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はてなキーワード: 連鎖とは

2023-02-16

職場バレンタイン文化

バレンタイン文化がある職場と無い職場の違いは「人に物をあげることで承認欲求を満たす女」がいるかどうかだよな

そこからさらに「一人だけあげてる人がいるとその人の立場が有利に見えて自分も負けじとあげる女」がいたら連鎖の始まりだよ

さらに「少数派になりたくない女」があげ始め「自分だけあげてない状況になりたくない女」で職場バレンタイン文化は完成する

実際職場チョコもらって嬉しい男性なんてもう誰から相手にされないおじさんくらいしかいないんじゃないの?

2023-02-13

anond:20230213234754

こないだ電車で顔真っ赤にした中高生くらいの子がずっとゲホゲホゴボゴボとウェッティな咳しててな。

しかも咳する瞬間だけマスク外すのよ。

で俺は、うわやべーなー、よく親も送り出したなー、仕事に支障出るから離れよと思ったんだけど、

俺ともう一人の知らんおっさん除いて誰も気にせずにスマホポチポチーしてるのよ。凍り付いたね俺は。

で何言いたいのかというとね、俺がその話を職場でしたら「俺も気にしないかもー」と言ってた人がいてさ。

その人は年がら年じゅう風邪ひいてて職場でずっと咳してるのよ。タバコもめちゃめちゃ吸うし。

ここまで言えば何が言いたいのかわかると思うけど、無知他人を傷つけるってことなのよ。

この連鎖人類大勢滅んできたんだろうなー

anond:20230213155934

俺は成功例だからほんとにどうでもいいけど、代わりに職場で負の連鎖確定のゴミ夫婦たくさん見るからそいつらのガキがかわいそうで仕方ない

anond:20230211122101

ガーディアンメダルレガシー扱いになったのはこういうトラブルがたくさんあったからなんだろうね。

かくいう自分自分以外誰もイングレスやってない限界集落なド田舎住まいだった時にイングレスをやっていたけど、あと数日でガーディアンメダルオニキスってタイミングにどこかからやってきた高レベルプレイヤーポータル焼かれたときはブチ切れたな。

誰がやってくれたのかだけではなくそいつが住んでるエリア特定までやってしまって今思うと重度の病気だった。

その時知ったのは全プレイヤーアクションログ保有しているポータル位置保有期間とかを一括で見られるサイト存在で、どうやらそいつがそれを見て自分活動しているエリアまで観光とかではなく嫌がらせのためだけに公共交通機関を乗り継いでレンタカーを借りてまでやって来たということだった。細かいログは見ていないがポータルが短時間連鎖的に焼かれた動きやそいつ自身の旅装から仕事観光のためといった宿泊を挟んだ滞在ではなく日帰りだったというのことははっきりしている。

線を繋いで広域エリアを作る作戦のためならいざ知らず、面識もない一個人の楽しみをつぶすためだけに片道数万もかけてやってきたそいつの考えというか悪意に萎えしまったのと、そいつ自身そういうことをされたことがあって嫌がらせのためだけのプレーをしたのだろうかと過ってしまい結局ゲーム自体からフェードアウトしてしまったよ。

ゲームきっかけの包丁D格なんて揶揄された事件があったけどそんなの氷山の一角オンラインゲームきっかけのリアルトラブルはたくさんあるんだろうな。

2023-02-08

打ち所記憶のない増田酢魔イナの区起きろ古土地鵜(回文

左足ふくらはぎ内側に謎の青アザが出来ていて、

どっかぶつけたっけ?てなんか

記憶が無いのにどこかでぶつかっているのよね?

謎だわ。

この現象

青アザなので青木まりこ現象って付けてもいいかもしれないわね。

おはようございます

先日某マクドナルド

私が張り切って坦々ダブルビーフを頼んで間違って

油淋鶏チキンが来たって話し

調べてみたら結構マクドナルド注文間違ってくるってのはよくあることらしくって、

なーんだそれなら安心ね!って

なんか変な納得の落とし所だけど

でもさー

厨房液晶画面には絶対に坦々ダブルビーフのオーダーが表示されてると思うのよね、

それがなんで油淋鶏チキンに突如変化するのかその間のプロセスが気になるのよ。

間違っていることを怒っているんじゃなくて、

どうなったらそうなるの?って

そうはならんやろ!となっとるやろがい!をワンセットにした感じの絶妙ななにか巧妙に仕掛けられた謎があると思うのよね。

間違いを申告しなくてそのまま受け入れて食べたとして、

じゃあ正しい坦々ダブルビーフは余ってしまうじゃない?

間違いが間違いを呼ぶでは無いけれども、

それ1回どっかで修正しないと

というか持ってきたときに即申告しないと

本当にそのとき油淋鶏チキンを頼んだ人が一生油淋鶏チキンがやってこなくなる場合だってあるじゃない。

オーダー間違ってきたとき連鎖を食い止めるために

間違ってます!って発表した方がむしろいいのかしらね

飲食店側の意見としてはどうなのかしらと気になるところよ。

間違っているオーダーを受け入れてしまうと、

本来正しくオーダーしたお客さんのところに行くべきところに一生行かないのと

これは誰の注文なの?って一生これはお客さんのところに提供されず一生厨房に置いたままになるんじゃないかしら?って

ファミリーレストランで配膳猫ロボットが間違っても

なーんだ猫だから仕方ないわね、あはは!ってなる仕組みは巧妙にあれは人型配膳ロボットにしなくて

あえてここは猫にしておいた理由が今ハッキリしたわ!

若干これがそうよ配膳犬ロボットなら

犬は飼い主に充実イコール発注先にも忠実であれ!って

配膳犬ロボット三原則の一つにある忠実であれに背くから

気まぐれなことをしたら、

しかしたら犬の好きな人は犬らしからぬ!って激おこスティックファイナリアティぷんぷんドリームを発動させるかも知れないじゃない。

猫なら気まぐれ仕方ないね!って

なるってことよね。

猫が何かをしてくれるってだけで奇跡なのよ。

友だちの家の猫は私が遊びに行くと生の生きたネズミだとか捕まえたてのバッタとかを

ほれ食えって私の目の前に盛ってきてくれるんだけど、

さすがに私はそれフレッシュすぎて食べられないからもう捕ってこなくていいよ!っていったら分かってくれたのか

それ以降なんも持ってこなくなってなんか不満げな顔になって射るような気がしないでもない表情をするのよね。

そう?要らないの?って

からそれだけでも猫奇跡なのに

間違って気まぐれにどこかに配膳猫ロボット彷徨っていても

猫だから仕方ないよね!ってなるあの巧妙な猫型に仕組まれ理由

そのファミリーレストランがフェアーで何かのおすすめメニューの祭をやってると

その配膳猫ロボットハッピにみたてたシールをボディーに貼られて祭感を演出していて賑やかにされていて

猫にガムテープ貼って悶絶して困っているさまと同様な感じがして

ちょっと可愛そうかなって思うけど、

なんかお祭り騒ぎのそんなおすすめファミリーレストランメニューを頼んじゃいそうなのよ。

たぶんそう言ったお祭り賑わせにもハッピシールを貼られた配膳猫型ロボットなんだわ!って

ちょっと無理矢理に服を着せられたワンちゃんたちの切ない目を思い出すわ。

から人間が配膳した私が張り切って坦々ダブルビーフを頼んで青い包み紙で包まれて間違ってやって来た油淋鶏チキンのそれなんて現象名称を付けるなら

青木まりこ現象って付けたいところだし、

青の洞窟に旅して旅行したい情報検索しているのにパスタソースの青い洞窟情報しか出てこない現象

青木まりこ現象って名付けたいし、

私がミレニアムな時とかによく言う、

今頃華原朋美さんかヒュージャックマンさんぐらいしか言わない、

ドンドンヒューヒューパフパフって言いたくなる現象

國府田マリ子現象って名付けたいところだし

坦々ダブルビーフを頼んだのに間違って油淋鶏チキンがやって来たとき現象名称

タブチ!とかエグチ!とかそういったしっくりするマクドナルド的な感じで言ってみたいのよね。

うそう!

あのかき氷ハワイアンブルーを食べたときにどうしても青くなった舌を誰かに見てもらいたくなる現象

青木まりこ現象って言うんだって

青にちなんだ事柄はなんでも青木まりこ現象って言って使える言わば

青のワイルドカードなのよ!

全てが青になるわ!

うふふ。


今日朝ご飯

今日カフェオレ無糖だけにしました。

昨日疲れて寝ちゃってなんだかそのままの何かお腹に入れる感じがしないのよね。

からって元気がないわけではないからお昼になったら多分何かを食べたい気分になるわ!

朝はカフェオレミルクたっぷりのやつだわ。

デトックスウォーター

ホッツ緑茶ウォーラー

ホッツ緑茶白湯になるのかしら?って

若干緑茶成分が白湯とは違った身体の反応になるのかしらね

から白湯ドストレートの白湯とホッツ緑茶とでは胃の動き方にも影響あるのかしら?

よく分からないけど、

まあ寒く起きて温かいものを取り入れたら余裕のある朝になるかもしれないわよ。


すいすいすいようび~

今日も頑張りましょう!

2023-02-07

最近自分が実際に見かけたVTuberがやっているゲーム その2

 https://anond.hatelabo.jp/20220902203448から、ほぼ5ヶ月ぶり。開拓の元気なし。(追記ヒトカラ書いてあるのが読めないの…?

何度も見かけたゲーム

Minecraft

 774inc.が人海戦術によりエンダードラゴン素手で殴り倒していた。ブレイクしている感じはない。けもVもよくやっている方かな。

・Phasmophobia

 少し落ち着いた?

・GeoGuessr

 影響されて自分でも少し触ってみた。田舎馬鹿にする発言をして燃えるVが出ないのだろうか

・原神

 リスナーの人気はあまりない。自分も聞き流し気味。

ヒトカラ(new)

 今が旬の鮮度勝負江戸っ子の初鰹みたいなノリに見える。

地獄銭湯(new)

 チラズアート作品の中でも怖いと騒がれていた。洗濯機ホース探しなどややダレる。

ポケモンSV

 あまり記憶に残っていなかった。猫っぽいポケモンエロいくらいか

2,3回見かけたゲーム

・推色(new)

 無料なのに直後に出たチラズアート地獄銭湯に押し潰された。決まった見どころ(無思考で切り抜きを造られる)を用意するのがチラズアートの強さか?

Cats Organized Neatly(new)

 ねこパズル。犬版もある。雑談向きだが難易度あがるとイライラしてくるVも。

・Trombone Champ(new)

 音楽経験を語ってくれる機会になっている。

ARK

 ちょっとだけ見た。にじさんじはストリーマーサバーにも参加している?

・もろだし相撲

 恐ろしいことに定着の気配がある。けもVに連鎖する形で大流行

ロックマンシリーズ

 シリーズを追うごとに簡単になると言いながらやっぱりティウンティウン

・Unpacking

 ちょくちょく見かける。

・Cult of the Lamb

 そろそろ息切れ

・RAFT

 ソロプレイで見た

・NIKKE(new)

 ほとんど案件で一回限りの中、続けているVをひとり知っている

・NeiR Replicant(new)

 ストーリーは追えていない。見ているVがやっているときに聞き流しした。

単発で見かけたゲーム

・つぐのひ-忌み夜の喰霊品店-(new)

 つぐのひの新作。画面が怖すぎて他にもやっているのを見かけたが、最初の一人しか見ていない。

・Plate Up!(new)

 オーバークック2と似ているがゲーム性は別方向。ワンミスで終わるので緊張感で雑談しにくそう。

・Coffee Talk(new)

 プレイしたVのイメージで塗りつぶされた。

PLANET ZOO(new)

 見た範囲では画面が地味

Ghost Watchers(new)

 Phasmophobiaに入れ替わるまでにはいかない?

・Heave Ho

 サシコラボには良いよね

・DEVOUR

 名前は知っていたが初めてみた。びっくりシーンが多くて騒がしかった。雰囲気がDbDに似ていると言われていた。

・slither.io

 リスナー交流するには程よいのかも。


Dark and Darkerというゲームが来そうと聞いた。あとハリポタのやつ?

2023-02-05

親戚に中学で引きこもってアラフォーになる女性がいる

障害者としての診断もついていない

もはや社会復帰絶望的だろう

裕福な家庭でもない

その女性の兄は普通に学校出て結婚仕事もしているが、娘が最近引きこもりがち

そういう遺伝なのか負の教育連鎖なのか、社会生活に適正のないタイプなんだなと眺めている

自分も決して外交的ではないが、ああはなりたくないと思ってしま

申し訳ないが件の増田はこのままでは親戚の娘と同じコースだろうなと思う

同級生に何かをからかわれた、嫌なことを言われた、決して大したことには聞こえないのだが、そこから学校に行けなくなってしまった、と流れが全く同じ

そこの家も医者にいったり支援を頼ったり、あるいは無理やりに外に出そうとしたりといろいろやってみたようだが、結局解決しないまま40になる

専門家の正しい対策でも治るのは一部なんだと思う

何をやっても無駄

諦めて兄弟児に引きこもりの世話をするよう教育し、一生引きこもって生きていけるように準備するしか現状での現実的解決は無いと思う

2023-02-04

日本マスク着用系左翼世界中からキモがられる訳

2022年5月20日日本政府は、屋外では基本的にはマスク着用は必要ないと明示されており、屋内においても特定の条件下でマスク着用は必要ないとされた。

しかし、屋外でのマスク着用はすぐには無くならなかった。あまりにもマスクをしている人が多い。

世界的にコロナ禍が収まりつつあるのに、なぜマスクを着用し続けるのか?なぜ日本人マスクを外さないのか?

この現象には典型的日本左翼文化の影響がある。

日本集団主義文化であり、個人として何をしたいかという話の前に、集団として何をするべきか、ということを考える。暑い時期でどんなに不快でも、日本ではほとんどの人は外出時にマスクを着用し続けていた。これは集団主義文化でよく見られる状況であることがすでに証明されてしまった。一部の現実逃避馬鹿は、「日本個人主義だ!」と発狂しているが、現実を見たほうが良い。

しかし、今回は政府が国レベル集団としてメッセージを出したにも関わらず、多くの人はマスクを着用し続けている。

要するに、権力者よりも影響力を持つ「他人の目」というものがあるらしいのである

北米などで一般的に見られる自己観は、「個人他者とは独立した主体的存在である」と考えられる。

それに対し東アジアなどで一般的に見られる左翼的な自己観は「個人独立した存在というより、他者との境界線曖昧で、他者との接点が動機づけ認知トリガーになる」と考えられている。

日本では相互協調自己観、つまり左翼思想が主流であり、その為、「マスクをするのか、しないのか」という判断に関しても、他者存在が影響してくると考えられる。

マスクを外さな左翼日本人を見ると、「他人視線」という憶測自分で作り出していることに気づく。

マスクについて、「他人の目」で身動きが取れない状況は、社会的にはクソに決まっている。

とりあえず現状維持をするという判断が行われると、多数派マスクをし続けているという現実が続いてしまうのである。そのこと自体が「マスク着用は正しい」という間違ったシグナルを発生させてしまう。集団主義者は、そのシグナルを連鎖させるのである

現状維持」になってしま日本左翼集団主義文化のものであり、これはマスクにかぎらず、組織の中でも社会の中でも、日本の至るところで見ることが出来るものである

集団レベル文化を変革するにはどうすればよいのか。この文化メカニズム理解した上で、何をどうすれば人々は現状維持ではなく、変革に向けて動くのかということを考える必要がある。

人々が「他人の目」を意識すること自体をどうやって変えるのか。あるいは「他人の目」を人々が気にする前提で変革が進むような設計を考えなければならないのか。

マスクを外さない街中の人たちを見ると、社会設計の不全さを見ているような気持ち悪い感じがする。集団主義左翼連中は、「カレー味のカレー」を少数派が食べているところで、「ハハハカレー味のウンコを食うことこそが正義!みんなそうしてるから」などと言うのである

2023-02-02

anond:20230202093815

自分父親クズ(もしくは不在)だと父親が男の見本としてインプットされてる(もしくはインプットされてない)から目立つクズにひかれがち

好きとか嫌いっていうより虐待連鎖のように止まらないもの

2023-01-28

牛乳を捨てるぐらいなら安く売ればいいのに」ができない理由

簡単に言うと、牛乳を安くし過ぎると、酪農家が困るから

詳しく書くと以下の通りになる(読み飛ばしても大丈夫です)

小売(スーパーなど)が牛乳の小売価格を下げる

メーカー明治乳業など)が小売に売る価格が下がる

生乳指定団体関東生乳販連、ホクレンなど)がメーカーに売る価格が下がる

酪農家が生乳指定団体に売る価格が下がる


まり牛乳を安くすると、ドミノみたいに連鎖が起こり、

結果的酪農家牛乳を安く売らなきゃいけなくなる。

牛乳は必需品だから、安定供給価格安定のために国が介入してる。

でも今はその介入に失敗して、酪農家牛乳を捨てなくちゃらなくなってる。

過去バター不足のためにたくさん牛乳を国が作らせたが、

新型コロナウクライナ戦争の影響で牛乳が余ってしまった。

ただその分安くすると小売やメーカー酪農家収益が減るので、捨てざるを得なくなっているという状況だ。

(正しくは生乳だけど、分かりやすさのために牛乳と書いてます

ではどうしたらいいのか?

現状では、酪農家牛乳生産量を減らそうとしている。

その分、酪農家が困らないよう国が補助金を出している。

例えば、牛を早期淘汰(殺害)すると国から一頭あたり15万円のお金が出る。

だが、飼料の高騰や施設等の投資借金があり、廃業する酪農家が増えている。

からお金が足りていない状況だ。

国の失策なのだから、国が責任を取ってもっと積極的酪農家を支えるべきなのではないだろうか?

2023-01-25

anond:20230125165633

ミスによる被害を最小限に食い止めるスキル重要だな。

そういうのはミスを素早く把握し、どこでダメージ連鎖を断ち切るかっていう決断と実行力が必要になってくる。

大袈裟な言い方したけど、実は結構簡単リカバリーできるミスも多かったりするよね。

取り返しの付かないミスが起こる箇所を見抜く眼力が一番必要かもね。

2023-01-24

anond:20230124001254

コラボ案件では目立たない立ち位置だった北原ウリセンボーイの件が今また掘り返されるきっかけとなったのはこのキモイ連鎖反応

2023/01/04

キモすぎてキモすぎる。

https://twitter.com/colabo_yumeno/status/1610462062492397571

2023/01/05

室井佑月キモいはやめろ」

https://dot.asahi.com/wa/2022122700015.html

2023/01/11

Colabo仁藤夢乃さんの「キモイ」は女性を守るセンサー 少しでもマシな世界になりますように 北原みのり

https://dot.asahi.com/dot/2023011000042.html

北原さん、「キモい」ってどの口で言ってるの? ウリセンボーイを買ってた自分のことは棚上げですか?

https://twitter.com/YuzukiMuroi/status/1613108906007592960

北原みのり、ウリセンボーイ目当てで店に行っていた:フェミニスト性的搾取とは

https://www.jijitsu.net/entry/urisenboy-KitaharaMinori

無害そうな男にはいくら虐げても良いと思ってる女はい

昔に家電量販店の本コーナー担当アルバイトしてたんだけどさ、スタッフ再編で入ってきた契約社員20代女)のパワハラうつ病を患い休職したことがある。

最初普通だったのに、何故か俺に対してばっかり当たりがキツくなっていった。仕事上の会話でもちょっとでも言い淀んだりすると、露骨に深いため息吐いてめちゃくちゃ睨んできた。

で、そいつがそんな態度を俺に取ってると今まで普通だったバイト女子もみんなそんな態度取り始めてくるんだよ。

今思うと、そこで声を挙げるべきだったんだろうな。

そんな環境だけど、家から近くてやっぱり好きな本に関わるバイトしたくて働いてたけど、あぁもう全部俺が悪いんだな…って感じで徐々に鬱が入って本が好きからではどうしようも無理な状態になったから一回休職したんだわ

で、後々その店舗改装するからって呼ばれてまた復職したんだけど、今度は知らんバイト(50代女性)が勝手に決めたルール強制うつ病が再発したので流石に辞めた。

1ヶ月後に本コーナーは消滅した

もちろん無害そうな奴に絡んでくるのは男もなんだが、女の方はなんというか日頃からの男に対して溜まってる鬱憤を無害そうな男で解消してる感じがとてとしたんだよね…基本的には身体的な力では勝てないか権威とか立場とか使って無力そう、抵抗してこなさそうな男にマウントを取る、みたいな感じ。

これって今のツイフェミとかと同じ構図だなぁって思ったんだよね。だから、そこまでして男を叩きたいほどの何かがあったのかもしれないので同情はすれども憎しみとかそういうのは、今はない。

本当、呪い連鎖止まってくれないかなぁって願うだけです。

2023-01-21

anond:20230121104644

ほら書いたまんまじゃん

> 俺も斜め読みすらしてないけど、しょーもない悪意振りまいてそうな事だけはわかった。(元増田ではなく直上の増田ね)

> おそらく無能なくせにプライドばかり高い

 

もう一度書いておきます

結局のところ、自称アダルトチルドレン克服というのは、

社会活動に重大な影響を与えるレベル鬱病強迫観念寛解だけを意味しており、

経済的成功しても、パートナーを得ても、子どもを作っても、永遠に穴が空いたバケツのまま

 

親が愛してくれなかった・まともな養育をしてくれなかった怒りは、なにを得ても永遠に過去のものにならないし、

助けてくれなかった世界のあらゆるものを羨み、バカに出来そうなら攻撃する
自分自身のこの特性嫌悪する親そのもの認知することもなく、ひたすらドン引くような言葉を使った家族悪口を書き、
アダルトチルドレンを克服しました✨

 

これが人の親になっちゃうからな、虐待連鎖ってマジでこういうこと。単純に殴る・蹴る・怒鳴る・ネグレクトするとかそういう話ではない

なにもかも嫉妬で片付ける人って感情が雑かつ語彙がないのか?と思って生きてきたが

マジで言葉のまま、あらゆるものが羨ましい・妬ましい人もいるんだよな

彼・彼女らは生活保護すら本気で羨ましいんだ

ザマァ・スカッのなにが面白いのか微塵も理解できなかったけど、

あらゆるものが羨ましい・妬ましいと、自分よりも弱いものバカにできそうなものを見ると
攻撃したくてたまらなくなっちゃうんだ
彼・彼女らにとっては自分立場(ニート小金持ち)に関わらず、
社会的弱者は蹴り飛ばしバカにしていい存在だ。今まで自分がやられてきたことをしてんだね

  

毒親バカ(共感性と認知能力が低い)って本当に地獄の組み合わせだよな

anond:20230121102016

真面目にこの激寒ポエムを斜め見して『釣り』『負の再生産』と読まず、

<それは復讐じゃないんだ。連鎖を断ち切ったんだ。復讐なんかよりももっと素晴らしい事を成し遂げたんだ。 >

とか言ってるのまともな社会生活送れてないと思うぞ

 

先進国子どもが困窮するのは、親が生きづらいちゃんくんだから

自分人生子ども必要なら誰の顔色を伺うことなく作ればいいとは思うが、

現実的には能力的に子どもの面倒を結局見切れないし、行政が各種障がい者支援を用意していても利用することが出来ない

事務能力問題があっても、稼ぐ能力があってお金があれば、私費ヘルパーをサクッと使えるが、

それをする能力も無い

 

これにきゃっきゃ言ってる連中に事務能力も稼ぐ能力も期待できなそう

2023-01-13

zakzakも仲間】赤い羽根国民を騙して巻き上げ盗んだ金は絶対に返さな

「Colabo」問題赤い羽根」に飛び火 福祉基金から団体に2680万円助成ネット炎上で問い合わせ殺到「精算のやり直しは考えていない」1/3ページ

https://www.zakzak.co.jp/article/20230113-VZIBYOKOIRPCXAOZ2HHYDKH2II/

赤い羽根共同募金」は、各都道府県共同募金会が募金実施するのに対し、「赤い羽根福祉基金」は中央共同募金会企業や団体、個人などから寄付金を集め、団体などに直接助成する仕組みだ。「福祉基金都道府県単位区切りがなく、年間最大1000万円まで助成できる」と担当者説明する。

ダウト特定団体しか1000万もらっていない。しかも全員仲間。

赤い羽根福祉基金助成再調査を行う予定はないのか。前出の担当者は「今の時点で精算をやり直したり、(団体側に)何かを求めることは考えていない」と話した。「助成を決定するときや、精算のときも他の資金と切り分けができているか必ず確認している。仮に東京都判断をしても、われわれが出した助成金の部分は適正に精算処理を済ませている」との見解を示した。

税金がだめなら連鎖してだめでしょう。

まり赤い羽根はだまし取った金は絶対に返さないと言っています

マスコミは相変わらず泥棒の仲間

この説明デタラメです。

https://note.com/paper_house_/n/n170a76f90804

まず結論から言うと赤い羽根募金からColabo、そして関連団体複数年に渡って数千万単位の高額助成がされており、1000万円クラスの最高額助成金については寡占に近い状況でした。

このように不自然です。

したがってzakzakはわざとこのようなデータ無視しています

逆にここに触れたら終わりなわけです。つまり仲間うちで募金を使い込んでいるということになります赤い羽根自白している。zakzak、嘘つきをいくら記事にしてもコピペだよ。いやこんなところに寄付できない。

2023-01-11

anond:20230111163018

偉いよ、多分増田夫婦虐待する可能性は低いと思う

自分たち毒親になりやす人格だって考え自体が欠片もなく産んで案の定負の連鎖再生産してるのをたくさん見てきたか

anond:20230111123853

これね、生涯現役時代なら、それ見て80代のオバァが嫉妬して、その嫉妬に100代のジイが嫉妬して…と連鎖させれるのが

いよいよ面白くなってくるんよな

anond:20230111091508

最初問題がおきたことが連鎖的に最終地点の大きな問題になってる ってことだよね?

最初いじめがあった関係性があり 復讐としていじめる側になり 結果大きな差でひどいいじめの結果が発生する ってことだよね

女性男性いじめることができる時点がありそこでいじめがおこり いじめられた男性女性いじめたいと思い 強い男性になった男性が強さの伸びていない女性いじめをすることになる ということだよね

最初の段階でも男女それぞれにそれぞれの状況と結果もあるし

次の思いも逆だったり解消されたりそのままだったりすることもあるだろうし

最終的にそういう結果になることもならないこともあるとして

そのうちのどこにアプローチしてどれだけの要素についてどれほどの結果を期待して行動するのかってことだよね

ただ状況を言うだけならなんにも解決しないわけだから言う必要もないよね そこにそうあるだけというのを言うことに何の意味があるのかってことだよね

2023-01-08

被害者被害に遭いやすいように自己変容させる

被害者弱者実態はこうなんだぜ」って話をもう一つ。

前に「生まれ環境に恵まれなかった子供たちの支援に関わっていたけど、あいつらクズばかりだ。途中から『もうこいつら不幸になろうがならまいがどうでもいいわ、養分として搾取されて生きろ』と思い始めた」と言ってるエントリ話題になってたけど、

それは虐待被害者被害により、虐待に遭いやす性格に育ったからじゃないかと思う。

こんな話を読んだ。

http://www.kitimama-matome.net/archives/59904730.html

虐待に遭った知人がいる。

暴力とか暴言とか、性的なこと以外で思いつくようなことは全部されてた。

クズキチガイだとずーっと言われて育っていたらしい。

就職して実家を出たと思ったら、そこもブラック職場だったようで、上司が家に平然と出入りして、趣味のものオタク系の趣味があった)を取り上げ、キショい等等の人格否定に遭ったらしい。

苦労して集めたDVDなどを勝手に捨てられたり、ゲームを無断借りパクされたり。(窃盗では?)

知り合い総出で、今の状態おかしいか病院に行け、仕事も辞めろと説得した。

できれば引っ越して、実家とも絶縁しろという話になり、その人は結局、知人の助けの上で引っ越し転職した。

でも、その後もトラブルは絶えなかった。

何故か新しい職場でも似たような事態になり、ひどいと医者までもがその人に暴言を吐くという。

私はあまり親しくはなかったが、その人の親友とよく話す機会があった。

話を聞いては、なんでそんな事になるんだ?と毎回不思議だった。

数日前、本人と話す機会があった。

もう信じられないほど卑屈になっていて驚いたんだけど、

それより、話しているうちに、私自身がどんどんおかしくなっていく気がした。

うまく言えないんだけど、その人と話してると、何でもその人が悪いような気になっていくんだよね。

何でもかんでも、こじつけみたいな事で自分のせいですごめんなさいって謝り出す。

今日天気悪いねーと言えば、自分がこの日を指定たから、天気悪い日に外出させてゴメンナサイ。

移動で電車が混んでたら、自分との移動に煩わせてゴメンナサイ。

あのアニメ見た?→見てませんゴメンナサイ、自分無知で話の腰折ってゴメンナサイ。

何が食べたい?→何でもいいです気を使わせてゴメンナサイ。

謝る事ないよってその都度に落ち着かせてたんだけど、なんか段々、面倒になっていってしまうんだよね。

ほんの数時間一緒にいただけで、なんでこいつこんなに卑屈なんだ?面倒臭いなと思ってしまって、

その内に段々と、本当に詐病なんじゃないかとまで思い始めてしまった。

実は全部この人の虚言で、可哀想がって欲しいだけなんじゃないか。そんなのおかしい、私は貴重な休日にこの人を慰めるのに苦労してるんだから、やっぱ本当に謝らせた方がいいのか、と。

絶対にそんなことはないってわかってるのに。

洗脳?とにかく、どんどん加虐的な考えが浮かんでくるから、とても怖くなってしまった。

今、その人をブロックしようか迷ってる。

その人が被害者なのは間違いないんだけど、下手に助けようとか思って関わってたら、自分がその人を虐げる側に行きそうで。

でもブロックも十分酷いことだよな…やめた方がいいのか…って、ずっとぐるぐるしてる。


この話から被害に遭った人は被害を呼び寄せるように変容する、という仮説を得た。

何度もDVされる人、何度も浮気される人、何度もいじめられる人、何度も性被害に遭う人、そんな人はよくいる。生家でも虐待に遭い里親家庭でも虐待される人も…。

あの増田が関わった、親に恵まれない子供達も、虐待に遭っているうちに「こいつ本当にクズ」と思わせ、虐待搾取を呼び寄せたり「虐待搾取されても仕方ない」と思わせるように自分を変容させたのだと思う。

ツイッターにもいるだろう。○○に攻撃され、その○○という属性を嫌うようになり、益々○○から攻撃される人が。被害連鎖する。

虐待被害者DVするような配偶者結婚する。これも自己変容の結果だろう。

被害に遭ったことのあるはずの彼女が、露出の多い服装で夜中に出歩き、平気で男の家に上がる、本当に被害にあったのか?という相談も見た。

「性被害に何度も遭うのは、性被害によって性犯罪に警戒するレーダーのようなものが壊れてしまうから」という分析も見たことがある。

痴漢にあったら絶対警察突き出してやる」と思っていると不思議痴漢にあわなくなるらしい。加害者は、被害に遭いやすい人の負のオーラを目敏く感知する。


人は被害に遭うと、被害に遭いやすいように自らを変容させる。

力を加えられたものが、壊れる代わりに凹んだり歪んだりするように。

綺麗だと言い続けると綺麗になる。成績を褒め続けると成績が伸びる。となると、その逆もあるのだ。

負のピグマリオン効果とでもいうのか。

被害者加害者を恨まない」という記事で言われていたが、加害者を恨むより「自分被害に遭っても仕方ない人間なのだ」と思った方が楽だ。

そして被害者は、「被害に遭っても仕方ない人間」になるように自己変容させる。


断っておくが、「被害者が悪いのだ」と言いたいのではない。加害者が悪いに決まっている。

被害者を変容させ、幸せから遠ざけてしまうのだから加害者は一層許しがたい。

それに、加害があるたびに「どうせ被害者に原因があるんだろ」ということはできない。被害者がどんな人間だろうと関係なく加害する人は当然ながら沢山いる。

そして、新たな自己変容した被害者を生み出すのだ。


被害者自己変容論」が、加害者言い訳に使われそうな仮説だということは承知だ。だが、むしろ加害者へのアプローチには使えないか

虐待する親は「あの子は本当に馬鹿で悪い子で苛つかせてくるんだ!あの子が悪いんだ!」と本気で主張する。DVする奴も同じ。

そんな時「あなた虐待するから、益々その子あなたを苛つかせて虐待されやすいように自己変容するのです。あなたのせいです。あなたが変わりましょう」と自己変容論を用いて説得することはできないか

2023-01-07

anond:20230106232810

この世に生きる全ての人間母親の子からひねり出されてきてるんだよ。

から突然生えてきたり、次元の扉が開いてワープしてきたり、そんな人間は一人もいないんだ。

きわめて物理的な因果連鎖帰結として今、おまえは存在してるんだ。

 

 

生前と死後が一方通行質問意味がわからないが、あえて意をくみ取るとすれば「人間には物理的な肉体とは別に物理的な霊魂のようなもの存在していて時空を超える」みたいな話か?

残念ながら霊魂なんてもの存在しないんだよ。

お前の記憶を担っているのは霊魂ではなく脳みそ

お前がお前であるという感覚を担っているのも霊魂でなく脳みそ

認知症で脳が壊れていき、数年かけて記憶自我を失っていく人間を見れば、ヒトの生命活動もただの物理現象集合体しかないことに気づけるだろう。

 

そもそも大前提を共有できているか怪しいので、もうひとつ重要概念の話をしようか。

物理的なもの物理的なものしか作用できない」

詳しくは因果的閉包性で調べてほしいが、簡単に言うと「この世のあらゆる物理現象物理現象因果関係だけで説明される」ってことだ。

現実フィクション区別がつかない子供オカルトにハマるおバカさんでもない限り、これが今の世のあらゆる科学法則大前提だって理解できるだろう。

たとえば「東日本大震災天罰だ」とか「神社毎日祈ったらガンが治る」とかそんな考え方がナンセンスなことは普通の賢い人であればわかる。

霊魂も同じで「物理的な肉体に非物理的な霊魂作用する」あるいは「物理的な肉体が非物理的な霊魂に何かを刻み込む」なんて考え方はナンセンスの極みなわけだ。

数百年前の科学的知見がショボかった時代人間だったらたとえ賢くてもオカルトにハマってしまうのは仕方ないと言えようが、今のこの科学全盛期の時代ほとんどの事象科学的に説明できてしま時代オカルトにハマるのはちょっと知性が足りなすぎる。

 

というわけで、「生前と死後は一方通行」の意味するところはよくわからないが、まあ普通に考えれば一方通行だろうね、と答えておく。

2023-01-06

日記

……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……

prologue

時代場所次元を超えたマッシュアップ段落

 いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャル可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界価値刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないもの価値が、目に見えるもの価値に負けてしまたことを意味しているのだ。微調整

人生シンボル世界アレゴリー冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神本来の豊かさの立体的構成について)

「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“

 このうわべは月並文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」

問題は愛ではなかったのだ。不滅だったのである

ミラン・クンデラ『不滅』

1 - verse

 宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。

 それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである

 あなたがこれを読む前に抱えていた感情はなんだろうか。

 感情字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しか実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。

 映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物感情ひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。

 人間存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。

 そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまものである

 ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。

 たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のもの発明する必要はなくなる。

 それと同様に、世の中の九割以上のもの面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり物語面白いと思えなくなってからしかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。

 トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単ゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。

 人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。

 もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているかである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である

段落

 最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。

 往々にして悪魔自分自身天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。

 探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。

 自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。

 日本人モラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。

 日本では個性的なことをやると嫌われる。日本オリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現範疇しか成立しない。

 一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在のもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプットからである

 今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しか自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである

 安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会人生流通権力は、結局、人間排除する社会の固さにひれ伏し続けているかである安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。

 たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。

 物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品こちら側こそが物語からであるあなた人生という言葉を使う時、その人生乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活イメージするだろうか。乾パン乾パン出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉意味乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなた脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である段落

段落

 芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないか不快ではない、として表面を見るのである

 今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないかいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代限界だったのだ。段落改訂

 そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である段落改訂

 そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものであるポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂

段落

 趣味的だからだ。趣味というのは自己満足から、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものからだ。趣味危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂

段落

 ほとんどがニューヨークパリ海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。

 これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである

 ゴッホ絵画生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢であるしかし、人生理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。

 本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である段落

 人間生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。

 ピカソシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶システムだ。このように、この世のすべてのものは「システムであるシステムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである

 システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。

 イチローホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。

 イチローホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである

 食べ物でいえば、ハンバーガーのものは固体であるが、ハンバーガー牛肉パテ一枚は液体であるハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマトレタスピクルスソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである

 では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。

 飲み物場合であれば、それ自体がすでに液体であるいくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉から抽出の仕方もわからない。

 そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである

 もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。

 世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである遠近法パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。

 実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たち思考弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整

 この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのもの本質ポテンシャル判断することが不可能になる。言うなれば開封されないゲームソフトパッケージのようでもある。段落改訂

奴隷を目指す社会の掲げる指標

沸騰していく社会

 小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂

 なぜなら大多数にとっては、矛盾解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面から矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。

 ある人間が、自分生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデント連続から成っているのだから段落

 このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである

 社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒批判にいたっては悪いイメージ自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒批判は良いものである

 歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったときあの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41

日記

……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……

prologue

時代場所次元を超えたマッシュアップ段落

 いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャル可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界価値刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないもの価値が、目に見えるもの価値に負けてしまたことを意味しているのだ。微調整

人生シンボル世界アレゴリー冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神本来の豊かさの立体的構成について)

「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“

 このうわべは月並文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」

問題は愛ではなかったのだ。不滅だったのである

ミラン・クンデラ『不滅』

1 - verse

 宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。

 それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである

 あなたがこれを読む前に抱えていた感情はなんだろうか。

 感情字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しか実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。

 映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物感情ひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。

 人間存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。

 そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまものである

 ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。

 たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のもの発明する必要はなくなる。

 それと同様に、世の中の九割以上のもの面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり物語面白いと思えなくなってからしかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。

 トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単ゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。

 人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。

 もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているかである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である

段落

 最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。

 往々にして悪魔自分自身天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。

 探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。

 自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。

 日本人モラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。

 日本では個性的なことをやると嫌われる。日本オリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現範疇しか成立しない。

 一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在のもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプットからである

 今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しか自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである

 安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会人生流通権力は、結局、人間排除する社会の固さにひれ伏し続けているかである安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。

 たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。

 物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品こちら側こそが物語からであるあなた人生という言葉を使う時、その人生乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活イメージするだろうか。乾パン乾パン出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉意味乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなた脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である段落

段落

 芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないか不快ではない、として表面を見るのである

 今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないかいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代限界だったのだ。段落改訂

 そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である段落改訂

 そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものであるポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂

段落

 趣味的だからだ。趣味というのは自己満足から、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものからだ。趣味危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂

段落

 ほとんどがニューヨークパリ海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。

 これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである

 ゴッホ絵画生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢であるしかし、人生理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。

 本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である段落

 人間生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。

 ピカソシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶システムだ。このように、この世のすべてのものは「システムであるシステムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである

 システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。

 イチローホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。

 イチローホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである

 食べ物でいえば、ハンバーガーのものは固体であるが、ハンバーガー牛肉パテ一枚は液体であるハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマトレタスピクルスソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである

 では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。

 飲み物場合であれば、それ自体がすでに液体であるいくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉から抽出の仕方もわからない。

 そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである

 もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。

 世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである遠近法パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。

 実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たち思考弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整

 この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのもの本質ポテンシャル判断することが不可能になる。言うなれば開封されないゲームソフトパッケージのようでもある。段落改訂

奴隷を目指す社会の掲げる指標

沸騰していく社会

 小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂

 なぜなら大多数にとっては、矛盾解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面から矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。

 ある人間が、自分生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデント連続から成っているのだから段落

 このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである

 社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒批判にいたっては悪いイメージ自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒批判は良いものである

 歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったときあの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41

日記

……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……

prologue

時代場所次元を超えたマッシュアップ段落

 いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャル可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界価値刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないもの価値が、目に見えるもの価値に負けてしまたことを意味しているのだ。微調整

人生シンボル世界アレゴリー冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神本来の豊かさの立体的構成について)

「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“

 このうわべは月並文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」

問題は愛ではなかったのだ。不滅だったのである

ミラン・クンデラ『不滅』

1 - verse

 宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。

 それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである

 あなたがこれを読む前に抱えていた感情はなんだろうか。

 感情字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しか実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。

 映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物感情ひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。

 人間存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。

 そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまものである

 ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。

 たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のもの発明する必要はなくなる。

 それと同様に、世の中の九割以上のもの面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり物語面白いと思えなくなってからしかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。

 トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単ゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。

 人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。

 もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているかである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である

段落

 最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。

 往々にして悪魔自分自身天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。

 探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。

 自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。

 日本人モラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。

 日本では個性的なことをやると嫌われる。日本オリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現範疇しか成立しない。

 一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在のもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプットからである

 今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しか自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである

 安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会人生流通権力は、結局、人間排除する社会の固さにひれ伏し続けているかである安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。

 たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。

 物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品こちら側こそが物語からであるあなた人生という言葉を使う時、その人生乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活イメージするだろうか。乾パン乾パン出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉意味乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなた脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である段落

段落

 芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないか不快ではない、として表面を見るのである

 今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないかいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代限界だったのだ。段落改訂

 そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である段落改訂

 そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものであるポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂

段落

 趣味的だからだ。趣味というのは自己満足から、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものからだ。趣味危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂

段落

 ほとんどがニューヨークパリ海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。

 これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである

 ゴッホ絵画生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢であるしかし、人生理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。

 本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である段落

 人間生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。

 ピカソシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶システムだ。このように、この世のすべてのものは「システムであるシステムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである

 システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。

 イチローホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。

 イチローホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである

 食べ物でいえば、ハンバーガーのものは固体であるが、ハンバーガー牛肉パテ一枚は液体であるハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマトレタスピクルスソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである

 では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。

 飲み物場合であれば、それ自体がすでに液体であるいくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉から抽出の仕方もわからない。

 そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである

 もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。

 世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである遠近法パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。

 実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たち思考弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整

 この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのもの本質ポテンシャル判断することが不可能になる。言うなれば開封されないゲームソフトパッケージのようでもある。段落改訂

奴隷を目指す社会の掲げる指標

沸騰していく社会

 小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂

 なぜなら大多数にとっては、矛盾解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面から矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。

 ある人間が、自分生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデント連続から成っているのだから段落

 このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである

 社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒批判にいたっては悪いイメージ自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒批判は良いものである

 歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったときあの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41

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