はてなキーワード: 直ちにとは
そもそも宗教と政治の関係は、宗教が政治に何かを命じて従わせる、みたいな形はさほど多くない。大金を献金して言う事を聞かせる、という感じでもない(献金が無いわけじゃないが)。
政治家にとって最も大事なのは選挙である。選挙に落ちたらただの人なのだからこれは仕方がない。
選挙活動はとにかく人手がかかる。そしてこの人手はお金では雇えない。お金で雇っていいなら金持ちほど選挙が有利になってしまうのでこれも仕方がない。
選挙には大量の「無償で協力してくれるボランティア」が必要だ。
選挙ボランティアはそんなに簡単には集まらない。集まっても特定の政治思想に偏った活動家などばかりだとやりにくい。
自身が例えばリベラルに振り切ったような候補者ならともかく、大抵の候補者は中道寄りの主張なのだから、特定の政治主張を通すために協力するという人は使いづらいのだ。
特に自民党。彼らは保守と言いつつ政策はリベラルだったりする(要は基本的に選挙に勝てる政策を選んでいるので見栄えが良い政策は取り入れてしまう。これがリベラル政党が日本で勝ちにくい理由の一つだがさておく)。
つまり、政治的主張にあまりこだわりが無く、自分の選挙活動に貢献してくれるボランティアというのが選挙の時にはとにかくありがたい。
思い当たるだろうが、カルトの信者と言うのはこれに当たる。カルトの信者は宗教指導者の話に従って善意で選挙を手伝う。
「この人に協力することが宗教の目的である世界平和に貢献するのだ」なんてことを言われているわけなので。特定の政治主張をする必要もない。あくまで末端の彼らが信じているのはカルト宗教のきれいなところ、世界平和だとかそういう話で、それに反対する政治家なんてそうはいない。
かくして政治家とカルト信者の距離は「健全に」縮まる。困った時に助けてくれる人を邪険にできる人なんてそういるわけじゃないんだ。
カルトも別に政治家に「これをしてくれ」と明にいうわけじゃない。
政治家の手伝いをするという事は、選挙期間以外でも政治の近くにいるという事だ。
カルト信者は「うちの宗教はこんな理念なんです」「世界がこうなったら素晴らしいですよね」「あなたがやろうとしていることはきっと世界をよくします」という奇麗な部分を政治家にささやく。
これを何度も聞いた政治家は、この人たちは善意で手伝ってくれるし自分の政治理念に共感してくれる。彼らの(きれいな部分の)理念を正しいと思う人もいるだろう。
だったらちょっとくらい顔を出して応援したりメッセージを出したりしてあげようか、と思うのも不思議じゃない。
また彼らの「美しい」理念を少し取り込んであげよう、と考えるかもしれない。例えば「こどもをよりよく育てるには家庭が大事ですよね」なんてメッセージ、正面から否定できるだろうか。
こうなってくると政治家側から「全てのカルト」を拒否するのは難しい。外形的には単なる善意の選挙協力者なのだし、こうした人たちをすべて排除すれば自分が落選するだけだ。
反社会的勢力のように明確にNGだと定義されている団体ならともかく、新興宗教だからと言って直ちに反社会的なカルトだと決まったわけでもない。
そしてお世話になれば少しは恩返しをしたくなるのが人情。近くでよさそうな事をささやかされ続ければそれが自分の理念であるように感じてしまうのが人間であり、政治家も例外ではない。
本来は、近づいてきたボランティアがどんな宗教団体に属していてそれが反社会的活動を行うような団体なのかを個別に審査しないといけないのだ。が、これはかなり難しい。そもそもカルトの認定機関なようなものは存在しない。もちろん、統一教会みたいな有名どころのカルトであれば協力している政治家は言い訳できないが、彼らも名前を変えて近づいてきたりするから十分な知識が無いとうっかり協力を受けてしまう可能性もある。なかなか質が悪いのである。
というわけで政治(選挙)と宗教と言うのはそんなに簡単に切り離せるものではない。つまるところどちらも明確な線引きのしづらい人間の活動なので。
なにか出来ることがあるとすれば、ある宗教が反社会的なカルトかどうかを調べて周知する機能、やはりある程度は報道に期待したいところではあるのだが。
女性だし、かつて同世代で妊娠した人が理不尽な対応をされているを知っているので、理性では「やらなきゃダメだ」って思うけど、感情の面ではそうならない。
なんか疲れてるのでツラツラ書く。文章の推敲はしない。誤字脱字も無視する書き捨てだ。
現在、部下が育休もしくは時短勤務をしている。その率は配下にいる部下の半分を超えている。
毎年産休育休・時短復帰があって、その度に管理職である自分がババを引くというのが続いている。
産休に入る前に仕事の引き継ぎをして、復帰時に戻す作業をしているけど、今のところフルタイムで復帰している人がいないので、残業にならないように、時短内で終わるくらいの仕事量にして戻す。産休前の仕事量にはならないので、自分のところには必ずいくつか残る。
昭和な昔と違って、管理職といえど管理だけしているわけではないので、やることがどんどん増えちゃうんだよね。
とはいえ、育休復帰者のために席を空けておかねば「マタハラ」となるため維持しておかねばならず、全社的に人手不足なので、一時的な異動も依頼できない。
今いる配下の人間で仕事を回すしかないけど、数年この状態が続いているので疲れている。
明らかに残業になるようなタスクを積み上げるわけにはいかないし、残業命令も受け手がパワハラと思えばパワハラになってしまうことが多いので、必然的に自分が巻き取ることになり、自分の労働時間が増えている。
世の中的に子育てを支援しようとか、女性が活躍できる場を増やしましょうというのは良くわかる。
40代も半ばなので、自分が若い頃は理不尽なことがたくさんあったし、それを今の若い女性たちが引き継ぐべきではない。
理性ではわかっているが、最近、感情の面ではそう思えない時が出てきた。
全体に対して思っているわけではなく、ピンポイントでそう思うことが多い。
自分の会社は中小企業の中でも福利厚生は頑張っている方で、育休・産休を含めて、休職したからといって、給与や昇格面で直ちに不利になるということはない。
本人が頑張った分だけ評価されるよう色々工夫しているし、自己評価の書き方が下手な部下に対しては、書き方をアドバイスする事もある。
ただ、大企業とは違うので、彼ら並みの福利厚生を運用することは不可能だ。
自分はいくつかの会社に在籍していたので、中小企業の中では相当まともな福利厚生の運用をしていると思っている。
入社してくる人たちが「福利厚生が決め手です」というほどには改善しているし、新卒入社組を含めても在籍平均年数は10年を超える。
一番困るのは「他の会社はやってるのに、うちはない。おかしい」と言われることだ。
あまりにも何度も訴えるので、「参考にしたいので、会社名を教えてください」というと、大体黙る。
たまに会社名を言う事もあるのだが、超大手だったり、主力業務の違いがあったりして、うちでは絶対に運用ができない制度も多い。
風が吹いたら消し飛ぶ中小企業と超大手を比べられても困るし、環境を無視した無茶苦茶な要求を何度も繰り返すので、人事からも私が嫌味を言われる始末(私に訴えられても困る。私だって一従業員だ)。
人事が要望を受け入れないので、どうにかしてくれと訴えてきたことも何度かある。
でも、今の体制では絶対に無理な要求で、それを通すと他のスタッフへの負担が爆増する。個人的な考えは別として、組織を率いる管理職としては容認できない。
また、無理矢理要求を通した場合、後日の禍根となり、周囲の社員のやっかみ等で在籍し続けるのが難しくなる可能性がある。
多角的に考えて会社と相談の上で「対応は無理です。旦那さんと相談・協力してやりくりできませんか?」という返答をするのだが、要求した本人はそう思わない。意地悪をされたと思うらしい。
タチの悪いことに、要求が受け入れられないとわかるとヒートアップしてきて、個人を攻撃するような言動も出てくる。
「うちの会社規模でその制度を整えるのは無理です。このままでは就業できないということであれば、残念ですが、その会社に転職してください」と言いそうになったことは何度もある。言わないけど。
コンプライアンス遵守の会社なので、役職が上がる時は必ず「言動に注意してください」と念を押される。
うちの会社の場合、役職が上がるほど言動が丁寧で、暴言を吐くのは部下の方とほぼ決まっている。
部下の暴言で心を病む役職者が出るくらいには、コンプライアンスが尊守される(ひどいなw)
どうにかできるもんなら、すでにどうにかなっている。
できないからその環境で最大限の制度を作っているし、そもそも、それを支える他の社員の負担も考えてない。
対象者全員が、そういう要求をしてくるわけではないが、こちらの業務に支障がでるほど何度もしつこく訴えてくるし、場合によっては個人攻撃とも取れる言動もあるので、人事や管理職が感情的に不愉快になるのは確か。たまに異常性を感じることもある。
だから、数年前に「資生堂ショック」というのが起こった時、まあそうなるだろうなとは思った。
全員が悪いわけじゃないんだよ。ごく一部で悪目立ちする人間のせいなのだ。
育休・産休・時短勤務取得者の全員が自分の配下に集まってきたのは理由がある。
自分と同世代の女性管理職とあまりうまくいかず、異動願いを出したからだ。
むしろ、自分の指導力は彼女らに劣るので、管理職としての能力は彼女らの方が上だ。
ただ、収益という点では私の方が上で色々と余裕がある。ただし、これは自分の能力ではなく、利益率の高い業務が割り当てられた部署の管理職なだけだ。地の利を得ているだけなので、私自身の能力は極めて低い。
言動が言動だけに、他の女性管理職と感情面でうまくいかなくなるのはわかる。
子育てもやや終わっている年代だけど、子育て真っ最中にどれだけ苦労したかは想像ができる。
理不尽もいっぱいあったし、同世代の女性たちは、妊娠すると周囲の圧力で産休・育休を取得できずに退職する人が多かった。
色々なものを犠牲にしながら頑張って今の地位にいるので、自分が要求したくてもできなかったことを、あれもこれもと過度に要求されたら、あまり良い気分ではいられないだろう。自分が同じ立場なら、間違いなく気分を害する。
ただ、私が知る限り、この女性管理職たちは感情面はどうであれ、業務にそれらを持ち込む人たちではない。
うちの会社、業務上で感情的に動く人は管理職になれない。自分本位な人間は、仕事ができても管理職に推薦する人がいないのだ。
どっちかというと、取得者が勝手に「この人はこう思っているに違いない」「周囲はこの女性管理職と自分を比べてるに違いない」と思い込んで異動したいと言う。
まだ自分の部下ではない頃、そういう風に相談されたことがある。
未婚子無しの自分でさえ、たまに「こいつは何を言っているのだ」と思うので、子育てを経験して乗り越えた人から見ると、もっと強く思うだろうなあと思う。
が、管理職は他人の感情などにかまけている暇はないので、半分くらいは受け手の思い込みだろうなと思う。
同じ女性でも、既婚子育てを経た女性でも、感情的な面では色々ある。
だから、そういう環境で追い詰められている最中に「子育て支援」とか「女性活躍」とか言われると抵抗を感じてしまう。
「子育て支援」は別として、「女性活躍」を全ての女性が望んでいるかと思われても困るよなあ。
自分も数少ない女性管理職の1人だけど、管理職になりたかったわけじゃない。
やってることが管理職と同じなのに、非管理職と同じ給料で働かされるのが嫌だったから昇進しただけだ。
とはいえ。
色々訴えたいことは山ほどある。きつい、めちゃくちゃきつい。仕事サボるほどにはきついと感じているw
でも、どっかで誰かがやせ我慢しないと、いい方向にはなっていかないんだよね。
でも、昨今の企業、常時余剰人材を置けるほど余裕があるわけじゃないんだよ。
人を採用するにも、色々問題があって解雇するにもかなりのパワーが必要になる。
日本の企業は解雇しづらいって言われているけど、実際はそうでもない。非常識な問題社員は解雇できる。
ただ、すごいパワーが必要なんだよね。不当解雇ではないことを証明するためには、メチャクチャ労力がかかる。
真面目で「良い会社」って言われる会社ほど、この部分はしっかりやる。
だから、解雇しなくてもいい人材を採用したいって中の人たちは考えるんだよ。
余裕あったら、みんなで窓際で日向ぼっこできて、ある意味幸せになれると思うけどね。
一企業がこういう制度を支えるのは本当につらいし、奥さん側の会社におんぶに抱っこな会社もある。
もちろん、うちはおんぶに抱っこされている方で、「旦那の会社がタダ乗りしている」って文句言うくらいにはきついw
よく話が上がるのは、「取得していない配偶者の会社から、取得している配偶者が勤める会社にお金が入ればいいのに」というもの。
そうすりゃ、どの会社も率先して育休取らせるようになるだろうから、どこかの会社だけに集中することはないよね、という戯言を言っている。
戯言なので半分は冗談だが、そうでも言わないとやっていられない。
タダ乗りしておいて「(妻の会社の)支援がなってない」っていう人もいるんだよねw
そういう苦労も知らずに「子育て中の自分は大切にされるべきだ」とか「子供は将来的にあなたの老後を支えるんだから助けろ」とか「ワーキングマザーを差別している」って言われてもなあ…。
老後の件はそうかもしれないけど、今現役の人たち、あんたらの子供のために税金払ってますよ?何もしてないわけじゃないんだけど。
世の中を良くするには、今までのやり方ではダメなのはわかっている。
それなら、あるカテゴリーだけでなく「みんなで幸せになろうよ」ではダメなのかなあと思う。
仕事のできる女性は男性を扶養してもいいだろうし、男性が家のことをやってもいいと思うんだよ。
それこそ、適材適所で生きることができれば、性別や年齢でカテゴリー分けしなくても、ある程度幸せに暮らせると思う。
同時に勘違いしている人もいるなと思う。
こんなのも一時期流行ったから、違いを知ってる人も多いと思うけど。
https://www.facebook.com/groups/159231411586664/posts/957435791766218/
「公平」であるべきとか「SDGs」とかは、みんなが気持ちよく生活できるというより、みんなで不都合を分担しながら生きていこうぜって話。
だから、100%要求を通そうと言うのが間違いなんだよね。取捨選択しないと、本当に得たいものは得られない。
今は過度期できついだけだと思い込もうとしてるけど、息切れしてきた感じだ。
報いだの結果だの責任だの、「彼」に責を負わせるような言葉は一切口にするな。犯人に同情するような、理解を示すような言葉も一切するな。
まともな神経ならそんな言葉は出ないだろうが、興奮した時は何を言い出すかわからないのが人間だ。
今は徹底的に、何を話すべきか考えろ。熟慮せずに言葉を発するな。
搬送時は意識があったという話もあり、医学が勝利することを願うが、もしものことがあれば、彼は永遠の星に、英雄に、ある種の人々には神になる。
彼は凡百の人間では無い。
どこまでが彼の手柄かは議論があるにせよ、彼の政権下においては多くの変化がもたらされ、少なからずの人々に幸福な記憶として留められていることを直視せよ。
一人の愚か者が放言すれば、、彼の死の責任はその集団にのしかかるだろう。
支持者達に声高に非難され排撃されるだけでなく、ただの市井の人々、良識的な人々もいい顔はしないはずだ。
選挙は(何事も無く実施されるのであれば)おそらく地滑りが起きるだろう。
憤懣を、不平をこぼすこと自体が不道徳とみなされ、抵抗を叫ぶ人間は危険極まりなく厄介な人間として扱われるだろう。
小田原征伐において、秀吉が沼津城に進軍の際、案内役の家康家臣の伊奈忠次が舟橋を架けた。しかし秀吉は、側近の三成の言に従い、用心して渡ろうとしなかった。そこで長政が手勢を率いて先に渡り、舟橋の安全性を証明したという(大道寺友山の『異本落穂集』より)。
同じく小田原征伐の際、秀吉は、家康の居城の駿府城に宿泊する予定であった。しかし同じく三成が「駿河大納言殿(家康)は北条左京(北条氏直)の岳父であり、内応している疑いがございます」と述べた。すると長吉は「大納言殿はそのようなことをされる御方ではない。そんな偽りを信じてはいけませぬ」と秀吉に直言した。秀吉は長吉の言葉を容れて駿府城に入城し、家康から手厚いもてなしを受けたという(『異本落穂集』より)。
秀吉が文禄の役で自ら朝鮮に渡ると言い出した際、三成は「直ちに殿下(秀吉)のための舟を造ります」と述べたが、長吉は「殿下は昔と随分変わられましたな。きっと古狐が殿下にとりついたのでしょう」と述べた。秀吉は激怒して刀を抜いたが、長政は平然と「私の首など何十回刎ねても、天下にどれほどのことがありましょう。そもそも朝鮮出兵により、朝鮮8道・日本60余州が困窮の極みとなり、親、兄弟、夫、子を失い、嘆き哀しむ声に満ちております。ここで殿下が(大軍を率いて)渡海すれば、領国は荒野となり、盗賊が蔓延り、世は乱れましょう。故に、御自らの御渡海はお辞めください」と諫言したという(『常山紀談』)。
石田三成について研究している白川亨は、関ヶ原の戦いの前の長政謹慎事件は、長政や前田利長を三成らの反家康派から分離させようとした家康の陰謀、挑発であるという説を提唱している。長政の嫡子・幸長は三成と犬猿の仲だったため、長政は両者の間で苦悩していたという。
甲州八珍果を定め、甲斐国で果物栽培を奨励したという説があるが、正確なところは明らかになっていない[8]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E%E6%B0%8F#%E6%AD%B4%E4%BB%A3%E5%BD%93%E4%B8%BB
名臣だなあ
日本では、戦国時代において、徳川家康が窮地を逃れた際の事例がある。元亀3年12月22日(1573年1月25日)、三方ヶ原の戦いで徳川軍は武田信玄率いる武田軍に敗れて浜松城に逃げ帰った。武田軍はこれを追撃するが、家康は「あえて大手門を開き、内と外に大かがり火を焚かせた」[1]。敗走する徳川軍を追撃して、浜松城門近くまで押し寄せてきた山県昌景・馬場信春の両隊は、大手門が大きく開かれ、かがり火が焚かれているのを見て、それに警戒して攻撃をためらっているところへ、三方ヶ原から引き揚げてきた徳川方の大久保康高らと遭遇し、慌てて引き返そうとしたしたところを城内から討って出た鳥居元忠・渡辺守綱らの軍勢に挟み撃ちになり、苦戦の末、ようやく名栗方面へ脱出することができた[2]。家康としては、なんの策もなかった。策のないまま、信玄が空城計と見破り、しかも、見破ったが故に、兵法家の信玄が、却ってそこに策略の不審を抱いて手を出すのをためらうことに、一縷の望みを抱いたのである[3]。 つまり、信玄の思考の上を行ったわけで、信玄が並みの軍略家なら、むしろ空城計と見破って、直ちに城門へ突入させたはずである。信玄は非凡に過ぎて、却って手を出せなかったもので、結果的には、家康の心理作戦勝ちであった[3]。
私に対する告訴を検討しているという人物、ここでは仮にX氏と表記しますが、X氏及び第三者の方々に対して、以下の点について説明をします。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
1 私が「X氏の元・妻である」と自称したとするX氏の主張に対して
事実(1):私は、一度も「私はX氏の元・妻である」と自称していません。
まず明白な事実から述べると、私は「X氏の元・妻である」とは、最初から一言も書いていません。
これは、はてな社のログを確認できる立場の担当者ならば、直ちに確認が可能な事実であります。
したがって「私が自分のことを、X氏の元・妻であると自称した」という指摘は、明白な虚偽であります。
事実(2):私の記事には、特定の人物を想起させうるような、言外の情報は含まれていません。
或いは、X氏の側は「それでも私が書いた記事は、言葉による明記はしていないものの、X氏の元・妻であるかのように誤認されうるものであった」と主張されるかもしれません。
しかし、仮にそう言われたとしても、それは無理のある主張と言わざるを得ません。
私は、セクシャルハラスメント被害を受けた人間の立場として記事を執筆しましたが、そのセクシャルハラスメントが行われた場や年月日、関係者の個人情報(年齢・職業・居住または就業場所など)を一切記載していません。
また、元・配偶者が、私の受けたセクシャルハラスメントの被害について、理解や共感や被害回復の手助けや協力を示してくれなかったという話についても、ハラスメント被害者のパートナーや伴侶が被害者の苦痛について理解や共感をしてくれなかったり、被害回復の手助けをしてくれないという事は、多々あるハラスメント被害事例の中では(悲しいことに)ありふれた話です。
さらに、セクシャルハラスメントの加害者が、夫婦やカップルの公私に渡る知己の人物であることも、これもまた(悲しいことに)ありふれた話です。
セクシャルハラスメントの加害者が、年長者であるケースについては、指摘するまでもなく、ありふれた話です。
つまり、私のセクシャルハラスメント被害について書いた記事には、そもそも「言外の情報」と呼びうるような、特定の人物を強く示唆したり、想起させたりするような、特異な描写が含まれていません。
故に「私の執筆した記事は、言外情報によって、私をX氏の元・妻であると誤認させる内容であった」とする主張は、万が一なされたとしても、それは全くの言い掛かりに過ぎず、不合理で妥当性に欠ける主張と言わざるを得ません。
補足(1):曖昧な記述による告白や相談は、ハラスメント被害者が二次的被害を回避するための正当な防衛行為です。
私の書いた記事が特異な記述を避け、また曖昧さを有しているのは、二次的被害を回避するように心掛けた結果です。そのような曖昧な記述は、ハラスメント被害者が自身を護るための正当な行動であると私は考えています。
セクシャルハラスメントを含めた様々なハラスメントの被害は、一次的な被害そのものが非常に苦しいものであり、そうであるにも関わらず、その苦しみについての理解や共感、心理的な救いを他者に求めようとすれば、自分の顔や名前などの個人情報を知られることを伴って、二次的な被害を被る可能性も増大するというジレンマが有ります。
そのようなジレンマや二次的被害の苦痛を回避しつつ、匿名性を保ったままで被害者が自らの苦しい胸中を吐露して他者の理解や共感を得ることは、私が利用するはてな匿名ダイアリーの果たし得る貴重かつ社会的な意義のある機能であると、私は認識しております。これは、かつて、はてな匿名ダイアリーに「保育園落ちた、日本死ね」と題する匿名記事が投稿されたことによって、日本の社会全体で議論や改善の動きを促進した事例を思い出していただければ、容易に理解していただけうるものと私は信じております。
私がはてな匿名ダイアリーの機能を活用して、私自身の個人情報を推察されないように曖昧性を持たせ、匿名性を維持したまま、私自身のセクシャルハラスメント被害およびその苦しみについて告白したことは、他者から何ら非難されることではないと私は考えています。
補足(2):仮に「私の記事は、X氏の元・妻ではないと識別可能な程度の具体性を伴って執筆されるべきであった」という要求がなされたとしたら、それは不当且つ過大な要求と言わざるを得ません。
具体的記述をすることによって、私が何者であるかを私自身のハラスメント事例における加害者や私の近しい人たちに察知され、私が二次的被害を被る可能性が増大します。そのような、私の危険に繋がりかねない具体的な記述を要請されたとしたら、それは私の意志や権利に反する不当かつ過大な要求であると私は考えます。
当初は明言を避けてはいたものの、既に私は「X氏の元・妻ではない」ことを明言しております。この明言は、訴訟の可能性を示すという手法によって、X氏から精神的プレッシャーを加えられたことによって判断力が低下したために、不本意ながら行った明言です。不本意というのは、一旦このような明言を行うと、それに続いて、覗き趣味的に「お前が被害を受けた事件とは、事件Aのことか?」「それとも事件Bか?」等々と、人物特定を目的とした質問が次々と発生することを誘発しかねず、そうなると包囲網が徐々に狭められて、ついにはセクシャルハラスメント被害者としての私が誰であるのかを個人特定されて、世間の好奇の目に曝されかねないからです。
仮に、私がX氏の元・妻と第三者に誤認されたのだとしても、ハラスメント被害者に対して個人特定が可能な証言や記述を強制して、被害者の負担を増大させるようなことは避けるべきと考えます。
事実(3):「私がX氏の元・妻ではない」ということが即ち「私がセクシャルハラスメント被害者ではない」ということを意味するということはありません。
X氏は、些か奇妙な主張として「この文章を書いた人間(私)は、自分(X氏)の元・妻ではない。したがって、この人間(私)が書いている内容はデタラメである」という主旨の論理を展開しています。
既に述べたとおり、私は最初から一言も「自分はX氏の元・妻である」と言っていませんし、言外情報によって「自分はX氏の元・妻である」と示唆したり想起させることもしていません。また、私はX氏の元・妻ではないことも(明言することで不利益や危険性が増大するため不本意なのですが)明言もしています。
これも既に述べたことですが、この社会においてセクシャルなもの非セクシャルなもの問わずハラスメント被害の事例は、悲しいことに「ありふれた出来事」と言ってもいいほどに頻繁に見られ、発生件数も多大なるものです。町山智浩氏の虚言を記録したインタビューの中で語られたセクシャルハラスメントが実在しなかったと判明したからと言って、世の中に起こっている多数のセクシャルハラスメントまで実在しなくなるわけではないことは、容易に理解できるはずです。私は、この社会にごまんと存在するハラスメント被害者たちの中の一人なのです。
一つ喩え話をしますが「こいつ(私)はX氏の元・妻ではない。だからセクハラの話はデタラメだ」という論理の構成は「この動物は犬ではない。だから哺乳動物ではない」というのに似ています。しかし「犬ではない哺乳動物(ネコ、ネズミetc.)」がいくらでも存在するのと同様に「X氏の元・妻ではないが、セクシャルハラスメントの被害者である人間」はいくらでも存在することは、すぐに思い至るはずです。論理学の基本を学ばれた方ならば「P→Q」(PならばQである)を否定するのは「¬Q→¬P」(QでないならばPでない)であって、決して「¬P→¬Q」(PでないならばQでない)ではないことはご存知のとおりです。
X氏が「こいつ(私)は自分(X氏)の元・妻ではない」ということを根拠にして、私のセクシャルハラスメント被害まで虚偽であるかのように結論づけようとされていることは、かなり無理があると私は思います。
謝罪すべき点は謝罪し、しかし、それとは別に誤った理解をされているおそれが有ると思った点については、説明すべきと思い、筆を取りました。
とりあえず、この記事は以上です。
あるけしからん企業に対して不買運動が起こったとき、その企業の従業員は、大した責任も無いのにとばっちりを受けることになるが、それは理不尽ではないか? という疑問ですね。
前提として、少なくともいじめや誹謗中傷などはNGでしょうが、それは不買運動の話ではないので分けておきましょう。
以下では、不買運動 → 売上が下がる → 従業員のボーナスが下がる みたいな状況を想定します。
まず、責任が全くないのかという点を検討すると、「ちょっとはある」という話に落ち着くのではないかと思います。
この責任というのは、たとえ話になってしまうけど、遺産と借金の相続の話になぞらえることができる。以下が一般的な理解かと思います。
ひるがえって、企業と従業員の話をすると、まず、次のような考え方があり得る。
上記を前提とし、不買運動をする人間は、おそらく、従業員に対して次のように思っているはずだ。
上記とは逆の方面からも、たとえば以下のように、いろいろ反論できるはずである。
このような事情があるので、あるけしからん企業に所属しているからといって、特定の従業員を直ちに非難できるかというと、それは違うだろう、ということが言える。
そういう逡巡のない人は、働かせている想像力が少し足りないか、他にもっと強い何らかの信念があるか、どっちかでありましょう。
そして、補足するならば:
なお、私は普段このエントリのようなことを真剣に考えてはおらず、いま思いついたことをバーッと書いただけです。その程度の信頼性だと思っていただければ……。(不買運動とかも意識する機会は無い。まあ個人的に、評判の悪い会社の商品を買うのを控える、くらいはしてるかも。)
三角関数やその加法定理を教える事や測量などへの応用を教える事まではいいとしておいて…
数IIIや数Cまで学習する高校生には三角関数の微分(と積分)まで教えるのが当然という風潮があるがそれでいいのか少し疑問はある
というのも三角関数の微分というのは高校生が学習するには難しい部分が多分に含まれているからだ。加法定理より難しい
まず sinx/x=1 (x→0) さえ証明できれば加法定理を使ってsinxの微分が分かり
その後に他の関数の微分可能性や微積分が求まるのは事実である。しかしsinx/xの極限については証明が中々難しい
S^1を合同変換群の制限と同型になるような群とみなして実数群R^1からS^1への準同型のパラメーター表示として与えられるものやその亜種が
sinx,cosxの幾何的な定義であり高校数学の三角関数もこの類に連なる定義を採用している。この場合はsinx/xの極限は直ちに求まるものではなく
高校数学の範囲で証明しようとするとうっかり循環論法になる事がある。証明が台無しになるのを避けるのが中々難しいのだ。
一方で代数関数の積分として逆三角関数を定義してそこから三角関数を定義する流儀もあり、高木貞治の解析概論ではこの定義を採用している。
この場合は微積分はほぼ自明なものとして導かれるが上記の幾何的な定義との同値性を示さない事には
三角関数の幾何的なお話が全く出来なくなってしまい教育として足りなくなってしまう。
このように三角関数はどのように定義しようが微積分が難しいか幾何的な性質との関係を示すのが難しいかの何れかの困難が立ちはだかる物なのである。
そこを曖昧なままにして大雑把に教えるやり方もあるが、その場合は当の高校生達に「数学が厳密な学問ってギャグなの?」と笑われても仕方ないものになる。
結局どうすればいいのやら…
こんなもん地上で爆発したらどうなるねん
https://www.youtube.com/watch?v=wtthhilAO3Y
昭和17年(1942年)5月、日本軍の攻勢により推移していた太平洋戦争は、後に戦局の変わり目として位置づけられる事になる「ミッドウェイ海戦」を目前に控え、重要な局面を迎えていました。
しかし、戦時中とは言え普段とほとんど変わらない生活を送っていたここ下湧別村の漁民にとっては、そんな国家の重大事など知る由もなく、折しもオホーツク海沖合に現れたニシンの大群の行方が目下の関心事でした。
ニシンの豊・不漁はその年の村民の生活水準にそのまま直結するため、その群の到来に村はにわかに活気づきます。
そんな5月17日、その日も沿岸では村の漁師たちが総出で網を仕掛けていましたが、その作業中に一人が波間に浮遊する金属製の樽状の物体を発見します。
そして、素人目から見ても異様な雰囲気を醸し出すその”水に浮く不思議な鉄の塊”がおそらく「機雷」であろう事に彼らが気付くまでにはそれほど時間はかかりませんでした。
思わぬ危険物の漂着に漁場は騒然となりましたが、「これが機雷であればなおさら放置しておく訳にもいかぬ」との”勇気ある”漁労長指示により網に掛けながらひとまず浜まで引き揚げる事にします。
数十分後、幸い移送途中で爆発する事もなく「ポント浜」の砂上に”恐る恐る”陸揚げされた直径約1.2m・長さ約1.5mの機雷と対峙した一同は、まず警察への通報が先決との判断により代表者が市街地にある派出所へと向かいました。
ところが、その時派出所では村の東側に隣接する「サロマ湖」内で時を同じくして発見された”もうひとつの機雷”を巡って既に大騒動となっていたのです。
”国籍不明”の危険物が二つ同時に漂着したこの”大事件”については、一帯を所轄していた「遠軽警察署」を経て直ちに「北海道庁警察部」へ連絡が取られましたが、意外にも警察部からの回答は「所轄署責任において爆破処理せよ」というまことに素気ないものでした。
実は北海道の特に日本海沿岸地域における浮遊機雷の漂着は当時それほど珍しくはなく、これまでの事例では当該所轄警察署の手によって難なく処理されていたという事実が、先の無関心とも思える本部指示につながる訳ですが、当地では前例がなく、ましてや爆発物処理の専門知識もない遠軽警察署としてはその対処方法に頭を悩ます事になります。
その後即刻開かれた署内幹部会議上では「軍の協力を仰ぐ」という策も提案されたものの、遠軽警察署長としては「他の署が自力で処理しているレベルの事案について他所の助けを乞う」などその自尊心が許しませんでした。
こうして、意地でも地元の手によって行わざるを得なくなった作業は約1週間後の5月26日午後1時に決行すべく、二つの機雷を「ポント浜」一箇所に集め、遠軽警察署の監督の下、その運搬・管理を地元警防団(警察や消防業務を補助する民間組織)に、そして爆破処理を管内にある「生田原銅山」の”発破技師”に依頼する事が正式決定されました。
しかし、この時署長の頭の中ではこれを機にもうひとつの”とんでもない”計画が進行中だったのです。
ここ下湧別村をはじめとする遠軽警察署所轄管内では普段大事件が発生する事もなく、平穏であるがゆえ警察署長の立場としては至って”退屈”な日々を過ごしていました。
また、生活のため日頃と変わらず農・漁業に勤しんでいる人々が、署長の目には「戦時中にも拘わらず危機意識がない不心得者」のようにも映っていました。
そこで、この機雷爆破処理作業を一般に公開、爆発の威力を見せる事で庶民の「戦意」と「国防意識」を高めると同時に、警察の威信を確固たるものにするべく画策していたのです。
かくして、村役場などを介し回覧や口コミで村内はおろか近隣地域にまであまねく周知されたこの”一大イベント”は、物珍しさも手伝っていたずらに人々の興味をそそり、更には当日わざわざそのために臨時列車が手配された事もあって、その日は爆破時刻の午後1時に向けて老若男女合わせて一千人規模の見学者が各地から現場へ向かっていたと聞きます。
さて、決行2時間前の5月26日午前11時頃、現場のポント浜では遠軽警察署長以下警察官9名と、署長命令によってなかば強制的にもれなく召集された下湧別市街及び近隣集落の警防団員約150名が事前集結していました。
二つ並べられた機雷を前に、あとは生田原から火薬の専門家が到着するのを待つばかりでしたが、しかしここに至って爆破方法を巡り現場が混乱する事になります。
通常、機雷の爆破処理というのは水中において一つずつ行われるのが定石であり、その日もそれに従って実行される予定でしたが、当日になってその事実を知る事になった漁業本職の警防団からの猛反対を受けます。
というのも、海中での爆破は一帯の魚介類を死滅させる恐れがあり、それは漁民にとっては明日からの生きる糧を失う事を意味しました。
彼らにしてみれば死活問題だけに警察側からの再三の説得や恫喝に対してさえ一歩も退く事は出来ず、しばらくの”攻防”の末、漁師たちのあまりの頑強さについに根負けした署長は陸上処理への変更をやむなく了承します。
粘った甲斐あって勝ち取った結果に安堵した警防団員たちでしたがその代わり、陸上で爆破するには現在近過ぎる二つの機雷を、誘爆させない距離として設定された約50mの間隔まで引き離す作業が待っていました。
こうして気乗りしないまま予定外の力仕事をする羽目となった彼らの心中には、これらが「既に機能を失った不発弾に違いない」という思いが一様にあったようです。
発見されてから1週間まったくの変化も見せなかったこの”錆びた鉄塊”に対して徐々に警戒心が薄れていった事に加え、ことサロマ湖から運ばれてきた方には、実は数日前に”命知らず”な村の鍛冶屋によってあろうことか持ち寄ったハンマーで叩くという危険極まりない試みがなされていますが、結果その衝撃にもびくともしなかったという事実も、「もはや危険ではない」と彼らを暗に確信させる要因になっていたのでしょう。
それぞれ多忙な仕事が待つ警防団員たちにとって、本業もままならない毎日を無理強いするこの”いまいましい敵”への扱いは、そんな思いもあってか最初と最後では大きく異なっていました。
初めこそその取扱いには慎重を期され、移動も衝撃を与えないように砂上をゆっくり”引きずる”方法がとられていましたが、この段階では労力を惜しんでか本体にロープが巻きつけられ無造作に”転がされて”いたと言います。
しかしやがて、鍛冶屋の”無謀な挑戦”を受けていない方、つまりオホーツク海で発見された機雷が、軟らかい砂から馬車道の硬い轍(わだち)の上に転がり出た瞬間…それは既に浜に到着していた気の早い数百名の”観衆”が見守る中で起こりました。
今まであれほどいかなる反応も示さなかった機雷が、まるでこの時を待っていたかのように火花一閃、大爆発を起こしたのです。
そもそも軍艦をも爆沈させるほどのその破壊力は当初の想像をはるかに超えるもので、破片は爆風に乗って障害物がない砂浜の中を数百メートルに渡り飛散、傍らにいた警防団員や警察官は言うまでもなく、一応安全を考慮して遠巻きに置かれた一般見学者の多くも無事ではいられませんでした。
爆発による黒煙が消えた後には、直径10m・深さ3mの穴と共に、周辺に斃れたおびただしい数の人々が残され、そのほとんどは瞬時にしてその命が失われたであろう様子が一目で判るほど現場は凄惨を極めたそうです。
現場から4kmほど離れた下湧別市街地でさえもその轟音と震動に激しく揺れたと言われるこの前代未聞の機雷爆発事故においては、死亡者112名・重軽傷者112名という未曽有の惨禍を見る事になりました。
そして、この”公開爆破”を企画した遠軽警察署長や、直前において爆破地点を変更させた警防団の代表者も、その過ちを悔やむ時間すら与えられないままこの日帰らぬ人となっています。
この大惨事により現場に居合わせた警防団員のほとんどが死傷し、下湧別村は多くの”働き手”を、そして家族にとっては一家の”大黒柱”を一瞬にして失いました。
「一体誰のせいでこんな事になってしまったのか」…機雷を放った知らざる敵か、現場に丸投げした道庁警察部か、それとも無謀な計画を立案した警察署長あるいは陸上処理を主張した警防団員か…もはやそれをぶつける相手もいない中、人々の行き場をなくした怒りと悲しみだけがポント浜には残されました。
合掌
レジ袋を常に欲しい俺は店員とのコミュニケーションコストのせいで高ストレスな状況になっている。
レジ袋はよろしかったですか?or大丈夫ですか?と聞くのを直ちにやめろ。
どのような返答を求められているのか不明。しかも一言で明瞭に返答できない。
「レジ袋は必要ですか?」のように、「はい」「いいえ」で答えられるように聞け。
俺「いります」
店員「??」
俺「いります!!」
耳ついてんのか。
俺「中で」
店員「(無言で会計して袋をつけないで俺が金を払うのを待ち始める)」
俺「レジ袋ください」
ふざけるな。
レジ袋が必要な客はカードをとって買い物カゴに置く。レジ袋を常に欲しい俺は必ずこれをやっている。
この動作をする前あるいはしている最中に前述の「レジ袋はよろしかったですか?」に代表される問いかけをするのを直ちにやめろ。
このカードシステムを知らない客のためにとにかく聞くように指導されているのだろうが、俺には全く不要である。聞くかどうか客ごとに判断しろ。