はてなキーワード: 奇特とは
スマホのメモ見返してるとときどき昔書いた小説モドキみたいなのがあってゲェッ最悪!と思う
晒そうかな(自傷行為)
俺の思う最高にかわいい女の子を書くぞ!思って書いていた記憶がなんとなくある しかし…キモい
○1年・7月
黒板を隅々まで綺麗にしていく彼女の軽やかな動きをぼんやり眺めていると、突然声をかけられた。
彼女、花崎さんとはほとんど話したことがないから少し驚いたが、よくみると彼女はちょうど「明日の日直」の欄を書くところだ。いま苗字を書かんとする人間が自分のうしろに座っていることに気がついたから、なんとなく声をかけてみたのだろう。
そうだね、と適当に返事をして頷いてみせる。
「がんばってくれたまえ」
気取った調子でそう言って教壇に座ると、花崎さんは学級日誌に取り掛かった。弱くも強くもない筆圧で、今日の時間割だとか欠席者だとかを書き込んでいく快い音がする。
教室にはほかに誰もいない。男子の日直である矢野君は重大な用事があるとかで帰ってしまって、花崎さんがひとり日直の仕事を片付けていたのだ。僕はといえば特に何かがあるわけでもないのだが、なんとなく高校時代の放課後の教室というものに浸ろうと思ってぼんやり座っている。
やがて「できた!」と小さな声が聞こえた。立ち上がった彼女になんとなく目を向ける。
目があった。
「読む?」と聞かれて、答える前に「読まない!」と先取りされる。「なぜなら明日読めるから…」と少し声を低めて歌うように言いながら彼女は教室を出て行った。
読むにやぶさかではなかったのだが、明日読めると言われればそうだ。ヘンなひとだなあ、と思いながら教室に意識を戻して、そのままひとりで20分くらい座ってから帰った。
○2年、5月
たまにはぶらぶら歩いてみるのも悪くない、と思って日曜日にわざわざ高校のある町まで出てきてみた。通学定期券がなければ片道400円近くもかかるところだと思うと、なんとなくありがたみがある。
目を向けたこともなかった駅前の観光案内板を見て、コースを考える。公園の展望台にいって大きく外すことはないだろうからここを終着点にしよう。そのごく近くの城跡にもせっかくだから寄ることにする。道中に菜の花畑なるものがあるな。たぶん今くらいがちょうどシーズンだし、ここにも寄って損はあるまい。その側の用水池というのも気になる。水面が見えるタイプだと嬉しいのだが、フェンスがあるだけかとガッカリするのもこういう散歩の醍醐味かもしれない。
ボンヤリと行きたいところを決めて、携帯電話の地図アプリと案内板を照らし合わせつつルートを確認する。ざっくりわかったところでひとつ息をついて歩き出した。幸い今日は随分いい天気だし風も適度にある。よい一日になりそうだ。
順調に歩いて菜の花畑まで来た。道沿いにそれなりの数の菜の花が咲いている様子は壮観…とまでは行かないが、天気と相まってそれなりに見ごたえがある。のどかな気持ちに浸りながらゆっくりと歩をすすめていくうち、前方に人影があることに気がついた。
あの人なんとなく知り合いっぽいな。熱心に花をみている様子だ。
近づいていくと向こうも気づいたようで、こちらをむいた。
「あれ、吉田くんじゃん」
華やかに笑って右手をひらひらと動かしたのは花崎さんだ。つられて手を振り返しながら、何してんのと聞いてみる。
案外くだらないことを言う。冗談なのかなんなのかと少し当惑していると、それが顔に出ていたのか花崎さんは笑みを深めた。
「そんな困惑しないでよ、散歩してたら良い感じの花があったから見てただけ。吉田くんこそ何してんの?この辺じゃなかったよね、出身」
いかにも僕は5駅離れた田舎の出身である、と答えると、彼女は思案顔になった。
「ここってはるばる来てまでやることある?ちょっと待って、考える……」
案外あるというのが僕の答えだが、考えるという彼女の言葉を尊重して菜の花畑に目を向ける。ときどき横の道路を車が走っていき、遠くから子供の声が散発的に聞こえ、鳥の鳴き声がする。ごく静かないいところだ。花崎さんもこのあたりに住んでいるのだろうか?気になったので尋ねてみる。
「あ、わたし?わたしはそう、この辺だよ。本当にこの辺。目と鼻の先と言っ……たら過言だけど、比較的過言じゃないと思う」
辺りを指し示すジェスチャーをしながらそう言って、彼女はまた考えはじめた。
まあ近くに住んでいるらしい。高校に徒歩で行けるというのは羨ましいなとぼんやり思っていると、声をかけられた。
「四案あります。いち、学校に忘れ物をしたので取りに行っている。つまらないね。に、だれかこの辺りに住んでいる友達と遊びに来た。これもあんまり。さん、部活。妥当だ!よん、この町が大好き。ありえなそう。わたしはいちだと思ってるんだけど、どう?まず正解ある?」
ヘンな人だなあと感嘆しつつ、この中に答えはなく僕はただブラブラしたくてタダで来れるこの町に来たと事実を告げた。彼女は少し驚いたような顔をする。
「タダで来れる!そっか、そういう価値基準もあるよね。奇特な人だ。どうこの町、歩いてみて?」
まだそれを答えるには走破距離が足りない、と伝えると花崎さんは「たしかに!」と笑った。公園の展望台に登るまでの脇道にある送電塔がけっこうオツなものであるという情報を教えてもらい、彼女と別れる。もう少し花を見てから帰るとのことだった。花崎だけに?と聞くと、花崎だけに、と笑われた。
深夜に変なスピリチュアルの広告読んでゲラゲラ笑った後に、ちょっと思うことがあったから思いついたから書いただけなんだ。
乱雑だし、プロット作りも推敲も何もしていない。ただずっと抱えていたものを吐き出す場が欲しかっただけなので、とりわけ目立つものもない。
これを書いている私は、いま地方大で歴史を学ぶ大学院生だ。ストレートで大学院まで上がった位の年齢だと思ってほしい。
私の専門は歴史だが、そこから興味が広がって宗教や、それに関連する文化の話も好きだ。本来専門ではないけれど、色々本を読んでみたりしている。
そこで思うことがあった。宗教・信仰は本当に人の暮らしに密接に関わっていると実感した。そして、勉強を続けたからこそ気付く事や、それまで抱えていた自分の気持ちに整理をつけることができた。
この記事はそんな私の20年ちょっとの人生で触れてきた宗教に関する思い出の覚書だ。
私の家の目の前には、カトリック教会があって、附属幼稚園が教会のすぐ隣にある。ミッション系というやつだろう。
家からすぐということもあって、私と妹はそこの幼稚園に通っていた。
朝幼稚園に来たら、シスターたちに挨拶をし、玄関のマリア像の前で十字を切る。朝礼やお昼のお弁当を食べる前には「主の祈り(天におられる私たちの父よ~のやつだ)」を唱えたし、クリスマスの時期になれば、年長クラスの子たちがキリストの聖誕劇をやるために練習をしていた。
ああそう、あとメダイもちゃんともらっていた。確か聖母子像か、聖母マリアのものだったはずだが、年に数回会うおじいちゃん(どう考えても教会の神父だ。園長って呼んでいたけど)から、新年度になるたびに名札につけてもらっていた。
そんな幼稚園でキリスト教に触れる生活を送っていた幼少期。年長クラスはクリスマスに聖誕劇をしていたけど、年中クラスや年少クラスだって讃美歌を歌ったり、合奏をしていたので、どこの幼稚園もこういう歌を覚えているものだと思っていた。
卒園式のお祝いには、聖書を分かりやすくまとめた絵本をもらった。絵本といっても結構文字が書いてあるし、ハードカバーの大型絵本だった。聖書の教えも何度か聞いていたはずだが、私がきちんと聖書の物語に触れたのはあの卒園式の日だったに違いない。
既に本の虫だった私は、それなりに漢字も読める方の子どもだった。だからその絵本も気になって、天地創造から長い時間をかけて読み通した。
当時6歳の私は、意味はあまり分かっていなかったけど、ところどころの挿絵のインパクトは強烈だった。
洪水に翻弄されるノアの方舟、モーセが海を割るシーン、キリストが茨の冠を被せられ、鞭うたれるシーン。幼い私は、もうそれはそれはびっくりしたのだ。
それから数年経って、小学校を卒業して中二病が芽生えるような年になった頃、私はイキってまた聖書に関心を持ってみた。
西洋美術が分かるやつはかっこいいし、その元ネタが分かるとなおかっこいいと思っていた。恥ずかしい話だが。
そこでもう一度聖書のストーリーを絵本(今度は妹がもらってきたやつだ。まったく同じ絵本だが)を読んでおさらいし、やっぱり意味は理解しないままミルトンの『失楽園』とかを読んでいた。
この後、ぼんやり興味を薄く抱き続けたまま、今一度大学院に入ってからちゃんと勉強をしようと思い、現在に至っている。世界史とかは大事な要素だしね。
こうしてみると私はクリスチャンのように見えるのだが、家には仏壇があるし、今の興味の原点がある幼稚園時代にはその仏壇で「まんまんちゃんあん(関西で仏壇やお墓でお参りをするときに言う幼児語)」をしていた。祖母は今でも毎朝、犬の散歩から帰ると仏壇の前でお経を上げる。
父方の祖母と同居しているのだが、祖父は私が生まれる1年ほど前に亡くなっている。祖母は幼いころの私の面倒を、共働きの両親に代わって見てくれていたから、幼稚園から帰ると「おじいちゃんにまんまんちゃんあんして、ただいま言うんやで」と言われるがまま、お鈴を叩いて手を合わせていた。今でも何か報告(たとえば大学に受かった時や、卒業認定をされた時)があるときは仏壇の前に座ることがある。
お盆やお彼岸には、お墓参りはできるだけしようと思っているし、昨年京都に行ったときは私の家の宗派の本山のお寺にもお参りした。これは本当になんとなくだったけれど、行ってよかったなとは思っている。
だから私は、今のところは仏教徒で、ごく一般的な日本人の宗教観なのだけど、困ったことに、私はとある宗教の3世にあたる血筋でもある。
名前を出すのは少しはばかられるので婉曲的な表現をするが、先述のように私の家は仏壇のある仏教徒の家だ。宗派を言えば浄土真宗。
ただ母方は宗派が違い、日蓮宗なのだ。分かりやすく言えば父方の祖母は「南無阿弥陀仏」と唱えるけれど、母方の祖母は「南無妙法蓮華経」と唱える。
この時点で察しの良い方はお分かりかもしれない。母方の祖母はいわゆる「学会員」だ。
だから、母方の祖母の家に遊びに行くと某新聞が置いてあったし、本棚を見れば某氏の著作が置いてあった。
母自身は学会員ではない(嫁いでいるし)し、母の姉夫婦もそうでないのは知っている。私自身会員ではない。
だから3世を名乗る立場ではないのだが、私は学会員としての祖母の姿を見て、ああいった宗教に対する疑問を抱くようになった。
実際あの学会について「おや?」と思ったのは、私を可愛がっていた母方の祖父が亡くなった数年後だった。
祖父が亡くなった後、葬儀や四十九日の法要に関しては違和感を感じることはなかった。後になり、伯父がかなり骨を折ったことを知ったのだが。
違和感をはっきりと感じたのは母方の伯母夫婦、大叔母、そして私たち家族と祖母が参加した七回忌の法要だ。
いわゆる法事だから、自分の認識では「お坊さんを呼んで、お経を読んでもらって、そのあと親族で食事をする」というものだった。事実父方の祖父の法事はお坊さんを呼んでいる。
まず、お坊さんを呼んでいなかったのだ。黒スーツに黒いネクタイを締めた見知らぬ男性(見た感じ祖母とそれほど歳は変わらない人だった)が居て、私の知らない親戚かと思っていた。最初は。
いつになったらお坊さんが来るのだろうと思ったら、法事が始まるから仏壇の部屋に来いと言われた。言われるがまま妹の隣に座り、数珠を持っているとその男性が仏壇の前に座って、読経を始めた。
「は?」と思った。なんでこのオッサンがお経読んでるねん。お坊さん来られへんかったん?違和感しかなかった。
どうやら件の学会ではその地区で一番偉い学会員が法要の読経をするということを知ったのは、さらにそれから2年ほど経った頃だ。
ただ法事の時に、伯父が「僕はちゃんとした日蓮宗のお寺に骨を埋めてもらうように言っている」と若干怒気をはらんだ口調で言っていた理由が、理解できた。
母方の伯母夫婦とは、その七回忌の法要以降会っていない。いや、何度か伯母とは会ったが、伯父とはそれ以来もう何年も会っていない。
昔はよく祖母の家にお盆や正月の折に触れて来てくれていたのだけど、仕事の関係で来れない、と言うのが聞いている理由だ。でも、多分彼はきっと、学会員である祖母宅周辺の人に会いたくないのだろう。少しだけ言い合いになっていたし、伯父が祖父の葬儀に口出ししたことで何かがあったのだろう。
同時に、祖母が熱心に読経を一日に何度も行う理由、祖母の家にあった新聞や書籍がなんだったか、芋づる式に分かってちょっとだけ嫌気がさした。
祖母よりも熱心だったのは大叔母(祖父の姉)で、会合(というのがあるらしいが、この辺りは詳しく知らない)にも熱心に参加していたみたいだ。
別にこの記事で批判をしたいわけじゃない。けれど、どうしても伯父の言葉がずっと心に引っかかっているのだ。
「お義父さんの事も、ちゃんとお弔いしたいのにそれが出来ないのはほんまに悔しい」という伯父の言葉が。
いま色々な宗教の事を学び、宗教が社会に与える影響の強さを知った上で、私は伯父の言葉に同意したい。
信仰は自由だ。それはこの日本で認められた権利だ。けれど、大好きだった祖父のことを、あんなジジイの安い読経で弔いたくはないのだ。
そしてああ言った新興宗教団体が、親族との軋轢を産んでいることを伯母夫婦の一件で身に染みて実感したのだ。
母方の祖母と我が家の仲はいい。祖母はいま一人暮らしだし、私も長生きしてほしいと思っている。
けど、少しだけわがままを言うなら学会と縁は切ってほしいかな、と思わなくはない。
少し愚痴っぽくなったが、最後にその新興宗教がらみの話をちょっとだけ聞いてほしい。
大学進学以降そうした新興宗教がらみのトラブルやエピソードは少なからずあると知った。友人も巻き込まれたことがあったらしい。
大学の最寄駅前には某証人の人達が冊子を配るために立っているし、家にも何回かチラシがポスティングされたり、勧誘がそもそも来たりした。迷惑だから帰れ、と総スルーをかましたが。
去年なんか、右翼のおっさんが一般人に絡んで暴行しかけた事件の証言を、某会の勧誘をしていた女性二人がしていて「情報量が多い!」と内心ツッコミを入れた現場を目撃した。
彼らも、それを信仰するのは自由だけど、私のように嫌悪するまでもないがもやを抱えた人間を周りに産んでいるのではないかな、と時折思わなくない。
スピリチュアル系のトンデモ科学に関するツイートがTwitterなどでも話題になりがちだが、そういうのを見ても「ああ、なんというか、かわいそうだな」と思ってしまう。
思ってしまうだけで、それを思いっきりネタにして笑い飛ばしているあたり、私はかなり嫌な人物だなと自戒しなくもないが。
何度も言うが、批判する意図はない。あなたがもしここまでに挙げた何かの信者であっても、私は知らない。
ただ、ひとりの学生が格好をつけて、自分は何を信仰しているのだろうな、と思い返すための文章だから、大した感想も求めていないのだ。
7月からコンビニ3社でレジ袋が有料化 注目高まるエコバッグも新型コロナ感染リスクに不安の声…対策法は?
https://www.nippon.com/ja/news/fnn2020060549399/
>可能であれば、マイバッグは(店に)持ち込まないというのが、感染対策上はいいということになります
>また、街行くエコバッグの利用者66人に「洗濯をしたことがあるか」と尋ねると、半数以上の52%が「ない」と回答。
>こうした中、環境への配慮から始まるレジ袋の有料化。正しいケアさえすれば、エコバッグも安心して使えるという。
>洗濯できるものであれば洗濯して持ち込むというのがいいし、お店に持ち込む前にアルコール等でしっかりと清拭して(店に)持って行かれるのが望ましいと思います
断言しても良いけど、毎回買い物する度にここまで手間をかける人なんていないよ。
例え意識が高い人であってもアルコールを振りかける程度で毎回洗濯なんかするわけがない。
良くて1週間に1度すればマシな方と言えるし、それならばリスク自体は変わらない。
エコバッグ何枚も買って回すとかする人とか今じゃ奇特な方でしょ。
生花や土に植えている植物はそれこそマイバックの使用なんて、非現実的だからそれこそレジ袋の利用は避けられないし、ホムセン関係は大きいものも多くてそういう意味では非効率的。
それに今ですらケーキ屋やパン屋とか個人商店レベルでは嫌がっている所も多いし、企業においても大手の大企業の良く判っていない上層部だけが賛同していて、現場レベルだと余計な手間ばかり増えて嫌がっている人も多いからね。
スーパーにしてもコンビニにしても店員に余計な手間が増えるばかりだからね。
それと喜んでやっているのか内心嫌がっているのか知らないけど、百貨店なんてただでさえ不景気及び消費税の増税、そしてコロナ禍の直撃で瀕死状態なのにここで更なるレジ袋有料化は余計に客足自体が遠のく悪手にしかならないのも目に見えてる。
それにエコバッグ自体小さいものが多いし、大きいものは入らないので絶対客とのトラブルも今後増大するよ(笑)
はっきり言って代替不可能のものも多かったのにも関わらず、強引に強行させたLED普及の時と同じで良く判ってない人が作った机上の空論による産物であり、これを作った人達はそれこそまともに買い物とかした事ない人達なんじゃないかな?
環境対策で一番有効なのはそれこそ人間の活動を潰す事だから、究極的に言えば人類が絶滅する事だってのは専門家も皮肉交じりで言っている事だからね(笑)
この辺もトランプ大統領がパリ協定から離脱し、環境政策自体嫌厭しだした理由なんだしね。
そもそもあの辺の環境対策とやらも排出権辺りから本気でおかしいものばかりだったから。
海洋汚染についてはポイ捨てが原因ならばそれを減らす努力をするのならば、ポイ捨てを防ぐためにゴミ箱を増やす方が効果的であり、レジ袋以外にも要因自体多いのだからはっきり言ってこんなもの家計のコスト増加及び更なる経済の停滞を招くだけであって、害悪でしかないよ。
今じゃ逆にゴミ箱を減らすとか却って不法投棄やポイ捨てする状況を生み出している本末転倒な結果を訳だしね。
ゴミ箱に関しては彼ら曰くテロ対策とか言っている側面もあるからこれだけが問題ではないのだけどさ。
それにそもそも日本だけで禁じても海外から流れて来るものについては意味がないと言える。
また他の人も言っていたけど、市や省庁が収入を増やしたいだけとかポスト先が欲しいとかそう言う思惑で言っているだけである事ももう一般人は見透かしているからね。
しかし当時の児童ポルノ禁止法でも著作権でも何でもそうだけど、意味のない自身の利益の口実に使う様な対策ばかりして余計に事態を悪化させたりする事ばかりしているなと思うね。
そしてこの手の綺麗なお題目で短絡的な規制をやらかす連中ほどやたら海外デハーとか言いたがる人多いのも事実だよね。
これにしても現状ただでさえコロナが問題になっている中でやらかすから、不潔で不衛生である点が更に問題視され、またコロナ禍で企業や経済の回りが悪くなっている上での家計への直撃を招き、不経済的で、より気軽な買い物が嫌厭される状況を作り出すのだから、ただでさえ不景気な上消費税増税とコロナ恐慌が重なり、悪化している中でやるのは経済的にも致命的な打撃を招く一つの要因と化すし、現状それこそあの人達の大好きな海外では万引きが増加した事例もあるから社会不安の悪化にも貢献する上に米国のカルフォルニアでもレジ袋を禁じたら却ってゴミ袋や紙袋の使用が増えて、CO2発生量が増加したと言う本末転倒な結果を招いているみたいだしね。
先進国がスーパーのレジ袋を禁止しても意味ないよ、という記事。
「海のプラスティック廃棄物の半分は中国、フィリピン、インドネシア、ベトナムの4カ国から来てる」また「カリフォルニアがレジ袋を禁止したら、ゴミ袋や紙袋の使用が増えて却ってCO2が増加した」#環境 https://t.co/g16JFm2Njx— 北欧の理想と現実 (@yasemete) June 21, 2019
これじゃ昨今コロナ禍において地方自治体が言っていた三密ならぬ三不を招く状況になる事でしょ。
エネルギー的や資源的にもこの手の意味のない所か害悪な環境対策の方がより無駄な浪費を招いているのは今まで言われている通りでレジ袋なんてそれこそ石油の残りカスから作られているのだから利用しないと逆に無駄な訳。
つーか、どっかの誰かさんも言っていたけど、変なリサイクルをする位ならばこの辺からも燃やした方が余程マシな訳。
SCP-2419みたいに亡霊の残骸が延々に再生するわけじゃないのだからさ。
ただあの人達はダイオキシンやら二酸化炭素やらがその亡霊の残骸みたいに思えているのだろうけど(笑)
しかしここまで環境問題もあの手の団体や政府や官僚が日本に限らず、悪用しているのだからそりゃ環境学や生態学、地球科学とかの専門家ほどうんざりする状況になっているのは理解できるよ。
この問題も変な国連を介したリベラル系団体や主婦系が絡み各国政府が悪用しだしてからより一層おかしな方向に行ったのも事実。
子供の権利や女性の権利とかでもそうだけど、この辺の団体は本当の意味で碌でもない事しかしないよね。
倫理や道徳や平等とかの綺麗事を言って自らの政治思想に悪用する様な事しかしでかさないから。
そもそも環境対策と言うのだけど、本来は人間の生存圏の延命対策なのだから、宇宙開発も見据えた循環システムの構築の研究にこそ力を入れるべきなのだけどね。
どうも省エネ化ばかりみてその辺すらおなざりにしてそこら辺の技術開発すら停滞させているのが今と言うのを実感しているし、その省エネ化すら的外れな所にばかり向かっているのが今だよね。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6361761
千葉県香取市の香取神宮にある「鹿苑」で、市民団体「香取の鹿愛護会」の代表としてシカを飼育している鍵元礼子さんも今回、引き取りを申し出ている一人。会には「助けてあげて」との連絡が数百通寄せられ、5日からネット上で「殺処分ありきではなく、命を繫(つな)ぐ努力を!」との区長と都知事あての署名活動を始めた。同日午後6時までに800人超から賛同が集まった。
日本に1億人住んでいて800人は全体の0.0008%です。
あなたの友人知人部下上司家族の合計人数が例え30人だったとしても0.024人しかいません。
じゃあお前のために損して100万円で売ってくれる奇特な人を見つけてくれ。
カップルでキャッキャしながら街歩いてる人間、これまでは許され・羨ましがられていたが今後は違うぞ
お前たちは感染拡大防止意識の低い人間の屑、社会のゴミ、犬以下の畜生ということになる
社会が変わるぞ 2年閉じこもるうちにロマンチックラブイデオロギーは衰えて死に絶える 正直引きこもって自分に都合がいい恋愛ファンタジーでも見てたほうがいいよね その本音が溢れ出すことになる
男も女も生身の付き合いなんて本当は求めてなかったんだ 求めてることになってるし、生身の交際相手がいると偉いっていう価値観をガキの頃から刷り込まれ続けるからそう思ってただけ それがこれからの外出自粛で剥がれていく
カップルはもはや羨ましいものではなくなる 奇特な人、変な趣味、時代遅れの不良 そんな扱いになる
日本の夜明けは近いぜよ
物書きになりたいと思っていた。
と言っても将来の夢だとかそんな大げさなものじゃない。俺は今まで短編小説やエッセイの一つも書き上げたことがないし、それについて勉強したこともない。ただたまにこうしてネットの片隅に下らない文章をアップロードしているだけだ。何故物書きになりたかったのか、それは思春期の頃文学少年気取りだったからかもしれないし、テキストサイト世代だったからかもしれない。あるいは文章を書くことで何かに辿り着こうとしているのかもしれない。一つだけ確かなことは、こうして文章を書く時は大抵ひどく精神的に不安定な時だということだ。
こういう時に文章を書くと何だか落ち着ける気がする。経験上それは気がするだけであって何の効果も生まないのだけれど、それでも書いている間だけはそのことに集中できる。きっと生まれる時代が20年遅かったら、俺はとてつもなく恥ずかしいラブレターを量産していたことだろう。そういう意味では手紙という文化のすたれたこのネット社会に感謝しなくてはならない。
ここまで読んでくれた奇特な人がいれば、俺に物書きの才能がないことはわかると思う。それは俺もとっくに理解している。でも今でもたまにそういう人生があったらいいなと思うのだ。一人で都内の1LDKくらいの部屋に住み、適当な時間に起き、音楽を聞き、小説でも書いて、飽きたら酒を飲んで、気が向いたら女を抱く、そんな世間とはある種切り離された生活を送ることも、もし俺に才能があればできたかもしれない。
多分一種の逃避なのだろう。俺はひどく矮小で、つまらない人間で、つまらない生活を送っている。そう、つまらないのだ。つらくすらない。だから誰にでもできる書くという行為によって、自分が特別な存在になれる可能性を夢見ている。何も望まず、何者にもなれず、何も残せない俺の、最後の逃避なのだ。
確かにそれが堅実なのかもなぁ
今、俺みたいな奇特な人間を選考している求人が事務7:エンジニア3みたいな内容なんだけど
将来転職を視野に入れたとき、これじゃあ使い物にならないよなと思っているんだよね
しかも30超えていると考えると、正直未来があるとは思えない。
どうしたら良いか、俺の足りない頭だと考えつかないよ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1440599
そもそも駄洒落というのは、誰でも知っている単語から、多くの人が気づかないような関係性を結び付け、その落差を笑いに変えるという、高度にクリエイティブな作業である。神のような天才であれば、無から何かを作り上げることもできるかもしれないが、常人たる我々にとって可能な最大の創造は駄洒落と言っても過言ではない。依頼者からお題を指定される職業デザイナーにとって最も重要なのは駄洒落力であるという厳然たる事実をこないだの芸大志望増田に誰も教えないというのは全く理解に苦しむ事態だった。そこまでクリエイターに寄らなくても現代のホワイトカラーであれば常に駄洒落力は求められるし最低限入社と同時に駄洒落帳を作ったでしょう。つまりはてなにおいても得られる情報の最高のものが駄洒落である以上、アンテナを高くしたい効率厨はS/Nの高い駄洒落アカウント以外をミュートするものなのだ。ただ、残念ながら戦後は駄洒落を下らないことと貶める言説が横行している。これは日本の国力を下げるためにパン食とともに広められたCIAの陰謀なのだが、遺憾なことに中高年が既得権益を守るために陰謀に加担し、それを止める奇特な人もいなかったために日本は危篤状態となった。政治的なことは個人的なことであり、個として思索を巡らせてみても「駄洒落を言うのは誰じゃ」というのはまさに人としてのレゾンデートルに迫る問いといってよい。駄洒落を理解できることが人を人たらしめる条件であるというのは、もはや論証を要しない啓二といえよう。神は罰として多数の言語を分けたとされているが、翻訳家の技術の粋により、外国語の駄洒落が日本語の駄洒落へと生まれ変わった時、その神秘的な経験は神の恩寵と捉えざるを得ない。残念ながら現在これは人に限ったものであり、動物については、限定的に言語を解し、心を通じることはできるが、駄洒落を理解することはできない。その意味で人は孤独な存在である。もちろん宇宙には駄洒落を解する知的生命体が存在する可能性があり、もしそのような相手と出会えた時、人は次なる段階へと進化するだろう。当然ながら知的生命体の定義は駄洒落を解することであるが、ボイジャーのメッセージである「ボイジャーに積んだ絵はボインじゃー」は少しハードルが高かった印象が否めない。宇宙人以外で期待できるのは当然AIである。AIが真に駄洒落を理解し、アイアイの歌を歌いながらスパルタンXのような笑い声をあげたとき、人類は機械に霊長の座を明け渡すこととなる。
身につけたい技術があった。
ただ、そのために学校に行ける余裕はなかった。
だから数年前、未経験でその技術を専門とする業界に飛び込んだ。
私には褒められた学歴はないが、特殊な経歴と社外で認められる何個か業績があったのが効いたのか、全くの未経験だったのに業界でかなり名の知れた会社に内定が決まった。
最初は高学歴の人の多さでビビったし、なんか知的でキラキラ見えた。
だけど、蓋開けたらそんなでもなかった。
同僚、上司は旧帝ばかりだけど、彼らは小賢い事は言うものの、質問の回答はあやふや、理論立っていない会話、受賞歴や登壇といった実績も、ビジネスとしての結果も、全くなかった。
関連学会で注目されてる重鎮とかご意見板的な人たちもいたが、英語のリファレンスを訳して偉そうに話すだけで、過去に特別な功績を残したわけでも、最先端の世界で戦ってきた訳でもない。
なんだろう、この違和感…なんて事を最近ずっと考えていて、親友Xと久しぶりに連絡を取った今日、この違和感がかつて彼が童貞だった頃、居酒屋で夜通し彼の女性論を聴かされた時と同じものだと気がついた。エウレカ!!
妻(かなりのエリートかつ将来有望視されてたのに流浪の身となって奇特な私と結婚してくれた変人)が『旧帝なんてそんなもんよー』とよく言ってるのだが、初めて意味が初めて分かった気がした。
きっともうすぐこの業界から去るけど、この界隈に来て一番得た物は学術的な事や技術的なノウハウでもなく、自分の学歴コンプがさらに拗れ、逆に振り切れもした事。そして賢さや優秀の定義が大きく変わった事かもしれない。
最近、Twitterの AI博士とか、刺さりそうな髪の毛のなんとなく芋くさい哲学者とか、社会経営なんたら的なお姉ちゃんとかをネットニュースやワイドショーで見かけると、こういった『看板に中身が追いついてない人注目されちゃう、すごい学者みたいにされちゃう現象』は結構日本のありとあらゆる業界や学術面で起きてるんじゃないか思う。
たまたま相手が遅かったわけじゃなくて別の機会でもそういうことが多い。
どうやったら確かめられるだろう。
おしっこの早さなんて普通は気にしないし「おしっこ何秒?」なんて聞いたら変態だ。
でもやっぱり早い気がするんだ。
いくつか仮説を立ててみた。
ひとつめ。勢いが強い。
これは確かめづらい。
ただ感覚的にはそれほど勢いが強いとは思えない。
すごい音がするとかめちゃくちゃ跳ねて大変だとかいうこともないし。
保留にしておこう。
ふたつめ。膀胱が小さい。
つまり一回で出る量が少ないので早く終わる説。
これには心当たりがある。
尿意を催してから長時間我慢しているとめちゃくちゃたくさん出るのだ。
「永遠に終わらないんじゃないか」と一瞬不安になるくらい出るのだ。
俺は膀胱が小さいから尿意が近いだけで、普通の人はこのくらいが一回の量のデフォだったりするのではないか。
みっつめ。気のせい。
つまりたまたま出会ったおしっこが長い奴が印象に残っているだけ説。
これも否定できない。
よく山へつれていく父親だった。理由を聞いたらルソーの教育論を読んで自然が大切だと思ったと語っていた。
母に山よりも図書館へ行きたいと言った。図書館にもよく連れていかれるようなった。私の地元はいろいろと活発な地域だ。財政もそれほど悪くない。
観光にも力を入れている一方で教育にも力を入れている。立派な図書館がある。清潔で比較的新しい建築物で3階にはレストランもある。
同じ日に生まれた同年齢のいとこがいる。私の母親たちは私たちのことを競わせた。ベネッセの通信教育を早めに導入した理由だろう。
どちらの子供がより優秀かと張り合っている空気があった。これが私が勉強ができた本当の秘密だろうか。
強欲な宝石商と鉄鉱を扱う絵心のある職人、それが私の母方の祖父母である。母方の祖父母は芸術に関した仕事を行っていたため、収入が安定せずに母親は若い頃に苦労をしたらしい。
大学には行かず、バイトをしながら自分で弁当を作り、高校を出たあとですぐに就職し、職場結婚する。その後、バブルは崩壊。キャリアもなかったので非正規で働かざるを得なくなる。
結婚した相手が問題だ。酒を飲むとよく口が回る女好きの地主の子供。常識を身に着けた今、聞くだけでダメな人間だと分かる。
農家から身売り同然に嫁に来た祖母は閉鎖された世界で暇を持て余し、このダメな息子が可愛くて仕方がない様子。猫可愛がりしていた。
父親のほうでも老婆を労わるマザコン具合をみればその愛情が決して一方的なものではないと分かる。
彼彼女の人間に対する親愛の情の深さを考えれば私にもその血が流れていることを感じる。
幾分、奇特な経験が不運にも繰り返されたおかげで私のその遺伝的情愛が生身の人間に向くことはほぼないが、その分、博愛として万人に降り注ぐ。
薄い、薄い情念として、まるで自分にも相手にも無に感じられるような薄くなった博愛だけが私には残った。
父は胃がんになった。将来にとっておいた学費を医療費にまわしてもいいかときかれた。
私が当時、大学の重要性を理解していたかどうかは分からない。何しろ小学生のときの話だ。
私は特別に父親を好いてもいなかった。しかし、人間として、人の命がかかっていると聞いて私は何を躊躇うことがあるのかと思ったようだ。
実際のところ何百万という貯金はごくごく自然に医療費に回されたのだから。何の抵抗もなく。私の反抗もなく。
結局のところ私には大学に行く金はなかったのだ。だからこそ県で一番の高校へ行っても意味がなかった。
私の才能は天に愛されなかった。