はてなキーワード: 司法試験とは
新聞配達からの司法試験合格とか、除籍繰り返しても薬剤師とか、何が何でもモノにする!という根性が感じられるが、元増田にはそれがない。
世間的に見栄えのする仕事とかないかなー、大卒の肩書きとか資格取れないかなー。あ、あまり難しいのは勘弁〜。キツイのも汚いのも嫌〜。てか、俺様が中卒高卒レベルの底辺労働やる訳ないっしょ。バカにしてんのか。年齢差別だ差別!
みたいなやつだよ?何の目的意識もないやつ。
やれるもんならやってみろ、と言いたい。
薬剤師って汚れ仕事じゃないし国家資格だし、と考えているみたいなのでやってみたらいい。薬学部は頭の回転が速くて気の強い女子学生やシンママの巣窟だけどな。そんな環境で6年間。せいぜい虐められないことを祈っとくわ。
数学ってそれ自体を直接役に立てるために学ぶというより、論理とか、公式を当てはめる思考力とか、
そういうのを養成するためにやっていたという感覚ないし先生にそう言われた記憶があるから、
三角関数それ自体が直接役にたつかどうかと、学ぶべきかどうかが直結するってのがよくわからない。
一時期法律系を齧っていた時、司法試験の答案を書くには「数学の答案を書く思考力」が必要
みたいなことをなんかの本で読んだような気もする。
そうなると、特にそれ自体が役に立たなくてもとりあえず数学的思考力を養うための教育は必要であるし、
どうせなら必要な人には必要っぽい三角関数がその具体例に選ばれてしまうってのはある程度仕方ないんではないかなあと思うんだが。
ここのところ、東大とか京大を受験して合格した人々の投稿が続いているけど、それが何年前の話なのかはおいといて、細かく模試の成績とかを覚えていることに感心する。私は大学を出て就職してから25年以上も経っているので、あまり細かいことは覚えていなくても仕方ないと思っているけど、勉強が出来る人、努力家の人というのはそのへんからして違うのかも知れない。
私はそこそこ進学校で有名な公立高校に通っていたわりには、受験勉強にあまり熱意がなく、浪人覚悟で東大一本とか早稲田一本とかやってるクラスメートを横目に何とかMARCHのとある学部に滑り込み、自分より成績のいい友人に「合格おめでとう」と言わせた記憶だけが残っている。確か彼女は私が入った大学の中で一番偏差値の高いところを滑り止め(!)にしており、第一希望の国立大学に落ちたという理由で一年浪人した後、東大に合格した。
そういう人たちを見ていてすごいなと思うのは、とにかく努力家であること。そして努力を続ける根性があること。私はあまり受験勉強に熱心でなかったので、私大文系にすれば数学と理科を受験しなくていいからと理系の勉強をほとんどスルーし、保険のために第一希望と同レベルの大学や学部を何校も受けるようなことはせず、確実に受かりそうな大学しか受験しなかった。今思えば早慶ぐらい受験しておけば良かったかも知れないけど、うっかり合格してしまって大学生活で勉強について行くのに苦労したり希望の専攻に行けなかったりするとイヤなので受験料をムダにするようなことはしなかった。
だいたいよほどのエリートコースを目指さない限りMARCHぐらいの大学を出ていれば困らないと思っていたし、実際バブル崩壊直前に就職活動をした我々はそこそこ名の通った企業に入社する連中が多かった。飛び抜けて成績優秀な先輩や後輩はキャリア組官僚になったり司法試験に受かったりしたが、さすがにそれは一握りのエリート限定でまぁそれが妥当な結果だろうと思える状況だった。
で、無事就職するところまで行ったはいいが、自分の欠点として反省しているのは「(勉強でも仕事でも)ほどほどに足切りされない程度にやればいい」「完璧を目指して自滅するのはバカ」という認識がしみついてしまったこと。だいたい職場で優秀だと見なされる人間は、「結果を出すためにベストを尽くす」ことを旨とし、仕事のために自分の時間を犠牲にすることを厭わなかった。でも、優秀だと思われると激務ポストでいいようにこき使われ、嵐のような残業に耐えるわりにはさほど見返りがないので、全然そういう人々を羨ましいと思えなかった。
さらに私のやる気を失わせたのは、2~3年ごとに人事異動があり、異動のたびに前の職場で覚えた仕事がムダになることだった。結構専門的な仕事であってもきちんと研修が行われることは少なく、一所懸命勉強しても異動すればそれがパーになると思うと、自分は必要最低限の仕事だけこなして極力定時で帰れる職場こそ最高だとしか思えなくなった。当然そんなヤツが上司にいい評価をもらえるはずはなかったけど、まっとうに出勤して最小限の仕事をしている限り、上司も私の給料を減らすようなことはできないのだった。逆に優秀だと評価されている人間でも、多少給料に色が付く程度で、むしろ収入の差は自分の時間を犠牲にすることによって得られる残業手当によるところが多かった。
一番つぶしが効くのは、新人の女の子がよくやらされる「庶務担」というやつで、旅費や残業手当の計算をし、年末調整の時期が来れば書類を皆に配って書き方や必要書類の指導をする仕事だった。一緒に福利厚生や社会保険関係の手続きもする。あとは経理系の仕事で、予算の執行状況を見ながら消耗品を買ったり業者に支払いをしたりする仕事だ。私は今、勤続25年を超えてそんな仕事をしている。我ながら給料ドロボーな気がしなくもないが、どうしても仕事を生活費を得るための手段としか思えないのでどうにもならない。仕事自体にモチベーションを見いだせる人、「ベストを尽くそう」と頑張れる人がちょっとだけ羨ましい。
自分でも何が言いたいのか分からなくなってしまったけど、「仕事でも勉強でもモチベーションを持って努力し続けられる人は偉い」「家庭の事情などが許す限り、勉強(スポーツなどでも可)はやれるところまで努力した方がいい」というのがまぁ結論なのかな。ただ、仕事に関しては「優秀な人に仕事は集中する」「頑張り屋だと思われるとどんどん重荷を背負わされる」というのが鉄則なので、自分の会社で過労自殺とかが出るようなところに勤務している人は無理しすぎない方がいいと思う。長文なのに大した結論じゃなくてごめんなさい。
父が失敗した司法試験に合格できるようなギリギリのラインの大学だ。
某宗教にはまっている、両親から離れたかった理由としてはもっともらしい
理由にできたということもある。
ダブルスクールで勉強もしたが、司法試験には4年受けて1次通過がやっとだった。
そのうち、司法試験の制度が変わることになり、父と同じく弁護士の道は諦めた。
士業の予備校の非常勤講師をやり、そのうち介護関係の法務部に就職した。
特に不満はなかったが、会社のお局さんと打ち解けることができないという
致命的なコミュ力のなさから、会社も1年そこそこで退職することになった。
もう、何もやることがないと思い、失礼ながら楽そう、頭つかわなさそうという理由だけで、
警備員の求人に応募した。面接に行った時にはすでにシフトが決まっていた。
一番トップが、施設警備といい、みなさんが働いている大きなビルの警備員室でモニタを眺める仕事だ。
続きが雑踏警備でこれはイベントなどの警備を行う。まぁ立って声が出ればよしの仕事だ。
最下層が工事警備だ。これは雨天であろうがなかろうが、早朝・深夜の道路の片側通行を速やかに行う
為に不可欠な仕事で僕はこれをやらされている。
入ってすぐの相方は、ベトナムだったかアジア系の人で日本語がほとんど通じなかったが笑顔が素敵だった。
ある時、クルマがベトナム人の方からわたしの方に侵入してきているのに、
トオシテイイヨーというので、こちらのクルマを通したところ、正面衝突になりかけたことがある。
これでもクビにならないような仕事だ。
年末、年度末にかけて、寒くなると僕たち私たちの出番が増える。
昨日も一昨日も工事をやっているおっさん達に邪険にされつつ、立ち続けている。
子どもが「あ、おまわりさんだ!!」とはしゃいでいたら、
おかあさんが「あれは、ただの警備員さんよー」って答えていた。
気がついたら、クリスマスの日に46歳になっていた。
9月はいろいろ忙しかったので10月頭から就活を開始しました。
旅行とかぶったので弁護士会主催の合説には行きませんでした。合説の効能には諸説ありますが、地方では切実に司法修習生を欲している企業が出展しているみたいなので、東京大阪だけでなく近隣の単位会の合説も覗いてみると良い出会いがありそうです。
そして合説にも行っていない就活弱者のわたしが就活に利用したのはdodaとMS-Japanとジュリナビキャリアとひまわり求人とコネです。
前二者はネットで登録したあと対面のキャリアカウンセリングに行きました。
行ったあとで気が付きましたが、カウンセリングは私たちアプリカントがクライアントへの紹介に足る人間かどうかをチェックする場だったっぽいです。
面接よりきっちりした服装で、面接よりしっかり準備して受け答えするほうが良さそうです。
ジュリナビキャリアはSkypeでのカウンセリングでした。上だけスーツを着て自宅で受けました。
dodaでもMS-Japanでもジュリナビキャリアでも「再来年1月の就職でいまから活動をはじめるのは早すぎる」と言われましたが、結局いろいろ紹介してもらえたのであまり気にしないで良いと思います。
就職活動なのか転職活動なのかよくわからない立場ですが、年齢的には転職活動なので、
といったところでキャリアアドバイザーの方の装いを少し固くした感じにしてみました。
もっとも服装の細部はまったく見られていないような気がしました。きれいで無臭のブラックスーツさえ着ておけばほかはある程度までは許されそう。
なお、当時、婚約指輪を着けていたのですが、就活中は外していました。
ふだんから周囲に「インハウス志望です」と言いまくっておくと、思いも寄らないところから引きがあったりします。
転職サイトを通じた応募はボタンを押下するだけなのでめっちゃ楽です。
合格年10月11月の就活は予想以上にお祈りされるので被りは気にせずやたら応募しまくるのが良いと思います。
条件面では「実務経験3年」などは無視して大丈夫ですが、「製造業界での知財実務5年以上」など詳細なものになってくると未経験者が応募しても無意味だったりします。
応募する前に公式サイトで最近の業績を見たり「カイシャの評判」や「openwork」や5ちゃんのスレなどをくまなくチェックしたりしたほうが良いと思います。
社内に弁護士がいるか/その弁護士は何期でどこのロー出身か/弁護士がやめまくっていないか/ここ5年の業績・株価はどうか/
なぜインハウスを募集しているのか(清算や訴訟の一時的な対応係ではないか)/業界の将来性/残業の量
などが自分に合う企業かどうかのチェックポイントなのかなあと思います。
社名でGoogleニュース検索するのも有用でした。
経歴書は、A4・2~3枚と言われていますが、A4・2枚を厳守したほうが良いと思います。
字数を気にせず書いたものを2枚に収めようとすると、どの項目も触りの部分だけを記載することになるので、面接での質問のとっかかりになりやすく、自分としても一度まとめているので話を広げやすかったです。
なお司法試験受験者は経歴書を答案のように書きがちですが箇条書きのほうが良いような気がします。箇条書きの経歴書を「読みやすい」と言ってくれた面接官がいました。
箇条書きの項目は、
など。
志望動機は、
など。
志望動機を書くに当たっては「みんなの就活」がかなり参考になります。
とにかく経歴書全体で平仄が合っていればなんでも良いんじゃないでしょうか。面接で矛盾したことを言わないよう自分の中にケースセオリーを作ろう。
新卒のエントリー用サイトに目を通し、1分くらいの自己紹介とそれらしい志望動機を用意しておけばあとは流れで大丈夫だと思います。とにかく謙虚に明るく……。
企業なんて星の数ほどあるので変な面接をするところには入らなくて良いかな……という気分で受けると楽です。
以上です。
24歳パート主婦、今更こんな夢抱くようになるなんて思ってもなかった。
恥ずかしくって誰にもまだ言ってない。だって小さな子供がプリキュアになりたいって言うのと同じじゃん?
たぶん無理だろうけど、分かってるけどチャレンジしたいんだよ、だって子供もいるけど私まだ若いじゃん、頑張ったらワンチャンあるかもって思いたいじゃん
お金もないのに何言ってんだって感じだけどさ、参考書すら買うのケチってる状態なのに
だけどメルカリで格安で譲ってもらった刑法の入門書はとても面白くて、やっぱりチャレンジしたいなって思った。
ほんのちょっと(たぶん60時間くらい?)勉強しただけで受けた行政書士試験は自己採点によると受かってるっぽくてさ、やっぱわたしセンスあるかもなんて思って
おれは地方の高校出て浪人して一日10時間以上の勉強漬けでようやくマーチに合格したが、
首都圏の高校出身でそんなに勉強しまくらなくてもそこそこの勉強で合格した人もいる。むしろそっちのほうが多い。付属校上がりもいる。
就職活動するようになってから、やっぱり地頭の良さはだいぶ違うんだなーと思い知らされた。
同じ学校の中でみんな同じように本気出せば、そこそこの努力で入学したやつのパフォーマンスの方が高いのは当然だし、彼らは余裕があり、遊びも知っている。
家庭環境だって全然違う。親御さんがそれなりの社会的地位でお金ある人が多い。サラリーマンなら普通は大卒で管理職だろう。
うちは違った。うちの親は中卒でペーペーだった。お金がないから泊まりの家族旅行なんか一度も行ったことなかった。大学入ってもお金のかかる遊びは全然出来なかった、というより知らなかった。
おれが大学に合格したときは、もしかしたら将来もっと上の方にいけるんじゃないかという希望があったが、就職活動に入ると自分の努力が空回りしてばかりで、正しい方向の努力ができず、まるっきり成果が出せなかった。地頭が悪かったのとコミュ力がたりなさすぎた。
大手企業や銀行に就職する人、国家公務員試験、公認会計士や司法試験合格者、周りにいくらでもいる。つい最近まで普通に喋ってた同級生が急に天の上の人に見えた。
おれは業界最末端の小さな会社に契約社員として入ったが、、収入のことは話したくない。
人は結局、生まれついた環境で将来が決められてしまうのか、あがいても無駄だったのかと、アラサーになった今でも苦々しい気持ちになる。
だからなのか、愛校心みたいのはまるでない。テレビで同じ大学の人が出てきても、だからどうした、同じマーチの○でもおれはあいつらと全然別モンだから関係ねえし、と冷めた気持ちになる。
マーチははてなでも5chでも一番馬鹿にされるけど、ひとくくりにして馬鹿にするのはどうかと思う。
こういうおれみたいのは、落ちこぼれの典型的な例で、意外にたくさんいるのではないかと思う。学歴を活用して底辺から這い上がろうとしたが、結局地頭とコミュ力が足りなくて正しい努力ができず、這い上がれなかったどころかさらに落ちこぼれるというパターン。自業自得と言われればそれまでだが。
以下、司法試験受けるどころかまともに法学で単位とれなかった法学徒崩れの一見解です。
まず、法学にもざっくり2つの分野が存在する。現実社会で運用されている実定法を研究する「実定法学」と、それ以外の法にまつわる研究をする「基礎法学」だ。
このうち、基礎法学には、少なくとも今「○○ 査読」でググった程度の範囲では、論文誌に査読がある。少なくとも法哲学・法制史・比較法学・法社会学あたりで査読付論文誌があるのは確実だ。勿論ないものもあるだろうし、そういうものに関しちゃガンガン批判していくのはありだろう。ただ、少なくとも「全ての法学分野で論文に査読がない」というのは明らかに間違い。
こちらはおそらく事実。というか、査読というシステムの意味があまりないということは考えられる。これは、実定法学というもののイメージがついていないと多分理解しにくい。
の三段階くらいレイヤーが存在する。ひとつ目は誰だろうと覚えてる当たり前の知識だけど、二つ目になると正解がないので絶対に個々人で異なってくるよね、3つめに至っては言うまでもない、みたいな話はおそらくある。
具体例を挙げよう。刑法には「刑罰は何のために存在するのか」という考えにざっくり2つの異なる立場が存在する。「ある個人が、悪とされる『行為』を行ったのでそれを罰しよう」という行為無価値論と、「社会的に悪い『結果』をもたらしたからそれを罰しよう」という結果無価値論だ。これは刑法における根本的な思想である。それらはどちらが絶対的に正しいとかではなく「どの分野でどの程度どちらの立場を優先するか」というレイヤーで争いがある。
具体的には、「心が壊れた人間による殺人」と「自分の赤ちゃんを殺そうとした人間を殺した母親」などだ。前者は刑法39条の規定により無罪となるとしよう。なぜなら、心神喪失状態での行為は「自分の行った行為に対する責任」を問うための刑罰を化しても無意味だからだ。その人は自分がおこなったことの意味を理解していないから、刑罰を科すことに意味がない。ふざけるな、という意見は多数あるだろう。心情的にそれは俺も理解できる。しかし、それでもなお刑罰を科すとするならば、それは「誰かが人を殺したという『結果』が悪いことである。だから、本人が自分の行為を理解していなくても、社会としてその結果をもたらした人間を罰しなければならない」という立場をとる、ということにならざるをえない。
では、「自分の赤ん坊を殺されようとしている母親が、殺そうとしていた人間を殺した」といった場合、その人間に対してどういう立場をとるべきなのか?「人を殺したという結果は社会にとって変わらないのだから、赤ん坊が殺された母親であっても刑罰を科すべき」という立場になり得るのか?
この話は、実のところ論理的には適切な例ではない。結果無価値論と行為無価値論は違法性阻却の議論で出てくるものであり、前者は心神喪失による有責性の阻却の話で、後者の緊急避難(追記:ブコメで「正当防衛ではないか」とありましたがそのとおりです。ありがとうございます……)による違法性阻却の話でしか出てこないからだ。もっと言えば刑法と民法と憲法では基礎になる論理が全く異なる。ここで俺が言いたいのは、実定法における「本当に基礎の基礎の大前提になる考え」は、法解釈において多くの矛盾を生み出す、ということだ。そこには「正解がない」。どの場面でどのような立場をとるか、それは1か0かで決められる問題ではなく、「ある場面ではAの立場を肯定し、別の場面ではBの立場を肯定する」、そういった解釈違いが、刑法民法刑法何百何千もの事例において発生する。それらに対して、「ある事例でAの立場をとり、別の事例ではBの立場をとる」という判断の組み合わせに、論理的な整合性をどのようにつけるか。それを生み出すのが、ざっくりと法学における「学説」と呼ばれるものになる。繰り返すがこれは刑法の例であり、民法や憲法では細かな部分は異なるだろう。だが、どの分野でも「学界の多数説」「学界の少数説」「実務における判例」の3つが異なる立場にある、というものが1つや2つくらいあるのは当たり前だ。それが実定法学の実情だ、と思っていいはずだ。
そんな現実において、あくまで俺の認識に限って言えば、その「矛盾しない解釈の論理体系を構築する」というのは研究をやる上では当たり前のことだ。論文出す以前に、研究ができるかどうかという前提の話。何の話をしているかというと、その能力を持っているかどうかを確認するのが「司法試験」であり、司法試験程度(そう、司法試験「程度」)を合格する能力がないと、法学研究なんてできない、というのが現実なのだ。全体的な解釈の整合性をとれているのは当然である。司法試験に合格すらできない人間は研究者になれない。「最低限の研究能力」という点で、院なりなんなりに進んでいる時点で最低限の自然淘汰が発生しているのは実定法学研究では当たり前の前提である。したがって「最低限の論理的整合性が取れてるかどうか」という意味での査読はそもそもない……というのが、院生の友人知人を持たない俺の、推測レベルでの解釈だ。そもそも論文を出せる環境にいる時点で、能力が保証されているからだ。
そして、そこからさらに「構築した論理体系による学説が『受け入れるに値するものか』」って話にまで踏み込むと、そのための「査読」ってなによという話がある。たとえば、心神喪失状態で何十人と殺した人間を無罪にすべきという、法学の論理的に整合性がとれている説を唱える人がでてきた場合、それを査読する意味とは何か。論理的には正しい解釈体系が、何十人もの法学者によって何十個と出来上がっているなかで、誰の立場をとるか。ここまでくると、正直なところ、査読がどうこうという話ではないのだ。はっきり言えば、「その学説を社会が受け入れるかどうか」って話なのだ。
この辺りを、法学を勉強したことがないひと、いや法学を勉強したひとですら勘違いしていることがあるけど、法と社会/法と政治というのは、ものすごく漸近している。法学の学説が受け入れ良レルかどうか、というのには少なからず社会的価値観/社会通念が影響しているし、法は決して固定的なものではなく、社会のなかで変動している。法は社会に内在しているし、社会に対して法は影響力を持つ。
そうした実定法学の特徴が生み出すのは、ある一定のレベルを越えると「学説が正しいかどうか」が「その学説が多くの人に受け入れられるかどうか」という問題に近づいていく、ということだ。法学部にいればよくあることだったが、どんなすごい教授でも、講義のうち何か1つくらいは、その人独自の(少数派)学説をとっていることはざらにある。だから、そういった場合に「査読があるかどうか」は問題にはならず、「発表した学説が受け入れられるか/無視されるか」という話が、業績や信用性、実力の評価として組み込まれるんじゃねえかな、とは思う。
まあ、それが客観的指標とは言いがたいのが問題だ、というのは絶対ある。だが、その場合はどのようなかたちであれば「客観的指標」による評価を法学が下せるのか、というのも問題になるだろう。
このように、「研究ができる/研究論文を出せる」という環境にいるというスクリーニングの上に、「それが社会的に受け入れられるか」が重要視されるという事後的なスクリーニング、その二つがあるからこそ、実定法学に査読の文化がない、というのはおおよそ雑な話としては、言えるのではないかと思っている。
で、これを読んで異論があるガチの法学研究者の人、補足というか訂正頼む。ぶっちゃけ法学でまともに単位とってない俺みたいなアホが補足いれないといけない状況にうんざりしてるんだ。真面目に誰か解説してくれ。
長い愚痴。
22歳の女。私って生きている意味がないなとつくづく思う。
まず仕事。入社半年。職場はそれなりに大手で、旧帝国大レベルの高学歴や司法試験に受かっている優秀な人ばかり。こんなダメ人間にも優しい人が多いけれど、私は頭悪すぎて一部の人にイラつかれてる。何でここに入れたのか自分でもよくわからない。受付兼事務みたいな業務内容だけど、お客様を怒らせてしまうこともある。
仕事の話もよく分からないし、向いてないのかもしれない。ただ、福利厚生は良いし、今より良い条件の職場に転職できるとも思えないからバカなりにここで頑張らせてもらうしかない、と仕事の勉強もしてるけど、全然追いつかないし分からないことだらけで、毎日自己嫌悪で苦しくて泣いてる。根本的に頭が悪い。
次にプライベート。こっちは最悪。信じられないかもしれないけど22年間彼氏がいたことがない。喪女っていう言葉を最近知ったけどそれだ。誰にも承認されないで生きていることが辛い。
理由は単純でブスだから。もちろん努力しました。10キロのダイエットもして美容体重だし、オシャレとよく言われるくらいには身だしなみに気を遣ってる。でも努力ではどうにもならないくらいブスです。遺伝子レベルのブス。謙遜でしょ?と思う人もいるかもしれないけど、そもそも可愛かったらこんな歳まで彼氏ができないなんてありえない。
私はこの醜い容姿が嫌いで、ずっと整形したいと思っている。整形までいかなくてもせめて歯の矯正はしたい。(歯並びは綺麗ですが上顎前突)女でブスなんて生きてる価値ないと思うし、自分の醜さが嫌で外に出られない日もある。一日中引きこもって鏡を見て泣いてる。異常だと自覚はしてる。昔外見のせいでいじめられていて、容姿に強いコンプレックスがある。高校生までは都内に住んでいて、知らない人にすれ違いざまにブスと言われることもあった。今は地方にいるからか昔よりはマシになったからか分からないけど言われない。
友達も、その時々ではそれなりに浅く広く付き合えるタイプだけど、一生の親友!みたいな子は2人しかいない。2人いれば十分かもしれないけど、私みたいな薄っぺらいつまらない人間といつまで一緒にいてくれるんだろう。そろそろ愛想つかされそう。2人とも本当に素敵な人間で、本当にこんなクソみたいな女と友達でいてくれることが不思議だからね。
実家も祖父が亡くなってから遺産関係で親族大揉めで冷戦状態。怖くて近寄りたくない。母親だけは優しくて明るくて大好きだけど。
彼氏もいないし友達も少ない。仕事もできなくて必要とされていない。仕事頑張ろう、って思うときもあるけど、仕事こんなに頑張ったところで何のために頑張るんだろう、誰も褒めてくれないし養う子供がいるわけでもないのに。私の存在自体職場のお荷物だし、何のために働いてるのかわからないくらいなら辞めちゃっても良いような気がする。こんな気持ちで働いていたら他の社員にも失礼だ。まあ、辞めた後どうするのかわからないから辞められないけど。
しかもこのまま歳をとってずっとこの最悪な人生を続けていく意味って何かあるのかな。考えても仕方ないけど私ってつくづくゴミみたいな人間だし早く死んだほうが世の中のためになる気がする。
生きててもつまらない。ブスに生まれた時点で女としては楽しく生きられないし、バカに生まれたら仕事もできない。もう死んじゃいたい。
長々とごめん。誰にもこんな話を聞いてもらえないけど誰かに見て欲しくて書きました。
BUMP OF CHICKENを聴きながら勉強をした。
入ったのは、文科一類。
順当に行けば法学部に進学するところだ。
東大には、語学別のクラスがあり、顔合わせ的な意味でクラスごとに旅行にいったりする。
おかげで顔見知りくらいはできたが、友達ができることはなかった。
ガリ勉ばかりだと思ってた東大だが、「チャラい」人の方がむしろ多かった。
大学の授業には、最低限だけ出席し、Flashやテキストサイトを見て時間を潰すことが増えた。
就活に使えるようなガクチカエピソードもなく、コミュ障が面接をクリアできるとも思えなかったので、ロースクールに進学することにした。
そんな安易な発想だ。
ソクラテス・メソッドの名の下に、授業で発言を要求されるのには困ったが、学問的な内容であればまだ発言しやすい。
有志で勉強会をする人たちもいたが、ひたすら一人で勉強をした。
アラサーの男女が高校生みたいな色恋沙汰を繰り広げるのを横目に見ながら、判例や学説を頭に叩き込んだ。
テキストサイトはその黄金時代を終え、息抜きは2ちゃんねるに変わった。
ペーパーテストは昔から得意だし、他の人が人間関係に充てている時間を勉強に注ぎ込んだのだから、当然の結果だろう。
勉強ができる上に、顔も良くてコミュ力もある化け物のような人達に就活では負け続けた。
唯一、拾ってくれたのが今の事務所だ。
おかげで、なんとか今は生きている。
大学生のときは何も考えていなかったが、弁護士はコミュニケーション能力も重要だ。
法治国家を否定するラディカルな思想を持つ人がいても、おかしくはない。
しかし、日本が人治国家になったら法律は無用=法務を専業とする弁護士も不要となり、自らの存在意義を否定する「矛盾」に陥るのではないか?
オウム事件とこの集団対応は、この「前例のない事件に対しては前例のない体制で」でやってきた。それだけの大事件であり、特異な集団であり、特異な思想だったからです。
で、今回の支援要請につき、国が応えられないなんてありえない筈、と確信しています。
・その必要性があり、決して憲法に違反するものではなく、法令に違反するものでさえないのだから。
・日本が、テロと闘うならば、そのテロ行為の背景などにも対応していくことによってこそ、「闘う」といえるのだから。
助けてください。
社会は常に変遷して行く。かつてない状況に出会ったら、新たな対処方法を確立する必要がある。そこまではOKだ。
しかし、最初は手探りの試行錯誤ゆえ不具合が生じた場合、後でちゃんと不具合を修正できるのか?
滝本弁護士の独断で、関係者の利害を調整することなく、物事を強引に進めてしまった場合、その結果重大な人権侵害などが起きても、ちゃんと回復できる仕組みも併設されているのか?
新規の対応で失敗しないためには、ちゃんと保険もかけているのか?そこを注意深く観察する必要がある。
デリケートな問題を扱うにしては、十分な議論を尽くすだけの「慎重さ」が欠けていないか?
万一、間違った前例を作ってしまった場合、後戻りできなくなるのでは困る。
歴史を振り返ると、人類は多くの失敗を繰り返している。(同じ失敗を繰り返すのは、単なるアホでしかない。)
「前例がない」場合こそ、十分に時間をかけて話し合い、慎重に対処すべきという「共通認識」が必要だ。
民事および刑事の係争は、法律というルールに基づいて解決を図るべきだ。
なぜ、滝本弁護士は、他の利害関係者と対話の機会を持たないのか?独断と偏見で話を進めていないか?
司法試験の勉強をしたなら、少なくとも一度は日本国憲法を読んだことがあるはずだ。
1945年(昭和20年)に、ポツダム宣言を受諾して連合国に対し降伏した日本政府は、そこに要求された「日本軍の無条件降伏」「日本の民主主義的傾向の復活強化」「基本的人権の尊重」「平和政治」「国民の自由意思による政治形態の決定」などにより、事実上憲法改正の法的義務を負うことになった。
そこで連合国軍占領中に連合国軍最高司令官総司令部の監督の下で「憲法改正草案要綱」を作成し、1946年(昭和21年)5月16日の第90回帝国議会の審議を経て若干の修正を受けた後、同年1946年(昭和21年)11月3日に日本国憲法として公布され、その6か月後の翌年1947年(昭和22年)5月3日に施行された。
第14条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
なぜオウムだけは差別して、議論の輪から外しても良いと言えるのか?(言っていないなら問題ない。)
「好き嫌い」という感情ではなく、「真偽」という論理、すなわち法律(ルール)に基づく説明ができなければ、法曹としては失格だ。
パブリックコメントを発する以上は、他者からの質問に答える義務がある。(質問を受け付けないのなら、それは単なる独り言でしかない。結果、他者も聞く耳を持たず、自身が孤立する結果を自ら招くだけだ。)
滝本弁護士には、公開の場で質疑応答を行なうだけの「誠意」を見せて欲しい。
「テロ」といえば昨今の「テロ等準備罪」を巡る議論を思い出す。
「日本では犯罪を実行したことを罰するのが原則です。それに対して、共謀罪は犯罪の計画に合意したこと自体を罪ととらえ、犯罪を実行する前に処罰しようというものです。深刻な犯罪を未然に防ぐことが狙いです」
「過失」を巡る法理の分類は、歴史的に「旧過失論」「新過失論」「新々過失論」(危惧感説)などが挙げられる。
テロ等準備罪は、危惧感説に基づく新しいタイプの法律と言える。日本では、藤木英雄先生が先駆者として有名だ。
藤木英雄(1932年2月20日 - 1977年7月9日)は、日本の刑事法学者。元東京大学法学部教授。
戦後の数ある刑法学上の論争の中で、実務上最も重要な意義をもったのは過失責任を巡るものである。
藤木は、高度成長期において非伝統的な犯罪が多発するという状況に際して、新たに企業側の過失責任を拡張することで、被害に苦しむ市民を救わんと尽力し、新過失論を一歩進めて「新・新過失論」・「危惧感説」を提唱した。
危惧感説が登場する以前の新過失論は、逆に伝統的犯罪や交通事犯に対する過失責任の限定を意図していただけに、画期的な転換といえる。
危惧感説は、後に板倉宏らの一部の学者や検察官の支持を得て、森永ヒ素ミルク中毒事件で採用されるに至ったが、北大電気メス事件( 札幌高判昭 51.3.18 高刑集 29.1.78) では明確に排斥されており、学会でも一般的な支持は得られなかった。
日本ではまだ、危惧感説に基づく国民の合意形成が十分になされている状況とは言えない。(テロ等準備罪も始まったばかり)
従って、滝本弁護士が、「テロと闘う」という大義名分の下、かつてない法的判断を要求するつもりならば、日本国民に対する説明の義務が伴う。
滝本弁護士が単なる思い付きや感情論で言っているだけなら、後世に悪影響を残す有害な前例を作ってしまうかもしれない。
ハッタリではなく、滝本弁護士が藤木英雄先生の業績を踏襲し、発展させる意気込みがあるなら、一概に有害とは言えない。
従って、公開の場で議論を尽くされなければならない。
どのような方法で公開討論を進めていくべきか?日本国民全員で検討する必要がある。
(滝本弁護士には「オウム問題を風化させたくない」という思いがあり、さらに法治国家を否定しているわけじゃなければ、この結論に至るだろう。)
うちの会社はあんまり東大・京大クラスはいなくて一橋あたりがトップですが、学歴と仕事の出来が比例しないとやっぱり厳しく言われますね。
私の知っている範囲では、国公立出身者にあまりハズレはいないのですが、早慶レベルの個人差が激しいです。ロースクールまで出てて、司法試験を目指してたような子でもなぜか仕事の出来がいまいちだったりします。
逆に高卒とか三流大学出身者(失礼ですね(^-^;)でも優秀だと評価されてどんどん出世していく人もいます。国のキャリア組とノンキャリみたいに、入口で分けてしまうと、出世すべき人が出世できず、出世しなくていい人が出世してしまうという困った現象が起きると思うのですが、どうなんでしょう?