はてなキーワード: 自死とは
現役の博士課程の学生です。件のニュースを朝見てからというものの、実験中でも、資料作りしてる時でも、食事中でも、ふとした瞬間に胸がドキドキとなってしまって、気が落ち着かない。
昨年の、九大での焼身自殺もショックだった。最初は事故っぽかったのが、実は……って分かった時も同じだった。意味も無いのに不安で不安でたまらなかった。
ちなみに私は理系だ。その時点で、置かれている状況は上記のお二人とかなり違うのは事実でしょう。多分、文系院卒に比べたら潰しがききそうな分、「諦めやすい」とは思う。でも、きっと私なんかよりもはるかに優秀で、研究能力があって、情熱もあっただろう人が、自死を選んだ。その事実が、同じアカデミアで息を吸っている人間として、とても哀しくてたまらない。冷静に考えれば、アカデミアに限らず、未来の暗い業界なんてそこらに溢れてて、残念なことに時たまにそういう人は出るものだ。取り立てて深刻に受け止める必要もないでしょうと、頭では分かっている。でもなんか無理なんだ。息が苦しい。
さっきも言った通り、私は一応理系だし、20代でまだ若いし、親はまだ還暦前で元気だし、良いパートナーにも友人にも恵まれているから、研究が全然うまく行かなくても(事実順調とは言い難いのは蛇足だけど)、研究職にありつけなくても、何とかなるだろう、大丈夫だろうって客観的に見れば思う。けど、自分はこうだから~、こういうい人たちとは違うって、割り切れないし、割り切ることそのものに罪悪感がある。何か一つでも運命の歯車?が狂ってたらとか、パラレルワールドにいる自分はこうなってたんじゃないかとか、妄想してしまう。
一体何が悪かったんだろう。界隈では、日本の研究環境はヤバイなんて話は毎日のように聞くし、国家の愚策とか、学者に対する社会の冷ややかさとかが、こういう哀しい出来事を助長している点はないとは言えないでしょう。でも、世界への恨み言ばかり募らせても仕方ないし、ただ「運が悪かった」ってだけの話に落とし込んで、放って置いて、あとは目の前にある仕事をいつものように粛々とこなすしかないし、そうするべきで、それが正解だって分かってもいる。それなのにね。
もう、この嫌で哀しい感覚をどうしたらいいの。何とか今日もスケジュール通りの実験だけはやった。無理矢理手を動かした。でも、なんというか心だけが、フワフワと身体から離れているようなね、ずっとそんな心地だった。酒飲んで寝たら普通に良くなるかな。眠れるかな。明日はちょっと朝早く研究室に行かなきゃいけないのに。
衝動のままにここまで打ち込んできたけど、読み返してみれば、そういえば一切、ご冥福を祈りも、哀悼の意も表してもなかった。自分のことばかりだったね。独りよがり。だけどあの世なんてあるのかね。死んだ人間に安らかに眠るも何もあるのかね。今、私が培養しているヒト細胞の持ち主なんて、とっくに死んでるけど、あの世があったら、シャーレの中と魂が通じていたりするのかな。もう、いきなり何訳分かんねぇこと言い出してるんだか。完全に話逸れたけど、この世にいた最後の瞬間が、苦しくなかったらいいなと思う。それだけは心の底から願えるや。
とりあえず、あったかくして今夜は寝よう。あぁ、何で今日はこんなに寒いんだ。畜生。
ここまで読んでくれてありがとう。
https://www.asahi.com/articles/ASM461CLKM45ULBJ01M.html
http://nakajimahiroshi.xblog.jp/article/464365960.html
http://nakajimahiroshi.xblog.jp/article/464290012.html
東北大学を出て日本思想史で近世仏教を研究していたポスドク女性が自死した件。
女性の遺族は遺稿集を出版し、その中で結婚相手が統合失調症であることを隠して結婚した件について、
結婚相手の男性を実名をあげて批判しているが、これは明らかなヘイトスピーチでしょう。
たとえば結婚届を出してから、夫が元在日朝鮮人で帰化した人であることが分かったから、
離婚します、在日であることを伏せて結婚した元夫許せない、と書いてあれば、完全に
ヘイトスピーチです。
しかし、精神病の話となると、同じ構造でもそれが差別だと認識できずに、精神病者の側
精神病者は差別のサンドバッグはありません。差別されない権利があります。
自死した女性がなぜ離婚したのか詳細は分かりませんが、統合失調症であることを伏せて
いた一点が肥大化し、離婚に至ったのであれば、女性も、統合失調症患者の男性を恨む
本を出版している家族も、精神病者への差別心を持っていたと非難されても仕方ないでしょう。
確かに女性の自死は不幸なことです。しかし不幸な出来事に遭遇からといって、
出版物で差別発言(ヘイトスピート)を拡散することは許されません。
私は統合失調症の当事者ですが、精神病者が一方的に不幸の原因と看做されることに反対します。
冒頭の参考資料としてあげたブログを読むと、ブログの書き手(編集者らしい)も、
たまに人に甘えて
たまに行きたい場所に行ったり
会いたい人に会って
でもそれじゃあ、そうやって暮らして
年齢だけ積み上げてると思うてます。
歳をとることは
なんにも怖いことではないけど
すでに平均寿命の半分ほどは
歩んできて
思い残すこともあまりなく
世界に刻んだことも何もなく
生きた証し、なんてとてもおこがましく
ただただ楽しくあるように
過ごしてきた。
小さくささやかに
甚だしくお荷物にならぬよう心掛け、
やれる範囲でやってきたように思う。
けれど、とある種類の人たちは
こちらにも考えがある。
ゆるゆるほがらかに
反対にいうと長生きしないように
努力する。
早く死に到れることを願いながら
明るく前向きに今日も生きるのです。
https://www.asahi.com/sp/articles/ASM461CLKM45ULBJ01M.html
この件、凄い業績を上げたのに食い扶持に困ってたことが本当に気の毒なんだけど、
安定した職がないまま、両親は老いていく。14年、苦境から抜け出そうと、ネットで知り合った男性との結婚を決めた。だが同居生活はすぐに破綻。自らを責めて心を病んだ。離婚届を提出したその日に自死した。
離婚届を出した日に亡くなったというくらいだから、死の直接の引き金は研究だけじゃなく、結婚のことにも深く関係していると思う
誰に言っていいかもわからないし、言っても困らせてしまうだろうし、それでもどこかに吐き出したかったので書いていく。
ここ一年くらいでもう生きていたくないという気持ちが強くなっている。
でももし自分が死んだら、のシミュレーションをしてみるとどうやっても誰かしらに迷惑をかけてしまうのを避けられなさそうで、最後にはいつも無理だという結論に落ち着いていた。
日々そんな事を考えながら生活していたが、先日親との会話の中で、病気になった際の介護や看病、延命行為についての各々の意向に話題が及んだ。
そしてそこで気付いた事があった。
以前から私は「もし万が一私が(原因が何であれ)親よりも早く死んだら、葬式は出さないで欲しい」と遺書を書いておくつもりで居たが、多分この意向は叶いそうにない。
親の性格や親心を考えるにきちんと子供を送り出してあげたい、と思うであろうし、親族も例えそれが自殺の末の死であったとしてもちゃんとしたお別れをしたい、と思ってくれるだろうと予想ができるからだ。
そして本人が遺書に葬式は出さないで!と書いたとしてもそこに法的な効力はないらしいので、結局は遺族の意向次第になるっぽい。
葬式は故人の為というよりも、遺される人間の気持ちを昇華する為の機会という側面が強いと思う。
私としては私の事など捨ておいて欲しい、いっそ存在を忘れて欲しいと思っているが、家族や親族の心残り・心の負担にはなりたくないので、まず何よりも先に葬式代を用意することにした。
どうせ死んでからも迷惑をかけるのならせめて自分の葬式代を稼いでからにしなければ…。
ただ、今まで正直葬式なんてしてもらう気が更々なかったので、ごく一般的な葬式でかかる費用についての知識がなかった。
調べた相場では大体100万円程度もあれば充分そうだが、貯金額は予算に遠く及ばない。
自分の収入などの諸々から考えるに、最低でも3~4年はかかりそうだ。
現在の精神状態でそこまで我慢できるのか?という感じではある。
でも私に遺せるお金なんてほぼないのだから、死後の親の収支がマイナスにならないようにしたい。
こんな感じで自死について真剣に考え始めたら当面死ぬ訳にはいかなくなった。
よかったのか悪かったのかわからない。
自分でも、どこにでもいる、むしろ人より下位にいる人間だとわかってる。
でもなんとかして働きに出たい。
経歴
新卒で総合職社員として務めるが半年でやりたいこと(文を書くことや本と携わること)ができないと判断して、退社
色々あり籍だけ入れ彼と同棲、そのまま転職活動しようとしてたら妊娠発覚
妊娠出産、子どもは2人はほしく、企業入ってからまた育休とか取るよりは一気に済ませた方がいいかも知れん、と思い立ち、年子を生む決意をする。
そろそろ動き出せるとわかりつつ、どうしたらいいのか二の足を踏んでる…育児しか経験したことがない27歳を雇ってくれるところなんてあるのか。
チマチマと在宅でライターをやっている。(0.1円から始めていま0.7円ほど。これ以上は利用してるサイトじゃないところで活動しないと無理かなと思ってる。)
作家は諦めたからできればライターで企業に勤めたいと思ったけど、ライターっていまかなりフリー。
自分でホームページやったり名を売りに行かないと無理な感じがして、自ら名を売り出す行為が自分にできるとは思えなくて、ライターも無理なのかな、と思い始めてしまってる。
長年の夢の作家は諦めた。
もう、夢は叶わなかったな、なんて思いをしたくない。
なれるものに、なりたい。
わたしは、なりたいものには、ならなかったという思いをしたくない。
自分と同じように何者にも所属できず心を病んだ友人が、自死してしまった。
でも、何者にもなれず、どこにも所属していない人間が死を選択する世界、と、同じ世界にわたしも立っているわけで。
死ねと言われてるわけではないと理解してはしてるけど、居心地が悪く、苦しい。
でも子育てが終わった後に、手元に思い出しか残らない状態が辛くて、専業主婦のままはいやだ。
わたしは何ができるんだろう。
何かできることはあるんだろうか。
雇ってくれるところはあるんだろうか。
何者かになれるのだろうか。
いつまでこのような厨二病的な世界にわたしは囚われてるんだろう。
※
すみません、在宅でライターしてると言っても一年でならすと月2〜3万が限度です。
頑張ってもこのままだと月5万くらいしか無理かなと。
ブラック企業という言葉が市民権を得てしばらく経ちますね。毎年、ブラック企業大賞なるものが発表され、だれもが聞いたことのあるような企業が名を連ねます。それに対し、ブラック研究室という言葉も有名なものの、どこの研究室がブラックだとかいった情報は大学内部の学生でないとなかなか知りえないものがあります。ましてや研究室の内情は所属している学生しか分かりません。
今回は、そんな研究室の中でも異質なケースとして、自分が修士課程の2年間過ごした研究室の話をみなさんに紹介したいと思い、筆を執りました。必ずしも拘束時間が長く、人格否定を行うような研究室だけが悪い環境ではないということ、メディアなどでよく見かけ、有名で人気な研究室が良い環境であるとは言えないということだけでも皆さんに覚えていただきたいです。後進の方々の研究室選びの参考に少しでもなれば幸いです。
第一に、とにかく人員が不足していたというのがあります。まず、先生(教授・講師)はあまり研究室にいませんでした。先生たちは予算の獲得や大学内外の事務に追われるため、多忙になります。基本的に助教や研究員・博士課程の方が下の修士・学士課程の学生の面倒を見ることになります。これだけなら普通なのですが、先生が後先考えずにどんどん仕事を受けてしまうことにより、プロジェクトに対して人間が足りていない状況が常に生じます。(先生曰く「断るの苦手なんだよね~」とのこと。)その仕事は研究だけではなく、各メディアの取材や研究室見学など多岐にわたります。自分が研究室に配属されて一年は、講義を受けるほかに、(詳しくは後述しますが)研究室の立ち上げ用に物を発注したり組み立てたり、見学者対応をやる日々で、ほとんど研究はしなかったように思います。さらに、月一くらいの頻度で(今はだいぶ減りましたが)先生のお友達を呼んで講演兼パーティーをやる準備や、先生の思い付きで増える仕事などに日々忙殺されていました。また、インターンやアルバイトといった形で外部の学生を呼んで研究してもらうこともあり、その人達は雑用をする義務はなくお金をもらいながら成果を出していたのに対し、学費を払っている学生は雑用に追われるといった状況もありました。事務スタッフも教授が所属している社団法人の経理をさせられたり、共同研究先の企業から出向(?)の形で来てた研究員の方も、後述の巨大予算の運営周りの仕事をやらされたりとひどい状況でした。
第二に、新設の研究室で、研究を行う環境づくりをゼロから始めなければいけないことがありました。これは事前からわかっていたことではありましたが、自分の想像以上の大変さでした。情報系の研究室なんて机と椅子とPCを発注すれば、あとは個々人の研究に応じて必要なものを買い足していくだけだろうと思っていました。しかし、先生の方針で、リビングラボという生活空間と研究室が融合したような形態でラボを運営することが決まっていたため、それを満たすような研究室の構築に修士の最初の一年は消えました。なぜ一年もこのようなことをしていたのかというと、9月ごろに先生がとある巨大予算を獲得し、学生・スタッフを増員するとの方針でキャンパスを移動することに決まったからです。一度ゼロから作り上げた研究室をもう一度ゼロから作り上げることになりました。自分としてはキャンパス移動ですら最初に聞いていた話と違うので、とても不満に思いました。通学時間も10倍以上増え、それだけでも大きな負担となりました。(授業は元のキャンパスでやることがほとんどで引っ越すわけにもいきませんでした。)
このような状態でまともに研究が回るはずもなく、助教(自分の所属する学科・専攻で博士までとった唯一の人)はやめてしまいました。そこから、特任研究員の方に学生指導の仕事が集中します。(本来、特任研究員は助教とは違い、学生の指導ではなく自分の研究に専念するという名目で雇用されます。)そして、社会人博士の方がその有能さゆえに研究室内の仕事を一手に引き受けこなしてくれたおかげでなんとかなっていた(?)のですが、当然彼らも自分の研究は進みません。
第三に、教授・講師間でうまく連携が取れていなかったようにも感じました。二人とも物事を放置・後回しにしたり散発的に進んだりと、計画性とは無縁の進行でした。ミーティングでもその場の思い付きのアイデアで話を発散させるばかりで収束には向かわず、学生はどうしたらいいか当惑することが多かったです.
さらに、二人の共感性の低さも研究室内の人間関係に大きくヒビを入れていました。特に事務の方々への接し方や飲み会の席(講師は酒を飲まないので主に教授ですが)での学生に対する発言は聞くに堪えないものがありました。(詳しくは後述)
また、学内の期限(修論の題目の提出など)を過ぎてから学生に通知したりと時間・期限に非常にルーズでした。そのことを詫びる様子もなく平然としている様子も腹が立ちました。その結果、学生や事務員が期限を守らない印象を外部に与えていたのではないかと懸念しています。
オーサーシップ周りに関しても不満が残りました。これは自分ではないのですが、大して面倒を見てたわけでもないのに、camera readyになって急に講師が「見るからオーサーに載せろ」と主張してくることがありました。 教授もゴーストオーサーの常連だからかそれには強く言わず結果的に受け入れられる形となりました。学生側としては教員陣の命令に背くわけにもいきませんしね。(この話に関しては、この研究室に限らず、分野としてそういう傾向があるのかなあと思います。他研究室の話は詳しく知りませんが。)
このように研究室としての体を全くなしておらず、自分を含め最初3人いた同期修了出来たのは自分だけで、1人が休学、1人が留年という形になりました。(もう一人修了者はいますが、別の研究室がなくなった結果移ってきた人です。)
次に、研究室の主である教授の性格が合わず、人間として尊敬できなかったということについて話したいと思います。上司と合わないということはよくあることだと思いますが、よくあることだからこそ、記しておきます。
初めに、衝動的な発言や暴言が多く看過できないということがありました。衝動的気質に相まって、酒癖の悪さがそれを助長していました。例えば、論文を提出できなかった学生に対して「負け犬じゃん」といったり、昔自死した学生に対して「勝手に死んだんじゃん」などといったことがありました。(なお、これらの発言は学生や職員に窘められ即座に撤回しましたが、そう思っていたという事実は消えないと思います)。その他にも配慮のない発言が多くありました。
また、自己顕示欲の強さとマウンティング(いわゆるイキり)が挙げられます。「君たちは潤沢な資金のあって、待遇のいいこの研究室に来てラッキーだ」などといった身内へのイキりを聞いた時は、上で書いたような現状に疲弊していた自分の感情を逆なでするのには十分でした。また、自分は偉く、自分が言ったことはどんな無茶でも通ると思っているきらいがあり、無茶な予算申請で事務の人を疲弊させることが多くありました。それにあきれ果てた事務の人が次々とやめることがあり、その結果事務仕事が逼迫することもありました。怪しい予算の使い方をしていて、機構の人に怒られたみたいな話を聞きました。大学に目をつけられているのはいわずもがな。
内弁慶というわけではなく、外部の人間に対しても自分を良く見せようとしていることが多く、鼻につくこともありました。自分にはこのような先生の在り方が、いわゆる口だけの軽薄な人間に感じられてしまいました。いい環境を作りたいとは口では言いつつも自分は何もせず下の人間が苦労したり(「然るべきとき然るべき場所」というアイバン・サザランドの言葉をよく引用しますが、これが「然るべき場所」なら笑止です。)、自分は人脈のハブだといいつつスタッフをなかなか引っ張って来れなかったり(前の大学にいるときこの業界で悪評が立ち、人が来たがらないとの噂)とあきれかえることが多かったです。他にも「教育が最優先」と口では言いつつも後回しにしたり、下の人間に任せているようなことなどとにかく「口だけの人間」というイメージです。隔月で1回20分ほどの面談で教育したということなのでしょうか。
専門用語を拡大解釈して援用することで知識人を気取るようなスタンスが多く見受けられたのも癪に障りました。例えば、「インピーダンスマッチング」という、高周波の電気信号の伝送路において、入力と出力のインピーダンス(電圧を電流で割った値で直流回路では抵抗にあたります)を合わせるという意味の言葉があります。この単語は力学などでも用いられます(こういった多分野に共通する背景理論を研究しようという思想を持っているのが我が学科・専攻です)が、これを特に理論的背景もなく「折り合いをつける」くらいの意味で使って、さも各分野に精通している感を醸し出すことに長けていました。他には「バウンダリーコンディション」とかもありますね。微分方程式で言うところの境界条件です。これを前提・条件みたいな意味で使います。(こちらについては検索すると若干引っ掛かりますが。)これらにツッコミを入れた学生は以降食事会に呼ばれなくなりました。自分に媚を売らない用済みな人間は簡単に切り捨てるようです。こういった拡大解釈した単語を用いてアナロジーを使い、自分の分野に話を引き寄せるのは上手いなと感じていて、知識がない人を煙に巻いたうえで自分の得意技を披露するのは、非常に参考になると思いました。
3つ目に研究分野であるHCI研究(と研究者コミュニティ)との不適合について書きたいと思います。これは研究室自体の問題というより、自分との相性の問題ですが、研究に着手できなかった大きな要因のひとつです。
そもそも、自分はどちらかというと、巨大で合ったり高性能であったりするものを着実に組み上げていくのが好きで、アイデア勝負だったり、プロトタイピングといった手法だったりが受け付けなかったというのがあります(同じような人のエントリ https://swimath2.hatenablog.com/entry/2018/07/30/205255)。
また、この研究分野は、一見役立たなさそうなおもちゃのようなものに、理屈をこねくり回して正当化させるのが多いように感じ(もちろんすべての研究がそうというわけではありません)、興ざめしてしまったのも要因の一つです。元々内向的な性格なのもあって、自我・意識などに興味があり、ならば「人に興味があるということであり、工学的なアプローチで人の研究をやれるのはこの分野だろう」という薄い理由で選んだのもあって、この不適合はモチベーションに意外と大きく関わりました。学部時代の成績は良い方で(必要な進振り点はそこそこの学科でしたが、コース内ではトップクラスと周りには言われていました)院試も第一希望で通りましたが、勉強ができるということが研究できるというわけではないという言葉を痛感しました。ただ、この研究室を選ばなければ、自分ももっと研究が出来ていたのではないかと思い、研究室の選択を毎日後悔しています。
それではなぜ、このような大きな問題点が数多く存在しながら、この研究室に進学してしまったのでしょうか?
第一に、自分の所属していた学科は、院試が卒論の研究室配属より前に存在し(実質4か月で卒論を書かないといけないのです)、自分の研究および研究室への適性がいまいちわからないまま、修士で進学する研究室を決めなければいけないという点が挙げられます。(一応研究室に配属されてプチ研究のようなことをするのですが、研究室生活とは程遠いので参考にするのは難しいです) それに加え、卒論の研究室と修論の研究室を別にするという慣習があり、卒論配属後合わないから冬入試を受けようというのも難しいです。
第二に、サークルの先輩(同じ研究室ではないです)にこの研究室を勧められたというのがあります。サークルの飲み会の時に、同じ分野で研究をしている先輩に、「この研究室はいいところだし、一期生として面倒を見てくれる」と勧められたというのがありました。当時は若く、盲目的に先輩の話を信じてしまいました。悪い噂が流れてこないなら大丈夫だろうと。それに先生の記事はネット上で見たこともあり、先生の研究も科学雑誌を通して知っていたこともありました。学科内でも新設の研究室に関わらず人気があり、これは安パイだろうと考えていました。今考えると人気・有名だから自分にとっていい環境だろうと考えるとは愚かなことです。(ちなみに、この先輩はD取得後うちの研究室の内定を蹴り、他の研究室のポストに就くそうです。)
第三に、一番重要ともいえる点ですが、上でも書いた通り自分の大学では新設の研究室で、情報が流れてこなかったというのがあります。今思えば前の大学のOBの方などに話を伺うなどをすればよかったとも思いますが、学部の勉強やサークルに追われていてそこまで気が回らなかったし、回っていたとしてもする余裕まであったかわかりません。しかしながら、新設の研究室に進学するというのは大きなリスクをはらんでいるということはもっとしっかりと自覚するべきでした。これを読んでいる方でもし新設の研究室に行くという人がいれば、もう一度自分の選択をよく考え直してほしいです。
ブラック研究室といえば、拘束時間が長いとか日常的な人格否定などがやり玉に挙げられやすいですが、最近では放置系ブラックなどという言葉も耳にする通り、劣悪な環境というのは色々な形で存在しています。また、他人にとっての良い環境が自分にとっても良いとは限りません。トルストイは著作に「幸せな家族はどれもみな同じようにみえるが、不幸な家族にはそれぞれの不幸の形がある」(望月哲男訳、光文社古典新訳文庫)との言葉を残しています。研究室も一つの小さなコミュニティであり、同じことが言えるのではないでしょうか。これから研究室に配属される人には慎重に自分の進路を考えていただきたいと思います。このエントリを通して構成員がみんな幸せになるような運営に変わってくれると嬉しいです。
葬式でじいさんが泣いてるのを初めてみた。
きっと本人はあんなにたくさんの人が泣くことになるなんて、想像もしてなかったと思う。
「今から死のうと思ってる」と相談されたら何か出来ただろうかと思う。
直ぐ側にむかって、しばらく入院して良くなることを一緒に考えよう、みたいなことしか言えなかったと思う。
苦しみ続ける人に「生きて」なんて言って良いんだろうか。
自由にすれば死を選んでしまう人から自由を奪うことはいいんだろうか。
歳をとれば良くなるというから、と待たせることは誠実なんだろうか。
それでも、死んでしまう直前に会った身としては
私はこのゲームをやっていないのですが、レビューを読んだだけでもいくつかの違和感がありました。少し長いですが、せっかくなので私もここに書かせてもらおうと思います。
今調べたところ、リンというキャラクターはトランス女性で、ヴィンセントというキャラクターがシス男性なのですよね?でしたら、リンは同性愛者ではなく異性愛者なのでは?
たしかにトランスジェンダーの中には、「セクシャルマイノリティーとしての自分」にアイデンティティを見出し、自己実現を図る方も少なくありません。一方で、「自分は本当は(すなわち、心は)男性/女性なのに、なぜ身体は女性/男性なんだ。男/女らしい身体に産まれたかった」と悔しい思いを抱えながら生きる当事者もまた少なくありません。「LGBT」と一括りにされてしまうことで混乱が多いですが、「LGB」の抱える悩み・直面する差別の問題と、「T」の抱える悩み・直面する差別の問題は全く異なります。あなたはどうやら、その辺りを混同しているように見受けられました。
次に、
同性愛者は自分のセクシャリティを隠して異性愛者に近づくものだという偏見ですよね。そんな同性愛者は今時いないと思うんだけど
とのことですが、つい最近もセクシャリティのアウティングによって一人の学生が自死を選択した痛ましい事件がありましたよね。この国(に限らないですが)はまだまだ偏見は強く、排除を恐れてセクシャリティを隠して生きる当事者も少なくないのが現実だと思います。
もちろん、あなた方のような当事者が増えてきたこともまた現実だと思いますし、それはとても幸福なことで、歓迎すべきで、そして目を向けるべき現実でもあるとは思います。しかし、その裏でやはり「残念ながら変わり切れない」部分も残っていると思います。そのような両面性を抱えた過渡期である現代において、そのリアルを余すことなく描ききることは不可能に近いと思います。しかし、複数の作品群の傾向を語る中で「そろそろこういう作品が増えてもよくないかな?」と提案することには大いに意味があると思いますし、私も応援します。
以上です。長文失礼しました。
躁鬱病の親を持つ子供を児相通告したらその親が自死してしまった経験談。その後の手紙の展開に救いを感じる - Togetter
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1318891
この件も、有名な他の事例として昨年の三田の座敷牢事件も、根底は共通していると考えられる。
他の家族の構成員の命すら奪いかねない、差し迫った他害リスクのある障害者を抱える家族の一家共倒れ・心中リスクをどう回避するか。
今回の場合は、精神障害者である母親の命を救う術は残されていなかったが、子供の命だけでもトリアージで救い一家全滅を回避することができた。
三田の事件の場合は、母親や他の子供の命を救うため、重度障害の長男を座敷牢に入れるトリアージを父親が決断したことになる。
三田の事件については、健常者である家族構成員の命を度外視してひたすらに障害者差別だと騒ぐのみの人権団体も存在するようであるが、それは躁鬱病の母親の件で教師を責めた無責任な親戚の姿と重なる。
あるいは、類似の他の事例でも共通して登場する人物像であるが、何の打開策も示さず、家族に他害リスクの高い障害者の扶養を強制するだけの福祉課職員、障害者施設の全廃を訴えるだけの理想主義的政治家。
ふとした瞬間に足元が崩れ落ちるような気分が襲ってくる。
今まで価値のあると思ってたものが全て無価値に感じる。今この場で死ぬことが最良の選択で、もっとも魅力的に思える。
体調のいい日だったら、「少し休憩しよう」とか「美味しいもの食べよう」とか切り替えが出来るけどその瞬間だけはどうしようもなくなる。頭がきちんと働かない。
その時は、「自殺 失敗」や「自死家族」で検索したり、「いのちの電話」をかけたりする。
前者は、死ななかった苦しみや家族を失った苦しみが書いてある。
後者はなかなか繋がらないが、話を聞いてもらうと少し楽になる。
(繋がるコツは、北海道〜沖縄まで全部チャレンジすると大体どこかにはかかる)
この辛さは、気持ちの持ちようだとは思うけど解消法が分からない。
知っている人がいたら、教えてくれ。
2019年は空前のベビーブームが起こると予測する。理由は、アラフォーはもちろん、20代後半〜30代前半でも、東京五輪「東京2020」を子どもと一緒に見たい、5月に変わる新元号に合わせて産みたいというミーハー心が動くと思われるからだ。
10月から保育園・幼稚園の3歳〜5歳児クラスの費用が無償化される。主食代や、施設によって異なるイベント・行事代、教材費は対象外なので、実態はほぼ無償化にすぎないが、それでも育休を取得できる規模の企業に勤める、仕事のキャリアも子ども収入も得たい高学歴・高年収女性にとっては十分にインセンティブといえるだろう。
一部のオンラインバンクが提供している銀行口座やクレジットカードのログイン情報を登録すると自動で集計するサービスや、そのサービスの本家の個人資産アプリに登録し、利用する店舗・支払い方法を絞り込んで完全キャッシュレスで生活すると、毎月の収支や貯蓄残高が簡単に把握できる。使いすぎると警告するので、自然に無駄遣いが減るはず。そして、意外に貯金があると気付いたカップルは、お金のかかる出産を前向きに考えられるようになる。
こうした個人資産管理サービスを利用していれば、FPのマネー相談を受けやすくなる。キャッシュフロー表に必要な数字を入れれば、生涯コストがわかり、持ち家を購入しても、堅実に暮せば、子ども1人は余裕、2人でも大丈夫とわかるはずだ。
先日、プロ(保険販売員)に相談しながら数年ぶりに最新のキャッシュフロー表を作成した。2020年7月24日に子どもと一緒に見られるよう、2019年内に第2子出産・育休1年で、5歳差の子ども2人とも私立高校・私立大学理系で計算したところ、今の公的年金が存続する限り、配偶者がかなり高齢になっても赤字にならないと判明した。実母の遺産を見込みよりだいぶ少ない500万円でシュミレーションしても「収支はプラス」となったが、配偶者は「経済的に厳しい」と、まったく数字を読まずに、以前と同じ返答を返した。
キャッシュレスで手元の資産とフローの収入を可視化し、なるべく現状または現状以上の収入を得る努力を続ければ、子どもに対する「経済的な心配」はほとんど解消できる。問題は、さまざまなストレスから、「続ける」自信が得られない点にある。勤め人として働くことはしんどい。フリーランスだと、なおさら厳しい。以前は必ずもらえる高額退職金が勤務継続のモチベーションになり得たが、今や中小企業だと退職金の見込みはほぼゼロ、大企業でも創業メンバーでもない限り、多くは見込めないので、自分をだましながら、無理に追い込んで緩やかな自死に向かう。就職氷河期世代はその前後よりも年収も平均寿命も短くなりそうだ。
急激なキャッシュレス決済の浸透と家計簿サービスに加え、もう一つ、お得な政策やECサイトのキャンペーンが加われば、「空前のベビーブーム」は決して難しくない。携帯事業者が始めた本家「学割」は総務省の介入でオトク感がだいぶ薄まってしまったが、規制のない自由競争の業界はいくらでも工夫できる。PayPayがキャンペーンで一気に知名度を上げたように、例えば、「Amazonファミリーの子ども0歳〜10歳までプライム年会費無料」や「楽天市場の全品送料無料」など、何かトリガーさえあれば、十分現実になると確信してる。
自分オリジナルのツーカーが相手にもぜったい通じるという前提で会話が行われていて、もしもそこで「お前のツーは俺にカーをもたらせねえよ」と伝えようものなら激昂してその日はお互いに口を開くことはなくなる。
無理だ。
会話が成立しねえ。
相手が普通の人なら相手側が必死に言葉を読み取ろうと努力してくれるから会話が成立するが、両方がアスペだと無理だ。
相手に言葉を解きほぐすことを要求するのがコミュ障だと言うのなら、コミュ障同士が会話をすれば会話が成立しないということだ。
お前がコイツとだけは会話が成立しないと感じる時、お前もまたコミュ障なのだと俺の中のカフカが言うが、まったくもってそのとおりだ。
そして恐ろしいことに、日本のような階級社会は人の自閉傾向を加速させる効果がある。
上司は部下に対して忖度を求めるし、部下は上司が求める忖度に答えようとする。
その時両者の自閉傾向は通常時の何倍にも膨れ上がり、軽度のアスペは重度のアスペとなり、会話の成立は途端に困難を極める。
日本という国に生まれた自閉症がちな人間は皆死んだほうがいい。
それが社会のためだ。
死ぬべきだ。
いつか、俺もああやって社会にとってレールの上の巨大な石ころとなって多くの人間を谷間に突き落す何かになるのだ。
それは自分のそばではハッキリと起きなくとも、バタフライエフェクトのように加速して遠いどこかで何十人何百人も俺のせいで死ぬのだろう。
我々は死ぬべきだったのだ。
それが今日まで生きながらえた時点で十分だろう。
今すぐ死のう。
自分がアスペでありながらもせめて善良な一個人であると必死に主張しようとするのなら、その善性は自死によって示すべきだ。
仕事のストレスで寝れなすぎるので気持ちを吐き出したが、どうにも心のモヤがとれんな。
溜め込みすぎたらしい。
もう駄目だ。
いっそ本当に死ぬか。
まあその前に仕事をやめるべきだろうな。
仕事をやめて食っていく術はないが、とりあえず今の仕事をやめて次にやる仕事が給料は安くとも気持ち的には楽であることを願って仕事を辞める家。