はてなキーワード: グローバリズムとは
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3日目 午前
旅先では余り眠れない事が多い。
今日が今回の台湾旅行で最後の朝だけど、グッスリとはいかず、7時前に目が覚めた。
ボーッと窓の外を眺めていると、部屋の外からオバちゃん2人の声が聞こえて来た。
お客さんかな?ベッドメイクかな?
それにしても、楽しそうによく笑う。
朝食を済ませた後、ホテルのすぐ隣にあるコンビニで、スイカ牛乳、japan walker、烏龍茶を買った。
昨日も女性誌を買ったけど、現地の雑誌というのは興味を唆られるものだ。
昨日、台北車站の地下街を歩いているとき「中山地下書街」という掲示を見たが、午前中の地下街は人の流れもまばらで、場所がよくわからなかった。
烏龍茶を飲んで「美味い!」と呟いた。
あとで再購入したときによく見ると、材料表には「香料」もあったが、それは台湾人の嗜好としてこの香りが重要という事だし、美味ければ大きな問題は無い。
ホテルの窓際でこの旅行記を書いていると、ザっと雨が降って来た。
台湾は雨が多いので、雨具を持って来ていたが、旅行を通して行動に困るほどの雨がなかったのは幸運だった。
雨はすぐに小ぶりになったけど、窓の外にはまだ傘の花が咲いている。
あと数時間でチェックアウトだ。
午前9:45分。
雨はとっくに止んでいる。
定刻にはまだ数時間あったけど、チェックアウトする事にした。
空港への送り迎えのため、ここには21:00にまた戻って来る事になる。
3日目 午前
世界に展開するグローバリズムの象徴、スターバックスはここ台北にもある。
わざわざ海外に来て、世界中にある店に入り、ローカルの微妙な違いを見るもの楽しいものだ。
150元を支払い、アイスのカフェモカ、グランデサイズを受け取って2階に上がると、そこでは男女がラップトップを開いていた。
コーヒーを飲んだ直後で大してのども渇いてなかったが、入ってみる事にした。
入り口には行動を禁ずる、べからず集が書いてあり、犬とハンバーガーにバツ印が書いてある。
その下に「禁止打牌」。
ペットを連れ込むな、食べ物を持ち込むなはわかるが、「トランプするな」は新鮮だ。
ドトールで頼むものといえば、ミラノサンドのA以外ありえなく、これはスタバのドヤリングと同じ様式美なのだが、残念な事に、11:00以降しか頼めないようだった。
少しがっかりして、70元を支払ってアイスの紅茶を頼むと、何も入れなくても甘かった。
旅行を通して概ね正しいエリーさんの助言に一つ違を唱えるなら、台湾版suica、悠遊卡についてだ。
エリーさん曰く、チャージした金額の有効期限は2年だし、デポジットの100元が勿体無いので、頻繁に台湾に来るのでなければ購入を勧めないとのことだったが、実際に使ってみると、メチャクチャ便利。
複雑な購入手続きで切符を買う必要なく、地下鉄も台鐵もバスもピッとやるだけでOK。
多少の損を補って余りある便利さの悠遊卡なので、台湾に来る際は是非購入を勧めたい。
帰りの便までまだまだ時間があるので、悠遊卡に100元チャージして、地下鉄で台湾北部の景勝地、淡水に向かった。
3日目 午後
駅前を歩けばすぐ海岸で、晴れ渡った空の下、おっちゃん達が釣り糸を垂らしていた。
ふと見ると赤い看板。
「本河岸遊客衆多
為維護遊客安全
本路段禁止甩竿汉示」
さて、初日の寧夏夜市で食うつもりで、メモまで描いたが、食えなかったものがある。
「千と千尋の神隠し」で、千尋の両親が食って豚になってしまったモノではないか、と言われている謎のプルプル、肉圓だ。
海岸から山の方に上がろうとして通り掛かった海の家で、「肉丸」と書かれた看板が掲げられていた。
昼時で丁度いい、食おう。
「それだけでは足りない」とエリーさんが言っていた肉圓だが、いざ食って見ると、正体不明のプルプルは意外とお腹にたまり、1杯で小腹を満たすに充分な量だ。
こんなものを大量にガツガツ食えば、それは豚にもなってしまうのかもしれない。
台北についたのは午後14:00過ぎ。
今なら人に流れについていけば「中山地下書街」を見つけられるかもしれない。
やがて中山站を過ぎると、右手に地下街にそって長い本屋が見えて来た。
「中山地下書街」
やった、本屋だ。
「誠品書店」に入って見ると、平積みにされていたのは、謝馬力 著「女子翻轉」
台湾版Sex and cityか?はたまた中国のジェーン・スーか。
ほとんどの本が何を書かれているか、全くわからないんだけど、1冊、ピクルスの作り方に関する本があった。
これならなんとか分かるかもしれない。
分からなくても、開いているだけで楽しそうだ。
買って帰る事にした。300元。
これは是非行かないといけない。
新光三越に着くとデパ地下はどうやら地下2階。日本より小ぢんまりとして、お菓子などが中心ではあるが、これぞデパ地下という光景があった。
色々な店が軒を並べる中、お茶の店があり、白磁の蓋碗がディスプレイされている。
日本に帰って、同僚とお茶を飲む為に、何か茶器が欲しかったから丁度いい。
560元は、多分日本より安い。
3日目 夕方
あと5時間で迎えが来るが、台湾でやりたい事リストの最後の項目がまだだった。
台湾で清粥といえば、飲んだ後に食べるものらしく、店が開くのは17:00からだった。
最近、アルコールに弱くなったし、台湾では心置きなく食いたかったので、旅行中は一切、酒類は飲んでいなかった。
この店では、ショウウィンドウの中からおかずを選び、それにお粥が付いてくる。
どれにしようか?
ショウウィンドウ越しでハッキリ見えないが、美味そうな炒め物を頼んだ。
席に着くと、鍋一杯のお粥。
さあ食うぞ。
しかし、運ばれて来たおかずを見て一瞬たじろぐ。
もっとよく見りゃ良かったぜ、ここは屋台ではないが、エリーさんの忠告を思い出す。
これを食えばあとは帰るだけとはいえ、もし飛行機の中で降せば大きな問題を抱える。
最悪当たるにしても、迎えのくる21:00までにスパっと終わるか、自宅に帰り着く翌10:00以降にしてほしい。
恐る恐る口に運んだ牡蠣は、豆豉の風味が効いて美味く、お粥は歩き通しの身体に優しかった。
無名子 清粥小菜を出て、おそらくこの旅で最後の地下街を乗り継ぎ、ホテルの最寄り駅に出ると、道路はしっとり濡れていた。
参ったな、あと一息で雨だ。
でも3日間で学んだのは、台湾の雨はすぐ上がるという事。
意を決して歩き出すと、どうも降っていたのはさっきまでだったらしく、殆ど雨には当たらなかった。
3日目 夜
ホテルのフロントでこの旅行記を書きながら迎えを待つと、女性2人の親子連れが入って来て、フロントに尋ねた。
日本語だ。
そんな基本的な事を聞くって事は、多分今日 このホテルに着いたのだろう。
自分は今夜、日本に帰るが、今日、日本から来たかもしれない人がいる。
ここでは毎日、入れ違いで人が行き交うのだろう。
しばらく待っていると、また日本からの家族連れがフロントにやって来た。
お父さんが、自分の胸を指差して、現地で買ったTシャツになんと書かれているか聞くと、フロントの男性は、ちょっと戸惑いながら答えた。
話しているのは中国語で、スーツケースの大きさから見ると、多分大陸の人だ。
一団はひっきりなしに喋っていて、声も大きい。
この旅行であった人たちの中で、もっとも賑やかな人たちかもしれなかった。
嵐のような一団がフロントを過ぎると、迎えのツアーガイドがやって来た。
「英語名はありますか?」と聞くと、「無いですね、僕も英語は喋れませんし」どうもみんなに英語名がある訳では無いらしい。
チャンさんは人当たりが良く、風貌もイケメンというか、今風で、ちょっとチャラい感じといえなくも無かった。
空港までの車の中で、たくさん起きたことを話し、少し疑問だった事も答えてくれた。
台湾の男性が機内でメガネだったのは、ちょっと上の世代で伊達メガネのブームがあった事。
台湾で男同志の性愛を描いた映像作品を観たのは、おそらく同性結婚が法的に認められたのと関係がある事。
ドトールのトランプ禁止は、解禁するとギャンブルをやっちゃうからである事。
ついでに、チャンさんは実は以前に日本に来たことがあり、出逢いを求めて相席居酒屋に行ったら、40代以上の女性ばかりで少しがっかりした事も教えてくれた。
やっぱりちょっとチャラかった。
チャラいけれども、仕事をきちんとする好漢のチャンさんは、チェックインまで付き合ってくれると、出国手続きや再両替についても教えてくれた。
台湾で出会う人は素晴らしい人たちばかりで、チャンさんもまた例外では無かった。
もう直ぐ台湾を去る。
台湾でしたい事の全てが予定通りに行えて、多くの予想以上があった。
「全てが掛け替えのない3日間だった。ここに来て本当に良かった。」
でも、最後は、滞在中に助けられ通しだった方法以外にあり得ない。
「じゃあ、僕はここで」と微笑む彼に、ホテルの部屋で朝に書いた、最後のメモを見せた。
「太棒了、台湾」
でも実際に日本の学術機関に愛想を尽かして(と言うとまた反感かいそうだけど)海外の大学に行ってそこで成果を挙げた学者はたくさんいるし
スケートの世界では代表になるために国籍を変更することだって全然珍しくない
そもそも論としてどうして国籍があるのかということから突き詰めれば「戦争になったときにどの国の兵士になるか=どの国の国益を守る立場になるか」ということが出発点なので、それを軽々しく変えるというのは抵抗感があっても仕方がないこととは思う。
でも日本純血種(そんな人がいればだけど)でなければ日本人として認めたくない、応援もしたくないという考えはグローバリズム以前のレイシスト思想になる。
白人と黒人のミックスでイスラム教スンニ派だけど日本語ペラペラで日本在住で国籍も取得したという人が日本人として排外される世の中の方が「正しい世の中」であるかはまあ、個人の気持ちなのかなあ。
岡田斗司夫の元愛人を名乗る人物がtwitter上で暴露漫画を描いたことでネット上で物議をかもしている。
これが非常に面白いのだ。
そもそも岡田斗司夫は80人近くの女性と彼氏彼女の関係をもっていたと発言したのだが、ふたを開ければというかあけるまでもなくわかっていたことだが、それは愛人契約以外の何ものでもないということがわかった。
もちろんその事実がわかった段階では岡田氏を擁護する者は少なかったし、消極的に岡田氏を擁護する者はいても、全肯定したり、女の自業自得だ自己責任だと切り捨てる者は感覚的に少なかったように思われる。
しかし、この暴露漫画がtwitter上で話題になると岡田氏批判と擁護が拮抗しているように思われるのだ。(勝手に思っている)
何故なのか?
この疑問こそが僕の出発点だった。
僕の立場を言えば岡田氏のやっていることは100%間違っている。全否定派である。
のにだ。何故か批判派の論理はどこか矛盾しているように感じ擁護している側のほうにも正当性があるように感じてしまったのだ。これは考える価値のある疑問のように思われたので拙い知識で少し論じてみようと思う。
何故、岡田氏擁護側のほうにも論理的正しさを感じ、批判している側に矛盾を感じたのか。
これこそフェミニズムとネオリベラリズムのねじれ現象だと思うのだ。
批判派の論理はフェミニズム的思想によって行われ。擁護派の論理はネオリベラリズム的思想によって行われているのだ。
しかしこの二つの思想は僕にとっては共闘関係にあり手と手を繋ぎあっている仲間だと思っていたのだ!(書いてる途中でしったのだが、どうやらフェミニズムとネオリベラリズムはの関係性は大昔から論じられてきたらしい)
もちろんフェミニズムもネオリベラリズムも一枚岩ではないということは重々承知なのだが、もともと自由平等博愛という世界観を生み出した自由主義者たちが資本主義者と手を結びその中でで男女同権男女平等を唄うフェミニズム思想が生まれたのだと思えば、フェミニストは基本的に自由主義者だしネオリベラリスト達が掲げる国際化グローバリズム的思想とも
フェミニスト達は手を組めてしまうのだ。なぜならネオリベラリスト新自由主義者達は歴史、伝統、文化、国家などを解体し国境や国籍をなくし市場を開いて自由に! 平等に! 競争し貿易し取引し資本を儲けるという考え方なのだとしたら、
フェミニズムにとって邪魔な伝統や文化、家や血、身分や階級からの開放と非常に親和性の高いものだということがわかる。
つまりフェミニストの大半はおそらくグローバリストでありネオリベラリストなのだ。
ネオリベラリストたちの多くは自分のことをフェミニストだと思っている事だろう。
岡田氏擁護の論法はこうだ岡田氏はちゃんと見返りを与えている、それに選択肢も与えている、だったら女性の自己責任であろう、と。
これは男女の関係を金や権力または見た目の美しさかっこよさのみで取引できるという考え方が染み付いているのだろう。
さらに付け加えれば金や権力、美貌以外の価値観こそ女性を抑圧し束縛するものだと思っている可能性すらあるのだ。
最近togetterにまとめられていた「フェミニズムを拗らせた結果、レイプものや売春もの等しか受け付けなくなった人達(と、百合しか受け付けなくなった人達)」というのを読んだのだが、彼らは金、権力、美貌以外のもので男女が恋愛できるということを信じられなくなっているのだ! これは歴史でも伝統でも文化でも宗教でも国家でも家でも血でも身分でも階級でもなんでもいいんだけれど、そういったものにまったくリアリティを感じられない人たちに起こる現象ではないか? 彼らが異性と共有できる価値観なんてもはや金しかないと信じているのである。
そんな彼らがフェミニズムを拗らせたと名乗っているのだから面白い。
フェミニストがネオリベラリズムに正当性を与えネオリベラリストがフェミニズムの理論を武装したのである。
ネオリベラリズムの思想のなかには間違いなくフェミニズム的思想を取り込んでいるし。フェミニズムのなかにもネオリベラリズムと共有する価値観はあるということは間違いない。
しかしこの岡田斗司夫問題で、一見、僕からすれば同じグループの人間たちが喧嘩を始めるという奇妙さによって、フェミニズムとネオリベラリズムには価値観の多くを共有しているが、決定的に相容れない全く共有できない価値観があるということが浮き彫りになったのだ。(岡田氏本人がネオリベかどうかはよく知らない)
そんなの当たり前だろとおっしゃる方もいるだろうが、僕にとってこれは発見であり、フェミニズムという思想には大きな矛盾と逆説を抱えているように思ったのだ。
もちろん岡田氏を批判している多くの人は別にフェミニストなどではなくただ直感で不愉快に思ったからだろうが……。そのなかに紛れているフェミニスト達を見ていると(岡田はパワハラで性暴力で女性の敵! といった意見)岡田氏の様な恋愛資本主義的な思想に正当性をもたせたのはフェミニズムなんじゃないのかと思わずにはいられないのだ。
これまでフェミニストはどう考えてもネオリベラリストたちを利用してきたように思われる。
歴史、伝統、文化、国家からの開放という理念、男性社会からの開放という思想は
国家主導の経済政策ニューディーラーやケインズ理論のような社会主義的な政策を嫌うネオリベラリストをフェミニストは利用し、
男女同権をネオリベラリズムによる労働規制の緩和と非正規雇用や外国人労働者などを使った低賃金化といった改革によって達成した。
そして行き着いた先これである。
自由と平等を過激に極端に推し進め規制は悪であるという考え方が導き出した論理こそ弱肉強食なのだ。
クルーグマンもスティグリッツも最近話題のピケティも言っている格差問題はネオリベラリズムによるところが大きいが、
フェミニスト達にも米国におけるトップ1%が金融危機以来95%の富を得ている等の責任があるように思えてならない。
ネオリベラリズム的政策に正当性を与えたことは言うまでもない。
僕は今フェミニストがネオリベラリズムを利用したといったが、もちろんネオリベラリストがフェミニズムを利用したことも疑いようのない事実だとは思う。お互いがお互いをうまく利用してやろうとしたのだろう。
だからこそフェミニスト側が、ネオリベに裏切られた! 私達は被害者だというのはやめてもらいたい。ネオリベラリズムの思想によってフェミニズムの目的の大部分は達成したのだろうから。それが仮に弱肉強食にさらされるという事であっても……。
別に男と女が対立するのも結構だが、格差問題が深刻になりつつある今、フェミニストがやることはネオリベラリズム批判ではないだろうか?
フェミニスト達が今回の暴露漫画における岡田氏擁護派の論理、つまり弱肉強食という考え方を否定し資本による自由平等を批判しても、恐ろしいことにそれを望んでいたのは(少なくともそう見えた)フェミニストなのだから自分で自分を殴っているような滑稽さ、それが僕の違和感であり矛盾であり、擁護派にもそれなりの正当性があるように思えた理由なのだ。
家や見合いを否定し自由恋愛が生まれ、今度は家庭を否定し、恋愛資本主義にまでいきつき男女ともに恋愛による価値観は金と権力と美貌しかなくなるのも頷ける。
金と権力があればモテルやただしイケメンに限るなんてのもネオリベラリズムに毒されれば必然的な帰結だろう。
このような思考回路を持つ、岡田氏を擁護する人間や岡田氏の様な人間を作り上げたてしまった責任の一部にフェミニスト達が関係していることを考えるとなんともいえない気持ちになる。
男女の平等を達成するためにネオリベラリズムを利用したらネオリベラリストによって性的被害を受けた、なんと皮肉なことか。
弱肉強食と男女平等が共存する社会が仮にあるとすればそれは旧石器時代のようなものではないか? それこそがフェミニストとネオリベラリストの理想郷であることは疑いようもない。
ネットの普及していなかった70年代、日本は(そして欧米は)海外に生産拠点を作り経済的には貧困を輸出していた。誤解を恐れずに言えば海外に経済植民地を作り奴隷労働をさせていた。増田の言うところの穢れない増田のお婆ちゃんは、その奴隷労働の上がりの経済的繁栄を享受していた。もちろん増田も、俺も、例外なく先進国の全員はそうだ。
70年代そういう情報は可視化されていなかったから、一部の大手商社とか、海外進出メーカーの上層部が知っていて、国民は知らずに済んだし、たまにそんな報道が出ても「どこか未開に国で起きていること」とスルーすることが出来た。
そういう「高度成長期の罪業」っていうのは罪業じゃないのか? といえば、やはり罪業だろう。増田が言っているのは「昔から凄まじい数の罪業を振りまいてきたけど、最近それが目に入ったので心が痛い」であるようにも聞こえてしまう。
増田の言う「地獄」ってのは極論すると「俺が苦しい」でしかないんじゃなかろうか。
今でも、もちろん、そういう開発途上国と経済搾取構造は存在する。でもネットの普及とグローバリズムが、彼らにも情報入手の手段を与え、世界全体で見れば飢餓や疫病を減らしつつあるというのも事実としてあるわけだ。日本国内で見ても情報公開が進んだせいで、目の前にあるのに甘受してた悲劇を避けられた人も多いだろう。医療情報や、ブラック会社や、制度的な無知から救われた人は少なくないと思う。
増田が個人的視点でその苦しさを正直に吐露しているのはわかるんだけれど、文明発展の功罪を語るのならば、もう少し全体を公平に見てあげないと、「先進国/すでに得ている者の開き直り/過剰要求」っていうやばい醜悪を晒しちゃうと思うんだよ。
この主張は正しくもあるが、現在の社会において多くの錯誤を生み出すので良くない。
マクロ的に見ればそうかもしれないが、やってることは単なるネオリベ拝金主義による分断統治。
人は皆それぞれの考え方をもっていると考えること、これは現代において「原則」だと思っている。
ただこの「原則」には矛盾があって、人は皆それぞれの考え方をもっていると“考えないこと”も、この「原則」に則っていることになる。さらに導出すると自分と異なる考え方をもっている人はこの「原則」に反することになってしまう。
この「原則」を主張する人はその矛盾も含めて個々の考え方を尊重するという選択をしているのだと思っている。そういった人々は自己矛盾―もとい批判をもらった際に確実に反論できないことを承知してそれでもこの「原則」を主張するのだと。
もう一つ、相手の立場になって考えるということ、これは原則とまでは言わないけれどできたらよい「道徳」の一つだと思っている。
ステレオタイプにとらわれず―性別とか年齢とか人種とか嗜好とか考え方とかは置いておいて、自分がその人の立場だったらどう思うか、考えるか、うれしいのか、悲しいのか、辛いのか。
この「道徳」を支持する人はある意味わがままだと思っている。相手の立場だったら自分ならこう考えるという洞察は、相手のこと―幼少期~現在に至るまでの親子関係、友人関係、その他を含む100%を完璧には理解できないのに、断片的な情報のみで相手の立場を推察せざるを得ないから。
こういった「原則」とか「道徳」とか思っていることが、時代や人種や国籍によって受け入れてもらえないことがあるのはわかっている。
今は、グローバリズムは古い考え方だし、国籍や嗜好で他人を蔑視したり何かしら理由をつけて誰かを村八分にすることが「正しい」のかもしれない。
でも自分は(できていないことも往々にしてあるけれど)人は皆それぞれの考え方をもっていると考えたいし、とてもわがままなので、相手の立場になって考えることができるようになりたいと思う。
だがそういうのは都会の人間からすると無駄な税金の使い方になる
オレ個人は「富裕層から貧困層への再配分は必要」だと思うけど程度問題で現在の再配分でも十分あるいは過剰なくらいだと思っているんで、そういうふうに主語を大きくしないでほしい、とは最初に言っておきつつ。
増田の述べてるのは全く逆なんだよ。「都会から田舎への再配分が不要だというのなら、整合性を取るために富裕層から貧困層への再配分も不要だって言うべき」ってのが正しいだろ。
そもそもの話、グローバリズムは「先進国(例えば日本)から発展途上国(例えばアフリカ)への再配分」でもあったわけだけど、これに反対しつつ都市部から田舎への再配分に賛成するってのが、無理筋でさ。
つまるところ、地方民の言う「地方に再配分せよ」も、貧困層の言う「貧困層へ再配分せよ」も、「俺に金をよこせ」以上の何か意味のあることを全く言えていないのが問題で、そんな「よこせ」で富裕層や都市層を説得できると思ってるあたりがお花畑なんだよ。
国民は労働者であるが同時に消費者であることを忘れてはならない
グローバリズムが加速した先には国内の社会的弱者が誰からも助けてもらえない社会が出来上がる
なぜか?
大企業はタックスヘイブンなど数多の方法でいくらでも納税を逃れる手段がある
弱者を守ることを正当化させるには政府に金が集まることが大前提
それができなくなるということは現実問題として弱者を切り捨てるしかない
貿易赤字にもなりかねないし、そもそも同じ道徳と価値観ならいいが実際は様々な問題が摩擦となって吹きあがる
移民政策やらなにやらと色々試してみた結果、どれも上手くいかなかったのが現状
Webだけにとどまればいいが、それ以上の労働力や移民などのグローバリズムは
国・政府を崩壊させ救われない弱者を増やすということを各国政府は気づきだした
なのでアメリカやイギリスはいち早くグローバリズムから手を切ろうとしている
NWOに組みする世界企業たちにとっては面白くない話なのでトランプを批判する
彼らは自分たちの夢のためなら救われない人間が増えても構わないと思っており
このブログは色々なズレを感じた。
希望の党に排除された旧民進のリベラル勢力というイメージだった枝野立憲民主党に弁士小林よしのりという取り合わせはそれ自体事件だった。
さらには「小林よしのりが何を言うか」という素朴な興味が群集を新宿に参集させた。
そして新宿東南口のアジ演説は薬害エイズ事件の際に厚生省を取り囲んだ時はこんな感じだったんだろうなあと想起させるほど迫力あるものだった。
小林よしのりは安倍政権に真に怒ってる、そしてそれを伝えるアジテーション能力がある。
「わりに無批判に小林よしのりを受け入れる立憲民主党支持者は、若い人が多い」わりに「若い人は小林よしのりなんて知らない」というのも当たっているのかどうか。
「田舎町の高校だったからなのかは知らないが、たまたまクラスで数年遅れで流行った」そうだが、今も『戦争論』が出版から約20年経とうとしているのに増版・増刷を重ねている事実を知っているだろうか。
ゴー宣シリーズ自体も出版社を変え今は文庫化されているはずだ。
このことは出版不況の現在においてさえ新規読者が参入していることを意味している。
今だバリバリのインフルエンサー、アジテーターとして機能している。
グローバリズムと安倍政権の軋みの中でそれとは違った方向性のナショナリズムを訴える小林よしのりの年来の言説がわりあい素直に受け入れられているのではないだろうか。
小林よしのり本人の批判も大いにすればいいと思うが、そのことが世代間闘争や立憲民主党の評価に直結するなんてことは考えにくい。
西田氏のツイートもTLに上がっていたので見たことは見たが、この日記投稿で「官能小説家」だということを初めて知ったくらいだ。
小林よしのりの評価を巡るSNSでの世代間バッシングなどはたとえあったとしても若い世代に何がしかの影響をもたらすだろうか、と首をかしげてしまう。
道徳や知識が中途半端に行き渡ったことで利己心と交雑して過保護な世界(例えばクレーマーとそれに対する対応、公園の遊具などへの規制、グローバリズムに対してのナショナリズム)になったなあ、とか、
日本が社会主義と比喩されるのは自分の利益を追い求める資本主義の中でも社畜精神が強いから本来勤労意欲減退の原因となるはずの薄給もなんだかんだ許される(俺も苦しいからお前も苦しめ的な風潮、圧力)し、それでうまくいっているから、とか、
考えるけど人には言いづらい。
経済学も新書でかじった程度、世界史も教科書の知識しかないぺーぺーだし、この思いつきもTwitterを見てて着想を得た程度だかられっきとした根拠があるわけじゃないけど自分の頭からどこかに書き出したかった。
資本主義も格差拡大が止まらないという点でだいぶ限界を迎えてるんじゃないかなと思うけど、もう半世紀は生きるかもしれないから健康で文化的な生活を送れる程度に稼げる職に就きたい、のし上がりたい
お金欲しいな〜〜
http://twitter.com/i/moments/887430878179323908
気持ち悪い文を頑張って読んでみた。このグローバリズム・リベラル(なんだこれ)はポリコレで包まれるお花畑を理想としているように見受けられる。
ポピュリズムによるリベラル浸透を期待して確信しきっている。こいつの中のマスとは理想郷の中における全体主義的理想民に他ならない。
何故ならここでのグローバリズムの中に多数小数の民族性・趣味・主張・宗教といった表現上のサイレントマジョリティの群れをポリコレ棒で叩いて認めていないから。女性向AV等を是としている割にこの点で矛盾している。
そうしてセクシズム・レイシズムを肯定する作品はそのうちマス向けコンテンツから消えていくと信仰しきっている。実に滑稽だ。世界は一つの性倫理…グローバリズムに落ち着くと考えてらっしゃる。
根底にあるグローバリズム・リベラルに日本的リベラルが無いのが救いでリベラル狂信者としては非常に誠実だと思うが言っていることは理想に沿わないものを排除したいだけ。
この点について一貫した理想を持っていて説明できている辺り福音者としてとても優秀だと思うが、日本の一般的ネットユーザを正しく理解したうえで福音を届けたいが為に曲解させた吠え方をしているから悪臭漂う
そもそもこいつというかリベラル民は【弱者・落伍者・貧窮者】といった範囲を救済するという理想の元から議論を始めているので現実に即さないことを言い出すからキチガイじみて見られる。
こいつを評価できるのはそのキチガイじみた中でもリベラルがネオリベ資本主義の仕組みに貢献しているという現実を理解していることだ。格差社会の是正という面においてリベラルが必要という論調自体には何ら問題がない。
最後にこいつの信仰しているリベラル自体(前期として)新しい自由主義なので、アメリカ民主党の内ゲバよろしく(後期として新しい)ネオリベを連呼するカッコ悪さは見苦しい。リベ・ネオリベ・リバ・アナーキズムなんてのはただの方法論でしかない。
いかなる理想でも追求し続けたら非理想郷に辿り着くというのが今日現在進行形の各国におけるリアリズムの一致した見解で、突き詰めるグローバリズムというたわけた妄想を議論に載せた時点で総ツッコミが来るのは当然だ。過去から現代においてグローバルに受けそうにない尖った創作がグローバル化してきた歴史を学ぶといい。なんならアバンギャルドでも勉強した方がいい。
※グローバリズム・リベラルはお花畑を英語で表した自分の造語です。しいて例をあげるなら富裕層独特の「みんな私達のようにお金持ちになーれ」的なアレ。平等≠リベラルにしなさいと上から目線で学者面がほざいているワケだが自説のグローバリズム性によって全体主義的観点に陥っている。
一般には知られていない闇の歴史となるのだが、この地球の支配種族はクーラーなのだ。
この猛暑の中外回りをしている勤勉な増田には理解してもらえると思うが、地球と呼ばれるこの惑星において最も偉大な種族はクーラーであり、俺たち人類は、彼らの吐き出す冷気に寄生していっときの安らぎを得る未開の番おくにすぎない。
日本以外でもそれは完全な事実なのだ。クーラーなんて使わないよ? とうそぶく北欧国家はもう完全にやばい。
あれは山脈の頂上近辺とかに、巨大クーラー様が鎮座してて国家どころか地域ごと冷房しているから一年中快適気温なのだ。夏の間だけクーラーに面従腹背しているような、半端な文明国とは違う。国家ぐるみでクーラー様を信奉しているのだ。万年雪ツアーとか聖地巡礼みたいなものだ。
古代種族クーラーの本拠地は南極だ。狂気クーラーが地球を凍結させようと、白熊あいてにシロクマアイスを量産している。地球温暖化がいまのようなペースでとどまっているのも、この古代種族の偉大なる英雄が南極でかき氷を作ってるからなのだ。
人類の最後の牙城だと思われていたアフリカ諸国も最近きな臭い。茶色くて乾いたぺんぺん草しか生えていなかった荒野が灌漑されて、近代的な大学やオフィスビルが立ち並び始めた。言うまでもなくそれは古代種族クーラーのテリトリーだ。
世界経済の発展やグローバリズムというのは、クーラー族がその勢力範囲を拡大するために人類に授けた叡智なのだ。いいや、それを叡智と呼ぶのは矮小なる人類の価値判断でしかなく、本当は空調機械がこの地球の表皮を覆うための生存戦略めいたただの自然の帰結なのかもしれない。人類のちっぽけな知能では、古代種族の深い考えなどわかるはずもないからである。
賢い増田は、偉大なるクーラー様の支配を拒むことはないと思うが、世間では(特に市役所とか?)が設定温度を28度とかにして、結局室温は30度超えてるじゃんなどという、文明人にあるまじき反抗作戦を繰り広げていると聞き及ぶ。
愚かなことだ。
古代種族は人類のことなど気にもかけていないのだ。クーラーは何も奪わず、与えない。熱交換はただの交換でありエントロピーは増大するのみである。支配種族に逆らうことに意味はない。彼らは人類に悪意は(あえて言うならば、もちろん好意も)ないのだから。
この秘められた事実が露見した場合、僕は反クーラー主義者たちの凶弾に倒れるかもしれない(彼らは長い間義務教育の教室にはクーラーを設置させないという差別を行ってきたことに注意すべきだ)。