はてなキーワード: 同性愛とは
昔書いた文章ですが最近また話題になっているのでもう一度投稿します。
当時も反応を2件だけいただきましたが、色々な方に本当のところを教えてほしいので。
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自分は男性で異性愛者とされているけれど、男性を決して愛せないかと言われたら、そんなことはない気がしています。
これまで人生で強烈に憧れた男性や、(友人として)好きでたまらない男性はいました。彼らへの愛が恋愛ではなかったか、恋愛として成立しなかったか、あるいは進行しえなかったかと言われると、自信をもって違うとは答えられません。
自分が異性愛者なのは、まず生物的に男女の間でしか子作りができないというのがあって、その上に社会的な多数派というのがあって、無意識に男女片方を選ぶなら女性、というのがデフォルト化してるだけのような気もします。他の異性愛者もだいたいそうだと思っています。
とりあえず異性愛者であると仮に置いておいて、それに違和感のない間は異性愛者、あれ?自分はなんか違うなって思ったら同性愛者かもって初めて考える。みたいな。
でもそのなんか違うなってのは人を好きになってみないとわからなくないですか?
仮に、
として、
というのが合わさると、自然と人は異性愛者になると思うんです。同性愛は自認しづらく、異性愛はそれが恋愛だと認識しやすいという点において。
でも結局誰を好きになったかじゃないんですか?
異性愛者だって異性なら誰でも好きになるわけじゃないし、同性愛者も同性ならだれでも愛するわけじゃない。
じゃあ相手が異性か同性かじゃなくて、特定の誰々愛者だという話に過ぎないのでは?
じゃあたまたま歳上を好きになった人は歳上愛者と呼ばれるのでしょうか。なんかそういう違和感をいだきます。
男色に夢中だった過去の偉人だって普通に妻がいますよね。どっちも愛せるというのがそう珍しいことじゃなかったのではないかと思うんです。
で、トランスジェンダー。これが最もわかりません。トランスジェンダーの定義ってなんですか?性愛対象の話とは切り離されているので、自分が男だ女だってのはそれ以外の何かで認識するんですよね。
でもそれって具体的に何で認識するんですか?
自分は男性ですが、自ら自分を男だと確信したことなんてありません。
いやお前は身体は男でも心は女だよ、女々しいから。とか適当なこと言われたら、そうかな、肯定も否定もできないな、としか言えない気がします。
基本的には女性を愛しますが、それって関係ない話ですからね。トランスジェンダー・レズビアンかもしれないので。お前の恋愛対象は異性だからトランスジェンダーじゃないだろっていう反論は成立しえません。
で、男性である私が心まで男性であると強く確信することができないのに、トランスジェンダーの方は自分の心の性別というのをどうして強く確信することができているのか、何の根拠を得ることでそう思えるに至ったのか不思議でなりません。
記事とか体験談を読むとたとえばトランスジェンダー女性なら「ピンクが好きだった」とか「スカートが履きたかった」とかで自認に至る人が多いようなのですが、それこそ不思議なのです。それが「ピンクを好きなだけの男性」「スカートを履きたいだけの男性」とどう違うのかをこそ教えて欲しいのです。
服装というのは文化の産物に他ならないと思います。スカートが男性の衣装である国だって実際あります。ピンクが男性の象徴に当てはめられる文化だって(実際あるかは知りませんが)あっておかしくないでしょう。
そういう国では彼らはどうなるのでしょう。その国では逆に「男性の衣装であるスカートに違和感があり、だから、自分は女性だ」という風になるのでしょうか。
異性装という言葉があります。異性装を好む人はトランスジェンダーとは限りません。要するに服装の話もやはり心の性別の話とは切り離されているということです。
それならば結局、心の性別とは何なのですか?煽りじゃなくて教えてほしいのです。
自分はあくまで今のところですが、心に性別はないと思っています。そして、誰もが誰もを好きになりうると思っています。だからLGBTがよくわかりません。LもGもBもTもよくわかりません。どれも普通の人間で私と何一つ違うところはないと思っています。
物の本質について
www.amazon.co.jp/dp/4003360516
昔の人ってどう考えても賢いと思う。今の知識人と比べても知性のレベルが高い。
上の本は、ニコニコ動画の奇書紹介で取り上げられてたから読んでみたけど、驚愕したわ。
原子の存在を、当時の学問水準で完全に予見してしまっている。ほかにも、万物の総量は常に変化しないとか、物には意思は宿らないとか、音や匂いや色は目に見える物質と比べて丸くて軽いから早く飛ぶんだとか、なんかもう色々と驚きだった。
※我々は物質から常に飛び出ている原子を観ているとか、太陽や月が地上からの見た目とほぼ同じ大きさだと主張していたり、ツッコミどころもあるにはある。
で、そういう生活に密着した科学や、人間とは世界とは何かを考える哲学も当然そうなんだけど、ここでは恋愛や結婚のシステムを語ってみたい。
https://news.yahoo.co.jp/byline/arakawakazuhisa/20210918-00258826
先日このヤフーの記事を読んだ。「なるほどなるほどー!」となった。要約すると、大昔から自発的に恋愛できる男は全体の3割しかおらず、残りの7割は自分から女に声をかけにくいというものだ。
何百年以上前の昔の人って、どう考えてもわかってたよな。恋愛強者3割理論を。だから、お見合いというシステムを作って、特に村落なんかでは性的な繋がりについて、子どもや若者がフツーに生きてるだけでも学べる(若者の中の年長組が年少組に指南する。江戸時代の若者組)仕組みを作ったんだよな。
で、ヘテロの人もアセクシャルの人も同性愛者の人も関係なく皆結婚して、子どもを産みまくって、農業従事者を増やしていった。これが自由恋愛だったら、7割の人は自発的に恋愛しないので農業生産力は衰えてしまう。
今よりずっと厳しい時代だったから、ここまでの知恵や工夫がないと生き残れないわけだ。お見合いって、少年時代の自分は「ダサー!!!」としか思ってなかったけど、普通にいいじゃん、これ。復活させた方がいいって。
何なら、日本政府がマッチングアプリとかやったらどうだ。参考例として『恋と嘘』みたいな感じでさ。政府しか持ってない情報によって効率的なマッチングを図るのだ。
というか、結婚とか子どもの数がその時代の社会的経済的な情勢によって決まるのだとしたら、少子化を止めるのは不可能だってすぐにわかるじゃん。
今の時代は豊かだ。子どもを産む意義は薄い。特に情報革命が起きてからは、狩猟や農業や建築や土木仕事みたいな人月による労働積算という考え方は嘘みたいに軽くなってるし、はてなブログの人気記事を読んだ限りでは、優秀エンジニア1人≧普通エンジニア100人みたいな感じがする。
今のは残酷な話だが、いい点もある。とある才ある人間が超努力した場合、文字通りの100人力以上になってしまえるということだ。そんな人達によって、これからの社会はますます豊かになっていくだろう。それで、ますます子どもがいらなくなる。
子どもができたらがお金かかるし、子育ては面倒だし、何より遊べないだろう。こないだだって、子どもを置いて遊びに出かけて幼児を殺した夫婦が逮捕されてた。無理に子どもを作らせたって、ああいうケースが増えるんだよ。
少子化を防ごうとしたら、時代を逆行するしかない。例として、大昔だったら生まれた子どもを間引きしたり、頭が残念な子を村の奴隷にしたり、娘を売春宿に売る権利が親にはあったわけだろう。現代でもそれに似た仕組みを作れば、安心して子どもを産むことができる。はずれを引いても捨てればいいんだから。
人類は進歩しすぎた感がある。例えば100年後、世界経済の成長が頭打ちになって、フェルミ漫画大学が超積極的に進めるところのインデックス投資が通用しない時代がやってきたとしよう。子どもが生まれなくなって追い詰められた世界は、どんな対応をするのだろう。人権意識が今よりずっと進歩した時代だとは思う。だとしたら、近世以前のような結婚や出産の強制はできまい。
やれることといえば、人工人間しかないんじゃないのか。その世界ではきっと、科学の進歩によって男性は今よりもたくさん自慰行為をしているのだろう。もちろん女性も。
ベッドやソファの上で何かを観たり読んだりしてるのかもしれないし、電脳空間でセックスしてるのかもしれない。もしくは、風俗店の価格が安上がりになっているとか(機械娼婦。マジェスティックドールとか呼ばれてそう)。
時代は違えど男性は射精したいと考えているはずだ。ということは、精子は取れる。あとは子宮や卵子さえ揃えることができれば……今から100年後なら、まあ余裕だろうと信じたい。
身も蓋もないけど、今の社会制度のまま出生率を改善させようと思ったら貧乏になるしかない。日本国内だったら沖縄とか、外国だったら東南アジアの貧しい国とか、アフリカ大陸の国々とか出生率高いじゃん。ひとえにいって、貧乏だからだ。子どもが経済生産力としてカウントされて、産むだけの投資的価値が増える。娯楽がなくてセックスの地位が上がってるとか、倫理観が薄くて強姦するのも犯られるのにも抵抗が薄いとか、理由はほかにもありそうだが。
脱線したけど、やっぱり昔の人って賢いよ。今よりもベリーハードな時代を数万年以上も生き残ってきたんだから。素直に尊敬しかない。ありていな結論ですまんな。
syamu、拓也さん、ONDISK、そして中学で同級生だったなっちん
なんていうか、「こいつまともに分かってんのか???」って気分にさせられる
認識がズレてるというか、極端に共感できない。だから見ていて不安になる
例えば、syamuは『ホモ』『アンチ』って言葉を独特に定義している
参考:この記事の真ん中あたり https://kyanoscreate.hatenablog.com/entry/2016/03/24/220612
いや、ホモなんてごく普通に使われてる言葉じゃん。知らなかったとしても、ちょっと調べれば「男性同性愛者」「転じて、男性同性愛者向けビデオをネタにする人達の自称」ってわかんないかなぁ?
他にも「8/10は野獣先輩の誕生日」とか、なんか物事を曲解して覚えてるのを見ると、中学の頃にいたなっちんという子を思い出してしまう
拓也さんは、ほんへを見ていると分かるけどいきなりちぐはぐな事を言い出す
監禁72時間って監禁契約書にサインした男の子と72時間SMプレイし続けるってコンセプトなんだけど、拓也さんは「こいつを客に出すんかぁ」みたいな事を言い出す。なんだ客って。そんな概念を急に持ち込むなよ
Twitterでも「淫夢厨がなにかよくわかんないんだよね」とか顔文字付けて言ってたけど、そんなのぐぐればニコニコ大百科に書いてあるでしょ。分かれよ。モーゼがどうのこうのとかいうツイート、冗談か本気か分からなくてすごく困った気持ちにさせられた
ONDISK。あなたのドキドキ文芸部配信を観ている時、私はずっと不安だった
オタクじゃないONDISKには文脈の掴みづらい展開も多かっただろうけど、だからこそ、どこからどこまで理解できているのか開示して欲しかった
幾人のヒロインに死なれても「ふぅん」とか言いながら文字の読み上げに終始し、ゲームのキャラクターがプレイヤー側に語りかけるクライマックスシーンにおいても台詞の読み上げと進行についてしか話さない
ONDISKくらい頭のいい人なら容易いと思うんだけど、むしろ必要性を感じないから自分の感想を共有してくれなかったのかな?
なっちん。みんなで、ワンピースのリレー小説書いたこと覚えてる?
私は「ワンピースぜんぜん知らん」と笑って、Aちゃんも「最初の方と最近の話しか読んだことない」って言ってて、でもワンピース大好きなBちゃんに直してもらったりしながら書いてたよな
なっちんが書いた部分、明らかにおかしかったよ。文章は上手なのにね。怪我してる奴が元気な状態だったり、その場にいないはずのキャラが当たり前のようにいたり。みんな、どうしていいか分からなかったよ
卒業してなっちんと別れて、拓也さんはTwitterを消して、syamuは引退して、ONDISKもVtuberを辞めて
だけど昨日syamuがまた現れて、そこで私は真っ先になっちんを思い出したよ
同性愛 不倫 で検索すりゃ、「夫婦としての生活を営む結合としての婚姻に準ずる関係にあった」として慰謝料の支払いが認められている。
異性愛者の結婚と同等とまではいかなくとも多少の権利は認められている事実婚すら否定って、「新しい家族の形」だの耳障りのいい事言って何も請求できないようにしてるだけじゃん。
要するに、同性愛でも異性愛でも当人が事実婚だと思えば事実婚は成立するがそうではない関係ということ。
お互いにセックスを求めていないなら他人がとやかく言うことじゃないよな。
でも、配偶者が求めているのに一切努力をしない人は普通に批判の対象だと思うぞ。
「変わらず愛してる」なら、何故わざわざ離婚する?
性の対象として見られなくてレスでも、夫婦でいることはできるのに、何故離婚する?
でも産後嫁を性的な目で見られなくなったから離婚って、そこらの身勝手な男と何が違うんだ?
結婚するかしないか、子供を産むか産まないか、事前に選択肢を与えられることなく、産後そうかもなーとは思ってたけどやっぱり夫は持続できなかったわごめん!って…普通に詐欺だろ。
妻に墓場まで持っていけと一瞬でも思わせるほどの嘘だぞ?
その長い自分語りと… 全く繋がってないと思うんだけど
❶ FtM の私は「男らしい」と人に見られたいのでなく、性的なシーンで自分の体に違和を感じる
❷ 同性にしか性的に興奮できないのが同性愛だ。りゅうちぇるは妻とセックスできないのではないか。公表するりゅうちぇるは生真面目だ
❸ みんなは LGBTQ を誤解している(❶❷がその指摘)
❹ 「男として見られるために過剰に男らしさを纏う」などは昔に卒業したほど、性自認が明確だが法律婚は出来てない。性自認が曖昧なまま法律婚して子供までいる、りゅうちぇるに嫉妬する
❺ りゅうちぇるのことを強く言えない(❹で嫉妬を❷で尊敬を書いている)
ホロコーストなんて今どき、それ自体を話題にすることは少ないし、日本の歴史問題の何倍も関心度は低いだろうとは思う。近現代とは言え遥か昔の話だし、同じ枢軸国がやったと言っても日本にはほぼ無関係だ。それに、日本でホロコースト否定論が世間を多少賑わせたのは1995年、阪神淡路大震災やオウム真理教で大騒ぎだった年に、文芸春秋社の月刊誌だった『マルコポーロ』が廃刊になった記事の一件だけである。・・・あ、例のT院長の件もあったな。
欧州では昨年か一昨年にスウェーデンがホロコースト否定禁止法を立法するかどうかの話があったくらい(その後どうなったかは知らないが)、ホロコースト否定論は今も珍しい話題でもない程度には問題にされることがある。現状確か、イスラエルを入れて20カ国弱の国で否定論を公然と主張することには法的な規制がある。ホロコーストの中心地でもあったポーランドでは、否定論ではないがホロコーストについて自国の関与を主張するような言論を禁止する法律が制定されたのも数年前。またアメリカでも、憲法修正第1条で言論の自由が広く認められているせいもあり、ホロコースト否定論の主張をしてもなんらお咎めを受けることはないが、FacebookやYouTube、ツイッターなどの主要なインターネットメディアでは厳しく規制されている(が、実際には消滅したわけでもない)。
いずれにしても、欧米と日本ではホロコースト否定論について、かなりの温度差があるのは事実である。日本では義務教育でホロコーストを習うことなどほとんどないのではないかと思われるが、欧米では必須としている国や教育機関は多いそうである。それでも、関心の大きさから、ホロコースト否定の主張に賛同するような人はもちろん欧米の方が圧倒的に多いだろう。翻って日本ではそもそも関心が薄いので、否定論が目立つことはほぼない。せいぜい、ナチスの軍服を着たとか、ハーケンクロイツの旗を公共の場で掲げたとかで、問題になる程度のことだ。その程度のことで神経質にビクビクしてタブー扱いするのもどうかとは個人的には思うけれど。
何故欧米で、ホロコースト否定が法的に禁止されたり、規制されたりするのか? 最も大きな理由はあんな悲劇を二度と繰り返さないためである。ホロコースト否定はデマであり、ナチの復興を許しかねず、そしてユダヤ人差別につながる。また犠牲者遺族たちの心を酷く傷つけるものでもある。だが、否定論に賛同する人たちはそんなことどうでもいいらしい、それは日本でも同じである。ホロコースト否定に賛同することが非常に危険な行為だなんて、多分考えたことすらないのだろう。
こんなツイートが私の網に引っかかった。
https://twitter.com/masami6666/status/1563353770092003328
ツイート内の画像で示される文書は、そこに書いてある通り「国家社会主義日本労働党(NSJAP) 山田一成」によるものである。ドイツのナチスとは日本語では正式名称を「国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)」と呼ぶ。従って、山田一成が日本のネオナチであることは否定しようもない事実である。ググればわかるが、ネット上の基地はこちらである。
また、Youtubeにある「密着24時!日本のネオナチ」というタイトルの動画で山田一成が紹介されているので興味のある方はご覧いただきたい。タイトルにそうあるくらいなのだから、山田自身がネオナチであることを否定してはいないということでもある。
ネオナチなのだから、ホロコーストを否定するのは当然である。ところが実は、傾向として、欧米の主流のホロコースト否定論者、いわゆるプロの歴史修正主義者たちは、ネオナチと結びつけられるのを嫌う。何故なら、思想的にネオナチと見られると、自分達が世間から信用されなくなることを知っているからである。欧米のプロの歴史修正主義者は、ほとんどの場合、ネオナチと関係があったとしてもそれを隠す。世間から信用を失くすと、修正主義者の目的である「否定論を世間的に認めてもらうこと」が困難になると思っているからに相違ない。『ヒトラーの戦争』という歴史書で欧米では超有名なデヴィッド・アーヴィングは、彼をホロコースト否定論者だと書いた歴史学者であるリップシュタット教授を訴えた裁判で見事に負けたが、裁判ではアーヴィングはネオナチの集会に出て聴衆を扇動していたことを暴かれた。しかしアーヴィングはその事実を誤魔化そうとしたくらいだったのである。
あるいはこれもその筋では有名な否定書、1970年台中盤から後半にかけて広まった『600万人は本当に死んだのか?』というホロコースト否定の古典的パンフレットがあるのだが、著者の名前はリチャード・ハーウッドとなっている。が、そのプロフィールに該当する人物は存在せず、本当の名前をリチャード・ベラルという。リチャード・ベラルはイギリスのナショナルフロント(国民戦線)という極右組織の出版物である「スペアヘッド」の編集長だった。何故、実名と実際のプロフィールを書かないのかは、当然、世間に信用されたいからであり、ネオナチが世間に信用されない存在であることを知っているからである。そのパンフレットは欧米の国会議員などに広くばら撒かれた。
かつて、雑誌マルコポーロ廃刊騒動の時に、問題の記事を書いた西岡昌紀とタッグを組んでいた木村愛二というジャーナリストがいたのだが、彼ですらもネオナチ呼ばわりされるのを嫌った。
なのに、上のツイートに賛同的意見を述べたツイートを発した人たちには、山田一成がネオナチであることなどどうでもいいらしい。山田が思想的に偏向しているのは誰の目にも明らかなはずなのに、そんなことを気にすることもなく、ホロコーストなかった説をあっさり賛同する。私たちは普通、ネオナチとか関係なくても、ネットで広められるだけのほんとかどうかわからない主張を、そのまま信用したりはしないと思うのだが、あまりにあっさり信用の方向に流れるのだから、呆れるというかなんというか。その賛同者の多くは、いわゆる陰謀論の方に傾倒するような人たちばかりであることは言うまでもない。
日本にも、ホロコースト否定論の方に賛同する人たちが意外に多い。多いと言っても私自身の感触だけであるが、Youtubeにあるホロコースト否定論の動画チャンネルには6000人強の登録者がいる。否定論動画としてはよくで出来ているので、否定論がどんなものか知りたければ『ホロコースト論争』で検索をかけて、同じタイトルの動画をニコニコ動画でご覧になるといい。Youtubeにアップされた同チャンネルの動画は何話分か削除されてしまっているからである。見ればわかると思うが、それ相当の知識かあるいは調査能力がないと、ホロコースト否定論には簡単には反論し難い。いうまでもなく、ネオナチの怪文書のようなものにあっさり釣られて賛同するような人たちに、その嘘・誤りが見抜けるようなものでは絶対にない。
まぁ世の中、そういうあっさり釣られる人もいる、だけの話なので、別にどうでもいいようなことなのかもしれないが、はてな・増田をご利用の賢い方々には、そんなことはないだろうと思いつつも、注意していただきたいものである。今回は、私のアンチホロコースト記事などはあえて紹介しない。たくさんあるので興味があれば参考にはしてほしいが、興味がなければ特に面白いものでもなく、時間の無駄になるだけだと思う。だが、一点だけ、怪文書に反論しておきたい。
見直し学派は、ホロコースト説は何年もの間に大幅に変わったことを指摘している。
とあるが、そう思えるのは単純な話で、戦後長らく、ホロコーストの実態がよくわからなかったからである。よくわからなかったと言っても、大勢のユダヤ人たち(や、精神疾患患者、同性愛者、ロマ人、その他)がナチスドイツによって死に至らしめられたこと自体は疑いようのない事実として判明はしていた。たとえば、ユダヤ人人口が600万人弱、戦前に比べて減っていることは1945年5月の終戦よりも前にわかっていたくらいだったのだ。何故わかっていたかというと、(これはある資料からの推測であるが)ユダヤ人はユダヤ人共同体の集会所となっていたシナゴーグで名簿管理されていたからであり、各地のシナゴーグの名簿を集計すればたちどころに判明するからである。また、ニュルンベルク裁判ではあのアドルフ・アイヒマンがユダヤ人の処分数はトータルで600万人だと語っていた、とアイヒマンの関係者が証言していたりする。それ以外にも多くの情報が戦時中からすでに世界中に漏れていた。ナチスドイツが極力、ユダヤ人絶滅などの非合法殺戮を極秘に行ったにも関わらず、である。そして、この600万人説は何度も研究調査され、現代までおおむねの数値として、主流の歴史学者からの異論はない。日本人研究者の柴健介氏も自著で「600万人以上」と推計している。
が、細かい話はよくわからなかったのである。たとえばあのアウシュヴィッツで殺されたユダヤ人の実数は当初は全然わからなかった。何故ならば、アウシュヴィッツで殺されたユダヤ人の大半は、囚人登録もされておらず、ガス処刑死体は焼却処分されて、残った骨などは砕かれて近くのヴィスワ川やソラ川などに捨てられてしまったのだ。アウシュヴィッツを解放したソ連は、絶滅された総計を400万人とした報告書を提出したが、死刑に処せられたアウシュヴィッツ司令官を最も長く務めたルドルフ・ヘスはそれを否定して最終的には120万人くらいだと自己推計した(記録を取ることを許されなかったので、ヘスでさえ推計するしかなかったようである)。このヘスの値が現在判明している犠牲者数(110万人)に非常に近いことが判明するのは1980年代後半まで待たなければならない。ソ連の400万人説は、それっぽく推計したようには書いてあるが、どう考えても囚人の生存者の証言を元にしているとしか考えられない。何人もの囚人が400万人くらいだと語っているからである。が、それらは皆、生存者自身が推計値、あるいは収容所内の噂だと語っているに過ぎないもので、囚人に正確な数字が分かったはずはない。
あるいはナチスドイツが最初に作った強制収容所であるダッハウ収容所のガス室についてであるが、ダッハウ収容所は米軍が解放した時に、何千体もの死体があったのだ。これらの死体の大半は割とすぐに餓死や疫病の死体だと判明したようであるが、ダッハウにはガス室もあった。そのガス室にはダミーシャワーがあり、毒ガスの元を投入するような仕掛けまであった。そのガス室のすぐ隣には火葬炉もあった。もちろんその建築物のそばにはたくさんの死体が山積みになっていた。こんな状況で、「ガス室で大量殺戮をおこなっていた動かぬ証拠だ!」と誤解するなという方が無理である。米軍には当然、マスコミの記者たちも従軍していたので、そうしたガス室殺戮の話はすぐに広まったのである。
ところが、よくよく調べてみると、ダッハウのガス室でのガス殺処刑の証拠は、ほぼないに等しい状態だったのである。確かに、ガス処刑については、裁判での証言者はいたが、たったの一人なのである。それ以外には一通の文書証拠と、イギリス人諜報員の捕虜が語ったとされる伝聞証言程度のもので、他には何もなかった。一方でアウシュヴィッツのガス室については、証言だけでも大量に存在するし、なにより加害者側証言もかなり存在し、その最大のものとしては司令官だったルドルフ・ヘスが事細かに証言し、自叙伝にまで書いているのだ。ガス室・ガス処刑があったことを裏付ける証言以外の証拠も豊富である。(もちろん修正主義者は証言は全て嘘であると主張し、アウシュビッツのガス室を裏付ける証拠など絶対に認めない)
これらの内容は、具体的に歴史家などが調べなければわからないものばかりなのである。ダッハウのガス処刑証言が一人しかいない件だって、裁判記録を調べなければ判明しない。したがって、ダッハウなどの収容所現地にたくさんの死体があったことが原因で、誤った説が戦後長らく広まっただけの話なのだ。そうした事実を、あたかも、ディープステートのような闇の陰謀者が、初期のホロコースト説が杜撰なので、それをもっともらしい説に変えていった、かのようにネオナチは主張しているのである。つまりは、ネオナチ・修正主義者は論点先取、最初から話を陰謀論・ホロコーストは捏造と決めつけていることがわかる。
ダッハウのガス室が捏造だと主張するのであれば、何故証言者がたった一人しかおらず(陰謀実行者は偽証証言者を何故たくさん用意しなかったのか?)、文書記録やあるいは物証としての死体解剖してもガス処刑された死体としか判別できない死体がなかったのか(陰謀実行者なのだからそれらを用意して当然だと思うのだが?)、説明がつかない。その実際にいた証言者(フランツ・ブラーハ)とて、たかが数名の処刑のその後の死体を見た、と言っているだけである。ダッハウのガス室が連合国による捏造なら、そんなあやふやな頼りない、犠牲者も少ししかいない証言がたった一つだなんて、あまりにも変である。
反論はそんなところ。こんな馬鹿げた幼稚な説でも、賛同する人がいるのはしょうがないかなーとは思うけど、何が事実で真実かを知りたいのなら、もうちょっと知恵を絞って考えてみるという気は起きないの? と思ったりはする。
私も女に生まれたけど、どうしてペニスが無いんだろう、男が羨ましい、どうして自分は好きな女の人と子供を作れないんだろうと、セックスするたびに思う。
女としてではなく男として、同性とセックスがしたくてしょうがない。(叶わないけれど)
そういう性自認なんだけど、多分外からはどっからどうみても私は女性にしかみえない。
胸を強調する服を着るし、スカートは好きだし、メイクもしっかりするし、髪は巻く。
なぜそうなるかというと、現在持っているからだを少しでも美しく見せようとしたときのコスパ的な最適解がそこだからだ。
俺は男だ、と関わる全ての人に認めさせたがるあれ(女にしか見えない睫毛や二重目をもち、女が無理やりだす男声を使い、常に男子トイレに入りたがるような)になりたくない。
事前知識のない人をつどぎょっとさせることになるなんてこちらにとってもストレスだ。
FTMというのは「わあ男らしい!どこからどうみても男ですね!」といわれたい人間ではなく
自分の体について、特に性的なシーンにおいて、強烈な違和感と空虚を感じる人間なのだと、伝えたい。
そしてそれってパートナー以外にはあまり意味がないし披露する機会もないので
というわけで、私は多分「女装が好きなFTM」ということになるんだが
FTMって言ってみたいだけの自称同性愛者としてコミュニティに野次馬しにきたなにかにしかみえないからだ。
https://note.com/fuku0206/n/nfced8b56365e
こんなnoteも。
『過剰に男性らしさを纏おうとすることに、そうしないと男性として見なされないとか、男性として立っていられない痛みがある』とあるが
多分私はこれを10代前半に一人で卒業してしまったんだろうと思う。
実態として、法的な保護はないし、周り(親、親戚、会社の同僚)から一切認められないままだけど
14歳のときに出会った彼女と、22年つきあい、15年一緒に住み、相手は専業主婦、こちらは稼ぎ頭として働いて生きている。
(そういう意味ではりゅうちぇるが性自認あやふやなままちゃっかり子供作ってることには嫉妬しかない)
ひっそり生きていければそれでいいと思ってたけど
声を上げないと不満があることにも気付いてもらえないし、お互いの喪主になれない。遺産管理のときに彼女をネグレクトした相手の親が舵取るとか鬱だよ。
「自分の知ってる世界」だけで無理やり理解しようとする人にはいつまでも誤解される。
面倒くさい。は~~~。
究極、同性愛者かどうかって
性的興奮を同性にしかできないかどうかなんだけど(どっちもいける、誰にもしない、もきちんとカテゴリがあるので、ほんとにこれだけが同性愛者を決定づけるものだと思う)
りゅうちぇるはもう妻とセックスできなくなっちゃったんじゃない?と思う
でも親ではあれる。それはそうだ。
セックスレスでも子育てはちゃんとしてる夫婦、たくさんいるんじゃない?
妻に勃起しない自分をわざわざ公表して、りゅうちぇるは生真面目だなあと思う
けじめつけたかったんだろうなぁ
なので今回のコメントを見るに
「妻をオンナ(性的対象)としてみれないので離婚するが、親としての義務は一切逃げる気はない」という公表だなと思うんだけど
例えばの話
その人と向き合うためにその人が求める同性愛者の男から見て理想的な彼氏になれるよう努めてきた
そのままパートナーシップを結ぶことになり、相手がたまたま有名人だったから自分もセットで有名になり
その人にふさわしい自分でいるために「いい彼氏像」であり続け、いい彼氏でいるためにするべきことなどを発信してきた
が、そう振る舞うたびに、発言するたびに「本当は異性愛者なのに」ということが頭にちらつくようになり
騙すつもりはなかったけど、ずっと信じてくれているパートナーやファンに強烈な罪悪感を抱くようになり、次第に耐えられなくなる…
みたいな?
それはきついかもなー
夜行バスの思い出を気紛れに綴っていたら、連想ゲームのようにN君のことを思い出した。これも何かの機会だと思い、ここで書き残すことにした。予め断っておくと、ほとんど夜行バス要素は無いし、N君という呼び名も、星新一式のニュートラルな呼称であり、実名のイニシャルではない。
N君は、高校の同級生で同じクラスだったが、特に俺と親しかったわけではない。俺の記憶の中のN君は、優等生でも不良でもなく、運動部所属でも文化部所属でもない、あまり目立たない帰宅部の生徒だった。
ここでド田舎の高校あるある話を解説しておくが、当時の暗黙の了解として、生徒は部活動に所属すること、しかも、運動部が最も望ましいとされていた。文化部は、運動部より一段低く見られ、帰宅部となると、教師や保護者から胡散臭く見られるという始末だった。俺はといえば、オタクのくせに無理をして運動部に所属し、体育会系集団と校内オタク集団の間を、コウモリのようにフラフラしていた。
そんな風にド田舎の同調圧力に屈していた俺から見ると、校内のどのようなコミュニティにも属していないように見えるN君は、孤高というか不思議な存在だった。
N君は、俺を含めた同級生との休み時間や放課後の会話に、自ら積極的に加わったりすることは無かったものの、会話をする機会が有れば、分け隔てなくフランクに接して明るく話す程度には社交的だった。俺も他の同級生も、N君を特別に好きだったかどうかはともかく、特別に嫌ったりはしていなかった。帰宅部にも関わらず、運動部に所属する生徒たちから見下されたりするということがN君はなかった。優等生でもなかったとは書いたが、話し方や物腰を思い浮かべるとN君の頭が悪いとも決して思えず、むしろ頭は良さそうに俺には見えた。
特に親しかったわけでもない俺の、N君に関する記憶や印象は、おおむね以上のようなものだった。
在校中の特筆すべき思い出を残すことも無く、高校を卒業して実家を出た俺は、田舎の度合いが出身地と五十歩百歩ぐらいの、他県にある大学へと進学した。
大学の夏休み、実家へ帰省してゴロゴロして怠惰に過ごしていた俺に、親は「在校中にお世話になった顧問の先生に、挨拶ぐらいしに行け」と言った。仕方なく俺は、運動部OBとして母校に顔を出し、OBらしく後輩たちにアイスクリームの差し入れを振る舞ったりした。母校での野暮用を済ませ、帰宅するために母校から最寄りの駅へと向かった俺は、その途中で、偶然にもN君に再会した。市外から汽車(ディーゼル列車を田舎ではこう呼ぶ)で片道一時間強かけて通学していた俺と異なり、N君の家は母校と同じ市内だった。
特に親しかったわけでもないが「久しぶり」ということで、俺たちは喫茶店でアイスコーヒーでも飲もうということになった。高校生時代は校則で入店が禁止されていた喫茶店に、今では堂々と入店できるということに、俺は開放感を覚えたが、その時のN君はどうだったのだろうか。
「今どうしてる?」という話になり、大学生としての暮らしについて、俺は適当に話した。昔も今もコミュニケーション能力に乏しい俺は、大学生になっても彼女もいなかったどころか、友人もろくにいなかった。だから、決して薔薇色の生活というわけでもなかったし、そんなに明るい話のネタも持ってはいなかった。しかし、そんな俺のつまらない話でも、N君は「良いなあ」と相槌を打ちながら聞いていた。ひとしきり俺のことは話したので、今度は俺が、N君のことについて訊いてみることにした。しかし、聞けば、大学や専門学校などに進学するでもなし、働くでもなし、N君は何もしていないと言った。
少し言い淀んだ後、N君は俺に「悩んでいることがある」と切り出した。今でも、この時の話題をN君が特に親しくもなかった俺に切り出した、本当の理由はよく分からない。喫茶店に自由に入れるようになった開放感からだったのだろうか。あるいは、田舎を捨てて他県の大学へと進学した俺のことを、進歩的で偏見が少ない人間だとN君は見たのだろうか。単に、親しくもなかった赤の他人だからこそ、却って話せたというだけかもしれない。
N君の悩みというのは、彼の恋の対象が、女性ではなく男性であるというものだった。
N君の話を聞いて、俺は驚いた。
N君が同性愛者であったことに驚いたのではない。俺が驚いたのは、N君が彼自身以外に「男性に恋愛感情を抱く男性」の存在を知らなかったからである。ストレートの俺ですら存在を知っていた、雑誌『さぶ』や『薔薇族』などの存在も知らなかったと言われたが、その時の俺は、俄にはN君の言葉を信じ難いと思った。
しかし、後になって思い返した俺は、それほど有り得ない話でもないのではないかと思うようになった。同性愛者であることを子供からカミングアウトされた親の中には、同性愛を治療可能な病と考えて、何とか"治そう"と試みる人間が少なくないという。だから、もしかしたらN君の親も、そんなふうに"治そう"とか"悪化を防ごう"とかするために、N君が彼以外の同性愛者や性的マイノリティに関する情報へとアクセスする機会を、奪っていたのではないだろうか。スマホもインターネットも無かった時代のド田舎で、子供を経済的に支配している親の立場ならば、情報の遮断もある程度は可能だったと思う。N君がどうだったかは覚えていないが、俺の同級生の中には、テレビのお笑い番組を観ることを、親から禁じられている人間が何人もいた。お笑い番組などでは笑いのタネに同性愛者が持ち出されることは珍しくなかったが、そういった俗悪番組などを観ることを禁じられていたとしたら、自分以外の同性愛者の存在を知らなかったということも有り得るかもしれない。
「えっ、そんな雑誌があるの?!」
「そうだよ、男の人を恋愛として好きになる男の人は、なにも世の中でN君だけじゃないよ」
逆にN君の方こそ、俺の言うことが信じられない、自分の他に男性に恋愛感情を抱く男性が存在するなんて信じられない、という表情だった。
別に俺は、高邁な思想の持ち主などではなかったし、世の中の差別を無くすために戦う人間でもなかった。過去形で表現したが、現在形で表現しても俺は「そのような人間ではない」。しかし、そんな俺でも、N君が理不尽に苦しんだり悩んだりする必要は何も無いとは思った。とはいえ、若くて馬鹿な大学生だった俺に、まともなアドバイスや励ましをN君に与えることが出来るはずも無かった。『さぶ』とか『薔薇族』の存在の他に、何か俺がN君に教えられることが有るかと、無い知恵を絞って出てきたのは、俺が夜行バスで東京に行った時に、新宿駅の雑踏で見た、今風の言葉で言えばオネエと言われる人たちの集団のことだった。俺は馬鹿である。
「新宿二丁目には、そういう人たちが集まるお店が、沢山有るんだよ。俺、東京に行った時に新宿駅で、そういう人たちの集団を見たよ」
実際に新宿二丁目に行ったことも無いくせに半可通の知識から発した、今から思えば我ながら馬鹿な発言だ。それでも、その時の俺は、馬鹿なりに「N君は『独りぼっち』ではない」と言って励ましたかったのだ。とはいえ、当時のN君との会話の中で、俺は「オカマ」や「オカマバー」という言葉を頻繁に使ったと記憶している。励ましたいと思いながら差別的表現を使っていたのだから、今でも俺は恥ずかしくなる。その上、明るくひょうきんなオネエたちと、同性愛者とを安直にイコールで結びつけるという思考は、粗雑で乱暴なものだったと言うほかない。
兎に角そういった話を聞いたN君は『さぶ』や『薔薇族』の存在以上に、俺が新宿駅で見たという人たちの存在、実在に驚いたようだった。その人たちの様子を訊かれたので、俺は、思い出せる範囲で、彼女たちの服装とかメイクとか、かしましく面白おかしい会話の様子とか、堂々とした態度とかをN君に話した。特に、彼女たちが明るく堂々とした様子だったところ、自由に見えたところに、N君は深い感銘を受けたように俺の目には見えた。
そろそろ俺の帰宅するのに乗る汽車の発車時刻が近いという理由で、喫茶店でのお喋りを切り上げると、別れ際にN君は俺に「ありがとう、色々と教えてくれて」と言った。大袈裟なぐらいに何度も、N君は「ありがとう」と言った。駅へと向かう俺を、N君は喫茶店の前で見送ってくれていた。
その後、N君と会ったり連絡を取ったりというドラマチックな出来事は特に無い。だから、その後のN君がどうしたのか、どうなったのか、故郷に残ったのか、それとも出て行ったのか、俺は何も知らない。
俺の勝手な空想の中では、その後のN君は、故郷を出て、何処かの都市部のリベラルな場所で、仲間と出会うことが出来て、孤独ではなくなったという筋書きになっている。その俺の空想の中で、故郷を出て都市へと向かうN君は、夜行バスに乗っている。俺がN君のことを、勝手に俺自身と重ねているからだ。
たかが夜行バスに乗って、何回か東京その他の場所に出掛けたからといって、田舎っぺで馬鹿な俺が、顕著な人間的成長を遂げたりするはずもない。また、故郷を出て東京その他の場所に移り住んだからといって、必ずしも薔薇色の人生が待ち受けているとは限らないことも、今では俺も理解している。
それでも。
それでも、夜行バスの旅は、若くて井の中の蛙の俺に、新鮮な風景を見せ、田舎では触れることのできなかった、新鮮な空気や文化的産物に触れる機会を与えてくれた。たかが新宿駅でオネエの人たちを見ただけにすぎないという体験ですらも、若くて田舎者だった俺にとっては、貴重な体験機会の一つだった。俺にとって夜行バスは、そういう思い出と結びついている。
女オタクだけど昔から悪役ばっかり好きだわ イケメンとは限らない
過剰でいびつで個性的、ユニークな背景がある、主人公側とぶつかって葛藤したりする、なんなら作品を通じて一番大きく変化したりもする
カイジとかあの絵で女性人気もめちゃくちゃあるじゃん、バキなんか絵柄濃いけどBL妄想本が秋田書店公認で出版されてるよ
フィクション全体が石投げたらイケメンか美少女に当たる状態になってるからそう見えるだけで、核となるのはやっぱりキャラとストーリーだと思うけどなあ
女がオタクやってると「女はアホなので物事の表層しか見ない」って散々言われるんだよね
増田の意見もその偏見のバリエーションでしかないよね、しかもかなり凡庸
顔しか見ないオタク"も"いるのは否定しないけどそれって男が女がと一口に語れるようなことか?
ちなみに二次創作では見た目もよく改変されるよ
「世界最強なはずの屈強な受けがかよわい美少女みたいになってて、チンピラに路地裏へ連れ込まれて大ピンチ!そこに颯爽と攻めが登場」なんてのは
二次創作のためにデータベース作る人、作品に出てくる競技を始める人、大学の専攻にしちゃう人もいるし
美少女化白痴化腹黒化なんでもありでそれキャラの断片すら残ってないだろみたいな人もいるし、色々ですよ
その色々さを受け止めもせずに単純な法則を見つけて飛びつくのは、まあ人間のさがだけど、知的な態度だとは思わない
マルフォイとハーマイオニーのカップリングって意外だけど面白そうだね
マルフォイには「親に教育された通りマグルを差別してきたのに、好きになった相手がマグルだった。どうする?」という葛藤が、
ハーマイオニーには「自分を蔑んできた相手が好意的に振る舞いはじめた。許すか許さないか?許したとして恋愛関係を築けるのか?」という葛藤がある
セックス・エデュケーションのエリックとアダム(オープンリーゲイの高校生と同性愛を嫌悪するいじめっ子)みたい
上手な人の作品だったら読んでみたいな
貧乏人やブスや障害者や中年は子供を産むな、金持ちで優秀で健康な若い美男美女はどんどん産んで!ってタイプの優生思想主義者ばっかりだ
優生思想っていうのはユダヤ人や障害者や同性愛者のような「劣った人間」の誕生を防止すると同時に
まあ潜在的に元増田が自分の中の同性愛的資質を感じていてそれゆえに同性愛者を恐れており、実際に理解のある彼ができてその内面的恐怖を克服するというのは全然ありうる話かと
一人の同性愛者が異性愛者に交際を申し込んで付き合ったら異性愛者は同性愛者になるの?
自分自身の中にある同性愛者への恐怖ってのは、自分が同性から好かれるかもしれないという可能性がまだ0じゃないからで
異性からの可能性はEXILEや嵐の真反対にいる事で潰せてるけど、同性愛者がどういう人を好きになるかというのは不明
そして同性愛者と付き合ってしまった場合、その後異性と普通に付き合えるのか
そういう謎な部分が同性愛者に対する恐怖の原因だと思ってる