はてなキーワード: ショッピングセンターとは
Ashley Madisonっていう出会い系サイトがあるんだけど、これで浮気相手見つけて今日初めて会ってSEXしてきた。
ポイントの料金が高いので利用に二の足を踏んでたんだけど(登録は無料)正月セールで割引があったので購入。50ポイントで3900円だった。
初回のメッセージのやりとりに5ポイントかかるが、その後のメッセージのやりとりではポイントを消費しないので出会い系サイトとしては良心的だと感じた。
まず近所のエリアで年齢を指定して検索し、気になるプロフィールがあれば「お気に入り」に登録していった。お気に入りに登録すると相手方にその旨メッセージが届くし、リストでその人のログイン状態が確認できる。
次に「ウィンク」を送る。ウィンクは無料で送れて5つの定型文の中からメッセージが選択できる。自分は相手にプロフィールを見てもらいその気があればウィンクを返してもらう、という定型文を選択し4〜5人にウィンクを送った。
すると一人からウィンクの返信が届いたので、こちらからメッセージを送った。内容は「いちどお会いできませんか」というもので、何回かやりとりして実際に会うことになった。
駅前のショッピングセンターの前で待ち合わせ声をかけ(事前にメッセージで服装の特徴を送ってもらった)とりあえず近くの喫茶店でお茶して雑談。おもむろにホテルに行くかどうかという話を切り出すとOKだったので検索しておいたホテルへ。
一緒にシャワーを浴びたのち、SEX。顔は平凡だったが小柄で形の良いおっぱいで感じやすい子だったので燃えた。なによりお互いに彼氏・彼女がいるのに隠れて会ってるという状況が興奮した。
相手が彼氏に見つかるとやばいというのでホテルからは別々に帰ることにして別れた。
Ashley Madison - http://www.ashleyrnadison.com/
商店街の自営業の店で育った僕は、やくざはそんなに遠い存在ではなかった。
幼少期のぼくにとってのやくざは、父親の友人で、お小遣いをくれるサングラスのおじさんだった。
年に最低2回は決まった時期にやって来たことを覚えている。
よくついていった。お小遣いを貰えるので欠かせない財源だったが、酒臭くて長くはいなかった。
お気に入りの椅子が奪われるのを知っていたが、迎い入れるとお小遣いをもらえたので
それまでは遊びに行くのを我慢した。
僕が呼ばれることは無かったが、写真を見たことがある。
今思えばあんな店町内にあったのか?と不思議だ。
お誘いのために、家にヤクザがやってきたのをよく覚えている。
父親が普段とは違った態度で友人と接してたことや
小遣いを貰えるまで遊びにいけないのは僕の自由意思じゃなかったことを知った。
知識を得たから、そう思っただけかもしれない。
近所の蕎麦屋のオヤジ、自治会の会長、父、そしてヤクザが、一緒に酒を飲むことはあった。
最後に会ったのは高校時代だと思う。最近は厳しくなってねえ。と、挨拶に返された。
卒業後に東京に行くことを話すと、賢いから大丈夫だ。親父さん似だ。と、応援されたが
その頃、父が嫌いだったから、似てるというそれはとても不快だった。
後になって知ったが、その頃、90年代の前半は、暴力団対策法というものが施行されていた。
警察どころか一般の店が大手を振り、暴力団反対と言いだしたのだ。だから厳しかったのかもしれない。
警察と言えば、僕が知っているヤクザと警察の関係は、なあなあだった。
家にお巡りさんが訪れると、○○ちゃん元気?悪いことしてたらいってよー?ぐらい陽気だった。
派出所のポスターが胡散臭く感じるのは、当時からでかでかと暴力団追放ポスターがあったからだと思う。
その関係も、あの頃を境に変わったのかもしれない。派出所のお巡りさんが○○ちゃんの安否を訪ねることも無くなった。
僕が東京から返ってくると、商店街はシャッター商店街に生まれ変わっていた。
父も店を閉じた。父の理由は、年齢と売上というありきたりな理由だ。
ありきたりな理由だから、それがバブル崩壊の不況なのか、駅前整備のショッピングセンターなのか、
他に理由があるのかも分からない。
結びつけるのもおかしいが、もしかしてヤクザもと思うことがある。でも、まあありえない。
あの頃は、色々重なりすぎてて、なぜそうなったかなんて分からない。
年末に入れ墨の件で、誘いに来たヤクザのことをふと思い出した。
僕にとって、入れ墨銭湯禁止は、排除ではなく、他の人への注意に見えていた。
そこにはヤクザがいるんですよ。という印。
もう20年も立ったんだなと思う。
僕の知っているヤクザはもういない。
首都圏でも、相模原だの小平だの越谷だの習志野だの、郊外部であれば、
クルマあったら使うケースも多いだろうなあ、という想像は付く。
そういうエリアは、ロードサイドショップも充実し、郊外型ショッピングセンター、
「土日に必ずゴルフに行く」「冬は毎週スキーに行く」という明確な趣味を持ってない限り、
時々郊外の「子供の遊び場」的なところに行っていたが、最近では上の子が塾に行き始めて、
せいぜい1年に数回程度なので、これならカーシェアで充分。
自分の家族の場合、あとは「大雨の日の塾の送り迎え」程度かなあ。
郊外だとロードサイドショップやイオンに行くためにクルマは必須なんだろうが、
23区内だとロードサイドショップより、JR駅前の商店街とかの方が充実してるし、
そういうところは、クルマだと逆に不便だ。
意味のないことに気が付かないことに対していらだつわけでして、困ったものです。
ということで、対策を考えてみました。
・赤ちゃん乗ってないけど、「赤ちゃんが乗っています」ステッカー
・「slow moving vehicle」って書いたステッカーを貼る(ステッカーには、日本では何の根拠も効果もない。)
・「極真」という毛筆体のステッカー(特定の団体とは関係ありません)
・空力的な意味はないけど、リアウイングを付けて車高を落とす(多分うちらの仲間と認識されたらあおられません)
・一時停止はしっかり停まる
・信号は守る
・混んでるショッピングセンターとか駅とか繁華街にはいかない
・帰省ラッシュと逆の行動を取る
視野から見えている範囲でしか考えていないから、仕方がないと思います。
こーゆー面倒で理不尽なやつらに出会いたくないから、田舎から出るのであり、都会では学歴や階層で壁を作りたくなるのだろうなと最近の流行の話題に引っ掛けてみる。
実家に帰るといたたまれない気持ちになる
実家は最寄りの新幹線駅から電車で1時間、そこから車で30分のところにある。
家の近くにはロードサイド店が乱立してて、yumetownっていうショッピングセンターができてた。
父は数年前に公務員を定年退職して今は供託で働いているが、もう少しで辞める予定らしい。母は教師。
祖父はまだしっかりしているが、祖母は痴呆が入ってきている。
妹は国立に落ちて一浪した末に同じ町にあるFラン大学を卒業した。今は契約社員で働いていて今年契約が切れる。
偏屈で下品な祖父母は何をしても自分たちが正しいと譲らない、非があっても決して謝らない。
父親は怒りっぽく、そんな祖父母を怒鳴りつけは田舎者の年寄りダメだというが、父親も十分偏屈で祖父母と何ら変わらない。
母親は父親や家族に愛想を尽かしていて、家族を世話しているような感じだ。職もあるし、離婚すればいいんじゃないかと思うんだけど、ただ文句を言いながら生活するだけだ。
妹は馬鹿だ。残念な感じの服装・化粧で、毎日ショッピングセンターに行ってる。バラエティーしか見ないし、ファッション雑誌しか読まない。自分の将来について何も考えてない。一人暮らししたい、が口癖だが家賃なし飯付きの実家から出て行く気もないだろう。
父にあいつどうすんだよって聞いたら、とにかく早く嫁にってくれれれば・・、って感じだ。多分40過ぎても独身で、「まわりにいい男がいない」って本気で言ってるだろう。家族の会話はほとんど無い、たまにあっても別の家のうわさ話だ。
俺は地方国立を卒業して旧帝大に進み、そこで博士号を取った後、都内の企業で働いている。
金銭的に十二分な援助をしてくれた両親には感謝しているけど、尊敬はしていない。
わたしがあの人にはじめて会ったのは13歳の秋だった。
中学の入学祝いに父親からパソコンを送られた私はすぐにインターネットの世界にのめり込んでいった。
友達と放課後にマックに行ったり、クラスの男の子を好きになってすったもんだしてる都会在住の女の子の都会っぽい生活に憧れたり、、
ちょっと不良ちっくな男の子達のリアルな体験談にわくわくした。
わたしは地味で目立たないタイプの中学生で、自分に自信が持てなくてうまく人とコミュニケーションが取れなかったので、今ではよくわからないようなものにまで憧れたりしていた。
というか、クラスに友達がいるっていうだけで、クラスメイトと普通に話せる人だっていうだけで、私にとっては憧れの的だった。
そんな普通に楽しい中学生活を送っている人たちとお話できるのがほんとに楽しかった。
あの人は常連のひとりでいつもロムってるんだけど、
そのくせふとあらわれてなんとなく心に残ることをぐさっと言ってはまたいなくなる、みたいなかんじだった。
毎日入り浸っていたわたしはあの人と自然にあいさつとかするようになった。
あの人はほかの誰とも違う不思議な独特な空気感をまとっていて、
(あとで聞いたらちゃんとキャラ設定があったらしい)
あの人と文字で交わす会話を心地よく感じた。
あの人はいつも真夜中、みんなが落ちていったあとのひと気のないチャットルームに現れた。
いつの間にかあの人と話すことが一日の楽しみになっていた。
あなたはどんな人なんだろう、
どんな生活をしてるんだろう
人望厚く、生徒会長をやってるらしい。
(同じ学校だったら関わることもないだろうなー)
すきなマンガはるろけん。
てゆーかけっこうオタク。
って思っていた。
それは深夜で、チャットルームにはよく顔(?)を合わす女の子二人とあなたとわたしの四人だけで、その話は10代の私にとってはとても重いお話で、
というかまだ恋のなんたるかを知らない私にとっては目の回るような話で、
(確か、好きな女の子がいて両思いだったんだけれど、その女の子につらい思いをさせたまま別れてしまった、みたいな話だったと思う。)
その長いお話が終わる頃にはわたしたちはとてもしんみりしていた。
でもそういう特別なことを共有したことをきっかけに私たち四人はメールアドレスを交換することになった。
私は心の中でその成り行きにガッツポーズを決めていた。
だってずっとアドレスを聞きたかったけど、乙女で内気なわたしにはどうしても言い出せなかったからだ。
そうしてあの人のアドレスをゲットしたわたしは、
使い方が謎すぎて放置していたメーラーの説明書を100万回読んでメールのやり方を会得し、
(メールの画面が夢にまで出てきた)
やっとあの人とのメールのやり取りを開始した。
あの頃の私にとってあの人は遠い(友達いっぱい!楽しい学校生活!リアルではお近づきになれるはずもない人!みたいな笑)夢の世界に住む憧れの人で、
他愛のないお話ばかりをしたと思う。
みたいな見栄もはったきがする。
でもそういうメールのやり取りを繰り返すうちに、
少しずつ少しずつ見えてくるような気がした。
夢の世界に住んでるように思えたあの人にもたくさん悩みや考え事があることを知った。
あの人がどんどん近くなって来るような気がした。
ある日わたしは決心した。
あの人が生活する街を見てみたくなった。
本当は会いたかったけど、言えなかった。
あの人が歩いているだろう道を歩いて、
あの人が買い物をするだろうショッピングセンターに行って映画を観た。
源氏物語みたいなやつ。
今思えば、あの頃のわたしにとってあの人が唯一の友達だったんだと思う。
ではないと思いたい。
そのうちどうしても気持ちを抑えられなくなってわたしはあの人に告白した。
それが本当の好きなのかどうなのかわからなかった。
文字以外のあの人のことを何も知らない、
会ったことも見たこともない。
でも気持ちだけは本当だった。
そしてあの人にはあっさりふられた。
高校生活は最悪だった。
高校生になったわたしはけっこうないじめを受けるようになっていた。
成績もガタ落ちで留年寸前だった。
私は自分の部屋にひとりで閉じこもるようになった。
両親は仕事やまだ小さい兄妹たちの面倒に忙しくて
わたしの苦しさを理解できる余裕はなかったんだと思う。
誰かに理解されたかったんだろうけど、
それをうまく言葉にすることもできなかった。
絶対に来ないと思ってたからかなり驚いた。
どういう話の流れだったのかは思い出せないけど、
たぶん私が言いだしたようなきがする。
心臓が口からまじで飛び出しそうになりながら電話に出たのを覚えてる。
それまでは蒼紫様とゆこ殿、みたいなメルヘンなHNでやりとりしてたの笑
なんか本当に不思議な感じだった。
はじめて聞くあの人の声は上ずったかんじの甘い声でわたしは本当にどきどきした。
なにをあんなに話したんだろう?
たぶんとてもしょーもないことばかり話してたんだろうと思う。
気づくと朝日が昇って、朝になってた。
そしたらあの人は恥ずかしそうに言ったんだよ。
「俺の言いたいことわかる?わかって、テレパシーで。」
「・・・わかんないよ笑」
「・・・すき。」
どういう気持ちの流れがあの人にあってそうなったのかは今でもよくわからない。
たぶんあの人も覚えてないんじゃないかな?笑
でもわたしたちはこの電話をきっかけに付き合いはじめることになった。
携帯の請求がすごいことになってお母さんに何回も怒られた(笑)
会ったこともない人と付き合うなんて浅はかなことだと思うけど、
どうしてもあの人と毎晩長電話するのが辞められなかった。
あの女の子の化粧が濃くてキモイ、とか、モデルの女の子がいてなぜかその子が俺のこと好きっぽい、とか他愛のない話しを!(笑)
それは、仲のいい友達がいたんだけど、その子が亡くなってしまってとてもつらい、それはたぶん自分のせいなんだっていう話し。
それがあったから今は誰かと深く関わるのが怖いんだって話してくれた。
当時のわたしは自分のことを客観的に見る余裕なんか皆無だったからどうして自分がそんな気持ちになるのかわからなかったんだけど、その話を聞いてものすごく悲しくなった。
今考えるとわかるんだけど、わたしはあの人と深く関わることを望んでたからだと思う。
自分でも訳のわかんない私をあのひとなら理解してくれて助けてくれるような気がしてた。
でもお互いに問題をかかえたままお互いを理解しあえるわけもなく、私たちはすぐに別れてしまったんだ。
本当なら私があの人の傷を癒してあげられたらよかったんだと思うけど、当時のわたしには無理だった。
それを説明することともできなくて、
たぶん相当意味のわかんない理由で別れたと思う。
実はほかの人とのあいだに子供ができて、もうあなたとは一緒に居られません、みたいな出鱈目を言った気がする。
変だよね。(笑)支離滅裂だ。
よくわかんないけどそういう心理だったんじゃないかなーって思う。
やめる前後はピークに荒んでいたけど、
いざ辞めてしまえば私の心は徐々に落ち着きを取り戻していった。
15歳にして社会の外に放り出されてしまったことは恐怖だったけど、
それは逆にこれからのことを真剣に考える原動力だったような気がする。
それから3カ月。
今度こそ連絡が来ることは2度とないだろうと思っていたところに
冬、連絡をくれたのはあの人の方だった。
ちょうど寮制の定時制高校への受験を決めて一念発起を心に誓った頃だった。
厳しい環境に身を置くことで私は最低な自分から脱出できると思った。
家族とも、育った街とも、この街の人とも、全てに距離をおいて新しい自分を始めるつもりだった。
付き合っていた頃みたいにまた明け方まで電話することも何回かあった。
でもそういう自分の状況をあの人にうまくせる自信がなくて黙っていた。
相変わらずどうでもいいような話しを何時間もしていた。
というか今気づいたけど、わたしどれだけ素直じゃないんだw
わたしは本当はあの人ともう一度お付き合いがしたかった。
あの人が今でも私を好きでいてくれればなって思った。
朝6時に起きて掃除、点呼、先輩の洗濯や食器洗いをすませてから仕事に行って、夕方から学校。
はげしいルーティン。
ここに来たことを後悔してないと言ったら嘘になるけれど、
もちろん携帯電話は禁止。
というわけであの人への連絡手段を失ったわけだけど、
どうしてもくじけそうな時は負けじと寮の公衆電話から10円片手にあの人に電話した。
この公衆電話がまたすっごいの!
長蛇の列に並んでやっとたどり着けるの!
でも時間が決まっていてやっと順番が来たと思ったら1分とかしか話せないこともあるの!!(笑)
そんなわけで満足にあの人ともお話できないし、忙しくて3ヶ月に1回とかしか電話できない時もあったんだけど、
あの人の声を聞くと本当に元気が出たもんでした(笑)
あの人は相も変わらずずっと私の支えだった。
それでも。
地元に帰った時は便利な便利な(笑)家電で思う存分長話をした。
そうだ、手紙も何通か交換したんだ。
今でも大事にとってある。
あの人は字が下手だからってとても恥ずかしがったけど。
(確かにあの人は字がへただった(笑)
あの人と実際に会おうかって話になった。
あの人は大学生になっていて、
せっかくだからついでに会おうよってことになった。
その少し前にわたしたちは小さな喧嘩みたいなことになっていた。
あの人が私のことを何も考えていないただふらふら生きてる奴、
みたいなことを冗談で言ってきて、わたしがそれに反論のメールを送ったんだ。
わたしはわたしなりに色々考えていて、考えた答えには従って生きてる、みたいなメール。
でもあの人が私についてそう思うのは仕方ないことだった。
だって私はあの人に自分についてなんにも話したことがなかったんだから。
と、いうより私は誰にも自分について話したことなんかなかった。
いつも自分が何を考えているのかわかんなかったし、
誰かが自分を理解しようとしてくれるなんて考えたこともなかった。
だから私の気持ちはずっと迷宮をさまよってるみたいな感じだった。
ずっと悩んできた自分の心の暗い淵みたいなものに対する葛藤にも、
なんにも向き合えてなかった。
実際に待ち合わせの場所に着いても私はあの人と会うことをまだ悩んでいた。
会うのが怖かった。
実際に会って本当の自分を見せるのがとっても。
あの時、わたしはもう本当に緊張していた。
心臓爆発だった。
わたしの人生で一番綺麗なあの初夏の日を
わたしは一生忘れないと思う。
あの人は細くて折れそうな体で
外人みたいに彫の深い顔立ちをしてた。
あの人は私に一言、
「でかっ!」
って言ったんだ笑
不思議な感じだった。
はじめて見たあの人は知らない人だったけど、
声はずっと馴染んできてわたしを支てくれたあの声だった。
人見知りな私はあの人をやっぱり人見知ってたけど、
それなのにあの人はずっと昔から一番よく知っている人だった。
綺麗な新緑のさわやかな感じも、
あの人の横顔も
今もあの日のように思い出せるよ。
よく歩いて、よくしゃべった。
わたしは寮生活の話を。
帰りはわたしの近くの駅まであの人が送ってくれた。
手をふりながら猛烈な離れ難さがおそってきたけど、
寮に帰ってからもなんだか夢の中にいるような気分だった。
「楽しかった。また会いたい」って。
私もおなじ気持ちだった。
数日後の5月22日に私たちは付き合いはじめた。
いま考えれば不思議なことはなんにもない。
必然だったと思う。
もう人と深く関わるのが怖いって。
ずっと一人で生きてきたし、これからもそれは変わらないと思うってあの人は言った。
私になにかできることはないのか?って思った。
少しでもあの人の心が軽くなるようになればいいと思った。
あの人が誰にも心を開けなくなってしまったことを、
怖くないって言いたかった。
あの人が本当にわたしを理解しようとしてくれていることが分かって言葉が不思議とすらすら出てきた。
そういうことをちゃんと言葉にするのは生まれて初めてだった。
混沌としていた頭の中が言葉によって整理されていくのがわかった。
私たちはできる限りの言葉をつくして自分たちについて話し合った。
それは数年前の私たちにはできなかったことだ。
今までどうしても踏み込むことができなかった、
でもとても知りたかった、
知って欲しかったことだった。
話しても話しても話したりなかった。
やっとわかりあえた喜びを私は一生忘れない。
ずっとそうしたかったんだと思う。
一生懸命耳を傾けてくれたあの人には感謝してもし尽くせないよ。
あの人が私に言葉をくれたんだ。
本当はわたしは不安だった。
戸惑ってたんだ。
でも私たちはまだ一回しか会ったことがないのにこの気持ちは本物なのか?って。
そのあとに丁寧にロイヤルミルクティーを入れてくれた。
帰る前の日にあの海で撮った写真は今でも宝物だ。
あの日、ホームであの人の手を握りながら本当に離れたくない、
離れたくないってこういう気持ちのことだったのかって思った。
あの人はあなたになら心をひらけるって言ってくれた。
わたしも同じだった。
メールや電話でやりとりをしていた頃はまったく気づかなかったんだけど、
いつもわがままばかり失敗ばかりまぬけばかりの私にきちんと向き合ってくれて、
私に悩み事があれば一緒になって考えてくれた。
私にさえわかんなかったわたしを教えてくれた。
ちゃんとはなしてごらん、ってあの人だけが私に言ってくれたんだ。
お父さんみたいだった。
肉親以上の愛情を注いでくれた。
あの人と一緒にいた数年間は信じられないくらい幸せだった。
思い出が綺麗な綺麗なおとぎ話しみたいだよ。
わたしたちはなにもかもがぴったりだったように思う。
わたしが持っていないものをあの人はちゃんと持っていてあの人が持っていないものをわたしが持っていて嘘みたいだった。
なにもかもが上手く噛み合っていて、あんな風に出会えたことも、こうして一緒にいることも、全部が起こり得ないような奇跡だとおもった。
それはあの人が優しくそう感じさせてくれていただけだったのかもしれないと今になったら思うんだけど、それでも。
真夜中の長電話、一緒に観た何本もの映画、あの人の小さなアパートの部屋、まっすぐに続く海岸沿いの道、
会いたくて我慢できずに何回も最終電車に飛び乗ったこと、旅行に行ったのは神戸と栃木、クリスマスに買いすぎたモスチキン、
大学のピアノがある小さい部屋、高速バスに乗って一緒に出かけたこと、
別れる時に悲しかったぶん会えた時はほんとに嬉しかったこと、あの海辺の夕日、あの人を残してホームから走り出す電車、あの人のかなしそうな顔。
ねえ、わたしはおかしいのかな?
思い出を美化しているだけなのかな?
もしそうだとしても懐かしくて叫び出しそうになるよ。
だからはじめて会ったあの日からずっと離れるのが本当に嫌だったんだ
あの人がいればなんだってできるような気がした
あの人に話してないことがひとつだけある。
わたしはそれでも迷っていたんだ
私は若くて無知だった
本物がどれなのか判別がつかない程に。
奇跡だと思ってた
完璧だと思ってた
わたしは自分があの人を段々大切にできなくなっていってるのを知ってた
いつか自分の未熟さが原因で壊れて終わってしまうだろうと思った
むしろそうなるべきとも思った
そうしたらあの人の本当の大切さがわかるから
早くあの人を大切にできる自分になりたい
いつの間にかあの人にめぐり合うことができた奇跡を当たり前に思い、
あの人がわたしにかけてくれる愛情を当たり前に思い、
あの人に求めてばかりでいつも苛立っているのが苦しかった
わたしはわたしたちの幸せをめちゃくちゃにした
あの人を失ったわたしは
かたずっぽになって
うまく立つことができなくなった
うまく声も出せなった
うまく笑えなくなった
うまく人と話せなくなった
怖くてわたしを押しつぶしてくるの
何時の間にかわたしはあなたに
荷物を預けて楽してたみたいだ
全部がのしかかってきて
息ができなくなった
笑顔は今でも引きつってる気がしてる
それでも
わたしは受け入れていった
考えることをはじめた
どうしてこうなってしまったのか、
ここはどこなのか、
これからどう生きていくべきなのか 、
あの人のことを何度も思った
ずっと考えていて
分かったことはふたつだった。
ひとつめは、
今自分が感謝できることを必死で探してありがとうって思えるように絶対にならなきゃ同じことを繰り返してしまうってこと
どんな幸せを持っていたってそれをわかってなくちゃそれは不幸と一緒だ
ふたつめは、
本当に愛し合える人を見つけられずに死んでしまう人も多いこの世界で、わたしはあなたと出会えたこと、そしてあんな時間を持てたことがすでに奇跡だってこと。
出会えたことがすべてってこと。
俺の経歴。
大阪のど真ん中で生まれ育ち、ロンドンに住み、福岡に住み、今かなりの田舎へきている。
大阪では、車はなくてよかった。
通学や通勤に車を使うとわずらわしいだけで、電車のほうが圧倒的に便利だった。
しかし、大阪のど真ん中過ぎたため、デパートはあるものの、スーパーがない。
デパートには歩いて行けるけど、スーパーには電車に乗らなきゃいけなかった。
普通の家族が生活していくには、やっぱスーパーでの買いだめは必要。
というわけで、母はダイエーまで車で買い物にいっていた。
電車じゃ無理か、と言われりゃ無理じゃないけど、電車より車での買い物のほうが便利だったのは間違いない。
チャリで気軽にいける距離にスーパーがあれば、チャリでよかったろうけど。
バスは、こんなに必要なのか悩むくらいあふれていて、バスだけで渋滞ができていた。
深夜も、ナイトバスが24時間走っていて、バスの路線図の見方、乗り方さえ覚えれば何も不満はなかった。
スーパーは歩いて行ける距離だったし、ソーホーにもチャリでいけていた。
でもバス使えば超便利だった。
福岡になると、そもそも電車やバスで充分、という前提がまず覆った。
大阪やロンドンなら、駅と駅の間がそもそも徒歩10分から15分なわけで、てことはどこに住んでいたって駅から10分以内なわけ。
しかし福岡は、最寄りの駅まで20分以上、というエリアは結構普通にある。
都会の路線沿いがもちろん人口は多いのだけど、そこから5キロ離れたエリアだって、変わらず人はたくさん住んでいる。
ここの人らは、まあ、車持ってるよね。
電車で補えない部分を、西鉄バスが頑張ってくれていたけど、それでも1時間に2本とかで精一杯。
中心部の電車があるエリアに住んでいる人ならもちろん車はいらないけど、ノーストレスで生きるなら、やっぱり車があったほうがベターと言わざるを得ない地域だった。
で、今の田舎。
これまで田舎の車いるかいらないか論争は、買い物するにも車ないと困る!がおおかったけども。
俺のいま住んでいるエリアは、車がないとまともに通勤できない。
というか、この町から出入りするための電車であって、この町での生活に使うものではない。
で、田舎だけど、その市の中心部にすんでいるからかろうじてバスはたくさんある。
始発が7時15分発。
次が8時20分発なのでこれはもう間に合わない。
帰りが、17時代はなし。
18時は02分の1本
これを逃すと帰れない。
つまり始発と終バスで通勤して、7時15分発19時13分帰りのほぼ1択しかなくて、会議が長引けばもう帰れない。
これじゃあ、ちょっとイレギュラーが起きたらもう対応できない。
車なくてもスーパーには行けるけど、町で唯一のカフェにいくには、1時間に1本のバスに乗ってショッピングセンターに行かなきゃいけない。
ショッピングセンターは10時までやってるけど、終バスは20時過ぎ。
いや、まあ、イレギュラーな事態が起きず、つつましく時刻表を常に持ちながら生活をすれば、確かに車なくても生活はできる。
しかし、毎日同じ時間のバスで行き帰りして、毎日同じ人が乗っているこの通勤スタイルは正直しんどかった。
車を買った今は通勤も快適。
行きたいところもすぐ行ける。
お嫁さんも喜ぶ。
圧倒的に快適になったのは事実。
ま、そんなかんじ。
去年まで働いたけど、他方で色々言われてる通りブラック企業でした。2012年時点の離職率は新卒で14%強という驚異の数字。底辺だししゃーない。
入って良かったと言えるのは、日常生活に活かせる商品知識を身につけられる所と小売業の基本的な業務を全て経験できる所かな。コンビニバイトでも出来るけど。
実働8時間と説明会、面接で言っておいて残業は「本部の意向でノー残業制を敷いてる」と言っていたから企業コンプライアンスを順守してるんだと思ってたら
「本部ではノー残業、店舗ではサビ残」の意味だったのね。こりゃ一本取られたわ。労基行ったら詰められたし、すごい会社よ、ここ。
有給消化状況については就活情報サイトの情報通り殆ど消化されてない。というより消化させないように上から命令が飛んでくる。死ね(笑)。
昇給賞与は上が詰まってるから出来ないのにさも昇格がされてるという。上層部に告げ口して出世するシステムだから店舗の社員の空気は最悪だ。
配属先の店長が昼間から寝てる。そのせいか連日忙しいしサビ残の嵐で従業員の目が死んでる。真面目な人間が馬鹿を見るっていうけど、ホントだね。
徹底的な成果主義なのに人事考課では何故か過程重視で上役への接待が必須条件になってる。客へのフォローより一部門の作業を重視するこの会社すげえ。
加えて上司になるのが無能がやってるし同族経営だから丼勘定でしか人事をしないからESが全くないのがここの特徴だと思う。
よく言えば昭和的、悪く言えば強烈なワンマン企業。典型的なブラック企業。ドM社員、随時募集中。残業代は100%出ません(笑)。
確かにやってられんわな。チーフになっても2000円、主任になっても5000円しか手当てがないんじゃモチベーションが上がるわけないし。
まあ、バイトの評判はまあまあいいのが救いかな。けど、商品が足りないからってバイトに自腹切らせて余所に買いに行かせるのはどうかと。
コーナンはホームセンター業界№1だけど、ブラックでも№1になれるかもしれない。
コーナンでは店長の気分次第で昇格が決まる。去年一昨年ぐらいから?人件費削減が加速して人手が圧倒的に足りない。
そのくせ、毎年のように店舗拡大する。売上げ=店舗拡大という発想。経営状態が心配になるほど。喩えるならバーガーバーガーのゴールの条件って店舗数が売上げに関わらず一定ラインを超える事なんだけど、コーナンは正にこのタイプ。ゴールなんて存在しないけど。
売るものと言えば最近猛烈に自社内でプッシュしてるライフレックス等自社製品ばかり。中国東南アジアにラインがあるけど、非常に安価で粗悪だから苦情が絶えないのに何故かこれがコーナン全体の売上の約3割に相当するんだもの。そりゃ自社開発が進むわ。一方メーカーの良質な製品は自社の粗悪品の影響で続々撤退中。将来は自社製品だけで運営したいみたいだけど、無謀でしょ。
最後に、大卒以上でコーナンへ行きたいという人は考え直せ。ここは中卒でも十分できる。殆ど力仕事と体力勝負のガテン系。
コーナンに限らずホームセンター、ショッピングセンターはお客様第一だけど従業員なんか消耗品程度にしか思われてない。昇格もないし将来性も外資が入ってきたら勝ち目なくて暗黒ですけど、上がちゃらんぽらんだからまあのらりくらり縮小傾向ではあるけど、それなりに続くんじゃないですかね。
地元に帰った。新幹線が通り、とんでもなく高い高層マンションが建っていた。商店街はシャッター通りに、百貨店は更地に。でもラーメンの味は変わらない。
地方はこれからどう生き残っていくのだろうか。生き残っていくの定義はどうしよう?自治体が破産しないこと?人口の維持?分からん
少子高齢化、超高齢社会、人口減少、都市への機能一極集中、交通機関の充実による時間距離の縮小、配送サービスの充実、介護サービスの充実、2.0就労モデルの一般化
とかなんか色々考えた方がいいんだろうけど詳しくないしなぁ
史跡なり、景観なり、芸術なりで地域を差別化。休日に多くの観光客が来るタイプの地域。彦根、天橋立、白川郷、瀬戸内の島々とかがこれ
仕事のある都市部から一定の距離内にあるベッドタウン。なんかこじゃれたカフェとか、愛されるお好み焼き屋とかある。商店街は寂れ気味、郊外のイオンとか大型ショッピングセンターが覇権(確定)。駅前だけが便利。
一次産業で生活。TPPでどうなることか。それなりに自然があるので休日に人が来ることも。成功している地域はむしろ観光面がうまいのだと思う。
廃墟化していく旧ニュータウンとか使って作ればいいんじゃないかな、介護都市。地域として集中して介護施設、リハビリ施設、ターミナルケア施設、病院、老人ホームを誘致。患者、入居者だけでなく介護職の労働者も生活。休日は見舞いに来る親族にお金を落としてもらおう。自治体収支は赤字確定か。
原子力発電所を誘致して補助金でバラ色の生活をしよう。しかし残念ながらver.311以降はこの路線での都市開発は厳しくなりました。
米軍基地を誘致して補助金でバラ色の生活をしよう。飲食業を筆頭に大きな経済効果を得られるぞ。たまに強姦事件が起きるから、風俗街を整備して発散の場所をしっかり作ろう。
生活保護を受けている人ってのは、家賃補助とか受けてるわけで、
家賃補助を受けて自由な所に住むわけです。
だったら、東京とか大阪の端に生活保護専用の寮みたいなものを作ればいいんじゃなかろうか?と。
「徒歩圏内に生活必需品が揃う郊外型ショッピングセンターと、
これだけ揃っていれば、大体の生活保護受給者にとって問題なく生活できるんじゃない?
というか、普通の大学生ってこれに+仕送りorバイトで小遣い入れてるんだし。
いろいろ制度を見れば見るほど「お金が無い人だから、お金で援助します」というシステムは破綻していると思う。
であれば、収入ベースで見て、収入が無くて困っている人に対し、最低限の住居を保証する制度で十分だと思うのだがどうなんだろうね?
生活保護を受けている人ってのは、家賃補助とか受けてるわけで、
家賃補助を受けて自由な所に住むわけです。
だったら、東京とか大阪の端に生活保護専用の寮みたいなものを作ればいいんじゃなかろうか?と。
「徒歩圏内に生活必需品が揃う郊外型ショッピングセンターと、
これだけ揃っていれば、大体の生活保護受給者にとって問題なく生活できるんじゃない?
というか、普通の大学生ってこれに+仕送りorバイトで小遣い入れてるんだし。
いろいろ制度を見れば見るほど「お金が無い人だから、お金で援助します」というシステムは破綻していると思う。
であれば、収入ベースで見て、収入が無くて困っている人に対し、最低限の住居を保証する制度で十分だと思うのだがどうなんだろうね?
児童虐待への介入についての落とし所、への落とし方についてを考えている。読めばわかるけど俺は混乱している。
死に至るレベルのがちらほらと新聞を飾る昨今、たぶん記事を読んで胸を痛めた人はだいたいが「これは何とかしなきゃだろう」という思いに駆られたものと思う。
で、その「何とか」の部分をどう詰めていくかみたいなことになるといろいろ研究者とかデータとか集めないとアレなんじゃないかと思われるわけだけれども、なんかそこらへんの雲行きがこの貧困妄想というか一億総ビンボー化恐怖症な国においてはやばい方に転がりそうでどうも、なんだか、嫌な感じがしてならない。
貧困。子供にみすぼらしい格好(寒い日の薄着、女子なのに男子用の服を着させているなど)をさせている。DV男と別れることができずに子供に暴力を目撃させる。同居中の男または自分自身がアルコールや薬物に依存している。あるいは依存症だった過去がある。自分がうつ病になる。何度も緊急病院に子供を連れて行く(または全然連れて行かない)。子供がいつも傷をつくっている。小学生に留守番をさせる(これはアジア人親が問題視される最大のポイント)。スーパーやショッピングセンターなどで何度も子供が迷子になる。
上記はすべて“彼ら(=ソーシャルワーカー)”に“弱み”と見なされる事項だ。
この国でチャイルド・プロテクション(児童保護)のコースを受けると、上記はすべて“ヤバい兆候”としてリスト化されてあり、親が子供を虐待しているという事実や証拠がなくとも、上記の事項が複数該当するというだけで地方自治体は精神的虐待などの理屈をつけて親から子供を取り上げることができる。
(中略)
「子供をサポートするということは、その親をサポートするということです」
という彼女の口癖をふと思い出す。
「子供をサポートするということは、その親をサポートするということです」。
ウチの国でこれやるのって、「どの程度」サポートすんのっていう程度問題もあるに決まってるけど、その前に何かこう、「何で子供へのサポートが親のサポートになるんだよ血税使うんだぞふざけんなクズ親はぶっころがして可哀想な子どもだけを救ってやればいい」的な論理がさも自明の前提的にまかり通りそうでそれが恐怖。
「親への支援」っていうのが、「そもそも支援なしでやってける親がいる以上、支援の必要な親はダメ親であって助けるに値しないわけだから支援なんてまどろいことやっとらんとさっさと子ども引き離せ」とかになりそうでおそろしい。
「そんなことねーよ!」って反論はないわけじゃないっつーか探せばいくらでもあんだろうけど、それが全部「物語」でしかなくてなんかすごく説得力に欠けて非力でおそろしい。
支援によって助かった実在家庭のケースを持ってきても、それ結局は単なる感動話だっつーことになって却下されちゃうんじゃないの? っていう。
だって全ての家庭はみんな全部違う家庭なんだから家庭Aで通用した方法が家庭BやCやDや以下略に対して常に有効だなんて保証はないし、その点で成功ケースもある程度「物語」になってしまうし、だったら支援しても悲劇はゼロにならない防げないってことになって無駄じゃんみたいな極論が絶対つぶせないし殺せない。
もちろんそんな絶望は妄想だし意味がない。物語と違って現実は要素を抜いてデータとして蓄積してノウハウ構築につなぐことができる。やろうと思えば必ず有効な支援策はつくりだせるしくだらねー極論はバカのつぶやきに押しとどめて無視できるレベルになる。
でも都市部の待機児童数とか見るに子供へのサポートってマジに必要な部分がとっくに破綻してる感がするんだけど、このくそビンボーな国で人手も施設も割かねー割けねーで何がやれるっつーの?
「放置子」で検索して出てくるトラブルとか、どこまでネタかわかんねーけどああいう憎まれぶりの立ち位置の人間を誰がどうやって助けてやんのかばってやれんの?
結局政治行政の「落とし所」は引用したブログのような「オイそりゃ人権無視なんちゃうんか」と別ベクトルにヤバイ方向に落ち着くっつうか落ち着ければOKくらいまでしか行けそうになくて怖い。
エホバの輸血の件とかさあ、構造としては一緒なわけでしょ? 親から子供取り上げて、「子供のため」の方向に乗せる。「よく考えろよそれでいいの?」と「現実問題それしかなくね?」とがせめぎ合ってもう何もかもイヤになる。
行政が義務で仕事でやりますとかいうレベルじゃなくて、もっと親密なつながりだかきずなだかという鳥肌の出そうなモンにしかできないようなことだけが必要とされているようで、対人恐怖気味の自分はそれだけでもう何つうか泣いて逃げたい。
逃げるもくそもお前そもそも関係者ですらないじゃないか恋人どころか友達もいたためしのない対人恐怖の社畜ぼっち野郎がと突っ込まれるだろうけどうるせーばーか金が天下の回りもの社会なる身体をめぐる血液ならその同じ血を啜ってる以上無関係無関心無責任ヅラできることなんかこれっぽっちもありゃしねーんだよたとえ実際関与できる部分がノミほどにちっぽけであったとしてもな!
ああしにたい。
地下へ続く階段を下りると、そこには明るくてにぎやかなテナントが入った地下ショッピングセンターがあるはずだった。
階段と地下街を区切る鉄の扉を開けると、節電のために極度に減光された照明がかろうじて灯っていた。
足音が反響した。足音は雑踏でかき消させるくらいの賑わいだったのにここには、私ひとりしかいなかった。
広告用のポスターを飾るであろう装飾が付いた枠には、A4のコピー用紙が貼られていた。用紙には、マジックで雑に手書きされた「禁煙」の文字がおどっていた。
本来は、広告の一等地だっただろうに、今は朽ち果てることないステンレス製の装飾が繁栄をの象徴ではなく、衰退の象徴となっていた。
地下街でかろうじて残っている書店へ足を向けた。
ギリシャ式の建築様式を模した石の装飾が豪華な噴水のある池がコンパネで埋められていた。その上に貼られた1mあたり300円で切り売りされている人工芝がいっそう気持ちを泣かせた。
若いカップルが待ち合わせしたり、子供が泣き喚いていたりして、ここも賑やかな場所だったんのだろう。
かつて店舗だったスペースには、板で簡単な養生がされていて、中をうかがうことはできないようになっていた。
その養生を隠すために貼られた紅白の幕が寂しさに輪をかけていた。
私が過去の賑わいを知らないほかの街からやってきた旅行者ならば、廃墟感に萌えるという感情がわきあがるかもしれない。
しかし、ここがこの街で一番賑やかでおしゃれで最先端をいくスポットだったことを知る身としては、この衰退感は見るに耐えないのであった。
つづかない
せっかくの晴れた休日、彼女とデート・・・とはいかず、適当に散歩することにした。
で、某ショッピングセンターにある某楽器店で体験会を開催していたので、お子様に混じりながら恥を掻き捨て参加したわけだ。
吹奏経験のある楽器も数年ぶりに吹いてみた。よく響く場所だったが、鈍りは明らかだった。
言い訳になるが、楽器それ自体にも奏者との相性があり、もっと詳しく見ればマウスピースやリガチャー、リードの組み合わせなどが重要であり、体験会に出すのだから、あまりいいものではなかったのかもしれない。弘法は筆を選ばずというが、それはどんな筆でも平均以上の実力を出せるというほどのニュアンスだ。
と書いてみたものの、今回はリードの厚み自体に難があった(普段は3-1/2を使っていたのだが、今日は2-1/2でも厳しかった)ので、こういう釈明に意味はない。お姉さんは経験者と承知の上でもなお「良く鳴りますね~」とおっしゃったが、営業トークのたぐいだろう。また、屋外で冷えていたため、楽器のピッチが低くてあまり吹く気にならなかったというのも、正直な感想だ。冬場は管楽器奏者にとっても厳しい。
とまあ、はっきりと衰えを突きつけられた自分に嫌気が差し、せっかくだからとヴァイオリンを弾いてみようと思った次第。
構え方を教えてもらい、いざ弓を弾いてみると、初心者特有、あるいは冗談音楽や前衛音楽に見られるような、また、黒板をひっかくような音がした。前者は計算してやっているのだから、比較するのはおかしいかもしれないが。
なんでも、弦に平行に、力を込めずにやるのがいいようだ(ヴァイオリンの指導者は休暇をとっていたようで、対応した人も具体的なアドバイスまでは至ってなかった)というので、そのとおりに2,3度試行錯誤するとちょっといい音がした。弦が、伸びたゴムひもを指で弾いたように震え、倍音が聞こえた。お姉さんの言葉を額面通り受け取れば、上達が早いらしい。
気分が良くなったのでしばらく適当に弾いてみた。運指は聞いてみたがわからないらしいので(いいのかそれで^^;)、勘を頼りに鳴らした。やはり運弓法がわからないと難しい。弾いていた間では、どうすればクラシック音楽のような早いパッセージが弾けるのか理解できなかった。
それと、構えてみれば自ずと分かるのだが、耳元で音が鳴るというのはやはり新鮮な体験だった。あれを幼児期からやるというのは、なるほど耳が鋭くなるのも頷ける。
気づいたら30分ぐらい時間を忘れて弾いていたので、さすがにまずいと思い後にすることにした。おっさんが場を独占していたら子供たちが寄り付かないだろうから、とっとと退場することにした。
そいで、アンケート書いて、名刺もらって、帰ってきたのが今だ。
ひとつ、謝りたい。
お姉さん、私は仕事をしていると言いましたが、フリーターです。嘘は吐いてませんが、私のゴミのようなプライドのために、多少大袈裟な表現を用いたこと、お許しください。