はてなキーワード: 同人活動とは
同人活動をやめた。
理由はとても情けないけれど、感想をもらえないことへの無力感だった。
割合で言えば、100冊売っても1件感想があるかないか。書店にも委託していたけれど、感想を一件ももらえなかった本もある。
もちろん当初は感想が欲しくて本を作っているわけではなかった。こんなの萌えると思うんです!という主張をしたい。それが一番の目的であって、誰かに褒めてもらいたいわけじゃなかった。
イベントに出る。本が売れる。嬉しい。最初はただそれだけだった。
けれど、数年続けていればそれなりに反応が気になってくる。
イベントの都度本を出す。幸い手にとってもらえる数も、誕生日席になる回数も増えた。けれど無反応。わたしの話は面白いと思ってもらえたのかな、それともつまらなかったのかな。反応がないからわからない。
ジャンル仲間と話をする。差し入れにお手紙をもらえたという。原稿中は勇気が出るという。
いいなあ。感想もらってみたいなあ。でもそれを表に出すと感想クレクレ厨のような気がして、素直に言えない。
感想が欲しくてやってるわけじゃないんだから、と当初の目的がだんだん言い訳じみていく。
今回もこれだけ売れた、前回の本より初動が少し増えた。つまり前回の本は「もう買うのを止めよう」と思うほど悪い出来ではなかったのだろう。
今回の売り上げ金が前回の感想。ありがたいことのはずなのに、それでも言葉が欲しくなる。
面白かったら一言ください!くらい軽く言えたらいいのにそれもできず、壁打ち上等とも割り切れず、ひとりで勝手に凹んでいる自分は本当にバカだ。こんなテンションで本を作っても面白いものは作れない。そう思って同人活動自体をやめた。
http://anond.hatelabo.jp/20160103175224
それが青二才の価値だろ。何にも価値が無い増田のおまえよりはマシだよ。
本人だけ見てたらバカ低学歴真面目系クズと何一つ取り柄がないがただのバカじゃなく人を煽って本人より価値のあるツッコミを入れさせたりできる行動できるバカだ。
本人はろくに同人活動してないし才能もない凡人だがコミケ行ってる奴を煽ったら本人より優秀なやつがやる気をだして本人置き去りにして成功するきっかけになれる凡人だ。
本人はずっといつまでもはてな村から脱出できずに延々と同じ場所に立ち止まってクダ巻いてるゴミクズだが
あんなんでもいることによって世の中にプラスの影響を与ええられるゴミクズだ。 お前のようないてもいなくてもいい増田よりずっと価値があるよ。
今はどこのカラケーも事務所批判一色なので、まとまった意見を書けるこちらに書いておきます。
最初に言っておきますが、当職は14回MMD杯で恒心を知った所謂新芋です。もともとなんJを見る人間ではありませんし、ニコニコ動画における淫夢などの”例のアレ”系を知ったのすら比較的最近ですので、多くの教徒と感覚がズレていると思います。もし事務所さんがこれを読んで、くっさいホモガキに援護され不快に思ったらすみません。
証明はできませんが、当職は事務所さんとは一切Twitterなどでコンタクトを取ったことはありません。今から書くことは全て自分の意見です。
まず、Dのニコ生コミュの件に関しては、ここでは言及しません。というのも、当職はDのキャスをあまり見ていませんでしたし、生放送のコミュにも申請していませんので、wikiで得られる以上の情報を持っていません。
そもそも、教徒の方がどれほどコミックマーケット及びコミケと関連の深いサブカルに関し造詣があるのか当職はよくわかりませんが、恒心以外の界隈で、これほどまでに「コミケにサークル参加しただけで界隈全体からバッシングされる」ジャンルを当職は見たことがありません。あと、コミケに参加するために匿名掲示板の住民の承認(理解)が必要なジャンルも初めて見ました。普通、同人活動ってもっと自由なものですよ。(コミケのルールの範囲で)自由に創作したり物を作ったりして、その頒布物を通して同じ趣味を持つ人と交流するのが一般的なコミケの楽しみ方だと思います。特に中小サークルはそういう傾向が強いでしょう。嫌なものは見なければいいし、どのような物を出すのかはサークルに一任されていますから、逆にジャンルの多くの人がサークルに文句をつけることは(そのジャンルのアンチでなければ)普通はしません。大事なことなので二度書きますが、サークル主が匿名掲示板の住民の機嫌を伺って参加不参加を決めたりすることは一般的ではありません。なんJでどうかは知りませんが、コミケ(というか同人界隈)では一般的ではないんです。
あと、どうも教徒の方の多くが音楽事務所さんのサークルをコミケにおける「恒心教の代表」のような捉え方をしているような気がするのですが、そのような捉え方も一般的でないと言わざるをえないと思います。コミケはあくまで”個人”の表現を発表する一つの場です。企業ブースに宗教として出したのなら、”ジャンルの代表者”になるのかもしれませんが、個人ブースの裁量はサークルに一任されています。何が言いたいかというと、教徒が「恒心教の代表者」として事務所さんのサークルを扱い、事務所さんの同人活動に口を挟むのは一般的ではないことだということです。
当職も、冬コミの頒布物の値段を相手によって変えていたというのが本当ならそれはいけないことだと思いますが、はっきり言って叩くには根拠が薄すぎるのではと思います。もともとアンチがたくさんいるわけですから、事務所を陥れようとする人が値段を偽って報告することも考えられますし(何を思ったか事務所との会話を録音してニコ動にあげたらうっかり自分の顔をセルフ開示したうえに本垢丸出しで引退したTwitter教徒もいたみたいですね)、頒布物が捌けないことを理由に途中で値段を下げるのは特に中小サークルでは十分にありえることでは?と思います。夏コミ後の引退撤回の件も、取り立てて叩くようなことではないですよね。まあ釈明のブロマガ書かないのはどうかと思いますが。サークル主として批判があればしっかり説明するのが常識的な行動でしょう。
ところで、事務所のTwitter垢に明らかにコミケについてまともに知らないであろうウンフェ垢が見当違いなリプをつけていたのを見て思ったのですが、教徒の中にコミックマーケットや関連の深いサブカルをよく知っている方はどの程度いるのでしょうか。もしそのような知識もなくなんJ的な感覚で事務所叩きをしているのだとしたら、某伊藤君ではありませんが視野が狭いと言わざるを得ないと思います。コミケにはコミケの常識があります。なんJや匿名掲示板の常識を押し付けるのは視野が狭い以上の何者でもないですよね。
実際、女性性を前面に押し出したイラストすなわち萌え絵を自分の意思で描いている(自身の娯楽として同人活動などを通じ発表している)女性イラストレータなどは枚挙に暇がない。送り手がそれだけいるなら受け手も同じで、萌え絵を肯定的に受容している若い女性オタクも多かろう。
「喜んでいる女性もいるんだから女性差別ではないし問題ではない」と言う論法は
セクハラもパワハラもブラック企業問題も全て無問題としてしまうんだよね。
増田の論理は「ワタミを叩くのはそこで働く女性に家庭に引っ込んでいろと言うのと一緒!女性の社会進出を阻害している!!」と言っているようなもんだね。
あとその手の美少女好き女性って、名誉男性なミソジニーも多いよ。
被差別者の中には一定数そういう人(自分が被差別属性を持っている事を認めたくない為に、積極的に自分の属性を貶めつつ「自分はあいつらとは違う」と主張する人)が出るんだよね。
http://a.excite.co.jp/News/reviewmov/20151201/sum_E1448932351189.html
このポスターの是非について論じることはしない。ここでは、この一件にも見られる、萌え絵というだけで女性差別とみなしバッシングしているように見える人々の背景と、そのような態度の妥当性について検討する。
戦後なお女性蔑視的な風潮が続いた日本において、女性性*1をメディア上で描く=男性が自らの欲望を満たすための娯楽(あるいは男性による女性の支配を追認・再生産させる手段)という側面が非常に強かった時期があり、そのような表現がおおっぴらに流通していた*2経緯がある。最近でこそそのような空気は薄れてきてはいるが、その時代を生きてきた人々にとって、女性性を前面に打ち出した表現は、子細を精査するよりも前に「女性蔑視ではないか」と身構え疑ってしまうほどには、女性性の表現を巡る当時の状況は酷かったと言える。
このような、女性性の表現に対する条件反射じみた反感を植え付けられてしまっている人々が、いわゆる萌え絵を見た時、「これを描いた男性イラストレータ*3は、彼自身または受け手たる男性*4の、女性蔑視の感情=女性全般を支配下に置かんとする欲求を満たす意図で、このような表現をしたに違いない」という予断を持ってしまっても、無理からぬことだろう。件のポスターに対する反発に限らず、萌え絵に対してしばしば起こるバッシングは、こういった人々の心性 ― 萌え絵フォビアとでも呼ぶべき感情傾向がその土壌となっているのではないだろうか。
問題は、このような女性性の表現に対する感情的反発が、時代の移り変わりによって、表現に対する批判としては失当になりつつあり、場合によっては女性に対する抑圧として作用してしまうことにある。
今や、女性が自発的な意思によって自身の女性性をアピールしアイデンティティとしている時代である*5。女性性は、男性が一方的に支配下に置いて楽しむものではなく、数多ある美的尺度の1つとして、誰もが臆面なく表明できる選好という地位に納まりつつある*6。
このような状況に至るまでの過程において、80年代から90年代、若い女性が肌を露出したファッションをすることに、多くの年配者が「はしたない」「ふしだらだ」などといった反応をした。この現象は、フェミニズムの正道からすると「男性優位な社会において女性性の発露は男性がコントロールすべきとされていたところ、女性たち自らがその発露の自由を取り戻そうとしたため、男性優位な社会を是とする保守勢力の反感を買った」という理解になる*7。ブルカ着用の義務がしばしば批判されるのも、同様に、女性性の発露を男性がコントロールし続けようとする制度として理解されるからだ。
そういう過程を経て、現在では、女性性を強調したファッションや言動に対して苦言を呈することが、逆に差別や抑圧とみなされうる。このことは、女性解放*8の流れの中で達成された一定の成果だと考えるべきだろう。
これと同じような変化が、オタク文化やオタク個々人にも起きている*9はずで、実際、女性性を前面に押し出したイラストすなわち萌え絵を自分の意思で描いている(自身の娯楽として同人活動などを通じ発表している)女性イラストレータなどは枚挙に暇がない。送り手がそれだけいるなら受け手も同じで、萌え絵を肯定的に受容している若い女性オタクも多かろう。
放送当時はナデシコを評して「女を知らない連中が作ったアニメ」と面と向かって女性から言われたけれど、今はむしろ、女性から「ユリカ可愛い」と言われたりする。世の流れは不思議なもの。
以上のような事情を踏まえれば、ある表現が女性性を強調していることのみをもって即座に女性差別的と断ずるのは誤りだということがわかるだろう。送り手も受け手も、女性性を1つの美的尺度として称揚しているだけで、ことさらに特定の女性ないし女性全般の人権を軽く見る意図は(意識的にも無意識的にも)無しに当該表現を楽しんでいるという可能性は、今の時代においては非常に高い。そのような実態を踏まえずに「このような表現まかりならん」とするのは、露出の多いファッションを楽しむ女性にブルカを強制するのと何が違うのだろうか。
もちろん、日本の社会から女性差別が消え去ったなどと主張するつもりはない。公職・要職にある人物の差別的発言は今なお頻繁に報じられるし、女性差別的な広告がメディアを騒がせることすらまだまだある。
しかし、であるならば、個々の事例において女性差別に当たる箇所を具体的に挙げて糾弾すべきなのだ。それを怠り、女性性を強調する表現は即アウトという論に終始することは、その表現を支持しているかもしれない女性たちに対する抑圧として機能しかねないし、ようやく叶いつつある女性性の男性支配からの解放という成果を毀損し、さらには女性差別の観点からの表現批判という立場全体の信頼を失墜させてしまう。現に、はてなにおいてすらフェミニズムを軽蔑する風潮が生まれつつあるのは、この手の幼稚な言説が蔓延ったことの影響が大きいように思う。
なお余談だが、ミスコンを巡る議論についても類似の問題として考えることができる。女性性が数多ある美的尺度の1つに過ぎないのなら、その尺度の高さを称揚するかぎりにおいては(その尺度で低いものを侮蔑するのでなければ)、身体能力を称揚する各種スポーツ大会や知的能力を称揚する数学オリンピックなどと同様に、問題ないものとして受け入れられるべきだろう。要は、男性の視線が女性を一方的に値踏みしてはいまいか、という匂いが疑われているのである。例えば、審査員が男性ばかりで固められていたり、女性以外(MtoFや女装趣味の男性)の参加を拒んだり、入賞経歴がTV局アナウンサーとしての採用において最重要視されたりするようなことがあれば、このような匂いはよりいっそう強く感じられるだろう。
繰り返しになるが、ある表現が女性性を強調していることのみをもって女性差別的と断ずるのは、かえって女性に対する抑圧として機能しうる。かつて当たり前のように女性性が男性の支配下に置かれていた時代ならば妥当だったかもしれないその反応も、女性性が女性たち自身の手へと取り戻されつつある現状では、女性性の発露そのものをタブー化し、結果として女性性を男性の支配下へと送り返しかねない危険すらあることに常に注意しなければならない。ある表現に女性性が見受けられたなら、そのことだけで感情的反発を起こすのではなく、それが女性蔑視の価値観から生まれたものなのかどうかを丁寧に検証したうえで慎重に論じるべきだ。
端的に言うなら、萌え絵フォビアを動機としただけの主張は(女性たちにとってかえって有害なほどに)表現批判として雑すぎる、ということに尽きる。
*1 ここでは大まかに、少女的な可憐さや熟女的な色気といった要素を含む、女性ジェンダーに特有と見做される性質全体を指す概念としてひとまず定義する
*2 ポルノメディアのようにゾーニングされた表現ではなく、広告など公的なメディアにおいてさえそのような表現がしばしば見られたし、そもそも当時はポルノメディアのゾーニング自体が今よりもずっと緩かった
*4 その絵を楽しむ女性がいる可能性を想定できない
*5 ファッションなどはもちろん、女子力という価値観が肯定的に捉えられ浸透していることもその一環として考えられる
*6 LGBT・女装男性に対する若者たちの寛容さや、前述女子力が男性にも適用しうる肯定的評価と見做されていることも、選択可能な多様な価値観の1つとしてジェンダーを捉えるこのような大きな流れの一部だろう
*7 「女性が扇情的な格好をするのは、そのほうが男性優位な社会において有利に立ち回れるからor女性蔑視的な価値観を内面化してるからだ」などと主張する者もいるが、実際にそのようなファッションを楽しんでいる女性たちにとっては言いがかりでしかないだろう
*8 あるいはジェンダーフリー
*9 一般社会における女性解放の価値観が、オタク周辺に関してだけは反映されず今なお男性優位な価値観が支配的である、と無根拠に主張するなら、それこそオタクに対する差別に他ならない
ソシャゲ、というか近年のアニメ系コンテンツは大きく進化してきている。
コンテンツに対して、のめり込む、というか愛を注ぐ、ということについて、昔は販売されるものを買うというだけだった。
近年では、無制限の課金要素やゲームに張り付くことが求められるなど、製作者側への直接的な支援が求められるようになった。
一方、仲間内で語り合う、同人活動をする、というのも愛の一種ではあったが、昔は製作者に直接的なメリットもないので、どちらかというと自己満足に近い。
が、近年のソーシャルメディアの発達により、語り合うことは広告的な効果を持ち、製作者にメリットを与えることにつながるようになった。
ツイッターで盛り上がればレンド入りする。良くできたMADはニコ動の上位に来るだろうし、熱い記事を書けばニュースに取り上げられることもあるだろう。
このようなソーシャルメディアでの活動をゲーム内に還元する仕組みがあってもいいのではないだろうか。
ダラダラと書きましたが、要はツイッターにユーザIDを含めてつぶやいて、それが拡散するとゲーム内のポイントに還元されるとか、そういうのはどうでしょう。
お金は厳しいので課金はできない、仕事中・授業中はスマホいじれない、という人でも、こんなことをつぶやけば拡散するかも、といったことを考えることは可能。
でも、一度二度みて抜いてしまうと、賢者タイム同度に満足しちゃって見返さない。
よしんば見返すとしても構図が素晴らしい・ストーリーが素晴らしい物を見るためで、一回目二回目ほど抜けない。
あの現象になんて名づけたらいいんだろう?
攻殻機動隊っぽく言うなら「同じ女は二度抱かない」現象とでも呼べばいい?
「二度抱かない」癖に、捨てられなくてけっこうなエロ本をストックしてたり、買っちゃったりするんだよなぁ…。
500円1000円…中古のエロ雑誌とかだと100円からあることを考えるとコスパはええのかもしれんけど…生産的な消費とはとても呼べないから「性欲に負けた」という罪悪感とか敗北感があるのよ。
「エロに飢える煩悩(マラ)を業(カルマ)であるかのように言わないで欲しい」
と言われちゃってるから、「同じ女は二度抱かない」現象について
「何格好つけてんの?お前がマラに負けてるだけじゃん」
とか思われてそう。
でもな、男はエロマンガ1つ買うかどうか悩んで数日悩んだり、眠れないほど気になったりしちゃうんだよ…。
エロマンガに限らず、見ず知らずの女の子にサービスされたいがために何万円も積んでしまう生き物を女性はどう考えてるのすげー気になる。
いや、男自身バカだと思うし、必要悪だと思ってる部分はあるんだけど、同時に文化だとも思ってる部分もあるし、エロマンガ出身で一般作品でもいいマンガ描くひとはけっこういる。(同人活動を通じて、逆もしかり)
これに対して規制しろとまで言われちゃうのは違うと思ってるんだよねぇ…。あるいは童顔のイラストをツイッターで閉めだされちゃうのもまた然り。
童顔のイラスト書く人にだって、当然一般向けで化けた人はいるんですよね…。
例えば、エロマンガを3冊出してるKAKERUさんなんかは一般で17巻まで続くような作品を一般向けでも手がけてるし。
だから、素晴らしい物とかその時々でときめくものはいっぱいあるんだよ!そこは理解して欲しい。
ただ、それをわかっていてもエロマンガを買って2回ほど読むとそんなに興味がなくなる。
そして、興味がなくなることがわかっていても消費してしまう。
もらった反応をまとめると
・DL数のカウントからは得ることができない、対面での交流がある
ということらしい。素晴らしい。
そういうのになじめなくても同人活動で小銭稼げる、この時代に生まれてほんとよかったと思ってる。
都内在住なので、何回かビッグサイトまで足を運んだことはあるが、なじめん。
コミティアもおなじく。どうも即売会というシステムをあんまりしっかり理解できてないようだ。
俺は俺で楽しくやれる場所があるからいいんだが、なんかこう、コミケにせよアニメ文化にせよコスプレ界隈にせよ、
めんどくさい体裁が巨大化してやがるなぁ、という印象がある。
ツイッターとpixiv、ブログのハンドルネームを全て分けているオタクなのだが、
pixiv、ブログでは扱いが良いのにツイッターではブロック、フォロー返し無し、リムとかなり扱いが酷い。
まー分かっている。
先日描いた同人誌の感想をpixivで書いて来て「考え方が同じです!もっと沢山話したいのでツイッターで繋がりたいです!」と言って来たそこのアマ。
こっちからフォローしてフォロー返しすらしてなかったそのアカウントをブロックしたろ。
考え方が同じと思ったなら何でブロックしたんだよ。
まぁ波風立てない様に「恥ずかしいのですみません><。」と返しておいたよ。
ツイッターとpixiv、ブログのハンドルネームを全て分け別人として活動しているのだけど扱いが酷いわ。
もちろん何のために同人活動をしているかによって、ゴミ扱いだったり、神扱いだったりと有るけどね。
賞賛が欲しいタイプ、一般的作家は明確なカーストを持っている。
解釈の違いを押し付けたいタイプは全員を洗脳するため全てのクラスタに優しい、時には自分の解釈の絵を配るまでする。
あー、面倒だけど保身のためには仕方ないのかもね。
二次創作者の学級会は昔から(十数年前くらいからしか知らないけど少なくともその頃から)よくある。
仲間内か、匿名の掲示板なんかで行われていたのが段々半匿名のSNSに進出してきた。隠れない人が増え、表に出す手段も増えた。
ネットでの同人活動の主流が個人サイトからSNSに変わったことで二次創作に興味のない層の目に触れる機会も相当増えたはずだ。
これだけオタク文化が表に出てきているんだから、二次創作のあり方も変わるべきという意見が出るのは当然のことだと思う。
中々変わらないから定期的に話題になる。実は古参が声高に何年も更新されていない古いマナーを叫んでいるだけなのかもしれないけれど。
某週刊少年漫画ジャンルで乱発されている商業ベースの版権元無許諾のアンソロジー(※海賊版アンソロ、違法商業アンソロなどとも)の現状について周知し、今後、問題点を認識しないまま無許諾アンソロジーに寄稿する同人作家が出ないよう、また購入する人に対し注意喚起を行いたい。
※アンソロジー本がすべて違法なわけではありません。 書店に並んでいる商業アンソロジー本の中には公式が監修して正式に出版されるものがあります。「(版権者)監修」や(c)マーク、正式タイトルやロゴの使用などで判別可能です。これらの本を買ったり、執筆する事は公式に認められた立派なファン活動です。
(9/8追記:(c)マークはあくまでも著作権者を示すマークであり使用許可とイコールではないのですが、商業アンソロ本で「(c)マークでわざわざ著作権者を示しているのに非公式」というのはかなり特殊なケースと思われるのでこのように書いておきます。)
そのため
→版権元が「作品のイメージを損なう」「利益を損なう」と判断し措置をとる可能性がある。実際過去に権利者からの警告・注意・提訴が行われたことがある(→ヘタリア、十二国記、ガンダム、トライガン、ときメモ等)。その場合の措置対象が無許可商業アンソロにとどまるとは限らない。
このような事態を招かないよう、寄稿者、購入者だけでなく、二次創作に関わる者が無許可商業アンソロの問題点を認識し、行動を自重していくことが必要ではないでしょうか。
言うまでもないことですが、個人による二次創作活動は「個人の趣味を逸脱しない範囲で」黙認されているにすぎません。
個人が対価を取って同人誌を頒布するのは、印刷代・イベント参加料などのファン交流に伴う経費をファン間で立て替えているのであり営利行為とみなさないという風習で見逃されているだけです。しかし企業に原稿を渡し対価として稿料を受け取る行為はその範疇には含まれないという事が理解できない方はいないでしょう。
当然、二次創作を公に認めていない公式が動けばこれら全ては違法となります。公式の二次創作に対する見解を問う事はなんの解決にもなりません。(→芳文社や小学館などの二次創作禁止(?)ガイドラインの真相について、出版社の中の人が解説してくれました。)
しばしば誤解している人がいますが、二次創作物は無料公開・配布であっても原作の著作権を侵害していることがほとんどです。したがってこの記事では、二次創作活動自体の内容、是非を問う事はしません。
著作権者の許可を得ずに発行されている商業アンソロジーです。問題点をご理解いただいたうえで、購入するかどうかご判断ください。
無許可の商業アンソロが刊行されるのは、当たり前ですが、購入者がいて儲かるからです。
購入者一人ひとりが問題の一端を担っているという事を理解したうえで行動していただけるよう、願っています。
無許可の商業アンソロは寄稿される原稿がなくては成立しません。加えて、影響力の大きな描き手が無許可商業アンソロに寄稿し、堂々と宣伝していることから、二次創作への知識が不十分な層がアンソロについて誤った知識を持ちつつあります。
しかし、実際は寄稿する作家の多くが「いけないことと知りながら」寄稿しているように見受けられます。その理由は個別にあるでしょうが、ほとんどは「みんなやっているから大丈夫」「商業誌に載ることはステータス」というような安易な考えのもとに行われているようです。寄稿する方々は、寄稿・執筆することで、結果的に上記のような重大な問題をはらんだ無許可商業アンソロに協力している状態です。今一度、自分の行為について考えていただければと思います。
また、同人サークルに執筆・寄稿依頼があった場合、依頼内容が版権公式であるか否かを確認することをお勧めします。
私個人は、以上のような理由から無許可商業アンソロを拒否しますが、この記事を読まれた方がどのように判断され、行動されるかを強制するものではありません。
二次創作同人にはさまざまな問題があり、無許可商業アンソロだけを槍玉に挙げるのは間違っており、正当性がないという意見もあるでしょう。
しかし、上記に挙げた問題点を「問題ではない」と言う方は少ないと感じています。何が問題かぴんとこない方は、ぜひこの機会に調べてみてください。「同人誌 著作権」「コミケ 著作権」などと検索すれば、いろいろなページが出てきます。勿論、この記事を含め、必要な情報を取捨選択し、判断を下すのはあなた自身です。
ヘタリアの無許可商業出版物に関する幻冬舎の謹告:http://www.gentosha-comics.net/hetalia/2010/05/oshirase3.html
ときめきメモリアル・アダルトアニメ映画化事件のwikipedia:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A8%E3%81%8D%E3%82%81%E3%81%8D%E3%83%A1%E3%83%A2%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%80%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%83%A1%E6%98%A0%E7%94%BB%E5%8C%96%E4%BA%8B%E4%BB%B6 (経緯最終段落にアンソロ提訴の言及あり)
十二国記の無許可商業アンソロに対する講談社の謹告(アーカイブ):http://web.archive.org/web/20090623021846/http://shop.kodansha.jp/bc/books/junikokki/kinkoku.html
トライガン無許可商業アンソロに対する原作者のコメント(アーカイブ):https://web.archive.org/web/19991005041701/http://www.din.or.jp/~nightow/EFefnow.html (9/9追記)
もう十年くらいかな?一つのタイトルにつきっきりで二次創作やってる。
食べるだけなら『刀剣』だの『ダイヤのA』だの弱ペダだの流行りモノも(『ダイヤのA』って腐女子界隈でそんなポピュラーなのか?)美味しくいただいてるようで、ずいぶんな健啖家ですねって感じだ。
ひるがえって、おれは今アニメ見る元気や気力がどっかいってしまった。
元々、コミケとか客としてすら参加するような人間ではなかったし、むしろ今となっては俺ってオタクだったんだろうか?と疑わしくさえ思う。
エネルギッシュな姉の同人活動・オタク活動を眺めてると申し訳なくさえなってくる。
そんな俺だけど、なぜか時代小説だけはやたら読んでたり刀に関しては昔からなぜか詳しかったりするので、姉夫婦に連れられてよく城だの博物館だので刀剣の特別展で解説役を承る。
そのたびに、姉は「◯◯は物知りでえらいねえ」と褒めてくれる。
えらいのは姉ちゃんのほうだよ。
本日のtwitterタイムライン、話題は『公式に同人活動の線引きを問い合わせてはならないのか』
いいわけねーだろアホか!馬鹿なの?死ぬの??空気読めないの???なんで同人に足入れてるの????半年ロムした!!!!!?
そもそも~~~~~同人活動って著作権的に白か黒か、って言われれば黒。
法律違反なわけ。やったねいつでも訴訟を起こされるリスクがあるよ!
現実的には、まあ、ほぼ無いというかありがたくもお目こぼしをもらっているから、そう頻繁に公式から訴訟を起こされたという話は聞かない(されないとは言っていない)。
お目こぼしを貰えているのは親告罪であるから、という前提の元幾つか理由は有るんだろうけど、だいたい
・同人活動が活発であることによって、公式への恩恵が大きい(為、黙認という温情をもらっている。飛翔を出しているところとか、ここが他社と比べても大きそう)
の二つじゃない?
正確な理由は企業側でなければ知るところではないけれど、前提として、
・著作権的には真っ黒だけれど、親告罪であるが故に活動は黙認されている
という条件があるところ、公式に問い合わせてしまえば、公式の回答としては「真っ黒です」としか言えないのね。公式と契約書を交わしたところ以外は真っ黒け。
こんな感じのことは、他の作品で公式のしごとに携わっている方も言っている。
自分の保身のために、公式から同人活動はどこまでやっていいのか、そのガイドラインが欲しいから問い合わせてみるとか、思考回路が死んでる人は同人やらないほうが良いと思うね。
どこまでならOKでどこまでならNGとか、考えれば分かる事でしょ~~~~~!!!?幼児じゃないんだからさあ……
タイムラインで流れてきた、同人活動をしたことにより、公式からお問い合わせが来た例
http://nittetsuren.jp/image/TTSbooklet.pdf
こんなので刑事事件に発展するのかなあ、と思いつつ、内容証明が先行して届いたのは、連絡先がしっかり明記されていることは勿論のこと、事前アクション無しに訴訟を起こすなんてことは殆どしないからだと思うよ。実務的に。でもポケモンの例もあるしな……
訴訟を提起する、ってそう簡単じゃないんだよね。金もかかるし。
内容証明送るにしても、この件だと実費だけで8000円ぐらいかかっていると思うけど、訴訟だと2~3万ぐらいいくのかな?実費だけで。
著作権の議論をみていると感じるのだがいじめの議論をしているときと同じような議論の本質のなさを感じる。
「いじめはダメだ」と同じように「パクリはダメだ」というのは誰もが共通な認識であることは間違いない。
被害者側がいじめだと訴えでた時点でそれがいじめになるなら、パクリも同様なはずだ。
でも現実はそんなことはない。ベルギーのロゴはパクリとは認定されないわけだし。
パクリには厳しいみんなも同人活動やゲーム実況、コスプレなんかには寛大なわけだろ?
それこそここで法の話を持ってきたらいじめなんて暴力沙汰にならない限り認定できないわけで、ただ著作権とコピーライトを守ってれば著作権は安心っていう話ではないと思う。
いじめはダメだといっている人間が知らず知らずにいじめに加担していることがあるように、パクリがダメだといってる人間も知らず知らずに模倣なりをしていることだってあるんじゃないかな。
なんというか、この辺の定義が曖昧なまま皆で議論しようとするから、肝心な部分がはぐらかされて単なる個人攻撃にしか見えなくなってくるんだよね。
佐野氏の是非ついての言及ではないので、彼の行動についてのコメントはもう結構です。
技法、、理論、メロディ、トレースなどなど、みんな誰しも先人の影響を受けているのだから完全に自分オリジナルですって人なんていないはずだ。
断言できるのは、今回のことは「ネット民大勝利」じゃないんだよ。
どっちかというと「日本国民総自滅」っていうほうが近いと思うんだよね。
なんでって聞かれてもわからないんだけど、すごいブーメランを飛ばしてしまった気がするんだ。
例えば著作権周辺について厳しい法規制が敷かれて、ネット上や同人での自由の表現に規制がかかるとか。
佐野とロゴが気に入らないって理由だけで、オリンピックという国際的なメンツを前に今回はやりすぎだと思うんだよね。
誰かうまく説明してくれないかな。
プロはこういうのがあるから、昔から半公式の場に出る事を極端に恐れたわけで
一昔の前のプロの中には、ある段階において趣味でやっていた同人活動を(問題が起きていないのに)自主的に辞めた人もいるわけで
そういう視点から言えば、絵師も少し認識や覚悟が足りなかったというか、時代の変化によって起こるべくして起こった話とは言える
私もその友達も高齢独身女だった。ふたりともひどいオタクで同人活動を中心に人生がまわっていて、これは現在進行形である。
20代のころはそれを周囲に隠して、クリスマスごとに彼氏と別れる(〆切前だからね)みたいなことを繰り返していた。
自分で言うのもなんだけど、ふたりともオタク仲間からは「美人」と言われるが、職場などでは「普通」扱いされるぐらいの容姿だったので、彼氏はわりとすぐに出来たんですね。
けれど30を越えるとそれもなくなり、ここ数年、好きな人は高校生スイマーか高校生バスケ選手か、という有り様で、私もその友達も「ババアになったらオタク老人ホームを作って共同生活しよう」と言い合っていた。
春コミスパコミ夏コミスパーク冬コミオンリーと、毎年同じ波を乗り越えていくうちに30を越えてだいぶたった。まったく同じような作品にはまって、まったく同じような行動パターン。同人仲間にも読者さんにもコンビだと認識されていて、サークルは違ったけど人生の相方と言っても差し支えないとまで思っていた彼女。そんな友達が久しぶりに現実で恋に落ちた。
お相手の人は私たち以上のオタク高齢独身男性同人作家でおせじにもイケメンとはいいがたかったが、友達は彼の出す同人誌のファンで、直接知り合いでもないうちから「この本描いてる人私と同じにおいがする」と言っていた。知人の紹介で飲み会に同席してからはその思いを確信に変えたらしく、友達は彼に猛烈なアタックを始めた。アニメ映画、アニソンライブ、聖地巡礼、ありとあらゆる現場に誘い、ふたりきりで食事をし、「わたし○○さんだいすきなんですよねえ」みたいなことを言いまくったという。
しかし不幸なことに彼は人気の同人作家だったのだ。そんなことは言われ慣れていたのである。友達は「あれだけ押してるのに何の反応も返ってこない…芽がないってことかな」とあきらめ気味で、さっさと早く告白すればよかったのだが、私たちは経験則として、どちらかが何となく好きだよ~みたいな雰囲気をだしたら、こっちもOKだよ~みたいな雰囲気を出し返して、あ、これはいけるな、と確信してから告白するものされるものと思い込んでいたので、反応がない状態では告白しあぐねていたのである。もちろん春コミスパコミ夏コミスパーク冬コミオンリーが忙しかったというのもある。
恐ろしいことにそのまま2年がたった。結局、彼女の奮闘に気付いていた彼の同人仲間が業を煮やし「ふるなら早くふれ、かわいそうだろ」と彼に助言したところ、「えっ!そうなん!!!???」「僕も彼女のこと好きなんだけど!!!!!!」ということが発覚して、トントン拍子にお付き合いに発展し、めでたく半年で結婚に至るのである。
この2年半、もっと言えば「同じにおいがする」と言い出してから3年、おそらく最も近いところで彼女のがんばりを見てきた。恋をしても1度も新刊を落とすことなく、めげることなくがんばりぬいた彼女を誇りに思う。本当に嬉しい。
しかしふと己を振り返ると、人の恋愛と架空の男同士の恋愛をただ眺めているだけで3年たったのだ。もうアラサーでもない。私に何が残っているだろうか。同人活動ではそこそこの人気を得た。けれど同人の世界はすでにひとまわり年下の子たちが主戦場で、作風がBBAくさいと言われるのも時間の問題だ(もう言われてそうだ)。職場ではそこそこ出世したけど、部下を叱責するたびに線を引かれていくのを感じる。そして人生の相方はもう一人の相方を見つけてしまい、友情は変わらないつもりではあるが、やはり彼が優先になるのだろう。
寂しい。なにより寂しいのは、この話を他の友人知人にすると「僻むなよ」と言われることだ。僻んでなどいない、彼女はすごくがんばってたんだから。そうではなく、私には、ただただ寂しいんだということを分かってくれる友達が彼女以外にはいないのだ。若いころ、クリスマスごとに彼氏と分かれていたつけを、己の趣味を最優先して人をないがしろにしていたつけを、私はいま支払っている。
今日Twitterで見たTwitterの流行により「140字制限はインターネットの小説書きを限りなく殺していった」という言葉から考えたことです。
引用もとがプライベッターなのでそのアドレスはわざわざのせないけど、別に読まなくても通じるかな(そもそもそのプライベッターの内容とはずれた内容になってしまったのもある)。
まず、二次創作小説がpixivというSNS中心になったメリットについて。
・発表の機会が増えた。
・作品が一カ所に集まったことで検索性が向上し、人の目に留まる機会が増えた。
・作家単位から作品単位で見られることが増え、一度初見切りされても、次に別の作品を目にしてもらえる機会が増えた。
ぱっと思いついたのがこのくらいで、デメリットというデメリットはあまり思いつかない。
強いて言えば個人サイト時代より閲覧者が増えたことによってトラブルが起きやすくなったことがあるかもしれないけど、それは「母数が増えることで変な人も増えた」で片づく気がするし、今の論点とはずれるため割愛。
時々見かける「ネットという媒体は小説の発表にむかない」「ネットのせいで小説を読む人が減った」という意見だけど、私はこれは少し違うんじゃないかと思う。確かに本としての小説を読む人は減ったかもしれないけれど(ここは統計などを調べていないので完全に想像)、腐向け二次創作の小説に絞ればむしろ小説を読む人は増えていると思う。オタク人口自体の増加って言うのもあるかもしれないけどそこまで考えていたらきりがないのでこれも割愛。
実際に、pixiv小説が本格化してからは小説の閲覧数は延びていると思うし、イベント会場を見ても小説本が買いやすくなったイメージはある。
それでも小説書きから「小説を読む人が少ない」という不満があがる理由を自分なりに考えたのが下の2つ。
①二次創作小説全体の評価が底上げされたことにより、以前よりも多く評価されたいという欲が出た。
②小説をネットでお手軽に楽しめるようになった分、掲示板形式やSNS形式などのお手軽感のある小説が多く誕生→今まで「小説」をあまり読んでいなかった層が流入、主にその層が評価する作品が評価されることを気に食わないと思っている人がいる。
この2つの不満が生まれた理由は、おそらく「自分や他人の評価が数値化されて目に見えるようになった」ことが原因だと思う。
(※ちなみに掲示板形式の小説のこと「お手軽感」って言ったけどあくまで読む側のことを指したことであって書くのはお手軽ではないと思っています。)
この辺りで話をまとめてしまうと、結局のところ「小説の絶対評価はpixiv時代になって全体的に底上げされてるんだけど、それと同時に他人の評価も可視化されることになったから、今まで気にすることがなかった(そもそも気にすることのできなかった)相対評価が目に入ってイライラしてるって話」でしかないように感じる。
絵の方が見てもらえるっていう愚痴も多分絵と小説の閲覧数やお気に入り数が見えるようになってしまったから表立って口にすることが増えてきたんじゃないかな。Twitterのfav、RTも可視化された評価だって取れる。
もちろんこれに当てはまらない人もたくさんいるんだろうけど、人間に嫉妬って感情がある限り他人の評価を自分の評価と比べることができる状態って言うのは一長一短なんだなって思う。それをうまく何かの原動力にできる人ばかりではないもんね。
あとはまあ、ここに来て絵描きよりも字書きがこういうことを言いがちなのは、絵よりも小説の方が自分の作品を客観的に評価しづらいからじゃないかなって感じ。ある程度の読みやすさまでは自分でも評価できるけど、どうしても人に評価をしてもらわないとわからない部分がある気がして人の評価を気にしてしまう人も多いんだと思う。
逆に言うと個人差はもちろんあるけど、何らかのアクションを起こされることに対しては絵描きよりも字書きの方がインパクトある人が多いような気がする。
それから、そもそも同人活動の交流っておえび、手ブロ、絵茶が多かったこともあって、小説書きがこんなに交流に乗りやすいツールが流行ったのはTwitterが初めて、とまでは言わなくともある程度それに近いところがあるんじゃないかな。
だから、まだ文字書きの人のスマートな(?)交流スタンスっていうのが確立されていなくて、こういうネガティブな話が目に付いてしまうことも多いんだと思う。
だから、まあ、文字書きのこういうのって「小説が今のマンガくらい読まれてる世界なら自分はメッチャ評価されたのかもな」みたいな、そういう愚痴に近いところあるんだと思う。
それに対してイラっとする人もいるだろうけど、そういうもんなのかなって流してしまうのが正解なのかも。自分もこれを書いたら負けだなって思いつつ色々考えてしまったから思いつくままに書いてみただけであんまりまとまりのある話にはならなかったし、pixivの話に準じてしまってそもそもの発端のTwitterが小説書きを殺すってとこの話からそれてしまったけど、そういうこともあると言うことでこの話を終わります。
オタクの人権が認められてまだ数年、でも確実になんてのびのび生きやすいんだと感じている。
ときめきトゥナイトのランゼが好きでキャッツアイのひとみがタイプだった。幼稚園児だった当時から「だがそれは言ってはいけない案件」とぼんやり思っていたかも。
オタクは加速しスーファミや少年誌に手を広げた時には中学生で、もうこのままがいいと悟っていた。がんがん同人活動にのめりこんだ。孤独コミケにも臆せず参加した。便箋とか作ってた。周りからの目はいい、いつかわたしはシャオロンを出すし授業中に網魎魑魅が襲ってきたときシャオロンで敵をなぎ倒し周りのバカにしてきた人間に「ここはわたしが食い止める!」って言えばいいと思っていた。今となっては中2病と名前をつけた人は名医だ。
だが転機がきた。
高校生になるときに「ルーズソックスを履かないやつはクソ」という法律が整備されていた。
とにかく怖かった。この法整備の元戦う自信がなくなった。
確実に「あいつルーズ(ソックス)じゃねえ。クソだ。逮捕しろ。」と言われるのが目に見えていた。
お母さんに頼んで靴下とちょっと厚底のスニーカーを買ってもらった。
自分でもびっくりしたのがとにかくそれが嬉しかったことだ。ひねくれてもう自分には漫画とゲームしかないと思っていた心が溶けたように、早くこの靴下を履きたいとわくわくしていた。なにより自分もこれで「あっち側」になれると思っていた。
ルーズソックス法が無かったら、どうだったろう。