はてなキーワード: 矯正とは
自分の仕事は予備校講師だ。予備校の講師の重要な仕事の一つに、生徒の思考パターンに対して、アンタこんなふうに考えてるけど違うわよ、こう考えるのよ、と思考パターンを矯正してあげるというのがある。
思考パターンをすぐに変えて成績を伸ばす子とそうでない子がいる。スペックの高さというよりは、素直あるいは愚直かどうかが重要だ。真っ白な紙のようにすぐに講師のアドバイスに従って考え方を変えてみる子は強い。
うつ病の妻を見ていると、とにかく頑固なのだ。認知行動療法で考え方のパターン変えましょうね〜って言われても従わない。これは厳しいなあと思っている。まあ、勉強科目という客体化できるものへの思考スタイルと自分と一体化してしまった思考スタイルでは難易度も違うのだが、とにかく素直になってくれーーと思っている
それでもインターネットユーザのレベル(階層)はきっと「オタクはLGBTと同じ」だから「オタク差別」程度なんだよなぁ。
そういえば喫煙への規制強化も「喫煙者差別」「禁煙ナチス」などと言っていたが結局どうなった?
オタクは飲酒(酒飲み)や喫煙(喫煙者)と同じように行動によって規定されるのだからLGBTと同じわけがない。
オタクと違って、LGBTは脳の構造のような「生まれつき」の原因が由来であるとされている。
生まれつきのものだから矯正することなんか絶対にできないし、生まれつきの属性にケチをつけるのは差別というわけだ。
だからこそ「オタクは生まれつき」「オタクは一生オタク」という風説が「オタク差別」などという主張の核なんだろう。
「脱オタク」に猛反発するのも「オタクは生まれつき」という風説が否定されるためだろう。
そんなにオタクが生まれつきだというなら、LGBTと同じように脳を検査して証明すればよかろうに。
オタクを「できた」のは裕福な家庭といった環境的要因かもしれないが、オタクを「続ける」理由にはならない。
因果が捻れて「オタク差別」という概念をゴリ押しするために「脱オタクできない」という自縄自縛だ。
そんなん、終身雇用制度を前提にしたリクルートなど新卒向け人材マッチングが全部失敗してることじゃん
「新卒就職」については成人した男女本人の意志に基づく志願制とする。(他者による強制が認められた場合は刑事罰が課せられる)
「新卒就職」を志した男女は、個人の希望を優先されつつ、好感・愛着を持たれやすい秀でた容姿への改造手術たる「化粧、ネクタイの着用、おじぎのしかた」、温厚で献身的な人格への矯正、家事育児などのケアワークを中心とした技能のインストールとしてのインターン制度が行われる。
上述の通り「新卒就職志望者」には人格矯正措置が施されるが、改造前の個人が希望すれば、改造前の記憶や基本的な思考パターンについては他者に危害を加えない範囲での温存が認められる。
改造された時点で全ての人間が美しい容姿、温厚な人格、ケアスキルを手に入れることができる。
どのような形の派遣となるかは製造会社の一存となるが、全ての派遣において身元を保証され、オーナーから(法人の場合は顧客からも)の愛着と承認を得ることができる。派遣先で(元の漫画で主人公が「やすお」にしていたような)オーナーおよび顧客による人権侵害があればすぐに保護を受けることができる。
改造前の個人の経験によっては、改造前の記憶の消去はメリットにもデメリットにもなりうる。
派遣に適した外見と人格への改造措置を受けるため、個人としての同一性は失われる。
産休すると昇進に不利かつ同僚に迷惑との脅迫を受けるため実子を持つことはできない。
個人オーナーの場合、製造会社への申請さえ認められれば自分の好みの容姿の献身的な秘書を得ることができる。
法人オーナーの場合、製造会社への月額報酬支払と適切な運用が認められれば、ある程度の能力が保証された眉目秀麗な秘書を得ることができる。
不適切な運用があれば雇用側は職安にしか求人をのせられなくなる。
人権の制限をバーターとした生存権の保護により、弱者問題が大きく改善される。
法人の場合、人手の少ない労働市場の労働力および労働環境の改善が見込まれる。
「『やすお』『はなこ』になるのは絶対イヤ」と思う人間が10割であろう・・・って普通に創作マンガのキャラになりたいなんて1ミリもおもわないんじゃないかな。制度が現実より不備だなんてさすが素人マンガだなとおもうだけ。
https://comic-days.com/episode/3269632237330766632
ホッテントリに上がってるのに気づかずにさっき読んだが、ブコメで指摘のあったように、この「22歳時点で特別なコネのない平均的な能力の男女が強制的に奉仕型サイボーグに改造される」という政策が実現しかけた時点で国民の大半が国外逃亡し出生率が急落して国が滅びると思うので、発想は面白いが現実性には乏しいなと思った。
とはいえ「自分だったら『やすお』『はなこ』をこんな風に運用するのに」と考えたら面白くなってきたので書いてみる。
ざっと思いついたのはこのくらい。
「『やすお』『はなこ』になるのは絶対イヤ」と思う人間が10割であろう元漫画を踏まえ、どのような運用であれば「これならば『やすお』『はなこ』になってもいい」と思う人が出てくるかを考えながら書いた。
「やすお」「はなこ」の人間時の家族や友人の処遇、リタイアした「やすお」「はなこ」の処遇などを考えるとまだまだ書ききれない部分が沢山あるがとりあえずこのくらい。
縮毛矯正やったほうがはやい
多くが「中二病は悪」という共通認識をもち、自らのそれを大人になるまでの時間で徐々に修正する・・・そういう先人の残した指針としての機能が確かにあった。
中二病の明確な定義は難しいが、おおよその場合「強固な自我の芽生えに伴い発生する欲求、自尊心や自己肯定感との付き合い方を失敗したケース」を指している。
・洋楽を聞く、感情がなくなる、眼帯をする(人と違うことをすることで承認欲求を満たそうとする)
上げればキリがないが、これが派生すると
・チームで共通の目的を目指す際に失敗はチームメイトのせい、成功は自分のおかげのように振る舞う。責任を負うことを過度に嫌う(他者を害してまで自尊心を守りたがる)
・DQNになる。評論家気取り。(自己が他者に優先すると錯覚する、それを誇示したがる)
など、周囲に害を振りまくタイプにもなる。
逆に強く厨二病を意識していた人はそれを恐れるあまり自己を過小評価し所謂陰キャのようになってしまうことも有ったのだろうが。
ともあれ、実際の所こうした類の人間は中学生に限らず多くいる。
そして彼らを見て「やり直しの効く年齢の時点である程度矯正しておいてよかった」と心底思う、それが中二病を支持する理由だ。
若さ故の過ちを全て「中二病」と称することで「今では笑い話」「既に完治した」という許しを得るために使う。
悪く言うつもりなら中二病なんて言葉を使わずともいくらでも叩きようがある。
近年それを理解できずに過剰反応してしまう人が多く露出するようになった、敢えて増えたとは言わないが。
もちろんリアルで口にするにはリスクのある言葉で、それを分かっているが故ネット上でのみそのやり取りを行うのだからそういう人がいることも織り込み済みではある。
その上で触れられたくない部分に無神経に踏み込んだ人が悪いのは間違いないが、もし「中二病」という言葉への理解のなさ故に生まれた軋轢であるなら
それは少し悲しいことだと思う。
近年はアニメの影響で中二病という言葉が誤って広まってしまった。
言ってみれば中二病の光の部分、クリエイティブな人たちが作り上げた「恥ずかしいけど悪いことではない」という上澄みを中二病の全てであるように認識してしまっている。
人は自分が「善」だと思っていることを他者から「悪」と呼ばれることを極端に嫌う。
中二病を善ないし悪ではない、と考えているとすれば「中二病は悪」という言葉は暴力的なレッテルに映ることだろう。
繰り返しになるが前提の共有を怠った側に非があるのは言うまでもないが、本来許しであったりなるべく傷つけまいとした助言であったものが全て悪意に変換されているとすればあまりに悲しい。
中二病は悪。
https://anond.hatelabo.jp/20210513214243
ただのぼやきのつもりがペロって書いたのがなんか色々言われててびっくりしちゃった。
いい年してプリキュア見とんなよってお前らも見てるんじゃん!よ!仲間~!
「かわいい」っていうのをプリキュアが見た目だけのことを言いたいんじゃないんだろうけどそれを人生経験片手程度の子どもたちに伝わるようにつくっているか?とか、「子どもたち(女の子たち)のために」っていうスタンスをどのくらい本気でやってるんだろうってのはちょっと前から思ってはいた。
「かわいい」がすべてではないことを大人は知っているけど子どもたちはこれからそれを学んでいく過渡期にいるので、メインターゲットをその年齢に据えてる時点でプリキュア制作側は伝えるメッセージやその伝え方に慎重にならないとって思っている。
プリキュアやその仲間が「かわいくないからプリキュアになれない」と発言しても大人は「今のプリキュアそんなこと言うんかい」で済ませることができるけど
知識や人生経験の少ない子どもたちにはその言葉がもっと大きなインパクトをもって伝わる可能性ってのを考えなきゃいけない。
フィクションと現実は地続きにあるし、子どもたちにとってはよりその垣根は低い。
あとトロピカルージュ!プリキュアの続きを見たけど他人をキュートさがないとか見た目で判断してるローラがみのりん先輩に「決めつけんな」とか言っててお前がそれを言うのかって思っちゃったわ。
自分のツイッターのフォロワーにプリキュアオタクが何人かいてファンの間で話題になってることはだいたいRTでまわってくるんだけどこれもちょろっと人を見た目で決め付けておいて説得力ないぞ笑!みたいなのは見たからこの辺はファンの間でも言われてるのかな。自分が普段からプリキュアガチ勢ではないので(見たり見なかったり)詳しくないところも多い。
ルッキズムに限ったことじゃないんだけどメインターゲット女児先輩は気にしないからあれこれ言うな!そんなもん扱わなくていいんだ!って問題ないじゃないんだよね。
そこをメインターゲットに据えた時点で責任持って作品つくらなきゃいけないんだよって話で。
大人と違って判断できる知識や経験が少ないので良いことも悪いこともそのまま吸収してしまう危うさがあって、大人が鬼滅を面白いと思いつつ子どもにはあまり見せたくない(暴力的だったりちょっとグロかったりするから)って親もいるでしょう。クレヨンしんちゃんとか芸人の発言やバラエティの演出もそうだけど。テレビでやってるから悪いことじゃない、みたいな感じで面白がって人のこと嘲笑したり暴力ふるってしまったり。それを矯正するのも親の義務っていうけど、1回テレビやなんかで見て覚えたものをなぜ良くないのかわかるように言い聞かせて矯正するってすげえ大変でしょ。親の立場からしたらいい加減にしてくれって話よ。何度教育したってテレビで人の尊厳踏みにじって笑い取るようなことやられまくってたら親の教育もいたちごっこの連続だし、ちゃんとしつけする親ばっかでもないし。大人の立場で見てても楽しくないしね暴力とか嘲笑とか。
それからメインターゲットが保育園~小学生くらいの女児、だとしたらその中にはシスジェンダーでもヘテロセクシャルでもない女児や障害をもった女児も当然含まれるんだよ。
過去作品だけどHUGっとプリキュアでは男の子もプリキュアになれるとか、アンリと正っていう友情なのかBLなのかみたいな感じで男性二人の関係を出しつつ最終話で生々しい出産描写もやるの先進的とか言われてたけどまったくそんなことはないと思っていて、
むしろ女性への出生賛美をうたってほまれのヘテロセクシャル要素をゴリゴリに出しておいて性的マイノリティーについてはほのめかすだけにするっていうのはおためごかしなんだよね。
都合良く使える部分だけいただいて、まぁ、さわりだけやっておけば先進的と思ってもらえるラッキーみたいな。
あ~男の子もプリキュアになれる、お姫様になれるってとこまではできたのに、残念だなぁ、扱うなら正面切ってやれば評価されるのに…って感じだった。
異性愛者っぽい描写も出産シーンも生々しくないけど同性愛っぽい描写は生々しいんですか?セクシャリティに対して一体どういう考えで作品をつくっているの?って思うよ。
ターゲットとしている層にもマイノリティに該当する子は含まれているのに。
スタートゥインクルプリキュアは肌の色が違うことで受け入れてもらえなかった過去のあるキャラクターのことを扱ってた話があってそれは良かったなって思う。(スタプリは全部をきちんと見てないので全体としてどうかはわかんないんだけど)
わざわざ同性愛者だ障害者だ外国籍だってマイノリティを出すならそうだとはっきり分かる描写を出す必要があるのか、と言われたら出さないことで存在しないことにしている。のけものにしているってことなので、その年令の女の子たち(子どもたち)のことを考えて作品作りしているというスタンスを出すなら見て見ぬ振りやおためごかしはもうやめろって思う。
そんな表現は大人の自己満足だっていうけど、むしろマイノリティを無視する作品って子どもに一体何のメリットがあるのか…?
自分がマイノリティについて気にしなくて済むカテゴリーだ、マジョリティである、強者だって指摘されるようで居心地悪いだけなんじゃないんですか?
女性の仮面ライダーいたんだし男の子のプリキュアもレギュラーメンバーで出せば良いし、仮面ライダーも赤ちゃん育てたらいいんじゃないの(仮面ライダー全部見てないからもう子育て要素とか取り組んでたらごめん)
売れないとか商業的に…っていうけどそれならもう「子どもたち(女の子たち)のために」つくっているっていうスタンスも見直したほうが良いんじゃないかな。
玩具購入資金源の親がそんなもん喜ばないだろ!っていう意見出そうだけどそれもおかしな話で、
それはつまり親が自分の子どもはマイノリティであるはずがないしそんなもの目にもいれさせたくもないし
目に入れさせてマイノリティに目覚めさせたくない、そんなやつらのことは理解させる気もない、ということにもなるんじゃないの。(あえてちょっと強いことばにしてしまったけど)
親としては子どもがマイノリティである可能性を思えば(誰しもがその可能性がある)ロールモデルにできる存在や勇気をもらえる存在(それこそエンパワメントされるような)を小さい頃から見せてあげて「大丈夫だよ」と伝えてあげたいし、
本人がマイノリティでなくても身近にそういうお友達がいる可能性もあるから寄り添える人になってほしいと思う。
もし身近にマイノリティなんていねえよって思う人は、あなたの態度や発言を見聞きしてマイノリティ当事者はあなたにカミングアウトも相談もしたくないと思ってる、だから周りにマイノリティがいない、と考えたほうが良いかもしれないですね。
いわゆるLGBTQに該当する人が血液型のAB型や左利きと同じくらい、だいたいクラスに一人くらいの割合でいるそうなので。
つまり、そのくらいいるとなると総勢50人を超えてきたプリキュアにもいてもおかしくないって話にもなるわけで。
アニメとはちょっと違うけどセサミストリートだと障害のある子や同性愛者のキャラクターがいるし、ディズニーでも扱ってたよね。
でもやっぱり人の性質的に共感し合いたいものじゃんか。この問いかけ自体が共感を求めちゃってるんだけどさ。
より正確に言うと、誰でも彼でも共感して貰えばいいわけじゃなくって、家族とか友人とか同僚とか、自分の属するコミュニティの中で共感して欲しいと思う。つまり存在が承認されたってことだから。
弱者男性論にも、フェミニズム論にもそこって大きくて、存在が透明化される=存在が承認されていない=共感が得られていないってことだと思っている。
あと、ちょっとおもしろいなって感じているのが、いわゆる若者言葉とか。ワイドショーとかで「最近の若者はこんな言葉を使ってる」って紹介するとコメンテーターが「全然理解できませんね」って言うやつ。あれは若者の立場からすると、自分のコミュニティの外の人間には共感されたくなくて使ってるんだと思うんだよね。自分のコミュニティのみで共感されて、外の世界では拒絶されるってことが、より自分のコミュニティを強固なものにしてくれるってことかなと。
逆にちょっと危ういなって思っているのは、やっぱりSNSよな。Twitterのトレンド見てて、なんかエクストリームな意見だなってやつがあると、どんなリプライがついてるのか気になってツリー開いちゃうんだけど、必ず「あ、私と同じ意見の人見つけた」みたいなのがあるんだよ。これって本来は自分のいるコミュニティの同調圧力によって矯正されるはずのエクストリーム論が、外の存在に繋がることで生き延びちゃうってことだよな。コミュニティの同調圧力って嫌な感じするけど、自浄作用っていうか、まあ社会を成り立たせる上でポジティブな面もあったと思うんだよ。みんながみんなありのままに生きてたら、みんなそれぞれの山で氷の城に閉じこもることになりかねない。
まあこんなことをくだくだと書いてきたけど、俺がいま共感されるかどうかヒヤヒヤしながら考えていることがあるんだ。
キービジュでめっちゃ可愛い!と思いつつ忙しいのを理由に見てなかったからやっと見始めたんだけど、やばない?
2話の段階でルッキズムえぐすぎてこれを普通に放送してて文句出てないのやばない????
顔芸人魚のローラっていうこれまでの妖精ポジみたいなキャラクターの女の子が
可愛くないからあの子はプリキュアにできないとか、あの子はキュートさがないとか言ってても誰も咎めないし
いやまだ1話や2話だから、ローラが今後ルッキズムを克服する伏線では…と思ったけど
やっぱ出てるキャラクターの誰もそこに違和感おぼえる描写ないのやばくない?
ツイッターで言及してる人いないかなと思って適当にキーワード入れて検索したら
「敵じゃなくてプリキュアがルッキズム内面化してんのやばい」みたいなこと言ってる人もいたけど結構少なくて
…え、プリキュアヲタの感度というか時代の読めなさやばくない?!って思ってしまった…
そもそも「コスメ」をモチーフに使ってるっていうのは、メインターゲット女児先輩の大好きツールだし
商売的にあるよね~って感じなんだけど、今のプリキュアは「自分をエンパワメントするためのメイク」っての謳ってるんだよね…。
ここ最近よく言われる自分をエンパワメントするために化粧するっていうの、
そうしたい人はそうすれば良いけど、そういう理由つけてみんな化粧して気分あげなきゃいけないわけじゃないんだよ。
「可愛い」は追求しなくて良いんだよ。
「可愛い」を追求したい人がすれば良い。
「可愛い」と思うものはそれぞれ違うからみんなそれぞれが思う「可愛い」は尊重されるべきで、そこは今のプリキュアもできてると思うんだけど
そもそも「可愛い」以外で自分をエンパワメントできるものがあるならそれで良いんだよ。
「可愛い」を追求する以外に自分をエンパワメントできるものを持ってる子をきちんと尊重できるのか今作は…って思う。
まぁそもそもプリキュアになったとたんヘアスタイルはロング、眼鏡ははずすっていうの毎回やってて今更だけどさ…。
姪っ子が矯正の眼鏡かけてるからぜひ眼鏡のまま戦うプリキュアとかいてほしいんですけどね。
まあそんなこんなで
帰ってきてから弁当箱を洗いたくないから弁当は作らないでほしい。
朝早起きして朝食を作ってくれるけど、正直いらない。
スープとか飲むのに時間かかるし、惣菜パンを食べようと思ってたのに何もつけてない食パンを差し出されても困る。
自分でサラダだけ食べようと盛り付けしてたらあれこれ他のおかずをすすめてくるし。いらないって言ってるのにしつこい。
お菓子もあると食べちゃうから買ってこないでほしい。アイスとかバカみたいに買ってこないでほしい。飼い猫の予防接種をケチるくらいならこういう無駄金を遣うのはやめてほしい。
私が太ってるの気にしてるの知ってるくせに。
今ろくな学歴がなくて苦労してるけどね。
兄が住む部屋のリフォームには400万払えるくせに私の歯の矯正は渋ったよね。
笑うと歯が欠けてるみたいに見えるの、すごいコンプレックスなんだけどな。
そこの歯だけやたら虫歯になるし。
自分のことを好いてくれる友人がそれなりに居るんだけど、どうも些細なことが気になって距離を取ったり冷たくしてしまったりする。
冷静に客観視したらそんな事どうでもよくね?ってのが多いんだけどひとつ「ちょっと嫌」な部分があると全部拒否したくなってしまう。
一例(全部別の人物)
清潔だけど服がめちゃくちゃダサい
異様にすぐ泣く
なんでもすぐ下ネタに結び付けて怖い
ヤバそうな宗教に入ってる気がする
普段普通に話している分にはなんともないし、別に自分に危害を及ぼす訳でもない。
むしろ同じ映画を見たら同じ感想を持つぐらい価値観も一致しているし、尊敬できる所も沢山ある。
どう考えてもこちらの心が狭すぎるので落ち着いてこっち側から交流を取りなおしたり、また嫌になって距離を取ったりを繰り返している。
とはいえせっかく好いてもらっているのにこんな事ではいずれ友達を全部無くすと思うので、なんか、なんとかならないかなあと他人事のように思ってしまう。
ある時友人の一人が、「幼馴染に嘘をつかれた、金を騙し取られた」と怒っていた。初めてではないそうだ。しかし次の週にはまた一緒に遊びに行っていた。
どうも自分はこれに理解が及ばなかったので「嫌な面があるのに何故友人で居られるの?」と尋ねたが「それはそれ、これはこれ」だそうだ。
確かに100%すべてを好きになれる相手なんて存在しないはずなのだから、多少は目をつぶる、というのが正解なのは理解するが、脳が許してくれない と言った所だろうか。
不謹慎な事を言うなとか、人を見た目で判断するなとか、LGBTに配慮しろとか、平和な世界への取り組みが為されている今日
とても大事な事だと理解しているんだけど、これを自分はどうしても厳しく感じてしまうし、そういう批判や配慮にしんどくなってしまう
なんでかなと思ったけど、行動は変えられても考えを変えるのにはまだほど遠いからなんだろうな
友達から同性愛者だと聞かされたら驚くだろう。変わらず仲良くすることはできるけど、確実に見方は変わる。
キモくて金のないオッサンと喋ったとして、優しく接する事はできるけど尊敬する所は微塵も無いだろう。
黒人は怖いし、障碍者はキモいし、デブはデブだなあって思うしハゲはハゲだなあって思ってしまう。
主に少年漫画系を想定する話として、漫画やアニメのキャラが当然のようにヘテロセクシャルであるということを前提とするのはヘテロセクシズムであり、そのキャラがもしかしたら同性愛者かもしれないじゃないか、というのはわかる。
ただ現実的には性的指向が明かされるキャラなんてそうそういるわけでもない。彼氏彼女がいる、性欲があるキャラの描き方がされることもあるけど、そうでないことの方が多いくらいなんじゃないか。テクストだけを見るならば、むしろ多くのキャラが無性愛者だと考えたっていいくらいではある。
恋愛描写のないキャラに対して半ば強引に二次創作のヘテロものやBLや百合あるいは夢小説にするというのはセクシャリティの改変であり、厳に慎まなければならないことなのではないか。
先日、アセクシャルを矯正する薬を飲ませて恋愛をさせるという漫画がTwitterで炎上していた。これは別におかしなことではない。その人物、そのキャラクターのセクシャリティを尊重せず、無理矢理恋愛あるいは性行為をさせることなど以ての外だからだ。そのことは多くの人が批判点として共有していた。
しかし、そうであるならば二次創作として描かれる恋愛ものも同じなのではないか? そこに刃は向けられないのか。
別に例はなんでもいいが、カヲルくんとシンジくんでも、煉獄さんと炭治郎でも、五条悟と虎杖悠仁でも、その他無限のカップリングについても、そのキャラはゲイまたはレズビアンではないのではないか、場合によってはヘテロセクシャルですらないのではないか、という疑問は残る。メインキャラはともかくサブキャラになればなるほど恋愛描写なんてなくなるわけで、ヘテロセクシャルなのかどうかすら描写が皆無なんてのは珍しくもない。
もちろん、仮に性的指向であるからといって、相互の関係性を必要以上に縮ませる(はっきり言うと性行為をさせるエロ同人など)こともまたそれでいいのかどうかという問題もある。
ミスジェンダリングという言葉があって、トランスジェンダーやノンバイナリーに対して当人の自認するあり方とは違う性別で呼ぶことを批判する用語なのだけれど、それはゲイやレズビアンをヘテロセクシャルとして扱うことにも適用されるものではあると捉えている。このことは二次創作には適用されないのだろうか。
所謂ポリティカル・コレクトネスについて、私は重視しているのだが、そうであるが故に、それを推し進めていくと今まであった二次創作もまたどんどんキツくなっていく。インターネットにおいて二次創作・ファンアートは聖域に近く、その存在を認めない発言は極めて少数だ。二次創作が存在していいものとしてあることが明らかな既得権になっている。ポリティカル・コレクトネスを重視する人はしばしば批判対象の既得権(特権)を指摘するのだけれど、そういう人が、個別的なエロ同人などはともかく、二次創作そのものにまで批判を向けることは、意外に少ないようにも思う。フェミニストでありオタクでもある、というのは非常によくあることでもある。そのこと自体は別に問題ない、けれど、自分の持つ刃をどこまで適用するか、という問いはいつでも突き刺さったまま残るのではなかろうか。
今まで自明であったものがそれは抑圧だという批判に晒されるということはよくある。例えば所謂腐女子(この名称にも問題は多数あるわけだが割愛)の中での「ホモ」呼びもこの10年で漸減してきたとは感じるけれど、それと同じように、そもそもの前提としての性的指向の改変自体が好ましくないものなのではないか、という問いの声は、もう少し出てきてもいいとは思っている。
既得権者からは「二次創作は文化である」という反論が来るのだろうけれど、そんなのはセクハラは文化だと言っているに等しい、とさえ言うことができるのではなかろうか。既得権者はいつだってそれを自覚せず傲慢なままだ、というのはポリティカル・コレクトネスを重視する側ではよく聞く話でもある。
すぐに変わるとは思っていない。変化には長い年月がかかるだろう。ただ、自分の楽しんできたものは正しかったのかを問い直す作業は、どの分野でもあって欲しいとも思う。
全く見当外れ。
弱者男性を「キモくて金のないオッサン」とするなら、主婦向け雑誌読んだらキモくなくなる可能性があり(生活力が高まり清潔感が出る)、節約特集が多いので「金がない」状態が解消される可能性がある、ということ。
だから弱者男性は「主婦向け雑誌に主夫が出てこない!オッサンの事情も鑑みた誌面構成を!」という方面でバリアフリーを叫ぶべきなのに、オレペ読めって言うと「弱者にアドバイスするな!自助を要求するな!主婦向け雑誌?ろくでもない生活してるというレッテルを貼るな!」だもんね。
「キモくて金がない」の部分は矯正可能だからそうしたらどうって話なのに、人種とか障害とかと並列にして、さも生まれつきで一切変更不可みたいな弱者ヅラだから大方は眉を顰めるんすよ。
弱者男性は努力が大嫌いなんだからそんな機会提供されても理由つけて行かんやろ
努力が嫌いだから男性という特権を持ってるにもかかわらず勉強も運動もコミュニケーションも学ばずに落ちぶれてるんだからな
今だってマッチングアプリじゃなくて地域の婚活会社に行けばだいたいそういうファッションとか教えてくれるコースも選べるだろ
男性が受けている差別として重要だと私が思うのは、警戒されることと、信頼という名目で粗末に扱われることです。
男にも女にも、男は警戒すべき存在だという感情がうっすらとあります。
同時に、男性だったらほっといても大丈夫だろう、という肯定的な信頼の形をとって、男性のことをろくに気遣う必要はないとされがちです。
だから、世間話でもマスメディアでも、男性への警戒や、過度の信頼による雑で粗末な扱いが平然と行われています。
それが積み重なった結果として男性は、敬遠されて孤独な人生になりやすく、自尊心も低く、自分たち男性自身への嫌悪も生まれ、自分の事すら粗末に扱い、次世代男性もそのように扱うので引き継がれる、などの被害を負っています。
「保護と抑圧は地続きなのでバランスが大切だ」という話をよく目にしますが、同じように、信頼と放置も地続きなのです。
家父長制は、自立したい女性にとっては抑圧という差別だけれど、自立を望まない女性には保護を受けやすいというメリットとしても働く。
それを裏返したように、男の自由放任は自立できる強者男性にとってはメリットだけれど、弱者男性にとっては助けてもらえないし悲鳴も無視される差別として働いています。
若者が遭遇しやすい実例として、バイトやサークル活動が長引き、夜になってしまった場面を考えましょう。
これを、男性の方が不安や心配事が少なく生きられるというメリットととらえることは確かにできます。
しかし同時に、「襲ってくるとしたらたぶん男だ、男を警戒すべきだ」「男の自分は、夜道で女とすれ違う時に怖がらせてしまうだろうから気を使わねばならない」「男の帰り道を気遣ってやる必要はない、男は粗末に扱っていい。自分が男なら自分の事も心配せず粗末に扱うべきだ」という認識を強めることにもなります。
実際は、男性でも深夜に一人で帰ることに恐怖を感じる人がそれなりにいるのですけどね。
でも、女性の帰り道は心配されるが男性はそうではないという現実と向き合うたびに、「ああ、俺の夜道への恐怖は認識すべきでない感情なのだ。むしろ俺は怖がる側ではなく怖がらせる側なのだ」という方向へ矯正され、やがて本当に自分でも自分の不安や恐怖に気づけなくなります。
色々な場面で、不安を感じてないことを前提とした粗末な扱われ方を重ねて、男性は自分に対しても他人に対しても鈍感にさせられていきます。
たとえばトイレ。
男だったら道端で立ちションしても大目に見られがちという自由は、性器を露出し排泄を見られたくない感情を気遣ってもらえないという粗末な扱いでもあります。
不安や羞恥を感じていた男児も、「その辺でおしっこ済ませてきな」と言われたり、仕切りのない小便器や、女性が清掃に入ってくるトイレを使ううちにその弱さを鈍麻させ忘れてしまいます。
この言葉はおおむね好意や信頼の表れですが、同時に「男の人は一人でも不安になる必要はないよね、あなた自身が男の人なんだから」という扱いでもあります。
一人で行動しても口を挟まれない自由の反面、一人は心細いという男性の感情は最初から考慮されていない。
このような扱いに触れ続けることで、「俺は男だから不安になる必要はないんだ」と自分を勇気づけ、痩せ我慢することが癖になります。
夜道にせよ、トイレにせよ、一人行動にせよ、成人男性に直接聞いてもたいてい「いや全然平気だが」と言うだけでしょう。
最初から平気な男性と、鈍麻し平気にさせられた男性と、本当は平気じゃないが痩せ我慢している男性を区別することは本人にすら困難です。…
…これは「たとえ当事者が男性差別を否定しても、それをそのまま受け取るべきではない。男性差別は存在する」という無敵論法っぽくなるので好きではないロジックですが、そう言わざるを得ない。
ここ数週間のネットでは、男性はセルフケア能力が低い、まずは自分を大切にすべきなのにそれをしようともしない、などという話も多くなっていますが、それは数十年にわたる「男性は自由に行動してよい反面、粗末に扱ってよい」という経験の積み重ねによるものであり、決して男性個人に責を負わせるべきでも、自己解決を求めるべきでもありません。
セルフケアに焦点を当てるならば、社会によって損なわれた男性個人のセルフケア能力を育て直すため、社会が反省して手厚く協力してあげよう、という話になるのが妥当でしょう。
しかし現状の男性セルフケア論では、セルフケアというスローガンと丁寧な暮らし雑誌は与えてやるのであとは自分で(せいぜい弱者男性内部で)上手くやって満足しろ、社会は手を貸す気はないぞ、という正反対の切り捨て論になっています。
男性が警戒され、気遣ってもらえない原因には合理的理由がある、という反論はできるでしょう。
腕力の強さ、性欲や暴力性の強さ、外見の悪さ(体毛が濃く皮脂が多く禿やすいなど男性ホルモンが外見に与える悪影響は多い)、コミュニケーション能力と共感能力の低さ、など。
しかし、そのようなある程度の合理性があったとしても、統計的差別であることは間違いありません。
統計的差別はどの程度まで許されて良いか、というのは難しい問題なので、別に論じる必要があります。
そして、フェミニズムと弱者男性論の共闘が難しいのはここが主要な原因でしょう。
「性犯罪は男性から女性への加害が多い(犯罪全体では男性被害者の方が多いですが)」「腕力が強くて静止が困難」「妊娠リスク」など様々な事実に基づき男性に対する統計的差別をどの程度認めるべきか、真っ向から対立しますから。
統計的差別は一切許されるべきでないと言い切る人も時々いますが、それはどの陣営であっても非現実的でよくないと思います。
もっとも「社会を運営するにはマクロ視点の統計的差別が必要なことは認めるけれど、その加減を考えましょう」とかぬるいことを言ってると、確かにそうだね考えなきゃねとは言ってもらえても実態は現状維持が続くだけであり、統計的差別を一切許すな!と極端なこと言って圧を掛ける方が新規分野の社会運動としては実を結びやすいんでしょうけどね……。
これに近い話題は、今までも男性は加害者として認められやすく被害者として認められづらいという内容でしばしば語られてきましたが、たいてい注目されるのは悲惨な女→男セクハラや暴力事件がほとんどです。
それも由々しき問題ですが、その根底にあるのは、もっと日常的でうっすらとした「男ならまあ平気だろ。ほら、やっぱり平気だった」という日々の積み重ねではないでしょうか。
特に、「男性なら大丈夫」という信頼により粗末に扱われる場面は見過ごされやすいと思います。
フェミニズムでは、「女を自立した人間と信頼して放任しろ、家父長制で口を出してくるのやめろ」というアプローチが行われていたため、その逆になっている、過度の信頼による放置という男性差別は問題視されづらいのです。
「女子供は弱いから保護して指示してあげなきゃね」という慈悲的差別に対して、男性が受けやすい「男は大丈夫だろうから心配する必要もないし勝手に自立しててくれ」は信頼的差別などと呼べそうです。
この記事は、これまで弱者男性論で強調されてきた、人間関係、恋愛、経済、ジェンダーロール、弱者男性論が不条理に否定される、などの論点と対立しません。
警戒されつつ粗末に扱われることは、親しい人間関係や恋愛関係のハードルを上げます。
経済的貧しさについては、一般的な貧困問題に加えて、男性は公的にも私的にも助けてもらいづらいし、そもそも助けを求める能力が社会により破壊されていることが困窮してはじめて露見するなど、男性特有の困難があります。
男性ジェンダーロール問題とくくられるような、男なんだから泣くなしっかりしろと言われるとか、責任を負わされるとかは、「信頼の名目で粗末に扱われる」部分です。
弱者男性論自体があまり聞く耳を持ってもらえないしミソジニストとすら言われるとか、困ってると認めてもらえなかったり、困っててもそれは受け入れるべき部分だと言われることなども、「信頼してるという名目で粗末に扱われる」ですね。
また、「男性にも弱者がいることは分かったけど、結局どうなることを求めてるんだ、要求を出してくれ」という問いがありますが、運動として歴史の浅い弱者に、的確な要求をする強さをいきなり求めないでください。
現時点では、「どうなったらいいかを、男性に肩入れしつつ一緒に考えてくれる人が増えるのが望みです」としか言えません。
少なくとも私は、男の乳首も露出NGにしろとか、男性トイレもすべて個室にしろとか、芸人のちんちんポロリシーンやハゲネタはダメだとか、「男の人がいると安心」はハラスメントだから許すなとか、そういう短絡だったり個別的すぎる議論にはしたくありません。