はてなキーワード: 即物的とは
タチの悪いことは、最近のコンビニは質が良すぎるということだ。スピッツがこの世紀の発見をした1997年当時、コンビニは劣悪なものであった。その時に買えたのは安っぽい甘みでしかなかった。あくまで日々のインスタンスな欲望を満たすための甘味でしかなかった。
ひるがえって現在のコンビニスイーツはどうだろう。ちょっとした街のスイーツをしのぐだけのクオリティを24時間365日提供し続けている。コンビニスイーツと王様のブランチで人気のスイーツの違いはただの希少性でしかない。
つまり、つまりだ。コンビニで買える愛も変化してしまったのだ。ただひと時の欲望を満たすだけのインスタンスな愛ですら、その愛の質だけを見れば行列に並んで手に入れる高級な愛と大差ない。僕たちはコンビニで買える愛だけで一生を過ごしていける。何もかもが即物的な時代になってしまった。愛は失われたのだ。
高専について知りたい人や高専に職を求める人に向けて、いわゆる高専に採用され働いてみた感想を書いた。
高専と一口に言っても色々ある。上から下まで序列ができていて学生や教員の質は雲泥の差であるらしい。上は大学編入予備校と化したお受験高専から、下はコネと気合と根性で中級技術者という名のほぼ技能工を企業に送り出す工業高校のようなものまでが同じ「高専」という言葉でひとくくりにされている。ここに書かれているのはあくまで最下層の淀んだ高専の話であるということにご留意いただきたい。
当たり前だけれど、自分が働いた職場以外のことはほとんど知らない。学会で会った知り合い、部活引率先の懇親会で交わした会話などからほかの高専のことは推察するしかない。私の見てきた世界と、学会などで出会う高専生を比較すると平均的な高専生は素直で良くできると思う。だから、私が感じてきたよりは高専全体のポテンシャルは高いはず。
高専の使命は「実践的技術者の育成」なのだそうだ。実際に私が高専で目にしたものは、平均かそれ以下の学力をもつ田舎の中学生を集めて、食っていける程度に躾と学習を施し、会社へ送り出すというものだった。また、ひとり親家庭など経済的にハンディを抱えた中学生を職業に結び付ける「社会の落穂拾い」でもあった。ここまでこの文章を読んで、あなたは「なるほど高専は社会に役立つすばらしい高等教育機関だ!」と納得したかもしれない。高専がどんな役割をもつ場所なのか、知ってほしい。
実のところ、高専教育は学力以外の「教育」が多い。博士を取って専門を極めてきた人たちにとってはカルチャーショックだろう。この「教育」に馴染める人は高専に残るし受け入れられない人は去っていく。教育のためにすることは会議だ。会議、そして会議のための会議、すべては教育的配慮というふわっとした美名のもとに決まっていく。子供だからと悪人がのさばり、善人が去っていく。
担任をすれば、すべての時間は学生に割かれる。あれもこれも、すべて担任のせいにされる。
寮や部活は前時代的な暴力が支配する世界だ。さすがにいまは身体的暴力はないが、言葉の暴力は公認され教員は暴力を擁護する側に回らなければ運営できない。高専では強くなければ生きていけない、そういう当たり前のことを見せつけられる。それが教育なのだろう。
高専の求人には博士の学位がほぼ必須だ。だから、私は高専教員が独立して研究を行うことのできる仕事なのだと思っていた。働いてみて、高専教員が研究できる仕事というのは嘘じゃないとわかった。しかし、研究に裂けるリソースは驚くほど小さいし、年齢や職位が上がれば上がるほど研究の割合小さくなることが容易に予見できるというのは辛い。
学問的な研究は否定こそされないが歓迎されないと感じる。「実践的技術者の育成」こそが主目的であり、研究はそのオマケであるべきという雰囲気を学校ぐるみで感じた。そんなもの無視している先生もいたけど。時間が限られているので仕方がないが高専での研究内容はよく言えば流行りに乗った、悪く言えば軽薄なものばかりだった、骨太なものは煙たがられる傾向にあった。日本の研究自体が即物的なものに誘導されつつあるので、もうじき高専は過剰適応として絶賛されるだろう。
上司の意向など誰にも邪魔されずに研究テーマを設定できるから、うまく研究を手伝ってくれるパートナーを見つけることができればいいかも。
ちなみに、高専の教員リストには工学博士などの学位がズラッと並んでいる。しかし実際のところ、高齢高専教員の学位は、お上の意向でしかたなく取得したハリボテみたいなものだと知ってほしい。
高専機構というお役人様の改革病に付き合わされて、高専は疲弊している。小さな予算をもらうために企画書を書き仕事を増やし、高専教員は様々な機関の下請けにされそうになっている。そしてこれからクビキリはないにせよ、退職者の不補充で地獄が始まる。
学生たちはよく言えば純粋だし、別のいいかたをすれば子供だった。子供相手には誠実さだけではダメで、チカラで黙らせるみたいなスキルが必要だ。子供が好きで思春期の悩みに向き合って人格的な成長を引き出したい人にこの仕事は理想的かもしれない。でもそれって、工学博士という条件じゃない気がする。
愛すべきテキトーおじさんたちが大好きだった。仕事でやらかした数々の失敗伝説を持つおじさんたちがいて、人生の教訓みたいなものを生で見せてくれた。
私が見てきた高専教員には三つのパターンがあった。第一に間違って高専に来ちゃったポスドクタイプで、こういう人は雰囲気ですぐわかるし数年ですぐ辞める。第二は熱血教師で、学生指導も卒研指導も大好きみたいなワーカホリックだ。そういう人は自分が忙しいだけじゃなく周囲の仕事も増やしていく困ったタイプだけれど、この層で高専の運営は回っている。第三は重鎮タイプで、誠実で穏健なおじいちゃんや、数々の失敗伝説や奇行エピソードをもつ勇者まで様々だ。あなたは、どんな教員になりたいのだろうか考えてみてはいかがだろうか。
いったい、高専教員として長くはたらき続けている人たちは、何に喜びを見出しているのだろうか、私にはわからない。だから、長く働き続ける理由を見つけられたらいいかもしれない。
「高専で研究できなければ、どこにいっても研究できない」という名言を盾に揺さぶりを掛けてくる人がいるかもしれない。それは、ブラック企業の「ここを辞めたらどこでもやっていけない」と同じ構造なので惑わされないように。高専の他に行き場がなければ高専で自らを鍛えてもいいかもしれない。ただし、転職という退路は常に意識しておいたほうが良いと思う。
実名ながらパワハラなど高専のおぞましい実情をほのめかす良質な高専退職エントリもあるのでご参考まで。人材が定着せず次々と求人が出るのはそれなるの理由があるのでしょう。
高専教員は学生からの「勉強教えて~!」の質問攻めに無い知恵を振り絞って切り返すという面白さがあったり。卒研発表会後の学生の笑顔を見れるという喜びもある。この仕事やっててよかったなって感じることもある。しかし、週末や連休になると部活引率で早朝から駆り出され、こんな人生求めてたのかと悩む。嵐の夜は宿直でビクビクしながら眠れない夜をすごすことになるし、救急車の音が聞こえると、学生が巻き込まれていなければよいのだがと心配する仕事である。
電車の中で30代男性がONE PIECEを読んでいるのを見たとき「こいつは仲間と共に冒険の旅に出たいのだな」とは思わない。
電車の中で30代男性が進撃の巨人を読んでいるのを見たとき「こいつは危機的な状況に飛び込み巨大な問題を解決して英雄になる妄想を抱えているのだな」とは思わない。
しかし電車の中で30代男性が賢者の孫を読んでいるのを見たとき「こいつは会社がつらくて自分の能力に絶望しているから死んで異世界に生まれ変わってチート能力を貰って楽して大活躍したいのだな」と人は考えてしまう。
まるで脳にバグが仕込まれたかのように、人はなろう系の主人公と読者を同一視してしまうのである。
なろう系のアニメが始まったときに「よーしいっちょ俺TUEEE(笑)でも見てスカッとするかなー!」とかなんとか自分に言い訳しながらそれを見る。
そして最強の力を持ちながらそれを誇るわけでもなく積極的に行動するわけでもなく何か問題に巻き込まれたときに淡々とそれを解決して周囲から褒められるだけの主人公に「感情移入できない」ことに驚く。
「感情移入するための物語」のはずなのに主人公にまったく共感しないしスカッともしない。
なんだこれは。何が面白いんだ。
二次創作SSにはしばしば作者の妄想が爆発して生まれた最強完璧主人公が登場する。
最強完璧主人公と自分を同一視できないのは当然だし、その非現実的な存在を不快にさえ思うだろう。
二次創作SSには「ヘイト」だの「断罪」だのといったジャンルがある。
原作で嫌いなキャラを二次創作のなかで徹底的に酷い目に遭わせてウサを晴らすというものである。
チート能力を手に入れて調子に乗ったモブ勇者がそれ故に失敗を重ね、周囲から嫌われ、最後には謙虚な主人公にボコボコにぶちのめされるという話である。
なろう系にはこうしたエッセンスが色濃く残っているので、主人公がチート能力を手に入れてもあまり調子に乗らない。
あるいは、即物的な快楽に見向きもせずに大きな目標を目指すようなキャラ造形になる。
二十年以上もかけて、お約束をメタり、それが新たなお約束となり、またメタり、気に入らない展開を潰し、好ましい展開を真似してきた、その果てに現在のなろう系がある。
理解できないものをみたときに、思わず自分が理解しやすい卑近で俗悪な解釈に落とし込んでしまうことがある。
それが故に人は「なろう系」とその読者を同一視してしまうのであろう。
その理由は何か?
エロゲ発クリエイターで今でも形を変えて繁盛してる型月とかニトロプラスとか見るに
「最低限エロが入ってれば何をやってもOK」な自由なプラットフォームだった点だと思う
(1970年代末の自販機エロ本の編集者もそんな感じだったらしい)
本当は泣かせる文芸ものがやりたいとか、ハードなアクションがやりたいとか
凝りに凝りまくったオリジナル設定のファンタジー物がやりたいとか
そういう連中がエロゲーに関わってたのだと思う
奈須や麻枝や虚淵みたいな1970年代生まれ団塊ジュニアのクリエイター志望者は数が多かった
静止画+シナリオ(場合によってはCV無しでも可)で成立するエロゲは
――が、2000年代後半に入ると、クリエイター志望のオタの表現手段の幅も多様化した
ニコ動とかネット動画の台頭、ラノベレーベルの乱立でデビュー窓口も増えた
なろう系みたいな投稿サイトも出てきた
それで2000年代前半までならエロゲ業界に行ってた層の人材が
誰にもいま悩んでいることが言えない。
プライドが高すぎて、自分の弱さや悪いところを直視したくないし、それをさらけ出して引かれるのが怖い。
「自分はダメなやつだ」と思ってなにも前向きな行動に移せない。
内心コツコツがんばることをバカにしている。
ダサくてもコツコツ行動してがんばったほうが絶対楽になることがわかっているのに、即物的で視野が狭いから長期的にがんばるということができない。
成人したのに自分の人生受け止めきれず、将来のビジョンもなにも見えない、見ようとしない。
即物的だから死んだら全部から解放されるな、と思うけど、死ねるほどの思い切りはいまのところないし、先々に楽しみがあるからまだなんとかなってる。
その楽しみも趣味のことで、人間との関わりがどんどん面倒くさくなっている。
私に興味がある人間なんてどうせいない。私のことを理解してくれる人間はほしいけど、他人が他人を理解することなんてできない。
日々限界を感じる。
環境を変える努力をして、だれかを尊重して、心に余裕を持って生きたい。
生きたい。
https://anond.hatelabo.jp/20190328015628
この人が本物かどうかと聞かれたら、私は多分本物だろうと答える。多少フェイクは入れてるだろうけど。
なぜなら、少し似ているからだ。私と。
まあうちは普通のサラリーマン家庭なので、ブランドの話はよく分からないし、小学校は公立だし、大学は家から通える国立にしたけれど。でも、同じように御三家と呼ばれる女子校を出たものとして、その屈折した感情はある程度自分のものとして理解できる。彼女と同じ学校かは分からないが、多少の校風の違いはあろうとも御三家か、同偏差値帯の私立中の生徒の傾向は大まかに同じと言って良いと思う。彼彼女らを私立中に出荷するための生産拠点は等しくSAPIX、日能研等の大手中学受験塾だからだ。大手中学受験塾は大体3年間で2,300万円かかる。それぐらいの学費を払え、かつ子供の学習をサポート出来る家庭というのはおおよそ似通ったものになるのは想像に難くない。と、いうか大体似ていた。レアケースがあることも否定はしないけど。
私は医学部志望では無かったのでその辺の事情には明るくないが、医学部を目指す子はやはり親が医者のケースが圧倒的に多かったように思う。そして、医者になるという目的があるからか、中学の頃から鉄やSEGに通って着実に受験に備えていた子が多かった。これは素直に尊敬してた。まあそれと同時に、塾で医系数学とかの授業を取ったりする過程で、この人の周りが更に私立中高一貫医学部志望医者家庭へと純化されていってたんじゃないかなとは思う。
それはさておき、単純に私が少し似ているなと思った部分についてつらつら書きたい。
まずバイトについて。この部分でひょっとしたら他校かなとも思った。周りにバイトをする高校生は誰も居なかったのは同じだが、そもそも高校生がバイトをするという概念が現実感を伴っていなかったので、バイト禁止だったかどうかも分からない。禁止じゃ無かったとしても多分そんなに歓迎されなかっただろう。親も親でバイトするぐらいなら塾に行ってくれた方がいいと考えている人の方が多いのは確実だ。
次に、暗黙のルールについて。確かに、即物的なというか、実際の生活に関わる色々な数字は、同じ学校の生徒であるという点で=にされて不可視化されていたと思う。でも認知されていなかった訳でもなくて、ベールに覆われたように大まかには認識していたが、敢えて可視化しようとしなかっただけだろう。これは学校の態度の影響もあるかもしれない。私の知る限りでは、御三家には一斉に模試を受けて学校が偏差値を管理したり、成績を壁に貼りだしたりして、生徒同士の差を意識させる学校は無かった筈。加えて、これはこれで問題だと思うが、うちの学校では少なくない教師が受験だとか偏差値だとかをまるでハリポタの「ヴォルデモート卿」と同じような、ゾッとする単語として捉えていた。
最後に自己認識と世間一般との差について。これは同じような環境で成長した人達と接していると、気付かないし、別に気付かなくても生きていける。でも、自分と違った環境で育った他者と接する時に切実な問題として浮かび上がってくる。私も、世間ではエリートコースと呼ばれるだろう経歴にはなったが、別に自分のことは頭が良いとは思ってない。小学校の頃も塾では一番上のクラスの下の方で、中高では結局真ん中より上の成績を取れなかった。ずっと自分より上を見上げるばかりだった。
だから、大学で地方出身の「まっすぐ」育って来たんだろうなぁと感じられる子の万能感には相容れないものを感じる。万能感は自分の人生で真っ先に失われたものの1つだからかな。
あと、自己認識がどうであれ周りからは期待されちゃったりするからそのギャップが正直キツいというのはあるんじゃない。
まあ長文並び立てたけど単純にそれなと思っただけ。最初は共感した所だけ書いて去ろうと思ったけど思うところがあり過ぎて長くなってしまった。多分元記事の人はちゃんとガス抜きできる人だからしっかりとした医者になれると思うよ。
拝見しました。まあまあ興味深いと感じました。
とはいえ単語の働きの羅列を見ても、全体として何が書いてあるのかがよくわかりませんでした。
というのは、例えばどこからどこまでが既知の事実で、何があなたの仕事というか、新たな知見であるのかが不明でした。一見した素朴な感想としては、単にあなたがベーシックイングリッシュというものを学習した記録が書いてあるように思えました。もしそうだとしても、それを研究と呼ぶことは結構だと思います。そういうレベルの研究を多くの人がすべきだと私は日々感じております。
それから、この研究が何を目指しているのかが不明でした。自然言語で書かれたものを数学的に処理することを目標にしているのでしょうか。そうだとしたら、その先にはどんなよいことが期待されるのでしょうか。それとも英語という既存の言語を参考にして新しくより単純な言語を開発するということが目標なのでしょうか(私は中学生の頃にそのような遊びをしたことがありました)。その研究をするとどのような効果がもたらされるのか、金額(ドル)と時間(年)で表現してみてくれないでしょうか。例えば20年間で1億ドルの経済効果が見込まれる、などです。あるいはそのような即物的な単位では表現できないような内容なのでしょうか。
その立場から申し上げて、あなたには総合大学で教育を受けることをお勧めします。もし研究を進めることを希望するなら、充分に経験のある教師と議論することであなたの研究テーマは洗練されなくてはならないと思います。あとは、あなたはそういうのを楽しめそうだからです。
あなたが未成年ならば、特に申し上げることはありません。適当に頑張ってください。
あたなが既に成人し、かつ大学を卒業しておらず、かつ大学進学を希望するならば、大学には意外とおっさん学部生もいるということを申し上げておきます。特に外国の大学で研究することも選択肢から外れないと思います。
研究のやり方を学び、適切なトレーニングを受ければ、適切な研究テーマを設定し、研究を発表するところまで一人で研究を進めることができるはずです。理論上は。研究の発表は論文雑誌や学会で行われることが望ましいですが、趣味で研究するならばブログというのもよいと私は思っています。私もやっています。楽しいからです。
いまひとつ不明なのは、あなたが一連のやり取りを、なぜ腐女子云々のツリーの下で展開しているのかという点です。
率直に申し上げると、大変失礼なのですが、頭狂ってんじゃないかと感じました。あなたは大元の増田と同一人物なのですか?
これを書いていくうち、なんだか自分の頭が腐っているような錯覚を感じ始めています。
もし実際にあなたの頭が狂っておいでなのでしたら、差し出がましいようで恐縮ですが、一応、精神科医を受診するという選択肢を重視するようにお願い申し上げます。
本来は被害を受けた当事者への共感を伴った義憤によって分母を大きくする事で加害側への責任のサイズを正当にしそこに個人に納まらない社会においての蔑視的観念の影響が認められるなら啓発としての批判的働きも含めというような概念で本当は消費できない存在をそのように扱うことへの糾弾的皮肉的意味合いを持った言葉なのに今では性的な消費という言葉を拡大解釈させて女性という概念への被害を叫ぶ事で属する自身をも直接的被害者としてカウントさせ正当化させるための単なる利己的なツールと化してもきているようで辟易する
加害者に責任や制裁を求めるのも当事者である被害を受けた女性によりも集塊した個々の怒りに対して望むような傾向が見られるし主観の域を出ない個人的感想の主語を"女性"とすり替え同調を誘う事での自己正当化また溜飲を下げるための手段や非難のための免罪符としても使い勝手良く氾濫してしまって意味性としてはむしろ正当性が削がれていっているように思うしそこに危うさも覚える
その言葉は多くを包含する女性という概念の下で主観的なものに左右される消費への定義を振るうものであるのに消費という単語が持つ即物的な客観性を含んだ印象のためにさもそこに共通する絶対的な基準が存在するかのような錯覚を起こさせ個々に主観を反映させたそれを自身の正当性の担保としたならそこに齟齬や違和は当然生まれるし実際見ていると女性間でさえ性的価値観の差や意識差においてその寛容さ奔放さを自身との相違でもって本来は違って当然で双方が尊重し合うべきものであるあくまで相対的なものでしかないそれを性の消費へ加担しおもねるものだというような非難へ繋げていて(エマワトソンのトップレス写真問題が分かりやすい)それは女性が選択できる性的自由度の幅を狭めるようなもので全体主義的というかほんとどうなってんのというきもちになる
それは加害者としてファンタジーと現実の区別がつかない人間だけでなくその性的対象にも原因を求める痴漢の自衛論的な発想でそんなものでも"被害を受ける女性性"を盾にすれば正当性を伴ったあまりに大きすぎる分母の代弁者として振る舞えるそんな客観的正当性を欠くような類の安易な乱用が許されるガバガバな現状はともすればそのまま安易に女性性が消費できるものだと定義認識されかねずそれはいわゆる二次元のキャラクターなんかに対して更に顕著で代弁し得る被害者がいない分自身がその対象を受け入れられない不快に感じたそれを消費されているとして被害を主張し嫌悪不快感の赴くまま狭く特殊な世界の性的な意図や人によってはポジティブな性的さと捉える類のまた場合によってはそんな意図自体端から無いようなものにまでその責任を取らせるため拳を振り上げ本来は絵や漫画に限らず性的なまたは偏った視点による都合のいい理想像としてそのために用意されたもの次いでそれらへの一方的な性的な視点と現実の女性は全くの別物で前者に後者を反映させる事はあってもその逆は原則的に無いとすべきところをむしろ進んで混同を招くかのようにそこに消費できる女性性が存在しているまたその性的な偏った視点が消費され得る現実の女性性を含むものとするそれこそ現実に生きる女性への冒涜でそれは特殊嗜好やそこへ向けた性的娯楽表現で社会における女性男性を定義するような性的玩具に女性性を認め性的な消費だと言うような話でその辺の誰かが言ったおっぱいエロいって発言が胸を象徴としての性的な興味の個人的な発露なのかフェティシズムとしての限定的な性的嗜好によるものなのか対象のポジティブな性的魅力の客観的優位性を語るものなのかそれとも女性を性的な消費物としてしか捉えていない事での無意識の発言かなんて場合によっては当人にも分からないのに性的さや性的な魅力へ惹かれるそれ自体を消費だとするそれは傲慢以外何なんだという話でものの区別がつかないのかと思う
私はそれこそそんな身勝手に"女性が消費される"なんて言葉が使い回されるそれに"女性という概念が利用され消費されている"という気持ちになる(皮肉)
いや実際性的なものに限らずそんな類の感情にまで体よく使えるそれこそ消費という言葉の現状へ思う事でもある
言葉自体を使う事被害を訴える事共感や怒りそれ自体や社会の在り様を問う事疑問を持つ事嫌悪感や不快感その苛立ちをどうにかしたいという気持ち許容しかねる性的価値観や被害者がいなくても"女の子"とされるものの後ろにいる人間への非難めいた感情やその影響への懸念やそれを示す事それが問題なんでも悪いわけでもなくそれが本当に正当性のあるものかそのマイナス感情は自分に帰結するものではないかその対象が個人的なものかまた属するグループの特徴か社会に反映され得るもの社会を反映したものかを考える必要を欠かせたまま通用させてしまいかねないその責任感の無さからの軽率さでお手軽にやってしまえるそこが言葉の持つ重さに対してあまりにもに思えるしそれが招く扱う内容や巻き込むものの影響のサイズを考えればそんな程度に扱えるものではないはずなのにと考えてしまう
個人的にはそれが気に入らないものを非難排除する印籠または虎の威を借る狐的使われ方だとしてかわいさややわらかさみたいなものを弱さだと前提として定義してその上で"弱い女性"を理想化している事での消費という捉え方での使われ方が無意識に男性性への優位的価値基準に基づく無責任さを見るようで本当に恣意的で独善的できらいだし理想像の偏重さへの抗議の意としてそれが言われる事もあってでもそれは他を貶めて相対的に優位さを確保するやり方でその度そんな事に問答無用で総意として私が女性という性で巻き込まれまた使い方如何でその責任まで勝手に負わされることになるその不当で理不尽なガバガバさがほんとうにほんとうにきらい
そしてきらいだけどそれは個人の意見でそれに異を唱え打ち捨てたいと思う人もいるように本来性別のようにグループにおける総意とは"個人的に""私は"の集約であって集約されるという過程を飛ばして個人が主観で代弁できるようなものじゃなくするべきでもなくまた次いでその中に見られるあくまで問題解決への手段である問題提起とその周知を自尊心を満たすための個人の目的としてとやってそのためにと短絡的に対象を大きくとり優生学的に貶し相対的また絶対的優越に浸りそれを自己肯定感へ繋げ反芻するその姿は痴漢や他の性的被害に対して女性への蔑視的思想でもって心無い人間によって見られるようなそれでもあり持ち出す内容やその是非倫理性は違っていてもそれ以前に同じ事をしているというその影響は個人でなく"女性"の代弁としてやるには確実にあってそうしてしまう事で女性の言葉"としての説得力が失われていき実際そういう観念でもって本当に総意の力が必要とされている場でもその説得力の有無をこちらへ突き付けるような人間が少なからずいるその事も恐ろしいしその必要な人のための必要な場のためにも代弁者とするなら個人的な部分をこえたところでの危機意識は持つべきものだと思う
個人として何を思うのもどんな価値観を持つのもそれを発表するのも基本自由ではあるけど少なくとも女性というだけでなく大きな枠で多くを巻き込む事になる上で代表として語るならその自覚はあるのかそれがどこから来たものかそこに客観性が含まれるか主観とは区別できているか自論であるなら自身でそうだと理解しているかそれを示せているかのひとつくらい考えて使うべきだと思う
本当にひとつでも十分なのにと思う
というような事を消費という言葉を見る度思って胸焼けを起こすので文字に起こした
提言とかでさえない
https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=10674712#1
以下ネタバレ注意
作者のフェチが伝わってくる文章でした。普段から他の人に伝わるような文章を書いてるというのが分かる言葉選びで、ソ連百合という私からすれば話題になっていなければスルーしていたであろうジャンルでしたが琴線にビンビン触れるものがありました。
私はフィクションにおいて恋愛至上主義で、ジブリならハウルの動く城とコクリコ坂からが好きで
少年漫画ならメインのストーリーよりあの可愛いヒロインがどのヒーローとくっつくのかに興味を持ち
三度の飯よりボーイミーツガールがたまらん好きなのですが(私にとってはフリクリやエヴァもボーイミーツガールに含まれる)、やっぱり百合は難しいと思ってしまいます。
百合界隈では「エモい」という言葉が多く使われ、先の月と怪物では"もうここにはいない"姉と月へ有人飛行して事故死してしまった軍人の関係性が、宇宙の向こう側へと飛んでいく愛の形がエモいエモいと言われていました。
私は即物的なのでエモいかエモくないかよりも、どうしても2人が一体どういう経緯でそういう関係になってしまったのかや、夜抜け出して何をしてたのか、どんなセックスをしたのか、がめちゃ気になるのですが、薄いベールの向こう側を愛でる百合クラスタにはわかってへんわ〜と言われるでしょう。
きっと百合とは薄皮まんじゅうを食べずに愛でるようなものなのだと思います。
薄い皮が透けて中の餡子が見えて、それがこし餡なのか粒餡なのか想像するような愛で方。もしかしたら苺が入ってるかもしれない愛で方。
月と怪物では妹という薄皮を通して姉と軍人という餡子を愛でます。一体何をしていたのか分からないふたり、エモい関係…
私は羊羹を食べるのが好きですね。
甘い餡子は食べるためにある、愛でるためではないのです。
その態度が問題やねん。「これまでの社会学の歴史とか研究内容とかもよくわかりませんが、なんとなくWebで社会学をちょろっと見かけた素人の僕が判断するに、社会学なんて役に立たないと思います。なので社会学は無価値です。反論するなら素人の僕にわかるように社会学のお役立ちをわかりやすく説明しなさい」ってやつな。
第一に、社会に役立つか役ただないかなんてふわっとした尺度を以って学問体系の価値を判断しようとしているのがおかしい。役立つって何?生活が便利なること?生活便利グッズを生み出せない学問は無価値ってことなんか?仮に即物的な利益をもたらさないとしても、その他の基礎研究が大事だってノーベル賞取った先生も言っていたでしょうに。
第二に、素人に説明するコストが非常に高い。身も蓋もなくいうと、君らバカなのに自分がバカだって自覚がなくて、しかもネットでちょっとかじった情報だけで学問をまるまる理解した気になっている異常者だから、真面目に説明したところで無駄なのね。これは社会学だけではなくて、法学とか人文学全般に言えると思う。なまじ日本語で書いてあるから素人さんが自分にも理解できると勘違いしがちなやつ。ワクチンは体に悪いんです!とか自論を展開して医者に絡む人いるじゃん?君たちアレと同じカテゴリーなのよ
男の性欲は割と即物的であり、結局のところ男にとって性的な行為で直接的に一番気持ちが良いのは『射精することそのもの』だ。それはセックスだろうがオナニーだろうが関係ない。(これ以外の副次的な部分、社会的な部分や支配欲的なところは存在するが、直接的には射精第一である。)
射精しなくても最高のセックスはあるし、射精しても最低のセックスもある。セックスにおいて射精なんてただの終了のゴングであり、それ以上でもそれ以下でもない。
最善の相で解釈するのであれば、ネットでフェミニズムを主張している人の中には本当に『男性にとっても女性にとっても共通する、性欲とは無関係な可愛いの概念』が存在すると信じている人がいるように思える。
なぜそう思うかを語ろうとすると男にとっての可愛いと性欲と恋愛感情を真面目に語ることになったので、性欲についてフェミニストに語らないお前らキモオタや男共は卑怯だへの返答も兼ねて書いてみようと思う。
男の性欲は割と即物的であり、結局のところ男にとって性的な行為で直接的に一番気持ちが良いのは『射精することそのもの』だ。それはセックスだろうがオナニーだろうが関係ない。(これ以外の副次的な部分、社会的な部分や支配欲的なところは存在するが、直接的には射精第一である。)
しばしば言われる『ブスとセックスするのは辛い』『結婚してから嫁が劣化(←この言葉は好きではないが)したので夜の相手が辛い』ということはつまるところ、
『勃起させ、射精するための労力>射精による快楽』という構図になってしまったから言われるだけにすぎない。
女の性欲はもう少し複雑である、ということになっているはずだが、その点は深くは追及しない。
一般的な男にとっての”可愛い”は2種類しかない。『愛らしいという意味での可愛い』と『恋愛対象として高評価という意味での可愛い』だ。
(本筋から外れるが、女性の言う”可愛い”の意味はもっと多いことそのものは増田も理解している。ただ増田も含め、女性の言う”可愛い”の全体像を理解している男は滅多にいない。女性から”可愛い”と言われて戸惑ったりする男が多いが、これは『俺にとっては意味不明な尺度による”可愛い”かもしれないと思うと疑心暗鬼になる』ことによるものだ)
前者の代表例は『子犬可愛い』『子猫可愛い』であり、人間の女の子であっても、5歳の女の子が健気に頑張っている姿を可愛いと言っているならばこちらの意味だ。
後者の代表例は『新垣結衣可愛い』であり、ある程度成長した女性に使っているならばこちらの意味だ。
ただ、人間の女性に使っている場合、前者と後者はグラデーション気味になることがある。増田の場合、成人した女性であっても『金田朋子ちゃん可愛い』は前者の意味をある程度含んでいるし、逆に未成年でも『4年前の生田絵梨花(当時17歳)可愛い』は後者の意味を明確に含んでいる。デビューした当時のまいんちゃん(福原遥:当時10歳)可愛い』は100%前者である。岩本蓮加(14)なら…分からない。
そして男にとって ──女はどうなのか、というのはいまだに分からない── 恋愛感情の一部に性欲は必ず含まれていると言っても構わない。恋愛感情=性欲ではなく、恋愛感情には性欲以外の部分もあるが、性欲を含まない恋愛感情は(おそらく)存在しない。つまり性欲⊂恋愛感情 である(←数学記号は文字コード的に大丈夫?)。生田絵梨花を可愛いと言っている男は、多かれ少なかれ『生田絵梨花とデートして、その後セックスしている自分』を想像している。ただ、そのことに自覚的であるかないか、それだけの違いでしか無い。
そして前述したように、三次元では幼い女の子がどこまで恋愛や性の対象になるかについてはある程度遠慮している部分もある。だが、二次元が相手だとその”遠慮”も無くなり、オタクの男が『木之本さくらちゃん可愛い』『高町なのはさん可愛い』と言っている時にはある程度は性的な意識もある場合が多い。同人誌を見れば明らかである。
…そんなわけなので、『エロと無関係な可愛い』は存在するかもしれないが、それは特に二次元の場合極めて限定的であると増田は思う。ただ一方で、『性的である』から『それ以外の部分を無視している』わけでもない、ということを主張しておきたい。
なんつうか面白い
女性が自分でエロくあろうとするのは、女性の主体性があるから良し
でも文章や絵で、男に都合のイイ女性を書いたらだめよ、そこに女性の主体性がないから
みたいなのさ
少女漫画で典型的なジェンダロールの振る舞いをさせられてるヒロインはOKなんだろ?
ホントはもっと奔放に生きたいかもしれんけれど、普通顔でちょっとドジな女を演じさせられて
男に助けられたり、母性で男を癒やしたりするのも、舌打ちしたくなるくらい悍ましいと感じてるかもしれないけれど
既婚主婦なのか、独身OLなのか知らんが、不倫なんて低俗なことしたくないと思ってるかもしれんけれど
設定上そういう役をやらされて、家庭を壊すような振る舞いを強制されて
でも「りあるw」っぽく書かれてれば喜んで消費されて、不倫がブームになったりしたよな
なんつうかよ、自分が気持ち悪いと感じる表現だけ、それをキャラは拒否できないとか言い出して
男の性的欲求を刺激し満足させるためだけに生み出された少女を消費するのは許されないとかも言ってっけどさ
近視眼的に、即物的にさえずるんじゃなくてさ
もっとさ、「表現」とはなんだろうとか、「主体性」ってなんだ?とか
きっちりと考えてさ、自分の撃った弾が、実際何を撃とうとしているのか
精神病の人なのか、鬱傾向なことを精神病と呼んでいるだけの人なのか知らんが、後者だとするとしてマジレスするが。
その苦しみは行動しないと変わらないなあ。
例えばお前がキモイと言われるような特徴を持つ人格だとしてだよ? それが「食事してるときに口を開ける」というよくある特徴だとしてだ。もしもお前が何もしなければ、それは確かにキモいかもしれない。しかし、もしもお前が口を閉じて食事をするように自分のクセを改善したならば、お前はこう思うことができるだろう。「よし、俺は少なくともクチャラーと呼ばれるキモイ存在ではないな」と。
もしもお前がニートだとしてだ、さらに無職であることを引け目に思っているとして、じゃあ引け目があるからと引きこもっているとお前は永遠に引け目を持ち続ける。就職活動をすれば、少なくともお前は永遠に無職のまま引きこもって最終的に親に暴力をふるうニートよりも上等な存在だ。就職できればなおいい。職場でも新たな引け目は生まれるだろうが、次も戦うなり逃げるなり改善にむけたできるだろう。
こういうことは何にでも言える。苦しみを持ち続けるのは、苦しみが変わらないからだ。苦しみを変えればいい。「そんなこと言ったって変えようがないじゃないか!」という苦しみなんて、幸い現代日本には少ない。イケメンだとかブサメンだとかいう話は、少なくとも変えられる話だし。
.
人間の脳っていうのは、活動すればポジティブになり、活動しなければネガティブになるようにできている。
上のような理屈でもなんでもいいから、動いて活動してできれば筋肉を使えば、大抵の鬱はなおる。
だから動け。
なるほど面白い。声優がオーディションの段階で容姿などを理由に足切りされてしまうと、そこから2つの問題が生じるということか。
もし声優業がずっと広い受け皿を持っていたら、意欲があるオーディション脱落者をお得に拾い上げることができる。適切な機会が与えられれば、潜在能力が高い個人も生き残りやすくなるだろう。紹介してくれた記事で言われていたように、新人が育つまでに十分な期間がないことも生存を妨げている。声優の技能は訓練でおおきく向上するみたいだ。それは逆に育成には時間がかかることを意味する。声優のヒナたちをみな育てるまでに必要な数のアニメがない現状では、効率の悪い声優能力よりも、より即物的に見た目で判る、容姿などを重視するのは理にかなっている。
アニメの本数、需要が少ないのが理由みたいに述べたが、あるいは供給過多、声優志望者が多すぎるのが問題かもしれない。どうなんだろう。
そしてアニメ界における声優の現状がそういう過酷なものだったとして、さて声優にアイドル兼業を当然のように要請することは果たして差別的か、というのは議論に値する問題だと思う。俺は、うーん、仕方ない派かな。環境が過酷すぎるのはなんとかすべきだ。アニメはまだもっと増やしていいと思う。作画とかのクオリティは落としてもいいよ。たつき監督をクローンしようぜ。