、ポストモダン・フェミニズムなど多岐にわたる。マルクス主義フェミニズムの派生であるサイボーグ・フェミニズム(D.ハラウェイ,"サイボーグ宣言",1985)は読むとつまらないがネタとしては面白い。あとキワモノで言えばスピリチュアル・フェミニズムとか。
同性愛者とフェミニストの関係は、従来男性権力社会に対する「敵の敵は味方」関係に過ぎなかった。そこで登場したのが「フェミニズムと、ジェンダーに関するゲイ/レズビアンの視点と、ポスト構造主義の理論を、政治的にひとつに纏め」(J.バトラー,"ジェンダートラブル",1990)たクィア理論である。これにより統一戦線を理論的に張ることが出来るようになった。
リベフェミは広範な男性差別は否定するが、アファーマティブ・アクションでの男性差別は肯定する。ラディフェミは男性敵視の姿勢を持つが、しかしマッキノンは男性だけが徴兵されることは男性差別だとして否定する。「平等とは、ジェンダーの違いではなく、ジェンダーヒエラルキーを問題にし、その根絶をめざすものである」(*1)からである。マルフェミはよくわからなかった。女性兵士に反対しているので、男性差別は肯定されるのかもしれない。
セクハラ、家庭内暴力、中絶、女性兵士等色々あるが、本稿ではオタク、わけてもアニメオタクと関係の深い「性の商品化」について取り上げる。
マッキノンは、猥褻として過去に規制された、まさに「性の商品化」であるユリシーズ(J.ジョイス,1922)について「ポルノではない」と述べる(*2)。現実の被害が証明されていないからである。「性の商品化」は法規制の理由にならない。
リベフェミであるN.ストロッセンは「子供や妻への虐待、強姦、日常的な女性への屈辱行為などを正当化する内容が詳細に述べられている」書籍として聖書をあげ、「禁止されない安全な思想などほとんど存在しない」("ポルノグラフィ防衛論",2000)とする。そして性教育がかつて猥褻として政府に規制された例を上げ、ポルノ禁止法は政府の検閲に利用されると強く批判する。
一方、上野は「性の商品化」だとしてミスコン廃止を訴えるフェミニストについて、彼女らは「法的取り締まりを要求したわけではなく、受け手として「不愉快」だという意思表示の権利の行使」であると言う。そして「性の商品化」は「メディアのなかでも、なんらかの基準がつくられる必要がある("「セクシュアリティ」の近代を超えて",新編日本のフェミニズム6,2009)」とする。
ここから見えてくる点として、女性が「不愉快」であることが問題なのだということが分かる。「性の商品化」とは何か、それに実害があるかは、おそらく最終的にはどうでもいいのである。さらに求めているのは自主規制であって法規制ではない。自主規制によって発言者は自ら口をつぐむのだから、表現の自由は全く関係のない話である。
リベフェミであるマーサ・ヌスバウムは嫌悪感を根拠とした法規制を徹底して批判し、ゾーニングの妥当性を論じるが("感情と法",2004)、マルフェミである永田えり子は「ポルノ市場が成立すれば、必然的にポルノは市場の外部に流出する。そして流出すると不快に感じる人がいる」("道徳派フェミニスト宣言",1997)としてゾーニングは効果がないと批判する。
ポルノは「人々に広く不快を甘受させているかもしれない。そして事実不快だという人がいる。ならば、それは公害である」。「性の商品化は多くの人々に対して、確実に何らかの不快や怒りを与えるはず」であるがゆえに規制されるべきだと主張する。
そのような不快感を根拠とした規制は恣意的な運用がなされるという批判は当たらない。曖昧な法は他にもあるが、現に警察と司法は正しく運用しているからである。性道徳に根拠が無いという批判も当たらない。「根拠がないということがすなわち不当であるわけではな」く、それは「正しいから正しい」のである。
なお、福島瑞穂は非実在児童のポルノ規制は法的安定性が保証されないとして反対しており、この永田の見解がマルフェミの共通見解でないことは述べておく。が、例えば児童ポルノの法規制に対して日本ユニセフ協会広報室長の中井裕真から司法は正しく運用してくれる旨の見解が述べられており(永山薫・昼間たかし,"マンガ論争勃発2",2009)、これがフェミニストの通説でないことは明らかだが、一定数存在する見解であるように思われる。
初期の日本のフェミニズムには「反主知性主義」があり、「女性であれば(女性としての経験をもってさえいれば)誰でも女性学の担い手になれること、専門的なジャーゴンや注の使用を避け」、「プロとアマの距離をできるだけ近づけること」が目指されたと上野は述べている("女性学の制度化をめぐって",2001)。
こうした取り組みで女性が声をあげられる空気を作り出すことに成功したが、結果としてフェミニズムは「一人一派」と化した。筆者の私見に過ぎないが、これは同時にフェミニズムと「私」の区別を曖昧なままにしたのではないか。
「私」とフェミニズムが一体化しているとすれば、「私」が不愉快ならフェミニズム上も不公正に決まっている。それが従来のフェミニズム理論と矛盾していたり整合性が取れなくとも関係ない。「「オンナ対オトコ!」なんて言ってるフェミなんて、いないのになぁ」(北原みのり,"フェミの嫌われ方",2000)が示す通り、従来の理論について知識も興味もないフェミニストは珍しくない。知らなければ(当人の中で)矛盾はしない。
「理論を欠いた思想は、しばしば信念や信仰へと還元されてしまいがちである」(*4)と上野は言う。そのような啓蒙主義者にとって「真理はつねに単純である。(中略)真理を受け容れることのできない人々は(中略)真理の力で救済することができなければ、力の論理で封じるほかはない」。そうして治安警察国家を招き寄せる人々は「反主知主義の闇の中に閉ざされる」。
これは実は上野によるリベフェミへの批判なのだが、筆者にはリベフェミではないところに突き刺さっているように思えてならない。
このようにフェミニズムは一言で言い表せるような概念ではもはやない。日本の初期フェミニズムはマルフェミが中心であったが、現代日本のフェミニストは必ずしもそうではないだろう(例えば堀田碧は"「男女共同参画」と「日の丸」フェミニズムの危うい関係"で一部の若いフェミニストの愛国心に苦言を呈している)。
最後になるが、フェミニズムはクソだという見解に私は全く同意しない。職場で上司が女性社員の尻を撫でることは強制わいせつ以外の何物でもないし、家庭内暴力は夫婦喧嘩ではなく傷害である。どれだけ成果を上げようが性別を理由に賃金を低く抑え、出世コースから排除するといった制度の是正にフェミニズムが尽力したことを、私は決してクソだとは思わない。
私がクソだと思うのは、……まぁ、書かなくても察してもらえるかと思う。
いささか長い増田になった。この程度の調査力でキモオタとかw という批判は甘んじて受けるしか無いが、とはいえもし誰かの理解の役に立ったのならそれに勝るものはない。
そして無能な人間は社会になんて出ずに引きこもっていたほうがいいとも思っていた。
流石に親が痺れを切らしてきたので仕事を探している振りを演出するために職業訓練を受けることにした。
これで半年か上手くやれば1年ぐらいは誤魔化せるだろうと思っていた。
そうして無気力なままで職業訓練を受けていて思ったのだが、自分は確かに失敗も多いし動作もトロい所があったけど社会で仕事を得てはいけない程に無能ではなかったと気づいた。
よくよく考えて見れば大学時代に小銭欲しさで多少のバイトはしていたし、そこでも失敗して怒られることはあったがその量も人並みの範疇から逸脱しているとまでは言えない程度だった。
そこでようやく気づいた。
俺は人から否定されたり、人に迷惑をかけたという申し訳無さで自分自身を精神的に痛めつけようとしたりするのが嫌で、自分は働くに値するほどの無能なんだと思い込んでいただけなのかも知れないと。
自分に都合がいい世界を作るという行為は自分の有能さを信じる人間にだけ起こるものだという思い込みがあったがそれは間違いだった。
やらない言い訳を探すために自分の無能さを信じたくてたまらなくなった人間もまた、自分に都合がいい、自分が救いようがないほどに無能でどうせ誰も必要としないという設定の世界を頭のなかに作り出していたのだ。
思えば世の中には自分が世界で特別不幸だと思って悲劇の主役を気取る人がいる。
それと同じことが自分に起きていたのだ。
まあ確かに自分は多少ノロい所はある。
だけど頭が全く働かないわけではないし人との会話が成立しないわけではない。
社会に自分から居場所を求めて真剣に動けばまだ真っ当な席がいくつか空いている程度の人間だった。
そこに気づくのが早くてよかった。
もっと遅れていたら取り返しがつかなかっただろう。
失敗することへの恐怖から、最初からやらない言い訳として、自分の無能を信じようと必死になってしまう事があるなんて心とはなんとも不思議なものだ。
俺38サラリーマン 嫁32主婦 結婚6年目 子供4歳と1歳。
離婚になるかもしらん。
離婚したいかといえば、したくない。でも現状がつらいからそうなったらそうなったでもいいかと思ってる。
直接のきっかけはSNSで俺が嫁への愚痴を書いていたのが、実はばれてたこと。
一回目は三か月前。
で、今回、まだ見てるかな、まぁいいやと愚痴書いたら、やっぱり爆発した。
根本原因は、なんだろう、すれ違いかな。
嫁はあれこれしてほしい、それを察して自発的にやってほしい。
家事育児などやってるけど、どれもトロくさい(言われたまま)。
トロくさいとか言われても、専業主婦より家事の手際が悪いのは仕方ないだろ。
と平行線。実際、俺の家事手際悪いのはあるし、子供と遊びに行って
子供が転んで怪我したり、目を離したすきに見失ったことはあるので、
確かに嫁からしたら心細いかもしれん。そこは確かに俺が悪い。
反省して直す。
細心の注意払ってるからのろくなるところもあるし、
それも指示もなく、常識で考えればわかるでしょ、前も言ったでしょ
さえやめてもらえれば、もっとできると思うが。
まぁ愚痴だわな。
子供はかわいいし、嫁も愛してるし(夜の生活はもう半年以上ないけど)。
できれば離婚したくないけど、妻の言うようにすべてを察せなんて無理だし
そのたびにキれられるのもつらい。
言ってもらえれば、出来る限りやるのに。
嫁がインフルのときも、会社休んで、半休とって頑張ったじゃないか。
同窓会のときだって子供の世話はできたし、出かけたいなら言えば子供の面倒みるって。
家事だって、こうせよといえと。説明されてないルールだらけの家庭で、そのたびキれられてつらい。
もう離婚でもいいか、もう、って感じ。はぁ。
「醤油というものは、いわゆるソースと比べると塩分が多すぎる。
魚の種類、厚みによって、醤油をつける量にかなり繊細な加減が必要。
刺身にどのくらいつけるかまでが料理であって、料理人だけでなくお客もまた料理人。
某漫画のように、わさびを醤油にといちゃいけないとか、淡白な魚から食べるみたいな正解はない。
たっぷりわさびを溶いて、たっぷり醤油につけたほうがいいものもあるし、トロの脂の溶け出した醤油をつけて食べるイカなんかもまた美味い。
刺身の食べ方は、一生かけて学ぶものであり、その過程も楽しい。」
いろんな種類の魚、大きさの揃わない切り身の端切れ。
ポストでシュートを打ったらしいが、どうやらペナルティをもらったらしい。
まあそういう感じだろうなとは思ってた。
ペナルティ終わった後ディフェンスに戻ってきたあと、俺は敵正45のディフェンスにいて、小倉唯は敵正サイドのDFの位置にいた
ということはさっき小倉唯がポストにいたのは、サイドがダブルポストに入るフォーメーションだったんだなと思った
そんで敵がボールぽろっと落として俺がソレ拾ったのを小倉唯がポカーンと見てた気がする
ぶっちゃけ小倉唯をそこまで好きなわけでもないのになんで出てきたかってのを考えると、前日夜に小倉優子の家に侵入者がきたっていうニュースを見たのがでかかったと思う
あと最近アニソンライブの録画を見る中で小倉唯も出てきたからってのも少しあると思う
閑話休題。
んで二度寝三度寝する中で見たのは、なんかスライム状の敵とバスの中で戦うようなシチュエーション。
それも何度も繰り返して、ようやく本体がスライムだってわかった状態。
思議」1巻
★★★★☆
面白かった。
いろいろと普段の苦労が垣間見られた。
いやほんとめちゃくちゃ気を遣ってるのが読んでてわかるのよ。
基本的にネガティブなことはあまり言わないようにしてたりとかね。
読んでて嫌な気分にさせられることはまずないから。
そんじょそこらの日本人よりもよっぽど気遣いができててすごいよこの人。
メジャーな国とのカルチャーショック的マンガはこれまで結構あったけど、
スウェーデンってのはなかなかなかったと思う。
ただ下品なネタ(数はめっちゃ少ないけど)がいきなり出てくるからそこに抵抗感持つ人はいるかも。
いやほんとちょっぴりだけで無視できる程度だけど。
あといいと思ったのはブログのマンガとコメントをまとめただけじゃなくて、写真がたくさん掲載されてて実際の様子も合わせて見れたところ。
やっぱブログのマンガを本にするっつったときに一番大事なのはプラスアルファだと思うし。
コメントの顔のイラストも数種類あるとよかったんじゃないかなと。
全部ニコニコ顔でいろんなこと言ってるから、パッと見のニュアンスがわからない。
あとはこういう書籍化にありがちだけど、1ページ1つの4コマしか載ってない薄さね。
いや、ちょっと前までウチにはウォシュレットなかったわけですよ。うんこなんてちゃんと紙でフキフキしていた訳やったです。フキフキ。
巷に名を聞くウォシュレットなるものってのは、ほら何かブルジョワ?っていうの?黒猫を持ったワインを飲むような高貴な方(例・フリーザ様)が「アラ、紙でおうんこを拭くなんてお下品ね」って言いながら華麗に尻を綺麗にしていく魔法アイテムっていう勝手なイメージを持ってたもんで、私みたいな下級アナルには上品すぎる代物だなんて思ってたのです。
ヤマダ行ったら3万円でした。
えっ、こんなもんなの?10~20万円くらいするかと思ってたわ。アナルの価格破壊やでこれ。
地球に送られた下級アナルだけど、ベジータ倒せるじゃん。ちょうどボーナス入って潤っていた頃だったもんで速攻買いました。
それからというもの、もうウハウハ。来る日も来る日もウォシュレットと共に過ごす幸せな日々を過ごしました。こんにちは、アナル貴族です。
ほんで、昨夜銭湯に行ったんです。ホワーッといい気分になって、なんかアナルかゆいなーって思いながらアナルをかいたんです。
なんやこの子、軟弱になりよって!お口に入れたらとろけてしまいそうなトロアナルが出来上がってたんです。
文字通りぬるま湯に浸かってたウチの子はすっかりトロットロになってました。
そんなことはない、って思いながらもアナルいじってみるんですけど、やっぱりトロットロ。
生きるか死ぬか、頬に傷を持ったような昔みたいなサバイバルアナル違うんです、奥さん。
いつしか私の眼は涙を浮かべておりました。アナル貴族って何やったんや・・・って思いながら。
穢れを知らない素朴な娘が、都会に出て女になって帰って来たみたいな親の気持ち。
母ちゃん、そんな子に育てたことあらへんで!って。
今朝検問やってて、
んもー、とか思いながら、
まあ、さすがになにも引っかかったりはしないんだけど、
昔のことを思い出したわ。
そのとき、ワイルド・スピードMEGA MAXにハマってたのもあり、
試しに使ってみよう!って坂道でニトロ使ったらスピード違反で捕まったくらいかな。
効果は抜群よ。
車の運転は好きだから、
楽しく乗るんだけど、
そういや、モーターショーの開幕らしいわね。
自動運転がもてはやされる中、
実際実用になったらなったで便利なんだろうね。
こんな、ガチガチの電子的な車は乗ってもつまらないかと思ってたの、
でも、リアルタイムで充電の状況が見れたりして
電気が貯まってる!貯まってる!って
ストレッチパワー級に、
それはそれで面白かったわ。
いかに低燃費で超長距離を走れるか、って言うそういう楽しみって言うか。
ニトロ水といきたいところだけど、
ニトロってどこで売ってるのかしら?
そもそもニトロってなによ?
ロボビタンA的な。
すいすいすいようび~
今日も頑張ろう!
ブレイク必至と煽りつつ、札幌のローカルな流行りに終わったスープカレー。
今にして思うと、その頃のスープカレーは店によってあまりにもバラバラで、スープカレーを定義づけることが出来なかったのが札幌の外に発信することが出来なかった理由のように思う。
幾つかのブログや掲示板に、「すげー美味いから食ってみろ!」みたいな書き込みがあったが、それらのどれもが、どういう味かを語れなかった。
そもそも、スープカレーとはから語らないといけないのだが、スープカレーがどんな食べ物かが誰もわからなかった。
たとえばラーメンを語る場合、そもそもラーメンという共通認識があり、醤油、みそ、塩、という味のジャンルもはっきりとしている。
カレーという言葉から、普通のカレーを、時にインドカレーやタイカレーを想像してしまうので、スープカレーというジャンルのトマトベースでこういう味といっても、文章で相手に伝えることは困難であった。
そんなこんなで約10年の月日が流れて今にいたるわけだが、その間にそこそこの数の店が東京進出を果たし、大衆に合う味を追い求め、ようやくスープカレーとはなにかが固まってきた感じがある。
ブームにはならなかったのは残念であるが、ようやく一つのジャンルになれた。
ここで、僕もやっとスープカレーについて語ってみようと思う。
カレーとは似つかない。エスニックで辛いポトフという表現が最も近い。
敢えて近い香りを選べばカレーのような香りというだけに過ぎない。
具がゴロゴロしていて、おかずにもなるスープというものを想像すれば正しい。
かつて札幌でブームになっていたころは、スープのベースとなるのは鶏ガラをベースにしたもの、魚介ベース、等々いろいろと個性豊かであったが、今日では豚骨と鶏ガラと香味野菜というありきたりな組み合わせが主流になっている。
ウェイパーほど中華っぽくなく、味の素のコンソメよりはパンチが強い、そんな感じのスープを想像していただきたい。
ここに、トマトとニンニクと唐辛子をつっこめば、香り以外はほぼ完成だ。
小麦粉は使わないのでトロミはないが、豚骨あるいは鶏ガラのコラーゲンで乳化している場合が多い。
後述するが、スープカレーの客単価は低くなってきている気がするが、それはスープの改良、低コストで大衆の舌に合うスープの方程式が確立したことと無関係ではないと思う。
通常のカレーのスパイスは、辛味のほとんどがチリペッパー由来で、残りのスパイスが香りと味を決定している。
そして、そのほとんどがターメリック、クミン、コリアンダーの3種類で決定され、残りのスパイスは隠し味のような感じだ。
チリペッパーを加えた4種類で、カレー粉の9割は出来上がっている。
スープカレーの特徴は、このなかのターメリックがほとんど入らないことだ。
油と小麦粉がたっぷりのルー仕立てでは、ご飯によく合うのだが、スープとして味わうときには、泥臭さが全面に出すぎる。
そんなわけで、スープカレーのビジュアルは黄色みが少なく、赤に近い。
普通のカレーには入らずに、スープカレーにはほとんど入ってくるスパイスとして、焦がしバジルが特徴的である。スパイスと言っていいか微妙だが。
ポトフやおでんのように、スープと具が一つの鍋に泳いでいるわけではなく、スープだけ寸胴からとりわけ、具は別に用意する店がほとんどである。
肉系(チキンレッグ、ラム、豚バラ)等は固まりのまま煮込んだものをスープに乗せる。
茄子、ピーマン、カボチャは素揚げが多く、ニンジン、ブロッコリーは茹でたものが具となる。
ジャガイモは素揚げの場合もあるし、茹でたものという場合もある。
オクラやレンコンなどが入る場合が多いのもスープカレーの特徴か。
当初に比べて値段設定は安くなってきている。
物価設定、とくに食物においては安い北海道において、1300円くらいの強気の設定をしていたが、東京に進出しても値段据え置き、あるいは低価格化の印象。
それに伴い、一食の量も減った感じはある。
具材も巨大なものがゴロンゴロンというのが売りだったが、食べやすくこじんまりとした。
下北沢のマジックスパイスは、いまだに強烈な個性を保っている。
スープカレーですらないマジックスパイスという食べ物としか説明がつかない。
男だけど、筋トレしつつ15kgほど頑張って痩せたら女性からの反応があからさまに変わったよ。
以前だとすれ違いざまに気づかれずよくぶつかりそうになってたけど、今は絶対にそういうことがなくなった。
仕事とかでも相手に早く気づいてもらえるからどうやって話しかけようかとかっていうのも迷うこともなくなって仕事自体スムーズに進むようになったし。
太っててトロかったとかじゃなく、おそらく単純に認知されやすくなってるのだと思う。
人って常に視界に入った情報を取捨選択しているのだと思うのだけど、捨てられにくくなったって感じなのかな。
ところが男性に対して認知されやすが変わったって印象はないんだよね。
“恋愛の機微で感情を持ってやるべきだってのも分かるけど、それでは男は女と付き合えない。女なら股をひらけば男をゲットできるが、男は50人に声をかけて1人と付き合えるかどうか。”…あ、割りとわかる
そこまですべきかどうか、気持ちいいかどうかは別として、女の人には「男を足切りしちゃう人(きもちわるいと感じたら即切り。一切の検討もしない)」がけっこうな割合でいて、それさえなくせば形だけでも付き合える人はけっこういるのよね…。男の場合は値踏みと確率があんまり一致しないわけでして…
例えば、男の場合は「美人と付き合いたい」と値踏みする行為自体が女の子から減点(批判)されることはあれど、美人だったらいい恋愛ができるとは限らないわけじゃないっすか。快楽とは一致することこそあれど、美人ならいい恋愛ができる・いい関係になれるは違うし、美人だからハードル高いも違う
極端な話を言えば、美人かブスかは「連れ添ってた時とか、Hした時の興奮」と言う観点での加点はあっても、それが成功率とは絡まない(ブスだったり、トロそうだったり低く見られる女の子が安売りしてる、ハードル低いとも限らん訳ですよ)。そこが大きく違うのかな…と思う。
どうも恋愛工学を否定してる女性は「女性基準の恋愛とは違うから」だし、恋愛工学を肯定してる人の言い分は「いや、まともに恋愛したい・ヤりたい問わず、キモいと思って女子からATフィールド張られたら先はないし。しかも、それは愛とか誠意なんてものではなく、チェック項目の世界だし」が落とし所
もうちょい厳密に定義し直すと「モテ本を読んで女の子の基準をつかもうとする男」がキモいんじゃなくて「悪質なモテ本に書いてあるような中学生めいたエロトークで盛り上がる男、堂々とモテ本を読んでることを公言して【トモダチンコ決めたい】と言ってるのがキモい」なんだよなあ…青柳さん的になった
モテ本・ナンパ本には「その女性自身の個人差・個人の機微を見ようとしないからそれらを読んで実践してもキモいしダサい」のがどうも結論らしい。でも、そういうものに読んでしまうのは男は根本的にゲーム脳・仕組み脳の頭でっかちでゲームにできるとできると過信しとるし、実際成功率上がるから
(何度も言うけど、「必要かどうかは」ともかく)男の場合は「連れとして映えるか・ヤりがいがあるか」DQN肉食系と「好かれてるという実感があればそのままなついてしまう」自分を好きな人が好き(草食系・食虫植物系)の二種類がいて、女子が足切りしなかったらどっちかとは付き合える。理論上ね
ただ、付き合うこと・セックスすること・それによって承認されること自体を目的とする男だったら「女の子は妥協すれば付き合えるからいいよね」なんだけど、それだと愛も良好な関係性もないから「誰でもいいから彼氏ほしい」にならないんだよね
え?僕はかなり食虫植物系男子ですよ。僕自身の趣味や偏りを許してくれる、それでいて僕と話が合う子に認められたら(そもそもそれがムズいけど)割と誰でもいい人ですね…。だから「誰でもいい感覚」はわからなくないけど、すごく瓶を有難る傾向が正直、同性だけどわからないです
昨日も書いたけど、男の方がインドアなゲームは得意なんです。将棋でも囲碁でもプロゲーマーでもなんでもいいけど、あの手のプロのそれも実力者のたいていは男。逆にいうとゲームのように定量化・仕組み化・法則化できないくせに「キモいと思われたら有無も言わさず振られる恋愛」は存在自体が怖いわけ
囲碁をじっくり打ち合って楽しめばいいと思ってたのに、五目並んだ途端に急に「はい、俺の勝ち!お前の負け!俺強い」とゲームをウヤムヤにしながら煽り文句にしか聞こえない独りよがりを目の前で決め込まれる…そんな感じですかね
今回のディズニー公式ってのは、ウォルト・ディズニー・カンパニーの日本における現地法人のウォルト・ディスニー・ジャパンがやっているのかな。それともその委託先か。
46% 全米3大ネットワークの一つのABCを中心にしたテレビ事業
7% キャラクターグッズの販売
日本国内だとミッキーをはじめとするおもちゃとアニメの会社のように思われているかもしれないけど、実態はテレビやスポーツ中継などのビジネスが主力みたい。
7%のうちのさらに海外法人が…というと、本社からしたら、遠くの支社の話なんだろうなとも取れる。
なお、日本にあるパーク&リゾート部門の東京ディズニーリゾートは、フランチャイズで、オリエンタルランドって会社がやっている。
話は変わるけど、東京ディズニーランドには、かつて日本の歴史をテーマにしたミート・ザ・ワールドというアトラクションがあった。
ミート・ザ・ワールドは、日本と外国がどのように関わってきたかを表現したアトラクション。あのパークの中ではかなり地味な部類だった。
ランドに入ってワールドバザールから右に行ったところにあった。無料のわりに人が入らないアトラクションだったが、20分間は座って涼めるという避難場所的な側面もあった。
無料になったのは、松下幸之助が「天下の松下だ無料にしろ」と言ったとか。
アメリカ本国にこのアトラクションを作ろうとしたら退役軍人会の反対にあったとか話題に事欠かない。ちなみに音楽はシャーマン兄弟が担当。
このアトラクションでは、遣唐使、鉄砲伝来、鎖国、ペリー来航、明治維新と日本と外国とのかかわりが映像とシンクロするアニマトロクスで上演された。さらに躍進する日本が描かれ、最後に戦争。戦争の描写はほとんどないが、大砲が撃たれたあとに暗転する。
兄「あっ、そこにいたの? ねえ、質問していい?」
鶴「なぁに?」
鶴「それで?」
兄「これからはどうなるの?」
鶴「これから・・・。これからはあなた達の時代よ! あなた達、あなた達の家族、そして友達、みんながいっしょになって未来を創っていくのよ!」
妹「どんな風に?」
鶴「ほら、見て御覧なさい。勉強している人たち。働いている人たち。人々の英知と努力、そして外国との数々の出会いを通して日本は大きく育ってきたわ。そして未来は…。そう、これからは世界中の人々とお互いの文化を理解し、分かち合い、平和で心豊かな世界を築きあげる時よ!」
築くのさ 世界の友だちと
We meet the world with Love 愛を胸に
いつも疑問に感じてたんだけどさ。
たとえば最新の記事のこれ見てくれよ。
このカツ丼の絵、なんなんだよ。この回に限らないけどこの人の描く料理っていつも、ただの「黄色くて白くて黒い何か」じゃねえか。
「かつ丼」って横に描かれてない状態でこれ見て「わあ美味しそうなカツ丼」って思うやついるのかよ。「あれ?ロールシャッハテスト?」と思ったわ。
俺にはこれ、どんぶりにぶちまけた吐瀉物か、上から見た火山の噴火口にしか見えねえよ。ぶっちゃけ「実はこの絵、今朝出したうんこです」って言われても納得するぞ。
「トロ~リ」って書いてあるけれどこの絵のどこにとろみ感が出てるんだよ。そこは擬音じゃなくて描写力でカバーするのが漫画家だろ。
もしかして写真を反転させただけなのかな?とも思ったけれど、それでもこれはねえんじゃねえかな。カツも卵も玉ねぎも米も見分けがつかねえよ。
そんで食事シーンも毎回一緒。いっつも同じ構図でカエルが汗かきながらハフッハフッ言ってかっこんでるだけ。他にパターンねえのかよ。
食レポにしてもグルメ漫画にしてもそうだけれど、こういった視覚的表現はいかに食べた後のリアクションで食欲を喚起させるかも重要なのに。
いや、正直ワンパでも別にいいし、表現を派手や大げさにしろとも言わないけれど、にしたって「同じ構図でカエルが汗かきながら器かっこむだけ」はあんまりだろ。
同じ「食事シーンはいつも器をかっこむだけ」でもドラゴンボールは美味しそうに見えるのに、この違いはなんなんだ。
本来が漫画という表現の制約上、添え物にしかならなくなる文章も情報量が少ない割にたいして的確でも美味そうでもないしよ。
これってグルメ漫画として成立してんのかと毎回思ってるんだけれど、みんな「美味しそう!」ってコメントするもんだから成立してるんだろう。
でも俺、いっつも首をかしげるんだよな。
1人200万はウチでは数年に1度しか出せん。俺も嫁もまだまだ修行が足りんわ。
例えばダイビングやったんだが、赤道に近いから日差しが強くてな。人生初、膝の裏が日焼けで皮がむけた。
オットセイが見れるって話だったんだが、あいつら早すぎて水中で見るのは無理。影しか見えん。陸地ではトロい。
写真で色々見て行ったが、ありゃ写真家の腕と奇跡の瞬間のコラボであって、実物は大分違うな。
日本に居ると感じれない事ばかりだからな。異文化交流は楽しいぞ。
年末はイエローナイフに行くよ。子供がオーロラの写真見て行きたいって言うからな。
貧乏はな、やりたい事を思いつけないんだよ。
世の中には楽しい事いっぱい有るし、見たこと無い物も山ほど有る。
それらに関心が無くなるのが貧乏だ。学生時代の友達の過半数はその罠に落ちて見る影も無い。
カネの為に心を売るのは御免こうむるが、貧乏は心を削り取る。
稼いで楽しく生きる為に競争もするし、自分で落ちていくヤツは歓迎だ。
それだけの話だよ。