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はてなキーワード: ショッピングセンターとは

2014-01-17

Ashley Madisonで浮気相手見つけてSEXしてきた

Ashley Madisonっていう出会い系サイトがあるんだけど、これで浮気相手見つけて今日初めて会ってSEXしてきた。

ポイントの料金が高いので利用に二の足を踏んでたんだけど(登録は無料正月セールで割引があったので購入。50ポイントで3900円だった。

初回のメッセージのやりとりに5ポイントかかるが、その後のメッセージのやりとりではポイントを消費しないので出会い系サイトとしては良心的だと感じた。

まず近所のエリアで年齢を指定して検索し、気になるプロフィールがあれば「お気に入り」に登録していった。お気に入りに登録すると相手方にその旨メッセージが届くし、リストでその人のログイン状態が確認できる。

次に「ウィンク」を送る。ウィンク無料で送れて5つの定型文の中からメッセージが選択できる。自分は相手にプロフィールを見てもらいその気があればウィンクを返してもらう、という定型文を選択し4〜5人にウィンクを送った。

すると一人からウィンクの返信が届いたので、こちらからメッセージを送った。内容は「いちどお会いできませんか」というもので、何回かやりとりして実際に会うことになった。

駅前ショッピングセンターの前で待ち合わせ声をかけ(事前にメッセージで服装の特徴を送ってもらった)とりあえず近くの喫茶店お茶して雑談。おもむろにホテルに行くかどうかという話を切り出すとOKだったので検索しておいたホテルへ。

一緒にシャワーを浴びたのち、SEX。顔は平凡だったが小柄で形の良いおっぱいで感じやすい子だったので燃えた。なによりお互いに彼氏彼女がいるのに隠れて会ってるという状況が興奮した。

相手が彼氏に見つかるとやばいというのでホテルからは別々に帰ることにして別れた。

Ashley Madison - http://www.ashleyrnadison.com/

2014-01-12

http://anond.hatelabo.jp/20140112053449

こういうのを度を超えてるって言われるとさみしいな。

自分が住んでたとこはそういう感じだった。

それでもまだマシな方。

友達のとこはもっと酷かったりする。

から子供が買い物する時は親に頼むか、チャリしかない。

チャリでもショッピングセンターまで40分くらいかかってた。

大体平均時速は15kmか20kmくらい。

汗だくで立ち漕ぎするのが当たり前。

最近帰省すると徐々に回りにメジャーな店が出来てきたからよくなってるけど、

それでもちょいと数分車を走らせると真っ暗なところだらけ。

2013-12-31

やくざ夏祭りシャッター商店街

商店街自営業の店で育った僕は、やくざはそんなに遠い存在ではなかった。

幼少期のぼくにとってのやくざは、父親の友人で、お小遣いをくれるサングラスのおじさんだった。

年に最低2回は決まった時期にやって来たことを覚えている。

夏祭りになると、近所の倉庫に人が集まり、父は顔を出す。

よくついていった。お小遣いを貰えるので欠かせない財源だったが、酒臭くて長くはいなかった。

夜になると、夏祭りモードの我家にもやってきて世間話をする。

お気に入り椅子が奪われるのを知っていたが、迎い入れるとお小遣いをもらえたので

それまでは遊びに行くのを我慢した。

また、年末になると、父親はヤクザ忘年会に呼ばれた。

僕が呼ばれることは無かったが、写真を見たことがある。

今思えばあんな店町内にあったのか?と不思議だ。

お誘いのために、家にヤクザがやってきたのをよく覚えている。

忙しい年末中での長時間の来客だったからだ。

小学中学に上がるにつれ、ヤクザという知識を得ると、

父親が普段とは違った態度で友人と接してたことや

夏祭りのあの倉庫に近寄る人が限られてたいたことや

小遣いを貰えるまで遊びにいけないのは僕の自由意思じゃなかったことを知った。

知識を得たから、そう思っただけかもしれない。

他の店がどうやってヤクザと付き合ってたかは知らない。

近所の蕎麦屋オヤジ自治会会長、父、そしてヤクザが、一緒に酒を飲むことはあった。

最後に会ったのは高校時代だと思う。最近は厳しくなってねえ。と、挨拶に返された。

卒業後に東京に行くことを話すと、賢いか大丈夫だ。親父さん似だ。と、応援されたが

その頃、父が嫌いだったから、似てるというそれはとても不快だった。

後になって知ったが、その頃、90年代の前半は、暴力団対策法というもの施行されていた。

警察どころか一般の店が大手を振り、暴力団反対と言いだしたのだ。だからしかったのかもしれない。

警察と言えば、僕が知っているヤクザ警察関係は、なあなあだった。

家にお巡りさんが訪れると、○○ちゃん元気?悪いことしてたらいってよー?ぐらい陽気だった。

派出所ポスターが胡散臭く感じるのは、当時からでかでかと暴力団追放ポスターがあったからだと思う。

その関係も、あの頃を境に変わったのかもしれない。派出所お巡りさんが○○ちゃんの安否を訪ねることも無くなった。

僕が東京から返ってくると、商店街シャッター商店街に生まれ変わっていた。

父も店を閉じた。父の理由は、年齢と売上というありきたりな理由だ。

ありきたりな理由だから、それがバブル崩壊不況なのか、駅前整備のショッピングセンターなのか、

他に理由があるのかも分からない。

結びつけるのもおかしいが、もしかしてヤクザもと思うことがある。でも、まあありえない。

あの頃は、色々重なりすぎてて、なぜそうなったかなんて分からない。

年末入れ墨の件で、誘いに来たヤクザのことをふと思い出した。

僕にとって、入れ墨銭湯禁止は、排除ではなく、他の人への注意に見えていた。

そこにはヤクザがいるんですよ。という印。

もう20年も立ったんだなと思う。

それが、何かを変えるには長いかいかはまだわからないが、

僕の知っているヤクザはもういない。

2013-11-14

http://anond.hatelabo.jp/20131114201145

効率的寄付を集めるために、毎月自動的にお金が引き落とされる寄付への入会案内とかを、

日本中の街頭でキャンペーンしているんだよ。

駅とかショッピングセンターで、テーブルを設置して、

青いジャンパーを着た人たちが「ご協力お願いします」って言っているの見たことない?

まさか、そういう人たちが全部ボランティアだと思っているワケじゃないでしょ?

そういう委託には、ちゃんと募金額の営業目標とかもあるし、

基本的には「使った経費分よりも多く売上(募金)を上げている」ので、無駄遣いというのとはちがうと思うけどなぁ。

2013-09-06

23区内でマイカー必要なの?

首都圏でも、相模原だの小平だの越谷だの習志野だの、郊外部であれば、

クルマあったら使うケースも多いだろうなあ、という想像は付く。

そういうエリアは、ロードサイドショップも充実し、郊外ショッピングセンター

イオンモール文化圏からだ。

でも、23区内、例えば中野区とか大田区とか墨田区とかで、

マイカー必要とするライフシーンを想像できないんだが。

「土日に必ずゴルフに行く」「冬は毎週スキーに行く」という明確な趣味を持ってない限り、

子持ちであっても、マイカー必要とする局面想像できない。

23区内の子持ちの自分場合子供がいずれも小さいウチは、

時々郊外の「子供の遊び場」的なところに行っていたが、最近では上の子が塾に行き始めて、

家族でまとめて遠出」という局面自体が減っている。

せいぜい1年に数回程度なので、これならカーシェアで充分。

自分家族場合、あとは「大雨の日の塾の送り迎え」程度かなあ。

これだってカーシェアで充分だ。

郊外だとロードサイドショップイオンに行くためにクルマ必須なんだろうが、

23区内だとロードサイドショップより、JR駅前商店街とかの方が充実してるし、

そういうところは、クルマだと逆に不便だ。

最近だとエキナカなんてのもある。

23区内居住の増田民に聞くが、そもそもマイカー持ってるか?

マイカー必要」という意見場合、どういうシーンで使っているのか、教えてくれ。

どうも、23区内のマイカー所有って、実用目的というより「なんとなく」「見栄」という要素が強い気がする。

2013-08-13

http://anond.hatelabo.jp/20130812235302

意味のないことに気が付かないことに対していらだつわけでして、困ったものです。

ということで、対策を考えてみました。

リアの装飾でメッセージを伝える

赤ちゃん乗ってないけど、「赤ちゃんが乗っていますステッカー

・「slow moving vehicle」って書いたステッカーを貼る(ステッカーには、日本では何の根拠も効果もない。)

・「極真」という毛筆体のステッカー(特定の団体とは関係ありません)

浜崎さんのステッカーを貼る

・空力的な意味はないけど、リアウイングを付けて車高を落とす(多分うちらの仲間と認識されたらあおられません)

・リアにドライブコーダ

順法闘争

・一時停止はしっかり停まる

信号は守る

・制限速度も取り締まりで捕まらないところまで落とす

金属バットバールのようなもので襲われない程度にね!

時間をづらす

・混んでるショッピングセンターとか駅とか繁華街はいかない

帰省ラッシュと逆の行動を取る

視野から見えている範囲でしか考えていないから、仕方がないと思います

こーゆー面倒で理不尽なやつらに出会いたくないから、田舎から出るのであり、都会では学歴階層で壁を作りたくなるのだろうなと最近流行の話題に引っ掛けてみる。

やっぱり実家に帰るんじゃなかった

実家に帰るといたたまれない気持ちになる

半年ぶりに実家に帰った。

実家は最寄りの新幹線から電車で1時間、そこから車で30分のところにある。

家の近くにはロードサイド店が乱立してて、yumetownっていうショッピングセンターができてた。

実家では父母・祖父母・妹が暮らしていている。

父は数年前に公務員定年退職して今は供託で働いているが、もう少しで辞める予定らしい。母は教師。

祖父はまだしっかりしているが、祖母は痴呆が入ってきている。

妹は国立に落ちて一浪した末に同じ町にあるFラン大学卒業した。今は契約社員で働いていて今年契約が切れる。

実家に帰ると本当にうんざりする。

偏屈下品な祖父母は何をしても自分たちが正しいと譲らない、非があっても決して謝らない。

父親は怒りっぽく、そんな祖父母を怒鳴りつけは田舎者年寄りダメだというが、父親も十分偏屈で祖父母と何ら変わらない。

母親は父親や家族に愛想を尽かしていて、家族を世話しているような感じだ。職もあるし、離婚すればいいんじゃないかと思うんだけど、ただ文句を言いながら生活するだけだ。

妹は馬鹿だ。残念な感じの服装・化粧で、毎日ショッピングセンターに行ってる。バラエティしか見ないし、ファッション雑誌しか読まない。自分の将来について何も考えてない。一人暮らししたい、が口癖だが家賃なし飯付きの実家から出て行く気もないだろう。

父にあいつどうすんだよって聞いたら、とにかく早く嫁にってくれれれば・・、って感じだ。多分40過ぎても独身で、「まわりにいい男がいない」って本気で言ってるだろう。家族の会話はほとんど無い、たまにあっても別の家のうわさ話だ。

俺は地方国立卒業して旧帝大に進み、そこで博士号を取った後、都内の企業で働いている。

大企業じゃないけど、仕事は楽しくて毎日充実している。

地元で進学しなくてよかった、地元就職しなくてよかった。

金銭的に十二分な援助をしてくれた両親には感謝しているけど、尊敬はしていない。

俺は家族を見下しているのに、俺が充実した生活を遅れているのは家族のおかげだ。

実家に帰るたびに罪悪感を感じる。家族から自由になりたい。

2013-08-09

わたしがあの人にはじめて会ったのは13歳の秋だった。

中学入学祝いに父親からパソコンを送られた私はすぐにインターネット世界にのめり込んでいった。

中でも楽しかったのはチャット

友達放課後マックに行ったり、クラス男の子を好きになってすったもんだしてる都会在住の女の子の都会っぽい生活に憧れたり、、

ちょっと不良ちっくな男の子達のリアル体験談にわくわくした。

わたしは地味で目立たないタイプ中学生で、自分に自信が持てなくてうまく人とコミュニケーションが取れなかったので、今ではよくわからないようなものにまで憧れたりしていた。

というか、クラス友達がいるっていうだけで、クラスメイト普通に話せる人だっていうだけで、私にとっては憧れの的だった。

そんな普通に楽しい中学生活を送っている人たちとお話できるのがほんとに楽しかった。

あの人に出会ったのも同じチャットルームだった。

あの人は常連のひとりでいつもロムってるんだけど、

そのくせふとあらわれてなんとなく心に残ることをぐさっと言ってはまたいなくなる、みたいなかんじだった。

毎日入り浸っていたわたしはあの人と自然あいさつとかするようになった。

あの人はほかの誰とも違う不思議な独特な空気感をまとっていて、

(あとで聞いたらちゃんとキャラ設定があったらしい)

あの人と文字で交わす会話を心地よく感じた。

あの人はいつも真夜中、みんなが落ちていったあとのひと気のないチャットルームに現れた。

つの間にかそれを心待ちにしている自分がいて、

つの間にかあの人と話すことが一日の楽しみになっていた。

あなたはどんな人なんだろう、

どんな生活をしてるんだろう

どうやら新潟県在住の歳はひとつ上。

人望厚く、生徒会長をやってるらしい。

(同じ学校だったら関わることもないだろうなー)

部活野球部ポジションは不明。

すきなマンガはるろけん。

てゆーかけっこうオタク

(じゃぁ私もアニメ詳しくなろうかな!?

シニカル時事問題論破!そこがまたかっこいいよー!!

って思っていた。

ある日あの人が自分小学生の頃の恋愛について話し始めた。

それは深夜で、チャットルームにはよく顔(?)を合わす女の子二人とあなたとわたしの四人だけで、その話は10代の私にとってはとても重いお話で、

というかまだ恋のなんたるかを知らない私にとっては目の回るような話で、

(確か、好きな女の子がいて両思いだったんだけれど、その女の子につらい思いをさせたまま別れてしまった、みたいな話だったと思う。)

その長いお話が終わる頃にはわたしたちはとてもしんみりしていた。

でもそういう特別なことを共有したことをきっかけに私たち四人はメールアドレスを交換することになった。

私は心の中でその成り行きにガッツポーズを決めていた。

だってずっとアドレスを聞きたかったけど、乙女で内気なわたしにはどうしても言い出せなかったからだ。

そうしてあの人のアドレスをゲットしたわたしは、

使い方が謎すぎて放置していたメーラー説明書100万回読んでメールのやり方を会得し、

メールの画面が夢にまで出てきた)

やっとあの人とのメールのやり取りを開始した。

あの頃の私にとってあの人は遠い(友達いっぱい!楽しい学校生活リアルではお近づきになれるはずもない人!みたいな笑)夢の世界に住む憧れの人で、

あの人から毎日メールが届くのが嬉しくて仕方なかった。

何回も何回も推敲推敲をかさねて返事を書いた。

他愛のないお話ばかりをしたと思う。

学校友達部活先生

そして、友達たくさんいて楽しい生活送ってんだー!

みたいな見栄もはったきがする。

本当はクラス友達なんていないし、

楽しいことなんかなにひとつない毎日だったけど。

でもそういうメールのやり取りを繰り返すうちに、

チャットだけではわからなかったあの人の本当の姿が、

少しずつ少しずつ見えてくるような気がした。

夢の世界に住んでるように思えたあの人にもたくさん悩みや考え事があることを知った。

あの人がどんどん近くなって来るような気がした。

ずっと昔から友達みたいに。

ある日わたしは決心した。

どうしてもあの人が同じ世界にいることを確かめたくなった。

あの人が生活する街を見てみたくなった。

本当は会いたかったけど、言えなかった。

から誰にも秘密で行ってみた。

電車で六時間雪国

そこは穏やかに時間が流れる真っ白い世界だった。

あの人が歩いているだろう道を歩いて、

あの人が買い物をするだろうショッピングセンターに行って映画を観た。

源氏物語みたいなやつ。

今思えば、あの頃のわたしにとってあの人が唯一の友達だったんだと思う。

ストーカー・・・??

ではないと思いたい。

帰ってからもそんなことは書かずにずっとメールを続けた。

そのうちどうしても気持ちを抑えられなくなってわたしはあの人に告白した。

それが本当の好きなのかどうなのかわからなかった。

文字以外のあの人のことを何も知らない、

会ったことも見たこともない。

でも気持ちだけは本当だった。

そしてあの人にはあっさりふられた。

理由は好きな人いるか・・・だったと思う。

まり覚えていない(笑)

都合のいい脳みそだな(笑)

そして私たちの1年間のメル友生活は終わった。

それから一年間はあの人のことが頭をよぎって仕方なかった。

あの人からメールが恋しかった。

そのあいだにわたしは高校に上がった。

高校生活は最悪だった。

高校生になったわたしはけっこうないじめを受けるようになっていた。

唯一仲がよかった友達からも口を聞いてもらえなくなった。

成績もガタ落ちで留年寸前だった。

先生からは通信の高校定時制に編入することを勧められた。

私は自分の部屋にひとりで閉じこもるようになった。

心を閉ざして暗い顔をしている私に家族も冷たかった。

両親は仕事やまだ小さい兄妹たちの面倒に忙しくて

わたしの苦しさを理解できる余裕はなかったんだと思う。

私は中学の頃以上に孤独だった。

誰かに理解されたかったんだろうけど、

それをうまく言葉にすることもできなかった。

勇気をふりしぼってあの人にメールを送ってみた。

あの夏の夜、あの人からメールの返信が来た。

絶対に来ないと思ってたからかなり驚いた。

どういう話の流れだったのかは思い出せないけど、

私たち携帯の番号を交換して電話で話すことになった。

たぶん私が言いだしたようなきがする。

心臓が口からまじで飛び出しそうになりながら電話に出たのを覚えてる。

その時、わたしははじめてあなたの当の名前を知った。

それまでは蒼紫様とゆこ殿、みたいなメルヘンHNでやりとりしてたの笑

なんか本当に不思議な感じだった。

はじめて聞くあの人の声は上ずったかんじの甘い声でわたしは本当にどきどきした。

私たちは何時間も何時間も話した。

なにをあんなに話したんだろう?

たぶんとてもしょーもないことばかり話してたんだろうと思う。

気づくと朝日が昇って、朝になってた。

そしたらあの人は恥ずかしそうに言ったんだよ。

「俺の言いたいことわかる?わかって、テレパシーで。」

・・・わかんないよ笑」

・・・すき。」

どういう気持ちの流れがあの人にあってそうなったのかは今でもよくわからない。

たぶんあの人も覚えてないんじゃないかな?笑

でもわたしたちはこの電話きっかけに付き合いはじめることになった。

その日から私たちは何回も好きだよって言い合って、

毎日明け方まで電話お話しをした。

携帯の請求がすごいことになってお母さんに何回も怒られた(笑)

会ったこともない人と付き合うなんて浅はかなことだと思うけど、

どうしてもあの人と毎晩長電話するのが辞められなかった。

あの人は早朝の高速バスで遠い学校に通っていた。

その登校時間ギリギリまで話してることもあった気がする。

あの女の子の化粧が濃くてキモイ、とか、モデル女の子がいてなぜかその子が俺のこと好きっぽい、とか他愛のない話しを!(笑)

そうしているうちにあの人からあることを告白された。

それは、仲のいい友達がいたんだけど、その子が亡くなってしまってとてもつらい、それはたぶん自分のせいなんだっていう話し。

それがあったから今は誰かと深く関わるのが怖いんだって話してくれた。

当時のわたしは自分のことを客観的に見る余裕なんか皆無だったからどうして自分がそんな気持ちになるのかわからなかったんだけど、その話を聞いてものすごく悲しくなった。

今考えるとわかるんだけど、わたしはあの人と深く関わることを望んでたからだと思う。

自分でも訳のわかんない私をあのひとなら理解してくれて助けてくれるような気がしてた。

でもお互いに問題をかかえたままお互いを理解しあえるわけもなく、私たちはすぐに別れてしまったんだ。

本当なら私があの人の傷を癒してあげられたらよかったんだと思うけど、当時のわたしには無理だった。

それを説明することともできなくて、

たぶん相当意味のわかんない理由で別れたと思う。

実はほかの人とのあいだに子供ができて、もうあなたとは一緒に居られません、みたいな出鱈目を言った気がする。

なんでそんなこと言ったんだろうね、10年前のわたし。(笑)

変だよね。(笑)支離滅裂だ。

壊れる前にぶち壊しにして安心たかったのかなとも思う。

大切なものからこそ。

よくわかんないけどそういう心理だったんじゃないかなーって思う。

あの人と別れてすぐに私は高校中退した。

やめる前後はピークに荒んでいたけど、

いざ辞めてしまえば私の心は徐々に落ち着きを取り戻していった。

15歳にして社会の外に放り出されてしまったことは恐怖だったけど、

それは逆にこれからのことを真剣に考える原動力だったような気がする。

わたしは友達がほしかった。

から信頼できる仲間が欲しかった。

身も心も生まれ変わって新しい自分になりたかった。

それから3カ月。

今度こそ連絡が来ることは2度とないだろうと思っていたところに

冬、連絡をくれたのはあの人の方だった。

私の誕生日に短いメールを送ってくれた。

そのメールきっかけにあの人とまた連絡を取るようになった。

ちょうど寮制の定時制高校への受験を決めて一念発起を心に誓った頃だった。

厳しい環境に身を置くことで私は最低な自分から脱出できると思った。

家族とも、育った街とも、この街の人とも、全てに距離をおいて新しい自分を始めるつもりだった。

付き合っていた頃みたいにまた明け方まで電話することも何回かあった。

でもそういう自分の状況をあの人にうまくせる自信がなくて黙っていた。

相変わらずどうでもいいような話しを何時間もしていた。

というか今気づいたけど、わたしどれだけ素直じゃないんだw

わたしは本当はあの人ともう一度お付き合いがしたかった。

でも自分からはとても言い出せなかった。

あの人が今でも私を好きでいてくれればなって思った。

春、私は高校入学して天理の寮に入った。

ぞの生活の厳しさたるや、それはもう想像を絶するものだった。

朝6時に起きて掃除点呼、先輩の洗濯や食器洗いをすませてから仕事に行って、夕方から学校

はげしいルーティン。

金曜日ジェイソンとかよりずっとずっとこわーい先輩。(笑)

ここに来たことを後悔してないと言ったら嘘になるけれど、

それでも自分自分で決めたことだから頑張ろうと思った。

もちろん携帯電話は禁止。

どじでまぬけな私は入学早々携帯が見つかり没収(笑)

反省10枚は書いた)

というわけであの人への連絡手段を失ったわけだけど、

どうしてもくじけそうな時は負けじと寮の公衆電話から10円片手にあの人に電話した。

この公衆電話がまたすっごいの!

長蛇の列に並んでやっとたどり着けるの!

でも時間が決まっていてやっと順番が来たと思ったら1分とかしか話せないこともあるの!!(笑)

ちょー不便!!!(笑)

そんなわけで満足にあの人ともお話できないし、忙しくて3ヶ月に1回とかしか電話できない時もあったんだけど、

あの人の声を聞くと本当に元気が出たもんでした(笑)

あの人は相も変わらずずっと私の支えだった。

別に電話しても何を話すわけでもなかったけどさ。笑

それでも。

地元に帰った時は便利な便利な(笑)家電で思う存分長話をした。

そうだ、手紙も何通か交換したんだ。

今でも大事にとってある。

あの人は字が下手だからってとても恥ずかしがったけど。

(確かにあの人は字がへただった(笑)

そういう生活が4年目に突入した頃、

あの人と実際に会おうかって話になった。

あの人は大学生になっていて、

サークル関係京都に来ることになったので、

せっかくだからついでに会おうよってことになった。

その少し前にわたしたちは小さな喧嘩みたいなことになっていた。

あの人が私のことを何も考えていないただふらふら生きてる奴、

みたいなことを冗談で言ってきて、わたしがそれに反論のメールを送ったんだ。

わたしはわたしなりに色々考えていて、考えた答えには従って生きてる、みたいなメール

でもあの人が私についてそう思うのは仕方ないことだった。

だって私はあの人に自分についてなんにも話したことがなかったんだから

と、いうより私は誰にも自分について話したことなんかなかった。

いつも自分が何を考えているのかわかんなかったし、

誰かが自分を理解しようとしてくれるなんて考えたこともなかった。

から私の気持ちはずっと迷宮をさまよってるみたいな感じだった。

家族との間に感じている確執にも、

ずっと悩んできた自分の心の暗い淵みたいなものに対する葛藤にも、

なんにも向き合えてなかった。

実際に待ち合わせの場所に着いても私はあの人と会うことをまだ悩んでいた。

会うのが怖かった。

実際に会って本当の自分を見せるのがとっても。

あの時、わたしはもう本当に緊張していた。

心臓爆発だった。

京都駅アトムの下で私たちははじめて会った。

2007年5月12日

出会ってから7年がたってた

わたしの人生で一番綺麗なあの初夏の日を

わたしは一生忘れないと思う。

あの人は細くて折れそうな体で

外人みたいに彫の深い顔立ちをしてた。

黒いジャケットに黒いジーンズの全身黒づくめの人だった。

京都駅の長いエレベーターをあがりながら

あの人は私に一言

「でかっ!」

って言ったんだ笑

不思議な感じだった。

はじめて見たあの人は知らない人だったけど、

声はずっと馴染んできてわたしを支てくれたあの声だった。

人見知りな私はあの人をやっぱり人見知ってたけど、

それなのにあの人はずっと昔から一番よく知っている人だった。

よく晴れた気持ちのいい日で、清水寺散歩に行った。

綺麗な新緑のさわやかな感じも、

景色の良いお店で食べたカレーの味も、

あの人の横顔も

今もあの日のように思い出せるよ。

よく歩いて、よくしゃべった。

あなた大学の話を、

わたしは寮生活の話を。

帰りはわたしの近くの駅まであの人が送ってくれた。

手をふりながら猛烈な離れ難さがおそってきたけど、

あのときの私にはそれがどうしてなのかわからなかった。

寮に帰ってからもなんだか夢の中にいるような気分だった。

あの人からメールが来た。

「楽しかった。また会いたい」って。

私もおなじ気持ちだった。

数日後の5月22日に私たちは付き合いはじめた。

いま考えれば不思議なことはなんにもない。

必然だったと思う。

私は寮生活仕事学校で本当に時間がなかったけど、

時間を作っては早朝まであの人と長電話した。

あの人は高校生の頃からずっと苦しみ続けてたみたいだった。

自分の些細な一言のせいで大切な人を亡くしてしまって、

もう人と深く関わるのが怖いって。

ずっと一人で生きてきたし、これからもそれは変わらないと思うってあの人は言った。

自分は生きてる意味なんかないのかもとも。

私になにかできることはないのか?って思った。

少しでもあの人の心が軽くなるようになればいいと思った。

あの人が誰にも心を開けなくなってしまったことを、

本当はものすごく苦しんでるように見えたから。

怖くないって言いたかった。

そうしながら少しづつわたしもあの人に自分のことを話した。

あの人が本当にわたしを理解しようとしてくれていることが分かって言葉不思議とすらすら出てきた。

いじめられてたこと、家族について、自分性格について。

そういうことをちゃんと言葉にするのは生まれて初めてだった。

混沌としていた頭の中が言葉によって整理されていくのがわかった。

私たちはできる限りの言葉をつくして自分たちについて話し合った。

それは数年前の私たちにはできなかったことだ。

今までどうしても踏み込むことができなかった、

でもとても知りたかった、

知って欲しかったことだった。

話しても話しても話したりなかった。

やっとわかりあえた喜びを私は一生忘れない。

ずっとそうしたかったんだと思う。

たぶん14歳ときから

一生懸命耳を傾けてくれたあの人には感謝してもし尽くせないよ。

あの人が私に言葉をくれたんだ。

はじめてあの人に会いに新潟に行った夏休み

本当はわたしは不安だった。

戸惑ってたんだ。

あの人と話すのは楽しいっていう言葉意味を超えて楽しい

でも私たちはまだ一回しか会ったことがないのにこの気持ちは本物なのか?って。

それが無意味不安だってすぐに分かった。

あの人がはじめて私に作ってくれた料理ペペロンチーノ

そのあとに丁寧にロイヤルミルクティーを入れてくれた。

帰る前の日にあの海で撮った写真は今でも宝物だ。

あの日、ホームであの人の手を握りながら本当に離れたくない、

離れたくないってこういう気持ちのことだったのかって思った。

あの人はあなたになら心をひらけるって言ってくれた。

わたしも同じだった。

出会ったことが奇跡なんだって思った。

メール電話でやりとりをしていた頃はまったく気づかなかったんだけど、

あの人は神様かそうでなければスーパーマンみたいな人だった。

いつもわがままばかり失敗ばかりまぬけばかりの私にきちんと向き合ってくれて、

私に悩み事があれば一緒になって考えてくれた。

自分のことがよくわからなくなってすぐに投げ出す私の、

私にさえわかんなかったわたしを教えてくれた。

ちゃんとはなしてごらん、ってあの人だけが私に言ってくれたんだ。

お父さんみたいだった。

肉親以上の愛情を注いでくれた。

あの人と一緒にいた数年間は信じられないくらい幸せだった。

思い出が綺麗な綺麗なおとぎ話しみたいだよ。

わたしたちはなにもかもがぴったりだったように思う。

わたしが持っていないものをあの人はちゃんと持っていてあの人が持っていないものをわたしが持っていて嘘みたいだった。

なにもかもが上手く噛み合っていて、あんな風に出会えたことも、こうして一緒にいることも、全部が起こり得ないような奇跡だとおもった。

それはあの人が優しくそう感じさせてくれていただけだったのかもしれないと今になったら思うんだけど、それでも。

幸せエピソードを並べはじめたらきりがない。

真夜中の長電話、一緒に観た何本もの映画、あの人の小さなアパートの部屋、まっすぐに続く海岸沿いの道、

会いたくて我慢できずに何回も最終電車に飛び乗ったこと、旅行に行ったのは神戸栃木クリスマスに買いすぎたモスチキン

大学ピアノがある小さい部屋、高速バスに乗って一緒に出かけたこと、

別れる時に悲しかったぶん会えた時はほんとに嬉しかったこと、あの海辺の夕日、あの人を残してホームから走り出す電車、あの人のかなしそうな顔。

ねえ、わたしはおかしいのかな?

思い出を美化しているだけなのかな?

もしそうだとしても懐かしくて叫び出しそうになるよ。

たまに幸せ妄想をするんだよ

あの人に出会うために何回も何回もの生を生きて

やっとこの世界めぐり会えたのかもしれないなって

からはじめて会ったあの日からずっと離れるのが本当に嫌だったんだ

あの人がいればなんだってできるような気がした

あの人に話してないことがひとつだけある。

わたしはそれでも迷っていたんだ

私は若くて無知だった

本物がどれなのか判別がつかない程に。

奇跡だと思ってた

完璧だと思ってた

からこそ関係が変化するのが怖くて仕方なかった

わたしは自分があの人を段々大切にできなくなっていってるのを知ってた

いつか自分の未熟さが原因で壊れて終わってしまうだろうと思った

しろそうなるべきとも思った

そうしたらあの人の本当の大切さがわかるから

早くあの人を大切にできる自分になりたい

つの間にかあの人にめぐり合うことができた奇跡を当たり前に思い、

あの人がわたしにかけてくれる愛情を当たり前に思い、

あの人に求めてばかりでいつも苛立っているのが苦しかった

わたしはわたしたちの幸せをめちゃくちゃにした

わたしは確信がほしくてほしくてたまらなかった

あの人を失ったわたしは

かたずっぽになって

うまく立つことができなくなった

うまく声も出せなった

うまく笑えなくなった

うまく人と話せなくなった

世界は違うものに見えた

怖くてわたしを押しつぶしてくるの

何時の間にかわたしはあなた

荷物を預けて楽してたみたいだ

全部がのしかかってきて

息ができなくなった

笑顔は今でも引きつってる気がしてる

それでも

時間と一緒に少しづ

あの人がいない新しい灰色世界

わたしは受け入れていった

考えることをはじめた

どうしてこうなってしまったのか、

ここはどこなのか、

これからどう生きていくべきなのか 、

あの人のことを何度も思った

ずっと考えていて

分かったことはふたつだった。

ひとつめは、

自分感謝できることを必死で探してありがとうって思えるように絶対にならなきゃ同じことを繰り返してしまうってこと

どんな幸せを持っていたってそれをわかってなくちゃそれは不幸と一緒だ

ふたつめは、

本当に愛し合える人を見つけられずに死んでしまう人も多いこの世界で、わたしはあなた出会えたこと、そしてあんな時間を持てたことがすでに奇跡だってこと。

出会えたことがすべてってこと。

ここは確かにあの人がいない Permalink | 記事への反応(2) | 23:51

2013-06-05

田舎は車が必要←本当か?

俺の経歴。

大阪のど真ん中で生まれ育ち、ロンドンに住み、福岡に住み、今かなりの田舎へきている。


大阪では、車はなくてよかった。

通学や通勤に車を使うとわずらわしいだけで、電車のほうが圧倒的に便利だった。

しかし、大阪のど真ん中過ぎたため、デパートはあるものの、スーパーがない。

デパートには歩いて行けるけど、スーパーには電車に乗らなきゃいけなかった。

普通家族生活していくには、やっぱスーパーでの買いだめは必要

というわけで、母はダイエーまで車で買い物にいっていた。

電車じゃ無理か、と言われりゃ無理じゃないけど、電車より車での買い物のほうが便利だったのは間違いない。

チャリで気軽にいける距離にスーパーがあれば、チャリでよかったろうけど。

ロンドンは、地下鉄バスも発達しまくり。

バスは、こんなに必要なのか悩むくらいあふれていて、バスだけで渋滞ができていた。

深夜も、ナイトバスが24時間走っていて、バス路線図見方、乗り方さえ覚えれば何も不満はなかった。

スーパーは歩いて行ける距離だったし、ソーホーにもチャリでいけていた。

でもバス使えば超便利だった。


福岡になると、そもそも電車バスで充分、という前提がまず覆った。

大阪ロンドンなら、駅と駅の間がそもそも徒歩10分から15分なわけで、てことはどこに住んでいたって駅から10分以内なわけ。

しか福岡は、最寄りの駅まで20分以上、というエリア結構普通にある。

都会の路線沿いがもちろん人口は多いのだけど、そこからキロ離れたエリアだって、変わらず人はたくさん住んでいる。

ここの人らは、まあ、車持ってるよね。

電車で補えない部分を、西鉄バスが頑張ってくれていたけど、それでも1時間に2本とかで精一杯。

中心部電車があるエリアに住んでいる人ならもちろん車はいらないけど、ノーストレスで生きるなら、やっぱり車があったほうがベターと言わざるを得ない地域だった。

で、今の田舎

これまで田舎の車いるかいらないか論争は、買い物するにも車ないと困る!がおおかったけども。

俺のいま住んでいるエリアは、車がないとまともに通勤できない。

田舎なので電車存在しない。

というか、この町から出入りするための電車であって、この町での生活に使うものではない。

で、田舎だけど、その市の中心部にすんでいるからかろうじてバスはたくさんある。

が、職場行のバスは1時間に1本あるかないか

始発が7時15分発。

次が8時20分発なのでこれはもう間に合わない。

帰りが、17時代はなし。

18時は02分の1本

次が終バスで19時13分

これを逃すと帰れない。

まり始発と終バス通勤して、7時15分発19時13分帰りのほぼ1択しかなくて、会議が長引けばもう帰れない。

これじゃあ、ちょっとイレギュラーが起きたらもう対応できない。

車なくてもスーパーには行けるけど、町で唯一のカフェにいくには、1時間に1本のバスに乗ってショッピングセンターに行かなきゃいけない。

ショッピングセンターは10時までやってるけど、終バスは20時過ぎ。

いや、まあ、イレギュラーな事態が起きず、つつましく時刻表を常に持ちながら生活をすれば、確かに車なくても生活はできる。

しかし、毎日同じ時間バスで行き帰りして、毎日同じ人が乗っているこの通勤スタイルは正直しんどかった。

車を買った今は通勤も快適。

行きたいところもすぐ行ける。

お嫁さんも喜ぶ。

圧倒的に快適になったのは事実

ま、そんなかんじ。

そしてここより田舎は、日本中にもっともっとあると思う。

2013-05-22

http://anond.hatelabo.jp/20130522142827

そういう心の啓蒙だけして悦に入るタイプの議論が一番嫌いだ。

車椅子ユーザーが昔と比べていろんなところに行けるようになったのは何故か?

みんなの心がけが良くなったからじゃない。鉄道会社バス会社などがちゃんと設備を作りマニュアルを作ったからだ。

車椅子ユーザーが昔と比べて気軽に買い物ができるようになったのは何故か?

みんなの心がけが良くなったからじゃない。バリアフリー化された大型ショッピングセンターが増えたからだ。

世の中をよくするのは人間の心がけではない。

世の中をよくするのは技術だ。

進歩するのは人間感情ではない。

進歩するのは文明だ。

バリアフリー問題は、日本じゅうの商店街雑居ビルが潰れてイオンショッピングセンターに建て替われば解決する

結局そういうことやろ?

追記:id:xevraブコメ馬鹿にされたがid:xevraのような「社畜無能から全員死ね」という主張をする差別主義者に馬鹿にされるいわれはない

2013-04-20

コーナン商事で働いてたけど俺には無理だった

去年まで働いたけど、他方で色々言われてる通りブラック企業でした。2012年時点の離職率新卒で14%強という驚異の数字。底辺だししゃーない。

入って良かったと言えるのは、日常生活に活かせる商品知識を身につけられる所と小売業の基本的な業務を全て経験できる所かな。コンビニバイトでも出来るけど。

実働8時間と説明会、面接で言っておいて残業は「本部の意向でノー残業制を敷いてる」と言っていたか企業コンプライアンスを順守してるんだと思ってたら

「本部ではノー残業店舗ではサビ残」の意味だったのね。こりゃ一本取られたわ。労基行ったら詰められたし、すごい会社よ、ここ。

有給消化状況については就活情報サイト情報通り殆ど消化されてない。というより消化させないように上から命令が飛んでくる。死ね(笑)

昇給賞与は上が詰まってるから出来ないのにさも昇格がされてるという。上層部に告げ口して出世するシステムから店舗社員空気は最悪だ。

配属先の店長が昼間から寝てる。そのせいか連日忙しいしサビ残の嵐で従業員の目が死んでる。真面目な人間馬鹿を見るっていうけど、ホントだね。

徹底的な成果主義なのに人事考課では何故か過程重視で上役への接待必須条件になってる。客へのフォローより一部門の作業を重視するこの会社すげえ。

加えて上司になるのが無能がやってるし同族経営から丼勘定しか人事をしないかESが全くないのがここの特徴だと思う。

よく言えば昭和的、悪く言えば強烈なワンマン企業典型的ブラック企業ドM社員、随時募集中。残業代100%出ません(笑)

確かにやってられんわな。チーフになっても2000円、主任になっても5000円しか手当てがないんじゃモチベーションが上がるわけないし。

まあ、バイトの評判はまあまあいいのが救いかな。けど、商品が足りないからってバイトに自腹切らせて余所に買いに行かせるのはどうかと。

コーナンホームセンター業界№1だけど、ブラックでも№1になれるかもしれない。

コーナンでは店長の気分次第で昇格が決まる。去年一昨年ぐらいから?人件費削減が加速して人手が圧倒的に足りない。

そのくせ、毎年のように店舗拡大する。売上げ=店舗拡大という発想。経営状態が心配になるほど。喩えるならバーガーバーガーのゴールの条件って店舗数が売上げに関わらず一定ラインを超える事なんだけど、コーナンは正にこのタイプ。ゴールなんて存在しないけど。

売るものと言えば最近猛烈に自社内でプッシュしてるライフレックス等自社製品ばかり。中国東南アジアにラインがあるけど、非常に安価で粗悪だから苦情が絶えないのに何故かこれがコーナン全体の売上の約3割に相当するんだもの。そりゃ自社開発が進むわ。一方メーカーの良質な製品は自社の粗悪品の影響で続々撤退中。将来は自社製品だけで運営したいみたいだけど、無謀でしょ。

最後に、大卒以上でコーナンへ行きたいという人は考え直せ。ここは中卒でも十分できる。殆ど仕事と体力勝負のガテン系

コーナンに限らずホームセンターショッピングセンターお客様第一だけど従業員なんか消耗品程度にしか思われてない。昇格もないし将来性も外資が入ってきたら勝ち目なくて暗黒ですけど、上がちゃらんぽらんからまあのらりくらり縮小傾向ではあるけど、それなりに続くんじゃないですかね。

俺はとりあえず次の会社します。

2013-04-03

地方がこの先生きのこるには

地元に帰った。新幹線が通り、とんでもなく高い高層マンションが建っていた。商店街シャッター通りに、百貨店更地に。でもラーメンの味は変わらない。

地方はこれからどう生き残っていくのだろうか。生き残っていくの定義はどうしよう?自治体破産しないこと?人口の維持?分からん

少子高齢化、超高齢社会人口減少、都市への機能一極集中交通機関の充実による時間距離の縮小、配送サービスの充実、介護サービスの充実、2.0就労モデルの一般化

とかなんか色々考えた方がいいんだろうけど詳しくないしなぁ

史跡なり、景観なり、芸術なりで地域差別化休日に多くの観光客が来るタイプ地域彦根天橋立白川郷瀬戸内の島々とかがこれ

仕事のある都市部から一定の距離内にあるベッドタウン。なんかこじゃれたカフェとか、愛されるお好み焼き屋とかある。商店街は寂れ気味、郊外イオンとか大型ショッピングセンター覇権(確定)。駅前けが便利。

一次産業生活TPPでどうなることか。それなりに自然があるので休日に人が来ることも。成功している地域はむしろ観光面がうまいのだと思う。

廃墟化していく旧ニュータウンとか使って作ればいいんじゃないかな、介護都市地域として集中して介護施設リハビリ施設、ターミナルケア施設、病院老人ホームを誘致。患者、入居者だけでなく介護職の労働者生活休日は見舞いに来る親族お金を落としてもらおう。自治体収支は赤字確定か。

原子力発電所を誘致して補助金でバラ色の生活をしよう。しかし残念ながらver.311以降はこの路線での都市開発は厳しくなりました。

米軍基地を誘致して補助金でバラ色の生活をしよう。飲食業を筆頭に大きな経済効果を得られるぞ。たまに強姦事件が起きるから風俗街を整備して発散の場所をしっかり作ろう。

  • 学園

大学を配置すると学生向けのサービス業が発展。真昼間から元気なので壁は厚い方がいい。

なんかシムシティしたくなってきた。再開発目的としたシナリオあるかな

2013-03-17

東大OBの嫌味な思考法

例えば、ラッシュの車内とか、ショッピングセンターとかの人ごみで、

「この車内で、東大生又は東大OBって、確率論的には自分だけなんじゃないか?」と

変なところで自己優越感に浸っている自分がいる。

首都圏3,000万人の中で、東大生東大OBって、30万人程度か?

となると、一般的な首都圏街角無作為抽出した場合

その人が東大生東大OBである確率は100分の1程度。

一般的なクラスで言えば、2~3クラスに1人、という程度。

天文学的確率、とまでは言わないが、万馬券程度にはレアなんじゃないか

会社の中では、100分の1が10分の1に上昇するので、そういう意識は起こさないが)

2013-02-25

子育てダイエット

175センチ身長に対して体重が77~78キロと少し小太り。

月~金の間は、会社の連中と昼飯食べたり、時に飲んだり、殆どデスクワーク

さほど歩かないため、金曜日夜には月曜朝比で1キロ~1.5キロは太ってしまう。

しかし、土日は子供の世話を家内から押し付けられ」、公園には行かにゃならない、

児童館図書館には行かにゃならん、近くで餅つきイベントがあれば子連れで行くし、

ショッピングセンターで何かイベントあれば・・・の繰り返し。

そのせいで、土曜日曜に、平日に増えた体重が元に戻る(1キロ~1.5キロ痩せる)、

その繰り返し。

実は、子育てって、ダイエット成人病予防に効くんだな(笑)

男の子場合特に

そういえば、会社で90キロ以上ありそうな人が3人いるが、

いずれも結婚してるが子供がいない・・・

2012-07-15

Try WiMAX @近鉄沿線(一部)

うちから出たら電波は問題ない。

幹線上でもバスの中でも電波強度は中程度。

東生駒駅はさすがに電波強度大。

ただ、生駒駅だと強度が落ちたのはやはり生駒山沿いだからか。

トンネル内は当然アウト。トンネルを抜けた後は快速急行の中でも問題ない。

BNRスピードテスト (画像版) http://www.musen-lan.com/speed/speed-img.html

での速度は最高速度:1.30Mbps 平均速度:1.02Mbps @小坂から布施

鶴橋から長瀬をへて大学までの間も大丈夫だが構内に入ると強度が下がって室内(4階)ではほぼ弱。

鉄筋だし中庭側なのでしょうがいか。でも切れはしない模様。

ともかく室内は注意が必要という事ですな。

次は郊外ショッピングセンターとか行ってみる。

2012-05-27

生活保護について一つ思う。

生活保護を受けている人ってのは、家賃補助とか受けてるわけで、

家賃補助を受けて自由な所に住むわけです。

だったら、東京とか大阪の端に生活保護専用の寮みたいなものを作ればいいんじゃなかろうか?と。

言ってみれば学生寮生活保護版。

「徒歩圏内に生活必需品が揃う郊外ショッピングセンターと、

 色々な科が揃っている大学病院があります

 寮の近くのバス停から駅へ行けば、都や府の中心に行けます。」

これだけ揃っていれば、大体の生活保護受給者にとって問題なく生活できるんじゃない?

というか、普通大学生ってこれに+仕送りorバイトで小遣い入れてるんだし。

いろいろ制度を見れば見るほど「お金が無い人だからお金で援助します」というシステム破綻していると思う。

であれば、収入ベースで見て、収入が無くて困っている人に対し、最低限の住居を保証する制度で十分だと思うのだがどうなんだろうね?

生活保護について一つ思う。

生活保護を受けている人ってのは、家賃補助とか受けてるわけで、

家賃補助を受けて自由な所に住むわけです。

だったら、東京とか大阪の端に生活保護専用の寮みたいなものを作ればいいんじゃなかろうか?と。

言ってみれば学生寮生活保護版。

「徒歩圏内に生活必需品が揃う郊外ショッピングセンターと、

 色々な科が揃っている大学病院があります

 寮の近くのバス停から駅へ行けば、都や府の中心に行けます。」

これだけ揃っていれば、大体の生活保護受給者にとって問題なく生活できるんじゃない?

というか、普通大学生ってこれに+仕送りorバイトで小遣い入れてるんだし。

いろいろ制度を見れば見るほど「お金が無い人だからお金で援助します」というシステム破綻していると思う。

であれば、収入ベースで見て、収入が無くて困っている人に対し、最低限の住居を保証する制度で十分だと思うのだがどうなんだろうね?

2012-04-02

しあわせのありか

児童虐待への介入についての落とし所、への落とし方についてを考えている。読めばわかるけど俺は混乱している。

死に至るレベルのがちらほらと新聞を飾る昨今、たぶん記事を読んで胸を痛めた人はだいたいが「これは何とかしなきゃだろう」という思いに駆られたものと思う。

で、その「何とか」の部分をどう詰めていくかみたいなことになるといろいろ研究者とかデータとか集めないとアレなんじゃないかと思われるわけだけれども、なんかそこらへんの雲行きがこの貧困妄想というか一億総ビンボー化恐怖症な国においてはやばい方に転がりそうでどうも、なんだか、嫌な感じがしてならない。

以下は某英国在住者のブログから引用

貧困子供にみすぼらしい格好(寒い日の薄着、女子なのに男子用の服を着させているなど)をさせている。DV男と別れることができずに子供暴力を目撃させる。同居中の男または自分自身がアルコールや薬物に依存している。あるいは依存症だった過去がある。自分うつ病になる。何度も緊急病院子供を連れて行く(または全然連れて行かない)。子供がいつも傷をつくっている。小学生留守番をさせる(これはアジア人親が問題視される最大のポイント)。スーパーショッピングセンターなどで何度も子供迷子になる。

上記はすべて“彼ら(=ソーシャルワーカー)”に“弱み”と見なされる事項だ。

この国でチャイルドプロテクション児童保護)のコースを受けると、上記はすべて“ヤバい兆候”としてリスト化されてあり、親が子供虐待しているという事実や証拠がなくとも、上記の事項が複数該当するというだけで地方自治体精神虐待などの理屈をつけて親から子供を取り上げることができる。

(中略)

子供サポートするということは、その親をサポートするということです」

という彼女の口癖をふと思い出す。

http://blog.livedoor.jp/mikako0607jp/archives/51507321.html

子供サポートするということは、その親をサポートするということです」。

ウチの国でこれやるのって、「どの程度」サポートすんのっていう程度問題もあるに決まってるけど、その前に何かこう、「何で子供へのサポートが親のサポートになるんだよ血税使うんだぞふざけんなクズ親はぶっころがして可哀想な子どもだけを救ってやればいい」的な論理がさも自明の前提的にまかり通りそうでそれが恐怖。

「親への支援」っていうのが、「そもそも支援なしでやってける親がいる以上、支援の必要な親はダメ親であって助けるに値しないわけだから支援なんてまどろいことやっとらんとさっさと子ども引き離せ」とかになりそうでおそろしい。

「そんなことねーよ!」って反論はないわけじゃないっつーか探せばいくらでもあんだろうけど、それが全部「物語」でしかなくてなんかすごく説得力に欠けて非力でおそろしい。

支援によって助かった実在家庭のケースを持ってきても、それ結局は単なる感動話だっつーことになって却下されちゃうんじゃないの? っていう。

だって全ての家庭はみんな全部違う家庭なんだから家庭Aで通用した方法が家庭BやCやDや以下略に対して常に有効だなんて保証はないし、その点で成功ケースもある程度「物語」になってしまうし、だったら支援しても悲劇ゼロにならない防げないってことになって無駄じゃんみたいな極論が絶対つぶせないし殺せない。

もちろんそんな絶望妄想だし意味がない。物語と違って現実は要素を抜いてデータとして蓄積してノウハウ構築につなぐことができる。やろうと思えば必ず有効な支援策はつくりだせるしくだらねー極論はバカのつぶやきに押しとどめて無視できるレベルになる。

でも都市部の待機児童数とか見るに子供へのサポートってマジに必要な部分がとっくに破綻してる感がするんだけど、このくそビンボーな国で人手も施設も割かねー割けねーで何がやれるっつーの?

放置子」で検索して出てくるトラブルとか、どこまでネタかわかんねーけどああいう憎まれぶりの立ち位置人間を誰がどうやって助けてやんのかばってやれんの?

結局政治行政の「落とし所」は引用したブログのような「オイそりゃ人権無視なんちゃうんか」と別ベクトルヤバイ方向に落ち着くっつうか落ち着ければOKくらいまでしか行けそうになくて怖い。

エホバの輸血の件とかさあ、構造としては一緒なわけでしょ? 親から子供取り上げて、「子供のため」の方向に乗せる。「よく考えろよそれでいいの?」と「現実問題それしかなくね?」とがせめぎ合ってもう何もかもイヤになる。

行政が義務で仕事でやりますかいレベルじゃなくて、もっと親密なつながりだかきずなだかという鳥肌の出そうなモンにしかできないようなことだけが必要とされているようで、対人恐怖気味の自分はそれだけでもう何つうか泣いて逃げたい。

逃げるもくそもお前そもそも関係者ですらないじゃないか恋人どころか友達もいたためしのない対人恐怖の社畜ぼっち野郎がと突っ込まれるだろうけどうるせーばーか金が天下の回りもの社会なる身体をめぐる血液ならその同じ血を啜ってる以上無関係無関心無責任ヅラできることなんかこれっぽっちもありゃしねーんだよたとえ実際関与できる部分がノミほどにちっぽけであったとしてもな!

ああしにたい。

2012-02-09

こないだの休みショッピングセンター

いったのですが、

広場のところで、コーヒードーナツを食べていると、

今日は周りに人がいないので、大丈夫かな思っていたのですが、

また、フェロモン香水をつかっている、中学生高校生ぐらいの人たちがいて、

ドーナツコーヒーがまずくなりました。

私のドーナツコーヒーを返してもらいたいです。

それにしても、税関は何を分類しているのか、

フェロモン香水なんかが、軽々と通過しているというのが、

なにか憤りを感じます

一度、雑貨とかで、通過して、過去に通ってるんですよー!!とかいって、

関税もかけられないで素通りしているんだろうなーとか

思います

昔はアヘンなんかがはやりましたがそんな感じで、

国が弱らされているのかもしれません。

アーヘンな感じ。

2011-11-20

斜陽

地下へ続く階段を下りると、そこには明るくてにぎやかなテナントが入った地下ショッピングセンターがあるはずだった。

階段と地下街を区切る鉄の扉を開けると、節電のために極度に減光された照明がかろうじて灯っていた。

足音反響した。足音は雑踏でかき消させるくらいの賑わいだったのにここには、私ひとりしかいなかった。

広告用のポスターを飾るであろう装飾が付いた枠には、A4のコピー用紙が貼られていた。用紙には、マジックで雑に手書きされた「禁煙」の文字がおどっていた。

本来は、広告の一等地だっただろうに、今は朽ち果てることないステンレス製の装飾が繁栄をの象徴ではなく、衰退の象徴となっていた。

地下街でかろうじて残っている書店へ足を向けた。

ギリシャ式の建築様式を模した石の装飾が豪華な噴水のある池がコンパネで埋められていた。その上に貼られた1mあたり300円で切り売りされている人工芝がいっそう気持ちを泣かせた。

若いカップルが待ち合わせしたり、子供が泣き喚いていたりして、ここも賑やかな場所だったんのだろう。

今では、地味な本屋に向かう私の足音しかしなかった。

かつて店舗だったスペースには、板で簡単な養生がされていて、中をうかがうことはできないようになっていた。

その養生を隠すために貼られた紅白の幕が寂しさに輪をかけていた。

私が過去の賑わいを知らないほかの街からやってきた旅行者ならば、廃墟感に萌えるという感情がわきあがるかもしれない。

しかし、ここがこの街で一番賑やかでおしゃれで最先端をいくスポットだったことを知る身としては、この衰退感は見るに耐えないのであった。

                                                           つづかない

2011-11-12

24にしてヴァイオリンを初めて弾いてきた

せっかくの晴れた休日彼女デート・・・はいかず、適当散歩することにした。

で、某ショッピングセンターにある某楽器店で体験会を開催していたので、お子様に混じりながら恥を掻き捨て参加したわけだ。

もともと楽器経験あるのだが、弦楽器は弾いたことがない。

吹奏経験のある楽器も数年ぶりに吹いてみた。よく響く場所だったが、鈍りは明らかだった。

言い訳になるが、楽器それ自体にも奏者との相性があり、もっと詳しく見ればマウスピースリガチャーリードの組み合わせなどが重要であり、体験会に出すのだから、あまりいいものではなかったのかもしれない。弘法は筆を選ばずというが、それはどんな筆でも平均以上の実力を出せるというほどのニュアンスだ。

と書いてみたものの、今回はリードの厚み自体に難があった(普段は3-1/2を使っていたのだが、今日は2-1/2でも厳しかった)ので、こういう釈明に意味はない。お姉さんは経験者と承知の上でもなお「良く鳴りますね~」とおっしゃったが、営業トークのたぐいだろう。また、屋外で冷えていたため、楽器ピッチが低くてあまり吹く気にならなかったというのも、正直な感想だ。冬場は管楽器奏者にとっても厳しい。

とまあ、はっきりと衰えを突きつけられた自分に嫌気が差しせっかくだからヴァイオリンを弾いてみようと思った次第。

構え方を教えてもらい、いざ弓を弾いてみると、初心者特有、あるいは冗談音楽前衛音楽に見られるような、また、黒板をひっかくような音がした。前者は計算してやっているのだから比較するのはおかしいかもしれないが。

なんでも、弦に平行に、力を込めずにやるのがいいようだ(ヴァイオリン指導者は休暇をとっていたようで、対応した人も具体的なアドバイスまでは至ってなかった)というので、そのとおりに2,3度試行錯誤するとちょっといい音がした。弦が、伸びたゴムひもを指で弾いたように震え、倍音が聞こえた。お姉さんの言葉を額面通り受け取れば、上達が早いらしい。

気分が良くなったのでしばらく適当に弾いてみた。運指は聞いてみたがわからないらしいので(いいのかそれで^^;)、勘を頼りに鳴らした。やはり運弓法がわからないと難しい。弾いていた間では、どうすればクラシック音楽のような早いパッセージが弾けるのか理解できなかった。

それと、構えてみれば自ずと分かるのだが、耳元で音が鳴るというのはやはり新鮮な体験だった。あれを幼児からやるというのは、なるほど耳が鋭くなるのも頷ける。

気づいたら30分ぐらい時間を忘れて弾いていたので、さすがにまずいと思い後にすることにした。おっさんが場を独占していたら子供たちが寄り付かないだろうから、とっとと退場することにした。

そいで、アンケート書いて、名刺もらって、帰ってきたのが今だ。

ひとつ、謝りたい。

お姉さん、私は仕事をしていると言いましたが、フリーターです。嘘は吐いてませんが、私のゴミのようなプライドのために、多少大袈裟表現を用いたこと、お許しください。

2011-09-28

http://anond.hatelabo.jp/20110926221502

うひゃー。超地元

ヒルズウォークでしょ。今年開業した地下鉄桜通線の終点である徳重駅の上にあるショッピングセンター

おっちゃん、地下鉄開業しててよかったね。昔は野並からバスしか休日だとめちゃくちゃ混んでる道だったからねぇ。

そこの中学はあの5000万円恐喝事件が起きた扇台中学なんすよ。その前から名古屋でも有数の荒れている中学として有名だったんで、優秀な子はさっさと私立中学を受験させる流れあったからね。残るのはそういう子達なのかもしれんね。

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