はてなキーワード: 考える力とは
何時間か後には死んでいるという事を淡々と説明した男は、その続きでその後に死体が司法解剖されるという事を話し始めた。もちろん医者には解剖は必須の授業なので自殺が司法解剖の対象になる、という事は当然の知識だったのだろう。でも自分がどんな風に解剖されてゆくのかという事を聴かされる側にはなかなか酷いものだった。
そしてその話の中で、突然「ここで死ぬと、僕を教えてくれている教授が僕の解剖をする事になるな。」という言葉が出てきた。「お嫌だろうな。少し離れた所で死ぬことにしよう。その県の先生にはもうしわけないけど僕を直接教えたわけじゃないから。」と言葉が続いた。
その男は、ひとりで話し続けていた。「少し標高の高い所に行って、マフラーが雪に埋まる様に車を止めるね。そうすると一酸化炭素中毒で死ねるから。長く苦しまなくていいし。」
そんな風に、私は自分の身体が切り刻まれるおぞましい話をずっと聞かされた。そして話はその時妊娠していた私のおなかの子供にも及んだ。
「そうか、おなかの子どもも同じ状態で死んでいるんだな。いっしょに。」
無感覚だった私は、その言葉に激怒したのだと思う。身じろぎせずにただ座っていた私は、膝の上に置いていたバッグを掴み、運転していた男を全力で殴りつけた。ハンドル操作がぶれて、ガードレールに衝突しそうなほど猛烈に。
怒りは私に叫ばせた。「そんな事を考える力があるなら、警察にいってちょうだい。」
私はその男が何をしているのか、既にその数年前に知っていたので、目の前で女に刃物を振り回して脅されたり、部屋をめちゃくちゃに荒らされたりというショックから抜け出すと、当然なのだけれど反動で猛烈に怒りがこみあげていた。
http://fujipon.hatenablog.com/entry/2015/10/03/152346
http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20151004/p1
http://fujipon.hatenablog.com/entry/2015/10/05/131646
私の印象として、いわゆる「古参」の方々は徒党を組んでるわけではないとは思う。徒党を組んでるのはむしろ新参の方々であろう、と。ただ「古参」の方々は「サバイバー」としてある種の意識は共有してると思う。で、その意識ってはやや穿った見方をすると「俺達のローカルルールを飲めない奴は出て行け」ってなところが出てるかもしれない。実際は、空気がよめない奴を見下したりやゆする程度のプレッシャーだと思うけどね。それでも新参の人からしたら嫌だろうし、弱い人は耐え切れなくなっちゃうんじゃないですかね。
この「ローカルルール」意識の押し付けが極端なものになると↓のようにサバイバーの自己正当化になって、かなり醜いものになります。
『初狩り』とか本当に笑わせんなよって話だよな。その初心者さんは、なんで対戦台に金入れて座ってんの?ニコニコ気持ちよく遊びたいだけなら家でドラクエか縄跳びでもしてろよ。ゲーム業界の発展がががとか頭狂ったように口にするけど、対戦台に金入れて文句言う奴が何人居ても発展せんわ。— 井上_INO (@inoVSVSVSVSVSVS) 2015, 10月 5
そもそも対戦ゲーム業界・ゲームセンターの発展ってなんなんだ。社会から溢れたクズが怒りを不満を哀しさを、犯罪に至る前に持ち寄る場所じゃないのか。品行方正が重んじられる清らかな社交場として新規さん(笑)で栄える事があれば、それはゲームセンターの役割としては『衰退』してないか。— 井上_INO (@inoVSVSVSVSVSVS) 2015, 10月 5
礼儀正しく優しくみんなで楽しみたい奴らはまずゲーセン来んなよマジで。Eじゃない普通のスポーツやればいい。10;どうしても対戦したいなら、初狩り?されたら相手に直接掴みかかれるバイタリティを携えて行くか、現実を受け止めて黙って練習するしかないだけの話じゃないのか。— 井上_INO (@inoVSVSVSVSVSVS) 2015, 10月 5
@inoVSVSVSVSVSVS これ負けた本人が言ってるんじゃなくて曲がりなりにも金入れてる当事者の正当なプレイ権利を見てただけの他人がネットに広めようとしてるのがヤバイな— シロいたち (@Siroitachi) 2015, 10月 5
本当にケースバイケースなんだろうな。連コインにしても、俺が店長やってたゲーセンでは、アツくなってる奴の真後ろに並んで小銭の音鳴らす時点でマナー違反みたいな空気すらあったよ。『どうしても自分も今こいつと戦いたいから代わってくれ。すまん。』って頭下げて代わってもらうのが普通だった。— 井上_INO (@inoVSVSVSVSVSVS) 2015, 10月 5
@inoVSVSVSVSVSVS トゲトゲした『敵だらけの空間』の中で認められてく認めてく素晴らしさ。ムッチャおっかない外見のヤンキーの兄ちゃんとかが好意的に誉めてくれて嬉しかったなあ。いまはそういうの無いだろうな。だからかコミュ能力低い癖にコミュ求める奴もおおいよな。— ピノAB7 (@pinoAB7) 2015, 10月 5
@pinoAB7 相手の現金を潰しあう空間だもんね。初狩り、カツアゲ、恫喝されましたあたしかわいそううううううううって書き込む場所が無かったからこそ、それに自分のリアルの体で向き合うしかなかった。だから何かが育まれたんだろね。『てめえ入ってくんなよ』から始める出会いが消えてる— 井上_INO (@inoVSVSVSVSVSVS) 2015, 10月 5
前のエントリ知らなくて読んだら、なんか懐かしいものを感じてしまった
テレビで報道されるニュースの、ごく限られた情報から勝手に自己投影して、犯人に共感を抱くというのはごくありふれたことだ
今では中年Aと呼ばれるようになってしまった酒鬼薔薇くんも、当時は「俺も一歩間違えれば酒鬼薔薇だった」とかよく言われてた
まあご本人も自覚しているようだが、自分自身がどう救われたかという物語を絶対視しすぎていて、他人の人生というものを冷静に考える力はなさそう
それはいい
だが引っかかるのは、そのくせ、他人の人生に影響を与えたがっているように見えるところだ
安全な場所から犯人に共感できるのは、犯人が自分にとって都合のいい情報でできあがったコンテンツにすぎないからだ
生身の人間として見ていない
だからお気軽に「ああすれば、こうすれば救えたんじゃないか」とか言えてしまう
http://www.amazon.co.jp/review/R33VQYXB3J6P7P/ref=cm_cr_rdp_perm?ie=UTF8&ASIN=4838725833
ネットで叩かれているようですが、事態はもっと深刻だとおもいます。
何より、「グラフィックデザイン」という仕事自体への信頼を落とした罪は、とてつもなく大きいと思います。
擁護していた人間が、信じられない。「仕事」あってのデザイナーです。「彼はいい人」?ふざけるな、です。
真の人柄とは、「デザインの仕事」にこそ、出るものなはず、です。
全てのデザイナーが、こんなパクリ、というか、「雑な仕事」をしているわけではありません。
精一杯、ギリギリの低予算と日夜の仕事の上にちょびっとだけ花が咲くような「地味」な仕事です。
この「パクリ」は、むしろ「佐野研二郎」さん、「森本千絵」さん、「長嶋りかこ」さんら、
大手代理店の実質・専属デザイナーだからこそ、必然的に起こりえました。(まだまだ他にもいますよ)
彼等は、零細のフリーランスや個人のデザイナーと違って、大手広告代理店・電通や博報堂とのパイプがあるため、黙ってても、とんでもない「大きな仕事」が降ってきます。サントリー、資生堂、TOYOTA、HONDA…そんな大企業はデンパクにしかできませんからね。
それをチャチャっと、イメージソースを見つけ出し、Macでコピー&ペースト。下っ端のほぼアルバイトに近い低賃金アシスタントに、徹夜でとてつもない量の「アイデア」を出させ、その「手柄」を横領します。
「横領」と「電通・博報堂・多摩美ムサビ」を中心とする「これがオシャレなんだぜ」という「自己顕示」が、彼等のいう「クリエイティブ」の正体です。
彼等に創造性は一ミクロンもありません。「芸能人」に好かれているから、成り立っていただけです。
「ま、素人だしな、センスねえ・一般人なら、わかんねーだろ。」これが、彼等のいう「デザイナー感覚」なのでしょうか?
違います。真のデザイン感覚とは、「一般の人」にこそ、パッと「見るだけでわかるもの」だと私は思います。
ちょっと心あるデザイナーたちは、みなこの人たちの「センス」の源泉・ソース元が「パクリ」であることにとっくに気付いていました。ただ、一般の人の目と耳に届かなかっただけなのです。
彼等は「デザイナー」というより、「中間搾取業者」さんという方が適切なのです。
デザインに、本当はプロもアマもありません。だからこそ、デザインは過酷な仕事なんです。
かえって、「素人」だからこそ、曇りのない目だからこそ、デザインの本当の良さがわかるし、ウソもバレるのです。
国民の祭典である「オリンピック」に、あんな葬式か、安っぽいブランドのロゴのようなデザインを出してくるセンス。
それに疑いもしないセンス。これが「プロのデザイナーの仕事」なのですかね?
こんな「雑な仕事」が、止まることなく、まかり通ったのも、彼等を批判することが「タブー」だったからです。テレビ・新聞・ラジオという「メディア」の一番の資金源である「広告」を「美しく」作る方(パクリですけど…)なのですから。
まるで、一連の騒動も、「頭の悪いネット民」の批判だから、などと、彼等側の人間は、主張するでしょう。
いえ、今回ばかりは、発見したのはネットの方々かもしれませんが、日夜真面目に働く「デザイナーたち」こそ、一番の被害者です。
こんなズサンな人々と一緒にされたくない、とほとんどの方は主張するでしょう。そして、デザイナーこそ、こういう愚劣なクソデザイナーに怒りを感じるはずです。
和田誠さん、田中一光さん、亀倉雄策さん、横尾忠則さん等、デザイナーがスターだった時代は、手と情熱とで、素晴らしく美しいデザインをつくっていました。いちいち鉛筆で線を引き、イラストレーターと一緒にアイデアを考えていました。
デザイナーという仕事は「広告屋」「看板屋」などと低く見られ、軽蔑されていました。
何が「ミスター・デザイン」じゃ!!その「ネーミング」の恥ずかしさに、言葉も出ません。
最高に笑えないギャグですよ。口に出してみて下さい。「ミスター・デザイン」?。
オレは偉いんだぜ、ってことでしょ。自己顕示欲の塊なんですよ。ちょっと心あるデザイナーなら、誰でも気付いていたことです。
これを機に、「デザイン」という仕事から、足を洗って頂ければ、幸いです。
後記:多くの方に反響を頂きまして嬉しいです。
少なくとも、サントリーのパクリの件は、専門学生の1・2年レベルの課題でも今時するか?という初歩的な「画像のまんまパクリ」です。フリー素材か、写真を取ればよかっただけのことです。
デザイナーとして、本当に、ありえないレベルのミスです。こんな仕事の仕方は、佐野研二郎氏の事務所だけでしょう、と信じたい…。
しかし、それでもまだ擁護する「デザイン村」の人達にはつくづく情けない…。
理研の小保方氏、音楽クラシック村の佐村河内とホントーに、まったく同じ構図じゃないですか!
デザイナーたちも、仕事に響くので、黙っている方がほとんどだと思いますが、勇気を出して、声を上げて下さい。
呆れるほどボロボロとずさんな情報が出てきてしまいます。「思考をクリア化」しすぎた結果だと思います。
この本を読んで、「そもそものデザインのやり方」への「違和感」を感じて、すぐに某本屋へ、売りましたが、まさかあのときに感じた違和感が、これほどまでに実現化されるとは思いませんでした。
でも、いかに佐野氏が、「手抜き体質」かが、出ていると思いますよ。
なんと…驚愕の事実が発覚しました(2015年8月30日)。「ペンギンブックス」という、日本人には馴染みが薄いですが、
有名なペーパーブックのシリーズの名タイポデザイナー「ヤン・チヒョルト」のパクリであることが発覚しました。
私も、GGGでの展示に行って、感銘を受けました。本当に許せない。チヒョルトは、ハッキリ言って、
作風は地味です。しかし、心に残るデザインをする私も心から敬愛する、「巨匠」です。
しかし、そのチヒョルトの「表面」のデザイン部分だけをペーストして、パクる姿勢。
本当に許せません。
「スポーツの世界」のヤツラにならば、わからないだろう、という魂胆でもあったのでしょうか?
本当にふざけてる。デザイナーとしても、最低です。許せません。
(コメントに追記)>>広告代理店のデザイナーの仕事はプレゼンが主なので細部まで検討して作りに作り込んだファイナルプロダクツを作成することはありません。ファイナルプロダクツは下請けの専門家に任せます。だから”これとこれをくっつけて~”みたいに30%ぐらいの力で仕事を仕上げるのが”デザインする”ことだと思っちゃってるデザイナーになってしまうんです。しかも代理店にいたというプライドだけは高いから、始末に負えない。
そうなんですよ。彼等のいう「クリエイティブ」は、日本語訳の「創造すること」や「発想すること」じゃないんですよ。
いかにして、「自慢するか」なんですよ。
で、CMの世界では相手のクライアントが、「企業」ですから、世に漏れなかった。会議室の中だけでの世界でした。
しかし、「オリンピック」という晴れの世界で、「Mr.デザイン」こと「佐野研二郎氏」は同じように、惰性でやってしまった。彼にとっては、こういう仕事の仕方が、「普通」なんです。
もちろん、考える力も発想のノウハウも、強さもないから、最終的な「アウトプット」は「何かに似せる形」になります。何かに似せる、しかも雰囲気だけ…ぐらいなら、いいんです。
「何かに似せる努力」すらやめて、「そもそも画像をそのままネットからパクっていいじゃん!」
「フォトグラファーを使う」「イラストレーター(絵描き)を使う」「タレントを使う」のにも、何をするにも、
それを解消するには、タダで「アウトプット」を創り出すには、いくつかのアイデアがあります。
しかし、最も単純明解に、クリアに、ボールドに、全ての制作費が浮く方法があります。
一番安く、早く、タダで済ませられる唯一のデザイン。
一体なんでしょう。
それは「搾取」です(「パクリ」という言葉は、何となく、「万引き」に似た甘やかしの言葉だと思います。そんなレベルではないですよ、コレは。明らかに「システム」として、「自分の仕事」として、やっています。でなければ、こんなに出てくるはずはないです。)。
デザイナーたるもの、誰でも一度は、パクることはあります。学生時代に、一からオリジナルを創り出せる人間など、いないし、天才でもムリでしょう。「習作の時代」はあります。
「自分の周りへのヒト・カネ」がメインであって、「モノ」(仕事)は、どうでもいいのです。軽蔑された結果なのだと思います。
はっきりと、誰かの作ったものを「奪って、人に提出する仕事」に甘んじてたのだと思います。原宿の事務所のMacintoshの中では、イラストレーターが書いたパンも、誰かのブログのパンも、「一緒」です。
ならば、タダな方がいい。
とすら、考える頭もよぎりません。
まったく自然に「ミスター・デザイン」は、搾取します。無限に仕事がつくれ、永久にカネが入ってくる仕組み…。
思考は確かに「クリア」かもしれませんが、その精神は「ドロドロ」です。
クリエイティヴ・ディレクター、アートディレクターという「肩書き」は、「搾取指示人」なのでしょうか。
「クソ・デザイナー」というカテゴライズで、はっきりと「普通のデザイナー」とは一線を画す社会にしたいものです。
全てのデザイナーこそ、今こそ怒りを上げるべきです。
2015年9月1日、ついに、ようやく、取り下げました。が、凄まじいシロモノの反省文を掲示しました。
ここまで「ひどい謝り方」をできる人間が、いたでしょうか。
帰って来た返事は、「被害者」気取り、でした。
やはり、闇は深い、と確信するばかりです。
もうこれは確実に、しれっとして、またヒョロっと、5年後、五輪のバックで「名前の出ない形」で関わってきますよ。1000%。
絶対に、です。「今を乗りきれば、大丈夫」と思っているはずです。
もちろん、いわれのない誹謗中傷もあるでしょう。それはお察しします。
しかし、博報堂の「営業」の人間は、そういうことで強くなるんですよ。何にも言われないのは、クーラーの効いた部屋で、パソコンと戯れるクソデザイナーだけなのです。
自分の大好きなお仲間たちと、カネをバンバン出してくれるクライアントと、ドラゴンボールやドラえもんを使われても、何も言えないそっちのヒトたちの複雑な気持ち、アニメーター、漫画家、アーティスト、イラストレーターを、笑顔でほがらかに踏みにじってきたわけですからね。アートディレクターって、一体何なのでしょう。
博報堂では、こんなに「謝る」ということは「罪悪」なのでしょうか。
卑怯なのは、「テキスト」ではなく「画像」で謝るということも、そうなんですが、
「リュウミン」を使って、この際も「キレイに、クリエイティヴに、素敵なタイポグラフィ」で謝ろうとするクソみたいなデザイン根性です。
「ニッポンは、世界中から尊敬されている映画監督の出身国だった。お忘れなく。」のあの「ドヤ感」の「薄汚さ」が、本当に蘇ってきました。その「キタナさ」が何一つ変わっていない、どのメッセージでも。
これが、逆にいえば、彼のデザイナーとしての唯一の「統一性」なのかもしれません。
ただ、「ドヤ感満載」のデザイナーだと、仕事になりません。本来ならば…。
こういう場合、「真摯なデザイナー」は、実は、普通の、どこにでもある「そっけない」明朝体を使います。
リュウミンだと、あまりに「美しい書体」すぎて、ほぼ「ウソっぽく」聞こえるからです。
そんな「文字への美的感覚」すらないんでしょうね。表面的に、「キレイ」なら、何でもいい。佐野研二郎。
そもそも本当にデザインを学んできたのでしょうか?疑わしくなってきました…。
皆様が5年後忘れていても、私は「佐野研二郎」という、愚劣な「デザイナー」という肩書きをした「搾取者」の名前を永遠に忘れません。
今は、「炎上」し、「祭り」状態かもしれません。
しかし、私は、もっともっと持続的に追求していかなければならない問題だと思います。
この多くの批判が消え、静寂になり、命を吹き返した頃に、
また愚劣な身内自慢とともに、高らかな搾取とクソデザインのオンパレードが、そっと始まる(reborn)ように思います。
絶対に許してはなりません。本当に。
今M1.
D進するつもりで進学してきたけど諦める.
僕は,自分自信の学問の興味を,「人生賭ける」ものに昇華できなかった.
それどころか,今まで勉強してきたつもりだったけど,僕の勉強はただ正解を頭にねじ込んでいただけだった.
専門やってきたつもりだけど,色んな分野からただつまみ食いしていただけだった.
僕はコミュニケーション能力というやつを,20代前半も1/4が終わるまで,全く磨いてこなかった.
おまけに,自分自信で考える力も,同じくらい長い間磨いてこなかった.
正直に言って,D進どころか,就職できるかどうかも怪しい.でもやるしかない.
ずっと昔,僕は勉強に走った.
小中といじめられ続けた.高校は,極力深い人付き合いを避けて,何とか乗り切った.
これじゃダメだと思って,大学ではバイトやらサークルやら試してみたけど,結局全部ダメだった.
少しでも,せめて勉強だけでもと思って,無謀なカリキュラムを組んでみたけど,
結局,それなりに見かけは良さそうな成績表以外,何も身に付かなかった.
何からなんでも片っ端に頭をねじ込む勉強法じゃ,時間が全然足りなかった.
ずっと思ってたよ.「何でこんな目に」って.
勉強に走っても,良い点を取っても,褒められたことなんて一度もない.悪い点とって,一週間毎日,夜遅くまで叱られたことはあったっけ.
中高のときに,プログラミングや電子工作をやってみたこともあったけど,
「金になるものを作れ,金にならないものなんか作ってるんじゃねぇ」って言われ続けて,辞めてしまったんだっけ.
いつからか,良い成績が出るたびにほっとするようになったよ.「これで当面は何も言われない」って.
ネットの世界じゃ,「ゆとり」とか「精神が未熟」とか「こいつらが日本を滅ぼす」とか言われ続けたし,
大学入ったあたりからは「優秀な留学生に比べて日本人は」とか「日本人はもう役に立たない」が加わったかな.
実際,過去問も過去レポートも共有して,単位だけとる学生がたくさん居てね.
「こんなことをしたらいけない」って思って,「少しでも優秀にならなきゃいけない」って,自力で挑戦してみたよ.
あのとき,身の丈にあった挑戦してれば,今こんなことになっていなかったんだろうか.
もう,「惨めに死にたくない」以外,何にも望みなんてない.
それしかないから,「惨めに死なずにすむこと」に,有意味感を見出すしかない.
いつになったら「死にたくない」って考えなくて済むようになるのか分からないけど,
やるしかない.
発声練習の人のブログは,厳しいことも書いてあるけど,参考になることがたくさん書いてあって,とってもありがたい.
何より,僕が20と数年悩み続けた能力は,訓練すれば多少改善することを,はっきり示してくれた人を始めて見た.
今まで,てっきり天性の素質で,もう変えられない物なのかと思ってたよ.
これから何とか,足りないスキルを少しでも身に付けるしかない.
もう「学部4年ならこれぐらいやらなければ」とか「修士1年ならこれぐらいやらなければ」とか,
「今の専門を徹底的に研究することに,人生を賭ける」だなんて,「将来ウルト○マンになる!」みたいな絵空事,言ってる場合じゃない.
一方で,「この歳で面倒かけてるなら,もう一生このままだし諦めて死んだ方がいい」なんて考えてるのもダメなんだ.
今,僕ができる最善の手を打つしかない.
匿名だと分かってても,怖くて仕方ない.
これから新聞を取ろうと思っている10代20代前半の人達へ新聞の選び方を指南したいと思う。
ここで間違うと貴方の一生が台無しになる可能性大なので慎重に。
日本にいくつ新聞があるか知らないけど、まあ100はくだらないのは間違いない。めっちゃ多い。
なのでその中から「選択する」というよりは「ふるい落とす」方が無難。
ブラックリスト方式で除外してから残ったのを選ぶといいだろう。
それぞれ解説する。まあ下の2つは言うまでも無くありえない。こんな新聞を若い頃から定期購読しようなんて人はいないだろうけど。特に夕刊紙系は定期購読はもちろんのことウェブで読むのも避けた方がいい。夕刊フジとかああいうのは未来も現在も完全に終わってるオッサンが憂さ晴らしに読む為のものなので得るものは無い。
「主張が強すぎる新聞」とは何か。まあようするに政治的なスタンスを張ってて、それを売りにしてる新聞だ。
日本だと代表的なのは左・リベラル系が【朝日、毎日、北海道、沖縄タイムス、沖縄新報、神奈川、西日本】などだ。
右は【産経】の独壇場。
次に「主張を通すために捏造する新聞」とは何か。代表的なのは言うまでも無く【朝日】だが、これは朝日に限らず主義が強すぎる新聞は多かれ少なかれやってる傾向にある。地方系の左寄り新聞は話題にならないけど日常茶飯事レベルでやってる。本来メディア・マスコミとは多種多様な意見を国民に提供し、それを通して国民の考える力を向上させるためのものであるべきなのに、彼らにとってメディアは自分達の意見を国民に植え付けるor押し付けるための道具だと捉えているから、そのためには多少の捏造は許容されるよねってなもんだ。避けよう。
君がエリート学会員になりたいのなら宗教新聞もありかもしれない。でもここではそういう塵クズのことは考慮したくないので宗教新聞は避けるべきとだけ言っておく。君が40代ごろになって冴えない面して「格差社会にはんたーい!」とかデモ行進したいのなら政党系新聞の代表格【赤旗】もいいかもしれない。でも赤旗を若い頃に読めば読むほど君の生涯年収は確実に下がる。
「地方紙」に関しては君が住む地域をのことを一番丁寧に報道する唯一のメディアなのでもちろんメリットはある。全国紙では扱われないような小さい地域のことでも、その地域に住む人にとってはとても大事なことっていっぱいあるよね。だから地方紙にメリットはある。
しかしその一方で、地方紙の主張はたいていの場合偏っているのが普通だ。伝統的に保守が強い地域ではリベラル色は薄いし、また沖縄のような特殊な地域の新聞ははっきり言って偏っているというレベルでは形容できないほどに世界が歪んでしまってる。そういうデメリットを必ず考慮すること。
「あまりに専門性の高い新聞」とは何かというと業界紙の類い。金融系の新聞とか工業紙とかね。君がその業界に行くと決めているのなら読む価値はあるのかもしれないが、しかしよく考えて欲しいのだけれど、企業は学生に専門性は求めていないんだ。たとえ面接で君が金融業界に詳しいそぶりを見せた所で、そんなもの何の役にもたたねーよと鼻で笑うのが面接官だ。事実役に立たない。学生が当事者意識も経験も無い状態で業界紙なんぞ読んでも何も身に付かない。そんなものを読む時間を他の汎用的で普遍的な知識の獲得、および思考する時間に充てるべきだ。
ここまでで「読むべきでは無い新聞」を紹介した。次に肝心の「読むべき新聞」を紹介する。上でブラックリストにあげた新聞を予め除外すれば大変シンプルなリストになる。
これがまともな若い日本人が読む3つの新聞だ。これ以外は見向きもしなくてよい。
読売と日経はもう説明不要の王道中の王道新聞の代表格。どちらの新聞も政治色が薄い。しかしそれは政治の話題を取り扱わないというわけではない。もちろん日経は分量が少なくはなるけれど、しっかりとキーポイントは伝えてくるので過不足は無い。色が無くフラットな姿勢で伝えて来る情報こそに意義がある。最初から「政府は間違ってる!」「韓国は間違ってる!」と決めつけてそれしか言わない連中の意見なんぞ若い頃から聞く必要は無い。朝日産経なんぞは自分の色が固まったオッサンオバサンが読むものだ。
英字新聞については異論あるかもしれない。しかし英字新聞を3年毎日読み込んで得られる英語力は必ず君の力になるだろう。
ようするに新聞を選ぶ行為とは君がどういう人間になりたいかを選択する行為にもつながるのだ。インターネット以前の時代と比べて新聞の重要性は確かに低下している。しかし一つの情報ソースを丁寧に読み続ける事は必ず、必ずや君のしっかりした土台になる。基礎になる。だからこそ若い頃は色の無いものを読もう。色は自分でつけるものであって、人から付けられるものではない。
新聞はその辺にころがってる本を読むのとはわけが違う。毎日毎日、同じ人間達が書いたものを、何年も読み続けるわけだ。書いている人間の思想が君の脳みそにしみ込んでいく。だからこそ色がついていないものを読もう。
以上。
もちろん。長編作なんかは書いてる方だって苦行だ。しかし小説家は長編で次作へのノウハウを積める。
一方読者はどうかというとそれはもう苦行でしかない。物語の中で重要な主人公を頭の中で思い浮かべて物語を進行させて行く。はてしない作業だ。
でも勘違いしてほしくないのはそれは苦行であること。だから小説、ノベルに役に立つとかいうのを求めるのは間違っている。小説は役に立つ為に読むものではない。
長い文章を自分の中に入れて物語を自分で考える。それで多少は考える力がつくかもしれない。
でも基本はその考える力を鍛える為の苦行だっていうことを小説家、読者は承知していないと途中で書けない、読めないなんてことになる。
まず高卒やFランで、終身雇用を確信できるほどの企業に勤められることなんかないし、もちろん退職金も期待できない。
人生のどこかで、自分で自分を食わせるための何かを始めなきゃいけないんだよ。
起業なんて早いか遅いかだけだし、できるなら若いうちのほうがいい。
したたか酔っぱらって気持ちいいので世のため人のためになるけど、普段は絶対言わないことを書く。
今、僕のいる会社を含め世の中は、開業者を倍以上に増やそうとしているけど、この記事を読んでいる君がそれを少しでも考えているなら、
決して起業なんてしてはならない。
特に、今のベンチャーブームにのっかて起業しようと考えている人は絶対にやめたほうがいい。
それはなぜか?今ベンチャーブームに乗せられて起業を考えている人のレベルはたいてい中途半端だからだ。
三桁の起業家とそれ以上の数の起業家になりたい人たちと会ってきた、彼らは大体こんな具合に層別されている。
大抵が社会に適合できなさそうなギーク(IQ MENSAレベル 常人では理解できないスピードで思考するため単体では会話にならない)と、
その人間の言葉を翻訳するビジネスマン(IQ120位、ギークの言葉が理解できる数少ない人間であると同時に、常人にも回転数が合わせられる、MBA・コンサル等)の二人以上のチームになっている。
そして、大抵はビジネスマンが自分の立身出世のため、ギークをそそのかし、
ギークはギークで大金を使って自分のやりたいことをするために起業する。
彼らは、基本的にリスクを取らず、市場が見えて、サービスインするまで、
どこかの大企業や研究所に属していることも多いために、ギリギリまで僕らのアンテナに引っかかってこない。
彼らの目的は、「名声を得、大金を得て好きなことをする」ことだ。だからこそ、VCはいとも簡単に騙される。
事実ギークが作る商品の技術力は高くて、MBAが作るビジネスモデルは完璧だ。
だから社内稟議はスイスイとおるし、融資部の許可もおりやすい。
結果として、ぶち上げてから数年で国内でも新しい分野に台頭し、第一人者になるか
大失敗をしたベンチャーの烙印を押される形で世の中に知れ渡る。
どちらに転んだとしても、彼らは目的が達成された時点で早々にビジネスをたたみ
次の好きなことか、起業前と同じくらいの条件のところに転職する
②ローエンド起業家
こういう人たちは、開業して、美容師・レストランオーナー・コンビニオーナー等、特定の業種の経営者になる。
この層が起業する際の業種の特徴は3つ、
①ビジネスモデルを新たに考える必要がないこと、②技術職であること、③ちょっと調べればめちゃくちゃ割にあわないとわかる業種であること。
つまりは、正直、起業することそのものが正気の沙汰ではないようなそういう業種に進出できちゃうくらい
度胸があって、考える力がない人たちだ。
こうした人たちは、たいてい、誰かの影響を受け起業を決めて
行政機関や銀行の窓口相談を利用して、(かなり独りよがりな)事業計画書を書いて
ビジネスを立ち上げる上で多くの起業が失敗するといわれているけど、そうした層の大半はこの人たちだ。
この人たちは稲盛和夫や松下幸之助が言っていることを本気で信じていて、自己啓発本が大好きな人達と
今でも、日本が右肩上がりに成長していくという確信を持ったたちの悪い行政機関周りのエセコンサルに
数年前までは明確にこの2者に起業家は分かれていた。
だが、最近この傾向に変化の兆しが見えた。それが意識高い系起業家志望者だ。
具体的には、学生・フリーター・メーカーで管理部門や開発部門にずっといた。という類の方々。
面白いのはたいていが、そこそこ有名な私立大学を出ている人が多く、また修士までとっている方が少ないことだ。
ひょっとしたら受験等で苦労しなかったために経て失うものが余り無いと感じているのかもしれない。
彼らは起業は良いものだと信じている反面、リスクを忌避し続けるという性質を持つ、
彼らは起業する前に自分が起業して食べていくのにはどの程度の投資が必要かを事前にスタディし、
余りにも割に合ないことを学ぶ知性を持っているからだ。
こうしたギリギリの均衡状態にいる世間知らずたち、起業志望者は昔から一定数いた。
このベンチャーブームのおかげで、僕みたいな起業支援者の言葉を真に受けて、起業をすれば自己実現できるし、
「起業はいい経験だから失敗しても誰かがそれを評価してくれる」という幻想に取りつかれた起業家が多く生まれた。
彼らはかわいそうなことに、孫正義 やら ちきりん やら Jobsやらの言葉が自分にも100%当てはまると本気で信じている。
そしてリーンプロダクション、「Stay Foolish」な精神で、実際にとんでもなく稚拙なビジネスモデルで起業して、自らの将来価値を大いに既存している若者が
徐々に増えてきている。
ただ、こうした起業家志望者に伝えたいことが一つある。
起業家支援者の中で、起業を勧める人間がいたら彼らの言葉に耳を貸してはいけない。
起業家に貼られるレッテルは昔のままだし、社会的信用なんて成功するまで0に近い。
それなのに、起業を勧めてくる奴には裏がある。
そこそこの知性があるからこそ騙されてしまう、起業家志望者は多くいる。
それでも起業したいなら、せめてMBAくらいは取って履歴書の見栄えを良くして転職の準備をして、
あわよくば、ハイエンド層の仲間入りをしてから起業してほしい。
つらいです。
お父さんは、「お前のことは、半分諦めた」と言いました。
...どうして半分、諦めてくれないんでしょう。残った半分は、何なんでしょう。どこから来るんでしょう。
僕は、見せたはずです。僕は今日だって、一日中ゲームしてたんですよ。現実から、逃げるように... わかりますか、どうしようもないんです。
...下の階でお母さんに怒鳴るお父さんの声を聞きたくなくて、耳栓をして、布団を被ったんです。
でも、寝れませんでした。ふと、担任の先生の言葉を思い出してました。
「お前は考える力がある。だから、みんなから笑われるお前を見るのは腹立たしい。将来、お前が何か社会で活躍してたら、俺はお前を誇りに思う。このまま変なやつで終わるな」
言われた時、いい先生だと思いました。いい先生と、いいお父さん、お母さんがいます。でも、、僕は、自分がもともと持っているものなんて、嫌いです... 「地頭がいい」とか、もしADHDなんかの病気であったとしても、、なにも言い訳にはしたくありません。
僕はつらいんです。
どうして、みんな諦めてくれないんですか。
消えたいです。僕が消えたら、みんな諦めると思います。諦めるしかないですよね。そしたら、お父さんやお母さんは弟のことだけ考えてられますよね。先生はもっと他の生徒のこと、大切にしてください。40人もいるんです。
忘れ去って欲しいんです。僕には未来がないんです。
みんなどこか僕は将来に自信があるからこんな生活を送っていると思ってるようなんですけど、全然そんなことないんですよ。みなさんの言うとおり、あてなんてありません。
弟が何かに怒っています。弟は大切な受験期なんです。県1位の高校に受かるかもしれないんです。...僕が、家族を壊しています。
...頑張ればいい、今からでも間に合う。そうですよね。逃げてるのはわかってます。
ただ、でも、いっぱいいっぱいなんです。今を耐えるのが。
数学がやや得意だった者だが、だいたい合ってる。
私のスペック:早慶。東大ほどではないが、何もしないでクラス1~5位ぐらいをたまにとったりする気まぐれ屋。
で、アドバイスしておくと、高校数学まではいくつかのパターンに反射しているだけで、ぶっちゃけ何も考えなくてよい。
下手に本格的な思考をする必要はないし、考え過ぎるのは場合によっては逆効果。
何故なら、本格的なことを考え過ぎると時間が足りなくなるから。
むしろ考えることを停止して最小限のパターンに順応するだけなんだよ。
これらも特定の場所のみに注目するもの(=抽象化するもの)で、いちいち全ては考えていない。
というかそんなことをしていたら時間がいくらあっても終わらない。
だから何処が急所なのかを考え、局面を単純化し、限定的な思考をする。
実際、羽生さんなどの将棋のプロ棋士は、目線を調べると、アマチュアに比べ、その目線がほとんど動かないらしい。
つまり頭のよい人は、全て読んでいるわけではなく、大事なところだけを深く見ているわけ。
なおかつ、何処が大事なのかを無意識に取捨選択している。そういうのに慣れているだけだと思う。
これも(サッカーなら)そろそろこのへんにボールが来るという抽象的なパターン認識をして、
体がそれに反応しているだけだと思う。
自転車に一度乗れるようになると、ずっと乗れるのに近い。
しかもスポーツの場合、コンマ何秒で決まる世界なんだから、深読みし過ぎると間に合わないという事情もある。
※ただし、いつまでもこの考え方で通用すると思っていると、大学院や社会で詰む可能性がある。
うちの子たちも含め、かれらはそこそこの教育レベルの家庭にあり、考える力(=生きる力)を身に着けて社会に出ていくことは予想できる。
真逆だろ。自分で考えない癖、親に頼ってばかりで自分じゃ何もしない癖を身に着けてしまい、社会に出られないことが予想される、だろ。
昨日、やっとうちの小4と小2の夏休みの宿題が終わった。親泣かせといわれる、読書感想文と自由研究もばっちり終わった。今年も自分と旦那のこれらに対する熱の入れようは半端じゃない。
・作者、課題図書の選者の意図、テーマを読み取り(親:子=99:1)、
・一度物語を分解し(100:0)、
・それに対して自分の心情を描画させ(50:50)、
・作文にまとめる(50:50)、
自由研究も、
・テーマ決め(親:子=50:50)、
・観察結果(50:50)、
・考察(70:30)、
・まとめ・感想(30:70)、
のような割合で親が関与している。なおかつ自由研究の大テーマは兄弟ともに毎年同じにして、前年度までの研究に対しての積上げ研究にしているので年を追うごとに深みのある内容になり、こちらも毎年何かの賞に入れている。
こんなに親が係われば、賞に入るのなんか当たり前だろうと思うかもしれないが、実際、市区町村を勝ち抜き、県レベルの賞に入ってくるのは、小学生とはいえかなり高度なものが多く、自分で発想~アウトプットまで親の関与なしにそのレベルまで仕上げられる子供はほとんどいないだろう。
うちの子たちも含め、かれらはそこそこの教育レベルの家庭にあり、考える力(=生きる力)を身に着けて社会に出ていくことは予想できる。なぜなら自分たちの親がそうだったからだ。教育に関心のある親の元で育ち、夏休みの宿題は嫌々ではあるが、親によってきちっとした仕上がった作品を夏休み明けに持っていくと、先生やクラス中から羨望の眼差しでみられ(その後の授業参観の時には、県へ出品しているため自分の作品だけ展示されないという小さい問題はあったが)、大きな自信につながったことも言うまでもない。現在社会工学系の研究を仕事にしているダンナについては、(我々凡人は)研究は自分一人だけでやるものではないという持論があるらしく、卒論~博士論文、現在に至るまで指導者や同級生、同僚からのアドバイスを、仲間と一緒に確認してまとめただけだ、といっている。
ところで、子供の宿題を親がやるのはおかしいという意見がある。「自分の事は自分でさせる」「親の勉強してどうするんだ」「子供のためにならない」等々。主義として本気でそう思って、そういう方針で子育てしている人はそれでいいと思う。けど、忙しくてできない、という理由で子供に目をかける暇がないという人は、夏休みのうち、週末ぐらいは子供の宿題を手伝ってあげれば、勉強の方法に触れることによって、新しい発見があるかもしれないし、高クオリティーの提出物は、子どもの自信につながると思う。
それは、ベテランになればなる程コネクションが出来て情報を手に入れやすくなるから。
まあ、違法な方向で、裁判官や検事からも情報入れたりあげたりして便宜を測る最悪なのも多いが。
ま、違法な事をやられたらどうしようもないが、
「情報」と言う点に関してはかなり一般にも容易に手に入れやすくなったものもあり、
そのような「ベテラン」の意義は薄れている。
ただただ、無駄に「弁護士」と言う資格があり弁護士にしかアクセス出来ない情報があるのがホントに害悪だが、
そういうものをなくせば「弁護士」という職業そのものが必要無い。
弁護士が論理力がありきちんと物を考える力があってそれが認められて資格を得てるなら良いのだが、
実際にはそんなことはない。
実際、この前、意味不明な事でどこぞのボンボンに訴えられたが、
そいつの親はその地域で弁護士会のお偉いさんを務めるほどのベテラン弁護士でその事務所の部下一人とそのお偉いさんで弁護するみたいな
こちらは弁護士も付けずに戦って余裕の勝利。
何度もこちらが法律知らないから適当に言いくるめてやろう、みたな部分があったが、
少し調べれば分かる様なことなら後は論理的にきちんと出来れば良いだけ。
奴らはただただ、相手が知らないところに漬け込んで、相手の隙をついてなんとかやり込めよう、とするだけ。